修と話し込んだあと、如月龍神は玉狛支部近くの河原に来ていた。
時刻はもうすっかり夕暮れで、太陽は沈みかけている。なんとなく、それが沈む瞬間まで見届けたくなって、龍神は草の上に腰掛けた。
自分の気持ちを、全て吐き出してすっきりした。それは間違いない。だが、自分の選択が本当に全て正しかったのかと問われれば、まだ疑問が残っていた。
「そこの少年、何か悩み事ですか?」
声をかけられ、顔をあげる。
仕立ての良い黒のスーツに、白の手袋。金髪のオールバックに、やわらかな笑み。
彼は、紳士だった。
「あなたは……」
「はっはっは。私のことを、覚えていてくれましたか。ええ、そうです、わたしです。紳士です」
自分で自分のことを紳士と言うくらいなのだから、その男は間違いなく紳士だった。
紳士はスーツが汚れるのも気にせず、龍神の隣に体育座りで座り込んだ。
「きみと会うのは、あの日以来ですな」
「……そうだな、あの日以来だ」
思えば、あの日もそうだった。
太刀川に弟子入りをあっさり断られ、失意の底に沈んでいた龍神は、夕暮れの川原でこの紳士と出会った。
今日と同じように黒いスーツに身を包み、やはり余裕ある大人の雰囲気を醸し出していた紳士は、やはり龍神の隣に体育座りで座り込み、悩みを親身になって聞いてくれたのだ。
「あなたはいつも、俺が迷っているときにあらわれるな」
「フフ、紳士は奇抜、神出鬼没。少年が困っている時にさり気なく登場するのが、かゆいところに手が届く紳士というものです」
「なるほど」
あの時も、迷っていた龍神に、紳士は言葉をくれた。
──ならばきみは、その男の『ライバル』になりなさい。
龍神の在り方の原点には、彼の言葉が根付いている。
「紳士さん」
「ふむ、なんでしょう。少年」
ポツポツと、龍神は最近自分の身に起こったことを語った。
紳士は体育座りをしたまま、時々「ほぉ」とか「なるほど」とか、龍神の話の邪魔にならない程度の相槌を挟み込んで、聞き役に徹してくれていた。
「それはまた、大変でしたね」
「まあ、大変だったのは否定しない」
「しかし、きみは同時にすばらしい経験をしたようだ」
「すばらしい経験?」
「ライバルとの死力を尽くした死闘! 己の誇りを賭けた戦い! 実に良いではありませんか!?」
身振り手振りで大仰に、紳士は龍神の経験を褒め称える。
「そんな経験ができる人間は、なかなかいません。きみはそれを、素直に誇るべきです。まあ、もちろん、他ならぬこの私も、数え切れない死闘を経験しているのですが」
「もしかして、紳士さんも腕っ節に自信があるのか?」
「ふっ……冗談はやめて頂きたい。私はとても弱いですよ、少年。多分きみにも普通に負けます」
「でも、数え切れない死闘を経験しているんじゃないのか?」
「ええ、頭脳的な死闘をしています」
「頭脳的な死闘」
「具体的にはチェスです」
「チェス」
「ええ、チェスです」
チェスといえば、龍神の中ですぐに思い浮かぶのは王子一彰だが、なんとなくこの紳士よりも王子の方が強そうだなぁ、と思った。
「ふっ……まあ、私の話はどうでもいいのです」
この紳士、話を逸したなと龍神は思った。
「私がうれしいのは、きみに後輩ができたことです」
「三雲のことか?」
「はい。その三雲くんというメガネくんのことです」
そこに言及されるとは思わなかったので、龍神は少し意外な顔をした。その表情の変化に気づいたのか、それとも元々龍神の顔色など気にしていないのか、紳士は芝居がかった仕草で言葉を紡ぐ。
「きみは良きライバルだけでなく、良き後輩にも恵まれたようだ。実に麗しき師弟愛! 絆ではありませんか! 私は今、猛烈に感動している!」
「だが、組織に長く所属していれば、後輩はできるものだろう」
「ただの後輩、ならそうでしょうな。しかし、きみのことを本当に想って、行動してくれる後輩ならばどうでしょう?」
「……」
「そのメガネの後輩は、きみのことを本気で気遣っている。気遣った上で、事態の解決に動いている。良い弟子ではありませんか」
龍神に語りかける言葉は、やはり紳士的で、
「そして、それはきみ自身が組織で積み重ねてきた信頼の証でもある」
龍神を見る紳士の瞳は、どこまでも真摯だった。
「いいですか、少年。チャンスというものは、求める者にはほんの一瞬で充分なのです」
修が龍神のために作ろうとしてくれている、再起のきっかけ。
「そのメガネの後輩は、きみにもう一度だけ機会を与えようとしてくれている。ならば、あとはきみがそれを掴むだけです。違いますか?」
そう。修は、龍神に可能性を提示してくれた。
太刀川に負けた自分は、もう終わりだ、と。そう思い込んでいた自分に、顔を上げて諦めない道がまだ残っていることを、示してくれた。
だが、
「もう一つ、聞いていいか。紳士さん」
「ええ、もちろんです」
「もしも未来が視えるとしたら、紳士さんはどうする?」
その道を選んだ結果、迅悠一の想いをないがしろにしてしまうとしたら?
