影浦雅人にとって、いつも付けているマスクは、ただの気休めに過ぎない。
影浦の
影浦は、自分の
ただし、
「廊下のど真ん中で睨み合ってんじゃねーよ」
こういう時には、意外に便利だとも思う。
遠慮など一切ない、まるで喧嘩を売っているようなその言葉に。睨み合っていた2人……風間と二宮の視線が、影浦に向けられた。瞬間、肌に突き刺さるのは、これ以上ないほどに濃厚な敵意。どうやら、よほど『おもしろくない話』をしていたらしい。
注意を自分に向けて手っ取り早く状況を把握した影浦は、口元のマスクを下して、さらに一言。言った。
「邪魔だ。どけ」
突き刺さる感情が、鋭さを増す。
風間は何も言わなかったが、プライドの高い射手の王がそれを許すはずがない。
「……相変わらず、口の利き方がなっていないな、影浦」
「あぁ? 今にも殺り合いそうな雰囲気を垂れ流してるヤツが、礼儀語ってんじゃねえよ。鏡見て、てめーの眉間に寄った皺でも確認してきたらどうだ?」
それとも、と。
影浦はこれみよがしに自分のトリガーを取り出した。
「ストレス発散してぇなら、俺とやるか?」
トリガーを使った私的な戦闘は、隊務規定違反に当たる。影浦は既に何度も違反してポイントを剥奪されているし、今さらポイントに基づいた個人ランキングに拘る気もない。が、個人総合2位、No.1射手の地位にいる二宮はそうもいかないだろう。加えて言えば、個人的な問題を起こして上層部に目をつけられることも避けたいはずだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
その一言で、二宮も昂っていた気が冷めたのか。
殺気だった雰囲気が、呆れによって中和され、柔らかくなった。
「時間の無駄だったな」
風間に申し訳程度の一礼だけを返して、二宮は去っていく。
「……けっ。つまんねー」
その背中に吐き捨てるように唾を吐いた影浦は、そこでようやく風間へと目を向けた。
「それにしても、珍しいじゃねーか。アンタが二宮の野郎とやりあうなんて。アイツがムカつくヤツだってのは大いに同感だが、随分とらしくねーこともあるもんだ」
「……そうだな。柄にもなく、熱くなり過ぎた。お前が来てくれて助かった」
あのまま睨み合っていたら、何をしていたか分からない、と。風間は自嘲めいた口調だけでそう語っていて、ますますらしくないと影浦は思った。
とはいえ。
「……そうかよ。ま、総合2位様と3位様が何をしようが、俺には関係ねぇけどな」
率直に言って、興味はない。
例え、風間から受けた感情の色に、苛立ち以外の『感情』が乗っていたとしても、影浦はそれに関して突っ込んで、深入りする気はなかった。風間と二宮に声をかけたのも、とりあえず邪魔だったからどかした。ただそれだけのことである。この2人の関係に首を突っ込もうとは思わないし……厳密には自分の弟分の『師匠』が中心にいる問題なので、影浦隊も無関係とは言い切れないのだが……目下のところ、影浦の興味は次のランク戦に集中している。
ようやく訪れた如月龍神との勝負に。影浦は自分でもらしくないと感じるほどに、心躍らせていた。
「そういえば、次のランク戦。お前達の試合の解説は、俺が担当することになった」
そんな内心を、まるで見透かしたかのように風間が言う。影浦は片眉を上げた。
「……へぇ。そうかよ」
「今さら言うまでもないだろうが……お前にとっては、ずっと待ち望んできた如月との公的な試合のはずだ。つまらん試合は見せてくれるなよ」
「言うまでもないってわかってんなら、わざわざ口に出すんじゃねーよ。めんどくせえ」
ガリガリと頭をかきながら、風間の横を通り抜ける。
「龍神は俺の獲物だ。『黒トリの奪い合い』でこっぴどくやられたアンタも、いろいろと思うところはあるんだろーが……とりあえず、今回は俺に譲ってもらうぜ」
