海の触角 人の心   作:ポピュラー

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第二話

 ああ、体が重い――――。

 おそらく真っ当に生きていれば一生で最もたくさん聞くクラシック音楽、学校のチャイムで、山本憲太郎はようやく目を覚ました。

 

 体を預けていた無機物の机が、人肌の温度を持っていたことから、長い時間を眠っていたんだな、と寝ぼけた頭で理解し、周囲を見渡して、クラスメイトたちが帰り支度をしているのを見て、またやってしまったと頭を掻いた。

 

 となりの席に座っていた友人の佐藤圭介(けいすけ)が、カバンに入れる荷物もそこそこに、頭を上げた憲太郎を見つけて「やっと起きたか、ねぼ助」と声をかける。目の前で苦笑したように頬をひきつらせた笑顔を浮かべる、どんな事も気兼ねなく軽口を言い合える友人。だが、寝起きで満足に回らない頭では、言い返す言葉も出て来ない。ああ、まただ……何回も繰り返したやりとりをして、んっと引き延ばした。何時間もおなじ姿勢でいたせいで凝り固まった体の節々が、パキパキと音を出した。

 

「すっげえ寝てたな。つついたけど全然起きねーし」

「そう? 全然気づかなかった」

「あんまり居眠りすんなよ。俺たちには内申点なんて関係ないけど、教師(アイツ)らに睨まれたら面倒だし」

 

 ささいな事であれ、自分の身を心配して忠告してくれる圭介の言葉をうれしく思う反面、どうしようもないじゃないか、という変な言い訳がついて出て来る。つまらない授業になると、とたんに鎌首をもたげて襲い掛かってくる睡魔は、成長期を迎えてすぐの少年が抵抗してみせても、あっさりと破って心に喰らいついてきてしまう。気の持ちようでなんとかなるなら耐えてみせる自信があるが、学校に来ると、なぜか体が重たくなって言う事を聞かないのだ。結果、いつも授業中に眠ってしまうのだった。

 

 顔を洗うからと圭介を先に帰して、教室からすこし離れたところにあるトイレへ向かう。蛇口をひねれば透明で冷たい、ちょっとカルキ臭い水が出て、それを掌で受け止めると、いまだ寝ぼけた顔に向けて思い切りかけた。突然冷たくなった皮膚が感覚神経を通して、脳に働きかける。ようやく稼働をはじめた頭を持ち上げて、目の前の鏡に映る自身の姿を見た。

 

 こげ茶色の瞳に、東洋人特有の黄色く色みがかった肌。黒っぽい髪にはところどころ茶色の毛が混じって、柔らかくも癖があって、嫌いではないが好きにもなれない。いたって普通の日本人の、十五歳の男の顔。どこにでもいるような特徴のない、それでいて同年代から見て年下のような童顔を前にして、溜息だけが口から()いてでたが、容姿ばかりは生れついたものだから、どうしようもない。唯一、父親に似た眼だけは何とかしたいと思っていたが、それに悩むのも、鏡を見ているまでのことだった。

 

 よれよれになっていた学校の制服を正してから、廊下にでる。憲太郎たちが通っている通称“矢那中”……国立矢那農工中学校は、つい十年ほど昔に建てられた、比較的あたらしい部類にはいる学校だが、教師から教えられるのは、国語や数学といった一般教育とはほど遠い、農業や工業を専門にした、いわば手に職を持たせる専門校だった。それも本格的な内容で、学校を卒業すれば直ぐにでも即戦力になるようにと、厳しいカリキュラムが組まれていた。

 

 学校教育の改変は世界基盤が“深海棲艦”によって破壊された時までさかのぼる。それまで海や空で繋がっていた物流の糸が、人間を攻撃する深海棲艦の出現によって無残にも引きちぎられ、食糧自給率が年を経るごとに下落していた当時の日本には、食べる物が無かった。輸入が無くなったことで産業や工業は軒並み衰退し、じわじわとやせ細っていくのが当然だった。これに対して政府は、学校などの教育機関で農業や工業の授業を推奨することによって、下がっていた自給率を引き上げようとしたが、当然そう簡単にはいかなかった。政策方針が決まった時には、すでに農家の数は激減していて、ただでさえ不況な経済が、ほかに収入源を持たなかった彼らを苦しめ、土地を手放したりもしていた。数年前にようやく回復したのは、奇跡かもしれない。新しく建ったこの学校も、その政策の流れをくんでいた。

