東方先代録   作:パイマン

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妖々夢編その三。


其の十二「妖々夢」

 最近になって私は霊夢に博麗の巫女としての修行をつけるようになった。

 霊夢はまだ十歳にもなっていない子供である。

 本来ならばまだまだ遊びたい盛りの自由奔放に育つべき時期だ。

 親として、これがあまりに急いだ教育であることは自覚している。

 私は、きっと間違っているのだろう。

 しかし、そうせざるを得ない理由があった。

 

 ――霊夢は、子供なのになんか既に枯れていた。

 

 日中にやることが縁側で日向ぼっことかどうなの? お母さん悲しくなります。

 放っといたら半日くらい飽きもせずぼーっと庭を眺めてたり、たまに動いたと思ったら自分でお茶を用意して一層腰を据え始めたり。

 うんうん、勝手に自分でお茶を入れることが出来るようになってるなんて、うちの子はなんて自立心が高いんでしょ。

 高すぎて涙出てくるくらい。『おかあさんおかしちょうだい』とか『のどかわいたー』とか、子供らしいおねだりの言葉を一度も聞いたことないわ。

 どんだけ達観してんのよ、うちの子は。

 人生を謳歌し尽くしたご老体じゃないんだからさ……。

 いや、家事手伝いとかこの歳で十分すぎるほど家のことで働いてくれてますけどね。

 でも本来なら働くのではなく遊ぶのが仕事の年頃のはずだからね?

 無為に景色を眺めているわけではなく、庭先で私が掃除をする姿とか修行している姿とか、あとは家の中だと裁縫や料理する姿など。何かと私の仕草や行動を目で追っているようだが、でもそれって別に珍しくも無い日常的で退屈な光景だよね。

 毎回疑問に思って『面白いのか?』って聞いてみると『面白い』と決まって返ってくる。

 まあ、感性なんて人それぞれだから私がどうこう言うつもりはないけど……でも、もうちょっと子供らしく活発になりなさい!

 ――とはいえ、霊夢がこうなってしまった原因は半分くらい親である私自身にもあるのだ。

 博麗の巫女として人里離れた神社に住み、しかも立地の理由から訪れる人も少ない。

 必然的に子供に必要な同年代の友達など、遊ぶ為の環境が絶望的な状況に陥ってしまっている。

 私もこの身一つなので、日常的な家事や修行、博麗の巫女としての仕事も結構頻繁にあって、あまり十分に構ってやっているとは言い難い。

 大抵戦闘になる仕事の成果はもちろん、時には生死にも関わるので修行を怠るわけにはいかないし、その仕事自体も与えられた責務上疎かには出来ない。

 ……あれ、なんか言ってて私ってば『仕事ばっかりで子供が愛情に飢えるタイプのビジネスママ』みたいに思えてきた。

 ご、ごめんね! 聞き分けが良い子だからって、それに甘えてばっかりの駄目ママでごめんね霊夢……っ!!

 こういう風に己を振り返って発作的に自責の念に苛まれる現象が、最近割りと頻発する私。

 しかし、言い訳するつもりは毛頭ないけれど、残り半分の原因はそんな聞き分けの良さが半端ない霊夢自身にもあった。

 これはもう霊夢の特性と割り切るしかないのだが、とにかく人間関係や物事にこだわらないのだ。

 普通なら、構ってくれない親にわがままも言うだろうし、自分の置かれている環境に不満も持つだろう。

 私も可能な限り霊夢を連れて人里など『自分以外の人間が生活している環境』を見せて回っているので、そこにある活気や営みの素晴らしさを知ってはいるはずなのだ。

 それと比べて、自分が今寂しい状況にいることも分かってはいるだろう。

 でも、霊夢の場合はそれを理解した上で『別にいいか』くらいにしか思っていないようなのである。

 実際に、以前その辺のことを尋ねてみたらそのまま『別に気にしない』って答えが返ってきたし……。

 それを不憫、と感じるのは私の身勝手な思い込みなのだろう。

 知らないからそう感じるのなら確かに不幸だが、霊夢は知った上で自分の性分に合った答えを出したのだ。

 人里の子供達とも少ない機会で何度か交流させたが、どうにも他の子より精神的にも一歩先んじており、かつ集団での馴れ合いを自然と避ける傾向にある。

 子供特有の馴れ馴れしさを持たないというか……決して冷たいわけではなく、面倒見もいいんだけどね。でも同年代なのにそう対応出来てしまうのは、やっぱり距離があるからだろう。

 本当の友達というのは、対等な関係でしか成立しないものだからね。

 そんなワケで、霊夢にとって今の環境は苦ではなく、むしろ合っているというのが本人の口からも答えられていた。

 一般的な子供の範疇で霊夢を測ること自体が間違っているのかもしれない。

 不必要に気を遣うことは、身勝手でお仕着せがましい行為となるだろう。

 

 ……でも。だからといって、それに甘んじて何もしないのは親失格である!

 

 と、いうわけで。

 少々早い気がしたが、私は霊夢に博麗の巫女としての修行を始めることにしたのであった。

 遊びの代わりに勉強を教えるようなものだから、果たしてこれが健全な子供への教育なのか不安になるが、それでも子供のまま仙人にでもなりそうな日々を過ごす霊夢を放っておくよりかはマシだろう。

 実は霊夢と交流する切欠が増えて私も密かに嬉しかったりするしね。

 こういう理由がないと霊夢と触れ合えない私マジへたれママ。

 だって、鬱陶しいとか思われたら嫌だし……。

 そ、それはともかく! ――こうして、二人だけの博麗神社で暮らす日々に変化が訪れたのだった。

 

 今日の修行は室内で行っている。

 符術に使う霊符を作成する練習だ。要は、お札に筆で文字を書く、習字みたいなものである。

 当然ながら、霊夢はまだ未成熟な子供なので、肉体の鍛錬や術の習得などをさせるつもりはない。

 こういった道具の準備や手入れ、一般教育の延長のような座学の他に、軽い準備運動などを教えて体を動かすようなことから始めている。

 ちゃんと段階を踏んで鍛えていかないとね。

 まあ、前世の知識を自覚した当初から漫画のバカ修行始めてた私が言っても説得力無いけど……。

 でもね、霊夢。両手を血塗れにしながらやってる貫手稽古見て『あたしもそれやってみたい』とか、お母さん死んでも許しませんよ?

 今更ながら教育に悪いと気付いたので、体が傷つく系の修行は人目を忍ぶようにしている。

 霊夢には私と違った正統派の巫女になってもらいたいね。

 私の代では全然使ってもらえてない陰陽玉が泣いてるだろうし。

 親の勝手な期待かな、という不安は霊夢を教え始めて、その呑み込みの早さを確認してから杞憂に終わった。

 今もそうだ。最近教えたばかりの漢字をサラサラと淀みなく紙に書いていく。

 その傍では、針仕事をしながら私が見守っていた。

 うーむ、とても子供とは思えない達筆さだ。

 まあ、あれだね。薄々気付いてたけど、私の霊夢は他の子供と比べて才能でも一歩先行ってますから。出来る子だってのは分かってましたけどね。

 そういう意味では、人里住んでなくてよかったわー。うちの子の器量と出来の良さ見たら、他のお母さんとかに私が嫉妬されちゃうわー。ホント困るとこだったわー。うふふ。

 ……っていうか霊夢、私より字綺麗じゃね?

 私の方が負けてね?

