圧していたのは最初の数分だけだった。
雪之丞とエリカによる共同戦線は、万場幾恵が虚空から巨大な機銃をとりだすなり、地獄の鬼ごっこと化してしまっていた。
「ごめん。ごめんね、私、役立たず、かも」
無限に供給される弾丸が壁を削る音を聞きながら、棚にもたれかかったエリカはすっかり上がった息を整えようと必死だった。
「なんのことだ」
同じく物陰に滑り込んできた雪之丞。
戦闘機に搭載される機銃の掃射をモロに受け続けて、彼の鎧は殆ど崩壊していた。肉やら筋やらで辛うじてぶら下がっている状態の金属甲殻が自己再生によってゆっくりと元の場所に収まっていくのを、エリカは朦朧とした頭で見つめていた。
「カッコつけておいてこのザマってこと。あんたを殺しかけたときだったら、今頃あのおっさん、宇宙まで放り投げてやってるんだけど」
万場の怪力もあって、エリカは全く歯が立たずにいた。動きを止めようと鎖による拘束を試みても、逆に振り回されて消耗する始末。
おまけに彼女の顔色が悪い。外見に出た変化は白髪だけで収まっているが、中身は既にボロボロなのだろう。
「本当、自分がイヤになるよ」
エリカはただただ、思い通りに動かない体を自嘲する。
「お前に力仕事なんて、もとから期待しちゃいねえよ」
「でも」
「正直言って、俺はお前が来てくれただけでも涙が出るくらい嬉しいのさ」
「だからこそ、あんた達の役に立ちたいって思ってたんだけど、さ」
瓦礫から頭を出していた雪之丞の兜を正確に機銃弾が捉え、ぐらりと揺れた彼は慌てて瓦礫の隙間に体を引っ込める。
「なぁエリカ、結局自分は自分でしかないんだぜ」
ゆっくりと近づいてくる万場を未だ抜け目なく警戒しながら、雪之丞は卑屈になりかけたエリカに手を差し伸べる。
「俺はハジメのやつほど要領よくなかったけれどな。それでもこれだけは、この数か月で俺が学んで手に入れた俺だけの答えなんだ」
クソみたいに弱くてダサくて、何をするにも裏目に出て。そんな自分が嫌になって何度遠くにぶん投げて捨てても棄てても、結局は影法師のように自分についてくる。
「俺は自分のダメさを、悔しいけど認めるさ。もう一度言うぜ。お前に力仕事なんか期待しちゃいない。だけど、お前にしかできないことだって、きっとあるはずなんだ」
「驚いた」
鋼の手を取って立ち上がりながら、エリカは天井からの後光を受けて輝く吸血鬼の巨体を見上げた。
「あんたから学ぶことがあるなんて」
「感謝してもいいんだぜ、おばあちゃん」
「ちょっ、なにそれ!」
「ハハ」
思わず膨れたエリカを後に、なんの前触れもなく雪之丞は物陰から飛び出して行った。分間数千発の発射レートを誇る機銃の雨を受け止め、弾き飛ばし、赤い霧を吐いて吸血鬼は飛び回る。
「タフですね」
「それが取り柄なんでな」
槍をテコの要領で使ってフロアの床を大きく引っぺがした雪之丞が、コンクリートの塊を盾に突撃を試みる。が、その目論見はすぐに潰された。すぽんすぽんという、緊迫しきったこの場において、あまりに間の抜けた発射音によって。
「ちいい」
岩塊ごと雪之丞は爆発に包まれた。
「僕たちにはこれがあることをお忘れなく」
馬鹿げた怪力で機銃を片手に構えたまま、万場が発射したものはリボルバー式の榴弾砲だ。転がり出てきた雪之丞を、今度は機銃の掃射が追いかける。
「でもさオジサン。あんたも私のこと忘れてない?」
爆砕した破片の一つが機銃の銃身に直撃した。発射の一瞬前で砲口が逸らされ、弾丸の嵐が雪之丞を掠めて壁と天井を舐め上げる。