迅が、何を視て何を考えているのか、龍神にはわからない。わからないからこそ、龍神は一度、ボーダーをやめる決意を固めてしまった。自分が全力を尽くした上で、迅が選び取った未来がそれなら、そこに間違いはないのだろう、と。思い込んでしまっていた。
だから、今もわからない。まだ、迷ってしまっている。
「ふむ……実に興味深い質問ですね。きみも私に身の上話をしてくれたわけですし、私の話も聞いて頂きましょうか」
「うむ、拝聴しよう」
龍神は体育座りの居住まいを正した。
「私のお友達には、とても強い拳法家のお嬢さんがおりまして」
「拳法家……強いのか?」
「ええ、強いです。私が正面から挑んだら、3秒くらいで死んでしまうでしょう」
「死ぬのか」
「ええ、死にます」
この紳士は元からとても弱そうだが、その少女はとても強いのだろうな、と。龍神には、妙な納得があった。
「しかし、力を持つ者の宿命というべきでしょうか。そのお嬢さんは学校に馴染めず、家に籠もるようになってしまったのです」
「……それは、大変だな」
「ええ、大変です。結局、お嬢さんは学校に行けないまま、卒業式の日を迎えてしまいました。私も、式に参列するために、学校に馳せ参じたのですが」
「ちょっとまってくれ」
「おや、なんでしょう?」
「紳士さんは、そのお嬢さんの血縁というか、親戚だったりするのか?」
「いえ、まったくもって赤の他人ですが?」
「学校の卒業式って、家族以外は入れないものだと思うんだが……」
「ふっ……流石は少年。よくご存知だ。もちろん私は中に入れずに追い出されました。いやはや、最近の学校の警備は、紳士にもきびしい」
なにやってんだこの紳士。
「それで? そのお嬢さんは卒業式に行けたのか?」
「いいえ。結局のところ、お嬢さんは式場の前で立ち止まったまま……卒業式には、参加できませんでした」
「……それは、なんというか残念だったな」
不登校になってしまったが、最後だけは勇気を出して式に参列した。そんな話のオチを聞きながら想像していた龍神は、思わず肩を落とした。
「残念だ、と。そう思いますか、少年」
「ああ。その子のことを考えたら、学校に行けた方がいいに決まっている」
「ええ、そうでしょう。
「……」
「ですが、人の縁とは不思議なものです。お嬢さんが普通に学校に通っていたとしたら、私は彼女に出会えなかったかもしれない」
可能性は、本来視えるものではない。
「わたしは今日、たまたまきみと再び出会い、話をすることができた。私がお嬢さんに出会えたように。あるいは、きみに出会えたように。つまるところ、人生とはそういう偶然の繰り返しです」
視てしまった瞬間、知ってしまった瞬間から、偶然は偶然ではなくなってしまう。そこに辿り着こうと目指した瞬間から、ささやかな偶然は、必然に変化してしまう。
「その偶然を選ぶことができるのだとしたら……それはとても便利な力であるのと同時に、少しさびしい力なのかもしれませんな」
「さびしい?」
「先ほど私がお話したお嬢さんは、卒業式に行くことはできませんでしたが……学校の前までは、来てくれたのです。だから、不審者認定されて卒業式に入れなかった私たちと会うことができたのですが」
「……それはおもしろい偶然だな」
「でしょう? なので、私はその場で、全力を尽くして卒業を祝う歌を熱唱しました」
なにやってんだこの紳士。
「でも、私はうれしかった。私がお嬢さんと会うことができたのは、彼女が勇気を振り絞って、自分の意思でそこまで来てくれたからです」
「……それは、偶然じゃない」
「ええ。お嬢さんが自ら行動した結果です」
出会いこそが人間の人生であるなら、人の生はきっと偶然だけでできている。しかし、偶然の中で振り絞った努力があるからこそ、人生は少しずつ、望んだ方向へ変化していく。
「おもしろいでしょう? 偶然の中で全力を尽くせば、それは必然に変わるのです」
紳士は、そう言っていた。
「きみのその……
「……まぁ、そこまで、魔法みたいな力でもないが」
「奇遇ですね。実は、私のライバルであるワンちゃんも、イメージをリアルにすることができるのです」
「ツッコミ待ちか?」
「しかも喋れてチェスも強い」
「ツッコむ前にさらに盛らないでほしい」
一体、どこの世界に喋れてチェスができて、想像を現実にできる、紳士のライバルを張る犬がいるというのか。本当にいるなら、会ってみたいくらいだ。
「想像を現実にする! これは素晴らしい! 実に夢があります! できることなら、私もそういう不思議で紳士的な力がほしかった! かっこいいから!」
「欲望ダダ漏れだな」
「しかしね、少年。そんな不思議で紳士的な力を持つきみだからこそ、覚えておいてほしい。これは、私の上司からの受け売りなのですが──」
