海の触角 人の心   作:ポピュラー

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艦これ改も楽しみですね(レイプ目)


第三話

 

「……ええ、分かりました。その件については後ほど。ん? ……ああ、ウチから派遣した教官役の人員に草鹿が入ってないのが不満、ですか。ご安心を、艦娘の運用に関しては彼らも草鹿に引けを取りませんから。新人たちの教育には十分でしょう。それでは、また」

 

 そう言い終えて受話器を置いた男の顔は、(しわ)がうっすらと目立ち始めた中年のものだった。黒い中に少しだけ白い物が混じる髪を短く整え、支給された常装をキッチリと着こなしている。口角の両端を上げて静かな笑みを浮かべているが、どこか人を見下しているかのような傲慢さがありありと現れている。

 

 そのくせ、反抗されるという事はほとんどない。大多数の人はそんな笑みを向けられれば怒りの一つでも込み上げてくるだろうが、男の姿を見てしまえばそんな気も失せてしまう。雰囲気のせいだ。一軍人の中年男性という見た目とは真逆に、抜身の刀身のような気配。逆らおうと思わせない、超人間的な指導者が持つカリスマが、男に超然とした雰囲気を与えていた。

 

「佐世保の連中は余程、お前が欲しいらしい。ご苦労なことだ。わざわざ新人教育のために……なんていう理由まで付けて、な」

 

 そう言うと、大橋(おおはし) 篤志(あつし)横須賀鎮守府総督は反応を窺うように視線を向けた。口元に浮かんだ笑みが変わることがなく、先よりも哀れみと嘲笑をより深めている。それは電話をしてきた相手ともども、何かと理由をつけて、自分達の領分に口出ししてくる相手に向けられている。滲み出る不快感を隠そうともせず、「そうは思わないか、草鹿」と続けた篤志の声は、友人へ向ける気安さが含まれていても、ひどく冷たかった。くすりと微かに揺らした空気を返事にして、草鹿(くさか) (はじめ)大佐は持っていた紅茶のカップを置いた。

 

 汚れ一つ見当たらない白い二種軍衣に、同じく白い靴。そして左手の薬指にはイルカの指輪(ドルフィンリング)が嵌められている。篤志のようにきっちりと着こなし、眼光に鮮麗な光を灯した一は、篤志よりも若い青年だった。にも関わらず、篤志の鋭い視線に晒されても臆するどころか苦笑を浮かべる様は、同年代よりも遥かに強靭な精神を持っている事を黙示している。身に染みついた歴戦の風格を無言で示し、羨望や憧憬、嫉妬を一身で受け止めるその姿は、人類の希望を背負うに相応しい“提督”のそれだった。

 

 大抵が艦娘を兵器と割り切り、消耗品として消費し、“必要な犠牲だった”と(うそぶ)いて勝利を掠め取ってくるのが昨今の軍の常とはいえ、一の場合はそれらの気風に逆らい、艦娘の生還を基本に艦隊を運用している。しかし鎮守府近海、西南諸島といったシーレーン解放は勿論のこと、敵艦隊前線泊地を襲撃してこれを陥落。南方海域開放作戦においては味方が多くの犠牲を出して撤退していく中、一率いる艦隊が単独で鉄底海峡を突破し、果てはそのままサーモン海域最深部で敵本隊と交戦、これに勝利している。そのせいで駆逐艦が一隻沈んでしまったが、ほぼ損失がない大勝利と言ってもいい。

 

「それだけ僕と艦娘たちが信頼されている、と喜べばいいんですかね?」

 

 椅子に座った佇まいを崩さず、困ったような笑みを浮かべている。艦娘という兵器が現れてから二十年、黎明期から戦い続け、挙げてきた功績や人類の希望――そのどちらの重さも背に乗せて、ますます強かになった男の顔だった。

 そんな一の言葉を鼻で笑い、細くなった篤志の視線に険が宿る。

 

「フッ 冗談だと笑われるのがオチだろうがな」

 

 冷笑を含んだ声に、一は視線を動かして、執務室の椅子に座る篤志を見た。歳は違えど同じ年数を、等しく戦い続けてから早二十年。半死半生の境遇に身を置いた軍人にしては長すぎる人生の中で、共に見てきた事は語り尽せないほど多い。