 や、やばいな。あとで私もこっそり練習しよう。

 横目でチラチラ見て密かに決心もしつつ、表では何食わぬ顔でチクチク霊夢の服を繕っていく。

 子供の成長って早いからね。

 外の世界と違って普段着がゆったりした和服だから、こうした大きさの調整もそれほど難しくはないのが救いかな。

 趣味となっている裁縫だが、実はあんまり上手くない。

 昔と比べると大分慣れてきたと思うのだが、まだまだ経験を積まなきゃ駄目だね。

 裁縫の出来自体は悪くないのだが、あくまで平均的な範疇だし、よく指も刺す。

 全然痛くないし血も出ないけど。修行の積み重ねで手の皮も厚くなってるから、針で刺したくらい怪我にすら入らないのだ。こういう時には便利。

 

「ねえ、かあさん」

 

 穏やかな静けさの中に霊夢の声が響く。

 ほいほい、何か分からないところあったかな?

 

「ん?」

 

 クソ無愛想な声が出る私。

 娘に対してもっと愛想よくしようよ。

 自然体でいるとこんな感じになってしまうから困る。まあ、今更だけど。

 

「かあさんのやっている修行って、あたしには教えてくれないのよね」

「ああ、必要ない」

 

 何故か霊夢は私の修行に興味を持っているようだったが、私の返答はいつも変わらない。

 こう答える度に、霊夢は表情には表さずに残念そうな雰囲気を出すが、それでも私の決意は固かった。

 駄目です。適正とか必要性以前の問題として、個人的にあんなこと霊夢に真似させたくありません。

 

「ハモンっていうのは? 呼吸するだけでしょ。いろいろ便利そうだし」

「駄目だ。教えない」

「ケチ」

「ケチで結構」

 

 珍しく拗ねたような顔をする霊夢の反応が子供っぽくて内心ほっこりしてしまうが、表情には出さない。

 鋼鉄の精神力で拒んだ。

 波紋の修行方法だって、下手したら窒息死するような危険なものなのだ。

 私のやっている無茶修行全てに言えることだが、いずれも成果どころか命すら保証出来ない。言うなれば、向こう側の見えない崖へ身を投げるような危険と不確定さだらけの挑戦なので、誰かに教える責任なんてとても持てないのだ。

 だから、霊夢も含めて他の誰にも教えるつもりはない。

 それに、波紋に関してはその便利さから、逆にいろいろと思うところも出来たしね。

 丁度いいから霊夢に言っておこうか。

 

「霊夢が大人になったら、私も波紋を使うのを止めるよ」

「……どうして?」

 

 私の宣言に、霊夢が眼を丸くして驚いた。

 

「波紋を使っていると歳を取りにくくなる。使えば使うほど慣れて、どんどん老化が遅れてしまうからな」

「若いままってことでしょ? それって良いことなんじゃないの?」

「良いことばかりじゃない」

 

 肉体を酷使する修行を続ける分には、若さを維持できるっていうのは利点なんだけどねぇ。

 そんなこと続けてたら、いずれ霊夢が私よりも歳食っちゃうなんてことになりかねない。

 万が一にでも、霊夢の方が寿命で先に、なんて……それはちょっと御免だなぁ。

 

「……あたしのせい?」

 

 具体的に答えなかった私だが、勘か何かで察したのか霊夢が俯きながら、そう呟いた。

 あれ? まあ、霊夢が理由なのは確かだけど、それで落ち込む必要が何処にあるんだろう?

 

「やっている修行の数や時間も減ったし、便利なハモンも使わないって……それ、全部あたしがいるせいじゃない?」

 

 おおう、これは予想外な反応だった。

 つまり、霊夢はこれまで見てきた私の生活や行動の変化を、自分が原因となって妨げているものと捉えてしまったわけだ。

 まさか霊夢がそんなことを気に病んでいるとは知らず、その発言に私はしばし呆然としてしまった。

 

「あたしがいるから、かあさんのやりたいことをたくさん我慢させちゃってるんじゃないかな」

「……霊夢。筆を置きなさい」

 

 すっかり手が止まってしまった霊夢にそう言って、私も裁縫道具を置き、立ち上がった。

 霊夢の傍に歩み寄り、座り込む。

 

「霊夢。博麗の巫女としての仕事を、将来やってみたいと思うか? やらなきゃいけない、ではなく。自分がそうしたいから、巫女になる――そう思ってるか?」

 

 私の唐突な質問に、霊夢は少し混乱したようだったが、その聡明さを発揮してすぐに決意の篭もった真剣な眼で見つめ返してきた。

 

「うん。あたしはかあさんと同じ仕事をしてみたい」

「……そうか。じゃあ、お前の気にしていることは、何も問題ない」

 

 私は霊夢の返事に満足感を覚え、自然と笑みを浮かべていた。

 本当にね、私には勿体無さすぎるくらい出来た娘ですよ。

 血は繋がってないけど、この子の母親になれるよう導いてくれた運命とか神とかあるいは他の何に対してもいいから、とにかく感謝するしかない。

 

「私の今やりたいことは、お前に博麗の巫女としての役割を託すことだよ」

「たくす?」

「ああ。昔とは違う。今はもう、修行よりもそっちをやりたいんだ」

「……でも、それはあたしの為になることであって、かあさんの為にはならないんじゃない?」

 

 うちの子マジで頭良すぎじゃね?

 普通、この歳でここまで大人相手に配慮出来ますか?

 感動のあまり勢いのまま抱きついてしまいそうになったが、それを必死で自粛して霊夢の肩にそっと手を置いた。

 我慢我慢。ここは親としてビシッと決めるところだ。

 さあ、頑張れ。普段ならあまり動かさない口と舌。喋りすぎて痙攣するなよ。

 

「いいや、お前の為に何かをするっていうことは、私の為にもなるんだよ。親というのは、そういうものなんだ」

「……分からない」

「お前も大人になれば分かる。人はいつか死ぬんだ。いろんな方法で先延ばしをしても、結局は終わりが来る。

 私の鍛えた力や術なんて、死ねば何も残らない。修行の意味なんて無くなる。でも、私はお前に出会えたから、お前に託すことが出来るんだ」

「……何を?」

「言葉にするのは難しい。でも、私が死んでも霊夢は私が教えたいろいろなことを覚えていてくれるだろう?」

「うん。忘れるわけないわ」

「ありがとう。それが何かを託すということだ」

 

 滅多に見せない力強い仕草で頷いてくれる霊夢に、本当に心の底から感謝しながらそっと頭を撫でた。

 

「誰かに何かを託して逝けるのなら、それはとても幸せなことなんだ」

 

 確かに、私が変わった原因は霊夢に違いない。

 霊夢という娘が出来なければ、私もこういう考え方を持たなかっただろう。

 でも、それは果たして幸福なことか?

