どこか遠くへ行きたい。
果たして、それは正しく欲求であるのかどうかは他者の判断に委ねるとしても、時折、人間としてそう感じるのは正しいのか、間違っているのか。
遠くへ行きたい。
そう感じるようになったのはいつからか。思うに、そう遠い日のことではない。かと言って至近と呼べるほどに近しい時間ではないことは確かだ。
死人のように日々を過ごす自分を、否定したい。
しかして所詮は願望に過ぎず、それは事実を否定する絶対の要素になりはしない。現実は永遠に変容せず、ただそのままの姿で在り続けている。
己が天涯孤独なのだと認識したのは五年前、15歳の頃のことだ。
物心ついた頃から母の体が弱く、頻繁に入退院を繰り返していた。
父の顔を見たことは、記憶の限りでは一度しか無い。誰に行先を告げるでもなく、通帳と金品を持って、何処かへと蒸発したという話を聞いた。物心つく前のことだ。
幼い我が子を残してどこへ行くのか。疑問に思ったところで、子供に何ができるという訳でもない。まして、
得られたのは、己の体に流れる血に対する憎悪だけだ。
三年の後、母が死んだ。
元々体が弱いせいか、さほど衝撃は無かった。ただ、悲しかった。
引き取り先はすぐに見つかったものの、歓迎されているという雰囲気は欠片も無かった。むしろ、厄介者を押し付けられたという感情が透けて見えた。
当然だ。母はともかくとしても、不貞者を父に持ち、どんな教育を施されているのかもわからないような人間を、誰が好き好んで引き取ろうか?
その家に居場所は無かった。ただ、不快感だけがへばりついたように離れなかった。
中学校を卒業し、高校に進学したそのとき、俺は家を出た。
初めて見せるような安堵の表情を浮かべ、彼らは俺を見送った。
今日にいたるまでの五年間、連絡は一度も無い。
生来の口下手のせいか、友人らしい友人もいない。両親もいない。恋人もいない。家族もいない。
果たして、俺がこの世界に存在する意味はあるのだろうか? 生きている意味はあるのだろうか?
――――どこか、遠くへ行きたい。
叶うはずのない願望が頭を埋め尽くす。
自分のことを誰も知らないような場所に行きたい。
――もう一度、人生をやり直したい。
+ + +
茫漠とした意識の中、目を覚ました。
体が重い。どうしようもなく、起き上がるのが億劫だ。
枕元の携帯電話を手に取り、時刻を確認する。しかし、起きて行動するにも、このままもう一眠りするにも微妙な時間だった。
は、と軽く息をついて身を起こす。
視界には、狭苦しい部屋が広がっている。
六畳一間の格安アパート。壁紙はボロボロで、床板も踏めば軋みを上げる。エアコンも設置されてはおらず、窓を開けても隣のマンションの壁が見えるだけ。日当たりは最悪と言っていい。時代に取り残されたかのようなこの場所だが、紛れも無く、ここは俺の住居である。
貧乏学生には仕方のないことだ。母の保険金は、残らず法的に「保護者」に持って行かれた。返還義務のある奨学金は、おいそれと使うことができない。学費のことを考えると、他のもの全てを切り詰めて生活するしかないのだ。
重い体を引きずって洗面所へ向かう。
辛気臭い表情の男が、鏡の中にいた。
暗鬱とした、あるいは陰惨とした雰囲気を纏う、黒髪の男。
中性的な容姿の中に覗く瞳は、汚泥のように黒く濁っている。本来柔和なそれであろう表情は、まるでそのように押し固めてしまったように硬く、暗澹とした雰囲気を助長している。
――
それが鏡に映る男の名前だ。
両親も、友人もおらず、親族からは厄介払いを食らい、頼れる者すらいない。絞りカスのような人間だ。
生存の必要性すら疑わしい。