 

 内申点なんて関係ない……まったくその通りだと、憲太郎は苦い気持ちで同意した。矢那中は勉強がまったく出来ない人間でも、書類審査さえ通れば入試で名前だけ書いて提出……なんて事になっても入学できる。そのかわり、進学することが非常に難しい――――それが悪名高い矢那中の特色だった。それもそうだろう、自分たちを喰わせてくれる米櫃(こめびつ)を一つでも増やしてくれればそれでいい。使い勝手のいい労働者候補を、なんでわざわざ勉学の道に進ませるのか――――。

 

 トイレから出ると廊下を伝って階段を下りていき、校庭から校舎の横を通り抜けた先に、駐輪場がある。生徒や学校関係者なんかは皆ここを使うため、登下校時は生徒がごったがえしているのだが、憲太郎が辿り着いたときには誰もいなかった。さみしくなった駐輪場から自分の自転車を引っ張り出して、片足スタンドを蹴り上げてサドルに飛び乗る。憲太郎はそのままハンドルを握ると、足に力を入れてペダルを強く踏み込む。

 

「遅いよ、ケンタロー」

 

 校門を抜けたところで、右肩になにかが乗っかったような重みが加わる。カタコトした喋り方や重さなんかはセキセイインコみたいな小鳥を思い浮かべるが、憲太郎の肩に乗るのは、あいにくとそんなに可愛げがある()ではない。鳥なんかよりも軽く、それでいて“そこにいる”という気配を知覚し、呼ばれた憲太郎は横目で右の肩口を見た。

 

 饅頭ほどの大きさの頭に、その頭と同じくらいの長さしかない細い体を持った二頭身。姿は人間のようでいて、でも掌に乗るぐらい小さい生き物。生物学的にも未だ分類されてない、一般的には“妖精”と呼ばれる存在が、憲太郎の肩に乗っかって、無邪気な笑顔を浮かべていた。「ごめん、顔を洗ってたんだ」と言うと「また寝たの?」という呆れたような声が耳元でコソコソとくすぐる。

 

 妖精、というのは二十年ほど昔、深海棲艦の出現と同時期に見つかった新種族で、人間との意思疎通はなかなか難しいとされているのが、比較的友好な関係を築くことは可能とされている。妖精の言葉を人間が理解することは至難とされているが、妖精が人間の言葉を理解できるというのが一般的なので、対話は必然、人間が話しかけ、妖精がジェスチャーで示すのが普通だ。しかし憲太郎にとってそれは常識なんかではなく、こうして肩にのる妖精ティンクと言葉を交わすのが普通になっていた。

 

 ティンク、という名前は憲太郎が勝手につけた名前だ。海が平和だったころ人気になった、とある戯曲に出てくる妖精の愛称だが、出会って以降はずっとティンクと呼んでいる。ティンク自身もそう呼ばれることを気に入ってるらしく、妖精仲間に自慢げに話す姿がほほえましかった。

 

 夕方の天気は曇り空の様相を見せている。憲太郎はペダルを踏む力を強くし、頭上に広がる空を振り仰いだ。灰色の分厚い雲がひしめきあうのを見て、近く雨が降るな、と直感を働かせる。花冷えもようやく過ぎて暖気が流れ込んでくる季節になると、多少なりとも天気は荒れる。とくにこの時期はひどい雨がよく降る。松尾芭蕉という歴史上の人物が俳句で読んだ通り、巨大な川すら増水させる五月雨が来るのは明白だった。

 

 朝の時点では五月晴れといった、吹き抜ける風が気持ちいい天気だったのに。困ったな、と内心で呟いて、逸る体を無意識に感じ取った。土砂降りの雨は、傘や雨合羽を持っていない憲太郎にはつらいものがあるし、この時期に風邪を引けば治りが遅いのも分かっている。風邪薬も満足にない世の中では、風邪だろうと治すのは一苦労だというのに。

 

