真冬にも関わらず、その一角には耐え難いほどの熱が立ち込めていた。季節外れの陽炎の中に佇む女。ビルとビルの間、人気のない空き地には所々に炎がちらついている。静かで、そして激しい戦いを制したのは言わずもがな風見幽香である。
「そう」
敵の本丸と思って攻め込んだ直後から彼女は違和感を抱いていた。
ここまで周到にハジメと幽香の留守を狙い千晃を拐かした相手のすることにしては、あまりにも場当たりで無計画な総攻撃だった。
結果として幽香は圧勝し、そして千晃はこの場にいない。
無表情に彼女が指を鳴らすと、燃え盛る炎は一瞬にして消え失せた。あたりに散らばったものはおびただしい量の粘液と、無数の毛皮の切れ端。
『襲撃者』はこの場から逃げおおせていた。もとからこの場で待ち構えていたのは、トカゲの尻尾のようなものでしかなかったのかもしれない。
「あなたのご所望はあの子の方、ってこと」
残骸を踏みにじって幽香は踵を返す。細い裏路地を縫って出ると、そこは夜の街だ。寒空に浮いた真っ白な月と粉雪に彼女が目を奪われたのは一瞬のことで、すぐさま歩き出すと雑踏に紛れ込む。
通りの向かい。濃茶のダッフルコートを翻して、男が歩き始める。
「いたいた」
若い刑事は絶えず雑踏の中に幽香を探す。
あれだけ目立つ容姿をしていながら、こういう時にはまるで擬態するように周囲に同調してしまう。
「やっぱ、アンタは普通じゃないってことなんだな」
鶴見ハジメについては調査に一段落がついていた。
見ているだけで眠たくなるような量産型高校生の経歴。今回の爆発事故の他に目を引いたものはたった一度の補導歴であったが、それ自体も取り立てて騒ぐようなものではない。
問題はむしろあの女。
器用で美人で人のいい風見幽香さん、と。尋ねられた誰もが右をならった様に誉めそやす女の存在がずっと頭に引っかかっていた。
風見幽香という名前に関するいかなる経歴も、彼らの手元には存在しない。偽名を使ったといえばそこまでだが、むしろ、彼女がまったく別の世界――海外や、またこの世ならざる場所から来た、と考えるほうが寺田にはしっくりとくる。
寺田は現実主義者だ。
『ろ号飛行物体』なんて馬鹿げたものについても、実際は観測気球だとか、鳥だとか。大方、一昔話題になったスカイフィッシュのようなひどく夢のないオチがあるんだろうなぁ、と考えている。
だがそれでも、あの青年と幽香が行動を共にしていることにはなにかトンデモない理由があるような気がしてならない。
「残業代も出ないのに、俺らは何を必死になってるんスかね」
メガネを押し上げて自嘲気味に呟く。
答えてくれるはずの年老いた相棒は今、この場にはいない。
信号を待っていた彼女が歩き出した頃合に、寺田は携帯を取り出した。
「今井さん、ばっちりです。今夜こそ連中の化けの皮をはがしてやりましょう」
◆◆◆
打って変わって、今井は喧騒とは無関係の場所にいた。
「分かった。ヤバそうだったらすぐ引き上げろ。何度も言ったが、これは公式の捜査じゃないんだからな」
慣れない手つきでスマートホンを操作して、老刑事はハジメの姿を視界に捉える。左腕一本でバットを引きずるようにして歩くさまはどことなく痛々しい。
家から金属バットを手に走り去った彼を追いかけるうちに住宅街を抜け、彼はアーケード街付近の裏通りへと入り込んでいた。
「にしても」
いっそう人気のない通りを選ぶように進んでいくハジメの背中から一度目を離して、足元を調べる。そこには謎めいた粘液が筋を描いていた。
「お前、何に巻き込まれたんだ?」
ハジメの足取りを追う限り、彼はこの粘液に気づいている。それどころか、これを追っているようだ。彼は時折立ち止まり、苛立たしげにバットを担いでは前後を警戒する。
そのたびに今井は息を殺して物陰に隠れなければいけなかった。