 修行や戦いの果てに限界を迎えて前のめりに死ぬか、あるいは限界を越えて人間以上の何者かになって長々と生き続けるか。

 そういう『もしも』を考えることは全く意味のないことなのだろう。

 そうなった時の自分と今の自分は、その価値観さえ違っているだろうから。

 でも少なくとも――『今』を知った私にはその『もしも』の人生が幸福だとはとても思えない。

 私は霊夢の母親となった。

 そして、幸運なことに母親として生きる上での最高の幸せを手に出来たのだ。

 

「だから、お前の為に生きることは私にとって幸せなことなんだよ」

 

 良き母親であろうとすることは、私にとって手探りばかりの不安で困難なことだ。

 霊夢に無駄な負担や押し付けをしてしまうのが怖い。

 でも、この子に私という人間の一片を託す以上、期待をしないというのは親として間違ったことだよな。

 

「霊夢。立派な博麗の巫女になりなさい」

「……うん、頑張る」

 

 私の期待に、霊夢はしっかりと応えてくれた。

 

 

 

 

「スペルカード・ブレイク、ね」

 

 淡々と告げる霊夢の顔を、妖夢は間近で見上げていた。

 全身から嫌な汗が噴き出している。

 肉体的な疲労はそれほどないはずなのに、今にも集中の糸が切れそうだった。

 

 ――私は、こいつに……。

 

 続く言葉を必死で否定する。

 認めるわけにはいかなかった。まだ勝負は始まって半ばにも達していないのだ。

 使ったスペルカードはこれで三枚。

 まだまだ余力は残っている。

 しかし――。

 

「まだやる気?」

 

 全ての弾幕をかわし切り、無造作に妖夢の眼前まで距離を詰めた霊夢は息一つ乱していなかった。

 

「当たり、前だ……っ!」

「虚勢は無駄よ。あんたの眼も顔も、何もかもが答えになってる」

 

 凍りつくような視線が、心の奥まで見透かしているような錯覚に囚われる。

 いや、本当に錯覚か?

 この巫女は、自分の中にある怯えと諦めを完全に看破してしまっているのではないか。

 そんなはずはない。何故ならそんな感情は自分の中に存在しないからだ。

 妖夢は必死で己の心を支えていた。

 現実を直視すれば容易くへし折れてしまいそうなほどにぐらついた心を。

 

「……お前、なんかにっ。私の……鍛錬し続けた、時間が……!」

 

 目の前の巫女は紛れもない人間だった。

 そのあまりに短い生をあっという間に消費してしまう脆い種族のはずだった。

 積み重ねた時間の量も密度も、自分とは違う。絶対に違う。

 妖夢はそう決め付けて、縋り付くことでかろうじてこの場に立っていた。

 

「こんな……ルールに縛られた決闘なんかじゃなければ……っ!」

 

 妖夢は無意識に口走り、そこに正当性があることをわずかに信じながら、残りの全てを言い訳染みた己の言葉への疑念と後悔で埋め尽くしていた。

 霊夢は何も応えなかった。

 ただ冷ややかに見下ろしていた。

 

「その剣から弾幕を出しているんでしょう?」

 

 霊夢は妖夢の構える刀を指して言った。

 

「振ってみれば?」

 

 自身が妖夢の刀の間合いにいることを自覚しつつ、無造作に提案した。

 

「弾幕ごっこの範疇よね、それって」

「……っ! うわぁあああああああぁーーーっ!!」

 

 その一言で、妖夢の追い詰められていた精神は限界を迎えた。

 当初の洗練された剣気や殺気は乱れに乱れ、半ば錯乱気味に霊夢へ向けて刀を一閃させる。

 心を乱されながらも、技術に裏づけされたその一太刀は人間を両断する程の鋭さを持っていた。

 加えて、名刀である『楼観剣』の鋭利な刃は生半可な結界ごと対象を断ち斬る。

 刹那の剣閃が瞬いた。

 

「……あ……ぁ」

「それで――」

 

 妖夢の渾身の一太刀は、霊夢の手の中に納まる形で止められていた。

 単純な防御ではない。妖夢の太刀筋を見切り、片手による変則的な真剣白羽取りによって対応したのだ。

 結界用の札二枚で挟み込むように刀身を掴み、その威力を完全に殺している。

 

「まだやる気?」

 

 先程と何も変わらない言葉の繰り返しを受け、妖夢の心は折れた。

 全身から戦意と力が消え失せる。

 

「やりすぎだぜ」

 

 勝負がついたものと判断した魔理沙が開口一番に言った。

 現れた時に漲っていたあるゆるものを失い、力無く俯くだけの今の妖夢を一瞥して、顔を顰めている。

 霊夢はスペルカードを全てブレイクするわけでも、武器を握る腕を切り落とすわけでもなく、確実に手早くそして深く敵に敗北を刻み込んだのだ。

 無慈悲な勝者は、そんな非難を肩を竦めるだけで流した。

 

「それじゃあ、尋問といきましょうか。出来れば正直に答えて欲しいわ」

「そりゃあ、正直に答えるしかないぜ」

 

 脅迫や拷問よりも確実で残酷な方法だな、と魔理沙は思った。

 心の底から負けたと悟った相手に抵抗できる精神力など残ってはいないのだ。

 

「あんたの主とその目的は?」

「……白玉楼の主である西行寺幽々子様。目的は……西行妖という妖怪桜を、幻想郷の『春』を使って咲かせること……」

 

 妖夢は小声でボソボソと答えた。

 

「何故咲かせるの? その進行具合は?」

「あそこには何者かが封じられている……。西行妖に施された封印は、満開になることで解かれる。だから、幽々子様がそうしたいと……満開まで必要な『春』はあと少し……」

「なんだよ、ただのお姫様の娯楽か」

「異変なんてそんなもんでしょ。それで――」

 

 霊夢の瞳に剣呑なものが僅かに宿る。

 

「その白玉楼とやらに、あんた達以外の人間の魂が一つ、新しく入って来なかったかしら?」

「先代巫女なら亡霊となって白玉楼に住むことになったわ」

 

 聞き覚えのある声が、霊夢の質問に答えた。

 不意打ちに対して、咄嗟に霊夢と魔理沙が身構える前で妖夢の姿がスキマに飲み込まれて掻き消える。

 おそらく邪魔にならないよう別の場所へ移動させられたのだ。

 そんな能力を行使出来る妖怪は、一人しかいない。

 

「やっぱり、あんたが犯人だったってわけね。スキマ妖怪」

 

 出会った当初から感じていた嫌悪と敵意は、もはや殺意となって霊夢の体から立ち昇っている。

 先代巫女との関わりで互いに相容れぬと考えていた存在。

 それが、今や証明されたのだ。

 空間が裂け、そこから八雲紫が霊夢達の前に姿を現した。

 

「話をしましょう、博麗の巫女」

「あんたとの相互理解はもう無理だと思うけどね」

 

 言葉こそ交わすものの、もはや紫を異変の一部と判断しているとしか思えないほどの警戒態勢を取る霊夢。

 しかし、逆に紫はその様子に話し合いの余地を感じ取った。

 本当に自分をただ退治するだけの妖怪だと断じているなら、問答無用で攻撃をしてくるはずだ。

 会話をするなど非効率的だった。

 無意識にそうしてまでも確認したいことが霊夢にはあるのだろう。

 

「私が貴女の母親に行ったことの意味と理由を話しましょう」

 

 その言葉に、霊夢の戦意が僅かに薄れた。

 紫は傍らの魔理沙へ一度視線を移す。

 

「霧雨魔理沙。貴女には少しこの場から退席してもらうわ」

「なんだよ、わたしは蚊帳の外か?」

「先代が推し、自らも力を示した。貴女には異変解決に関わる資格がある。けれど、この話に関われる立場ではないわ」

「へえ、そうかい。そうやって上から目線で何もかも判断してるんじゃないぜ」

 

 魔理沙は紫への不快感と不信感をあらわにして、霊夢と並ぶように戦闘態勢を整えた。

 例えどんな大層な理由があったとしても、先代の魂を奪った目の前の妖怪の行動を容認するつもりはなかった。

 悪意をもって行われたことではないのは分かる。

 しかし、親友の母親を、親しい間柄につけ込んで陥れるなど、魔理沙の価値観では絶対に許されることではなかった。

 何様のつもりだ?

 これは誰々の為だとか、正しいことなのだとしたり顔で語るつもりか?

