殺風景な部屋だった。
家屋はない。建造物はない。そもそも、道路がない。
個人ランク戦のために用意されるステージの多くは、チームランク戦ほどの広さはないとはいえ、ある程度の街並みは再現される場合がほとんどだ。しかし、準備されたステージには何もなかった。
踏み締めて剣を振るうための地面があった。
逃げられないように四方を囲う壁があった。
ほんの少し息苦しさを感じる天井があった。
この上なくシンプルな勝負の場として、それで充分。
あとは、目の前に斬るべき相手がいるのみ。不足は、何もない。
太刀川慶は、如月龍神と向き合っていた。
「……ふーっ」
息を吐く。
いつぶりだろうか。
相手だけなら、何度でもしてきた。だが、それは例えるなら、やたら吠えてくる小型犬とじゃれ合っているようなもので。こうして本当の意味で対峙するのは、随分ひさしぶりであるような気がする。
「用意はいいか、如月」
「ああ。いつでもいい」
先ほどまでの狼狽がまるで噓であるかのように、如月龍神は太刀川慶を見据えていた。
いいな、と太刀川は思う。
ずっと待っていた。この時を、どれほど待ち焦がれていたことか。
「手は抜くなよ」
「抜く理由がない」
「勝負の条件はわかってるな?」
「くどい」
「そんなに力むなよ。疲れちゃうぜ」
そうは言ったが。
力むなよ、と。軽く呟いたその一言は、自分に言い聞かせたものでもあった。
「ルールはシンプルだ。やり直しも延長もなしの十本勝負」
それは、簡単な確認。
太刀川と龍神が、これまで飽きるほど繰り返してきた……いつも通りの勝負の形式。
「お前が一本でも俺から取れたら、お前の勝ちだ」
太刀川が口にしたのは、あまりにも龍神に譲歩した勝利条件だった。
合計、十回。対面した状態から殺し合う。その内、ただの一回たりとも、太刀川に敗北は許されない。逆に、龍神はどんな形であれ、一回だけでも太刀川を倒せば、その時点で勝利が決まる。
「だが、俺が十本全て取って……お前が負けた場合は」
「くどいと言ったはずだ。言われなくてもわかっている」
太刀川の言葉を遮って、如月龍神は自らそれを口にした。
「この勝負に負けた時、俺は……上層部から下される
太刀川は笑う。
悪くない。これは、悪くない感覚だ。
絶対に譲れない、何かを賭けた緊張感。
たとえ今から始まるこの戦いが、目の前に立つ少年との最後の勝負になったとしても、
「いくぜ」
「ああ」
これから交える剣に、決して悔いは残さない。
◇◆◇◆
「はじまったな」
「……」
城戸と迅は、部屋に残ってモニターから二人の戦いを見守っていた。
「迅。勝負の扱いはどうなっている?」
「……どうもこうも、普通だよ。ただの個人戦ブースを使っているから、ラウンジのモニターにも映り込むし。他の隊員も周りから見たら、太刀川さんと龍神がいつも通りに模擬戦やってるようにしか見えないでしょ」
「そうか」
「よかったの? 城戸さん。もっと静かな場所で勝負させることもできたんじゃない?」
「それは太刀川と彼が決めることだ。結果が出るなら、過程に拘る必要はない。観客がいようがいまいが、あの二人には関係ないだろう」
ただし、と。城戸は言葉を繋いで、
「他の人間に、影響を与えるかもしれないが」
まるでその一言が合図だったかのように、ドアをノックする音が何重にも響いた。
「入りたまえ」
「失礼しますっ!」
先頭を切って入室してきた気の強そうな……否、実際にこちらを睨みつけてくる少女を見て、迅は思った。
やっぱり、こうなったか。
「ちょっとちょっと!? 江渡上ちゃん、そんな剣幕で入らなくても……」
「失礼しまーすっと。お、やっぱりここでも二人の勝負見てるじゃん」
「し、失礼します」
「右に同じく」
「お、お邪魔しまーす」
一番最初に踏み入ってきたのは、如月隊オペレーターの江渡上紗矢。
さらに、その後ろに続いて、ぞろぞろと。出水公平、米屋陽介。如月隊の甲田、丙、早乙女。龍神に近しい隊員達が中に流れ込んできた。
この部屋に、一般の隊員がこれほど集まることはとても珍しい。
「来るとは思っていたが、こんな大所帯でくるとはな。賑やかなことだ」
「……城戸さん、未来が視えてるみたいなこと言うね」
「笑えない冗談はよせ」
「よく言うよ。絶対に笑わないくせに」