趣味らしい趣味も無く、好きなものも無い。何に興味を示すと言うことも無く、ただただ漠然と動き回る死体のように日々を過ごしている。
俺は、母が死んだその日に死んだのだ。
生物学的にはともかく、一個の人間としては確実に死を迎えた。誰に影響を与えるでもなく、誰に必要とされるでもなく、誰に好かれるでも、誰に嫌われるでもなく。
好きの反対は無関心と言うが、確かにその通りだ。
俺は今、誰からも関心を寄せられてはいない。
ふと、自嘲するように息が漏れた。
死体が物思いにふけるなど、おこがましいことこの上ない。
冷たい水で顔を洗い、洗面所を後にする。
リビングに戻り、普段着を引っ張り出す。黒を基調とした地味な服だ。
そういえば、これも暗くみられる原因になりかねないような気もするのだが、どうだろう。
――――考えるだけ無駄だ。
上着に袖を通し、携帯電話や財布をポケットに突っ込む。
朝六時。今日の講義が始まるまで、まだあと3時間近くある。とはいえ、何をするにも中途半端なこの時間、俺は持て余してしまうことだろう。
一応、俺にも習慣と言えるものがある。結論から言ってしまえばそれは散歩なのだが、この習慣ができたのは、ごくごく単純なことが原因だ。
……どこか、遠くへ行きたい。
実家から遠く離れた場所に来ても、なお募る欲求。いや、むしろ家から出た今だからこそ、その欲求はさらに強く、濃くなっているような気さえする。
どうしようもないほどに情けない逃げであることは確かだ。それでも、崩れかけた精神を繋ぎ止める方法の一つであったことには違いない。
玄関を開き、外へ一歩を踏み出す。
朝日が目にまぶしい。雑多な街並みにでさえ、陽光は差し込んでくるものらしい。視界が霞み、立ちくらみにも似た感覚が襲う。
思わず、眼を閉じる。
元より、他者との関わりの薄い俺だ。休日は一歩も家の外に出ないということも、無いではない。目の奥がきりきりと痛み、強い光に対する拒絶を示す。
昔から、どうもこの感覚にだけは慣れない。ただ、決して我慢できないほどのものではない。そも、痛みに慣れるという状況そのものが異常と言えるのだが、そういった話については割愛する。
目頭を軽く指で揉む。効果の程は甚だ疑問ではあるが、何もしないよりは余程マシだ。
痛みが引いたのを確認して、俺は目を開く。
――――と。その瞬間、俺の目に映る景色は一変した。
つい先程まで、俺はアパートの自分の部屋を出たところ、扉の前に立っていたはずだ。錆びた鉄柵と泥だらけの廊下。階下を見下ろしてみれば寂れた公園があり、いかにも「現代日本」といった風情の景色が広がっていたはずだ。
しかし、今現在俺の見ている景色はそれと正逆。
目の前にはレンガ造りの、重厚かつ背の高い壁が建っており、足元はアスファルトで固められている。壁に描かれた
ここはどこなのだろう?
唐突に変転した景色――少なくとも、俺はこんな場所など知らない。いや、そもそも、俺は「どうやって」この場に移動したのか?
方法と、理由。
そもそも、こんなふざけたことが唐突に起こり得るものだろうか。
まずもって、人間が
霊的現象であると、疑いを持つこともできる。しかし、欠片も霊感といったものを持ちえていない俺が、唐突にそれを発現することがありうるだろうか。無い、と確定的に断言することはできないまでも、常識で考えれば不可能だ。
更に、俺がここに移動してきた理由についても不明な点は多い。
先に述べた通り、俺は密に他者と関わりを持ったことは無い。母とは死別しているし、親戚とは疎遠だ。友人もいない。だというのに、俺をこんなところに連れてくる意味はあるのか?