「ちょこまかと」
「ふふん」
万場は笑い声の方向めがけて機銃を掃射するが、その場には蜂の巣にされた陳列ケースが転がっているだけだった。
取り回しの悪い機銃と榴弾砲では、地形に鎖を引っ掻けて立体的に移動するエリカを追うことは難しい。その間もエリカが放り投げてくる岩石が万場を容赦なく打ち据える。
「やるな、エリカ!」
「私にできる仕事をしただけ」
素早く機銃を放り捨てて軽機関銃に持ち替える。
と、今度は重厚な鎧に身を包み、胸からせり出した聖剣の柄に手をかけた雪之丞がプレッシャーをかけてくる。
「おっと。俺はいつでも抜けるんだぜ、オッサン」
「ち」
万場が初めて舌打ちする。
「勝てるかもね」
執拗な攻撃が確実にヤツの逃げ場を削っている――機関銃の弾を打ち払いながら、ゆっくりとエリカは距離を詰める。鋼鉄の吸血鬼がよりしっかりと、剣を握りしめる。
「あぁ。後は一手」
一手あれば。この万場幾恵という怪物をほんの一瞬でも足止めするきっかけさえあれば、一気にこの勝負を詰めることができる。
だがそれは万場も承知することだ。きっと、まだ見せてない奥の手が一つや二つ、その不気味な長身の中に秘められているに違いない。
「来ないのですか」
その、ひきつった笑顔が挑発する。
「こちらから行きましょうか?」
ぶらぶらと榴弾砲を揺らしながら向かってくる万場。やはり何か、策がある。
「あぁ、そりゃあ――いいな」
だが、絶好の機会であることもまた、確かだ。やがて足を止めた万場との距離は大きく詰まり、およそ三十メートルと言ったところ。食品コーナーを彩る陳列は先の戦いで蹴散らされ、両者の間にはタイル張りの床が広がるのみだ。
「こりゃいい。お互いにとって」
「必殺の距離、ということです」
剣のリーチと雪之丞の速さなら、直線駆けして五秒。万場ほどの腕なら、左右十二発の榴弾をすべて叩き込む時間がある。
「あぁ、そこですか」
万場は唐突に一発の榴弾を、視線は雪之丞に向けたままに真横めがけて発射した。
暗がりから慌てて転がり出てきたエリカの背中を爆風が舐める。破片と炎に打ち据えられて、彼女は地面に這いつくばった。
「これで邪魔は入りません。古き良き決闘の再現、といきましょうか」
「エリカ」
「だい、じょうぶ」
その声は明らかに大丈夫ではない。ハジメと幽香との激戦で痛めた足首をまた痛め直したらしい。ふらりと立ち上がった彼女にロクな機動力が残されていないことは確かだった。
「さぁ、さぁ、さぁ。このバカげた茶番を、終わりにしましょう」
「おもしれえ」
雪之丞は眼でエリカに合図して、いつでも彼女の援護を受けられるようにしておく。一方の万場は銃口で上着の袖を払う。金属音が、聞こえたような気がした。
「あと一手、なんだよなぁ」
半歩分でもいい。
この男の意表を突く何かが、欲しい。
「あいつなら」
じりじりとにじり寄りながら、こういう時ハジメならどうするかと雪之丞は考えていた。あの大胆不敵で、世界を敵に回してでも一人の女を愛そうとしたにっくき恋敵。
『この後、空けとけよ』
ラーメン食いに行こうぜ、なんて。
知らぬうちに、とんでもない大勝負の前に軽く言ってのけるような大物になりやがって。
「約束、だもんな」
たまには――――あんな軽やかな気持ちで俺も戦ってみるか。深く考えることはヤメだ。エリカと、自分の力を信じる。
吸血鬼だというのに、気付けば天井から差し込む忌む光を見上げていた。彼の親友の力の象徴。とてつもなく穏やかな気分だった。