突然の来客に驚いた様子もない城戸と迅。
そんな二人のやりとりに割り込むように、紗矢は割って入った。
「城戸司令。お聞きしたいことがあります」
「何かね?」
「とぼけないでください。そこの迅隊員が、如月くんを連れて行ったことまではこちらで確認しています。呼び出したのは、あなたですよね? わたし達の隊長に、どのような用件で、何を話したのか? チームメイトであるわたし達には、知る権利があるはずです」
「まぁ、ついでに。どうしてその結果、太刀川さんと龍神が今やりあっているのかっつーのも、確認したいところだよな?」
ものすごい剣幕の紗矢の隣で、米屋も飄々と援護射撃を行う。
龍神と太刀川が戦っているモニターを確認してから、迅は紗矢をじっと見詰めて、目を細めた。
「変わったねー、紗矢ちゃん」
「またそうやって、茶化して誤魔化すつもりですか? そうはいきませんよ、迅さん」
「いやいや、ほんとにそう思っただけだよ。昔の紗矢ちゃんだったら『わたし達の隊長』なんて言葉、絶対に使わなかったでしょ」
「……迅さんには、質問していません。それよりも、城戸司令。答えてください」
一切物怖じする様子のない紗矢を一瞥して、城戸はデスクの下に手をかけた。
「如月隊員を呼び出したのは、記憶封印措置で処理していた彼のサイドエフェクトに、問題が認められたからだ」
あまりにもあっさりと告げられた事実に、出水を除く全員が固まった。
「……は?」
「いや……いやいや! そんな冗談……!」
「早乙女隊員。迅にも言ったが、私は笑えない冗談は嫌いだ」
デスクの下から取り出した資料を、城戸は迅に手渡した。軽くため息を吐いてそれを受け取った迅は、書類の束を机の上にぶちまける。
「はい。それ、証拠ね。一応、部外秘だから、読んでも口外しないように」
固まったままの紗矢をよそに、最初に甲田が。次に早乙女と丙が。城戸や迅、太刀川が龍神に語って聞かせた内容が客観的な事実とデータを伴って記された資料を手に取って、絶句する。
「隊長に……サイドエフェクト?」
「超過自己暗示って……なんだよこれ」
「記憶封印措置の処置記録……太刀川隊との交流の事実を消去、って」
勘の良い米屋が、隣に立つ出水の肩に手をかけた。
「おい。弾バカ。お前……どういうことだよ?」
「……わりぃ」
顔を伏せたまま、拳を震わせる出水は、きっと誰も見たことがないような表情をしていて。それをわざわざ覗き込むほど、米屋は悪趣味ではなかった。
「……マジかよ」
「ちょっと、待ってください」
唯一、沈黙を保ち続けてきた紗矢が、声をあげる。
「如月くんに、サイドエフェクトがあったとして……記憶封印措置で忘れていたそれを、わざわざこうして思い出させて……今、太刀川隊長と戦わせているのは、なぜですか?」
「さっきも言ったはずだ。彼のサイドエフェクトに、問題が認められた。きみ達にもわかりやすく説明するならば……これから先、ボーダーにとってサイドエフェクトを持つ彼の存在が、
それはイコールで、城戸の隣に立つ迅が『龍神の未来』を視たことを意味する。
「故に、我々は試すことにした」
「……試す?」
「ああ。彼が、自身のサイドエフェクトを無事にコントロールできるかどうか。今まで、リミッターに近い存在として用いてきた、太刀川を通じて、個人戦でテストする」
紗矢は震えていた。城戸の鋭い眼光に晒されているから、ではない。
ただ、自分の嫌な予感が当たってしまったことに、震えていた。
「勝負は一対一の十本勝負。如月隊員が一回でも太刀川を倒せば、サイドエフェクトのコントロールに成功したと判断し、これまで通りにボーダーでの活動を続けることを認める」
大規模侵攻のあと。糸が切れた人形のように眠る龍神の姿を見て、違和感を覚えた。
何かあるのではないか。おかしいのではないかと、疑問に思った。
けれど、見ないふりをしていた。
無事に帰ってきてくれたなら、それでいい、と。
でもそれは、見ないふりをしていただけであって。
「如月隊員が、太刀川に一回も勝てなかった場合……彼を除隊処分にし、如月隊は解散とする」
それが、こんな形で。
「っ……横暴です」
紗矢は、歯を食いしばる。
「だが、彼は了承した。だからこうして、今。太刀川と戦っている」
「っ……理不尽です」
紗矢は、拳を握りしめる。