 魔理沙が動く理由は感情だった。気に食わないから、まずはぶっ飛ばしてから話なら聞いてやろうと思った。

 その時、あらぬ方向から放たれた弾幕が魔理沙を襲った。

 

「――見下ろせるんだよ。この方は『妖怪』で、お前達は『人間』なのだから」

 

 魔理沙を攻撃したのは紫の式神である藍だった。

 慌てて回避する魔理沙を追い立てるように、更に弾幕を浴びせ掛ける。

 

「クソッ、邪魔すんなよ!」

「お前がいては話の場が乱れる。あとで異変解決になら参加させてやるから、大人しく下がるんだな」

「お前の許可なんか聞いてないぜ!」

 

 霊夢達との距離が離れ、それが藍による誘導であると分かってはいたが、魔理沙にはどうすることも出来なかった。

 自分の相手はこの狐妖怪らしい。

 こいつを倒さなければ、紫に物申すことすら出来ないし、何よりもこいつ自身も気に入らなかった。

 

「自惚れるなよ、格下が」

「お手本みたいな格上様の台詞をありがとうよ。反骨心でパワーアップ出来たぜ」

 

 藍の視線は弱者に対する嘲りと憐れみを同居させたものだったが、そんなものは慣れている。

 魔理沙は不敵な笑みを浮かべて勝負に挑んだ。

 

 

 

 

「それで、先代巫女の魂はこの先にあるのね?」

「母――とは呼ばないのかしら?」

 

 周囲の全てを無視して、博麗霊夢と八雲紫は対峙していた。

 既に霊夢は戦意を消している。

 しかし、表情や視線、声色に至るまで互いに友好的なものは何も含んでいない。

 まるで敵対であった。

 幻想郷を管理する立場にある二つの種族の代表が。

 本来ならば、在ってはならないことだった。

 

「先代巫女――を、亡霊にして五体満足のまま存続させる。不具合のある肉体は捨てる。あんたはそう判断したってわけね」

 

 紫の軽口に応じず、霊夢は答えを聞くまでもないまま断言するように自らの予想を口にした。

 

「……いいえ。彼女を亡霊にしたのは一時的な処置よ」

 

 霊夢の頑なな態度を無感情に眺め、やがて紫は事の真相を語り始めた。

 

「彼女の足は、今の段階ではどうあっても治すことが出来ない。

 しかし、将来的に不可能なわけではない。様々な方法を模索し、いずれ見つけ出す。幸い、協力者には事欠かないしね」

 

 紫の口調は普段の装ったものではなく、限りなく素を出したものだった。

 語る内容に偽りは無い。

 先代巫女は多くの人妖に慕われている。

 紫が協力者の候補として、今回の件に関わった慧音やチルノ達のことを含め、紅魔館など多くの有力者達を挙げているのは間違いなかった。

 

「その方法の目処が立つまで、先代には亡霊となってこの冥界に住んでもらう。肉体は保存する。それが私の出した結論よ」

 

 言葉にすればあまりに簡潔な理屈だった。

 そして、霊夢はその話を嘘だとは感じなかった。勘がそう告げている。

 だが同時に、その話を語る紫の声には一切の感情が込められていないことも察していた。

 この話からは八雲紫の動機が見えてこない。

 

「あんたの能力でも治せないの?」

「私の能力が作用するのは概念的な部分が大きいわ。人間の肉体に対して微妙な操作は出来ない。

 先代の足の不能は酷く複雑なものよ。傷自体は既に完治している。神経や骨格の異常を修正する為の既存には無い精密な技術を探すか開発しなければならない」

「それは随分と、気の長い話ね」

「人間にとっては、ね。けれど、亡霊となれば時間は関係ないわ」

「なるほど。亡霊の状態ならば、変な表現だけど生きている時とあまり変わらない。意思疎通も出来るし、触れ合うことも出来る。生前の感覚で過ごしながら、いずれ来る復活の時に備えられる」

「その通りよ」

「理解したわ」

「結構。では、貴女の答えを聞かせて」

 

 互いに感情を見せず、淡々と門答を交わした末に紫はそう促した。

 霊夢はわずかな思案の間すら見せずに即答する。

 

「先代巫女の魂を返してもらうわ。そして異変も解決する。邪魔をするなら、あんたを倒す」

 

 簡潔に、しかし有無を言わさぬ決意を込めた言葉に対して、紫はただ静かに眼を伏せた。

 ここまでのやりとりを全て無視し、最初からこうなることを予想してたのだった。

 人間と妖怪。

 価値観か、それとも思想か。いずれにせよ、二つの種族の間で決して交わらない差異がここに表れていた。

 そのことに関する議論が無意味であることを紫は知っている。

 はるか昔から、人間と妖怪の間で幾度もすれ違ってきたものだからだ。

 

「……貴女はまともに立ち上がれない自分の母親を見て何も感じなかったの?」

 

 聞き覚えのある質問に霊夢は鼻で笑った。

 

「どいつもこいつも同じことしか言わないのね。あの人が自分の身に降りかかった出来事を不幸だと嘆いてたわけでもないでしょう」

「貴女達人間は自らの生に様々な感情を託し、自らの概念で縛り上げる。

 亡霊として過ごすことの何が気に入らないの? 貴方達のこだわる人間としての生と死とは何? 不自由な体を抱えて、平均寿命の範疇で死ぬことが出来れば人間らしい生き方だと認められるのかしら?」

「違うわ」

 

 霊夢は断言した。

 揺るがない心が反映された力強い声だった。

 

「誰かに何かを託して死んでいくこと。託されたそれを受け取って生きること。それを紡いでいくことが、人間らしい生き方よ。

 あの人は、子が親より早く死んではいけないと言っていた。あの人はあたしよりも先に死ぬと決めていた。そして、あたしはあの人から託された人間なのよ」

 

 紫の顔を覆っていた仮面に僅かな罅が入る。

 そこからは霊夢に対する負の感情が見え隠れしていた。

 瞳に剣呑な色が浮かび上がり、それを誤魔化すように口元を扇子で隠した。

 

「やはり、貴女は先代にとっての枷ね」

 

 事実を責めるように告げる。

 

「貴女は知らないでしょう。

 かつての彼女は自らを鍛えることにひたむきだった。無茶で無謀な修練を繰り返し、その極みに至ってもなお先を見ていた。

 でも、貴女が現れたことで変わってしまったわ。貴女の存在が彼女を『母親』という枷に当て嵌め、果ての無い先を見据えていた彼女に終着点を与えてしまったのよ」

 

 ――先代巫女は、お前の為に死ぬのだ。

 

 紫の言葉には、そういった意味が込められていた。

 根拠の無い言い掛かりや、感情から来る無知な叱責ではない。

 確かな事実だった。

 それは霊夢自身も認めていた。

 何よりも、霊夢がその母から直接伝えられたことだからだ。

 そして、だからこそ――霊夢は何一つ揺らぐことなどなかった。

 

「確かに、あたしは知らない。あんたと共にいた長い年月の中のあの人を知らない。でも……」

 

 霊夢は紫の瞳を見つめ返した。

 怒りや苛立ちなどは感じない。

 しかし、何よりも強い視線に射抜かれて、紫は思わず息を呑んだ。

 

「あんたは、ただ一日だってあの人の娘として共にいたことはないでしょう。

 あの人に育てられたことも、教えられたことも、授けられたことも――全部、娘であるあたしだけが知っている」

 

 霊夢は前を見据えたまま、ゆっくりと進んだ。

 それに対して、紫は全く動くことが出来なかった。

 全身が硬直し、喉は引き攣っている。

 