 家に帰りたいという願望が心の中で大きくなり、アスファルトで舗装された道から外れて、砂利の小道に入っていく。この道をまっすぐ進めば信号機も車もない、近道にはうってつけの海沿いの土手に出る。多少街から離れるが、そのぶん止まることがないので全力でペダルを踏めばむしろ早く着く。人や車、信号などで溢れかえっている街の道より、何の障害も無い土手道は、近道をするのにかえって都合がいい。

 

 そのまま自転車は海を臨める道を通り過ぎて、住宅街を抜けると、一軒の家の前で停止した。憲太郎はその家の庭に自転車を乗り捨て、いつも通り扉を引き開けた。ほとんど人が居らず、陽が落ちかけて更に薄暗さを増した玄関口は憲太郎を受け入れると再び薄暗い静けさを取り戻した。

 

 憲太郎の家は、海の近くにある軍の湾岸施設の近くに造られた街の中にある。国の管轄のもと、物資の流通を滞りなく行えるよう計画されたのが元で造られた、軍のための街であり、約二十万人の人口のうち、実に八割以上が軍の関係者で占められている。残りの二割も政府の役人がほとんどで、そういった事に一切関係していない人間は、この街では希少と言える。働いている人が軍人であれば、街中を練り歩くのも軍人ばかりで、それが普通となっているのがこの街。まさに軍のために造られた街だった。

 

 昨今、深海棲艦と渾名(あだな)された敵との戦いが激しくなり、日本の未来を守らんとする軍人たちの気合いも高まってきただけあって、軍需物資が毎日のように大型トラックに載せられて軍施設へと届けられている。憲太郎は、そんなわけでわずかに揺れる家の中で服を脱ぎ捨てて、広間に置かれているソファへ寝ころんだ。

 

 この街全体が軍の基地のような役割を果たしているから、人は深夜になっても絶えずにいるのだが、この時間帯になればそれが顕著に表れる。行き交う車や自転車は、出退勤する人たちなのだろう。こういう光景だけは昔から変わらない――――ふいに言葉が頭を過ぎ去る。十年も昔、父親がこの風景を見て、初めて呟いたのがその一言だった。その一瞬のうちに紡がれた一言を、憲太郎は何故か克明に覚えていた。全てが変わったと言われ、悲観されている。そんな世界にも、変わらず残り続けるものがある事を知った新鮮さが、脳にその言葉を刻み付けたのか――――。

 

 当てのない事に頭を回して、答えの出ない問題と、それを導き出せない、出来の悪い己の頭に苛立ちを覚えて思考を終わらせようとした憲太郎は、「早いな。もう帰って来ていたのか」と飛び込んできた第三者の声に驚いて振り返った。

 

 廊下と広間を隔てる壁にある戸口に、ひとりの男が立っていた。ソファに寝ころぶ憲太郎を見止めると、男は悠然と広間に足を踏み入れる。白熱電球の温かみのある光が全身を照らし、その存在を鮮明に浮かび上がらせ、犀利(さいり)な視線を憲太郎に向けているのを見て、わずかに体を硬直させた。

 髪に白い物が混じりるその姿は一見してくたびれた様な印象を他者に与えるが、それを一瞬で掻き消すほどの気配を滲ませている。精悍な体躯を堂々と伸ばして、先ほど鏡で見た、自分とそっくりな眼をした、政治家という生き物を体現した人間――――。

 

「久しぶりだな、憲太郎」

 

 振り返った憲太郎たちに向かい合う形で、男――――憲太郎の父、山本義淵(よしふち)がそこにいた。

 

「……久しぶり。お帰り、父さん」

 

 憲太郎にとって、常に仕事に追われている父の顔を見るのは久しぶりのことだった。母が五年前に亡くなってからは二人暮らしの生活だが、政治という世界に仕事を持つ、いわば官僚とも呼ばれる義淵は、その立場からして大勢の人間から頼られている。憲太郎が母の腹から生まれ出るよりも昔から類稀なる手腕を発揮して国を回し続ける彼は、家に帰ることも稀だ。突然帰って来たのも束の間、二時間後には既に仕事に出かけていて、三週間以上帰ってこない。身内であろうと情に(ほだ)されない厳格な人格が成せる(さが)だった。常に冷徹な眼差しで物事を客観視し、仕事の邪魔になれば容赦なく踏みつぶそうとする。昔と変わらぬ父親の姿は、例えその子供である憲太郎であっても恐怖の象徴だった。