いや、だからこそ、だろうか。他者と関わりと持たないからこそ、こうして選択され、見知らぬ地に辿り着いた――――。
妄想もいいところだ。そんな漫画のようなことは、ありえない。
……原因はともかくとしても、己の陥った状況は、素直に受け入れよう。現実として、俺はいづことも知れぬ場所で一人、佇んでいる。
諸々の問題を後回しにするとしても、まずは帰宅する方法を探さなければなるまい。仮にそれが不可能であるのならば、今夜の宿を取る必要がある。いや、それ以前に、俺の持つ貨幣が通用するかという問題もあるのだが。
周囲を見渡すと、この場所が路地裏であることが分かる。更に、道の続く先を見れば、大通りに続いていることが分かった。人通りの多い道に出れば、この場所がどこかということを尋ねられるだろう。
と、そんなことを考えながら、歩き出したときだった。
「む……」
足元に、紙状の何かが落ちていた。放置されてそう長い時間は経っていないのだろう、埃は付着しているものの、外見的には綺麗なものだ。
それを拾い上げ、埃を払って「何」なのかを確かめる。
カード。
「それ」は、一枚のカードだった。
《悪夢再び》。緑色をベースにした配色に、日本語でそのように記載されている。
物騒な名前だ、と思った。しかし、こういったものは多少オーバーなくらいの方が分かりやすくていいのだろうとも思う。
赤い月をバックに身を躍らす影が、そら恐ろしい雰囲気を醸し出している。凶悪な造形の絵柄とは裏腹に、そこに記述されている
自分の墓地に存在する守備力0の闇属性モンスター2体を選択し手札に加える。
なるほど、何のことやら全く理解できない。
自慢ではないが――自慢にはならないが――俺は、昔から趣味らしい趣味を持っていない。無駄に使うことのできる金は持ちえていなかったし、ものをねだるような相手だっていなかった。 金は入っても生活費に消えていく。この場合、趣味を持たなかったというよりは、持てなかったとするのが正しいのだろうが。
ともあれ、俺はこれが何なのかよく分からない。
ただ、言語は日本語――ということは、少なくとも、日本語は通じるようだ、とは理解できる。
何にしても、あるいは何かに使えるかもしれない。そう考え、俺は一枚のカードをポケットに突っ込んだ。
大通りに出ると、この場所の異常さが目に見えて理解できた。
まず何よりも目に付くのは、ある意味明確なほどの技術レベルの違いだ。
例えば、街頭モニターと呼ぶべきもの――本来はビルの中層にでもくっついているはずのそれが、宙に浮かんでいる。
空飛ぶ液晶ディスプレイ、とでも言えばいいのだろうか。あるいは、映像技術の進歩により、空中に映像を映し出すことが可能となったのか。いずれにしても、その光景はあまりにも異様だった。
例えば、乗用車。
旧来と同様、四輪駆動のものも多いが、一方でタイヤすら無いものが見える。駆動音は聞こえず、マフラーも存在しているように見えない。ガスを排出しないのだろうか。やはり、異様だ。
どれだけ短く見積もっても、一世紀分は先の技術であろうそれを、俺はただ茫然と見据えていた。
「君、少しいいか?」
そんな中、背後から声がかけられる。
もしや、困っている俺を見かねて、誰かが声をかけてくれたのではないか――そんな淡い期待を抱き、振り向いいた。
「何か身分証明するものある?」
黒い服に、白いバイク。特徴的な赤いパトランプ。
ああ、と得心いったように、俺は手を叩いた。
職質だ。
+ + +
「所持品は財布と、使えもしねえケータイ一つ、それに、カード一枚……と」
頬に傷のある男が、俺の所持品を引っ張り出して確認している。
結局、俺は己の身分を証明することができず、警察署の取調室へと連行された。
学生証、保険証、免許。ありとあらゆる手段を用いて説得を試みたものの、全ての身分証の真偽を疑われ、結果、こうして警察署まで連行されることとなったのだ。
なんとも不思議なものだ。携帯電話は電波が入らないし、身分証は効果が無いなどと。
「お前、本当にサテライトから来たんじゃねえだろうなぁ」
男が、俺の顔を覗き込む。
「サテライトとは、
答えた瞬間、がくりと男は頭を落とす。
想定外の答えだったのだろうか。
「あのなぁ……サテライトっつったら、ネオ童実野シティの最下層に決まってんだろうが! 何だぁ、お前そんなことも知らねえのか!?」
「不勉強なもので、申し訳ありません」
「………………」
呆れたように、男は頭を抱えた。
「世間知らずの坊ちゃんかよ……? ったく、俺ァサテライトのクズの追跡で忙しいってのに、何でそこらの不審者の取り締まりなんざせにゃならんのだ……」
