決闘世界の漂着者たち   作:桐型枠

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8.距離(distance)

 

 

 

 

「――――世界とは、どうして成り立つんだと思う?」

 

 ある喫茶店の店内、テーブル席の一角に、俺は座っていた。

 眼前には、先程出会った、恐らくは高校生と思しき少女。ニヤニヤと、その整った容貌には不釣り合いな、少々下卑た笑みを浮かべながらに語りかける。

 

 実に哲学的な問いだ、と思う。なぜ世界が成り立っているのか。そのようなことを理解できる人間など、この世に存在しているのかどうか。たとえ理解できたとして、それを説明できるのかも疑わしい。

 難しい質問だ。それ故に、一般的な回答を出すとするなら、こうだろうか。

 

「自然現象の積み重ねによる、偶然では」

 

 曰く、かつて宇宙の創生に際してビッグバンと呼ばれる現象が起き、爆発的に宇宙が膨張することで、この宇宙が成り立って行った。その後、何らかの作用によって無数の惑星が生まれ、消え……地球という星が誕生し、そこで生命が生まれた。

 そうして幾多の生物が進化を重ね、ヒトという種が誕生し……確固とした「認識」や「言葉」を得たことにより、現在の我々の認識する「世界」というものが成り立っている。

 

 そこには無数の偶然が入り混じり、少しでも何かが違えばこの世界というものは存在していない。故に「偶然」。

 そう答えた俺に対し、少女は仕方がないとばかりに頭を振った。

 

「一般的で模範的な解答ありがとう。でも、もうちょっと別の視点から見てほしいな。そう、例えば――――ボクらの立場から(・・・・・・・・)とか、ね」

 

 立場。

 立場……とは、つまり。それは、人間といった広い範囲ではなく、かといって社会的な立場のそれでもなく。異邦人。「異世界人」たる人間の立場から見て、と言う意味、だろうか。

 

 だとして。

 何故、この少女はその事実を知っている。

 

「おおよそご推察の通り。ボクも同類だよ」

 

 知らず顔が強張っていたのか、少女は「怖い怖い」と、諸手を挙げておどけて見せた。

 緊張は収まらない。されど、気にした風も無く、少女は続けて言う。

 

「さて、世界が成り立つために必要なのは、『観測』じゃあないのか、とボクは思う」

 

 観測。見られることによって、か。

 

「マンガやゲーム。小説もそうだけど、これも一つの小世界と言えはしないかな? 日々生まれては消えていく……人に『観測』されることで世界が成立しているからね」

 

 少女は滔々と語る。己の持論か、あるいは真実か虚構か、そのどちらもか、を。

 その表情からは、愉悦のそれ意外には読み取れない。

 

「それら物語の世界は、終端(エンディング)を迎えることによって『閉じる』。そこで世界そのものが終わってしまうんだよ、残念ながらね」

 

 どんな駄作でも傑作でも、それは同じさ。少女は、先程と変わらぬ調子で告げた。

 

 当然のことだ。生物であれば必ず死が訪れるし、モノであればいずれは壊れて消えていく。終わらない物語など、存在しないのだ。

 稀に作者が死亡したりといった要因で未完のままに終わりを迎える作品もある。だが、それとて「終わり」に違いは無い。

 

「ボクらは元々、ボクらの世界を『観測』して生きてきた。そしてまた、『物語』という世界をもね。だが、物語が終われば世界も終わる。作られた世界に感情があるのなら……たまったものじゃないよね」

 

 つまり?

 そう問いかけると、少女はその言葉を待っていたかのように、答える。

 

「終わる世界は、新たな『観測者(オブザーバー)』を求めるんだ。『世界』として終わることがないよう。己の存在を一個の世界として確立するために……『観測者』を、内包しようと願う」

「……では、何故我々は、この世界に?」

 

 物語さえも世界の一つであると言うならば、世界とは無数に……無限に存在することになる。ならば、何故俺たちは、この世界にやってくることになったのだろうか。

 そこに何らかの意図はあるのか? あるいは、無作為に選ばれた末のことか?

 

「さてね、案外誰でも良かったんじゃない? そうした指向性は、ボクには読み取れなかった」

 

 大仰な動作で、少女は嘆息する。

 その芝居がかった動作にどこか既視感を覚えながらも、少女の言葉を反芻し、考察する。「読み取る」というその言葉と、これまでの言動。自らが異邦人であると告げたこと――――。

 

 ――――彼女は恐らく、平行世界の存在を証明するものを、持っている。

 それを「どう」するつもりなのかは、分からないが。

 

どうしてほしい(・・・・・・・)?」

 

 俺の思考を見透かしたかのように、少女は問いかける。

 表情に出したつもりも、まして言葉に出してもいなかったはずだ。

 

「人間の思考は分かりやすいものだよ。たとえ表情が変わらなくても、人間である以上はその枠からはみ出した思考はそうそうできない」

「……画一的に、人間の思考を決めつけるのは、いかがなものかと」

「あはっ、まったくその通り。たまにいるんだよね、まるでわけの分からないひと。そう、例えば……キミみたいな」

 

 瞬間、彼女の見せていた笑みの種類が、変わった。

 どこか俗的な、ともすれば卑しいほどのものだったそれが、獰猛で攻撃性を帯びたものへ。ただ眼前の俺に対して……その喉を噛みちぎらんばかりに。

 

「――――さて」

 

 と、軽く息を吐いたその時、相手から発せられていた威圧感が消失した。

 どうやら、気持ちを切り替えたらしい。

 

「恐らくはご察しの通り、ボクは平行世界の存在を証明できるものを持っている。ナンバーズ、と呼ばれるカード群なんだけどね。その何枚かを、だ」

 

 ――――ナンバーズ。先に手に入れた、希望皇ホープ……あれも、確かナンバーズだったはずだ。エクシーズモンスターと言う異彩のカード。存在するはずがないと、叶も言っていたはずだ。

 

 あのカードがアカモートから排出されたことを考えるに、あれを送り込んできた者も、平行世界に関する情報を握っていると見ていい。

 また、この少女がナンバーズを保有しているとなると……連日の爆破騒ぎは、彼女か、あるいは彼女の仲間の仕業、とも考えられるか。

 

「少し話が変わるけど……人は人を認識し、観測できる。それと同じように……『世界』もまた、他の世界というものを観測できるんじゃないか、と推察できはしないかな?」

 

 話が途端に極大化したような気がするが、人と人、という議題をそのまま世界に置き換えただけだ。そう考えれば、ある意味で理解できる、ような気もする。

 無論、納得できるかと言われれば厳しいものがあるが。

 

「人が人と関わることで記憶を蓄積していくように、世界も他の世界を観測することで『記憶』……世界の情報を蓄積していく。そうしてそれらは、存在するはずのないイレギュラーなもの……ナンバーズというカードとして抽出された」

 

 世界の情報、記憶……まるで人間のようだ。

 

 ガイア理論という言葉がある。地球とそこに住む生物が相互に関係し、結果として地球全てがある種の巨大な生命体であるという考え方だ。

 また、惑星にはそれそのものの意思が宿るとも語られることが往々にしてある。そういった理論を、全宇宙を含むこの「世界」に当て嵌める。少女の語るそれは、そうした考え方が基盤としてあるのだろうか。

 

「世界にも、人間と同じように『意思』というものが存在するんじゃないか。まったく同じものとは言えないけれど、ボクはそう仮定している。故に、世界そのものの情報を込められたナンバーズにも、同様の意思が存在するともね。

 ……ナンバーズを手にした時、急に体調が悪くなったりは?」

 

 先程の出来事を思い出す。言われてみれば……確かに。

 

