風見幽香の殺し方【完結】   作:おぴゃん

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8『右巻きの迷宮(下)』

 割って入った幽香が群がる犬たちを打ち払う。ズタズタに引き裂かれた毛皮の下から現れたものはおぞましく発光する、ぬめりをもった無数の触手だ。引きちぎられて尚不気味にのたうち回る触手を幽香が無慈悲に踏み潰す。

 

「怪我は?」

 

 蝸牛とにらみ合ったままの幽香から掛けられた声は、その動きの冷酷さが信じられないほどに優しいものだった。

 

「な、ない」

「よかった。しばらくどこかに隠れていてちょうだい。お説教はその後ね」

 

 ハジメは千晃を再び抱き上げて、ゆっくりと後退する。

 これから何が始まるにせよ、それは決して穏やかな結果には収束しないだろう。

 怪物とにらみ合いを続ける幽香が何倍にも大きくなったような錯覚を覚える。殺し合いの練習というじゃれあいとは比べ物にならない、彼女の実力の一端がここで発揮されようとしているのだ。

 

 蝸牛の怪物は正直なところかなり戸惑っていた。

 町でイヌの亡骸を使って『釣り』をしていて最高のエモノを見つけたときは久方ぶりに人間の肉が食べられると喜んだものだったが。その時から彼の隣にいたマズそうな女は確かに警戒していた。

 

「せっかく見逃してあげたのにねぇ?」

 

 こうして敵として向き合ってはっきりと分かる。

 これまで食らってきたどんなエモノとも違う。燃える炎がそのまま意思を持ったような生き物。抱いた感情を畏怖という二文字で認識するだけの知恵が蝸牛にはなかったが。

 

 女の華奢は刺を隠すための大きな花弁のようなもので、一度風雨に晒されればたちまち華やかさはなりを潜め、凶悪な一面を覗かせるのだろう。まさにこの瞬間のように。

 

「くうん」

 

 だが、蝸牛は無数の触手を振り上げて威嚇する。

 この町で生まれ、人間たちが無意識に忌避する空間で育ち、やがてはヒトを喰らうようになったこの瞬間に至るまで、蝸牛は彼の世界で最強の存在だった。

 それが未来永劫覆ることはない。覆ることはない、はずだ。少なくとも彼はそう思い込んでいる。

 

 一方、あくまでやる気を見せる蝸牛に幽香は醒めた目を向けるだけだ。

 

「ちょっと力を持っただけで舞い上がっちゃうなんて」

 

 真面目な保護者を取り繕う時間は終わった。これからは風見幽香としていかんなくその力を振るうべき時なのだ。髪留めを外し、スーツの上着を脱ぎ捨てると髪を払う。

 

「あなたみたいのが一番不愉快なの。消えてちょうだい」

 

 鋭い眼光とともに叩きつけられた殺気が開戦の合図となった。

 千晃を担いで物陰へと移動しつつ、ハジメには幽香の姿がぼやけた残像と、真赤に輝く瞳の残光でしか認識できない。

 

 ふっと彼女の姿が現れたときは大抵拳か脚を繰り出した直後の姿勢で、蝸牛の体が面白いように削り取られている。反撃に晒される前に再びその姿が煙のように消え失せると、もはや蝸牛の触手で幽香を捉えることはできない。

 

 ハジメにとっては絶望の権化でしかなかった蝸牛の怪物を表情一つ変えずに圧倒する幽香。思わず足を止めたハジメはその底知れぬ実力を改めて思い知らされるような気持ちだった。

 

「いいぞ、やっちまえ」

 

 思わず小さく拳を振り上げていた。

 妹を家から無理やり引きずり出し、あまつさえ彼女をエサに自分までもおびき出した怪物がボコボコにされていく様を見ていると、正直胸がスッとする。

 

 だが、同時に心臓の底を熱湯に浸されたような焦りも感じていた。

 

 この場に至って彼は何も役に立てていない。待つようにと言われたことすら忘れて家を抜け出し、まんまと窮地に陥ったと思えば結局幽香におんぶ抱っこの状態だ。このままお荷物のままでいいのか。

 

