1『日輪の物語(上-1)』
『見てろよ。生きて帰れたらお前、ぶっ殺してやる!』
すべては一つの約束から始まった。
ならば、この物語の終わりもまた、一つの約束によって迎えるべきものなのだろう。
――――まだ、夢を覚えているかい?
◆◆◆
『一件の新着メールを受信しました。』
――――
宛先:ハジメ
差出人:ハルカ
件名:きれいです
先輩はきっと覚えていないでしょうけれど、
私はよく覚えていますよ(笑)
ダメダメだった私に根気強く接してくれて、
ありがとうございました(^_-)-☆
これを見ていたらちょっと懐かしくなって(汗)
鶴見先輩。きっとまた、会えますよね?
――――
◆◆◆
その瞬間は、はっきりと分かった。
「きたな」
地上からの狙撃を間一髪で弾いた日輪の担い手が、大気をゆがませて一息に加速する。
ビルの森を突っ切れば、薄い雲越しにぼやけた光を送る太陽の下に舞い散る花吹雪。一拍子遅れて、彼のパートナーが姿を現した。
「ハジメ!」
ふわりとスカートをひるがえして、幽香がハジメの手を取る。
「いきましょう!」
今がチャンスだ。全世界の目が、この戦いに向いている。
この戦いが一体何のためのもので、この二人が一体何をしようとしているのか、と。しゃぶりつくされたリンゴの芯に埋め込まれた、最後の宝石。
そいつがきらめく瞬間を、今か今かと首を長くして待っている。
「鶴見ハジメは宣言する」
この最高の舞台で、高らかに歌う。
これから切るのはノーマルスペルでも、ラストワードでも、ラストスペルでも、オーバードライヴでもない。
「風見幽香は宣言する」
掲げて叫ぶは世界の頭上に立ち込める雲をぶち抜く、史上最後のスペルカード―――――
◇◇◇
奥山の渓流を見下ろす、いい部屋を取った。
逃走資金を用意してくれた今井という刑事には悪いが少し豪遊気味だ。
「傷もようやく塞がったみたいだし」
とはいえ体の栄養も、心の栄養も必要だった。
まさか温泉がここまで効くとは思わなかったな、と包帯を巻いた腕を握って開いてを繰り返してからハジメはソファに沈む。
目を閉じると窓の外からのせせらぎと、深夜のひんやりと澄んだ空気が心地よい。
「寝てるの?」
その中にせっけんと花の香りが混ざればすぐ分かる。
「ハジメ?」
狸寝入りを決め込んでやろうかな、と迷ううちにその香りがぐっと近づいてきた。
「…………もう。起きてるんでしょ」
「どうかな。って、うわっ!?」
瞼を開くなり目の前には幽香の顔。くすくす笑った彼女が、額にキスを残して体を離す。ハジメは一転、残された香りに包まれて居心地悪く頬を染めて項垂れるのが精いっぱいだ。
「あの時はあんなに大胆だったのに」
「うるさいっ」
既にあの一件から相当な時間が経とうとしている。
結局髪を短く切った幽香が浴衣の乱れを正す姿を見つめているうちに、ハジメの口から自然とため息がこぼれた。
「なあに?」
「もう半月だなって」
「あぁ、そのこと。私が忘れちゃダメよね」
あと半月もつかどうか。
それで風見幽香という存在は限界を迎える。
何もかも忘れて、狂って、そして消える。その事実を意識するたびに深刻な顔をしてしまう最近のハジメを励ましてやるのは、何を隠そう幽香本人の仕事だった。
「きっとうまくいくわ」
二人はツヤのあるテーブルの上にまき散らされた紙片を見つめた。誓約書めいた文言。そしてきらびやかな図案が精密に描かれ、刻まれ、わずかな光の加減でステンドグラスのようにきらきらと輝く。
それはカードだった。
「ルールは理解できそう?」
「馬鹿にしやがって」
ハジメはむすっと腕組みする。
「さっぱりだよ」
だははと空笑いするハジメを無視して幽香はカードの山から一枚を取り上げる。そして次。その次。だんだん、彼女の眉間にしわが寄ってくる。
「なにこれ」
「俺のスペルカードデッキ。百六十枚ある」