「……そうだな。今回は高みの見物をさせてもらおう」
「……ちっ」
影浦が来なければどうなっていたか分からない、などと嘯きながら。風間の言動は冷たさと余裕を多分に含んでおり……端的に言えば、A級3位部隊の隊長は、いつも通りであるように思えた。もちろん、それを含めて影浦にとっては「知ったことではない」のだが。
「つまんねーことで時間食っちまった。俺もいくわ」
「まて。最後に一ついいか、影浦」
「あん?」
「お前、ここに何をしに来た?」
今度こそ。
特別な意図も含みもない純粋な疑問から出たのであろうその問いを、影浦は鼻で笑った。
「わざわざ開発室にきてんだ。トリガーの調整に決まってんだろ」
◇◆◇◆
「最近、元気がない女の子を励ましてあげたい?」
こてん、と。
聞いた言葉をオウム返しに呟いて、彼女……加古望は首を傾げた。
「えぇ、まぁ……そうなんすよ」
じゃこ卵炒飯という当たり飯をもぐもぐと咀嚼しながら、甲田照輝は力強く頷いた。
「実はその……この前のランク戦で、知り合いの子と戦いまして。幸か不幸か、直接やりあったわけじゃないんすけど、ランク戦の後から微妙にその子、元気がなくてですね……余計なお世話かもしれないんですけど、なんとか勇気づけられてあげたらって思ってて……」
「甲田くんは雨取さんのことが好きなの?」
「ぶほぉ!?」
むせた。
「いや!いやいやいや!? 俺は別に雨取さんとは一言も言ってないですし、そんなやましい気持ちがあるわけじゃないですし!」
「隠さなくても大丈夫よ甲田くん。あなたが雨取さんに淡い恋心を抱いていることは、如月くんや紗矢ちゃんや丙くん、早乙女くんから聞いているわ」
「俺のプライバシィィィィ!?」
スプーンを握り締めて、甲田は絶叫する。
まさかの全員がご丁寧に喋っていた。自分のチームに口が固い人間はいないのだろうか? いないだろうな、と思った。
「べつにいいじゃない、下心があっても。好きな子に元気になってもらいたいのは当然だもの。変に取り繕って格好つけてるより、よっぽどいいわ」
「加古さん……」
思わず、振り回すスプーンを止めてじーんとなる。普段は感覚派で適当なことばかり言っている師匠だが、時々思い出したようにいいことを言う。
「そういえば、今日はこのあと、狙撃手の合同訓練があるらしいわよ?」
「え?」
「善は急げ。思い立ったが吉日って諺、知らない? 自分の気持ちは素直に真っ直ぐ伝えた方が、女の子にはモテると思うけど」
「し、師匠……!」
感動で声が出ない甲田に向けて、加古は軽くウィンクを返した。俺の師匠、マジクールビューティー。甲田の心がリスペクトで満たされる。
くわっ!と、顔を上げた甲田は、非常に幸いなことに今日はおいしかった炒飯を凄まじい勢いでかきこみ、手を合わせ、そして立ち上がった。
「ごちそうさまでした……加古さん、俺、行ってきます!」
「ええ。行ってらっしゃい」
脱兎の如く飛び出して行った甲田を、ひらひらと手を振って、加古は笑顔で見送った。
ちょうど、そのタイミングで彼女の背後の扉が開く。
「ふぃー、いい汗かいたぜ……」
「トリオン体でそんなに汗をかくわけがないでしょう。何言ってるんですか」
「いやいや、これは気分の問題……って、アレ? リーダーは?」
訓練ルームで双葉と模擬戦を行っていた丙は、炒飯を食べていたはずなのにいつの間にか姿を消している甲田を探し求めて、キョロキョロと周囲を見回した。それに付き合っていた双葉も、ほんの少しだけ眉をひそめて加古に問う。
「加古さん、甲田先輩はどこに? もしかしてトイレですか? それともお腹がいっぱいになってベッドに?」
遠回しに「炒飯食べて死にましたか?」と問うあたり、甲田が如何にこの加古隊作戦室に入り浸り、双葉がどれだけ死んだ彼の世話をしてきたかが伺える。