 

 日本国――を含めた人類は――二十年以上も前から深海棲艦と戦っている状態にある。最初の方は人間の抵抗が許されないほどだった。ミサイルや強力な機銃、戦闘機を搭載した軍艦が、それらに乗り込んだ人間の棺桶になるなんて、当時の彼らには想像も出来なかったのだろう。ともかく人類は敗北を重ねて行き、国家消滅の手前まで追い詰められたことは確かだった。

 

 悲観や失望の声が至る所で起き、終末論すら(まこと)しやかに囁かれる毎日。軍服を着た人間は一人として例外なく後ろ指をさされた。もちろん、給料泥棒、などという優しい言葉は掛けられる事は無い。無言のまま、非難の視線をじっと向けてくるだけだ。いっそ喧しく感じる無言の圧力は、それだけで精強な体を持った軍人たちの心をたやすくへし折った。

 

 勝てないと分かっている相手に挑まなければいけない責務に、守るべき対象から贈られる嫌厭の目。その二つに挟まれれば、まともな神経の持ち主はたちまち発狂してしまうだろう。

 

 当時の自分なら、その二つに挟まれて正気でいられる気がしない、と一は思う。畢竟、運が良かったのだ。心身共に脆弱な子供でしかなかった十歳の子供が、軍服を着て誇れるようになったのは、そんな子供に全てを託し、身を挺して守ってくれた大人たちの姿があるからだ。言葉は無くとも一に背中を向け、代わりにあらゆる害意を真正面から守り抜いてくれた彼らを知っているなら、なおさら――。

 

「そんなことより、だ。一、お前を呼んだのは他でもない」

 

 一枚の紙を取り出した篤志に、僅かに怪訝な表情を返した一は、差し出された紙を受け取った。わずかな空白を経た後、「そこに書かれてあることをどう思う?」と口にした篤志の言葉を聞いて、内心に危機感を覚えた。

 

「これは、いつ届きました?」

「二十分ほど前だ。もっとも、そこに書かれてある事態は既に十時間前という話だが、さて」

 

 内容は、発見した深海棲艦の集団をトラック泊地が、全戦力を持って追撃し、二度も敗北して戦力の三十パーセントを損失したこと。そして、その深海棲艦の船団が、日本本土に向かっていたというものだった。

 

 顔をしかめている一を注視しつつ、篤志はさらりと返した。思った通りであったことに落胆して、一は「なんでそんなに情報が遅れたんです」と、あえて聞いてみた。

 

「おおかた、失敗をもみ消そうとして、さらに失敗を重ねてしまったと言った所か。トラック泊地の連中、今頃顔を真っ青にして言い訳を考えてるに違いない」

 

 辛辣な言葉も容赦が一切ないのは、一と同じ考えに至ったからなのだろう。冷笑をたたえた瞳が言い切ると、ニヤリと笑った唇が「もうすぐ、ここに敵の奇襲があるはずだ」と付け加えて、一に答えを促した。受け取った紙に記されていた内容に内心で頭を抱え、ただでさえ暗くなってきた空をより一層深くするのが、一には感じられた。

 

「それにしても、酷過ぎはしませんか? 今になってこんな報告を送ってくるなんて……」

 

 書いてある内容を見た時にはまさかと思ったが、正式な報告書である以上、認めない訳にはいかなかった。トラック泊地付近に現れた多数の深海棲艦の船団を発見し、追撃するも敗北。これだけなら、まだ分かる。理解出来ないのは、一度目の敗北を隠そうとし、疲れ果てている艦娘たちをもう一度出撃させたことだ。

 

 戦時の軍というのは、良くも悪くも実力主義の社会だ。最近になって出来た前線基地であるが、それだけに誇れるような実績もない。そういった焦りが、トラック泊地の将校に手柄を求めさせてしまったのだろうか。「ああ、まったくだ」と答えた篤志は、帽子を手に取りつつ一に頷いた。

 

「ともかく、私と一の考えが近い、というのは良かった。ということは、近いうちに私達の警戒網に引っ掛かるだろう」

「僕の艦隊も出撃させますか? 第一、第二艦隊はいつでも行けます」

「頼む。今日来た艦娘を輸送した貨物船も、途中で襲撃されたらしい……と、それはお前の方が詳しいか」

「はい。護衛に当たった扶桑は、僕の所属ですから」

 