「いきなり、こんな……今までずっと、隠して、誤魔化して、本人ですら知らなかった事実をいきなり突きつけて! 納得なんて、できるわけがありません!」
「否定はしない。しかし……」
城戸は、揺らがない。
「これは、彼とボーダーのためだ」
沈黙。
ボーダーの最高司令官と、一介のオペレーターが、口を開かないまま睨み合う。
「……あの。おかしくないすか?」
意外にも。その沈黙を破ったのは甲田だった
紗矢と城戸の間に張り詰めた空気を無視するかのように。場の雰囲気をそぐわない呟きは、しかし純粋な疑問から漏れ出たものだった。
「……おかしいって、なにが?」
「いや……隊長と太刀川さんが戦い始めてから、結構な時間が過ぎてますよね?」
そこまで言われて、ようやく。この場にいる全員の視線が、モニターに向く。
激しく斬り結んでいる2人が映っている、画面の下部。その戦績の表示は、未だに『0対0』を示していて。
「まだ、一本目の決着もついていないって……そんなことあります?」
◇◆◇◆
人間の集中力には、限界がある。
純粋な身体能力を競うスポーツ競技において、勝敗を分けるのはその瞬間に発揮できる最大パフォーマンスの差である。練習の積み重ねで肉体の基礎スペックを極限まで引き上げていった場合、競技の中で示される最大能力値の差は、限りなく小さくなる。
例えば、陸上選手が競うコンマ数秒の差。
例えば、水泳選手が競う飛び込みの差。
それらの勝敗を分けるのは、極限まで研ぎ澄まされた集中と判断。
トリオン体に、身体スペックの差は存在しない。
トリオン量によって使用するトリガーの出力は左右されるが、その差が顕著に現れるのは、アステロイドなどの弾丸の威力や身を守るためのシールドの耐久値……射撃戦で重視される諸要素が大半であり、こと近接戦闘においてトリオン量の差は勝敗を分ける絶対的な能力差には成り得ない。トリオンに恵まれない人間が、攻撃手を目指すことが多いのはこれが理由である。
トリオン体に、身体スペックの差は存在しない。
それでもなお、攻撃手の間に明らかな強弱関係が生まれるのは、つまるところ『トリオン体を扱う能力』に差があるからだ。
例えば、ボーダー屈指の古株として長い年月を経て培われた、小南桐絵の身のこなし。
例えば、恵まれない体格のハンデをスピードで補う、風間蒼也の挙動。
トリオン体を上手く扱う、という点に関して、攻撃手や万能手は他のポジションに比べてより深い習熟が求められる。
トリオン体に、身体スペックの差は存在しない。
故に。トップアスリートを超える、人間の常識を超えた肉体が、最初から与えられた状態で。真正面から殺し合いをした場合。
勝敗を分けるのは、脊髄から生まれる瞬間の反射と、脳を通して直感で導き出す刹那の判断である。
「……っ」
弧月を振るう。受け止められる。斬り返す。スコーピオンを差し込む。躱される。
龍神と太刀川の間に、障害物は何もない。障害物が何もないということは、遮蔽物を用いて仕切り直しができないことを意味する。
否、厳密に言えば退がることはできる。後ろに跳躍して距離を取れば、本来のブレードの間合いから逃れることはできるのだ。だが、その間合いは龍神にとっても、そして太刀川にとっても……正しく必殺を意味する。
「『旋空弧月』」
「壱式『虎杖』」
弧月は、伸びる。
オプショントリガー『旋空』によって拡張されたブレードが空を裂き、無機質な白い地面を抉って削り取る。
斬っては離れ、離れては『旋空』を繰り出し、また近づいては斬り合う。龍神と太刀川は、この単純な攻防の繰り返しを、既に十数分に渡って繰り返していた。
普通なら、いつ集中が切れてもおかしくない。攻撃手同士の一騎打ちは、比較的短い時間で決着がつく場合がほとんどだ。だからこそ、龍神と太刀川の攻防は異常だった。
(……いける)
しかし、そんな異常な攻防の中で、龍神は確信していた。
攻撃手一位の動きについていける。副作用の有無など関係ない。己の実力は、太刀川の背に届くほど成長している、と。そんな確かな実感と充実が、龍神の中にはあった。
弧月を握る太刀川の、その動きを見る。
右足が、僅かに前に出る。上段からの振り下ろし。これは避けることができる。避けてから、余裕を持って反撃。当然読まれている。太刀川は回避をする時、左に避けるパターンが多い。先んじて、スコーピオンの斬撃を置いておく。が、これも上体の捻りだけで捌かれる。