「ふふっ……なんか甲田くん、急用を思い出したみたいでね。今さっき炒飯を食べ終わって出て行っちゃったのよ」
「そうなんですか。なら、よかったです」
「え、マジすか? オレ、リーダーと帰るつもりだったのに……」
双葉は面倒な世話をしなくて済むことに安心し、早乙女は「先に帰るなら一言言ってくれよなー」と文句を言いながら椅子に座る。
そんな二人の前に飲み物を置きながら、加古が口を開いた。
「2人とも、お昼食べる?」
「お願いします」
ノータイムで即答した双葉に対して、丙はその一言を聞いて飲み物を吹き出しそうになった。
加古隊作戦室でお昼を食べるということは、イコールで炒飯を食べるということを意味し、さらにイコールで十分の一の確率でデッド・オア・アライブするロシアンルーレットにレッツチャレンジすることを意味する。ガッデム。
窮地を脱するべく、丙の頭脳がフル回転を開始する。加古の言っていたことが本当なら、甲田は今日の炒飯を食べても無事だった、ということだ。ならば、そこから導き出される最高最善のベストアンサーは……
「そうっすね。じゃあ、お言葉に甘えて……リーダーが食べていたものと同じやつをお願いします」
「あら? 甲田くんと同じでいいの?」
「はい。それで大丈夫っす」
我ながら、完璧な解答だ、と。丙は自分自身の機転が怖くなった。
以前、リーダーは加古さんの炒飯は本当にヤバいだのなんだのとほざいていたが、なんてことはない。外れがあるのなら、少し頭を使ってそれを回避すればいいだけの話なのだ。オレってば、マジジーニアス。丙の心が勝利への確信で満ちる。
「そう。分かったわ。じゃあ(なるべく)甲田くんのと同じやつを作ってくるから、ちょっと待っててね。双葉もそれでいい?」
「はい。大丈夫です」
「いやー、加古さん炒飯楽しみっす!」
内心で浮かれきっている丙は、加古が鼻歌を口ずさみながらカスタードクリームを取り出し始めたことに気がつかない。双葉はため息を吐いて、彼を寝かせるための緊急脱出ベッドを整えることにした。
一方、知らず知らずのうちに仲間を犠牲にし、恋路のために走れメロスした甲田照輝は、辿り着いた狙撃手の合同訓練場で重大な問題に直面していた。
(雨取さんの隣に、男がいる……だと!?)
甲田も見知っている夏目出穂。那須隊狙撃手の日浦茜は、まだいい。しかし、彼女達に混じって1人ハーレムを満喫してるあの根暗そうな狙撃手は何者だ?。甲田は、物陰からじっと千佳達を観察した。
このままでは「こんなところで会うなんて奇遇だね、雨取さん。そういえば、この前の試合は大丈夫だった?」と言いながら、さり気なくおしるこ缶を差し入れるプランが使えない。オーマイゴッド。
窮地を脱するべく、甲田の頭脳がフル回転を開始する。加古の言っていたことが本当なら、押しが弱い男に勝機はない。こうして物陰で歯軋りしながら悩んでいる暇があるなら、すぐに行動に移すべきだ。故に、導き出される最高最善のベストアンサーは……
「あ、雨取さん!」
ゴーアヘッド。突撃あるのみ。
「あ、甲田くん!」
出穂達と話し込んでいた千佳が、ぱっと顔を上げる。
ビューティフル。俺の女神は今日もかわいい……と。甲田はそれだけで幸せになった。
「やあ、雨取さん。こんなところで会うなんて奇遇だね」
「いやここ狙撃手の訓練場だし。奇遇もクソもないっしょ? あんた、何しにきたの?」
が、甲田の思い描いていた完璧な会話シミュレーションは、夏目出穂の的確な指摘によって完膚なきまでに破壊された。なんてこったそういえばここ狙撃手訓練場じゃんていうかテメェは余計なこと言ってるんじゃねぇ夏目ぇ!と、甲田の内心で罵詈雑言が踊る。
大丈夫だ落ち着け、クールになれ甲田照輝。師匠はなんと言っていた?
自分の気持ちは素直に真っ直ぐ伝えた方が、女の子にはモテるわよ?