ビルの隙間から隙間へ。いつしかこの地区に詳しい今井ですら見覚えのない、奇妙な路地へと入り込む。
古錆びた蚊取り線香の看板が視界の端をよぎっていく。倒壊しかけたあばら家の前を通り、なぜか通りのど真ん中に突き立った不気味な丸ポストに目を奪われる。そこはまるで、町から忘れられたものを雑多に取り込んだパッチワークのような場所だった。
これほど大きな空間にも関わらず、人の気配は皆無だ。やたらと生活感だけは強いのに、明かりもなく、月の輝きを受ける雪のおかげでなんとか歩いていける。たちの悪い怪談話の世界がどこまでも広がり続ける。
「こんな場所が、この町に?」
ハジメの後を追って角を曲がり、フェンスを乗り越え、そうして三叉路を右に抜け――今井は、足を止めた。
壁があった。
真新しい粘液の筋を途切るように、年季の入った、ススだらけの、苔むしたブロック塀が待ち構えていた。
そこに青年の姿はない。今井がいくら押しても引いても壁はびくともしない。まるで望まぬ侵入者を拒むため、この壁がわずか数秒の間にこの場所に生えてきたようだった。
「なん、なんだ。ここは」
背後にただならぬ気配を感じた。
振り返ると、嘲笑うように『行き止まり』の標識が真後ろに佇んでいる。場数を踏んできた今井とはいえ、流石に背筋に冷たいものを感じずにはいられない。
「やめておきなさい」
恐る恐る標識に手を触れようとしたとき、鋭い声が今井を制した。
「ここは常を超えた場所。ヘタにいじくりまわすと、取り込まれちゃうかもよ」
それは年端も行かぬ少女だった。
湿った壁と壁の間を吹きすさぶ雪混じりの風に、彼女の黒髪が炎のように揺らめいている。明かり一つ無いこの場所で、彼女の容姿はなぜかはっきりと見て取ることができる。
見目麗しい黒髪の乙女は、まるで自らぼんやりとした光を放っているかのようだった。
「君は。いや、お前はなんだ?」
こんな時間のこんな場所に、こんな美しい少女が?
それを幸運が巡ってきたと喜ぶか、思わぬ奇縁を持ってしまったと警戒してかかるか。今井は後者で、少女はそれを彼の口調と表情から読み取ったらしい。
「信頼しろなんて言える状況じゃないのは承知だけどね。でも巫女のお告げは神のお告げ、わたしの言うことは素直に聞いておいたら?」
標識に背をもたせて少女が切れ長の目を細めた。布がいくつにも連なった、和服とも洋服とも判別つかない装い。黒髪と整った容姿も合わせて、まるで人形のように見える。
それでも口をつぐんだまま動こうとしない今井に、彼女はため息ついて耳元の髪を払う。
「ま、いーけど。警告はしたからね、おじさん」
少女の足が地面を離れた。
「あ」の形に口を開けたまま固まる今井を見下ろして、空飛ぶ少女は機嫌を取り戻したようだった。
「ふふん。人が空を飛ぶのを見るのは初めてだったかしら?」
どこか得意げに重力を感じさせない動きで細い路地に体を翻す紅白の少女に、今井はしばし目を奪われていた。この世の存在ではない。
優雅に着物をはためかせる姿はまるで、楽園から現れた天女のようでもある。
「お前が『ろ号』、なのか?」
それだけをなんとか今井が搾り出すと、天女は露骨に顔をしかめた。
「はぁ? やめてよね、そんなダサい呼び方。私は――もういいや。ひとまず今日のところはここまでって感じで」
「今日のところは? な、なぁ、待ってくれ。この先に行っちまったヤツがいるんだ。手を貸してくれないか」
なぜこの場で彼女を頼ろうと思ったのか。
それは言葉を発した今井自身も不思議でしかたない。だが、『彼女を頼れば大抵の物事は解決する』という、根拠のない確信めいたものがあったのだ。
「それは風見幽香と一緒にいた男の子のことかしら」
「どうしてそれを?」
目を見開く今井に、少女は肩をすくめるだけだ。