「いくぞ」
その光の帯の中に、知らんおっさんが飛び込んでくるまでは。
「万場ああああっ!!」
「は?」
「おっ」
「今」
流石にこればかりは予想外だったのだろうか。全員が「あ」の形に口を開いたまま、彼を見上げた。何かを構えている。槍だ。
「――――いっ」
ろくな反応もできないままに真上からどんと胸を突かれて、万場の巨体がふらりと揺れた。
「なん、だと?」
「寺田が、よろしくだとさ!」
万場の胸を突き破って生えるもの、それは激戦の最中で折れてどこかへ転がっていった雪之丞の槍の一本だった。落下の勢いのままに突き通された槍は辛うじて致命傷に至らない。重い一撃が、『残機』との交代を許さないままに、その巨体を床に縫い付けた。
「ユキ、今しかないっ! やれ!」
異形に憤怒の色を浮かべた万場に振り払われて、今井は床とほとんど水平に飛んで行った。
「は、ああと、ええと」
「いいから!!」
予期せぬ闖入者の登場からいちはやく我に返ったのはエリカだ。彼女の伸ばした鎖の束が万場の左腕に絡みつき、彼女の渾身の力で即座に引き絞られる。万場の左腕がぐちゃぐちゃの肉袋に変わる音。機関銃が床に転がる。
エリカの怒号が、雪之丞の背中を押した。
「お――う!」
薄暗い光を放っていた照明が点滅し、ついには消える。
変わって光の帯が地下の空間を青白く染め上げた。燐光を放って激しく発光するのは雪之丞の胸から引き抜かれた聖剣、エクスカリバー。幻想と現実、二つの隙間を断つ、狭間の剣だ。
「終わらせてやるッ!!」
残された右腕で榴弾砲を構える万場を見据え、雪之丞は突撃を開始する。
◆◆◆
『一件の新着メールを受信しました。』
――――
宛先:ハジメ
差出人:エリカ
件名:結局こうして友情は滅びませんでしたとさ。
加勢させてもらうわ。
ということであの時の手切れ金、返してくれる?
――――
◆◆◆
火を噴いた装甲車がぐわんぐわんと回転しながら転がっていく。
「ほらほら。よっく狙いなさいよ」
余裕を見せつけてはいるが、霊夢は無傷ではなかった。
絶え間なく押し寄せる軍団を押さえつける間、浴びせられた攻撃は数知れず。銃で撃たれたくらいでは霊夢の周囲に張り巡らされた結界を打ち破ることはできないが、衝撃波が彼女を叩きのめし、熱が肌を焼いた。
「痛っ――」
火傷と擦り傷だらけの肌を擦って、霊夢は呼吸を落ち着ける。
「ちょっと、私はまだまだ元気なんだけど」
遠くのビルの上、霊夢を捨て置いて上空のハジメたちを狙撃しはじめた一団に狙いを定め、彼女は軽く指を打ち鳴らす。銃声が止んだと思うと、一瞬後に雲間で届くような虹色の爆風が吹き上がった。
「それと紫、おそい」
「待たせたわね」
「本当」
だらりと肩を垂らして仁王立ちする霊夢の背後に、いつの間にか紫が寄り添っていた。
「でも、ありがと」
おそらく紫の能力によるものなのだろう。次の瞬間には、霊夢はなんとか背筋を正して立つことができるくらいには回復していた。出血も、疲れも、徐々にではあるがマシになってきている。
「ここからは一緒に戦うわ」
「トーゼン。休んだ分しっかり働いてもらうわよ」
「もちろん……さてさて」
二人は背中合わせに、周囲を見渡した。
幽香とハジメの戦場を取り巻くように展開した機動部隊と装甲車の山。ビルとビルの間、路地という路地から灰色の波が押し寄せてくるようだった。浴びせかけられるのは憎悪と鉄の弾。