「こ、この前の試合で! 雨取さん、人が撃てないのに相手を撃って……結果的に勝ったのは俺達のチームだったけど……その、なんていうか、雨取さん最近元気ないみたいだったから気になって……」
うまく言葉がまとまらない。伝えたいことを、きちんと口にできないのがもどかしい。
「なに? チカ子のことが心配でわざわざ会いに来たの? いいやつじゃん」
だが、それでもなんとか気持ちは伝わったらしく。出穂の何気ない呟き(という名のフォロー)もあってか、千佳はにっこりと微笑んで答えた。
「甲田くん。ありがとう」
天使か。
あまりのかわいさに、一瞬脳がフリーズする甲田。
「具体的な解決策もないくせに、よくそんなこと言えるね」
しかし、そんな幸せを、冷たい声が水差した。
「……あん?」
声の主は、やはりというか、案の定というべきか……甲田が最警戒していた、根暗狙撃手である。
「なんだ、お前?」
「絵馬ユズル。影浦隊の狙撃手だよ」
影浦隊。B級2位。次の対戦相手……千佳のことだけではなく、思わず体が硬くなる要素の塊に、場の雰囲気が悪くなる。
千佳が慌てて甲田とユズルの間に入った。
「甲田くん! あのね、ユズルくんは最近、わたしにいろいろ教えてくれてて……」
ユ・ズ・ル・く・ん!?
既に予想以上に詰まっているらしい距離感に、甲田は頭が真っ白になりかけた。俺なんて、まだ名前ですら呼んでもらえてないのに、とぶっちゃけ泣きたくなる。
だが、それはそれとして、
「納得いかねぇな……たしかに俺は狙撃手じゃない。雨取さんの悩みを、実際に助けてあげることはできないかもしれない。けど、それについてお前にとやかく言われる筋合いもないはずだぜ?」
「……ふーん。ただの馬鹿かと思ったけど。認めるべきところは、ちゃんと認めるんだ。ちょっと意外だ」
「…………なんだよ。やっぱケンカ売ってるのか?」
一触即発のやり取り。出穂は「これが漢の戦い……」と他人事のように呟き、千佳はどうしたらいいか分からずおろおろし、展開の早さについていけず、まだ一言も喋っていない茜もやはりおろおろする。日浦茜は何も知らない。
しばらく睨みあっていた甲田とユズルだったが、先に剣呑な視線を下げたのはユズルの方だった。
「……まぁ、べつにいいや。どうせ、次の試合で当たるし、そこではっきりするでしょ」
「はっきりする? 何がだ?」
「実力差」
端的に告げられた事実に、ビキリ、と。甲田は額に青筋が浮かぶのを自覚した。
「試合の記録、全部目を通させてもらったけど……今のままじゃ、Aには上がれないよ。ていうか、オレ達には勝てない」
「そんなことは」
「やってみなくちゃ、わからない? だったら、やってみようよ」
淡々とユズルは言う。
「龍神先輩は隊長やりたいって言ってたし、カゲさんも龍神先輩とは敵としてやりあいたいみたいだった。だから、オレは口出ししなかったけど……今のままじゃ、如月隊は上には行けない。ていうか、ウチに入ってくれた方が龍神先輩の強みは絶対に活かせた」
それが、甲田達の隊長にとって最善の選択肢であったかのように。
「だから悪いけど、快進撃はここまでだ」
龍神と影浦だけでなく。
「次の試合は、オレもカゲさんも本気でやらせてもらうよ。影浦隊は本気で如月隊を潰す」
「おもしれぇ……上等だ」
甲田照輝と絵馬ユズル。
ここでもまた、戦いの前に一つの因縁が生まれていた。
◇◆◇◆
「……つ、疲れた。無理。もう無理。死ぬ。あの前髪根暗、次は必ず殺してやる……」
「あ、あはは……」
三輪にこってりと、それこそ絞りカスすら残らないほどに個人戦を繰り返し、ポイントも気力も搾り取られた香取葉子は、修の隣のソファーで撃沈していた。香取も決して負けっぱなしというわけではなく、A級隊員である三輪に対してかなり善戦しているように見えたのだが、それでも地力の差というのは中々覆し難いものであるらしい。
「あのクソ師匠と麓郎はどこ行ったの?」