 触覚の一本を消し飛ばされて大きく身を仰け反らせた蝸牛へと指を突きつける。ウンともスンともいわない自らの能力に舌打ちして、再びがれきの山をめざして歩き始める。

 

「くうん」

 

 しかし蝸牛は獲物の逃走を許そうとはしなかった。粘液と青紫の血をぶちまけながらも彼が顔をそらした瞬間、幽香は機敏に反応した。

 

「ハジメ」

 

 それは真後ろから聞こえた。

 やはり優しい幽香の声に振り返って、ハジメは絶句した。

 

「お前、それ――」

 

 彼女が掲げた左腕を触手が差し貫いていた。

 音もなくハジメの背後に迫った致命的な攻撃。それを身を呈して受けた幽香が何か言葉を発する前に、耳障りなブツブツという泡の立つような音がハジメの耳に触れた。

 遅れて、肉の焼ける嫌な臭いが漂う。

 

「まずは身の護り方よ」

 

 金属のバットを溶かすような酸を分泌する触手である。生身で触れて、無事でいられるはずがない。たちまちシミ一つない白い腕が酸におかされ、ボロ切れのように皮膚をちぢれさせながら真赤な肉をむき出しにしていく。

 白い雪が舞い散る中で、その色彩は一層異様に映えた。

 

「体や心の死角。防ぐのか、逸らすのか、受けるのか。あなたが一手間違えれば、すぐにこうなるわ」

 

 幽香はそれだけの怪我を負っても悲鳴の一つ上げない。

 目を背けたいのに、彼女に視線が吸い付いて離れない。あまつさえ彼女は、ハジメに微笑みさえ浮かべて見せるのだ。

 

「さて、こうしてとろい攻め手をわざわざ受けてやったとき、こいつの場合は――」

 

 その笑顔が霞んだ。

 ようやく幽香を捕らえた蝸牛は酸で焼いただけでは飽き足らず、力任せに強靭な触手で彼女を振り回したのである。焼け強ばった片腕ではろくに防御もできず、幽香の体は宙高く舞った後にビルの壁面へと叩きつけられた。

 

「くううん」

 

 満足げにうなると、蝸牛はもうもうと立ち込める土埃の中で悠々と振り向いた。

 見ればあれほどの損傷を被った蝸牛の肉体が瞬く間に蘇っていくではないか。一手。たった一手の誤り。鶴見ハジメという異物を庇ったばかりに。

 

「くうん?」

 

 顔も口もないそいつは笑っているのだ。

 どうだ、白馬の王子様なんていなかっただろう、と。

 ハジメは千晃を傍らに横たえたまま、呆然と膝をついていた。嫌な女だというのが幽香に対する彼のすべての思いだったにも関わらず、胸が痛んでいた。

 

「どうせ、元からアンタ、俺にゃ期待してなかったんだろ」

 

 なのに、どうして身を呈してまで自分を守ったのだ。

 

「俺をさんざんズタボロにして、さんざん笑いものにして、そうやって苦しめてからあっさり殺すつもりだったんだろ?」

 

 返事はない。蝸牛の怪物も『助けて』『痛い』以外に人間の言葉を知らない。とりあえずは青年がビビっているのだと踏んで、全身から触手をぶわりと広げた。しかしそこから滴る強酸も、突きつけられた死も、ハジメの心を揺らすことはできない。

 

「そうじゃないならなんだって言うんだよ」

 

 拳を地面について、ハジメは立ち上がる。

 ちろちろと指先を焦がす炎。そして、絶望が渦巻くはずの瞳の奥には金色の輪が廻っている。彼の心の中にある大きな堰は、もはやほんの一突きで崩れてしまいそうだった。その瞬間を今か今かと待つのは、強大な、正体不明の力の奔流。

 

「おい!」

 

 叫んでいた。

 全身を駆け巡る力の衝動にかられたその声には、もはや雄叫びに近いものがある。

 

「おい――おい、答えてみせろよ、風見幽香ァッ!!」

「それはね」

 

 耳をくすぐったものは全てが始まった日、炎の中にも透った声と同じもの。

 瓦解したビルの壁面が吹き飛ぶと散弾のように岩屑を吹き飛ばす。柔らかい肉に深々と突き刺さった破片に、蝸牛が身をよじる。

 