「同じのばっかりはダメって言わなかった?」
「そ、そこのコンビニのコピー機で」
「避けられないのはダメって言わなかった?」
「そうだっけ」
「わけわかんないのはダメって言わなかったかしら?」
「ええと」
「ハジメ」
幽香が勢いよく立ち上がる。
その無表情に、今まで培ってきたハジメの危機察知能力が大音量で警報を垂れ流し始める。
「ちょっ、お前、待てって。ヘイワテキフンソーカイケツってやつだろ!?」
「確かにスペルカードでの決闘は遊びではあるけれど、本気でやるから不慮の事故で死者がよく出る」
立ち上がって逃げようとするハジメを幽香が突き飛ばすと、彼はそのままソファごと床を滑って転げた。
「わたし、このゲームが好きなの。あなたと同じくらい愛してる」
「わ、悪かったって。真面目に勉強し直すから」
複雑な心境で床に転がったままのハジメを見下ろす幽香の冷たい視線。
「だから粗末に扱うなら、ここで不慮の事故が起きる。かも?」
そこから体勢を立て直す暇も与えず、ひらりとソファを飛び越えた幽香はハジメの上に跨るのだった。
「なんてね」
そうして花のように笑った幽香の、花弁のように重さを感じさせない体。
「じゃ、じゃあいい加減どけったら」
「いやよ」
浴衣の薄い生地越しに彼女の体温を熱いくらいに感じる。申し分ない眺めのせいもあって高鳴るハジメの胸に、彼女はそっと頭を預けた。
「どきどきしてる」
「だ、だって。つーか、ならない方がどうかしてるだろっ!」
もそ、と顔をもたげた幽香の赤い瞳が濡れている。
「違うの。わたしが。このままだと、大変なことに、なりそう」
「は」
後ろ脚に幽香が蹴り込んだソファがくるくると回って奇麗に元の位置に戻るのを見つめながら、ハジメは熱に浮かされた気分で幽香の唇を見つめる。
「なん、だって!?」
ここでこのまま青年から性年にシフトしてしまっていいのでしょうか。
「ちょ、ちょっと待てよ、まだ俺たち始まってひと月で」
「私はもっともっともっと前からよ。それなのにハジメは」
「その話は聞いたけど! まだっ、そのっ、心の準備ががが!」
思えば仲良く半月以上寝起きを共にして何も起きなかったのが不自然なのだが。
「準備なんてさせてあげないんだから」
脳裏のイイハジメとワルイハジメの戦いは、浴衣の隙間からハジメの胸板に滑り込んできた幽香の手によって始まる前から終わっていた。
『いんじゃねーの?』
先手必勝のICBM発射によって圧勝したワルイハジメが鼻をほじる。そこでそのまま獣になり切れないのがヘタレのいいところでもあり、悲しいところでもあり。
「私達、家族で、恋人で。これからもう一度家族になるのね」
「マジか。これ、マジかッ!」
熱をもった幽香の息が首筋にかかる。畳をかいて逃げようとするハジメの手を素早く抑え、幽香はその上にのしかかった。
「ごめんなさいっ、私っ、これ以上我慢なんてできない、みたい――――」
「おわああああ!?」
ぼごお、と音を立てて重いものがいつの間にか部屋の天井に開いていた空間の断裂から畳の上に転げ落ちてきた。紅と白、金。そして紫と黒と。
「…………おかまいなく」
複雑に絡み合った妖怪玉巫女風味から、三者一様のセリフが迸った。
「うふふ」
これまでに見たこともないような満面の笑みで、幽香が指を鳴らした。
◆◆◆
『一件の新着メールを受信しました。』
――――
宛先:ハジメ
差出人:みやこ
件名:つるみんへ
こんな時にケータイいじくるとは思えないけど、一応。
何があったのかとか、どうして、とか。
今はそういうことはどうでもいいんだ。
キミたち、とっても楽しそうだもの。
ここからだと見えないけれど、きっとズタボロなんだろうね。血まみれなんだろうね。
保健委員一同で待ってるからさ、終わったら学校へおいで。
それでみんなに話を聞かせてね。
さいしょっからさいごまで、だよ?
