もしも自分が、一発の弾丸であったなら。引き金を自分で引くことはできない。
前に向かって放たれるためには、何かのきっかけが必要だ。それは、人差し指一本分の僅かな力でかまわない。きっかけさえあれば、火が点いた弾丸はどこまでも飛んでいくことができる。
迅悠一は、いわば『人差し指』だったのだろうと、如月龍神は考える。
些細なきっかけで人間は変わる。迅悠一がいたから、今の自分はここに立っている。
──夢のような憧れと、興奮の中にいる。
九戦目が終了していた。
トリオン体の影響で、疲労を感じる頭の働きは鈍くなっているにも拘わらず、目の前に立つ太刀川は肩で息をしていいた。とはいえ、それは龍神も同じこと。疲労感は全身が浸るほどに満ちていて、今すぐにでもベッドに体を投げ出せるなら、喜んでそうしたい。
しかし残念なことに、龍神がうつ伏せに倒れ込んでいるのは硬質な床だった。こんなに硬いベッドでは、うたた寝することも難しい。太刀川に両断された下半身が再生するのを待って、立ち上がる。
今のは、惜しかった。
太刀川の右肩は、大きくもがれていた。もう少し深ければ、胴体の供給器官まで届いていただろう。
「あと一本、だな」
再生した右腕を大きく回しながら、太刀川が笑う。
「だからどうした?」
残りは、一本。
焦りはない。先ほどの一撃で太刀川を倒せなかったのは、偶然に過ぎない。ただシンプルに、龍神の弧月が少しだけ逸れた。それだけのこと。
今の一撃の勝敗を分けたのは、純粋な運。強がりはなく、驕りもなく、本当にそう確信できる程度には、龍神は自分自身の力を信じていて、実際に太刀川と拮抗する龍神の実力は、その領域に達していた。
十本目。
端的に言ってしまえば、龍神の攻撃の手札は、太刀川に全て割れている。
超過自己暗示の影響で、無意識に太刀川に勝てない自分、が強制された状態であったとしても、龍神にその自覚はなかった。旋空による攻撃パターンは全て見切られ、知られ尽くしており、そもそも旋空の取り扱いに関しても、太刀川の方が上。さらに、弧月の手数は倍の二刀。
故に鍵を握るのは、太刀川にもほとんど見せていない、スコーピオンを絡めた変則二刀流。そのシチュエーションと条件は、以前のランク戦における村上との一騎打ちに近い。七本目、八本目、九本目は、全てスコーピオンの攻撃を軸に組み立てた。
だが、
「スコーピオンの動きが妙に読まれている……そう思ってんだろ?」
「ああ」
最後の一戦をすぐにはじめるのは惜しいのか、太刀川は剣を構えずに口を開いた。
否定をしても仕方がないので、龍神は素直に頷いた。その実直さに肩透かしを食らったように太刀川は笑って、右手の弧月の切っ先で、龍神の右腕を指し示す。
「お前にスコーピオンを教えたのは、迅だ。あいつのスコーピオンを俺が見切れないわけがない」
「なるほど」
道理である。太刀川の言葉はめちゃくちゃだったが、理屈が通っていないわけではなかった。
迅悠一は、太刀川慶のライバル。その事実がある以上、迅からスコーピオンを教わった龍神が、太刀川をスコーピオンで倒せる道理はない。
「よくわかった」
最初から道理は不要だ。
結果だけがあればいい。
「ラストだ。如月」
トリオン体に、本来呼吸は必要ない。それでも、龍神は大きく息を吐いて、それから吸った。
締め付けを緩めるように、白いコートの前を開ける。
「暑苦しいか?」
「ああ。体が火照って仕方がない」
真剣勝負の前に、こんな風に皮肉を交わすのが、龍神は好きだった。
「決着をつけるぞ、太刀川」
もしも自分が、一発の弾丸であったなら。
火が点くのは、今。炸裂するのは、この瞬間。
放たれ、加速し、火花を散らして、喰いついて。
燃え尽き、砕けたとしても、悔いは無い。
◇◆◇◆
「これで、最後だ」
迅悠一が呟いた。
◇◆◇◆
最終戦で、はじめて。龍神は最初の攻撃に旋空弧月を選択した。
「壱式──『虎杖』」
無機質な白い地面を、拡張された斬撃が叩き割る。