 

「夕飯だ。朝のパン一枚以外、口に出来る暇も無かったのでな」

 

 熱をいっさい感じさせない声で側にいた付き人に指示を出し、義淵は着ていたスーツの上着を脱いだ。そのまま慣れた手つきでスーツをクローゼットに仕舞うと、再び鋭敏な眼を向けて憲太郎の前に立つ。その眼に憲太郎は苛立ちを覚えた。人を無意識に威圧し、怯えさせる。なまじお互いの眼が似ているから、自分も同じような眼を友人たちに向けているのかもしれない、という嫌悪感もある。とにかく、憲太郎は義淵のその眼が嫌いだった。

 そのまま二人で静かな夕食を迎え、食べ終わるとすかさず広間から出ようと立ち上がる。「待ちなさい」という声に憲太郎が足を止めたのは、その直後だった。

 

「憲太郎、学校はどうだ」

 

 瞬間、義淵の問う声が耳をつんざき、憲太郎は体をぴくりと硬直させた。

 

「別に……」

「成績は? テストはちゃんと出来たんだろうな? 何か分からない所があるなら聞きなさい。知らないまま社会にでれば体面が――――」

 

 布を咀嚼するような不快感に顔を歪め、顔を伏せる。そんな憲太郎の気持ちを無視して、義淵は続けて言葉を発した。

 

 まただ。学校の成績とか、社会の常識とか。そんな言葉をかけて欲しい訳じゃないのに。大学を主席で卒業し、どんな事でも熟してみせた父親と違い、矢那中に通っている時点で息子の無能さぐらい知ってるだろうに。憤懣に体を突き動かされ、「どうでもいいだろ!?」と強い語気が口から発し、そのまま勢いで家を飛びだし、雨が降る外に駆けていった。

 

 肩でティンクが「風邪ひくよケンタロー!」と話しかけるのも無視して、ひたすら走る。どこまで俺をみじめにさせれば気が済むのか。憲太郎だって分かっているつもりだった。親と違い、何も持って生まれなかった凡人で、義淵たち大人が求めていたものを何一つする事が出来なかった。父さんと比べて、俺は……。

 広間を出るまで背中に突き刺さっていた視線はもうない。憤りとも辛いとも取れる感情は、いつしか目尻に溜まり、降りつける雨と共に顔を濡らす。その感情を理解し飲み込むには、憲太郎の心は未熟すぎた。

 

 

 

 

 

 船室の扉を叩かれる音で、目が覚めた。

 両腕で体を抱いて蹲っていたまま、いつの間にか眠り込んでしまったらしく、五月雨は目頭を擦りながら覚醒した。

 汗でぐっしょり濡れた服が肌に張り付く感覚、狭い部屋、小さな丸い窓から見える灰色の雲を眠気眼で見て、ここはどこだったたか、眠る前はどういう状況だったかといった記憶の断片が、上手く働かない頭を刺激し始める。緊張の糸が途切れた後に、そのまま寝そべっている我が身に思い至った五月雨は、ゆっくり体を持ち上げた。

 眠ってしまっていたのだ。初めて捉えた感情に驚かされて、それが思っていた以上に負担になっていたらしい。心なしか重たくなったかのような体を起こした時、船室の扉が音を立てて開かれた。

 

「五月雨ちゃん? 大丈夫かしら」

 

 美しい黒髪の毛先を遊ばせる扶桑が、心配そうに顔を覗かせた。その表情はここに来る前にいた施設の人間と違って本当に心配してくれていると分かる顔だったが、何故か体の奥に生まれた不快感が、気にかける余裕を持たせなかった。「はい……大丈夫だと思います」とだけ返して、五月雨は慎重に床に降り立つ。気怠さと気持ち悪さにふらつきながらも、板張りの床にしっかり足を着けた。

 

 その様子を見ていた扶桑の眼がふっと和らぎ、「あらあら、船酔いしちゃったかしら」と慈しむような声が五月雨の耳朶に触れた。まるで子供扱いの様な視線と言葉だったが、事実扶桑と比べれば子供のように見えるのは間違いない。どう返せばいいか分からず、苦笑いが浮かんだ。

 

「きっと疲れてしまったのね。初めての戦場だったもの」

 