「ハジメなら本当にできるって、思ったからよ」

 

 その声が発せられた場所には未だもうもうと土煙が立ち込めていた。そこへと向けて未だ伸びたままの触手がぴんと張り詰めた。みちみちと音を立てて――信じられないことに、蝸牛の巨体が海老反りになっていく。

 

「だから私はあなたに教えるの。拳や足、そして触手を軽率に攻め手に使った者の末路を。得体の知れない相手に手を差し伸べることの招く結果を。効率的で容赦ない、私の殺し方を」

 

 煙幕の中から殺気が解き放たれた瞬間、光の帯が仰け反った蝸牛の柔肉を通り抜けていった。蝸牛はそれをきっかけにぴたりと動きを止める。その首。まるでファスナーをゆっくりと開けるように肉が切り開かれていく。

 

「悲鳴は上げられないのかしら。残念ね」

 

 遅れて、スプリンクラーのように紫色の血液が迸った。

 どうと巨体が倒れる中、現れた幽香は無傷だ。彼女の身にまとう紺のスーツにはほころび一つとして見えない。

 この瞬間まで触手を手綱のように握り締めていた彼女の体の周りを、血液が避けていく。そうして浮かび上がるドーム状の輪郭が、彼女を衝撃から守ったものの正体だった。

 

「……やったのか?」

「いいえ、まだよ」

 

 切り落とされた蝸牛の頭が真っ二つに割れた。そこから現れたモノの醜悪さに、思わずハジメは口元を覆う。幽香も隣で険しい目つきを浮かべていた。

 

「…………ギ。ヒィ」

 

 その、何たる異形か。

 しょせんは使い回しの腐肉の寄せ集めである蝸牛の肉体が解け、溶けていくのを尻目に、そいつはびちびちと跳ね回りながら地を掻いた。

 真っ黒に焼けただれた人間の上半身と、腹から下に無様にくっついた犬の片足。これこそが、長らく市中の空白に巣食い、いくつもの命を平らげてきた蝸牛の妖怪の正体であった。

 

「どうする?」

 

 二人を尻目に怪物はあうあうと喘ぎながら這い、逃げていく。

 その姿があまりにもちっぽけで、あまりにも情けなくて、ハジメはつい、先程までの怒りを忘れてしまっていた。

 

「いいさ」

 

 怪物はかぶりを振ったハジメを、遠くから見つめていた。その哀れっぽい目がますます情を誘う。

 

「こんだけ痛めつけたんだ。もう、おいそれと人間様なんて襲うことはできないだろ」

 

 幽香はますます表情を険しくするだけだ。

 

「甘い」

「ゲロ甘で結構。こいつだって見た目は悪いけど、しょせんはノライヌと変わらねえよ。腹が減れば人を襲うだろうし」

「あなた、妖怪を甘く見すぎているわ」

 

 目の前に、真っ黒な笑顔が迫っていた。

 

「え」

 

 ざっくりと切れた口。ぎょろりと見開かれた目。青紫の血液をハジメの顔面にぶちまけて通り過ぎていったそれは、掠め取ったエモノの首筋に邪悪な舌を這わせた。

 

「千晃!」

 

 飛び退いて、そいつは壁際へ。ぬるぬらと光る涎が千晃の額を伝い、閉ざされたまぶたをくすぐり、細い顎先から骨の敷き詰められた地面へと滴る。ハジメが恐れたような変化は起きない。

 

「ぎ、ギフフフ」

 

 あれぇ、おっかしいなあ。

 とでも言いたげに怪物は次から次に涎を垂らしていく。強烈な酸がほんの一滴でもそこに混じったときに、何が起こるのか。

 顔面を真っ赤に染め上げた千晃がどんな叫び声をあげるのか。

 そんな想像だけで、ハジメはその場に縫い付けられたように動くことができなくなっていた。

 

「これで分かったでしょう」

 

 この怪物。その凄まじい邪悪さ。

 幽香が肩の力を抜いたのが、ハジメには分かった。手詰まりだ。いかに幽香が早いとはいえど、ここで無策に攻撃を仕掛けるのは危険すぎる。

 ハジメには幽香を責めることがお門違いであることくらい知っている。

 