 篤志の視線を受け止めて、一は答えた。鋭い瞳に見据えられても臆することはなく、この男なら大丈夫だろうと思わせる“何か”を篤志に直感させた。

 

 これを感じられただけでも一を呼び寄せた価値はあると、篤志は思った。

 

「私も街の方に避難準備を勧める注意を呼び掛けておこう。海上警備については――」

 

 唐突に発した警報の音色が、その先の言葉を掻き消した。

 

 館内に据え付けられた全てのスピーカーが一斉に、頭蓋を貫くような大音響を奏で始め、一たちは咄嗟に顔を強張らせた。外で歩哨についていた兵士たちも慌てて武器を構えて、あらかじめ決められていた守備位置へと向かっていく。篤志の部屋を電話の着信音が満たし、この警報の中でも聞こえてくる慌ただしい足音の群れが、事態が急であることを知らせる。「速いな」と舌打ち交じりに苦々しく吐き捨てた篤志を尻目に、一は自身の艦娘たちに指示を出そうと、胸ポケットに忍ばせていた緊急用の通信機を取り出した。

 

 瞬間、低い音が差し込み、空気が張り裂けられたような炸裂音を周囲に響き渡らせた。

 

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

「私は……五月雨っていいます」

 

 間を置かず、五月雨は腰を下ろす。初めて会ったばかりで、どういった返事をすればいいか見当もつかない憲太郎は「五月雨……?」と戸惑った声を返した。五月雨は何も答えず、立てた両足の膝を抱え込んだまま、目の前の海を見ていた。

 

 仄暗い空に映し出され、なお曇ることのない海のような少女――――。ろくに頭が働かないまま、憲太郎は初めて会った少女の言葉を反芻した。

 

 五月雨。人につけるような名前では無かったが、良い名前だなと憲太郎は思った。今もわずかに体を濡らして火照った体を冷やす雨と同じ名前だった。

 

 義淵への憤りも忘れて、憲太郎は五月雨に何て声を掛けようか、と頭を悩ませているうちに、不自然な無言が続いていく。不意にティンクが二人の間に入って、「艦娘なんて初めて見た」と五月雨を見て言った。「艦娘?」と反応した憲太郎の声に五月雨が反応し、顔を憲太郎の方に向けた。

 

 目と目が合う。その瞬間、周囲の気温が一気に上がった気がした憲太郎は、「ティンクがそう言ってたんだ」と教えた。五月雨はそこで初めて憲太郎の肩に乗るティンクに気付いたようで、驚いた顔をして憲太郎を見返した。

 

「すごい。妖精の言葉が分かるんですね」

「ああ。皆は分からないらしいけど、俺たちはずっと一緒にいたから」

 

 口に出しながら今までの過去を思い起こす。

 

 広くて殺風景な部屋。冬でもないのに冷たかった、一等ひろいリビング。自分はそこにあるソファに腰かけている。ずっと黙ったまま、窓の外を見つめていた。義淵が帰ってきて、また直ぐに出て行った日の事だった。

 

 あの時も雨が降っていた。悲しいのを笑顔で隠そうとする母の顔を見る気にもなれず、じっとソファに座って窓に打ち付ける雨を見ていた。そこにふと何かの気配を感じ、窓に近づいた時に、そこにいたのを憲太郎が見つけたのだ。雨に濡れて、小さな軒下に隠れるように縮こまっていたティンクの姿を。

 

 それが何か、などと考える事もしなかった。寒さに凍えるティンクの姿を見て、僕と同じなんだ、という理解だけが頭の中を埋めていた。雨が吹き込んでくるのも構わず、窓を開けて手を差し伸べた。ティンクが掌に乗り、そこに冷たさと確かな存在感を感じさせ、しっかりと包み込んだ瞬間、それは日常の一部となって自分の中に入り込んで――――。

 

「もしかして、“提督”の方なんですか?」

 

 一瞬よりも短い、意識の乖離だった。咄嗟に反応するも、問われたことにどう返せばいいか分からず、憲太郎は答えに窮した。

 

