「まいったな……ここ、潰れちゃったのか」
井之頭五郎が残念そうに見ていたのは、シャッターの下りた店舗の張り紙。つい一週間ほど前に潰れてしまったようだ。ここは五郎が以前仕事途中に寄ったことのある食事処で、甘味よし定食よしと二度おいしい店だった。仕事前の一服、そして仕事終わりの一食で、珍しく五郎が二回寄った店である。
「うーん……ここら辺に来たらもう一度来ようってきめてたんだけどな。まいったぞ」
仕方なくほかの店を探索し始める五郎。しかし、あの店に入ろうと決めていて潰れていたという出来事は、思いのほか五郎にほかの店をつまらなく見せていた。
(落ち着け。店がつぶれるなんてよくあることじゃないか。今はほかの店を探して入るしかないんだから)
十分、二十分と時間が過ぎていく。見る店すべてが、なんとなくつまらなく見えていた五郎は、ただ散歩しているだけのような気がしてきていた。だが、昼飯を食べないわけにもいかない。冬空の木枯らしに、つい無意識に咥えていた煙草の紫煙が揺れる。そんな紫煙のように、五郎の心もどこか流れていくような気分だった。
もうどこの店でもいい。そう思ったときに、周りが見慣れない場所になっていることに気付いた。その見慣れない場所が、先ほどまで歩いていたはずの商店街だとか、人のいそうな所ならいいのだが、こうも木々に囲まれた状況では、見慣れないという言葉は不相応かもしれない。単刀直入に「迷った」というべきだろう。
「ここはどこなんだ? まいったな、帰り道が分からないぞ……」
先ほどまで歩いていた商店街近くに、森があったというようなことはないはずだ。東京下町の森と言えば、大きな公園などがあるかもしれないが、近辺にそんな公園はないはずである。冬であるからか、周りに生えている木々はほとんど葉を落としているが、今日はあいにくの曇り空であるため明るくはない。周りを見渡しても道らしき道もないし、そもそも人の声がほとんど聞こえてこない。東京であったなら、公園内でも少しは人の声が聞こえるというものだ。
仕方なく後ろに向き直って歩き出すと、ほのかな明かりが見えた。近づいてみると、いかにも古い日本家屋、そう形容するにふさわしいものだ。
「これは驚いた……この時代にこんな家を見るとは」
藁ぶきの屋根、木の引き戸、木枠のガラスのない窓。映画村だとか、江戸村だとか、そういう場所でないと見かけないような家である。明かりがついているということは、誰かいるのだろう。木の引き戸を控えめに二度叩く。
「うん? ちょっと待ってて」
中から高い声が返ってくる。女性のようだ。
「はいはい誰ですかっと……おや、見ない顔だね」
「あ、どうも……」
中から戸を開けて顔を出したのは、紅いズボン、いや、モンペと白いシャツに身を包んだ女性だった。モンペはお札のようなものが多数貼り付けてある。白髪というより銀髪に近い長い美しい髪の彼女は事の次第を察したのか、五郎が言い出す前に言った。
「あんた、もしかして外から流れてきた人間? あるいはまだそれも分かってないかしら」
「うーん、一体どういうことなんだ?」
「まぁ、そうよねぇ。ちょっと上がって。詳しく教えてあげる。ああ、そうそう。私は藤原妹紅。そっちは?」
「あぁ、こういうもんです」
五郎は名刺ケースから名刺を取り出して渡す。妹紅は特に怪しむこともなく受け取る。
「井之頭……五郎、ね。ま、とりあえず中に入っちゃいましょっと」
「なんだか厄介なことになっちゃったぞ……」
五郎が妹紅の説明を受け、唸る。それもそのはずだ。いきなり「あなたは結界を超えて幻想入りしました」などと言われて理解が追いつくはずもない。だが、現実的じゃないからと突っぱねることもできないということは五郎も分かっていた。
「しかし運が良かったねぇ。ここら辺は妖怪達が多いから、運が悪けりゃ……」
「運が悪けりゃ?」
「次の日には三途の川を泳いでただろうね」
「ぞっとすることを言うな……」
青ざめる五郎に、冗談で済ませられればよかったけど、と返す妹紅に、さらに五郎は顔を青くする。情報をくれた彼女に礼を言って、立ち上がろうとする五郎。しかしそれを妹紅は引き留める。
「ああ、今からどこかに行こうってんならやめた方が良いよ。暗くなる前に人里に行こうとしたって、今からじゃもう遅い」
「……困ったな。明日は取引の約束が無いとはいえ……」
「明日には帰れると思うよ。とりあえず、今日はウチに泊まっていくといいさ」
五郎は死ぬよりはマシか、と妹紅のほどこしを有り難く受けることにする。
「とりあえず、夕飯にするから、適当に寛いでて」
「俺も手伝うよ……調理自体はあまり得意じゃないが」