「俺のせいだな」

 

 自分を肩で押しのけて怪物へと歩いていくハジメに、幽香は目を見張った。

 

「ちょ、ちょっと、ハジメ」

「責任は俺が取る。見てろよ」

 

 待ってましたと千晃を投げ出して、丸焼けの怪物はハジメに手招きした。あくまでも彼が今晩のメインディッシュとして選んだものは目の前のヒトの男だ。めっぽう強い女は胃もたれを起こしそうだし、今回のエサは肉付きが悪くて食べられたもんじゃない。

 

「とかなんとか思ってんのかね、お前――はがっ」

 

 伸ばされた黒い腕が喉笛を締め上げたので、後半は言葉にならなかった。地面に押し倒され、腰の下でどこかの誰かの骨であったものが砕けるのを感じながら、ハジメはさっそく霞がかかりはじめた意識の中に手を彷徨わせる。

 

「ねえったら!」

 

 幽香の声が遠い。

 

「そんなつまらない終わり方で、あなたいいの!?」

 

 彼女がどんな顔をしているのか知る由はない。ぼやけた視界にはただただ、まばらに毛の生えるだけの、醜悪な怪物の顔がでかでかと映りこんでいる。

 

「よかないさ」

 

 いいわけがない。だが、何ができるというのか。

 

 つくづく彼女の忠告を無視したツケが千晃に降りかかってしまった。

 それを後悔するには遅すぎる。ならば、バカあにきなりに最後の意地を見せてやることが、今の彼にできる全てではないのか。

 

 そもそも一か月前に死んでいたはずの命。なぜあの火事場で抗おうと思ったのか。

 

「それ、は」

 

 その答えは既に出ている。いつぞや、公園で幽香にぶちまけたではないか。鶴見ハジメはこんなところで立ち止まる物語ではない。風見幽香という巨大すぎる壁であっても、乗り越えられないはずがない。

 

 来年の五月を突破して、勉強をするのだ。そして大学へ行く。なぜならば。

 

 なぜならば、俺には。

 

 穴のない五円玉。穴の空いた五円玉。あるものと、ないもの。取り戻せるものと、取り戻せないもの。終わったものと、続くもの。

 脳裏に描いたそいつの輪郭を炎が伝っていく。炎が意識を飛び出る。まるで脳みそに直接丸い輪郭が焼印されていくようだ。ハジメはいよいよ気を失いかけながら、その音を聞いた。

 

 がちり。

 

 幻聴だろうかと考える。

 しかしそれは、まるで耳のすぐそばで実際に何かの機構が作動したように思えるほど、はっきりとした音だった。

 

 がちん。

 

 填る音。引き起こされる音。それらがハジメの意識にかける揺さぶりは途方もなく大きい。ハンマーで骨の髄でもぶっ叩くような衝撃が遠のいた意識を引き摺り下ろしてくる。そうして感じたものは、今まさに首を粉砕せんとする湿った指の感触だ。

 

「――――!!!!」

 

 押し潰れた喉で絶叫していた。痛みではない。恐怖でもない。再び胸の内に荒れ狂いはじめた、爆発するような力の衝動にだ。

 

「ぎっ」

 

 怪物の顔面を炎が焼いた。ハジメの左目から吹き上がった爆炎はプロミネンスじみてぐるぐると彼の体を取り巻くと、目の前の敵を打ち払ったのだ。

 

 悲鳴をあげて怪物が退散していくのを見ながらも、ハジメは自らの体に起こった異変に気づけずにいる。なかば本能的に持ち上げた左手。彼の脳裏から湧き上がった炎が、そこに形を作る。

 

 鶴見一の能力を。

 

「逃がすかよ」

 

 それは弾丸だ。つらぬく、などと上品なものではない。ゆくさきに立ちはだかるすべてをぶちのめし、力づくで屈服させる荒々しい力だ。

 本腰をあげて逃げにかかった怪物は蛇行し、先程までの緩慢さが嘘のような速度で這っていく。その度に空中で幾度も弾丸は自ら爆発し、軌道を変える。

 恐れおののいた怪物が空高く飛び上がった瞬間。爆炎の弾丸も垂直に軌道を折った。

 