「あ、まぁ……ちょっと違う、かな……」

 

 ちょっと父親に反抗して家を飛び出して……とは言えない。自分の弱さを五月雨に晒すのが恥ずかしいから、という事情もあるが、それだけではない。今いる海辺は進入禁止の場所で、憲太郎はそれを破ってここにいる。五月雨のような少女が軍の関係者かどうかは知らないが、ここにいる時点で彼女はそうであるような気がした。

 

 しどろもどろに答えるしかない自分を見て、五月雨は首をかしげていた。なんとかやり過ごせそうな雰囲気にほっとして、「それよりもさ」と憲太郎は押し包んだ。

 

「どうしてここに来たんだよ? ここ、何もないぜ」

「そうですね。でも、声が聞こえたから」

「声……?」

「はい。泣いているような男の子の声が聞こえたんです。だからここで会った時に、君なのかなって思って……」

 

 さらりと放たれた言葉に、顔が赤面していくのを憲太郎は自覚した。悪気のない五月雨が顔をよくよくと見つめてきて、羞恥を新たにした憲太郎は逃れるように視線を逸らした。

 

「聞こえてたのかよ……」

「はい……あっ、で、でも! 他の人には聞こえてなかったと思いますよ。誰も気づいてませんでしたからっ」

 

 慌てて取り繕うとする様は、相手にとって恥ずかしいことを赤裸々に告白していたと気付いたようだった。他の人に聞かれていない事に安心しつつ、「耳が良いんだね」と憲太郎は皮肉げに言うと、通じたのか五月雨は困ったように笑った。

 

「そう、ですね。そうかもしれません。でも、他の人には誰も聞こえてないから、あまり理解されなくて……」

 

 静かに波打つ海に視線を戻し、寂しそうに呟く。その横顔を覗き見て、彼女も同じなのかもしれない、という考えに至った憲太郎は、「じゃあ、俺たち……似たもの同士だな」と微笑んだ。聞いた五月雨は呆けたような顔を浮かべ、瞬間、花が開いたような笑顔を咲かせて、「はい」と声を迸らせた。

 

 薄暗い世界と違い、明らかに輝きを増した存在がそこにいた。偶然の出会いに、運命というものを漠然と感じつつ、憲太郎は夕波を眺めた。刃物のような鋭い冷気が皮膚を刺し、産毛を逆立たせたのはその時だった。

 

 灰色の海の向こう、水平線上に火のようなのが発光したように見え、ドン、と雷が落ちた音に似た轟音が遅れて聞こえてきた。

 

 鼓膜を圧迫するような、威圧的な音だった。空気の震えがこちらにも押し寄せてきて、憲太郎は思わず立ち上がる。何だ? と思った時にはもう一度、今度は光がぽつぽつと連続して瞬いていた。

 

「あれは……!」

 

 隣で呟いた五月雨の声は、驚愕で震えていた。今日の貨物船でも、その前の施設の訓練でも見たことがあるからだった。遠く、雨で視界が悪くても見間違えるはずがない。あれは、火だった。火砲から弾丸を撃ち出す際に生じる爆発の光だった。街の方から鳴り始めた警報の音が、ざらりとした不安に拍車をかけた。「何が起きてるんだよ……?」と呟いた憲太郎に、五月雨がはっきりした声で続いた。

 

「深海棲艦……! まさか、ここが、襲撃されている……!」

 

 答えながら、ここがいつの間にか戦場になっているという現実を突き付けられた五月雨は、体中が冷えていくのを感じた。

 

 呆然と立っている憲太郎も、それ以上出てくる言葉もなく灰色の海を見つめている。襲撃されていると答えた五月雨も、唖然として凍りついたようで、手のひらを握りしめたまま、光と低重音に支配された海に見入っていた。

 

 本当に襲われているのか。何が自分たちを襲ってきたのか。深海棲艦という言葉の意味を咄嗟に思い出せず、考えようとした刹那、赤い光が何度も発光する水平線上から全体像が肉眼で視認できるまで近付いてきた存在を目にして、憲太郎は息を呑み込んだ。

 