一度張り上げた声のトーンを落として、紳士は言った。
「──大抵の場合、想像したよりも世界は広いのです」
沁み込むような、静かな声だった。
言い聞かせるわけでもなく、納得させるわけでもなく、一つの事実として、紳士は少年に向けてそれを述べた。
「だから、人生はおもしろい。未来というものは、いつもわからない」
紳士は、立ち上がって帽子を被った。
何か、解決策を提案したわけではない。彼に、ボーダーのことはよくわからない。
ただ好きなように喋り、言葉を交わし、ほんの少しだけアドバイスをして、紳士は立ち上がった。
「……あなたは本当に、おもしろい人だな」
「はっはっは! ええ、それは当然でしょう。立てばジェントル、座れば紳士。歩く姿はマジ紳士。私は……」
「紳士だ」
キメ台詞を途中で遮るのは図々しいかもしれない、と思ったが。
「あなたは、紳士だ」
それでも、龍神は言いたかった。
「ふっ……」
紳士は、笑う。
「その通り、私は紳士です」
「盗み聞きは紳士的ではないぞ、唐沢」
「おっと、これは失敬。しかし、昔馴染みと目にかけている少年が密談をしていたら、気になってしまうのは仕方ないだろう?」
ボーダーの外務営業部長、唐沢克己は5年ちょっと前まで、悪の組織で金集めをしていた。故に唐沢は、この紳士とは昔のよしみでまだ付き合いがある。
「まさか、きみもあの少年に目をかけていたとは」
「努力する青少年は、どうしても放っておけないんだよ。学生時代はラグビーをやっていたものでね」
「それは実に紳士的で結構」
唐沢は懐からタバコを取り出して、火を点ける。箱をしまわずにそのまま勧めたが、紳士はそれを軽く手を振って辞退した。
「ボーダーの仕事はどうだ?」
「悪くない。やってることは昔と変わらないが、こっちは正義の味方だからな」
「正義の味方。ふふ、良い響きだ。きみには似合わないが」
「自覚はあるよ」
「今度は、こっちにも来るといい。私のライバルである、喋るワンちゃんに会わせてあげよう」
「それはたしかに興味深いな」
最後に、紳士は唐沢に向かって頭を下げた。
「これからも是非、彼のことを助けてあげてほしい」
「それはお願いか?」
「紳士の頼みだ」
「そうか。紳士の頼みなら、仕方がないな」
ふっと紫煙を吐き出して、唐沢は空を仰ぐ。
「善処するよ」
にこやかな笑みを浮かべて、紳士は旧友の肩を軽く叩いた。
「では、また会おう。唐沢」
「ああ」
「行くぞ、ローライズ・ロンリー・ロン毛」
「はい。ウィルバーさん」
夜空の下を、紳士は部下と連れ立って歩いて行く。
人と人の縁は、どこで繋がっているかわからない。ふとした拍子に、思わぬところで、すれ違うこともある。
けれど、そんな些細なすれ違いこそが、いつも人の未来を変えるのだ。
◇◆◇◆
翌日、朝10時のボーダー本部には、上層部の人間が勢揃いしていた。
本部司令、城戸正宗。本部長、忍田真史。開発室長、鬼怒田本吉。メディア対策室長、根付栄蔵。外務営業部長、唐沢克己。玉狛支部支部長、林藤匠。迅悠一と太刀川慶も、同席している。
そして、如月隊のメンバー……江渡上紗矢、甲田照輝、早乙女文史、丙秀英も、静かに彼を待っていた。
「失礼します」
扉が開く。全員の視線が集中する。
だが、入ってきたのは如月龍神ではなく、別の人物だった。
「玉狛支部の、三雲修です。如月隊員の除隊処分について、お話があります」
・紳士ウィルバー
紳士。腕っ節は作中最弱、チェスの腕前も初心者と死闘を繰り広げるレベルの紳士。とても弱い。でも、とっても紳士。
・ローライズ・ロンリー・ロン毛
紳士の部下。紳士にチェスを教え、紳士を一方的にボコボコにすることができる。強くて有能、それでいて常に紳士の一歩後ろを静かに歩く理想の部下。そのロン毛特有の有能っぷりは、東春秋に通ずるものがある。唯我尊もロン毛だが、死にかけのセミが急に動き出すのは本当にこわい。足が開いているか開いていないかでセミの生死は見分けることができるらしいので、生きていそうな時は驚かさないようにそっと横を歩こう。
・拳法家のお嬢さん
素手でコンクリートに穴を空けることができる。とても強い。ツインテールでツンデレで妹で強いので、あまりにも属性過多。小学校の卒業式には行けなかったが、中学校からは元気に通えるようになった。
・喋る犬
喋ることができる賢い犬で、拳法家のお嬢さんの弟にして、紳士の生涯のライバル。イメージをリアルにすることができる。
・紳士の上司
唐沢さんがボーダーに入る前に所属していた悪の組織の、日本支部支部長。超有能で良識もある。
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