 歩き出した扶桑の後を追って、一歩二歩と足を踏み出す。船の大きさの割に狭い廊下に、二人分の足跡が木霊した。途中、窓から見えた外の世界は空も海も相変わらずの様相だが、海岸をコンクリートで埋め立てて造られた港の方では、大勢の人間が(せわ)しなく動き回っていた。初めて見る人間の数に瞠目するも、通り越して見えなくなった途端に興味を無くしてしまっていた。

 

 疲れたのだろうか。先ほど扶桑が言った言葉がふいに気になって、五月雨は眠る前の自分を思い起こす。小さな部屋で、震えながら蹲る自分の姿……。目の前にいる扶桑と違い、一度も戦うことも、動き回る事も無かった。目を閉じて起き上がれば、全てが終わっていたはずだ。なのに――――。

 

(オノレ、人間メ……!)

 

 そう、確かこんな声がしたはずだ、と思う。あの時飛び交っていた無線とは異なる、はっきりとした声。人が隣で話していたようだったが、聞こえた、とは違う。何かが自分の中に溶けて混じっていくような、そんな感覚だった。あのような感覚を五月雨は教わった事がないから、あれが一体どういうものなのかを知らない。あの声の主は一体誰で、どうして五月雨にその声が聞こえてきたのだろうか……。

 

 考えるほど、なぜか余計に気になり、意識はそちらへ傾いていった。それはまるで自然とそうなる様に誘導されているようで――――私はそれを知らなければならないと、重要な使命を帯びた様に感じている。何故か分からないが、それが自分にとってとても大切な事なのだという理屈を超えた確信が、五月雨の中に生まれていた。

 

 その瞬間、五月雨の感覚がはっきりと切り替わり、それまで暗かった世界に()()()()()()()()()()()()()()()感覚があったのだが、それを認識した時には全てが元に戻っていた。扶桑はそのまま歩いていき、外からは機械の駆動音が僅かに聞こえるだけで、変わった所は何もなかった。

 

 五月雨たちは船の可変階段に辿り着き、接舷された港へ降り立った。港には五月雨と同じく運ばれてきた荷物が積み重なって置かれており、それらを作業服姿の男たちが次々と運んでいく様を尻目に、先の方に見える赤レンガをふんだんに使った大きな建物――――鎮守府へと向かう。目に入る光景が全て、どこか彩りに欠けているように見えて、五月雨は知らず溜息を吐いた。来る者全てを威圧する軍人のような鎮守府の出で立ちも、何ら感じることはない。飛び込んでくる不思議な声に、世界が小さな光に満ちていく光景。幻聴、幻覚と一言で切って捨てれるそれらが何故か五月雨の心を満たし、胸の奥が一つ大きな脈を打った。

 その時、少年の泣く声が届いた気がした。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 その少年――憲太郎は、スーパーマーケットのような商業施設が多い街の中核を走り抜け、家からずっと離れた人気(ひとけ)の無い区画、海辺のすぐ側に向かった。

 

 街から少し離れた場所にあるこの海辺は、ゴミの一片すら流れていない綺麗な海を間近に臨めるが、沿うように張り巡らされたフェンスによって外からの出入りを拒絶している。それは軍事基地と同様、一般人が入る事が出来ない区画と決められているからだ。

 

 およそ三十万km、日本の外周を囲い込む様に巡らされたフェンスの壁は、まるで人間が外界との関係を断ち切った象徴のようで、さながら数百年もの昔にしたという鎖国を思い起こさせる。その目的は“力”を持たない一般市民が海に接触出来なくする事であり、人間が比較的生存できるか、そうでないかの境目だ。この壁を乗り越えた先は、人間が襲われる可能性が飛躍的に高まる場所であるという海岸に辿り着ける。しかし日本中をフェンスで囲んだものの、全ての箇所を監視出来る訳はなく、重要な場所以外は軍の部隊が定期的にパトロールに赴くぐらいで、それに被りさえしなければフェンスを越えていくのは簡単だが、見つかれば当然厳しい罰が科せられる。

 

 そのフェンスの側に駆け寄った憲太郎は、慣れた風に飛び付くと、一思いに向こう側へ体を投げ入れる。軽やかに着地すると一転、すぐさま海辺に向かって走り抜けた。

 