「残念、あなたの助けにはなれないわね。あの子に恨みはないけれど、敵の味方は敵ってことで」
「待て」
ゆっくりと遠ざかりつつある少女は、もはや今井の言葉に振り返ることは無かった。
そのまま彼女が小さな小さな点になるまで見送り続けた頃、ようやく今井は携帯の着信に気付いた。
寺田の名前が履歴に数件並んでいる。かなりの時間空を見上げていたようだった。
『よかった。連絡つかないもんで、心配しましたよ』
スピーカーを通して寺田の乱れた呼吸音が伝わってくる。
彼の言葉の切れ間切れ間に聞こえてくるものはオリエンタルな音楽だったり、聞きなれない言葉だったり。いったいお前はどこに居るのかと今井が問う前に寺田は息を整えていた。
『すんません。あの女、タダモンじゃありません。こっちの尾行なんて、とっくの昔にお見通しだったみたいで。あぁ、まったく、マズったな』
「どうした。何かあったのか」
『あいつがバスに乗り込んだんで着いていったら入れ違いにされたんです。こっち指差して笑ってやがりましたよ』
すっかり女を見失ってしまった、と寺田は続けた。
「こっちもこっちで色々あった。直接会って話がしたい」
空へと目を戻すと、あの少女の姿は消えていた。今井はこめかみを指で叩きながらつい今しがたの出来事を整理しようとする。
謎の女と爆発事故の青年。二人の正体を暴いてやろうという目論見はかえって多くの謎を掘り起こす結果に終わってしまった。
「タクシー代、出してやるからすぐ戻れ」
『えぇ……でも、ここ、ドコなんスかね』
◆◆◆
なれない左腕一本で金属バットを支え続けるのは骨が折れる。とはいえ実際に折れているのは右腕で、唐突に降って湧いた皮肉にハジメは乾いた笑いを漏らした。
「千晃、どこだ」
幽香の言うとおり、家で待っていたほうがよかったのかもしれない。ここに来て彼は半ば確信している。自分はこの場所に誘われているのだと。
異様な通りを進みつつ振り返ると、すでに退路は絶たれている。千晃をさらったものの狙いは、おそらくそれを追ってくるものにあったのだろう。
「くうん」
聞き覚えのある鳴き声に顔を上げると、L字型の曲がり角から痩せ衰えた犬が顔を出していた。雪の降りしきる中、その姿はなぜ凍えないのかと不思議に思うほど寒々しい。
「お前か。お前が、千晃を」
歩調を早めるハジメを嘲笑うように、犬は退いていく。まるで後ろから引っ張られるように、一切体を上下させないままに曲がり角に消える。
恐る恐る角に張り付いてハジメは息を整える。ポケットの中で硬貨を握る。肉にくい込む感触で、あの火中で抱いた恐怖を思い出す。
降り注ぐ瓦礫と燃える体、そして風見幽香という異常な存在との出会い。それらを乗り越えてきたことを考えれば、この先で何が待っていようとも平静を保てるような気がしていた。
バットを構えて一歩目を踏み出す。
「千晃!」
それまでの窮屈な空間からは一転、大きく開けた広場がそこにはあった。
広場の片隅にはガラクタが雑多に積み上げられている。その上を覆うのは真っ白な雪だ。思わず駆け出した足を不快な粘液が絡め取るが、それはもはや、ハジメの関心事ではない。
中央、ぽつんと立ち尽くす街灯の明滅する照明の下に横たえられた少女。
彼の妹がそこにいた。
「よかった」
全身を不気味な粘液に覆われている以外、目立った異常はない。薄い胸は確かに上下しており、ハジメが彼女を担ぎ上げると体温もある。意識を失っているだけのようだった。
「あとは、ここからどうやって出るか、か」
なんとか背負い上げた千晃の手足を縛って固定すると、重みに呻いてハジメはあたりを見渡した。今しがた入ってきた通りはおびただしい数の自転車が詰め込まれ、塞がれている。
そして、背後から響く物音。
「くうん」
鳴き声。