が、生駒のような特別な旋空ならいざ知らず、龍神の旋空が届く距離は太刀川の間合いでもある。踏み込んで、一閃。攻撃手の踏み込み旋空弧月の射程は、約20メートル。だが、太刀川が繰り出した斬撃は、龍神の肩を掠めるだけで届かない。
太刀川が龍神の手の内を把握しているように。龍神もまた、太刀川の手の内は把握している。そして、超過自己暗示というサイドエフェクトを自覚したことによって、その力は龍神の力に少しずつ、しかし確実に。全身に染み込んでいた。
この勝負において、太刀川が不利なのは、その勝利条件だけではない。一戦、また一戦と。戦いを重ねるごとに、龍神の身体はサイドエフェクトに最適化されていく。イメージと動きの齟齬が消えていく。
「参式──」
左手一本。おそろしいほどに滑らかな体捌きで太刀川の旋空を避けた龍神は、回避のモーションをそのまま踏み込みに組み込んで、左手から一本突きを放つ。
「『姫萩』」
旋空の伸縮スピードを活かした、弧月による超速の打突は、如月龍神の無二の技法の一つ。シールドを突き破る威力を誇るそれを、ガードすることは困難だ。建物のような建造物があればその陰に入って、斬撃の射線を切るのが定石だが、この空間にそんな気の利いた壁は存在しない。
故に、太刀川は右腕の弧月を振るった。奇しくも、黒トリガー争奪戦の時と同じように、突きの先端を読み切って、受け流すことを試みた。
それが、失敗だった。
まるで、太刀川が刺突を受けることを最初から読んでいたかのように。龍神の放った姫萩は、ブレードの衝突によるインパクトのポイントを絶妙にずらし、太刀川の腕から弧月を奪い取る。
「なっ!?」
手元から離れたブレードが、回転しながら地面に突き刺さる。
黒トリガー争奪戦では、受け切ることができた。
今は、受け切れなかった。
その事実は太刀川を少なからず動揺させ、そして興奮させた。
「ははっ!」
龍神の攻撃は止まらない。
「六式──」
本来、太刀川は状況に応じて弧月の一刀流と二刀流を使い分ける。しかし、この個人戦が後半に入ってからは、ほとんど両手の弧月を抜いたまま、戦闘を継続していた。今の太刀川には、弧月が一振り欠けている。片手の弧月だけでは龍神の旋空に対応するだけで精一杯だ。
一瞬でも攻撃の波が途切れれば、地面に刺さったままの弧月を拾いに行くなり、再展開するなり、反撃の芽はいくらでもあっただろう。
「『鳶尾』」
しかし、途切れない。
「弐式──」
龍神の攻撃は、途切れない。
これまで一つの必殺技として成立していた数々の攻撃が、怒涛のように繋がって押し寄せる。
「『地縛』」
攻撃の手数が減ったことを見極め、空中に跳躍した龍神は旋空を用いて、弧月を拾いに行こうとする太刀川の動線を、文字通り上から斬る。
「八式──」
落下の勢いはそのまま、白いコートの全身に、回転がかかる。
「『捩花』」
斬撃が、執拗に太刀川を付け狙う。
全ての攻撃が、正しく必殺。全ての斬撃が、正しく致命。
繋がって、繋がって、止まらない。
「伍式──」
防戦一方。ここにきてはじめて、拮抗していた攻守の天秤が、龍神の側に傾いた。
「『野薊』」
しかし、龍神はまだ満足していなかった
もっと。もっと。もっと。
己の身体に、太刀川を殺し切るだけのイメージを流し込んでいく。
人間が実現できるパフォーマンスには、限界がある。それは、イメージと実際の挙動の乖離に他ならない。
腕をあげる。足を前に出す。日常の中で当たり前に行う動作に、厳密なイメージは不要だ。腕の関節をどのように活かして、手のひらを持ち上げるのか。足をどのように地面から離して、どこに足の裏を着地させるのか。それらを厳密に意識して行動する人間などいない。
しかし、日常から離れたスピードで、正確な動作を要求する場合、人間の動きには常に思考が伴う。テニスでラケットを振る選手は、練習を重ねて自身の身体に覚え込ませた『ボールを打ち返す』という動作を、相手の動きと思考を読んで無意識の内に思考し『選択』する。