つるみんたちにひそかに嫉妬するMより。
――――
◆◆◆
「とにかくあの反則ビーム三十枚積みデッキは禁止。いいわね。美しくない」
キンキンに冷えたビールの缶をほっぺにあてがったまま、紫はハジメのドリームデッキを無造作に手で払って片づけてしまった。
「氷くらい作っておいてよね」
部屋に備え付けの冷蔵庫のドアを閉じて、じとりとした視線を送ってくる霊夢も、紫と同じように清酒の瓶をぱんぱんに腫れた頬にあてがっている。部屋の隅に転がっている、幽香によって折りたたまれた雪之丞が静かに震えることで同意した。
「お前らな」
いいところで、と強がりながらも内心助かったと胸をなでおろすハジメ。
「ばかへたれ」
「だ、だってあの前で続きをしろっていうのかよ」
「そうよ。ハジメならできると思ったのに」
彼の背に寄りかかったまま拳を拭いていた幽香がつまらなそうに後ろ頭をぶつけてくる。一気に不機嫌になった彼女にはこれ以上触れないことにして、ハジメは目の前の問題を片づけることにした。
「ところで体の具合はどう?」
一番肉体の立ち直りが早かった紫がまずそうにビールを流し込みながら問うた。
「だいぶ。足はまだ、歩くとひきつる感じがするけど」
「そう」
紫はそれきりちびちびとビールを飲むばかりで、会話は途絶えた。
僅かに憂いを帯びた瞳。彼女の隣に座った霊夢の鋭い視線。そして、壁にもたれて槍をもてあそぶ雪之丞。
どことなく重々しい雰囲気の中で、それでも一つだけ確認しなければいけないことがある。
「俺と幽香は幻想郷を解体する」
それが、この半月で出した結論だ。
F市のビルにおける決戦は、意図せず大衆の注目を集めた。
その熱狂は未だ醒めていない。ひょっとしたら、俺たちの生きている時代に、なにかとんでもないことが起こるんじゃないか、と。
「本当にいいんだな」
その注目を利用して、現実を整形し直す。
まだ、夢も、希望も、この世界には残されているということを思い出させるのだ。そうしてやってくるものは幻想郷を必要としない時代。
幻想と現実とが寄り添って生きる時代だ。
そして、その先。おそらく幻想の存在たちは――――
「私達が生き残る道がそれしかないと言うのなら」
紫が身を乗り出してきた。
「ただしこれだけは覚えておいて。計画を実行すれば次はない」
それを聞くたびに、ハジメは背中に冷水を流し込まれたような気分になる。
「弾幕ごっこっていうイベントはまだ外の世界でラベルの張られていない缶なの。私達はこの世界のオトナと呼ばれる人たちがそこに都合のいい説明を張り付ける前に、それが魔法であり、幻想であるってことを万人に刻み込む必要がある」
「失敗すれば?」
「またウソくさい現象名をつけられて、かつての私達のようにいずれは風化して消えていくだけよ」
その責任の重さに、ハジメは押しつぶされそうになる。
「弾幕にとって一番大事なことは、そこに意味と思念があること」
それに勝るものはない、と紫はよく口にする。
「それ以外はぶっちゃけどうでもいいわ。刃物をぶん投げてもいいし、直接殴りに行ってもいい。いわば暴力自由形ね」
「水泳みたいに言うんじゃねえよ。当たりどころ悪かったら普通に死ぬんだぞ」
ハジメの切り返しにも紫はくすくすと面白そうに笑うだけだ。
よくよく考えてみればこの室内、生身の人間で弾幕ごっこの初心者はハジメ一人だけなのである。その事実に気付くと、とたんに不安になってくる。
「あなたの思い、もう見つかっているでしょう? なら、あとはそれを叩きつけてやるだけ」
そこであくびを一つして、紫は背伸びした。
「さて。明日はしっかりやりなさい。私もゆっくり眠って備えるから」
「幽香さんを頼む」
雪之丞の手を引いて、紫が空間の裂け目へと姿を消す。一大イベントを前に最後に「ばいばい」と手を振って見せる余裕があるあたり、やはり彼女が潜ってきた修羅場は一つや二つではきかないようだ。
「しっかりやんなさい」
立ち上がったままぼんやりと彼女たちを見送っていたハジメの前に霊夢の手が差し出される。