 《No.39 希望皇ホープ》。あのカードを手にしたその瞬間、体に猛烈なまでの不具合が訪れた。融けた鉛を上から注がれているかのように体が重く、息苦しく……。

 

「――――世界が、人を選ぶ」

 

 少女は、口の端を吊り上げて、言った。

 

「己を扱うに値する者を、ナンバーズのカードそれ自身が選ぶんだ。先に言った体調不良は、“世界”との不適合……拒絶反応。誰もが選ばれるわけではない」

 

 そうなると……叶は、世界に選ばれたということになるのだろう。

 どのような世界かは、想像もできないが。あのカードに内包された世界に、己の主であると認められた。

 

「ボクも持っているよ。今所有してるのは、あくまで自分と適合したものだけ、だけれどね」

 

 だけど、と前置き、少女は二枚のカードをこちらへ提示した。

 いずれも、その枠は――――黒。

 

「残念だけど、ボクはこの二枚からは選ばれなかった。こうして持っている今でさえキツくてね……適合しないカードを持っていても意味は無いし、キミにあげるよ」

 

 ――――と。一切の躊躇いも無しに、少女は俺に、二枚のナンバーズを手渡した。

 先程訪れたような不調は……無い。微笑む少女に対し、俺の表情は更に硬くなってくる。

 

「……目的、は」

娯楽(・・)

 

 何の見返りも無しに、他人に施すだけなどありえない。そのような考えから出た俺の疑問を一蹴するかの如く、少女の口からその目的が発せられた。

 

 娯楽。ただの――――娯楽。

 

 楽しいから、する。

 俺には理解できない動機だった。楽という感情を理解できないが故だろうが……だとしても、実利を捨てることは、どうあっても俺の中ではありえない。

 混乱する俺に対し、更に少女は語る。

 

「元の世界には何の面白味も無かった。誰もかれもが画一な思考を持って、規則で雁字搦めにして『人間』を縛り……努力をしても何を変えられるでもなく『出る杭』として叩かれる。無能たれと常に押し込められる世界。だから……ほら」

 

 ボクはこの世界を存分に楽しみたいんだよ――――。

 

 邪気を感じさせないような柔和な笑みのままに、少女はそう言ってのけた。

 次第次第に、その表情の異様さが際立っていく。素面でこのようなことが言えるものか? もしそうだとするなら、それは常軌を逸していると言ってもいい。あるいは、狂気の中にいるか。

 

「……お前、は」

深宮才華(ふかみやさいか)

 

 知らず口に出していた疑問に、少女が応える。瞬間、体中の血液が沸騰したような感覚が湧き上がった。

 深宮。俺にとっては二番目に忌むべき名(・・・・・)。かつて、母と父以外に唯一、深く関わることとなってしまった家。俺の母の遺産の全てを、奪い取って行った――――。

 

「それじゃあ、また。次はまともな感情を見せてほしいな」

 

 カップに残るココアを飲み干し、少女は席を立つ。

 その姿からは、先程のような狂気など、一切感じ取れなかった。

 

「…………………………」

 

 少女……深宮が視界から外れると同時、力が抜けていく。目の前のカップの中では、一口も手を付けられていない、冷めたコーヒーが揺れていた。

 

 過去の亡霊を、消しに来たのか。現在を生きる、仇敵が。

 

 沸々と、何かが湧いてくる。訳の分からぬままに、ただ奇怪な感覚だけが、胸を焼いていく。

 感情、だろうか。少なくとも、それはプラスのそれではないだろう。

怒り。苦しみ。憎しみ。あるいは悲しみ。恐らくは……そうした類のそれであるはずだ。

 分からない。どんな感情なのか……分からない。今、俺が感じているコレは、一体何なのだろう。

 

 そもそも、彼女が話していたことは全て真実なのか? という疑問もある。表情を見ても嘘をついているようには感じられなかったが、訓練次第である程度は何とかなるという。

 ただ、彼女の言うことを全て真実であるとするならば、これまでに起こったことのおおよそが説明できて……。

 

 混乱の最中、どうにかして己を鎮めようと、周囲を見る。と、視界の端に何かが見えた。丸々とした胴体に八本の足……蜘蛛、か。

 蜘蛛と言えば、他の多くの「虫」と同一視しがちな者が多いが、その実態は節足動物であり、蟹や海老の仲間であるという。

 と言うと、海老や蟹などを敬遠してしまう者が多いが、考えを逆転するのはどうだろうか。すなわち、そうした食材となる動物が蜘蛛の仲間なのではなく、蜘蛛がそうした高級食材となる動物の仲間なのだと。

 もしかすると、蜘蛛も調理してみれば意外に食べられるのかもしれない。あくまで思考に留まり、実行に移す気にはなれないが。

 しかし、飲食店に蜘蛛が発生しているというのは、店員はもう少し憂慮すべきだろうと感じる。手入れが行き届いていないと捉えられ、クレームを入れられかねないという可能性があるからだ。

 しかし、社員ならばともかくとして、アルバイト店員であれば、仕事に対するモチベーションが上がらないことも事実。昇格や昇給が無い以上、真剣に仕事に取り組む理由など、金銭以外にないだろうからだ。

 この喫茶店は一般的なチェーン店だ。当然、アルバイトも多くいることだろう。それなら、この状態も仕方がないのかもしれないが……。

 

『見つけたぞ』

 

 ――――瞬間、声が響いた。

 

 徐々に落ち着きつつある脳内に、冷や水を浴びせかけられたような緊張感が漂い始める。

 何だ。誰だ、今の声は――――。

 

『良質な……心の闇だ』

 

 地の底から響くような重低音。低く、しゃがれたような……男の声。

 傾きつつある陽の光。陰りつつある空の中で、その声は異様なまでに響いていた。

 

『――――借りるぞ、その体』

 

 途端、全身の力が抜けていく。

 徐々に歪みつつある視界の中、奇怪に輝く左腕だけが、いやに目立っていた。

 

 

 

 + + +

 

 

 

「……………………」

 

 自分以外に誰もいない部屋の中、叶は沈痛な面持ちで受話器を握りしめていた。

 延々と、待機音ばかりが鳴り響く。

 

 これで何度目だろうか。電話に出ることができないのでメッセージがあればメッセージを、という内容の無機質な声が、通話口から鳴り響いていた。

 普段と同じ状況であれば、彼は当然のように2コールする頃には電話に出ることだろう。そもそも、何度も電話を掛けなければならない状況そのものがおかしい。

 

 何が起きているのか、と、叶は自問する。

 彼を恐れてしまったことを、成瀬自身に知られてしまったのだろうか、と感じる。だとして、それ故に連絡を受け取らないのか、とも。

 

 叶の胸中に、自責の念が生まれる。あるいは彼女に責任は無いのかもしれない――事実、彼女に責任は無い――が、状況を考えると、叶にはどうしても、自分に責任があるようにしか思えなかった。

 

 かつてもそうだった。

 誰かが自分の下から離れていくときは、彼女に責任があることが多かった。故に――――叶は、この事態にも、己に責任があるものと、思い込んでいた。

 

 だから、恐ろしい。

 その事実が……恐ろしい。

 また離れていくのか、と叶は懊悩する。

 もしも、彼が戻ってこないのなら――――。

 

 妄想に近しい最悪の想像。想定と言うにはあまりに荒唐無稽で、状況を考えればそんなことはありえないものと理解できるものだろう。

 

 しかし。されど。

 彼女には、どうしても最悪の妄想が拭えなかった。

 

 

 

 + + +

 

 

 

「元」キング、ジャック・アトラス――――。

 

 ほんの数日前までネオ童実野シティの頂点に君臨し、その地位を確固たるものとしていたその男は、ただ一度の敗北により、その座を追われていた。

 