普通の人間は、その動作と選択の連続で、常に100%の力を発揮することはできない。思考がずれ、動作がずれ、疲労が肉体に蓄積し、ミスや失敗に繋がる。
そういう意味では、やはり如月龍神は『普通の人間』という枠組みから脱していた。
「死式──」
超過自己暗示は、己の中にあるイメージを、身体というデバイスを通して、最高のパフォーマンスで出力するサイドエフェクト。
「『赤花』」
反射と思考の融合の中で、空想と現実の境界を限りなくゼロにする。
太刀川慶は、確信した。
今、目の前に迫る、如月龍神は。
これまで戦ってきたどの瞬間をも超える、最強の『如月龍神』だと。
「最高だ」
旋空を攻撃の起点に据えた、テレポーターを絡めた変則攻撃。頭ではタネもカラクリも理解しているその攻撃を、太刀川は決死の想いで受け止め、防ぎ切る。
余裕などない。だが、
「やっと、近づいてくれたな」
弧月は、弧月で受けて止める。
続けて振り抜かれたスコーピオンの勢いを殺したのは、太刀川が近接戦で滅多に使用することのない、防御用トリガーだった。
「シールド」
その刃の起点を見定め、至近距離で集中展開したシールドで、光刃の勢いを削ぐ。スコーピオンを握る龍神の腕を、太刀川は左の腰から抜き放ったそれをぶつけて、跳ね上げた。
弧月はない。太刀川が抜いたのは、収めるべき剣が失われた弧月の鞘。まるで龍神のようなアイディアを用いて……否、実際に目の前の龍神の行動を想像して、太刀川はこのアクションを選択した。
「っ!」
「悪くないな、これは」
返す刃で鞘は弧月に両断されたが、隙は生まれた。太刀川は龍神の手からスコーピオンが消える前に、腹に蹴りを叩き込んで強引に距離を取る。次の瞬間には、失われた鞘と共に、新たな弧月の生成が完了していた。
太刀川が、弧月を引き抜く。
龍神が、踏み込む。
同時だった。
両腕で弧月を握る龍神の一閃は、まさしく渾身の一撃。大上段からの振り下ろしは、剣道の面のように、直撃すれば太刀川の頭を中心から割っていただろう。
しかし、再び万全の体勢でブレードを手にした太刀川が選択したのは、防御ではなく回避だった。
太刀川が、笑う。
龍神が、目を見開く。
やはり、同時だった。
あえなく空を切った刃の先端は、切り裂くべき目標を素通りして、地面に食いこんだ。
その刃の背を、太刀川の右足が踏みつけ、抑え止める。龍神の左腕が、完全に封じられる。
"獲った"。
弧月の切っ先が閃いた、その瞬間を見守る誰もがそう思った。
"獲った"。
ただ一人、龍神だけが、自身のチャンスを信じて疑わなかった。
「あ?」
十本勝負の、十本目。
一騎打ちを開始してから、はじめて。
太刀川慶の口から、困惑が漏れ出た。
刃の背を踏みつけた右足の甲が、そのまま切り裂かれ、真っ二つに裂ける。
太刀川は、見た。己の足元を、食い入るように見た。
本来、切断能力を持たない刃の背。弧月の峰。そこに沿って、薄く薄く形成された、スコーピオンの輝きを。
(俺が、釣られ──)
逆さ刃が、跳ね上がる。
半ば反射で右半身を仰け反らせたところで、踏み込んだ勢いが殺せるはずもなく。下から上に。駆け昇った一閃で、脛から膝までが、二枚に卸された。同時に、避けきれなかったブレードの先端が顎を下から割り、太刀川の右目から視界を奪い去る。使い物にならなくなった右足からトリオンが水のように噴出し、バランスは崩れ、黒いコートの背中が揺らぐ。
弧月を再び手にした、油断。攻守の逆転に見せかけた、誘い込み。
それは、殺意に満ちた『動』の中に、巧妙に混ぜ込まれた『静』だった。
機動を支える、片足の損失。致命的な、駆け引きの敗北。
だとしても、太刀川の左腕には二の太刀が健在だった。
(まだ……殺しきれる)
だからこそ、龍神の右腕に二の太刀は不要だった。