 巨大な頭部のようなものは、目と口を持ったクラゲのような形状をしており、それを()()()()()()()()()()()のは、人の顔そのものと見えた。白く肩口まで伸びた髪に、同じくらい白い顔。線の細い胴体に、そこから伸びた手に握られた黒い杖。何の補助もなく二本の足で海の上に立っているという時点で、目の前の存在が人間ではないことは直感で理解できたものの、それさえなければ人間の女性と言われても違和感がなかった。

 

 無意識のまま呆然と立っていることしか出来ず、憲太郎は棒立ちになった。あれが、敵? この世のものとは到底思えず、絶望的な現実の前にたちまち何をするべきか分からなくなり、体を硬直させていた憲太郎は、横合いからいきなり手首をつかまれて意識を取り戻した。

 

 感じたことのない、柔らかくて温かい手のひらだった。体中を電気が駆け抜け、憲太郎は導かれるように振り返った。さっきまで穏やかな時間を共有した少女の顔が、そこにあった。

 

 顔を恐怖で強張らせ、海色の瞳が乞うように憲太郎を覗き込む。ハッとするも瞬間、「こっちです!」と五月雨が叫び、憲太郎は腕を引っ張られた。つられて走り出すと、ティンクも憲太郎の肩に飛び乗ってしがみついた。どうやらティンクもあの“白い存在”……深海棲艦と呼ばれているあれを良く思ってないらしい。小さい顔は強張っていた。

 

 五月雨は浜辺からアスファルトの地面に憲太郎を連れ出し、鎮守府がある方へと迷うことなく駆けていく。あの白い存在といい、鳴り響く警報といい、何かが起きていると今更ながら理解が追い付いた憲太郎は、目の前にいる五月雨の背中を追いかけた。鎮守府に向かっていると分かっていたが、だからといって()()()()()()()()()が分からない。対処を知っているらしい五月雨に着いていけば何とかなると、情けなく思いながらも納得をして、ひび割れたアスファルトの地面を蹴った。

 

 同時に、嫌だな、と思った。本当は怖いのだろうに、力のない自分を守ろうと必死になっている五月雨の手の平。本当は自分がそうしなければいけないのに、体はすくんで動けず、引っ張られて逃がされているという始末。しかもそれは温かく、少女特有の脆さを持った手の平に安らぎを感じてしまうのだ。

 

 五月雨に助けられる。今はそうかも知れない。でも、次は。

 

 その瞬間には海辺で体をすくませた感情は消え、憲太郎は襲われていることも忘れて、五月雨が掴む手の平の感触を確かめるように少しだけ強く握り返した。

 

 

 

 

*

 

 

 

 

 

 艦娘としての感覚が、凍った体を突き動かした形振りだった。冷たくなった手が憲太郎の手を握りしめ、五月雨は荒れたアスファルトの道路を一直線に駆けた。鎮守府からここまで来た道を戻っているだけなので、この辺りの地理に疎い五月雨でも問題はない。海辺近くにまで近付いてきた深海棲艦――空母ヲ級と呼ばれる存在が、逃げる五月雨たちに矛先を向けなかったのが不幸中の幸いだった。このまま行けば、鎮守府まで真っ直ぐ向かえるだろう。最も、襲撃してきた他の深海棲艦に見つからなければ、という前提があるが。

 

 気を抜けば今にも震えだしそうな体を動かすことで誤魔化しつつ、臭い立つ空気を吸い込む。空気中には何かが燃えたような焦げ臭い匂いが辺りを漂い始め、この近くで戦闘が起きていることを五月雨に伝えた。

 

 遠くの警報音と爆発音が響いてから、周囲の空気が殺伐としていた。鎮守府の方からも煙が上がり、緊張や殺気といった感情が大きく膨れ上がるのを、五月雨は感じ取った。

 

 思わず走る速度を落とす。アスファルトの上、憲太郎とティンクの三人しかいないはずの空間で、五月雨は他人の声を聴き、同時に混じり気のない複数の思惟が襲い掛かるのを感知した。この声や思惟が一体どういう物なのか、なぜ聞こえるのかという疑問が残るも、氷水のように服の上からでも染み込む冷たさが、その時の五月雨の疑念を消し飛ばした。

 

「伏せて!」

 