 宿命のライバルとも言うべき男――――不動遊星。

 

 かつて己が覇道のために、《スターダスト・ドラゴン》と彼の開発したD-ホイールを奪い取った。そして……仲間を捨て、絆を捨て、全てを犠牲にし……かつて渇望した王者の座に就いた。

 だが、遊星は何も捨てずにシティに来た。そして、ジャックを打倒し――――新たなキングの座に就いた。

 嫉妬した。何故、奴は何も捨てずに全てを掴めるのかと。

 そうして、憤怒した。自らの力不足に。遊星に敗北した己自身に。

 

「いい加減……一人にしてくれ」

 

 狭霧御影。「キングである」ジャック・アトラスの専属秘書……。

 ジャックに対して献身的に尽くし続けるその姿は健気であろうが……一方で、キングの座から引き摺り下ろされたジャックにとって、それは苦痛でもあった。

 

 その様子を表情から察したのか、御影は一礼し、沈痛な面持ちで部屋から出て行った。

 

 ――――足音が遠ざかるのを確認したうえで、ジャックは、ベッドの横に立てかけてあった己のデュエルディスクを手に取った。

 

「む……ぐぅ……!」

 

 無理な体勢を取ったせいか、全身に激痛が走る。そもそも、数日前までは面会謝絶の重症患者だったのだ。平均的に時速200キロ以上の速度を出すバイクに搭乗し、大クラッシュを引き起こした以上、死んでいてもおかしくはないだろうと言えた。

 どうにか届いた指先で、デュエルディスクを引き寄せる。無論、と言うべきか、ホルダーにはジャックの愛用しているデッキが収められていた。

 

 御影を部屋から追い出したことには、もう一つの理由がある。病室から抜け出すことだ。

 監視の目があれば……そうでなくとも、常識で考えれば、重症患者を外へ出すような真似はできない。自由に部屋から出るためには、まずは御影を部屋から追い出す必要があった。

 目的は無かった。もう一度遊星とデュエルをするのもいいだろう。あるいは、キングとして返り咲くことも考えられるかもしれない。

 ただ、今の状況が逃避だということは、ジャックにも理解できていた。それでも……我慢できないこともあった。

 ベッドから立ち上がり、上着を羽織る。デュエルディスクをバッグへと突っ込んで、外に誰もいないということを確認し、ジャックは病室から飛び出した。

 

「あぁ!? ジャック!」

 

 部屋を出ると、一人の女看護師がジャックの病室へと向かっていた。自分の名前を呼ばれはするが、病院という関係上、よくあることだ。そう判断し、ジャックはどこか慌てたような様子の女を尻目に、出口へと向かって進んでいく。

 

「ああ、あ、ああああ、あの、ああああ……」

「――――む?」

 

 通路の奥から、何者かが近づいているのが見えた。

 男だ。どこか陰鬱で陰惨な雰囲気を漂わせた男。両目は汚泥を凝り固めたかのように、光が無く無機質な黒。同色の髪を見るに、国籍は日本などの東洋系か。身なりを見るに、サテライトの人間やトップスというわけでもなさそうだ。マーカーが無いということは、ごく一般的なシティの住民だろう。

 背は170~175と言ったところか。日本人として見るならごく一般的だと言えるだろうその容貌は美しいとも醜いとも言えず、ただ中性的に整っている。外見だけを見れば少年のようだが、実年齢までは想定できない。

 多くのシティの住人がそうであるように、その左腕にはデュエルディスクが装着されていた。

 

 その時点で終わっていれば、只者ではないまでも、ただの見舞客ということで素通りしていたことだろう。ある一点……鈍く輝く左腕の痣を見たその瞬間、全ての考えが吹き飛んだ。

 

「なっ……どういうことだ! 何故その痣が……!?」

「あーっ! あの腕の光……」

 

 偶然にも隣に立つ形になる女が、ジャックと同時に反応を示した。

 応えず、男はデュエルディスクを展開する。

 

『私は……ダークシグナー。五千年の時を超え、冥府より貴様を迎えに来た』

 

 どこかくぐもったような声。本来のそれであろう暗澹とした声に重なるようにして、重厚な低音が聞こえてくる。

 シグナーの、ひいてはそれらを集めるべく暗躍していたゴドウィン……その関係者だろうか、とジャックの頭に疑念が広がる。

 

『――――光を奪うべく』

「ダークシグナーだと……?」

 

 事態を把握しきれず、男へと訊ねるジャックの眼前に、先程の看護師の女が立ちはだかる。

 

「だ、ダメよジャック! 普通のデュエルじゃない! 遊星も同じ痣を持つ人と戦って……」

「何――――遊星が!?」

 

 己に勝利した男。ジャックにとっては、終生のライバルとも呼ぶべき相手。現在はキングとしてジャックの頭上に君臨する男……。

 

「当然、奴は……」

「か、勝ったけど」

 

 勝った。ならば自分に勝てないはずはない。ジャックは確信を持って、女へと向き直る。

 

 そもそも、一度は敗北したものの、遊星とのデュエルにおいて、かつては勝ち越していたのだ。ならば、現在の実力は拮抗していると言ってもいい。

 遊星が同じ痣を持つ男と戦って勝ったのだと言うのならば、自分に勝てないはずもない。そう考えたが故に、ジャックは言葉を発する。

 

「貴様! 誰だかは知らんが、デュエルはできるんだろうな?」

「で、できますけど!?」

「ならば……!」

 

 ジャックは自由になる片手に握っていたバッグを地面に降ろし、そこに仕舞い込んでいたデュエルディスクを取り出す。そして、驚いたような様子の女に手渡し、その手を掴んだ。

 

「俺の手となれ!」

「えぇ!?」

 

 その身を引き寄せ、告げる。

 

「ひゃあ!?」

「俺の代わりに手札を持ち、ドローしろ! 遊星が勝ったのなら問題ない……デュエルによって粉砕し、奴に直接事情を聴いてやる!」

 

 男が一歩前に出る。直後、右腕の痣――――蜘蛛のようなそれが更に強く光り始めた。

 

「行くぞ! デュエルディスクを付けろ!」

「は、はい!」

 

 勢いよく、女はジャックの左腕にデュエルディスクを装着した。

 これで準備はできたことになる。眼光鋭く男の方へと向き直り、三人は、同時に声を発した。

 

『「「デュエル!!」」』

 

 瞬間、三人を取り囲むようにして紫色の火炎が立ち上り、火炎の周囲に突風が巻き起こった。

 強烈な突風だ。ナースステーションのガラス窓を破り、キャスターや書類を吹き飛ばし、急速にその勢いを弱めていく。

 呼応するように、ジャックの右腕の痣が、赤く光り始めた。

 

「何だこれは!」

「うおわぁ!? こっちも光ってる!?」

 

 同じだ、と女は呟いた。ジャックはそれを聞いて察する。以前行われた遊星のデュエルか、と。

 男は凶悪な笑みを浮かべた。デュエルディスクを確認すると、相手のターンであるらしい。

 

『私のターン』

 

 男がカードをドローする。どのようなデュエルを展開してくるのか、ジャックには想像できない。

 一方、女はある程度の情報を握っているはずだが、それを聞いてしまえば先入観によって相手の奇襲を許してしまう可能性もある。あえて何も聞かず、ジャックはそれを見た。

 

『ジャック・アトラス。貴様は強大なパワーによって相手を叩き潰すデュエルが得意だったな』

「それがどうした?」

『ならば私はそのことごとくを潰してかかろう。モンスターをセットし、カードを二枚セット。これでターンエンドだ』

「何? そうやって言う割には強いモンスターも出てこないの?」

 

 と、言葉とは裏腹に、その姿勢は消極的。女もそう判断したようで、訝しげにその様子を見ている。

 

