その3
「え?、」
俺は、喜ぶよりも先に耳を疑った。
「え?なんて??」
「誰?」
嘘だろ?なぁ、兄ちゃん。俺を忘れちゃったのか?(笑)やめてくれよ、そんな冗談面白くないよ。なぁ、兄ちゃん。
「兄ちゃん」
俺が、兄の手を引く。
「やっやっやめろっ…!!いやっ!!」
兄は、聞いたこともないくらい高い声で騒いだ。俺は、何が起こったのか理解するのにだいぶ時間がかかった。もしかしたら、この男は兄ではないんじゃないか?だって、包帯で顔は見えないし、声も違うし。そう思ったが、兄の首元の二つの小さなホクロがその推測を見事に砕いた。
足がカクカクと震えた。何だか、訳がわからなくて、俺は昨日の夕飯について思い出していた。そのまま、崩れ落ちて泣いた。
先生は冷たくこう言った。
「記憶喪失ですね。大丈夫です、治りますから。なにか、思い出の品などきっかけがあればいいのですが」
記憶喪失か…。ドラマや本で見たことがある。まさか、自分の兄が¨コレ¨になっちゃうなんてね。兄は、俺が病室へ入ると怯えて、布団に潜りガタガタと震え、俺の様子を布団の間から伺う。目が合うと、すっぽり布団を被り隠れてしまう。
「兄ちゃん…」
早く記憶が戻るといいな…なんて考えながら、カバンをベッド脇の机に音を立てないように優しく置く。そして、ゴソゴソ探る。
「なぁ、兄ちゃん。これ見やあよ。覚えとる?これ、小学校の時俺に兄ちゃんがくれたロードスターのラジコン。俺さ、もらった当日に側溝に落としちゃって兄ちゃんキレたよな」
兄は、布団の影から俺の手元を伺う。その表情はまだ怯えている。俺は、兄を引っ張りだそうと布団の上から腕を掴んだ。
「ぎゃあッ!!」
兄は、悲鳴をあげた。どうやら、まだ怪我が完治していなかったようだ。
「ごめん!!大丈夫…?」
兄は、怯えて布団にまるかった。
「いたい、いたいよ…」
ボソボソとこもった声が聞こえた。
可哀想なことしたな、と反省した。
次に俺は、カバンから赤色のネクタイを取り出した。
「兄ちゃん、これなら最近だし覚えとるやろ!これさ、兄ちゃんの成人式に俺がバイト代で買ったネクタイ。兄ちゃん超喜んでたよな!兄ちゃんが好きな赤色。毎日職場にもしていってくれてるって……」
俺は、何故か涙が溢れた。何してんだろ、俺。何でこの障害者に一生懸命に兄との思い出話をしているのだろう。分からない。俺は、苦しかったカッターの第一ボタンを外して深呼吸した。
「兄ちゃん、見やあよ。…分かんなくても…いいに…せめてこれを……」
俺は、次々脳に浮かぶ言葉を懸命に繋ぎ合わせ、涙をこらえ声を震わせながら兄に言った。兄は、聞き取ったのか布団から顔を出した。
「兄ちゃん…」
兄は、なぜ目の前の高校生が泣いているのかわからなく、彼の涙を拭った。包帯に薄い塩水が染み込んだ。
ベッドのリクライニングを半分あげ、目線を合わせる。まだ痛々しい傷跡、片眼を覆う包帯は外れないが顔の腫れも引いてきて、兄の面影が出てきた。兄の顔を見る度、罪悪感と後悔の念で押しつぶされそうになる。俺は唯、唯、ごめんなぁ、としか言えなかった。返事はしないが、「何であやまってるの?」というような顔で目を細めて俺を見下した。俺は、兄の右袖を捲った。痛々しい青あざの上に切れた傷跡がある。塞がっているが跡が残ってしまった。腕を、撫でるように優しく摩った。そして、手をマッサージすると、「あはは、擽ったいよ」と喜んだ。俺は、久々の意思疎通が嬉しくて、ずっと手を揉んでいた。とても大きくて、骨張っている。俺は、兄のこの大きな手が大好きだった。昔から、何かあるとすぐ泣いていた泣き虫の俺。兄は、親よりも俺の面倒を見てくれた。泣くとすぐに駆け寄り、抱き上げて、優しく俺の頭を撫でた。俺はとても安心して、兄にしがみついた。兄の大きな手はいつも暖かい。俺の心と身体を包み込んだ。そんな手を、こんなふうに傷つけてしまった俺は本当に馬鹿だ。情けない。恩を仇で返すとは正にこの事だろう。兄は俺を庇い、こうなった。兄は、気持ち良さそうに眠っている。そうだ…寒くなってきたので、家からブランケットを持ってきたんだった。冷え性の兄のために、たくさん防寒グッズを持ってきた。暖房が効いていて暖かい病室だけど、俺はそれでも心配でミニカイロをたくさん持ってきた。小さなブランケットを兄の上半身にかけてやると、兄は目を開けて、嬉しそうな顔をした。どうやら、毛布が好きらしい。これも兄の好きな赤色を選んだのだ。兄は毛布の端を舐めたり、齧ったりした。とても可愛かった。喜んでもらえてよかった。