「あ、三輪先輩と若村先輩は、飲み物を買ってくるって……あと、何か軽く食べてくると言っていました」
「あっそ」
ごろん、と寝転がる香取。隊服のまま無防備にソファーに体を預けているその様は、少々目に毒である。
しかし、それはそれとして……最初に会った時と同じように倒れこんでいる口の悪い先輩を見て、修は最初に会った時とはまた違う疑問を香取に対して抱いていた。いくら自分が(あまり認めたくはないが)弱いとはいえ、休憩なしのぶっ続けで30戦。しかもその前から、このキツイ先輩は他の隊員とかなりの数の模擬戦を重ねていたはずだ。普通の隊員なら、音を上げるレベルのハードワークである。
だから修は、香取に尋ねた。
「……香取先輩は、どうしてそんなに一生懸命がんばっているんですか?」
「…………一生懸命?」
ピクリ、と。
修が何気なく発した問いに、香取が明らかな反応を示した。ごろん、と寝返りを打った彼女は、仰向けになったまま、見上げるように修の顔を見る。
「アンタ、アタシが一生懸命やってるみたいに見えるの?」
「え? は、はい」
「……そ。ありがと」
飲み物を買ってきた時にすら言われなかったお礼の言葉を、なぜ今言われるのか。修には意味が分からなかった。
「質問に質問を返すみたいで、悪いんだけど」
「あ、はい」
「……メガネは、なんでボーダーに入ったわけ?」
さっき自己紹介したのに、結局『メガネ呼び』なのかとも思ったが、そこは気にしないことにして。修は自分が入隊した経緯を正直に話した。
自分の家庭教師であり、幼馴染の兄に当たる人物が、1人で近界に向かってしまったこと。彼を探すため、そして近界民に連れ去られた友達を助けたい彼女のために、ボーダーに入隊しようとしたこと。先ほどの戦闘でトリオン能力の低さも見抜かれていたようだったので、最初は入隊試験に落とされたことまで正直に話した。
「え? じゃあなに? アンタ、その結果に納得できずに、勝手に警戒区域に入って上層部と直談判しようとしたわけ?」
「ええ、まぁ……」
「どうやって警戒区域に入ったの?」
「それはこう、ペンチで……」
なんだコイツ、ヤバイ。みたいな目を向けられる。しかし、ここまで喋っておいて最後まで語らないのも座りが悪い。
そして、近界民に襲われたところを迅に助けられ、彼の推薦をもらってようやくボーダーに入隊できた……というところまで話し終えると、香取はもう声すら出ないほど呆れ返っていた。
ソファーに寝転がったまま、さらに脱力して一言。
「なにそれ、ズルじゃん」
そう言われてしまうと、修としては非常に返答に困る。
「いや、その……それは、そうなんですが……」
「……ま、べつにアタシは気にしないけど。いいんじゃない? よく知らないけど、アンタメガネだし、作戦立てるのとかはうまいんでしょ? なんか麓郎もそんなこと言ってたし」
そうです、と肯定するのも微妙に気が引ける。
ブレードマスターという称号が欲しくて堪らない龍神ならいざ知らず、修は自分に『根暗軍師』というイメージを持たれるのはちょっと嫌だった。
「でも……なんか、おかしくない?」
「え?」
「家族が近界民に殺された、とか。家が壊されたとか。そういうヤツはボーダーに腐るほどいるし、アタシも家壊されてるけど……アンタの場合、知り合いのお兄さんが攫われただけでしょ?」
面と向かって「おかしい」と言われたのは、はじめてだった。なので、修は少し虚を突かれた。
「アタシへの質問、そのままそっくりお返しするわ。アンタ、なんで人のためにそこまでがんばるわけ?」
「……その前に、ぼくの質問に先に答えてもらっていいですか?」
「他人に質問する前に、自分の質問に答えろってこと? 生意気」
でも、筋は一応通ってるか、と呟いて。
香取はそこでようやく、ソファーから上体を上げた。
「まあ、いいわ。答えてあげる。アタシ、天才なのよね」
「……はい?」