 一方、ジャックはその様子を「怪しい」と睨んでいた。ジャックの「力」……《レッド・デーモンズ・ドラゴン》に代表されるカードを潰す、などと言ってのけたのだ。ならば、何かあるに違いない。

 警戒を深めるジャックとは対照的に、女は多少ならず奮起していた。

 

「もぉーこうなったらやっちゃうんだから! ジャックと一緒にデュエルなんて、こんなスクープ滅多にないわ! 私のタァァーン!!」

「俺のターンだ!」

「ごめんなさい!」

 

 漫才でもしているのか、と、凶悪な表情のままに苦笑いを浮かべる男。

 気を取り直し、ジャックは手札を見て方策を練る。この局面においてすべきことは……。

 

「手札から、《バイス・ドラゴン》を特殊召喚!」

「はい!」

 

 ジャックの手札をのぞき見、女がデュエルディスクのフィールドにそれを置いた。

 

【 《バイス・ドラゴン》 攻 2000 / 守 2400 】

 

 同時、強靭な肉体と一対の翼を持つ一体の竜が姿を現す。その色彩は紫に近く、巨大な両腕と大口、小さな角がよく目立つ。

 

 バイス・ドラゴンは、相手の場にのみモンスターが存在するとき、特殊召喚できるモンスターだ。ただし、この方法で特殊召喚した場合、元々の攻撃力・守備力が半分となる。

 ジャックのデッキにおいては展開の要となるカードだ。どのようなカードを使うにしても、ここから召喚・特殊召喚していくのが主軸となる。

 

「更に、バイス・ドラゴンをリリース! 《ストロング・ウィンド・ドラゴン》をアドバンス召喚!」

 

【 《ストロング・ウィンド・ドラゴン》 攻 2400 / 守 1000 】

 

 バイス・ドラゴンの代わりとして場に姿を現すのは、突風をその身に纏った緑色の竜だ。

 全体的に筋肉質な外見をしており、翼に関しても、その身に比して巨大だ。男を、あるいはその前に立つ一枚のセットモンスターを見据え、緑竜は一歩前に踏み出した。

 

「ストロング・ウィンド・ドラゴンは、リリースしたモンスターがドラゴン族である時に、その攻撃力の半分を攻撃力に加える!」

「え!? えーっと、バイス・ドラゴンの攻撃力が2000だから……」

「1000ポイントアップ!」

「えぇ!? ってことは、3400!?」

 

 ジャックのエースモンスター、レッド・デーモンズ・ドラゴンと比べても、その攻撃力は高い。

 大抵のモンスターは、3000を基準として能力を設定されている。セットモンスター故に、そのレベルは大抵が4以下であろう。それらのカードに3000を超える守備力を持つものは無い。

 

「ストロング・ウィンド・ドラゴンで、守備モンスターを攻撃! ストロング・ハリケーン!」

 

 ストロング・ウィンド・ドラゴンの口から吐き出される強烈な息――――いわゆる「ブレス」が、裏守備モンスターの姿をさらけ出す。同時、その攻撃が周囲へと向かい、男にも降りかかった。

 そして、それは更には床をも抉り取っていった。まるで、実際にその攻撃が行われているかのように。

 

「何だこれは……!?」

「だから普通のデュエルじゃないって言ったのに! よく分かんないけど、本当に命がけのデュエルらしいんです!」

「攻撃が実体化しているのか……!!」

 

 会話の最中、笑みを浮かべたままに、男が煙の中から姿を現す。そのライフは、本来の4000から1900へと減じていた。

 

 さらけ出され、ずたずたに引き裂かれたのは、コオロギにも似た青い虫――――《共鳴虫(ハウリング・インセクト)》というモンスターだった。

 

【 《共鳴虫》 攻 1200 / 守 1300 】

 

「あ、あれ!? 何でライフが減ってるの!? あのモンスターは守備表示のはずだったのに……」

「ストロング・ウィンド・ドラゴンの貫通効果だ」

 

 守備力を攻撃力が超えていれば、その数値分ダメージを与える……。

 その攻撃性と力強さを現したかのような効果。ジャックの持つモンスターの多くが持っており、その中でもこのカードの効果は強力と言える。

 

 殆どの場合で、基準となるであろう「3000」を超えた攻撃力を持つことができるのだ。仮に戦闘破壊への耐性を持つモンスターでも、以降も続けて攻撃を行えば、ライフダメージは無視できないものとなっていく。

 また、戦闘破壊の耐性を持つモンスターの多くは、能力値が低いものが多いのだ。効果も併せ、切り込み隊長としては有用なモンスターと言えた。

 

「すっごーい! 流石元キングのデッキ!」

「元キング……だと!?」

「ああ、いえ、その……」

『……ク、クク』

 

 ふとした拍子に女から飛び出した発言に対し、憤慨を向けるジャック。

 それに際して、男が笑い出す。彼女の発言か、あるいはジャックの態度のどちらかによって笑いが漏れたのか、と、ジャックは更に男に向けて問いかけた。

 

「何がおかしい……!」

『共鳴虫の効果を発動。戦闘破壊されたとき、デッキから攻撃力1500以下の昆虫族モンスターを特殊召喚できる。私は、《アルティメット・インセクト LV3》を特殊召喚する!』

 

【 《アルティメット・インセクト LV3》 攻 1400 / 守 900 】

 

 言葉とともに、男の場に姿を現すものがあった。

 全身に棘を持つ、毒々しい色合いの虫。全身をくねらせながら、それはジャックと女の方へと向き直る。

 

 ひ、とジャックの横から小さく悲鳴が上がった。その外見故に生理的な嫌悪感を刺激されたのだろう。事実として、ジャック自身もその姿には嫌気がさすほどだ。

 

「って、LVモンスター!?」

「あれを知っているのか?」

 

 想起されるのは、フォーチュンカップに出場していたジル・ド・ランスボウ。彼も男と同様の種類のモンスターを使用していた。

 

 ジャックも知らないわけではない。その種類、数共にそう多くが生産されてはおらず、それ故に伝説とも称されるほどの希少性を持つカード。ひと種類あたり、全世界に数百枚とも数十枚とも言われるほどだ。

 それゆえ、情報は少ない。ジャックとしてもその情報を得られるのなら良かったものだが……。

 

「いやぁ、珍しいからつい反応しちゃって」

「思わせぶりなことを言うな! ええい、カードを2枚セットしてターンエンド!」

『私のターン』

 

 デュエルディスクの表示が、スタンバイフェイズの時点で停止する。

 普段なら素通りするはずのその表示。何か意味があるはずだと推察し、ジャックはその様子を注視する。

 

『スタンバイフェイズ時にアルティメット・インセクト LV3の効果を発動。このモンスターはレベルアップを果たす! 現れよ、《アルティメット・インセクト LV5》!』

 

【 《アルティメット・インセクト LV5》 攻 2300 / 守 900 】

 

 その身をくねらせ、蠢く芋虫の肉体が硬質化し、鋼のような外見へと変貌する。しかし、それらの硬度は防衛よりも、むしろ外部への攻撃性に富んでいる。鋭利な棘はさらに鋭さを増し、薄く、刃のように変質する。

 しかし、鋼の虫は守備の体勢を取る。その身の凶暴性に反するかのように。

 

『アルティメット・インセクト LV5は、LV3の効果によって特殊召喚された場合、相手の全てのモンスターの攻撃力を500ポイントダウンさせる』

「チィ……! そういうことか!」

 

 アルティメット・インセクトの全身が震えだし、僅かに背に空いた孔から多量の粉があふれ出す。それはストロング・ウィンド・ドラゴンの肉体を蝕み、その筋力を僅かに落としていった。