「失礼ながら、不審者の取り調べというのも警察官の責務の内では」
「分かってんだよそんなことォ!」
何を怒っているのだろうか。俺は怒らせるようなことを言ったのだろうか。至極当然のことを指摘しただけなのだが。
警察官僚の汚職事件が増える昨今、末端のいち警察官ですらその影響を受けているのだろうか。だとしたら忌むべきことではあるが。
「はぁ……もういっぺん聞くぞォ。名前、年齢、職業は?」
「城戸成瀬。年齢は19歳、大学生です」
「……って言うけどよォ、それに該当する市民情報がひとっつも無ぇんだよ。こいつぁどういうことだ?」
「と言われましても、自分は何も分かりません」
「またか……」
再度、男は頭を抱え始めた。
「マーカー付きでもなし、最近になってサテライトから脱走者が出たって話も聞いてない。サテライトから来たクズだってんなら辻褄は合うんだが……」
ぶつぶつと、俺の目の前で何事かを呟く。
その「サテライト」という場所は刑務所か何かなのだろうか。クズと罵り、脱走などと語る以上は、そのように感じてしまう。
「失礼ですが」
「あぁ?」
「浅学の身で申し訳なく思います。可能であれば、サテライトなる場所について話をお聞かせ願いたいのですが」
「クズの掃き溜めだ」
吐き捨てるように、男はそう言い切った。
「犯罪者の巣窟みたいなもんだ。ロクデナシの住処ってとこか」
語る男の目に、怒りが浮かぶ。
単に見下しているとか、そういった問題ではない怒りだ。憤怒と言い換えてもいい。何か、そのサテライトとやらの住人から被害を受けたのだろうか。男の口からは、語られることは無い。
「しかし、参ったなこりゃ。身元が分からんって以外は単に挙動不審ってだけだし、現行犯で何かやらかしてるわけでもないと来た。マーカー付きでもないし、逮捕状出せるわけでもない。……もう適当なとこで釈放でいいか?」
事実、俺はやましいことは何もしていない。あえて言うならば、カードを拾ったことで拾得物横領罪に問われる可能性が出てきたという程度だ。しかし、このまま預けると言えばそうそう罪に問われるようなことも無いだろう。
うん、と己の無実に絶対の確信を得ていると、唐突に、男の背後の扉が開いた。
「牛尾さん、なんか女の子が訪ねてきたんですけど……」
「女の子ぉ? どこのどいつだ、そりゃ」
「詳しいことはまだなんとも……あ、でも、『挙動不審者が補導されてこなかったか』と、」
「随分とまあピンポイントなことだなオイ。お前、心当たりはあるか?」
俺は首を横に振った。そも、見知らぬ土地で偶然に知り合いと出くわす可能性が、どれほどあるだろうか。
訝しむように、男が訊ねる。
「矢ヵ城ォ、どんな嬢ちゃんだった?」
「小学生くらいですかね。金髪で、上から目線でなんか無茶苦茶偉そうで」
心底嫌そうに、男の表情が染まった。
知り合いなのだろうか。それとも、単にそういった手合いが苦手なだけか。表情からそこまでを推察することはできなかったが、その理由はすぐに理解できた。
「邪魔するぞ」
突如、轟音を立てて取調室の扉が開いた。
哀れなことに、矢ヵ城と呼ばれた警官はそれに巻き込まれ、扉と壁に挟み込まれるようにして押しつぶされた。立派な過失傷害である。
「む、牛尾か。そいつが例の男か?」
わずかにかすれたような、子供特有のソプラノボイスが耳につく。しかし、口調はそれとは裏腹に、尊大で無礼なものだ。不釣り合いなことこの上ない。
思わず、声の主を捜す――と、扉の前に、一人の少女がいた。
まず目についたのは、腰元まで届こうかという長いブロンドの髪だ。次いで、その小さな体躯に目が移る。身長は140センチ前後だろうか。小学生と同じような……ともすれば、最近の小学生よりも発育は悪いかもしれない。
だというのに、着用している衣服はぶかぶかの袖余り。大人が着るようなボロボロのロングコートを羽織っているのだから、それも当然だろうが。
何と言うべきか。子供が無理をして、自分を大人っぽく見せようと頑張っている風にも捉えられる。微笑ましいというか、可愛らしいというか。
「
「私の探している人材が見つかったと報告が上がったのでな、こうして私自らが出向かせてもらった。それで、一切の情報が無いという男はそいつか?」
「まあ、そうだけどよ……」
「くく……なら、話は早い。その男の身柄、私が預かろう」
おまえは何を言っているのか、と言いたげに、牛尾と呼ばれた男は顔をしかめた。
「ガキが何を言ってんだか」
「私はもう13だ。ガキと呼ばれるような年齢は脱した」
「十二分にがきんちょじゃねえか」
まったくもって同感だ。義務教育の期間中であれば、「子供」と呼ぼうが何ら問題は無いだろう。
