全員がにんにくのにおいをぷんぷんとさせていた。
色々な意味で危険な香りのする四人を自然と雑踏が避けていく。ふとハジメが首を巡らせると、駅前のバスターミナルにはイルミネーションが飾り付けられ、広告にはやたらと赤と緑色が目に付く。
「なんか、騒がしくね?」
率直に感想を漏らしてみると、雪之丞がガムを差し出してくる。
「もう年末間近だからな。その前にクリスマスだろうけどよ」
すでに十二月も中頃である。時間が経つのは早いなと思いつつ、どうにも彼が意識せざるを得ないのは幽香の存在である。
六ヶ月の猶予。早くも最初のひと月を消費しようというこの時に至って、ハジメの能力は眠ったままだ。このまま永眠してしまうのでは、と不安にもなる。
「おいしいのはわかるの。でもね、もっと量が少なくたっていいじゃない。もっときれいに盛りつけたっていいじゃない」
「だーかーら、違うんですって。あれがいいんじゃあないですか。こぎれいなお店で上品なお料理を食べる時代は終わったのです」
当の幽香は未だに腑に落ちない様子で、江梨花の語る次郎系ラーメンの魅力について耳を傾けていた。数歩分遅れて男たちは続く。もちろん彼らは江梨花の誇る鉄の胃袋をよく知っていた。しかし幽香も幽香で、あの後研究と称して丼二杯を平らげている。
「ユキ、俺たちが少食なのかな」
それは見ているだけで胸焼けを起こしそうな光景だった。
目の前でぺろぺろと消費されていく大盛りのラーメンと、ハジメのお小遣い。すらりとした幽香と小柄な江梨花。その体のどこに、あれだけの量を収容するスペースがあるのか。
「女ってすごいな」
「あぁ。女体は神秘に満ちている」
雪之丞は張り詰めた腹をさすった。もはや汗腺の先まで例のアブラが詰まっているような錯覚を二人は覚えていた。息がミントの香りになったところで、焼け石に水だ。
「そういや千晃ちゃん、元気?」
「最近部屋から出てくるようになったよ。家に来たあいつが上手くやって」
幽香を一瞥して、へえ、と雪之丞は声を上げる。
「やっぱりすごい人なんだなあ。俺はわかってたよ。なんたってオーラがあるもんな、オーラが。あと色気ムンムンだし」
色気。
ハジメの記憶にある中で、彼女が放ったものは殺気くらいだ。
確かに彼女はきれいだと思うが、それは女性に対して持つ感情というよりは、美術館でよくわからないが色使いだけはいい絵を見て抱く感想に似ている。
「それにしても、どうしてお前なんかが幽香さんと一緒に暮らせるのかねえ」
平気で失礼なことを言う。憮然としつつも、確かにそうだとハジメは思った。それは雪之丞が意図したところとはだいぶ違うのだが。
今更だが、これから殺し合うことになる相手と、ハジメはなぜか同居しているのだった。
「今度千晃ちゃんの顔見に行ってもいいか?」
「あぁ。あいつも喜ぶ」
なまじ俺がそばにいるよりもな、と続けてハジメは白い息を吐いた。
町明かりの中でもオリオンが見える。それだけ清冽に寒く張り詰めた空気のなかで、学ランの下にパーカーを着込んだだけではいささか寒さが堪える。
「今日は解散としとくか?」
雪之丞が頷いた。そして、ぽんと手を打つ。
「そうだ。歓迎会やろうぜ、幽香さんの」
その突拍子もない思いつきに、ハジメは要領を得ない顔をするほかない。
「だからさ、俺らがフツーに千晃ちゃんとこに遊びに行くんじゃちょっとばかりワザとらしすぎるじゃねえか。そこでお前が歓迎会開いて、俺たちを成り行きで誘ったカンジにすればさ」
建前とはいえ、何が悲しくて自分を殺しにきた女を歓迎しなければいけないのか。
しかし、ハジメが現実離れした事情をクソ真面目に説明したところで理解を得られるとは思えない。
「考えとく」
正直、ハジメとしては考えるだけにしておきたかった。
とくに別れの挨拶もないまま、三方向へとそれぞれが散っていく。
ハジメの家までは駅前から一キロと少し。しかし、にんにく臭を漂わせてバスに乗ることがどうにも気が引けて、歩くことにする。
「ちょっと臭うわよ」
「うるせえ」
地下道を通り、シャッターが締め切られたアーケードを通過し、ようやく住宅街に入る。
二人は頼りない街灯の灯りの下を歩む。隣に並んだ幽香はちゃっかりと、いつもどおりの清々しい花の香りを漂わせていた。
「どうしたの、そんな顔して」
梅干のようなしかめっつらをしていたことに、ようやくハジメは気づいた。
雪之丞との会話の中で抱いた疑問が未だ胸のうちに渦巻いていた。どうして自分は幽香と同じ屋根の下で寝起きをしているのか、と。