 現在の攻撃力が表示される。数値は2900。今のところ、アルティメット・インセクトよりも攻撃力は高い。

 

「どど、どういうこと!?」

「自分のモンスターの攻撃力が低くとも、相手のモンスターの攻撃力がそれより低くなれば、相対的に強力な能力を得たことになる。だが、そんなものは偽物のパワー……!」

『だが、私のモンスターが貴様のモンスターを破壊することは可能だ』

 

 偽物とてパワーはパワーだ、と男は言う。

 

 その態度に対し、やはりと言うべきか、ジャックは憤慨した様子を見せた。あくまで彼のスタイルであり拘り。己の力を高め上げ、相手を打ち負かす――――それこそが、ジャックの信ずる「パワー」だ。

 小手先の策は、それらを輝かせるためのものである。デュエルの基本……「殴り倒す(ビートダウン)」を忠実に体現したデッキ。それがジャックのデッキだった。

 故に、男のそれはジャックの癇に障った。デッキとしては認められて然るべきだろう。が、ジャックにとっては怒りに値するものだった。

 

「だがそのモンスターでは、俺のカードを倒せんぞ! 加えて表示形式は守備表示……どうするつもりだ?」

『こうするつもりだよ。私は伏せ(リバース)カード、《重力解除》を発動。場の全てのモンスターの表示形式を変更させる!』

「なっ……」

 

 ストロング・ウィンド・ドラゴンには、もう一つの効果がある。それは、同じ攻撃力を持つモンスターとの戦闘では破壊されないというもの。それは守備表示に変化しても変わることは無い。

 だが、元よりその守備力は1000という低さだ。表示形式を変更すると、少々のモンスターの攻撃によってでも破壊されてしまう。

 アルティメット・インセクトが攻撃の態勢を取り、逆に、ストロング・ウィンド・ドラゴンはその両腕を前に掲げ、防御の姿勢を取った。

 

『そして《幻影王 ハイド・ライド》を召喚』

 

【 《幻影王 ハイド・ライド》 攻 1500 / 守 300 】

 

 叩き付けられるカードと共に響くのは、蹄の音。

 黒い馬、銀灰色の鎧。金の鬣が紫の火炎をバックに揺れる。そのカードは……

 

「俺のカードだと……!?」

『世界に一枚しか無いわけでもあるまい。バトル! ハイド・ライドでストロング・ウィンド・ドラゴンを攻撃!』

 

 風のように走り抜ける騎士が、緑竜の首を切り落としていく。

 本来なら容易に勝利していたであろうその勝負は、慣れぬ無重力の中で必死に防御の体勢を取っていたことから、竜の敗北に終わることとなってしまった。

 

「貴様ァ……!!」

 

 より多くのダメージを与えるにしろ……そのプライドを破壊するにしろ、その行為は有効だったと言えるだろう。誰あろうジャック自身のカードによってジャックのカードを……それも、より攻撃力が高いはずのそれを破壊してみせたのだから。

 

『アルティメット・インセクト! ジャック・アトラスを切り刻め!』

「ぬああああああっ!!」

「ジャック!」

 

 複数の腕による無数の斬撃がジャックへ向かう。

 折れた右腕が軋み、痛みが全身へと伝播する。同時にライフポイントが2300減じた。

 これにより、残るライフは1700……下級モンスターの一度の攻撃によって全て削り取られてしまいそうなライフだ。しかし、これで戦うしか無い。

 

『カードをセットし、ターンエンド。さあ、ジャック・アトラス。貴様のターンだ』

「わ、私のター……じゃなかった!」

「俺のターンだ……!」

 

 視線によって、女に手札を見せるよう促す。

 相手のモンスター……アルティメット・インセクトを破壊することが、今のジャックにとって最優先すべき事柄だ。常に攻撃力を500ダウンさせられるのは、非常に厳しい。

 

「レッド・デーモンズ……」

 

 ふと浮かんだ考えをそのまま口に出す。

 

 現在の伏せカードのうち、一枚は《破壊神の系譜》だ。相手の守備モンスターを破壊したターン、レベル8モンスターに二回攻撃を付与させる効果を持っている。

 レッド・デーモンズ・ドラゴンの効果は、このカードを使用するのに有効だ。しかし、相手の場に守備モンスターはおらず、また、場も整っているとは言い難い。

 しかし、召喚する意義はある。この先引き込むであろうカードのために。墓地に置かれたとしても、蘇生カードは潤沢にある。このデュエルの性質上、躊躇っていてはいけないのだ。

 

「手札から、《魔導ギガサイバー》を特殊召喚!」

 

【 《魔導ギガサイバー》 攻 2200 / 守 1200 】

 

 ジャックの場に姿を現す人型……金色の鎧を身に纏った騎士。

 

 攻撃力は少々低いまでも、自分の場に存在するモンスターが、相手の場に存在するモンスターよりも二体少ない場合に特殊召喚ができるという、多少緩い特殊召喚条件を持っている。

 その効果ゆえに、劣勢時にはチューナーと併せて状況を覆すのに優秀なモンスターと言えた。

 

「更に、《フォース・リゾネーター》を召喚!」

 

【 《フォース・リゾネーター》 攻 500 / 守 500 】

 

 続いて姿を現すのは、黒い外套を身に纏い、両腕から電撃を放つ小悪魔だ。

 ジャックの多用するカード群……「リゾネーター」というカテゴリに属するモンスターだ。本来はまた別な効果を持っているが、今はその効果は必要無い。重要なのは、このカードがチューナーだという事実だ。

 

「レベル6の魔導ギガサイバーに、レベル2のフォース・リゾネーターをチューニング!」

「来た、キングのエースモンスター!」

 

 女が歓声を上げ、己の手によってそこに至るまでの道筋を描いていく。

 二枚のカードを墓地へ送り、デュエルディスクの格納部へ。そして、その中の1枚――――赤と黒に彩られた凶暴な竜。《レッド・デーモンズ・ドラゴン》のカードを手に取る。

 

「王者の鼓動、今ここに列をなす……天地鳴動の力を見るがいい! シンクロ召喚! 出でよ、我が魂――――《レッド・デーモンズ・ドラゴン》!」

 

【 《レッド・デーモンズ・ドラゴン》 攻 3000 / 守 2000 】

 

 言葉と共に、中空に発生した気流の渦の中から、火炎が舞い上がる。その内より姿を現すのは、一本の腕――――紅に染まった腕。

 渦巻く火炎をその爪によって引き裂くように――――それは、姿を現した。

 紅蓮の炎を身に纏う、悪魔竜。ジャック・アトラスの最も信頼するモンスターであり、彼の象徴たるドラゴン。

 

 しかし、その本来の雄姿は、アルティメット・インセクトの吐き出す毒粉によって衰えており、表情も心なしか苦しそうに見える。

 くそ、とジャックは悪態をついた。しかし、現在の減少値は500。攻撃力は2500だ。この状態ならば、アルティメット・インセクトを倒すことは可能。

 

「バトル!レッド・デーモンズ・ドラゴンで……」

「当然! ダメージの多いハイド・ライドを攻撃!」

「なっ……馬鹿!!」

「えっ、違うの!?」

 

 女の言葉に反応し、その右腕に火炎を纏わせハイド・ライドを殴り抜くレッド・デーモンズ・ドラゴン。現状の攻撃力の差は1000。アルティメット・インセクトの2300という数値を見れば、ダメージ効率は良いようにも見えるだろう。

 しかし、この「先」を見据えるのならば、アルティメット・インセクトを破壊することが重要だった。レベルモンスターを放置しておくことがどれだけ危険か……先の大会を見ていれば、多少なりとも理解はできるはずだったというのに。

 