「とにかく、とっとと帰れ帰れ。子供の相手なんざしてらんねえんだ」
「ほう。いいのか? 貴様……例の件を公表されたいか」
「おま……!? 普通セキュリティを脅迫するかぁ!?」
脅迫罪。とうに理解しているだろうが、立派な犯罪である。
子供にしては豪胆、と褒めるべきか、あるいは大馬鹿者と責めるべきか。いずれにせよ、俺にこの状況を止める術は見当たらない。
「私は『普通』ではない。知っているだろう? その程度のことで私がとやかく言われることは無いと。クク……治安維持局長官との繋がりというのは、存外大きなものだなぁ?」
「こ、このガキ……!!」
けたけたと、少女は楽しげに笑う。
話を聞く限り、この少女は「治安維持局」とやらの長官とのコネがあるらしい。
警察――この場合はセキュリティと呼べばいいのだろうか。その上位機関の長官ということか。ならば、ある程度の事件の隠蔽など、簡単にやってのけるだろう。それこそ、トカゲの尻尾切りと同じ要領で。
しかし、こんな少女がどうやってそんな繋がりを手に入れたのか。疑問は募るばかりだ。
「いいか、その男は私が預かる。二度も言わせるな」
「……ええい! すまんな、城戸。お前の身柄はこのガキんちょが預かるそうだ」
「そうですか」
自分の与り知らぬうちに、とんとん拍子に事が進んで勝手に身柄を預けられる。なるほど、なかなか恐ろしいものだ。
こんな状況に陥ってなお冷静なのは、非現実的なことが立て続けに起こっているからだと信じたい。
「では、とっとと行くぞ。こんな辛気臭い場所にいつまでもいられるか」
言って、少女は俺の手を引いて部屋から連れ出した。
もう一人の警官が扉に挟み込まれたままだったようだが、彼はどうなったのだろうと不安になった。
+ + +
近未来的な街並みを、少女と二人で歩いていく。
警察署を出てからというもの、俺は彼女と一言も会話を交わしていない。俺が口下手なせいもあるが、彼女が頑なに言葉を発そうとしないことも原因の一つだ。
なぜ、どこに向かっているのか。それすらも分かっていない現状、俺が口を出すこともはばかられる。
五分ほど歩いた頃だろうか。唐突に、少女が進路を変えた。
見たところ、行先は人気のない路地裏のようだ。何故、こんな場所を選択するのか――――怪訝に思いつつもついていくと、人目につかない場所で、少女は立ち止まった。
「ここらでいいか」
ここに来た時と同じような路地だ。ガラクタが道の端に積まれており、それ以外に何かあるわけでもない。退廃的な雰囲気の場所。
何故、ここまで来て「ここでいい」のか。
「他人に聞かれるのは好ましくないのでな、少し人気のないところを選ばせてもらった。さて――城戸成瀬、だったな?」
「違いなく」
「初めまして、と言うべきなのだろうな、こういう場合は。私の名は
――――いずれこの世界で王になる者の名だ」
「王、ですか」
某野球監督ではないだろう。
性別が女性である以上、単に「王」とするよりは「女王」とするのが適当なのだろうが、何故あえて「王」と表現したのか。些末なことかもしれないが、多少気になった。
というよりも。
「真岡さん」
「何だ? この私の大きすぎる目標を耳にしてぐうの音も出ないか?」
得意げな表情でそんなことをのたまう真岡氏。
いえ、と前置いて、
「今が思春期の多感な時期であることは理解できますが、可能でしたら己の言動を省みるべきでしょう。いずれ何らかの原因でそれを振り返らなければならなくなったとき、真に恥に感じるのは己です」
「厨二病じゃないわぁ!!」
頬を叩かれた。
何故だ。
「それよりも、もっとこう……注目すべき部分があるだろう!? 気になる部分があるだろう!?」
「貴女の性別では、王ではなく女王では」
「そっちじゃない!!」
またも頬を叩かれた。
納得できん。
「いいか。私は『この世界』と言ったんだ。普通はそんなことは言わないだろう。分かりきっていることは省くべきだからな」
成程、と頷いた。
確かに、あの文言は色々とおかしな部分が多い。先に述べたものもそうだが、それ以上に省くべき言葉を省いてはいないのだ。
世界の王になる、とするならば、「この」世界という言葉は多少不自然だ。「この」も何も、俺たちの知る世界は一つだけだ。仮に特定の界隈の話――例示すれば格闘技などの話の最中に「この世界で」と言うのならば容易に理解できるが、話の流れを切って唐突にそんなことを言われても、意味不明の言葉にしか感じられない。
つまり。
「自分は国語の教師ではありません」
「わざとかオノレあああああぁぁぁぁ!!」
咆哮と共に脛を蹴られた。
鈍い痛みが響くが、倒れるわけにもいかない。