「最初はスコーピオンで攻撃手ランク上げて、次は銃手。で、今は万能手やってる。そこらへんのヤツには負けるつもりないし、アンタにも圧勝したし、簡単に言っちゃえば才能あるってこと。わかる?」
それは紛れもない事実なので、頷くしかなかったが。しかし香取の語っている内容は、修の質問に対する回答にしては、かなりズレていた。
「あの、香取先輩……?」
「いいから、最後まで黙って聞け。で、えーと、そう……それで、天才のアタシは、ボーダーに入ってしばらく快進撃を続けてたけど、いわゆる『上級者の壁』ってやつにぶち当たったのよ」
「上級者の壁、ですか?」
「そ。アンタみたいなザコメガネにはわかんないだろうけど、そういうもんがあるのよ。なんていうか、強者にしか見えないたっかいハードル的なのがそびえ立ってるの」
「なる、ほど……?」
「ボーダーのトップって変態ばっかでしょ? 大学生のくせにいつもランク戦に入り浸ってるヒゲとか、暗殺者みたいなチビとか、絶対に弾を外さないリーゼントとか、カメラ目線の関西弁とか」
なんとなく知っている人物がいる気がしたが、それを言っても面倒なことにしかならない気がしたので、修はスルーした。
「特に、アタシが特に大っ嫌いなのが、アレ……いつもドヤ顔で知ったふうな口ばっか利いてくる、自分がかっこいいって勘違いしてる中二病のバカがいるんだけど」
絶対に知っている人物な気がしたが、というか自分の師匠だったが、それを言ったら必ず面倒なことになる確信しかなかったので、修は全力でスルーした。
「でも、ヒゲもチビもリーゼントも関西弁も厨二病も……全員強いのよ。みんな、アタシより上にいた。特にあのバカのことは死んでも認めたくないけど、いつの間にかチームも組んで、いきなり上位グループまで上がってきたし。ほんと、意味わかんない」
口調には、毒こそあったが。香取の言葉は、総じてその『厨二病』のバカのことを認めているようだった。
「アンタが包み隠さず喋ってくれたから、アタシもボーダーに入った理由言うわ。アタシの幼馴染、第一次大規模侵攻で親が死んでるの。家と一緒になくしてる」
唐突に告げられた事実に、修は固まった。
「それは……」
「べつに同情しなくていいから。ウチの両親は無事だったし。アンタも顔の知らない相手が死んだとか攫われたとか、そういうの想像しても困るだけでしょ」
「……」
「ま、アンタは勝手に重く受け止めるタイプか」
それはそれでいいけど、と。言った香取は、修の目の前で手のひらを広げた。
「家が隣だったアタシは、幼馴染に助けてもらった。自分の親が埋まってるかもしれないっていうのに、助けられる可能性が高そうだったアタシを優先して。手が血だらけになって、爪も剥がれて、そんなになるまで地面を掘って助けてもらった」
だから香取は、幼馴染のためにボーダーに入ったのだという。
指先を見詰めたまま、彼女は自嘲気味に笑った。
「そいつ、すごく頭いいから。天才のアタシと組めば、近界民をガンガン倒して、ボーダーの中でもどんどんランク上げて。それで一番取れると思ってたの」
けれど、現実はそうはならなかった。
「ウチのチーム、この前の大規模侵攻で人型近界民にやられたんだ。いいとこなんて一切なく、全滅した。近界民を倒してやる、とか、あの時のアタシ達みたいな思いを誰にもさせたくない、とか。そんな風に考えてたはずなのに」
特に。いつも表情を変えないポーカーフェイスの幼馴染は、心からそう思っていたはずなのに。
「…………本っ当に。弱い自分にイライラした」
握りしめた濃紫のグローブが、ぎゅっと音を鳴らす。
「で、そんな思いをしてるアタシ達を尻目に、さっき言った厨二病のバカは悠々と特級戦功なんて取ってたわけ。人型近界民をきっちり倒して、アタシ達を全滅させた黒トリガーとも戦って、きっちり戦果あげてた」
声に、熱が籠る。
「特別な理由がなくても。強いヤツは強いんだって。思い知らされた気がした」
それまで一息に捲し立てていた言葉がウソのように静まって。噤んだ口から、ポツリと声が漏れ出る。
