「ほげぇ」
それこそ呆けたように。
「ほっげええ」
おまけに二人。
縁側に腰掛ければ初夏さながらの日差しで、千晃と父は口を半開きにして上空を往き交う雲たちを眺めていた。
「暑いね」
「そだな」
全身の傷口をもう一度広げた千晃。
腕をへし折り脇腹にトンネルを開通させた父。
今度こそ絶対安静にしやがれよと医者から言いつけられた二人はようやく退院するなり杏奈に連れ去られ、そのまま彼女の実家に身を寄せていた。
「なんか落ち着かないかんじだよね」
「そだな」
見知らぬ町に父と二人。
母の実家なんて遠い遠い昔のことで、千晃はとっくに忘れていた。
「あにき、とんでもないことになっちゃったね」
「そだな」
和洋折衷気味だった今までの家とは正反対に杏奈の実家は純和風なお屋敷である。
青々としたタタミ敷きの居間にはこの家の歴史を感じさせる品のいい調度品が立ち並び、杏奈によって床の間に豪快にボルト付けされた60インチのモニターがそれらの調和を見事にぶち壊しにしていた。
「あぁ、またやってるし」
煙を立ち上らせるビルから飛び降りる、背中に巨大な光の環を背負ったハジメの姿。彼に捕まってスカートのすそを抑える幽香。やけに鮮明な映像は、彼らの姿がビルの谷間へと消えるまでの様子を何度も繰り返していた。
「息子が人気者で俺は鼻が高い」
プライバシーへの配慮なのか、しかし顔にモザイクを被った息子の姿はマヌケというほかない。おまけに事件直後の放送分は全くの無編集であったので、鶴見ハジメと風見幽香の顔は広く知られることとなった。
全世界規模で。
「とーぶんあっちには帰れないだろうけど」
そこからネットはいつもの特定祭りだ。
それを見越して実家を用意した杏奈はやはり手際がいい。
『新着メッセージを一件受信しました。』
千晃が膝に置いていたスマートホンが割れた液晶にメッセージを走らせた。
「あ、またメールきてら」
置いて行ったのか忘れて行ったのか。
病室に残されていた兄のケータイは、そのまま妹が受け継ぐ形になっていた。
「い、も、う、と、の、ち、あ、き、で、す――と。えーと、何書こうかな」
あの一件から更に数週間。五月にも入ったというのに、今でも思い出したようにハジメたちを気遣うメールが届く。
「兄は元気、でいいだろ」
「おっけー」
あいつはそんなに沢山の人から心配してもらえるんだな、と素直に驚きながら千晃は返信文を仕上げていく。
「おいおい。こんなにイイ天気なのにさ、ケータイいじってばっかじゃ勿体ないって」
そいつをひょいと背後から取り上げて居間の座布団の上へと放り捨てるのは妙齢の美女だ。
「むう。一通くらい返したっていいじゃんか」
千晃が唇を尖らせる。
「昨日もそんなこと言って、結局真夜中までメール書いてたもん」
「お母さんのあほー」
ぶつくさ言いながら千晃がケータイを取りに居間へと引っ込んでいく。
それを見送って、杏奈は父の隣に腰を下ろした。
「どうだい。こんなにのんびりしたのは久しぶりじゃないか?」
「そーだな」
病院でも入れ替わり立ち代わり黒服の男たちがやってきていろいろと事情聴取をされたおかげで、ようやく体を休められたのはここに来てからだ。
「仕事、やめることにした」
松の木でさえずる萌黄色の鳥を見つめたまま、父はぽつりとこぼした。
「そっか」
「その、次の職探すからさ、よければ」
「こんな場所でいいなら、好きなだけいればいいじゃんか。男の一人二人囲ってもまだ広い家なんだ」
父が表情を曇らせると、杏奈はイタズラっぽく笑って彼の肩を抱く。
「ウソだってば。私、こう見えて一途だろ」
買い物袋からアイスの箱を取り出すと、杏奈はアイスキャンデーを無造作に口に突っ込む。父もそれにならう。ふたりは暫く、ひょっとこのような形相でずびずばとアイスをしゃぶりつづけた。
「あん?」
ふと庭に目を向けた杏奈が、珍しく眉間にしわを寄せた。
「おっどろいたな。痴女が見える」
んなアホな、と口にしながら父も視線を追って、それを見つけた。黒い羽が庭に舞っている。
「あぁ、よく知ってる痴女だ」
のそのそ戻ってきた千晃が板の間にごん、と頭を打ちつけた。
「……痴女じゃん」
その姿を目にする度に眩暈がする。
「ちゅん」
それはやはり保護者の趣味なのか、青いベビードールの上から薄手のケープを羽織っただけの大柄な美女は恥じらいの一片もなくしゃがみこんでいた。格式高い和風建築の、池のど真ん中に。
「ひさびさ。おーちゃん」
ビニール製のサンダルをつっかけて庭に出て行く千晃はいつものダルっとした雰囲気を漂わせてはいたものの、束の間唇の端に笑みが浮かんでいた。
「この子たち知り合いなの?」
「杏奈、信じられんと思うが彼女は無害だ。ちょいと目のやり場にこまるってだけで」