「ヒ」

 

 今まで数え切れぬほど恐怖を与えてきた怪物は。

 

「くたばりやがれ」

 

 その何倍もの恐怖を背負わされ、胴体に風穴をぶち空けられることとなった。

 ほくそ笑みながら、ハジメの耳に聞こえるのはぎゅるぎゅると何かが空回りする音だ。怒りが引きずり出した莫大な能力のツケが襲ってきている。オーバーヒートだ。

 

「困った子ね」

 

 

 その体が後ろに崩れる前に、背後から幽香が抱きとめていた。

 

「は、はは。今度の穴は、なかなか大きいだろ?」

 

 くすりと笑う幽香の顔が、なぜかこの瞬間はいつもよりずっとずっと魅力的で、身近なものに感じた。

 

「そうね。とっても素敵だったわ」

 

 息を落ち着けて、ハジメはよろめきながらも立ち上がった。まだ全てが終わったわけではない。幽香に肩を借りて歩みを進めていくと、そこには苦しげな呼吸を繰り返すだけとなった怪物の姿があった。

 

「さぁ、仕上げよ」

 

 さすがは妖怪。人体なら間違いなく即死する部分に風穴を開けられてなお、その体は生きようとあがいていた。

 ゆっくりと風穴がふさがりつつある胴体から、ハジメの指が怪物の頭へと向く。いかに強い生命力を誇ろうと、ここを吹き飛ばされて無事でいられるはずがない。

 

「なんだよ、お前」

 

 そいつは泣いていた。学ばない怪物はまたしてもハジメの情にすがろうとしていた。それが演技であることなど明白だ。だが。

 

「そう。分かったわ」

 

 ハジメの指先に残りカスのようにくすぶっていた炎が消えて、幽香は呆れて見せた。

 

「やっぱり俺にはムリっぽいわ」

「いいんじゃないの、そういうのも。ハジメの意思は尊重するわ」

 

 てっきりケチョンケチョンに責められることを覚悟していただけに、幽香の言葉は意外だった。彼女はスーツの上着を拾い上げると、内ポケットをごそごそとかき回す。

 

「でもあなたを野放しにするわけにはいかないのよねえ。困った困った、と」

 

 そうして取り出したものは楕円の種だ。縞模様の入ったそいつを見て、ハジメは首をかしげる。

 

「季節外れもいいところだ」

「冬に咲く姿も悪くないものよ、案外」

 

 屈託なく笑うと、幽香は乱暴に怪物の眼窩に指を突っ込んだ。絶叫が鼓膜をつんざく。鼻歌を奏でながら目ン玉をえぐり出していく幽香を見るに、ハジメは戦慄を隠せない。

 思う存分怪物を虐め抜くと、なぜか息を荒くした幽香がこれまた一片の優しさもなく種を奥深くに埋め込んだ。

 

「離れましょうか」

 

 ハジメのジャケットで青紫の血を拭って、幽香は焼けたままの手でハジメの手を引いた。二人の背後ですっかり怯え切った怪物が静かに立ち上がる。

 

「逃げていいわよ、できるものなら」

 

 打って変わって優しく笑う幽香。プライドも意地も粉々に砕かれた怪物は泣き声とも笑い声ともつかぬ叫びを上げて走り去っていく。その姿が、唐突に爆裂した。

 穴という穴から飛び出したものは瑞々しい新芽だ。怪物の並外れた生命力が、意識を失うことすら許さない。豊富な養分を糧にすくすくと成長していく巨大な植物に怪物の姿が飲まれた頃、巨大な花弁が一斉に花開く。

 怪物は死ねない。ほぼ無尽蔵の栄養源を、みすみす手放すほど植物の世界は甘くない。咲き誇る巨大ひまわりの中からは、未だにくぐもった叫び声が響いていた。

 

「産子這う子に至るまで」

 

 思わず聞き覚えのあるフレーズをハジメが呟くと、くすぐったそうに幽香は身をよじる。

 

「御覧じろ、ってね」

 

 ◆◆◆

 

 どうにかこうにか家に帰った頃には日付を跨ぎかけていた。

 ハジメの力、怪物、路地裏。考えるべきことは山積みだったが、それよりも先にいつもの鶴見家を取り繕わなければいけなかった。

 