「くやしかった」
何故だろうか。
その一言を聞いて、修はあの日のことを思い出した。
母を説き伏せて、できる準備は全て行って、万全の態勢で臨んだボーダーの入隊試験。けれど、結果は不合格。トリオンが足りない。ただそれだけの理由だけで、挑む権利を取り上げられた。
世界が、閉じた気がした。どうして自分には、ボーダーに入るために必要なそれがないのだろう、と。ただ唇を噛み締めた。納得ができなかった。だから、あんな無茶をしでかした。
────くやしかった。
「……じゃあ、香取先輩はその幼馴染の人のために……」
「は? アンタ、話聞いてた?」
「え?」
寝っ転がっていたせいで、少し乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、香取は修に呆れた目を向ける。
「ボーダーに入るきっかけは、たしかにそうだったかもしれない。でも、今は違う。アタシは……」
悔しいから。勝ちたいから。自分を助けてくれた、名前を出さない幼馴染の彼女に報いたいから。きっと、その沈黙の間には数え切れないほどの言葉があるのだろう。けれど、香取はそれを口にしなかった。
何故、ボーダーで戦うのかと問われれば、
「アタシは、やりたいことをやっているだけ」
ただ、それだけを告げる。
立場も、環境も、才覚も。違うことは数え切れないほどあるけれど。
修は、自分はこの人と少し似ているかもしれない、と。そう思った。
「……アンタはどうなの?」
「……そう、ですね。ぼくも、香取先輩と同じです」
そう。同じだ。
千佳の助けになりたいという気持ちに偽りはなく。遊真のために、そしてなにより奪われたレプリカのために、遠征部隊入りを目指すという決意は揺るぎない。そして、自分のせいで連れ去られたC級を取り戻す、と。宣言した言葉の責任を、負う覚悟も。
それでも。きっとあの時から変わらずこの胸の内にあるのは、
「ただ単に、自分がそうするべきだと思ったことをやっているだけです」
「……あっそ」
対面してから、はじめて。
香取葉子は、修を真正面から見据えて、笑った。
「おい、ヨーコ! 作戦室戻って、ブリーフィング行くぞ! 三輪は何か、用事が出来たそうだ!」
「はあ!? 何よアイツ!ほんと勝手! 信じらんない!」
またぎゃあぎゃあと叫びながら香取は、ふと思い出したように修に向ってコインを放り投げた。
「そういえば、これ。忘れてたわ」
「うわ!?」
慌ててキャッチした硬貨は、修の予想していたものよりも一回り大きい500円玉だ。
「えっ……あの、香取先輩、これ……」
「さっきの水の分と……あと、お礼」
何の?と聞き返すほど修も鈍くはないつもりだったが、しかしお礼をもらうほど何かをしたつもりはなかった。
「アンタ達が負けた如月隊は、アタシ達がぶっ倒しといてあげる。だから、次の試合はよく見ときなさい」
まるでそれが確定事項であるかのように語る香取は、修の方を振り返らないまま、言った。
「アンタ、ほんとに雑魚メガネだけど……少しは見所があると思うし。ま、精々がんばれば?」
「はい。ありがとうございます。香取先輩も、がんばってください」
さっさと離れていく背中を見送りながら、修は思う。
次の試合……自分の師匠にとっては、少し厳しい戦いになるかもしれない。
「めずらしいじゃねぇか。お前が後輩に構うなんて」
「は? アンタには関係ないでしょ?」
「まあ、いいんじゃねぇか? おまえ、ボーダー内の交友関係が狭すぎるんだよ。もっと広げてけ」
「べつに、友達増やすためにボーダーに入ったわけじゃないし」
「でも、三雲のことは気に入ったんだろ?」
「……そうね。アンタよりは、見所があるメガネだったわ」
「……おまえなぁ」
◇◆◇◆
そして、その日はやってきた。
B級暫定2位、影浦隊。4位、如月隊。6位、王子隊。7位、香取隊。
数々の思惑と、様々な想いを秘めながら。
B級ランク戦、ROUND4の幕が上がる。
次回、試合開始