「だってハジメが言ったじゃない。俺の家をなんとかしてくれって」
疑問をそのままぶつけてみると、幽香はきょとんとした。
「それだけ?」
「そうよ。あなたが憂いなく力を磨けるなら、私はそれでいいの」
自分を殺しにきた相手の作った料理を食べ、説教から助け出され、命までも拾われ。よくわからない同居が始まってから、そろそろ半月が経とうとしている。
猶予は半年。これはその、何分の一なのか。
「もちろん、ここまでしてあなたが役立たずだったらあたまから真っ二つに引き裂いてあげるけどね」
不意に、冷たい手を背中に突っ込まれたようだった。
幽香はちらりとハジメをかえりみて、歩調を早める。見えない鎖で繋がれた子犬のように、ハジメが後を追った。
あるアパートの前で幽香は曲がる。小さな公園に入って、彼女はようやく止まった。
「さて、そろそろ進路指導の続きを始めましょうか」
見慣れた公園に立ち並ぶブランコが、鉄棒が、まるで拷問器具のようにハジメの目には映った。幽香の黒いスーツの背中は、ともすれば闇に紛れてしまいそうだった。
「確認しておきたいの。あなたが半年後、どうなりたいのか」
ハジメは言葉に詰まったが、お構いなしに幽香は続ける。
「死にたい?」
「いいや」
「じゃあ殺したい?」
目の前の女を殺す。生意気で傲岸不遜で、何を考えているかよくわからない、風見幽香と名乗る女。彼女を圧倒し、容赦なく自由を奪い、息の根を止める。
出来る出来ないの話ではない。恐ろしい想像が、無意識にハジメの顔に答えを浮かべていた。
「そう。じゃあ死になさい」
幽香の背中が霞んだ瞬間、彼女はハジメの文字通り目の前にいた。
小刻みに震えるハジメの、その両まぶたに彼女の指が触れている。堪えようのない圧迫感を眼球に感じながら、制限された青年の視界は幽香の顔の下半分を捉えている。
酷薄な口元を。
「もう一度だけ聞くわよ。生きたいの、死にたいの」
歯が鳴っているのは寒さのせいではない。
「生きたいに、決まってるだろっ!」
それでもなんとか小さく頷くと、幽香はゆっくりと一歩踏み出した。痛みに喘いでハジメが後ずさりする。
「よし。これで半年後のあなたが私をぐしゃぐしゃに叩き潰した。そのあとは?」
「は、はぁ?」
「大事なことよ。それからどうするのか、考えなさい。今」
答えなければすぐさま両目がお陀仏だ。
ハジメは回らない頭を必死に動かす。この進路指導の担当はとことん優秀だ。あの眠たい部屋では出てこなかった言葉が次々と吐き出されていく。
「そ、そうだな。まずは勉強だ。あだだ、俺は言いたかないが、頭は良くないけれど。大学、入りたいんだっ、や、やめろ、おい!」
「そこで夢や希望を見つけるとか、のぼせたことはもう言わないわよね」
鼻先が触れるほどの距離に幽香が顔を近づける。
青年にはまぶたの下からでも、その赤い瞳が見えるようだった。彼女に嘘偽りは通用しない。あの進路指導の平田に語ったような恥じらい混じりのそらごとは。
「違う」
幽香は息を整える暇くらいは与えてくれた。
「俺には」
「うん」
「俺には、野望がある。からだ」
そのまま長い時間が経った。
「野望か」
言葉の真贋を吟味するように彼女は呟く。
緊張でおかしくなりそうになった頃合に幽香が唐突に足を踏み出したので、ハジメは泡食って一歩下がる。そして、体勢を大きく崩した。倒れ込んでも頭が地面に触れることはなく、足をぶらぶらとさせながら夜空を仰ぐ。
「あ、あぁ?」
やじろべえのようにガードレールにもたれかかったまま、呆然と幽香を見上げるハジメ。幽香は声を上げて笑っていた。
「ごめんなさい。ちょっと面白かったから長引いちゃった」
幽香はハジメを助け起こす。
返事もできずに、ハジメはその場にへたりこんでいた。
「冗談よ」
ハジメがその言葉をそのまま受け取ることはできない。
ここまでの一部始終はまさしく綱渡りに等しいものだった。半端なことを口走っていれば、幽香は命までとは言わずとも、両目ぐらいは抉り取っていたのではないか。
「あら、おもらしでもしちゃった?」
「してねえよ!」
ちょっと嘘だった。
「でも、言ったことはちゃんと覚えているのよ。この先何かあって迷いそうになったとき、それが理由になる」
一体何の理由になるというのか。幽香がハジメの言うところの野望を聞き出そうとしなかったように、それを問いただす気力は彼には残されていない。
ただ舌打ちを返すのが、青年には精一杯だった。