「アルティメット・インセクトの能力……奴のターンのスタンバイフェイズごとに成長する! 攻撃力か、弱体化能力のどちらか……あるいは、その両方も同時にだ! このターン中に倒しておくべきだった……!」

「えぇー!? ま、まずいかも……!」

 

「かも」ではなく、事実としてこの状況は危険だ。スタンバイフェイズになればアルティメット・インセクトは更なる成長を遂げ、その能力を向上させる。

 しかし、現状ではどうすることもできないのだ。カードのセット指示を行うか、エンドを宣言する以外には、ジャックの取れる選択肢は無い。

 

「……ターンエンドだ……!」

『私のターン』

 

 みしみし、と、アルティメット・インセクトを覆う外殻が音を立ててひび割れていく。その内から吹き出すのは、やはり無数の毒粉と――――翅。

 

『――――この瞬間、我がしもべの力は最大にまで引き上げられる。さあ、姿を現すがいい……《アルティメット・インセクト LV7》!』

 

【 《アルティメット・インセクト LV7》 攻 2600 / 守 1200 】

 

 そして、鋼鉄の殻を砕き割り、一匹の羽虫が姿を現す。

 人の身長ほどもあろうかという体躯、赤と青の毒々しい体色。鋭く伸びた咢。素早く振動する翅が、毒を含んだ鱗粉を周囲へと撒き散らしていく。

 成虫、と。そう呼ぶにふさわしく……何よりも、恐ろしい姿だった。

 

『LV7の効果……相手の場のモンスター全ての攻撃力・守備力を700ポイントダウンさせる。これで貴様のレッド・デーモンズ・ドラゴンの攻撃力も届かない』

 

 効果により、既にレッド・デーモンズ・ドラゴンの攻撃力は2300にまで減じている。攻撃力の差は300……現状では、ライフポイント全てを削り切ることはできないだろう。

 しかし、男の手札は潤沢だ。どのようなモンスターを召喚するにせよ、攻撃力1400以上のモンスターが召喚されれば、その時点でジャックのライフは削り切られる。

 

 ただし、それはあくまでジャックの伏せカードを度外視した場合の話だが――――。

 

『私は《ダーク・バグ》を召喚する』

 

【 《ダーク・バグ》 攻 100 / 守 100 】

 

 姿を現すのは、いくつかのの立方体を重ねあわせたような物質から、八本の足が伸びた奇怪な――――生物ともそれ以外とも取れぬ、謎の物体。

 (バグ)か、電子的な不具合(バグ)か。どちらにしても、それは奇怪としか言いようがない。

 

「また俺のカードか!!」

 

 思わず、ジャックは叫んでいた。先程のハイド・ライドに加えて二体目……それも、当のハイド・ライドを特殊召喚できる能力を持ったカードだ。

 やはりと言うべきか、この男は、ジャックのプライドを傷つける方法を好んで選択しているように見えた。

 

『よく知っているだろう、こいつの効果は。召喚時、墓地よりレベル3のチューナーを特殊召喚する。再び現れよ、《幻影王 ハイド・ライド》!』

 

【 《幻影王 ハイド・ライド》 攻 1500 / 守 300 】

 

 場に揃う、二体のモンスター。召喚権は残っていないにせよ、チューナーが存在する以上、狙うべくは……。

 

「シンクロ召喚か……!」

「えぇ!?」

 

 女が狼狽したように周囲を見渡し始める。男がシンクロ召喚をしてくると読めずにいたからだ。そもそも、蜘蛛の痣を持った男は――ジャックは知る由も無いが――ダークシンクロという、異形の力を用いる。当然、男も同じようにソレを使ってくるものと考えていた。

 しかし、実際に使ってくるのはシンクロ召喚。意表を突かれたというよりも、疑問の方が大きい。

 

『その通り。レベル1の昆虫族、ダーク・バグに、レベル3、闇属性のハイド・ライドをチューニング! 闇と闇重なりしとき、冥府の扉は開かれる……光なき世界へ! 出でよ、《漆黒のズムウォルト》!』

 

【 《漆黒のズムウォルト》 攻 2000 / 守 1000 】

 

 その身を星へと転じた虫を包み込む、光の円環。見る間にそれらが黒くくすんでゆき、黒い布が宙を舞う。地の底から湧き出したのは杖。布の内側より飛び出した、病人のように白い腕がそれを掴み上げる。

 

「ひいいいいぃ、何アレ、怖っ!?」

 

 見様によっては死神のようにも見えなくはない。しかして、実態はより醜悪。

 腕の……その内部で蠢く「何か」が、生理的な嫌悪を呼び起こす。仮面に隠された貌。僅かに除く血の気の無い白い肌は、病的と言うよりも凶悪な印象をうかがわせる。

 

「何だ、このモンスターは……?」

『バトル。漆黒のズムウォルト、レッド・デーモンズ・ドラゴンに攻撃せよ!』

「えぇぇ――――――!?」

 

 アルティメット・インセクトの効果が存在するとはいえ、現在のレッド・デーモンズ・ドラゴンの攻撃力は2300だ。である以上、攻撃力2000の漆黒のズムウォルトの攻撃は、本来意味を為さないと言っていい。

 無論、それは「本来は」という話だ。効果を持たないモンスター同士の戦闘であるならばそうだろう。実際には違う。何の能力も持たないモンスターでより攻撃力の高いモンスターへ攻撃するなど、状況を考えれば何らかの効果の発動を狙ったものであることは明白だ。

 

『漆黒のズムウォルトは戦闘で破壊されず、攻撃対象となるモンスターの攻撃力がズムウォルトよりも高い場合、そのモンスターの攻撃力をこのカードと同等まで引き摺り下ろす……!』

「貴様、どこまで……!!」

 

 ただ、ジャックの戦力を削ぐのみでない。むしろ――――それは、彼のプライドを貶める行為であると言える。そのためだけに、こうしたデッキの構築を行い、デュエルの流れを作ったのだとも。

 

『終わりだ、ジャック・アトラス!』

 

 死神の鎌の如く振り下ろされる杖が、レッド・デーモンズ・ドラゴンへ迫る。

 

「ええい、まだ終わらん! リバースカード、オープン!」

「ど、どどど、どっち!?」

「左だ! トラップカード、《和睦の使者》! このターン、俺のモンスターの戦闘破壊を防ぎ、戦闘ダメージをゼロにする!」

 

 直後、レッド・デーモンズ・ドラゴン……ひいては、ジャックと女の周囲を、白銀の幕が覆う。漆黒のズムウォルトの杖はそこで押し返され、レッド・デーモンズ・ドラゴンへと至ることは無かった。

 仮面の下に僅かに除く顔が歪んだ。そこに見出される表情は、怒りか嘆きか。

 

『ふん……防いだか。しかし、僅か1ターン耐え凌いだに過ぎん。カードを1枚セットし……私はこれでターンエンド』

「……クッ!」

 

 三枚に増えた伏せカード。それらを睨み付け、ジャックは歯噛みした。

 この状況下、攻めることに関しては大きな問題があると言える。先の状況では、レッド・デーモンズ・ドラゴンの攻撃を通しても問題が無く、伏せカードを使わずとも構わなかったからこそ、男は二枚の伏せカードを使わなかったのだ。

 しかし、今となっては使わない理由も無い。レッド・デーモンズ・ドラゴンが攻撃を行ったその瞬間、ジャックの敗北が決定的となる可能性がある。

 

「ご、ごめんなさい……私が勝手なことをしたばっかりにぃ……!」

「いや!」

 

 女の言葉に、ジャックはかぶりを振った。

 

「この程度のピンチ、キングの勝利を演出するためのエンターテインメントに過ぎん。故に何一つの問題も無い!」

 