「やるわよ」

「よしきた」

 

 粘液まみれの千晃を幽香がどうにかする間にハジメは玄関先にぶちまけられた粘液を洗い流す。服もスーツも汚れたものはさっさと処分して疲れきったハジメが食卓についたころには、手際よいものできちんと夕食が湯気を立てている。

 

「ごめんなさい、今日は簡単で」

 

 といっても温め直した朝食だったりする。

 さすがの幽香もいくぶん疲れたようで、額に浮いた汗を拭ってみせた。

 

「お前!」

 

 唐突に椅子を跳ね飛ばしてハジメが詰め寄る間、幽香は目を白黒とさせていた。恐る恐る彼が手を取った段になって、幽香はようやくその行動の意味を知る。

 

「あぁ、これ」

 

 こともなげに言う彼女の手は手当もされないままだった。いつもハジメの治療に使われてばかりの薬箱を青年が引き出すのを止めようとして、幽香はふっと笑った。

 

「まったくよね。私をキズモノにした責任、とってもらおうかしら」

「冗談言ってる場合かよっ」

 

 不器用に治療しようとして、ハジメはふと手を止めた。手のひらに空いていたはずの大穴はいつの間にかふさがっている。むき出しの肉も、引き裂かれた肌も、記憶にあるよりずっとマシだ。

 

「手を取って、そのまま? よければ踊る?」

「わ、悪い」

 

 修羅場で見れば何もかも一回りはひどく見えたはず。そう片付けてハジメが包帯を巻き終えた頃に、ようやく千晃が起き出してきた。

 

「おっはよー」

 

 慌てて席に着いたハジメにも、出しっぱなしの薬箱にも気づかぬ様子で彼女はリビングを横切ると、椅子を引きずって幽香の隣に座る。自分の髪に差された一輪の花にも気づいてはいないようだ。

 

『悪いことは全て忘れさせてくれるわ』

 

 名前は忘れた。ただ、幽香の語った効果は間違いなく発揮されている。千晃がこれ以上外を恐れるようになったところでいいことはない。すべてを一夜の悪夢と片付けられるなら、それに越したことはないのである。

 

「あにき」

 

 そんなことは露知らず、意地悪に笑った千晃はさっそく命の恩人に喧嘩をふっかけてくる。

 

「今日のおねえちゃんのご飯も、おいしいよね」

 

 隣で幽香が顔を曇らせた。彼女が後悔の面持ちで見つめるのは、今日の朝食である。どうして普段は傍若無人な彼女がそんな顔をするのか、ハジメには分からない。だが、そこにはなにか大きな意味があるように思えてならない。

 そんな幽香と目の前の味噌汁とを交互に見つめて、ハジメはおもむろに箸をとった。

 温め直したものではあるが、それは。

 

「あぁ」

 

 冷え切った体も、怒りに縮れた心も。

 

「悪くないな」

「へ」

 

 ことりと空になった椀が置かれる傍ら、小さく声を漏らしたのは幽香である。予想外の反応に呆気にとられる千晃の隣でわずかに頬を染めて、強ばった表情が花開くような笑みにとって変わられる。

 

「よかった」

「ちょ、ちょまっ、えええええええっ!?」

 

 

 食卓をつんざくのは、半ば悲鳴と化した千晃の大声だ。

 

「千晃、はしたないわよ」

「だだだだって。あにき褒めてないし! あんな言葉で納得しちゃっていいのちょっといい雰囲気醸し出しちゃっていいの!?」

「いいわ」

「いいんだ!?」

 

 千晃が騒いでいると、残業で疲れきった様子の父が帰ってくる。それでもソファにカバンを投げ出すと、食卓を取り巻く一同の様子を見て表情を明るくする。

 

「なんだなんだ、おれも混ぜてくれよ」

「き、聞いてよ。お姉ちゃんがあにきに篭絡されて」

 

 そうしていつもどおり騒がしい夕食を済ませていると、疲れも、辛い出来事も、綺麗さっぱり忘れてしまうのだった。

 

 

 

 第四話『右巻きの迷宮』おわり

 

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