それは上空で繰り広げられる弾幕ごっことは程遠い、ただただ殺すためだけの布陣だ。
「これはさすがに骨が折れそうね」
「それを一人に押し付けたのはどこの誰だったかしら。そもそもあんなに長い間、何をしていたの?」
「そ、それはですね」
生放送なるものにすっかり浮かれていたなどと、口が裂けても言えない。
結局紫は無言のままに、誤魔化すような笑い顔を浮かべて穴だらけの舗装を踏みしめた。背後の霊夢が浴びせかけてくる恨み言よりも、押しかける軍勢と戦う方がいくぶん楽だと考えたようだった。
「ねぇ、不思議だと思わない?」
「何が?」
一歩一歩とお互いの持ち場へ足を運びながらの会話。不思議と、二人の声が銃声と爆音にかき消されることはなかった。
「最初に戦った私達が、最後にこうして一緒に肩を並べてるってこと」
「最後?」
紫が訝る。
「あなた今、最後って言ったの?」
「いえ」
遥か上空で巨大な光の花々が咲き乱れる。その輝きに目を細めて、霊夢は地を蹴る。
まるで光のような速度で遠ざかっていくだろう霊夢の後ろ姿を見たくても、紫はとうとう振り返ることが出来なかった。
「忘れて」
◆◆◆
一射目が滑らかな甲殻の表面を滑り、雪之丞の背後で炸裂した。
その勢いに後押しされるように吸血鬼は加速し、必殺の聖剣を必中のタイミングで繰り出す準備を始める。
二射目は大きく逸れて天井。エリカが巻き込まれまいと這って逃げる。
三射目は足下。
四射目も同じく足下に着弾した。二発の榴弾が爆発の衝撃で床板を跳ね上げる。クレーターに足を取られて、バランスを崩した雪之丞が失速する。
「そこまでのようですね」
そして勝利を確信して発射した五射目は吸い込まれるように雪之丞の胴体を直撃した。が、何も起きない。弾頭が仕事を放棄した。
「不発だと」
「運がないな、おっさん」
だが雪之丞はまだ数歩分、万場へと距離を残している。
すかさず弾倉を回転させ最後の一発を必中の距離に迫った雪之丞へと放つ――ことは、できなかった。
「あんたが弾を数え間違うなんてね」
仰向けにねころがったエリカが呟く。彼女を引き裂き、全身に破片を埋め込んでいった牽制の一撃に、それは既に使われていた。
「ふ」
だが万場は笑う。
違和感に、エリカも痛む体を起こす。
「ユキ――」
あと一歩で切っ先が万場を捉えるところだった。その距離であろうことか、万場は上着を脱ぐと、迫る雪之丞めがけて放ったのであった。
「何、だ」
がちゃがちゃと絡みついてくる裏地の感触。耳障りな電子音。びっちりと裏地に縫い付けられた対人地雷の山が、エリカからは良く見える。
「やはりあなたは、何も得られませんでしたね」
それらすべてが、同時に起爆した。
一点に集約された衝撃が鎧の上から雪之丞を貫く。重装備の雪之丞が、後ろ飛びに吹き飛ばされていく。ばらばらと鎧の破片が降り注ぐさまが、エリカにはスローモーションで見えた。
胸から槍を引き抜きながら勝利を確信する万場が、憎たらしい。やがてすべての鎧を脱ぎ捨てた雪之丞の姿が、爆炎の中から現れる。
だが、彼の顔は敗北の苦みに歪んだものではなかった。視線の先には、彼の右腕。その腕はしっかりと握っていた。
彼が長い苦悶の末に自らの中に見出した、究極の剣を。
「ありがとう」
まるで、この剣が自らの意志で雪之丞についてきてくれたようだった。
「じゃあな」
分かれを告げて雪之丞は放つ。
それはくるくると高速で回転して万場へと飛んだ。空中に日輪の軌跡を描いて飛んだ剣が、まず榴弾砲の銃身を、次にそれを握る万場の右腕を唐竹割りじみて真っ二つに引き裂いていく。