「うわーッ!」
ガラスを引っ掻くような千晃の悲鳴。
ばしゃばしゃという水音。
「ダメだし!」
庭池に泳いでいたりっぱな錦鯉のでっぷり肥えた白い腹にかみついたおーちゃんを、杏奈はケタケタ笑いながら指差す。
「たぶん、人には何もしない。たぶんね」
「そっか。ならいーや」
結局この場で必死なのは千晃だけなのであった。
「で――で! なにさ、おーちゃん。私に会いにでもにきたワケ!?」
「うん!」
トラウマを抱え込んだ鯉を池に放してやりながら千晃は額を覆った。地球上にいる限り、この神出鬼没の友人から逃げる手段はないのかもしれない。
「いや?」
「そういうワケじゃないけど、鯉はやめろや。あーッ! 生臭いっ! 口を近づけんな!」
唐突にキスをせがみ始めたおーちゃんに押し倒され、二人の姿が水しぶきの中へ消えると杏奈は一層けたたましく笑い始めた。
「おっかし」
父から見えるその表情は、出会った時から何も変わらない。まるで少女のようだった。
「あの二人もいれば、もっと楽しくなったんだろうけどなぁ」
何気ない杏奈の呟きに、父は神妙な面持ちでプロレス会場と化しつつある池を見つめた。
「今朝のニュース、見たか?」
「息子たちがテロリスト扱いされてるかもってハナシ?」
「あぁ。俺たちがハマったあの紅い霧も、その後の光も、あいつらが毒ガスを撒いた結果だとか、もしくはそれを手引きしたとか、好き放題騒いでる連中がいる」
「あんたはどう思うんだい?」
何かを守ろうとするように広がる霧、そして、空からすべての霧と雲とを吹き飛ばした橙色の光の帯。不思議と悪意は感じられなかった。
父が頷くと、二十年来の女房はそれだけで察した。
「私もそう思う」
千晃が投げ出していったケータイを拾って、杏奈は画面を見つめる。
『新着メッセージを三件受信しました。』
さっきからメールはひっきりなしだ。
「こんなにトモダチから思われるようなヤツだ。んなことをするハズがない」
「あにきはむしろ、私達を助けてくれたんだから」
腰につかまったおーちゃんを池から引き摺ってきた千晃が、べしゃりと音を立てて芝生に寝転んだ。
「あにき、空飛べるんだよ。知ってた?」
仰向けになった千晃は眩しそうに眼を細めながら太陽へと手を伸ばす。となりでおーちゃんがマネをする。
「へぇ。どうやって?」
杏奈と父がやってきて、千晃の傍にしゃがみこんだ。
「なんか背中にヘンなワッコみたいなのが出てきてさ。金の炎がドバーって」
掌を太陽に透かしてみれば、それはただただ赤いだけだが。
そこに兄と同じ太陽の血が流れていることを千晃は誇らしく思う。
『新着メッセージを』――『着信中』
「おやおや。ついに電話までかかってきたか」
やめとけ、と言う父を手で制して杏奈はケータイを耳に当てて家の中へと戻っていく。
「はいはい。あぁ、ハジメのママ――――うん――――へぇ、幽香さんにそんなことまでしてもらってたワケ? ――――ごめんごめん、え、テレビ?」
いつも通りとぼけた調子の杏奈の声を背中で聞きながら、千晃は目を閉じる。
もうすぐ家を出る。ちょっと離れた町の学校。そこで新しい可能性を探して、もう一度だけ頑張ってみるつもりだ。
「その前にちょっとだけじゅーでん、じゅーでん」
千晃はおひさまのエネルギーで動くらしい。
「…………千晃ちゃん。変なワッコって、ああいうヤツかい?」
「え?」
そこに投げかけられた母親の声に走った緊迫感に、千晃は弾かれるように体を起こしていた。
居間の中、杏奈が食い入るように見つめるテレビの画面。
「あにき?」
『速報』のテロップが流れるブレブレの空撮映像。
ビルの群れの中に浮かぶ黄金の光。出所はたった一人の青年の背中だ。
そして舞い散る無数の花弁がミラービルに反射し、見るもの全てを幻惑する。ズームする映像が、束の間柔和な笑みを浮かべた美女の姿を捉えた。
「おねえちゃん?」
重力を感じさせない動きでビルの間を飛び回る二人。
ハジメが、幽香が同時に手を差し伸べる――――直後、暖黄色の爆発が巻き起こり、ビルの鏡面がたわんだ。
「杏奈、これはなんだ。何が始まった」
「私に分かるかってんだ」
「どうして」
おーちゃんに抱きしめられながら、千晃は退散するヘリが中継し続ける映像の中で幾何学的な模様を描く弾丸の渦を見つめていた。
『新着メッセージを八件受信しました。』
「最初で最後の弾幕ごっこを始めましょう」
『新着メッセージを十件受信しました』
「やめろって言ったって今回は手加減しないぜ」
『新着メッセージを三十五件受信しました。』
「この理不尽な世界に、一つだけ真実を思い出させてやろう」
『新着メッセージを五十件受信しました。』
四月編エピローグ『大きな、大きなひまわりのはなし』