大きく、相手の股下まで右足を踏み込むように、半身が滑り込む。弧月が届く前に、全身の力を活かして振り抜かれた拳は太刀川の顔面の正面を捉え、殴り抜いた。
「っぁ!?」
トリオン体による打撃に、ダメージはない。だが、相応の衝撃はある。
大柄な体が、背中から地面に倒れ込み、転がった。間髪入れず、弧月に纏わせたスコーピオンをほどいた龍神は、瞬時に刃のコーティングの対象を足に変えて、意趣返しのように太刀川を踏みつける。
体は地面に倒れ伏し、両手は弧月を握りしめ、上体を起こすことも叶わず、だからこそ太刀川の直感は、思考を通さずに本能だけで最適解を導き出した。
グラスホッパー。
視界を遮るように出現した、その反射板に龍神が躊躇った一瞬。その一瞬で、太刀川は反射板に自らの体を押し当てて、弾き飛ばされるように致死の刃から距離を稼いだ。
体勢を立て直す。
(足が、死んだ)
膝まで切り裂かれた。トリオンの漏出は止まらず、持ちこたえてもトリオン切れでジリ貧になるだけ。
もう太刀川は、膝をついたこの場所から、一歩も動くことはできない。
(旋空がくる)
移動できない敵を相手に、確実にトドメを刺すなら旋空を選択する。しかしそれは、太刀川の思考であり、龍神の思考ではなかった。
迷いなく、龍神は動けない太刀川に向かって、正面から突貫する。
(どうして)
なぜ、距離を詰めることを選んだ?
太刀川には、もう回避という選択は残されていない。そして、旋空弧月はシールドで防御することができない。もしも自分がトドメを狙うなら、確実に旋空を選択する。いや、片足が潰れている以上、鍔迫り合いで不利なのはこちらだ。旋空の打ち合いで押し負けることを嫌って、ブレードが届く距離での決着を望んだ?
龍神の行動への疑問が思考のノイズとなり、動作と判断を遅らせる。
そこでようやく、太刀川は気がついた。迫り来る龍神の、その全体のシルエットが、白から黒に変化していることに。
脱ぎ捨てられた白のコートが翻り、太刀川の視界を遮った。
──暑苦しいか?
──ああ。体が火照って仕方がない
布石はあった。
ただ、見逃していた。
既に旋空の距離ではない。右か左か。考えること自体が、敗北に繋がる。
気がつけば、太刀川は右手の弧月を横薙ぎに振るっていて。龍神は、斜め後ろへと跳躍し、決死の反撃を完璧に回避していた。
コートの陰に設置された、グラスホッパー。
コートで太刀川の視界を封じ、近接で仕掛けると見せかけ、ブレードが届くギリギリの瞬間に、コートで隠したグラスホッパーで、斜め後ろに跳ぶ。
(右の弧月を、振らされた)
突貫し、正面から決着を望むように見せかけて。その実、龍神が最初から考えていたのは、最も効率的な回避。太刀川に弧月を振らせた上で、狙っていたのは必殺の一撃を放つための、最も効果的な距離。
「旋空──」
最初から最後まで、如月龍神の「必殺」は、常にそのトリガーだった。
「──七式」
信じれば、想像は現実となる。
イメージは、リアルに変わる。
イメージとは、エネルギー。
想像とは、心の渇望。
龍神がそれを『必殺』と認識したのなら。その強いイメージは他者にも色濃く伝わり、そして。
「『浦菊』」
現実となる。
如月龍神は、太刀川慶に勝つのではない。
如月龍神は、太刀川慶に既に勝っていた。
故に、一秒を永遠に引き伸ばす刹那の中で、太刀川は確信する。
『負ける』
それも悪くないか、と思った。
『俺が、負ける』
これで龍神は、ボーダーに残ることができる。
『俺が負けたら、未来は変えられない』
バカ弟子の成長は、なによりも嬉しい。もしかしたら、この力があれば、未来を変えられるかもしれない。
『俺が負けたら、龍神が死ぬ』
──気持ちの強さは、関係ないだろ。
嫌だ
感情のトリガーが、引かれた。
撃鉄が落ちる。
「旋空」
想いが──
「弧月」
──炸裂した。
完璧な読み。完璧なタイミング。完璧な間合い。
その全ての完璧を否定され、龍神は目を見開いた。