それからは会話もなく、ふたりは家を目指して歩き続けた。
気まずさは幽香も感じているようで、彼女はちらちらと視線を送ってくる。ハジメはあえてそれを無視した。
「ねえ、謝ったでしょ?」
それであの仕打ちを水に流せる人間のほうが稀有だ。
ようやくハジメがなにか言ってやろうと思った頃にはすでに家の前。
しかし渾身の皮肉は結局不発に終わる。幽香が家を睨みつけている。ハジメも、その異状をすぐに感じ取ることができた。
「千晃?」
開けっ放しのドアと、落ちた新聞紙の束。
灯りのない家の中は薄暗く、月明かりの下で新品同然の千晃のスニーカーがきれいに揃えて置いてある。
駆け出したハジメを幽香は止めようとしなかった。
かわりに彼女は足元に視線を向ける。ぬらぬらとした透明な粘液が水たまりのようにわだかまっていた。
目を細めて、幽香は粘液が伸びていく先を追う。
鶴見家の敷地を出て、アスファルトの上を更にどこかへ向けて這っている。背後から息を切らせてハジメがやってくる。
「いないんだ、あいつ」
引きこもりが家にいない。とてつもない異常事態だ。
「でしょうね」
粘液の筋と、幽香の視線の先にあるものを見て、ハジメは立ち尽くす。重い蓋を持ち上げられた下水溝がぽっかりと口を開けていた。
「なんだよ。なんだよ、これ……!」
「あの子は何かに魅入られてしまった。そういうことでしょうね」
その『何か』が警察の手に負えないようなものであることは、ハジメの目にも明らかだ。落ち着きなくうろうろと歩き回るだけの彼には目もくれず、幽香は下水溝の中に何かを放っていく。
やがて場違いにかぐわしい花の香りがさっと暗がりから立ち上った。頷いて、幽香は住宅街のより奥へと視線を馳せた。
彼女は何らかの手段で襲撃者の居場所を特定することができたようだった。
「あなたの妹はきっと生きてる。安心しなさい」
「あぁ」
力が抜けたようになったハジメには目もくれず、幽香はずんずん歩き始める。慌てて追いかけようとした青年を、彼女は睨みで制した。
「な、なんだよ」
「あなたには危険すぎる」
そう言われてじゃあお願いしますと引き下がれるような状況じゃない。
「俺も行くさ。俺の妹なんだ!」
「で、役に立てるの?」
戦力になるかどうかもわからないものを、お荷物という。
幽香が千晃を探しに行くのはつまるところ、ハジメのためだ。ハジメとの約束があるから、彼女は彼の妹のために戦う。
「そんなのって」
しかし、本人が自ら危険に飛び込んでは元の木阿弥。
無理にでも彼がついてくるのなら、幽香はそもそも行かないという選択をするのだろう。
青年の心の有様を察して、幽香はいつもの優しい笑みを浮かべる。
「いい子ね。お留守番は頼むわ。千晃は任せて」
まるで子供扱いだ。
ハジメが顔を上げると、すでに彼女は姿を消していた。
「そんなのって、ないだろ」
よろよろと歩いて、ハジメは家の中に戻った。リビングに入り、暖房も入れずにソファに体を持たせる。これでいいのだろうか、なんて聞くまでもない。
千晃に関して、結局は幽香に任せっぱなしである。
未だかつて彼がこれほど非力さを実感させられたことはなかった。愚妹愚兄と罵り合いつつも、やはり彼女は妹だ。
「あぁ、クソ」
そこでようやく履きっぱなしの靴に気付く。カーペットにうっすらとついた足跡を靴下で蹴散らしながら玄関へ向かう。
タイミングを見計らったように、郵便受けがガタリと音を立てたので青年は思わず飛び跳ねていた。
だが、恐る恐る投函されたものを確認した瞬間、彼の中を真っ赤な怒りが覆い尽くしていった。
「……おい、何のマネだ」
片方だけの、女性物の、黒い靴下。
その持ち主が誰であるかなど、愚問でしかない。
「おい!」
蹴破るようにドアを開けて、犯人の姿を探す。
真冬の静けさが漂う中、見つけたものは真新しい一筋の粘液だった。アスファルトの上に残されたそれは、まるで青年を誘うように駅の方角へと向かっていた。
「いい度胸じゃねえか。後悔させてやるよ」
相手が何者か。それは人であるのか、それ以外のものであるのか。
もはやハジメにとっては微々たる問題でしかない。下足入れに立てかけてあった金属バットを手に、猛烈な勢いで跡を追う。
ちらつきはじめた雪も、彼の怒りを冷ますことはできなかった。
怒りで鈍りきった彼は自分が向かう先が、幽香の目指した場所と正反対の方向であることに思い至らない。
長い夜が、始まろうとしていた。
第三話『2.5者面談』おわり