 それは、普段からの彼の言動と同じ……自身を鼓舞し、勝利というそれだけを己に科す、自信に満ちた言葉。

 逃げ道を無くす。そうして己を奮い立たせる。過度のプレッシャーは人を押し潰していくものだが、プロと呼ばれるような人種は得てしてそれを上手くコントロールして見せる。

 キングと呼ばれた男であるジャックも、それは例外ではない。

 

「女。お前の名は?」

「へ? か、カーリーです」

「行くぞ、カーリー……ラストドローだ!」

「えぇぇ!?」

 

 この状況下では、たとえ攻撃したとしても有効打となる可能性は低い。既に手札にあるカードで、モンスターへの対処は可能であるものの、それ以外のカードに関しての処理はできない。

 しかし、デッキに眠るある一枚のカード。それさえ手札に来れば、逆転は可能。

 

 ――――逆に、それ以外のカードが来たならば、敗北は免れない。

 

「俺と!」

「わっ、わ、私の!」

「「タ――――ン!!」」

 

 女性――――カーリーの引き抜いたカードが、ジャックの目に映る。

 それは、彼の待ち望んでいた一枚。この状況を一変させることのできるカード。

 

魔法(マジック)カード発動! 《クリムゾン・ヘル・セキュア》! 俺の場にレッド・デーモンズが存在するとき、相手の場の魔法(マジック)(トラップ)カードを全て破壊する!」

『ぬぅ!?』

 

 直後、レッド・デーモンズ・ドラゴンの口腔より、強烈なまでの火炎が発せられた。

 男の場に伏せられた三枚のカードが露わになる。

 《スパイダー・エッグ》、《角笛砕き》、及び《神の警告》。ライフコストの不足により使用できない一枚を除けば、状況に応じて様々な手を講じることのできるカード類だ。

 

「更に永続魔法発動! 《闇の護封剣》! 貴様の場のモンスターを、2ターンの間、裏側守備表示として封じ込める!」

 

 男の場に立つ二体のモンスターの、その頭上。天井付近より、闇が噴き出した。

 漆黒のズムウォルトの背に、アルティメット・インセクトの翅にそれらは突き刺さり、楔のように地面に縛り付ける。

 あるいは墓標とも見えるそれに、男は歯噛みし、ジャックは軽く笑んだ。

 

「さぁ、バトルだ! レッド・デーモンズ・ドラゴンで、裏守備表示となった漆黒のズムウォルトを攻撃!」

『レッド・デーモンズ・ドラゴンの効果は……!』

「そうだ。守備モンスターを攻撃したとき、相手の場の全ての守備モンスターを破壊する。デモン・メテオ!」

 

 火炎を纏った右腕による一撃が、漆黒のズムウォルトを捉え――――そして、周囲に火炎が広がる。

 本来達し得ぬ、内側へのダメージにもがき、苦しむ二体のモンスター。鎮火と同時、それらのモンスターの姿は、フィールドから完全に消失した。

 

『ぐ、むぅ……だが!』

「いいや、これで終わりだ! (トラップ)発動、《破壊神の系譜》! 相手の場の守備モンスターを破壊したターン、俺の場のレベル8のモンスター1体は二度の攻撃が可能となる!」

 

 レッド・デーモンズ・ドラゴンの眼が男を捉え、獰猛な輝きを取り戻す。

 先に用いた右腕とは逆――――左腕には、強烈な炎。

 

「行け、レッド・デーモンズ! アブソリュート・パワーフォース!!」

『ぐぅああああ!!』

 

 叩きつけられた腕が男を捉え、周囲に粉塵が舞いあがる。

 ライフポイントの減少を示す電子音が周囲に響く。そして、ゼロの表示がなされた瞬間、ブザーが発せられた。

 

「―――――――…………っ」

 

 男の口から、小さく声が発せられた。言葉とも何ともつかない、微細な振動。それが途切れた瞬間、事切れたかのように、男はその場に倒れ込んだ。

 

 デュエルの終わりを示すように、周囲を取り囲んでいた紫炎が消えていく。

 ジャックはそれを確認するや、男の方に駆け寄った。

 

「おい貴様! どうなっている、ダークシグナーとは何だ? 答えろ!」

 

 延々、溜めこまざるを得なかった疑問が噴出する。

 無論、と言うべきか、男は答えない。見る間に、左腕の痣が消えていく。

 

「っ、む、ぐぅ……」

「ジャック!?」

 

 デュエルによって受けた痛みが後を引いたか、ジャックが体勢を崩す。それを察知したように、カーリーはその体を支えに向かった。

 

「……俺を……」

「え?」

「……俺を、このまま……外に連れ出せ……!」

「えぇぇぇ~~~~~~!?」

 

 唐突に向けられた言葉に、カーリーは唖然とするまま、ジャックの指示に従い、外へと向かう算段を整えていった。

 

 

 

 + + +

 

 

 

 目が覚めると、そこは取調室の中だった。

 

 冒険活劇の序文にでも記されていそうな陳腐な展開だ。本来のそういったものと食い違っている点としては、この取調室に見覚えがあり、また、記憶喪失などに陥っているわけでもないという部分か。

 もっとも、何故だか全身に覚えのない激痛が走り、左腕にデュエルディスクが嵌められているというこの状況は、紛れもない「不可解」に値するものであろうが。

 

「おう、眼ぇ覚ましたか」

 

 と、思考の中にいる俺を引き戻すように、扉が開いた。

 

 黒髪、日に焼けた浅黒い肌。目元の傷。以前、職務質問を受けた際に、挙動不審として連れてこられたこの取調室で出会った男だ。名前は牛尾と言ったか。

 叶によれば、彼は今後、この世界で重要な役割を担っていくものであると言う。

 警察官というものは治安の維持には欠かせないものだ。無論、汚職に手を染めていればその限りであるとは言えないものの、重要なポジションにいることに違いは無い。そういう意味で彼女がそう言ったのかは、未だ不明だが。

 

「……牛尾さん」

「警察病院に送ろうか迷ったが、たいした怪我じゃねえってことでこっちに送ってもらった。悪いな」

「構いません。ですが、なぜ自分は……」

「あ? 何だ、何も覚えてねえって言うのか?」

 

 問いに対し、首肯する。覚えているもなにも、何のことなのか分からない。

 部屋の隅の時計を見れば、俺が最後に確認した時間から、三時間が経過しているようだった。記憶の途切れた三時間。この間に、一体何があったというのだろうか。

 

「……これでただの酔っ払いってんなら話は楽なんだけどな……」

「記憶障害でしょうか」

「どういう自己評価だ」

 

 しかし、そのように考えると辻褄が合うというのも確かだ。ただ、これまで自分の脳に障害が認められたことは無い。仮にそうだとするなら、今までの生活で理解していて然るべきだろうし、そもそも今日突然こうなったというのもおかしな話だ。

 

「元キング、ジャック・アトラスの入院する病院で、謎の火災及び爆発が発生。現場にて少年、あるいは青年と思しき年代の男が意識不明の状態で発見される。2045時、重要参考人としてこれを確保……と」

 

 牛尾さんが、恐らくはここに至るまでに経たのであろう俺の状況をつらつらと述べる。

 なるほど、まるきり謎の状況であるということもなさそうだ。病院へと向かった経緯と、その道筋がまるで分からないというのは不気味だが。

 

「……本当に何も覚えてないんだろうな」

「はい」

「実は二重人格とかじゃねえだろうな」

「もしそうなら既に病院へかかっております」

 

 記憶と照らし合わせても、そもそも病院へ行ったような記憶など無い。まして、そこへ行くような理由も思い当たらない。「深宮」と出会い、彼女から二枚のエクシーズモンスターを受け取り……そうして、深宮が喫茶店から出て以降。そこからの記憶が無い。