バットを手に振り返ったハジメの目の前で、今までビルの壁であったものが音もなく、パズルのピースのように取り外され、無数の黒い触手によって脇に几帳面に積み上げられていく。
そうしてビルを被っていたそれが姿をあらわにする。
あまりにも大きかった。
「くうううん、くううん」
その姿は蝸牛に似ている。
真っ黒な滑り皮の一部が持ち上がり、一対の目を形作る。地面に接している部分からは無数の触手が這い出し、そのすべてが指人形のように毛皮を被っていた。
正しくは、上半身だけの犬の生皮を。
哀れみに飢えた目で、すべての犬がハジメへとにじり寄ってくる。しかしてその口から滴るものは粘ついた液体で、カミソリのような牙を隠そうともしない。
ハジメが足元へと目を向ける。
今まで降り積もった雪だと思っていたものは実際、細かく砕かれた大小の骨であった。
「こんなのが『もっともっと弱い相手』かよ」
かつて幽香を冷酷だと罵り、その言葉に耳を貸さなかった自身を責める。その結果として千晃を餌に、まんまと誘い出されたというわけだ。
この犬は。都市の影に潜み、弱者の皮を殻として被り、差し伸べられた手を食いちぎる、卑劣にして恐るべき怪異だ。
幽香はこの怪物の正体をひと目で見破っていたのだろう。
「くっ」
いつしか足元ににじり寄っていた一匹の犬に向けてバットを振るう。大きく体をひしゃげさせてバウンドした痩せ犬は、痛みをまったく感じさせない動きでぬるうりと立ち上がってくる。
その間も犬の群れが次々と迫る。
千晃を背にバットを叩きつけ続けながら、ハジメは悟る。この蝸牛の怪物は楽しんでいる。大方、ここに誘われてきたモノたちも同じようになぶり殺しにされていったのだろう。
こいつは人を殺し、食らう。
言葉にするとあまりに単純で、あまりに恐ろしい事実。
だが、ハジメはある程度冷静に迫り来る死の群れを見つめていた。
ここ数日にわたって幽香に脅され続けたせいで、やはり恐怖のハードルが上がってしまったのかもしれない。
「くうん」
いつもと様子の違う獲物に苛立ったのか、巨大な蝸牛が上体をもたげた。ぱっくりと開いた口から何かが勢いよく射出される。
次に鼻についたのは不快な匂いだ。
青年の唯一の武器に巻き付いたものは怪物の舌のような器官だった。強力な酸か毒か、みるみるうちに金属のバットが焼けただれ、ひしゃげ、折れ曲がっていく。
やがてはグリップすらも溶け始め、ハジメはバットを手放す他ない。
「任せとけよ。守ってやるから、安心しろ」
隅に向かって後退しながら千晃に、そして自分自身に喝を入れるように声をかける。
彼女をかばったまま食いちぎられ続けるのはさぞ痛いだろう。焦りと恐怖をぶち込まれた鍋が、ハジメの心の中でぐるぐるとかき混ぜられていく。
こいつらは楽に殺してくれはしない。
一ミリずつ肉を剥がれるのかもしれない。最も痛く、最も死に遠い場所から牙をつき立て、最後の瞬間まで踊らされる。
悪趣味な想像が、ようやく一筋の冷や汗をハジメの頬に伝わせた。
それでも虚勢だけは張ろうとするが、余裕のないかすれ声を漏らすに終わる。
「お、俺――」
月の明かりを受けて、そのシルエットが輝く。
頭上から雨あられと降り注いだ光の筋。
ついにハジメの口をついて出た泣き言を、爆音と閃光がかき消していった。
「鎖につないでおけばよかったかしら?」
眩んだ視界と、聾された耳。
余裕を含んだ一言を漏らした女が肩で息をしていることに、ハジメは気づけない。
「でも、よく耐えたわね」
その労いの言葉にも。
唯一正常な嗅覚が、舞い降りたかぐわしい花の香りを捉える。息をするだけで、死のにおいに侵されきった肺の内側が洗われるようだった。
「さて」
物理的な圧力を伴った赤い眼光に、蝸牛がたじろぐ。
「ゴミ掃除、始めましょうか」