旋空弧月による、旋空弧月の迎撃。
黒と白の斬閃が交差し、互いの腕からそれぞれの刃が、零れて落ちる。
龍神は地面に着地し、スコーピオンを構え、弧月を再生成しようとして、
「……ふっ」
何もかも、もう遅いことを悟って笑った。
美しい一閃が、その笑みを両断した。
◇◆◇◆
「如月ダウン」
戦闘継続時間、63分47秒。
そのあまりにも長過ぎる個人戦は、ボーダー本部における十本勝負の記録を、大幅に更新した。
太刀川慶対如月龍神。最終戦績、10対0。
結果だけを見れば、挑戦者の圧倒的敗北。しかしラウンジで見守っていた誰もが、二人の決着に惜しみない拍手を送った。
その勝負の裏に隠された意味を、誰も知らなかった。
◇◆◇◆
「俺の負けだな」
床に仰向けに寝転んだまま、龍神は宣言する。
勝負を制したはずの太刀川は、呆然としていた。
全力だった。楽しかった。おもしろかった。最高だった。
だから、
「……」
言葉が出てこない。
戦う理由がなかった。
それでいいと思っていた。
「……如月」
気持ちの強さは関係ない。
誰よりも、自分自身がそう言ってきた。
想像はできた。考えることはあった。それでも、機会はなかった。
今。
ボーダーという組織で、一つの頂点に達したその強さに。
絶対に譲れない気持ちが、追いついた。そのきっかけをくれたのが、目の前の相手だった。
倒れた相手を、悲しむべきではない。倒した相手を、憐れむべきではない。
貰ったものがある。
だから、言わなければならない。
ようやく、太刀川はその一言を絞り出した。
「ありがとう」
奇跡と進化は、全ての人間に平等で。
最後の最後に、太刀川慶は如月龍神の中に、それを見つけた。
「俺はまだ、強くなれる」
「……ああ。それでこそ、俺のライバルだ」
◇◆◇◆
殺したくない。
死なせたくない。
生きていてほしい。
結局のところ、迅悠一を動かしていたのは、そんな当たり前の原動力だった。
如月龍神の存在は、太刀川慶にとって世界の引き金だった。
如月龍神の存在を、迅悠一は黒い引き金にしたくなかった。
一人の少年の命が奪われる、最悪の未来から逃れるために。
全てを背負い、全てを救うために力を尽くしてきた迅悠一の暗躍は、ここにようやく実を結ぶ。
視界の端で、紗矢が泣き崩れた。甲田達は、下を向いたまま顔をあげない。呆然とした米屋の表情を見るのは、迅もはじめてだった。
それでも、
「……これでいい」
城戸正宗には、死ぬと分かっている隊員をボーダーに残す選択肢はなかった。
太刀川慶には、自分の欲求よりも弟子を救いたいという、強い想いがあった。
「……ありがとう。城戸さん、太刀川さん」
迅悠一には、彼を救わなければならない責任があった。
「これで……龍神は、もう死なない」
物語の裏側で。
今ここに、最悪の未来は回避された。
◇◆◇◆
正式な除隊の手続きや相談は明後日ということになった。手続きの完了と同時に、他の隊員にも自分の除隊と、如月隊の解散が告知されることになるという。
龍神はボーダー本部から、外に出た。見上げた空は灰色に覆われていて、大ぶりな雨粒が降り注いでいる。
こういう時、トリオン体なら濡れても心配ないのが、ボーダー隊員の便利なところだ。
「トリガー、オフ」
しかし、龍神はトリオン体を解除した。
降りしきる雨の中を、一人で歩く。そういうことをしたい気分だった。
降り注ぐ冷たさを受けて、身体に籠もっていた熱がようやく抜けていく。
全力を尽くした。悔いは無い。きっとこの敗北は必然で、それに後悔があるわけではない。
もしも、今まで自分が歩いてきた道が、一つの物語であったのなら。
幕を下ろすのが、今日だった。
きっと、それだけのことだ。
「……」
地面を見た。頬の表面を、雫が濡らして、流れ落ちる。
空を見上げた。分厚い雲に覆われて、月は見えなかった。
夢は終わる。
それでも、縋るように見詰め続ける。
雨は、まだ止まない。
次回『厨二と三雲修』