「……」
太刀川は、何も言わない。口を開いている余裕などないからだろう。
いける。いける。いける。押しているのは、こちらだ。龍神は、攻撃の手を緩めなかった。
考えてみれば、当然だ。龍神は村上や影浦と同等に斬り合うことができる。それだけではない。黒トリガー争奪戦の時のように、気合いを込めれば、風間にすら肉薄する。事実として、追い詰めた。
だから、あるいは、全力を尽くせば、あのアフトクラトルの老剣士にすら、
「おい」
二刀が、閃いた。
「足りないだろ、気持ちが」
両断される。
載せていた気合いが、気持ちが、全て切り裂かれる。
『如月、ダウン』
地面に倒れる。這いつくばる。胴体を真っ二つにされた龍神は、信じられない気持ちで太刀川を見上げた。
「なにやってんだお前。負けたらボーダーやめるんだぞ。わかってんのか?」
反応できなかった。直前までの拮抗が噓のように、一撃でやられた。
ただ結果として示されたその事実に、龍神は歯を食いしばった。
「真面目にやれよ、如月。ウォーミングアップに付き合ってやるのはいいが、長すぎるんだよ。飽きてくる」
ウォーミングアップ。
付き合う。
太刀川の口から出た単語は、龍神の頭に冷や水を浴びせかけるには十分だった。
「俺は、楽しみにしていたんだ。お前と、本気で、遊びじゃない……
弧月を一度、鞘に納めて太刀川は言う。
「わかったら、さっさと立て。刀を握れ。気合いを入れろ」
立ち上がり、弧月を構える。
「あと九本。俺に負けたら、お前はもう終わりなんだよ」
切っ先が、震える。
如月龍神は、ずっと考え続けていた。
もしも自分にサイドエフェクトがあったなら。そして、それが強力なサイドエフェクトであったなら。
自分は、太刀川慶に勝てるようになるだろうか?
特別な力。特殊な能力。それらに、憧れがなかったといえば、噓になる。
ああ、認めよう。自分は、間違いなくサイドエフェクトが欲しかった。
『如月、ダウン』
しかし、これは何だ?
たくさんの人間に迷惑をかけてきた。迷惑をかけていたことを、馬鹿のように忘れていた。
龍神が自分の弟子だったことを……全ての事情を説明したあと、太刀川は事もなげに言った。
「だから、ボーダーでお前のサイドエフェクトのことを知ってんのは、俺を含めた太刀川隊のメンバーと、迅。それに城戸司令と雷蔵さん、鬼怒田さんだけだ」と。
思い返してみれば、思い当たる節はいくらでもあった。
──最悪、記憶封印措置で今回の件だけすっきり忘れてもらうっていう手もありますし
──記憶封印措置をこんなくだらんことに使えるわけがなかろう!? 少しは考えてからモノを言えっ!
『如月、ダウン』
機密扱いだったエネドラを起動してしまった時。記憶封印措置、という単語に対して激昂していた鬼怒田の姿を思い出す。
鬼怒田だけでない。きっと出水も、自分のことを想って力を尽くしてくれていた。
『如月、ダウン』
サイドエフェクトは、たしかに有用な力だ。
だが、このサイドエフェクトは……『超過自己暗示』は、龍神にとって何のプラスにもなっていない。
サイドエフェクトは、副作用。
副作用によってもたらされるのは、望んでいなかった効果。人体を侵す、有害な毒。
望んでいた力か。
望んでいなかった力か。
そんなことは関係ない。
毒であろうと、薬であろうと、目の前に『ソレ』があるならば──
『如月……』
──喰らい尽くして、進むのみ。
『ダウン』
これで、四度目。
四度目にして、はじめて。繰り返される敗北に、変化があった。
「……おぉ」
太刀川の手首が、弧月を握ったまま落ちる。
相討ちではない。ただ、手首に一太刀が入っただけ。苦し紛れの抵抗と言ってもいい、ほんの些細な反撃。
「いいぞ」
だが、その変化にこそ、太刀川は歓喜した。
今までの龍神には、些細な反撃すらなかった。それが、遂に、太刀川の身体に届いたのだ。
弟子の成長を、喜ばない師匠はいない。
「ようやく、温まってきたか?」
「ああ」
理屈はいい。
理由はいらない。
言葉は不要。
欲しいのは、たった一つの事実だけ。
「『太刀川。俺はお前を倒す』」
挿絵は碑文つかささんからいただきました。いつもありがとうございます!