「あたしに託し、そして死んでいくと決めてくれた。だから、あたしはあの人を最期まで人間として生かす」

 

 目の前にまで迫った霊夢に対して何も出来ない紫の横を、そのまま通り過ぎる。

 戦闘は無く、反論も無かった。

 紫は霊夢の言動に、あらゆる意味で抵抗する意思を失っていた。

 それだけの力と意志が、霊夢の言葉にはあったのだ。

 霊夢は振り返らず、そのまま石段の先にある白玉楼とそこで待ち受けるものへと向けて飛翔した。

 

「……待って、霊夢!」

 

 対峙して以来初めて自分の名前を呼ぶ紫の声に引き止められ、霊夢は背を向けたまま動きを止めた。

 

「何よ?」

「一つだけ答えて頂戴。貴女は先代を……母親がいなくなった時の悲しみや喪失感を受け入れられるの? それに抗おうという気持ちが、少しでも湧いてこない? 同じ死ぬ人間だから受け入れられるなんて、そんな理屈ではないでしょう?」

「それって一つじゃないわね。まあ、答えは一つで済むけど」

「茶化さないで。教えなさい」

「嫌よ」

 

 肩越しに振り返ると、表情にこそ表れていないが随分と弱々しく感じる紫を見下ろして、小さく舌を出した。

 

「あんたなんかに教えてやんない」

 

 あとはもう振り返らず、縋るような視線を振り切って一気に石段の先へ向けて飛んだ。

 紫は追って来ない。

 呆気ないとは思わなかった。

 なんとなくだが、紫が自分の前に現れたのは妨害の為などではなく、ただ何かを確認する為に問いに来たのだと思った。

 背後に遠ざかる気配から追い縋る声すらなく、霊夢は紫の存在を頭の片隅に仕舞った。

 先代巫女の所在と異変の発生源。今回の物事の終着点へと近づくと共に、集中力が高まっていく。

 遠くから聞こえる弾幕ごっこの戦闘音と、そこにいるだろう魔理沙の安否が気に掛かったが、石段の頂上が見えると同時に完全に思考を切り替えていた。

 視界が開ける。

 石段を越えると、広大な敷地が広がり、まず目に付いたのは白玉楼と呼ばれる大きな屋敷と巨大な桜の木だった。

 そのうちの後者に視点を移し、木自体から感じる膨大な妖気と寒気のする感覚に一つの確信を得る。

 

「あれが西行妖ね……」

 

 巨大なその全貌を把握するべく、一通り視線を走らせていた霊夢は、根元を見下ろした時点でわずかに眼を見開いた。

 見覚えのある姿があった。

 半日も経っていないのに、酷く懐かしく感じる。

 母の背中だった。

 こちらの視線に気付き、向こうも立ち上がって振り返る。

 見た目では生身の人間と変わらないように見えるが、巫女である霊夢にはその姿が霊体であると理解出来ていた。紫の言葉とも合致する。

 しかし、母が自らの両足でしっかりと立ち上がる様を見た霊夢は一瞬その理屈を忘れて、全く別の考えを抱いていた。

 もし、このまま――。

 すぐさま我に返り、浮かんだ雑念を振り払う。

 

「同じ紅白の巫女。生前の彼女と縁のある人間かしら?」

 

 霊夢の中の僅かな動揺を見抜いたかのようなタイミングで、西行寺幽々子は姿を現した。

 妖しげな桃色に満ちた西行妖を背景に、死の気配を纏う美しい亡霊が浮かぶ光景はまさに幻想そのものだった。

 その不思議な魅力の中にある危うさを見抜き、心を囚われることなく霊夢は身構えた。

 

「あの人はまだ死んではいない。魂を返してもらうわ」

「あら、貴女は異変を解決にしに来たのではないのね? だったら結構。連れて帰っても構わないわよ」

「もちろん、この異変も解決するわ。集めた春も一緒に返してもらうわよ」

「家族と仕事、どっちを優先するつもりなのかしら?」

「答える必要は無いわね。最終的にどっちも完遂するんだから」

「そう。あの巫女は貴女の家族だったのね」

「……む」

 

 幽々子は先代巫女の素性を全くと言っていいほど知らない。

 何気ない軽口の応酬の中で、上手く敵に情報を引き出されてしまった。

 これから戦うことになる敵に自らの情報を与えてしまうことは、少なくとも有利には働かないはずだ。

 霊夢は思わずへの字に結んで口を噤んだ。

 

「姉……いえ、母親ね。うん、よく似ているわ」

「……それはどーも」

「少し話してきてはいかが? 私はここで待っているから」

「時間稼ぎに付き合うつもりはないわ」

「あらあら、冷たい娘さんねぇ」

「……亡霊が生前の記憶を失うことくらい知っているわよ」

「うふふ。さすがは博麗の巫女、一筋縄ではいかないわ」

 

 どっちがだ、と霊夢は内心で悪態を吐いた。

 この程度の挑発で心を乱されるほど激情家ではない。

 しかし、目の前の敵に対してやり辛さと手強さを感じていた。

 先程戦った従者とはまさに格が違う。さすがはその主といったところか。

 まるで底が見えない。柔らかな物腰の中に得体の知れない圧力が込められている。

 八雲紫と同じタイプの強大な存在だった。

 ただ、迷いを抱えていた紫と比べて、こちらは目的を達成する為の揺ぎ無い意志で動いている。

 

「ま、要はシンプルに行けってことよね」

 

 あらゆる懸念をあっさりと棚上げして、霊夢は意識を戦闘へと切り替えた。

 シンプルに実力行使だ。

 脅威を前にした躊躇いや怯みなど、彼女には無縁だった。

 

「妖夢が勝てないわけだわ。肉親の亡霊を前にして、心の乱れ一つも無し。お見事。『御立派』な博麗の巫女よ」

 

 菩薩のような笑みで抉り込むような挑発の言葉を吐く。

 対する霊夢は、むしろわずかながら喜色を浮かべて笑った。

 

「ありがとう。これ以上無い賛辞だわ」

 

 

 

 

 ――避けられない!

 

 魔理沙は自らが追い込まれたことを悟った。

 その物量もさることながら、計算し尽くされた弾幕だった。

 ただ闇雲に逃げ道を塞ぐのではなく、迷路のように入り組んだ回避ルートを作り出し、袋小路に追い込む。

 魔理沙はまさに藍の手のひらの上で踊らされていた。

 そして、ついに一発の弾が下腹に命中する。

 

「ぎ……っ!?」

 

 激痛が神経を伝って脳天まで走り抜け、飛び出そうになった絶叫を必死に噛み殺した。

 全身が硬直し、あらゆる自由が一瞬奪われる。言葉さえ発することが出来ない。

 弾が腹を貫通して、内臓を潰された――そう錯覚した。

 絶望的な気持ちで視線を下に向けると、当たった箇所には傷はもちろん服さえ破れていない。

 

「な゛……んだ、これ……?」

「安心しろ、物理的な破壊力は無いに等しい。死ぬほど痛いだろうがな」

 

 ただ単純に痛みだけで意識すら朦朧とする中、魔理沙はかろうじて藍の声を聞き取っていた。

 

「スペルカード・ルールにおいて、意図的な殺傷は禁止されている。

 お前がどれほどの妖怪達と渡り合ってきたのかは知らないが、そいつらは皆お前を殺さないように気を付けていたんだ。脆弱な人間が死なない程度に弾幕の威力や量を調整していた。