すると妹紅は五郎の意図するところ――――つまり気遣いだとか恩義の念だとか、そういうのを察して、じゃあということで簡単な作業を任せる。魚を串に刺したものを渡し、囲炉裏に刺させるだとか、鍋を囲炉裏の火にかけるとか、その程度のことだ。とはいえその分場を離れなくていいから、若干調理が捗るというのは事実であった。
「はい、お疲れさん。鍋のふた、取ってくれる?」
「……これは?」
五郎がふたを開けた鍋から現れたのは、いくらかの野菜を炒めたものが煮込まれたものだった。けんちん汁のようなものだろう。
「大根とかゴボウとかサトイモとか、冬でも採れる野菜を炒めてから煮たんだよ。ホントは、もうちょっと野菜を入れてけんちん汁にしようと思ったんだけど、冬だからこんなもんしか手に入らなくって。で、さっき焼いてもらった魚を……」
妹紅はけんちん汁……のようなものをよそった椀に、焼いた魚を串から外して沈める。
「へぇ……」
「その代り、こうやって魚のダシで味を足すのさ。本当はけんちん汁って精進料理なんだけど、私は坊さんじゃないからね」
「よし、俺も……」
五郎は妹紅に倣い、魚の串を外し、箸も使って椀に魚を沈める。
(寺の坊さんには出来ない……なるほど、こいつは贅沢な料理だな)
椀に口をつけて少しすする。
(ほう……こいつは良いぞ。焼き魚とシイタケの出汁のランデブーだ。山と川がこの椀の中にあるんだ)
思わぬ当たりに、昼間は影っていた五郎の心に光が差す。
(それに野菜もウマいな。ゴロゴロしててまさしく「食べてる」って感じだ)
向かいに座っている妹紅は、五郎の食べっぷりが嬉しいのか少し頬が緩んでいる。囲炉裏の炎が家を温めているのを挟んで、二人は冬場の寒空で冷えた体を温めていた。そんな中、妹紅が何かを思いついたらしくにやりとした笑みを浮かべ、五郎に話しかける。
「そうだ、こいつはこうしてもウマいんだぞ?」
椀にけんちん汁を再びすくい、魚の出汁を馴染ませた妹紅。すると、それを程よく冷めた白米にかけ始めた。
「行儀は悪いんだけどね。まあ、あんたもウマいものを食べるときに細かい礼儀作法は気にしないクチなんだろう?」
そう言って、けんちん汁と白米を一気にすすり始める。あまり話しかけられたことにいい印象を持たなかった五郎は、それに一気に心変わりをおこし、ゴクリと喉を鳴らす。
「ホレ、遠慮しないでもう一杯」
妹紅が意地悪そうな、嬉しそうな、そんな笑みを浮かべて五郎の椀にけんちん汁をよそう。五郎もそれを受け取ると、挑戦を受け取った、と言わんばかりの笑みを浮かべて、躊躇なく白米にかけていく。そしてそれを豪快にすすり始めた。
(ほう……シイタケの出汁がメインのけんちん汁単体だけだと合わないけど、魚の出汁でガッチリと歯車がかみ合ったな……味噌汁をかけて食うのと同じ、気軽な味だ。山と川が米の水田まで下りてきてる)
五郎がどんどんと米をすすっている。対面の妹紅も、負けず劣らずのペースで食べていた。そうして二人の茶碗が空いたとき。
「どうだい、おかわり、いる?」
「あ……悪い、頼むよ」
「よっしゃよっしゃ、どんどん食え」
そう言って、自分と五郎の器に白米とけんちん汁をよそうと、再び二人は食べ始める。五郎と妹紅は、お互い何か似たような性格であるようで、食べている間は基本的に無言であった。ただ、食事をする音と、囲炉裏の火が弾ける音がするのみである。湯気と煙が混じって外に流れる中、二人はただひたすらに目前のウマい食い物を食べることに集中していた。
「ふぅ、ごちそうさん」
「ごちそうさま。いやはや、思わぬ幸運だった。こんなにウマい飯が食えるとは」
「そりゃよかったよ」
妹紅は笑顔を見せると、さてと、と片づけを始める。五郎もそれを手伝い、十分程度で終わらせる。
「んで……五郎、だったっけ。とにかく、明日にでも人里で「上白沢慧音」か「稗田阿求」を尋ねるといい。そんで「八雲紫」ってやつに連絡を取ってもらえば、近日中に帰れるはずさ」
「八雲紫? 帰るにはそれしか?」
「一番確実なのはそいつに頼ることだ。博麗神社ってとこに行ってもいいけれど、あそこは昼夜関わらず妖怪がいるから少し危ないんだよ。行くとしても、とりあえず明日の朝人里に行ってからでも遅くないさ。とにかく、今は寝よう。明日、人里には案内してやるから」
「そうか。世話をかけてすまないな……」
気にするな、と妹紅は毛布二枚を取り出す。
「悪い、ウチは寝床にできるもんが無くてな……毛布で我慢してくれ」
その発言に少し驚きを見せる五郎だが、彼女の言う「妖怪」とやらがいつ現れるか分からない外で眠るよりは大いにマシだろうと、素直に毛布を受け取ってそれにくるまった。