 彼女が何かした……とも考えられるだろうか。記憶の途切れは彼女が店を出て行った後、十数分の間に起きている。しかし、店内にいる間の、彼女の動向には可能な限り気を配っていた。何かされたのなら俺自身が理解できるだろうし、広範囲にわたって「何か」を行ったのなら、俺以外の人間に影響が出ていなければおかしい。

 また、牛尾さんの言及する二重人格――――解離性同一性障害には罹患していない。何故彼がその点に関してのみ、強く追及するのかは、分からないが。

 

 と、そこまで考えて、ふと思い当たった事項があった。

 

「……自分は、病院にいた、と聞きましたが」

「ああ、そうだ」

「でしたら、監視カメラの映像があるはずです。それを確認すれば、事前・事後の動向は……」

「映像は無かった(・・・・)

 

 ――――断言した。

 だが、映像が無いなどということは、普通ありえない。仮にカメラが破壊されたとしても、映像は中央監視室にでも残されているはずだ。更に、破壊したのならその前後、犯人が映っていておかしくない。その「犯人」が俺だという可能性が、無いではないにしろ。

 

「存在しないんだよ。ホレ……なんだ、上がそうだ(・・・)って言っててな」

 

 上。すなわち、上層部、ということか。

 文脈から判断すれば、「上層部がそれを確認したが、存在しなかった」ということになるのだろうが……より正確には「存在しなかった(ということにした)」、だろうか。

 常套手段、と言ってもいいのだろうか。もみ消し、隠蔽……よく聞く話だ。ただ、それを俺に対して行った理由が皆目見当がつかない。

 

「何故ですか」

「おい、直接的に聞くな。隠してるのは分かってるだろ!」

 

 言われてみればその通りだ。だが、では何が理由なのか。考えてもそれは思い浮かんではこない。

 

「あの病院、VIPがいてな」

「諒解しました」

 

 一言で謎は氷解した。なるほど、そういうことならば事件をもみ消されても、ある意味では仕方があるまい。誰であろうと、スキャンダルというものは避けたいものだ。特に、有名人と呼ばれるような人間にとって、それは致命的な傷となりうる。

 そうした人間の名誉のために言っておくが、隠されたのであろう全ての事件が、そのまま批難されるべきことであるとは限らない。隠すべきでないような事柄ですら、隠されてしまうことも往々にしてありうるのだ。

 

「ということで、ああ、何だ。証拠不十分ってことで釈放だ。嬢ちゃんも待ってるんだろ。とっとと帰れ帰れ」

「……はい。ありがとうございます」

「礼言われるようなことなんざ何もしてねえよ」

 

 しっし、と軽く手を振り、牛尾さんは取調室から出ていくように促した。

 軽く頭を下げ、足早に部屋を出ていく。と、通路には一人のセキュリティ隊員――以前、矢ヵ城と呼ばれていた男――が、俺の荷物を持って立っていた。どうやら、初めからこの話はこうなるよう決定していたようだ。

 

「お疲れ様です、矢ヵ城さん」

「はい?」

 

 きょとんと、わけがわからないという風に、矢ヵ城さんは首をかしげる。

 

「あ、ああ、あの時のキミですか……。よく私のことを覚えていましたねぇ」

「……は。物覚えは、良い方ですので」

 

 良くも悪くも、叶が登場すると同時に扉に挟み込まれる、などという強烈な印象を残したのだ。忘れようはずがないとも、俺は思うのだが。

 

「普通覚えていませんよ。はは……それよりも、大変でしたねぇ。

 怪我の方は?」

「問題ありません」

 

 火傷のようなただれ、鋭利な切り口の傷など、各所に傷はあるものの、動くことに関しての問題は無い。元々、痛みには強い方だ。痛みを嫌いはすれど、それで動けなくなるようなことは、あまりない。

 

「最近……ほら、妙なことが多いからね。君も気を付けてください」

「はい。恐れ入ります」

 

 厚意に感謝し、頭を下げる。

 荷物を受け取って軽く挨拶を交わし、白色灯の無機質な光に照らされた通路の出口に向かって歩き始めた。

 

 警察署の外に出ると、まず携帯電話を取り出す。

 いつの間にやら電源が切られていたのか、軽く動かしてみるも、反応は無い。

 仕方がないかと思い再起動を試みるが、何故か応答が無い。重みを考えるに、電池パックは抜き取られていないようだ。となると、電池切れということだろうか。

 弱った。今から帰宅する旨叶に伝えるべきなのだろうが、これでは連絡が取れない。入れ違いになる可能性を考えれば、メールなり電話なりで連絡を入れるべきなのだろうが……。

 とはいえ、叶の行動範囲はショップの店舗から自宅となるマンションの一室までが主だ。加えて、彼女は子供にしては聡い方だ。わざわざ動いて事態を面倒な方向へ向かわせるよりも、待機しておいて動向を見守る方を選択することだろう。

 どちらにせよ、いつまでも思考しているだけでは前には進まない。一度帰宅して、叶がいるかどうかだけでも確かめなければならないだろう。

 

 俺は携帯電話をポケットに収納して、まずは駅に向かって歩き始めた。

 

 

 

 + + +

 

 

 

 最寄りの駅から徒歩で五分。セキュリティの詰所から出て一時間ほどで、俺は現在の住居へ辿り着いた。

 既に、時計は22時を指している。午後十時。時間としては、そろそろ深夜に差し掛かる頃か。

 薄暗い階段を昇り、自室まで歩いて行く。かつ、かつ、と、靴音が周囲の雰囲気と併せて不気味に響く。時間帯のせいもあるだろう、人影が無いと事実がそれを助長する。

 

 しばらく経ち、三階のある一室――――住居として使用している部屋の前に辿り着いた。鍵が掛けられていることを確認し、それを開く。と、廊下の奥から電灯の光が覗いた。少なくとも、誰かがいるのだろうことは違いない。家を出る前に消灯したことは確認したし、俺自身もそれを覚えているからだ。

 靴を脱ぎ、音を立てないようにしてリビングへと向かう。廊下とリビングとを繋ぐ扉を開き、そっと中を覗き見る。と、

 

「――――すぅ」

 

 食卓に突っ伏すようにして、叶が眠っていた。昼間の件で、疲れ切っていたのだろう。仕方のないことだ。そう考え、別室から毛布を持ち出す。

 既に夏を目前としているとはいえ、夜半、何一つ対策をしないというのは問題だ。冷房を十全に使用している場合、風邪を引く可能性はより跳ね上がる。今は別段そういうことでもなさそうだが、万が一のこともあるだろう。そっと叶の背に毛布を掛けた。

 

 むずがるようにして、体を軽くゆする。と、その時、叶の顔の付近に、彼女の携帯電話があることに気が付いた。電源は点いており、未だに煌々と画面が光っている。

 ちらと見えたその画面は、電話の発信画面だった。何列にも連なって見えるのは、俺の名前。幾度となく発信を行ったのだろうということが見て取れる。

 

「――――――…………」

 

 心配してくれたのだという事実に、少しだけ胸の奥に熱を感じ……同時に、なんとなく、郷愁を感じた。

 

 過去を、思い出す。そうして、想像する。

 もしも、まだ母が生きていたのなら、俺の帰宅が遅くなったときに、彼女のように心配してくれるのだろうか。あるいは、父がまだ「まとも」であるなら、馬鹿野郎と叱ったりもするのだろうか。

 

 きりがないことだ。こんなことを考えても、現実は違う。

 

 去来した虚無感に身を任せ、俺はソファで横になった。

 

 

 

 





この話でとりあえずの書き溜め終了。
完成次第更新したく思いますが、しばらくはできないかと思います。
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