 曖昧な予感では無かった。来る。撃たれた。深海棲艦の姿も、ましてや砲撃される瞬間も見ていないのに。実感のない確信が体を動かし、手を握る憲太郎の体を伏せさせた刹那、強烈な波動が彼女らの全身を強かにうちつけた。

 

 抉れた地面が砂埃になって五月雨たちを包み込む。目の前の視界が遮られ、遠くにある戦火を見渡せるような事は無かったが、目の前に出来た、空気の壁を貫き地面を抉った砲弾の(クレーター)が、その凄まじいまでの威力を五月雨たちに見せつけていた。平時であれば隕石が落ちてきたと勘違いしてもおかしくはない。それほどの跡だった。

 

 砂埃が姿を隠している間に、五月雨はもう一度憲太郎を連れて走る。あの砲撃は狙って撃ってきた。見つかった? 砂の霧を抜け、背後の海を横目に見た。その視線の先に、鋼鉄の砲口をこちらに向け、鋭く思惟を斬り込ませてくる深海棲艦の姿があった。人形のような顔は変わらず、深海棲艦――リ級は、蒼く輝く両目をぎょろりと向ける。憲太郎もそれに気付いたのか、息を呑む気配が掴んだ手のひらから伝わった。

 

「冗談だろ……!?」

「もうすぐ鎮守府に入れますから、そこまでいけば!」

 

 憲太郎に怒鳴り返しながら、鎮守府前に広がる強化コンクリートの壁を視界に入れる。所々に爆撃を受けた後が崩れていて、そこから中に入れそうだ。(せわ)しく響く声や音の喧騒を振りきり、鎮守府の敷地内に飛び込んだ五月雨は、その勢いのまま中庭の道を走り抜いた。周囲では、鎮守府に備えられた対空機銃が空に向かって火を吹き、空母型艦娘が射出した艦載機が、街や鎮守府に近付こうとする浮遊物を次々と撃ち落としていく。ここ周辺なら、一応の安全は確保されてるらしい事を悟って、五月雨は立ち止まると憲太郎へ向き直った。

 

「ここならもう安全です。後はこの建物の中に入れば、身を守ってくれるシェルターがありますから、あなたはそこに避難して下さい」

 

 五月雨の言葉に何かを感じ取ったらしい憲太郎が、彼女の手の平を握る力を少しだけ強めた。

 

「あなたはって……五月雨も一緒に来るんだろ?」

 

 思ってもみない言葉に、胸の鼓動が大きく鳴った。やはり彼は軍の関係者ではないのだろう。もしかしたら、自分たちが戦っていることも分かっていないのかもしれない、と五月雨は思った。

 

 思い返してみれば、彼が軍人や、その関係者ではないことは予想できた。艦娘という単語を知らない様であったし、知っていれば艦娘という存在に対して、ああも自然体に向き合ってくれる筈がない。勝手な印象ではあるが、世間知らずで無知なのだろう。

 

 そんな無垢でまっすぐな思惟が五月雨の身を案じて引き留めようとした事に、彼女は少しだけ嬉しく思った。向けられる猜疑の視線、嫌悪の感情、それらから目を背ける艦娘の感情の凍結。これらが複雑に絡み合い、人間との狭間にある溝の深さを、この時だけは、忘れることが出来たから。それは自分の役目を忘れた錯覚なのかもしれない。冗談にしても、ひどく笑える――彼が私の提督だったら良かったのに、と憲太郎の隣に立つ自分を夢想してしまうほどに。

 

「……ごめんなさい」

 

 その謝罪は、置いていってしまう事に対してか、それとも身に過ぎた妄想を押し付けてしまいそうになったからか。その瞬間には繋いでいた手を離して、五月雨は駆けだした。「五月雨!」と呼び止める憲太郎の声に振り返りそうになるが、植え付けられた艦娘としての使命の方が強かった。

 

 ここから先には、頼れる先達の艦娘もいなければ、彼の手の平の温もりもない。そう思いついた頭が記憶の中にある深海棲艦の姿を映しだし、もう一度芯まで冷えてしまう青い目と不思議な声を五月雨の中で響かせた。徐々に冷え、震え出す体を無理やり温めるように、彼女はひたすら走っていった。

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