「客席の掃除は任せて」
それが握手を求めているということに気付くまで、少し時間がかかった。
「霊夢、今までありがとう」
「これが最後にならないことを祈ってるわ」
◆◆◆
布団の上に転がって、ハジメは切り札を見つめた。
彼の象徴とも言える太陽の透かし彫りが電燈の光によって浮き上がり、ハジメの顔にも同じマークを描く。
「スペルカードなんてオオゲサな名前がついてるけど、要するにただの紙切れだろ」
そして、正確には契約書だ。
私はこういう人間です。あなたにこういう攻撃をします。前もって攻撃についてこういう約束をします。くらいやがりあそばせ――――という宣言をするためのものでしかない。
「そうよ。よく気付いたわね」
真横にごろりと転がってきた幽香がハジメの指に自分の指を絡ませる。
「そもそも切り札の条件って、なにかしら」
「自分以外の誰にも使えないこと、とか。意外性とか」
「もっとシンプルでいい」
指の感触をこそばゆく思いながら、ハジメはううんと唸った。
「威力」
「遠くなった。もっとシンプルにできない?」
「名前?」
「惜しい」
「……知るかよ。切り札は切り札だろ」
ふふ、と笑った幽香がハジメを抱き寄せた。
「そうよ、ハジメ。それが答えなの。切り札の条件はたった一つ。それが切り札である、という事実そのものよ」
久しぶりに幽香からのいいこいいこ攻撃をもらいながら、ハジメは酒でぼやけた頭をより一層酷使しなければいけなかった。
「そんなのただのとんちだ」
足下から布団を引き寄せると、一緒に花の香りも舞い込んできた。
「これから戦う相手に正攻法なんて通じないわ。なにせ――――」
「今までこいつを倒したやつなんて一人もいないから」
幽香が腕に頭を押し付けて、頷いた。
だからこそとんちでもズルでもカマして、まずはそいつを二人が踊る舞台に引きずり下ろしてやらなければいけない。
そのために、幻想郷で最もありふれた決闘の様式を持ち込むことにした。
運よく相手が勝負に乗ってきた瞬間、ハジメはこのカードが唯一無二の奥の手であることを宣言し、約束を取り付ける。
――――お前をあっと言わせてやるぞ、と。
長きにわたる、そいつとの戦いを終わらせるために。
「だからこそ一度っきりのチャンス。そしてたった一枚よ。ハジメ。ステージに上がれば二度目はない」
全世界規模で事実のラベルを張り替えるなら、それこそ全世界からの注目を浴びなければいけない。まずはその時が来るまで花弁と光を散らせて派手に踊る必要がある。
そこから何が起きるのか、一体どんな横槍が入るのか、予想だにできない。
「でも心配しないで。私も、霊夢も、ユキに、あの妖怪もついているのだから」
こんな時でも幽香は頼もしい。
「あんたも気負うなよ。俺がいる」
「…………ふふ。ありがと」
せめてものお返しに彼女も心安らかでいられるようにしてやって明りを消す。
「おうちの庭にね、ひまわりを植えたの」
暗闇で幽香の声を聞く。
「きっと今頃きれいに咲いてくれているわ」
「じゃあ、何もかも終わったら見に行こう。一緒に」
「えぇ。一緒よ」
幽香はまだ何か言いたげに時折身じろぎしていたが、やがて漏れ出した静かな寝息に、ハジメは彼女が眠りについたことを知る。
――――世界をひっくり返す、逆転の切り札。
それからスペルカードの文言を考えて唸っているうちに、あっけなく最後の夜は空け、朝の霞が立ち込める渓流を見下ろす幽香の背中が目に入ってきた。
「行きましょう、ハジメ。私達の舞台へ」
朝日を背負った幽香の手をハジメが掴む。
「あぁ。俺たちの夢を取り戻そう」
◆◆◆
『一件の新着メールを受信しました。』
――――
宛先:ハジメ
差出人:樋口 透
件名:筋肉
幽香さんにお伝えください。
万一鶴見くんに負けるようなことがあれば、我々が効果的な体力づくりをお教えしますと。
一緒に筋肉の頂を目指しましょう。
あのピンヒール。すばらしいものでした。
――――