 同情するよ。コツを掴まないと、手加減が難しいからな。調整の精度に不安がある場合は、ルール違反の危険性を考慮して、よりレベルを下げなければならない。

 まったく、お前達人間の相手をするのは、壊れ物のように繊細な配慮をしなければならないから厄介なのだ」

 

 完全に見下した藍の台詞を、魔理沙は痛みに耐え忍びながら聞くしかなかった。

 例え口が利ける状態であっても、反論など出来なかっただろう。

 藍の語る内容は事実だったからだ。

 スペルカード・ルールの下で人間と妖怪が戦った場合、その勝敗がどんな結果であっても、そこにあるのは『弱い者はルールに守られる』という不変の事実だ。

 それこそがこのルールに求められる機能で間違いないのだが、一部の強者がそこに嘲笑を向けるのも仕方の無いことだった。

 藍は、まさにその一部に属している妖怪だった。

 

「貴様の得た勝利がどれほど気を遣われたものだったのか、今一度顧みろ」

「……へっ、お前なら遠慮はしないってか?」

 

 未だ腹の奥で疼く鈍痛を堪えながら、魔理沙はかろうじて笑って返して見せた。

 

「安心しろ、と言っただろう。殺しはせんよ。

 私の弾幕は殺傷力を極力削ってあるが、痛みを与えることに特化した性質だ。外傷は無いが、はらわたを抉り取られたような痛みだろう?」

 

 それが、自らの主の提唱したルールを早期に研究し、考え出した効率的な手段の一つだった。

 痛みはダメージとして最も分かりやすく、標的を損傷させる危険も無い為弾幕のレベル自体を下げる必要が無い。

 ルールに守られるべき弱者に配慮したからこそ、凶悪な難易度の弾幕を実現したのだ。

 

「この痛みは、実際に腹を抉られた時の痛みと同じだってのか?」

「身の安全は保証してやるが、何発も受ければ精神がもたんぞ。ショック死する前に降参しておけ。まだ、この異変解決に参加したいんだろう?」

 

 何処までも目線は上から下へ。

 魔理沙の行動が全て自らの許可によって左右されていると、藍は考えていた。

 今、矮小な人間の心は屈辱に塗れているだろうが、それは当然なのだと思った。

 自然の摂理だ。

 人間は、妖怪に劣るのだから。

 

「なるほどなぁ……」

 

 押し殺したような声で魔理沙が呟く。

 

「つまり、わたしの根性が続く限りはお前へのチャレンジOKってことだ……っ!」

 

 ようやく体がある程度の自由を取り戻し、改めて敵を見据える為に顔を上げた時、脂汗をダラダラと流しながらもそこには不敵な笑みが最初と変わらず浮かんでいた。

 見下していた藍の眼がわずかに細められる。

 

「聞いていたのか? お前達人間は過度の痛みだけでも十分に死ねる種族だろう」

「ああ、聞いていたぜ。心が折れない限り挑み放題ってんだろ?

 わたしは物覚えが悪いからな。弾幕の攻略方法を体で覚えろってのは、実にわたし好みだぜ。気を遣ってくれて、ありがとうよ」

「……そうか」

 

 藍は淡々と頷いた。

 再び掲げられたスペルカードは、魔理沙が取得に失敗したつい先程の物だ。

 

「なら勝手に死ね」

 

 情け容赦なく弾幕が放たれた。

 初見ではないとはいえ、弾幕のパターンは把握し切っていない。

 加えて、最初に通った回避ルートは罠だった。また新しい道を模索しなければ、このスペルを攻略することは出来ない。

 一度回避に失敗した弾幕を避け、更にその先にある未踏の領域を飛び越えることなど果たして出来るのか――?

 

「わたしの残機は無限だぜぇぇぇっ!!」

 

 胸に巣食う疑念と弱気を無視して、魔理沙は雄叫びを上げながら飛翔した。

 迫り来る弾丸の一つ一つに恐怖を感じる。

 当たれば、またあのおぞましい激痛を味わうことになるのだ。

 事前に知っていれば我慢出来るような生半可なものではなかった。

 むしろ、知っているからこそ足が竦み、動きが鈍る。

 しかし、魔理沙は止まらなかった。

 痛みへの恐怖を凌駕するだけの意志や目的があったわけではない。

 ただ、何の変哲も無い意地だけがあった。

 未だに引き摺る痛みと、直撃への恐怖が、明らかに最初の時よりも魔理沙の動きを鈍らせている。

 元々が過剰気味の加速力を持て余していた魔理沙の機動は、徐々に精密な弾幕の包囲に追い詰められ、やがて焦りが集中力に綻びを生んで致命的な瞬間を作り出した。

 移動した先。待ち構えていたかのように、複数の弾が迫る。

 その一発の軌道上には、魔理沙の頭があった。

 

 ――頭は、マズイよな。

 

 己の失敗を悟り、恐怖や絶望より先にそんな他人事のような思考が走った。

 一体どんな痛みが襲い掛かるのか、もはや想像すら出来ない。

 弾丸はそのまま魔理沙の右目に迫り、そして――。

 

 

『時よ、止まれ』

 

 

 気が付くと、魔理沙は弾幕の範囲から抜け出して、藍の背後を取っていた。

 正確には、何者かに抱えられて全く別の場所に移動していた。

 全てが唐突で、魔理沙の知覚の範囲外で行われた出来事だった。

 

「……え!?」

 

 記憶が飛んだような感覚に陥る。

 魔理沙は慌てて、自分を抱える腕の主を見上げた。

 

「さ、咲夜!?」

 

 魔理沙を弾幕の中から救い出したのは、いつの間にか現れた十六夜咲夜だった。

 驚くと同時に、現状への全ての疑問に答えが出た。

 あの瞬間、咲夜は自らの能力によって時間を止めて乱入し、魔理沙を抱えて場を離脱したのだ。

 赤いマフラーをなびかせ、咲夜は腕の中の魔理沙を一瞥した。

 

「最初に謝っておくわ。ごめんなさい、魔理沙」

「あ……いや、何言ってるんだぜ? 助けられたのはわたしなんだから……」

「この勝負はアナタの負けよ」

 

 咲夜の言葉に魔理沙は眼を丸くした。

 一方の藍は、乱入者に対して警戒を怠っていなかったが、その相手が単なる無知ではないらしいことを察して小さく鼻を鳴らす。

 

「理解した上での行動なら、とやかくは言うまい。

 事前に宣言したならばともかく、スペルカードを発動した段階での他者の乱入は反則だ。霧雨魔理沙、この勝負はお前の負けということになる」

「げっ、マジかよ……!」

「しかし、そこの紅魔館のメイドには感謝しておくんだな。『不慮の事故』という奴から救われたんだ」

「私のことを知っているとはね」

「我が主は全てを知っている」

 

 藍と咲夜。二つの冷たい視線が、静かにぶつかり合っていた。

 お互いが、向かい合う相手に対して奇妙なシンパシーを感じている。

 しかし、それは決して友好的なものではなく、同族嫌悪にも近い敵意と殺意だった。

 自らの主へ向ける尊崇の念が、二人の従者の間で反発し合うのだ。

 

「丁度いい時に勝負の区切りが付いた。私はここらで退かせてもらおう」

「あ、待てよ! まだわたしは諦めちゃいないぜ!」

「私の仕事は済んだ。もう、お前如きを相手にする必要も無い」

 

 血気盛んな魔理沙に対して、一貫して冷ややかに見下した対応を続ける。

 そんな藍を、咲夜は射抜くように見据えていた。

 