 人の手が加えられなくなって久しいアスファルトの地面を、人目を気にせずさっと駆け抜ければ、飛び込んでくるのは細やかな砂粒で出来た浜と、どこまでも続く海だった。

 

 何も隠す必要もなく、憲太郎のあるがままを静かに受け止めてくれる海。心の中で堪え切れないことがあった時、全てを受け入れてくれるのはいつだって海だった。どんな辛いことや嫌なことがあっても、濁りきった心の内を波の音が洗い流し、潮風が澱んだ雰囲気を吹き飛ばしてくれる。静かでいて雄大な、漠然とした何かを秘めた海のことが、どうしようもなく好きだった。気が付けば、いつものように海へ向かって、腹の底から叫んでいた。

 日常のこと、学校のこと、父のこと……堰切れそうだった感情をさらけ出し、ありったけの感情を流し出していく。海はそれに答えてくれないが、そんな事はどうでも良かった。ただ、自分の叫びを受け止めて欲しくて、こうして甘えてしまうのだ。

 

 義淵は仕事でほとんど姿を見せず、母は死に、いつも傍にいたのはティンクぐらいで、甘えられる人なんていなかった。常に着いて回ってくるのは義淵の名前と肩書であり、その血を引いているのだからという理由だけで、勝手に期待され、この体を重たくする。

 

 義淵()とは違う。持って生まれた才能を余さず取り込み、天才の名を欲しいままにした訳ではない。出来ることなら良い学校に入りたいし、大勢の人間から“頼られる”存在になるというのも悪い気はしないが、そういう考えが浮かぶといつも“何かが違う”と、胸の奥で変なものが疼いて萎えてしまう。きっと、やる気がないことへの言い訳で、自分にはそういった才能というものが無いのだろう。勉強に身を尽くして努力しようとすると、決まって重たくなるこの体は、自分にそれを知らせているのではないのか?

 

 そう考えるほど、一体何が出来るのだろうという疑問が湧いてきて、憲太郎は輪を回ることしかしない思考に囚われ、その情けない行動に苦笑した。多くの事をやってみて、その全てが駄目だったというのに、これ以上、一体何に悩めというのだろう。何も出来ない、役立たずの男というのが、憲太郎という人間の答えじゃないのか……。

 

「君、なの……?」

 

 不意に声が掛けられ、憲太郎は振り返った。

 

 見つかってしまったのか、という驚愕が沈んでいた意思を持ち上げ、頭の中で危機を感じた。も、それらは声を掛けてきた人物を見るまでだった。背後にいた少女(・・)を見ると、はっと息を呑んで固まってしまった。少女を見る自分の目が、こちらを窺う少女の目と合わさる。それは曇りのない空色の瞳だった。心の中まで染み込んでくるような、青い空が広がる色。青空のような色。海を綺麗に染め上げる、空の色だった。

 

 見つめる目をそよとも動かす事も出来ず、失礼だ、と気付いた時にはかなりの時間が経っていた。

 

「え、あ……なに?」

 

 咄嗟に開いた口からは情けない声が漏れて、それを押し隠すように、少し荒っぽい口調の言葉が出た。直後、恥ずかしい、という感情が頭の中を駆け巡って僅かに顔を逸らした。変な間が空いてしまった原因――――まさか見惚れてしまっていたなんて。しかも、初めて会った少女に。かぁっと顔が熱くなるのを感じて、それも隠すようにして俯きながら、少女に向き直った。

 

 目の前にいる彼女は、それでも憲太郎に向ける視線を変えることなく、そこに佇んでいた。光が分厚い雲に遮られ薄暗くなった今も、晴れているかのようにハッキリと見える――――。胸の鼓動が速くなる感覚を肌で感じながら、憲太郎は少女の姿を初めて見た。自分よりも年下の、ともすれば小学生にも見える、幼さの残る少女だった。足元まで届くだろう長い髪は瞳と同じ空色で、日本人離れした白い肌は一目見て分かるほど瑞々しい。阿嬌(あきょう)、という言葉がふと浮かんだ。

 少女は少しだけ悩んだ顔を見せると、「いえ、やっぱりなんでもないです」と言って、照れたようにはにかんだ。

 その顔に、もう一度だけ目を奪われた。

 

 

 

 

 

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