万場の顔が、驚愕にひきつっていった。
そして。
「かっ」
そして、霧散の一歩手前で、剣は万場の頭から胸まで、一直線に切り込んだ。受け身も取れないままに床に叩きつけられた雪之丞は、糸が切れるような『ぶつり』という音を聞く。
「あ」
あまりにもあっけない最後の言葉を残して、万場幾恵の巨体がゆっくりと床に崩れ落ちていく。
「……やった?」
エリカは予断無く戦闘体勢を取ったままだったが、雪之丞は起き上がる努力を放棄して床に伸びていた。十分すぎるほどの手ごたえを感じていた。
「あぁ。やったさ」
万場はうつぶせに倒れたまま、立ち上がってこない。ぴくりとも動かない。胸を貫かれ、片腕をねじ切られ、もう片腕を粉砕され、ダメ押しに脳天を真っ二つに割られ。万場幾恵という怪物は、とうとう死んだのだ。
「……お前も、結局はバケモノだったな」
真っ二つに割れた万場の頭を掴んで、雪之丞はしばらく考えていた。とても人間には見えない、肉と皮のひきつった半分を下に、かろうじて人間の面影を残す方を上にしてやる。
憎たらしくないワケがない。それでも、この男にだって安らかに眠る権利くらいはあるはずだった。
「ユキ、なんか忘れてない?」
感傷に浸っている時間はほとんどなかった。
「なんかって、何?」
「いやさっきまでそのことばっかり考えていたんだけど。あれ。あれれ。もうボケたかな」
白髪頭をかくエリカを見下ろしつつ、雪之丞も何かを忘れている気がしてならない。なんだったか。たしかとんでもなく大事なことを見落としているような気がする。
「……あれ?」
「ね?」
「おーい、おおーい」
「あ」
あたりが静まるにつれ聞こえてきた弱々しい声の出所に思い至って、エリカと雪之丞は揃って動きを止めた。ふたりが同時に視線を送った先には鋼鉄製の棚が折り重なって倒れている。
「助けてくれぇ」
声はその下からだ。
「た、大変!」
「任せろ!」
よたよた走っていった雪之丞が棚をどかすと、ただでさえしわくちゃの老刑事が一層ヨレヨレのしわくちゃでそこに横たわっていた。
「おおおおお、オジさん、大丈夫!?」
額から血を流す今井を見て、エリカが慌てた。
「あぁ、ありがとう。ありがとう。いやあ、ひどい目にあった」
「誰コイツ?」
「んーと、わかんない、かも」
「お嬢ちゃんには前アイサツしたじゃないか」
「そうだっけ?」
「ほら、ハジメくんと一緒に居た時に」
「あーそういえば」
「思い出したか?」
「ごめん。やっぱ覚えてないわ」
「だろうね」
がっくりと肩を落とす今井に、雪之丞は手を差し出す。それを取って、今井は呻いた。すかさず背後に回ったエリカが、その体を支えてやる。
「いっ、てぇ」
「ンだよ。おっさん腰やったん?」
けたけた笑う雪之丞をくたびれた笑顔で見上げて、今井はポケットを探る。取り出したタバコのパッケージは彼にお似合いの枯葉色。力なくコートのポケットをあちこちさぐってみて、「やれやれ」と今井はつぶやく。
「ほら」
と、彼の目の前に燃える剣が差し出された。
「ライター代わりにしては派手すぎるな」
「文句言うなよ」
「悪い悪い」
今井は落ち着き切った態度で安煙草をスパスパふかし始める。雪之丞は今井の隣で瓦礫に腰掛けたエリカに視線を送る。彼女は肩を竦めて見せる。
「結局思い出せないんかい」
「だって」
「おっちゃんは」