「分かるわ。主の命令が絶対ということね」

「そういうことだ」

「とても、よく分かるわ。きっと、無念極まりないのでしょうね。そんな主の命令を完遂出来ない時の気持ちというのは」

「……ああ、きっと。もし次に会う時があるのなら、試してみるといいだろう」

「是非、そうさせてもらうわ」

 

 一触即発の雰囲気を静かに醸し出しながら、しかしお互いに冷静なまま咲夜と藍は相手を見送った。

 藍がその場を去り、残されたのは不満げな表情の魔理沙と、一変して警戒を解いた咲夜だった。

 

「クソッ! 言いたいだけ言って行きやがって!」

「落ち着きなさい。あんな奴にこだわることはないわ」

「いいや、こだわるぜ! あいつに何一つ通用しないまま勝負が終わっちまったんだからな!」

 

 魔理沙はもがくように咲夜の腕から抜け出すと、背中を向けてしばらく悪態を吐いていた。

 咲夜は黙ってそれを見守った。

 

「……悪い。助けてもらったのに、なんか当たるようなこと言っちまって」

「いいのよ、悔しいのは分かるわ。でも、上手く感情をコントロールしないと、さっきの奴には勝てないわよ」

「なんだよ、さっきの弾幕ごっこを見てたのか?」

「最後の部分だけ少し。

 恐れを殺すことは難しいでしょうけれど、せめて闇雲に挑むことだけはやめなさい。不必要な戦闘もね。退くと言うのなら、今は行かせれば良かったのよ」

「そんなこと……出来ないぜ」

 

 魔理沙は俯き、唇を噛み締めた。

 

「霊夢も、一緒に来てたんだけどさ。あいつだけ特別扱いだったよ。わたしは邪魔だから、さっきの奴が相手をしてたんだ。

 多分、霊夢はもうこの先にある異変の原因まで辿り着いてる。わたしは敵の手下にあしらわれて、挙句やる事は済んだから放り出されたってわけだ」

「……あの博麗の巫女は、私から見ても異常よ。魔理沙が弱いわけではないわ」

「へへっ、フォローありがとうよ。

 霊夢が別格だってことくらい、わたしも分かってる。だから、どんな勝負からだって逃げるわけにはいかないんだ。凡人のわたしじゃあ、一度立ち止まったらあいつと肩を並べられないからな」

 

 咲夜は不思議に思っていた。

 自分の気持ちを吐露する魔理沙の顔には、霊夢に対する羨望の色こそあっても嫉妬などの負の感情が見られない。

 何故、そこまで純粋にあの巫女との対等な関係を望むのだろう?

 湧いた疑問はそのまま言葉となった。

 

「何故、彼女と対等になりがたるの?」

「知ってるか? 本当の友達ってのは対等な関係じゃなきゃなれないらしいぜ」

 

 笑顔で恥ずかしいことを言ってのける魔理沙に対して、咲夜は呆れたように苦笑を浮かべた。

 魔法使いらしからぬ純粋な少女だと思っていたが、ここまで夢見がちで乙女な考え方をするとは思わなかった。

 そして、それと相反するように頑なで強い。

 魔理沙の持つ愚直なまでの意地は、全く正反対な性格の咲夜を何処か惹きつけていた。

 

「あの巫女の何処にそんな好かれる要素があるのか分からないわ。博麗の巫女には、人に好かれる性質でも備わるのかしらね」

「どっちかというと、放っておけない性質だろ。しかも、親子揃ってさ」

「先代巫女のこと? 今回の異変に何か関わっているのかしら」

「道中で話すぜ。とりあえず、先に進もう。咲夜も今回の異変を解決しに来たんだろう?」

「ええ。途中で足取りが途切れていて、騒霊だの春の妖精だのと無駄に戦って時間を潰したけどね」

「ああ、霊夢が結界を壊したから来れたのか」

 

 二人して石段の上を目指す。

 疲労と痛みで安定しない魔理沙の飛び方に気付くと、咲夜はさりげなく寄り添って肩を貸した。

 

「悪いな、何から何まで」

「いいのよ。……ところで、魔理沙」

「何だよ?」

「アナタ、少し臭うわよ」

「……ぅ」

「この臭いは……」

「そ……その、悪い。実は、さっきの弾幕ごっこで一発貰った時にさ……ずっと寒かったし、当たった時の痛みが強烈すぎて……」

「まさか」

「……少し、チビっちゃった」

「えぇと……」

「何も言うな! わたしだって乙女だぜ! 傷つくぜ!!」

 

 言われたとおり、咲夜はそのまま口を噤んだ。

 余計気まずくなったような気がした。

 

 

 

 

 その戦いは、息を呑むような美しさに溢れていた。

 蝶を模した幽々子の弾幕は、文字通り空を舞うように飛び交い、淡い光の尾を引いて空中に独特のアートを築き上げている。

 幽々子自身から発せられる霊的な力が扇の形となって背後に広がり、一枚の絵画のように完成された光景となっていた。

 儚い美しさを印象付けるその弾幕の凶悪な実態が、そこへ残酷さを付け加える。

 輝く蝶の一羽一羽が、当たった対象の生命力を限界まで吸い取るという性質を備えていた。

 そして、圧倒的密度の弾幕の中を巫女が舞う。

 強者が競い合う弾幕ごっこは、まさに人智を超えた幻想的な美しさに満ちている。

 しかし、実際に戦う当事者達にとってはそんな曖昧な感慨など抱けるものではない。

 スペルカードの内容を撃ち切り、優雅に微笑む幽々子の額には一筋の汗が流れていた。

 

「なんとまあ……本当に恐ろしい相手ね、博麗の巫女というのは」

 

 内心の戦慄を表に出さないのは、上に立つ者としての威厳ゆえにである。

 普段如何に気の抜けた人柄をしていても、彼女には忠実な従者に仰がれているという自覚と責任があった。

 しかし、それらを以ってしても目の前の現実には揺らぎそうになる。

 ここまで繰り出された数枚のスペルカードを、霊夢は全て無傷で避け切っていた。

 

「綺麗な弾幕だわ。その見た目に反して、威力の方はえげつないわね」

 

 巫女服の裾がボロボロに朽ちているのを一瞥して、霊夢は動揺した様子もなく淡々と呟いた。

 幽々子の弾幕に触れた部分だ。

 これが生身に当たった場合など考えたくも無い。

 そう思いながらも、一切の恐怖や萎縮をしない静水のような心構えが霊夢には備わっていた。

 

「妖夢があれだけ打ちのめされるはずだわ。私の心も折れちゃいそう」

「ああ、あいつ元気?」

「どの面下げてそんなこと言えるのかしら? 貴女って信じられないくらい残酷か図太い性格ね。

 あの娘はスキマで送られた座敷で座り込んだまま動かないわ。傷一つないのに、もうしばらくはまともに戦うことが出来ないでしょうね」

「柔い奴ね」

「貴女が豪胆すぎるのよ。お母様の教育の賜物かしら?」

「その通り」

 

 迫り来る弾幕の中でも平坦なままだった表情が、その時だけ僅かに綻んだ。

 何処か誇らしげな微笑を見て、幽々子はこの二人の巫女の間にある深い絆を感じ取った。

 完璧にも思えるこの博麗の巫女を揺るがすのならば、やはり母親の存在から攻める必要がある。

 しかし、同時にそれが下策であるとも分かっていた。

 彼女は母の存在を強みにしか感じていない。

 例えば、今この場であの亡霊を操るなり消滅させるなりしても、目の前の巫女はそれを切欠に更なる別種の強さに目覚めるような気がしてならなかった。

 元から強大な存在が持つ底の知れなさとはまた違う。

 予想も付かない方向へ成長――進化するような未知数の力を秘めた、幽々子の会ったことのない『強い人間』だった。

 