しかし、俺は真剣に解答しているはずなのだ。何故それがこの少女の逆鱗に触れるのだろう。
「ぜぇ、はぁ……い、いいか。ここは、お前の知る世界とは違う。別世界――異世界と言い換えてもいい」
「成程」
「………………」
「………………」
「もっと驚け!」
理不尽にも顎を掌底で打ち抜かれてしまった。事実を飲み込んだだけだと言うのになんという仕打ちだ。
「しかしながら、状況を鑑みれば、それも決して突飛な理論ではないように思います。ならば、否定の必要性も無いのではないでしょうか」
「いや、そこは驚いておけと。常識で考えればありえないだろう」
「己が体験したことが真実であり、常識は関係ありません」
「理解できるのがまた腹立つ……!!」
己にしか理解できない言葉を吐くのは愚かしさの極みだと、俺は思う。
しかし、異世界。
確かに、これまで幾度となく違和感を覚えていた。遠くへ来てしまったのだとしても、あの驚嘆に値するほどの技術力や、何故だか通用しない身分証など、その証左となりうるものはいくらでもあったのだが。
遠くへ行きたいと願いはしたが、単純に遠方へ来たというだけの話ではなくなってしまった。あるいは不可逆であり、永遠に元の世界に戻ることができないという可能性もある。
恐ろしい話だ。
「とりあえず、敬語はやめてくれないか。気分はいいが居心地が悪い」
「諒解した。これでいいか」
「……い、いきなり変わるのだにゃ」
不思議なものである。自分が要望したのではないだろうか。
「初対面で不躾な口を利くものではないと教わっていたから、どうしてもああした口調になってしまった。息苦しかったと言うなら謝る」
「う、うむ。いや、苦しゅうないぞ」
先程と口調が変わっていないだろうか。もしや、こちらの方が素なのか。
「では聞かせてもらいたい。なぜ、ここが別世界であるとの確証を得たのか。俺には全く理解できなかったのだが」
「う、うむ。ではまず、何故ここが別世界だと思ったのか、からだな」
慌てたように、あるいは取り繕うようにして、真岡は続ける。
「簡単に言えば、現実にありえるはずのない世界だからだ」
「……確かに」
あの科学力・技術力は目を見張るものがある。一瞬は未来に来てしまったのではないかと錯覚したほどだ。
「うむ。警察ではなくセキュリティという呼称、治安維持局の存在もそうだが……何より、あの海馬コーポレーションの存在が、私に確信を抱かせた」
「すまない。その海馬コーポレーションというのは一体なんだ? 何らかの事業主であることは分かるが……」
「……!?」
俺の発言に、真岡が目を見開いた。
何だ。そこまで驚くべき発言だったのだろうか。
「ああ――いや、成程。そういうことか。貴様、『遊戯王』を知らないな?」
「話に聞いたことはある。カードゲームの一種だと。触れる機会は無かったが」
心底予想外という表情で、真岡は俺の顔を舐めるように見据える。
全人類が同じように、同一の知識を有するなどと言うことはありえない。どんなに有名で高名な事柄でも、相手が知らないことを一応は想定して語りはじめるべきだろう。
「まったく、1から説明するしかないか。面倒な」
などと呟いてはいるものの、真岡の表情は得意げだ。
相手の知らないことを自分が知っているから、あるいは、それを教えることができるから優越を感じているのか。
「元々、遊戯王はカードゲームとして生まれたものではない。漫画を原作として作られたものだ」
つらつらと、真岡の口から知識が語られていく。
「人気が出るにつれ、アニメ化、続編の製作などが行われた。カードゲームとしての売り上げのギネス記録に載ったこともあり……TCGの元祖と言うべきMTGに歴史は劣りはすれど、アニメは十年以上の歴史を誇る。私たちがいるのは、その三作目。『
「……納得した。酷似しているというのは、人物も含めての話か?」
「うむ。いや、むしろ、私が確信したのは人物を見ての話だ。アニメに登場していた人物がいたからこそ、この世界が何なのかが理解できた……と、言いはするが、実際にそれそのものの世界であるのかは、不明だがな」
確かに、風景や社名という程度では、確信に至るには遠いと言えるだろう。確率は低いまでも、偶然の一致として片づけることもできるからだ。
「と、まあそういうことだ。この世界は『そういう世界』なのだと思ってもらいたい。カードの腕が最重要という、な」
「奇怪な世界だ」
正直に、感想を述べた。
「だが、これから貴様の住む世界でもある」
返答は厳しかった。いや、これが正しい対応なのだろう。
至極楽しげに、真岡は述べる。
「ようこそ、『奇怪な世界』へ」