万場の作った血だまりに吸殻を放り込んで、今井は煙を吐いた。差し込む薄明りに彼の煙が広がって消えていく。
「そうだな。おっちゃんは鶴見君の友だちで」
「友だち?」
「そう。あと、元部下の敵討ちでここまできた。いやはや、これで殺人罪か。とにかく参った参った、と」
コートの胸ポケットに差されたスミレを撫でる彼の顔は、その言葉の深刻さとは裏腹に晴れ晴れとしていた。勢いをつけて、よっこいせと立ち上がった彼にエリカが肩を貸してやる。
「歩けそう?」
「ま、なんとか」
「ユキ、そっち持って」
「おう」
無数の銃火器の残骸と瓦礫まみれのフロアをゆっくりと横断しながら、雪之丞は天井の大穴を見つめる。差し込む光はだんだんと赤みを帯び始めている。そのくせ空は曇天だ。
「外では何が起こってるのかしらね」
「現実と幻想の境界があいまいになる」
「え?」
エリカが漏らした疑問の声に、再生の追いつかない足を引き摺って歩きながら雪之丞は口走っていた。
「なんだって?」
「あり得ないものを日常にぽんとぶち込む。例えば幽香さんたちの『弾幕ごっこ』とか。それをみんなに見せつけてやって、この世界の常識をグラグラ揺さぶってやると、一体全体何が現実で、何がそうじゃないのか誰も分からなくなってくるのさ。その隙に乗じて、みんなの頭の片隅に幻想の存在感を植え付けてやる」
もういい加減無意味と思ってか、雪之丞は体にへばりついていた残りの甲殻を引っぺがしていく。それらはフロアにぶちあたってくぐもった反響を生み出した。
「それが第一段階だ」
ぽかんと見つめてくる二人を見返すと、雪之丞は呆れ顔で更に歩みを進める。
「いくらなんでもノープランで暴れたりするワケないだろ」
「それからは?」
「それからは、これからの話。少なくとも邪魔は入るだろうな。あのクソ野郎がナメクジに見えるくらいのとんでもない奴」
エリカは無意識に万場の死体を振り返っていた。この先に待ち構えているものが何であるにせよ、彼ら以上の何かというからには常識の及ばない怪物であることは明白だった。
「どんなリアリストだって、一つだけ信じる幻想があるのさ。いや、反幻想と言った方がいいか。俺達の揺さぶりにそいつがノッてきたところを、ハジメの能力で一気に叩く」
「反幻想? なぁ、一体全体おっさんには何のことだか分からないぞ、そりゃ」
「それは」
背後で、砂利を踏む音がした。
「なんだ」
弾かれたように振り返った雪之丞はそれを見た。
「あぁ、求めていた答えが。『僕たち』が『私』になって、ようやく分かりました」
死んだはずの男がゆらりと立ち上がり、人差し指をまっすぐに伸ばす姿を。その背中にぼんやりとした光が宿る。太陽よりもずっと薄昏く輝くそれは、光の環だ。
「嘘」
エリカもその姿に心当たりがある。全てを貫く力。
立ちはだかる理不尽を力づくでねじふせて未来を勝ち取るために存在したはずの力。べろりと垂れた頭を無理やりくっつけて立ち上がった万場の指先に宿るのは、ハジメの能力にどこまでも酷似したものだ。
「なぜお前が、それを」
「『私』の得た答えですよ。『僕たち』のものではない。隠されていた『私』だけの、能力」
雪之丞たちの混乱を嘲笑って、万場は背後の光輪を輝かせる。
彼の手中には鈍色の輝きを放つ五円玉があった。中央に二つの穴があけられたエラーコイン。杏奈からハジメに渡され、ハジメから幽香へ。そして今は万場のもとに。
「伏せろ――!」
今井とエリカを庇って前に出た雪之丞の叫びを、重苦しい破裂音がかき消した。
「決して『