「正攻法では倒せる気がしないけれど」

 

 ――それ以外の方法も無粋ね。

 

 敗北の兆しを見ても、なお折れぬ。

 優雅な仕草で次のスペルを発生させる幽々子の姿は、冥界の姫として恥じぬ威厳に満ち溢れていた。

 それに対する霊夢もまた、幻想郷を管理する役割を担う者として、全ての障害を貫く鋭さが極まっている。

 直線。曲線。高速。遅速。

 入り乱れる蝶の舞を、霊夢は縦横無尽に飛び抜けた。

 周囲を浮遊する二個の陰陽玉から放たれた弾幕は、あろうことか射線を捻じ曲げて標的に飛来する。

 正確無比な追尾弾だ。

 威力は低いが、どんな位置にいても狙い撃たれ、しかも避けられないほど正確な精度に、幽々子は感嘆した。

 逆に自分の弾幕は、命中するビジョンが全く浮かばない。

 焦りを見せぬよう、常に浮かべていた笑みがついに引き攣ったものへと変わりつつあったその時――。

 霊夢の背後で凄まじい発光が起こった。

 勘が全力で危険を告げる。

 それは予期せぬ不意打ちだった。霊夢と、何より幽々子自身でさえ。

 霊夢が丁度その時背にしていたのは、西行妖だった。

 既に綻びかけていた封印から溢れた『死に誘う力』が、弾幕となって辺り一面へ無作為にばら撒かれたのだ。

 意志を持たぬ桜の木が放ったそれは、ただ命を奪う津波となって霊夢に襲い掛かった。

 

 ――背後からの不意打ち。

 ――既に認識している敵から意識を逸らすことへの躊躇。

 

 それらが、霊夢の神掛かった回避にわずかな遅れを生じさせた。

 避けられない。

 霊夢は悟り、肩越しに迫り来る死を見つめる。

 それをただあるがままに受け入れるつもりは、ない。

 

「――霊夢っ!!」

 

 霊夢自身の足掻きよりも早く、そこに力ある声が割り込んだ。

 地上から放たれた無数の光弾が、霊夢に降りかかる全ての弾幕を打ち消した。

 放射線状に一斉に放たれたそれは、弾幕というより散弾と表現した方が正しい。

 二人同時に射線の元へ意識を向け、視界に捉えた霊夢と幽々子は驚愕に眼を見開いた。

 上空に拳を突き出した構えのまま、真っ直ぐに霊夢を見据える先代巫女の姿があった。

 亡霊が自らの娘の名前を呼んだのだ。

 

「……あらら。これ本当?」

 

 その日一番の驚きに、幽々子は呆けたように笑うことしか出来なかった。

 動揺していたのは霊夢も同じだったが、意識の建て直しは遥かに早かった。

 先代の姿を見た瞬間。

 自分が母に名前を呼ばれた瞬間。

 霊夢の中で驚愕を凌駕して、体を突き動かす強い使命感が湧き上がっていた。

 幽々子の隙を逃さず、一気に接近してスペルを発動する。

 

「夢符『二重結界』!」

 

 前面に展開された二層の霊符の布陣から成る結界が、幽々子を吹き飛ばした。

 強固な防御を攻撃に転じたその一撃は絶大な威力を発揮し、幽々子自身に大ダメージを与えると同時に背後に展開されていた霊力の扇を霧散させた。

 

「ちょっと、納得いかないけれど……勝負あり、かしらねぇ……」

 

 酷い虚脱感を抱え、落ちるままに任せながら、幽々子は諦めたように笑った。

 いずれも乱入による反則負けだが、意図せぬこととはいえ幽々子の所有物扱いである西行妖の暴走が先だ。

 弾幕ごっこの結果は、霊夢の勝利で締められた。

 しかし、異変がまだ解決していないことを霊夢は察していた。

 墜落する幽々子の姿が、その途中で掻き消える。

 西行妖の封印が解けかかっている影響だった。

 霊夢は幽々子と西行妖の間にある因果関係を知らない。

 ただ、自然と警戒の対象は西行妖の方へと移っていた。

 勘が告げているのだ――。

 

「こいつを封じないと、本当の異変解決にはならないようね」

 

 物言わぬ桜の木を相手に、もはやスペルカード・ルールなど意味を成さない。

 しかし、純粋な妖魔調伏に関しては博麗の巫女こそが専門家であった。

 満開ではないとはいえ、既に箍の外れかけた封印を押しのけて放たれる西行妖の力は、奇しくも弾幕の形を取って周囲に拡散した。

 幽々子の弾幕に似た、生命を吸い取る力。

 だが弾幕用に調整などされていない、それら一つ一つがもはや完全な死を与える恐るべき塊となって無数にばら撒かれ始めている。

 一発でも当たれば即死するしかない状況の中で、霊夢はやはり一切ブレることなく冷静に対処した。

 陰陽玉二つを前面に出し、それを支点に強力な結界を形成する。

 博麗の秘宝である陰陽玉は、巫女の霊力を増幅させ、様々な形に変える不思議な特性を持っていた。

 それに加え、二つ合わせることで効果は更に倍増する。

 歴代の博麗の中で最高の資質を持つ霊夢が、この秘宝の力を借りて結界を展開すれば、それは如何なるものにも貫けないほど強固な壁となった。

 その結界で死の奔流を乗り切り、解けかかった封印に更なる封印を重ね掛けする。

 霊夢はそういった流れを想定していた。

 この段階で、下にいる先代巫女の存在は思考から切り離している。

 配慮している余裕は無いし、何よりも無意味だ。

 生きる者には脅威となるこの力が亡霊に与える影響は未知数であり、全くの無害である可能性もある。

 結局戦うことのなかった八雲紫が万全の状態で近くに居る以上、先代を見捨てることも在り得ない。

 それらの要素を計算し尽し、無駄な感情による判断のブレさえ排除した今の霊夢は、まさに完璧な博麗の巫女として機能していた。

 四方八方へ無差別に放たれた西行妖の死の弾幕が迫る。

 恐怖は無く、躊躇いも無かった。

 霊夢はただ、自らの使命を遂行することだけを考えていた。

 ただ、それだけを。

 

「――守れ!」

 

 咄嗟に。

 迫り来る脅威がもはや眼前にまで達した時、霊夢は陰陽玉の一つを動かしていた。

 霊夢の手元から離れた陰陽玉が先代の下へと飛翔し、その前に立ち塞がって死の奔流から守る為の結界を形成する。

 全てが、霊夢の博麗の巫女としての思考の外で行われたことだった。

 無意識、とは少し違うような気がする。

 感情に流されるほど、愚かでもない。

 霊夢は自身の突発的な行動に驚くこともなく、何処かのんきに納得していた。

 

「うん、これは……まあ仕方ないことよね」

 

 むしろ当然かもしれない。

 そう考え直すほど、奇妙な満足感が湧いていた。

 西行妖の弾幕が結界に接触し、その凄まじい圧力に対して、陰陽玉一つとなって弱体化した結界が悲鳴を上げる。

 しかし、霊夢は自らが判断を誤ったという後悔など微塵も抱かず、不敵に笑ってこの苦境に挑む決意を固めていた。

 そこに在ったのは博麗の巫女としての責務ではなく、博麗霊夢としての意志であった。




<元ネタ解説>

「先代巫女の放った散弾」

コミック「幽遊白書」に登場する技「ショットガン」
本来の技名は「霊光弾」

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