東方先代録   作:パイマン

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過去編その二。


其の十五「天狗」

――五十年以上前の話だ。

 

 具体的には、鴉天狗達の実益と趣味を兼ねた広報活動が『瓦版』ではなく紙を用いた『新聞』へと呼び名を変え、妖怪の山だけでなく人里にも広まり始めた時期だった。

 博麗大結界によって現世から隔離され、完全な秘境となった幻想郷にも、外の世界の近代文明が少しずつ入り込み始めた時期。

 鴉天狗達の間で『写真機』なる文明の利器が認識され始めた時期。

 その後訪れる激動の時代の前触れとも言える、小さな変化がさざなみのように起こっていた時期だった。

 

 

 その日、射命丸文は妖怪の山をグルリと一回りするように飛んでいた。

 彼女の日課だった。

 それも数百年前からずっと続けている、年季の入った日課だ。

 日によって、それは散策であったり、単なる気分転換の空中遊泳だったりする。特に、何か明確な一つの目的を持って続けているわけではない。

 しかし、あえて一貫した意味を挙げるとするならば、その行動にはいつも『期待』があった。

 昨日とは違う、日々に変化を求める期待だ。

 日常に吹き込む新しい風――文は常にそれを求めていた。それこそ、鴉天狗として生を受けて以来長年に渡って。

 妖怪の山という縄張りを固守し、自らの築いた社会制度を遵守して、これを侵すものを排他的に扱う――そんな天狗の世界に在って、他からの影響や変化を望む彼女は相当な変わり者であった。

 彼女だけが妙に熱を上げる新聞に関しても――近い将来、写真機の普及によりちょっとしたブームにもなるのだが――他の鴉天狗達ならばさしても情熱を傾けず、事務的且つ片手間の作業なのだ。

 それでいて、射命丸文という妖怪自体は実のところ、天狗の長とも肩を並べる年季を誇る長寿の天狗である。

 ――長い年月を重ねて生きながらも、その性格や風格に一向に重みを持たせない奇妙な天狗。

 ――一箇所に留まることを知らない風のような妖怪。

 天狗の仲間内や、他の妖怪達から挙げられる彼女の評価は、おおむねそういったものだった。

 

「……あぁー、何か面白いこと転がってないかしらねぇ」

 

 そんな周囲の評価とは裏腹に、実際に文が常日頃考えているのは、たった今力無く呟いた言葉以上のものではなかった。

 もはや飽きるほど眺めた空からの光景。

 季節によって彩りが変わり行く様を風流と思う感性はもちろん持っているが、日々のゆっくりとしたそれを楽しむほど気長な性格でもない。

 暇潰し以上の意味はなく、文は昨日眺めた山の光景を記憶から引っ張り出し、それの間違い探しをするように眼下を見下ろしていた。

 

「妖怪の山に侵入者とか、逆に脱走者とか出ないかなっと……」

 

 物騒なことを口走る。

 実際に起こったとしても、そういった事件に対応するのは鴉天狗の仕事ではないので、気楽な口調だった。対岸の火事は眺めるに限る。

 そして、本当にそんなことが起こるほど、ここでの生活は刺激的ではないと自覚していた。

 今日もまた、大した変化も無く一日が終わるのだろう。

 昼の飯時が近づいていることを考えながら、文は何処か諦めを感じていた。

 

「――ん?」

 

 ふと、見慣れた風景に異物が映った。

 木々の間に紛れるように存在する小さな違和感。

 文は僅かな期待を膨らませてそこへ降り立ち、しかしすぐに落胆した。

 

「なんだ、人間か……」

 

 人間の子供だった。

 年の頃は十にも届かないだろう、幼い少女だ。

 粗末な服に身を包み、呆けたように虚空を見つめている。

 空から降り立った鴉天狗の文にも何ら反応を示すことなく、心ここに在らずの状態で、この妖怪の山奥深くに座り込んでいた。

 虚ろな瞳には意思の光など感じられない。

 珍しいといえば珍しいものだった。

 親が傍にいる様子もなく、この文字通り妖怪が住む山に、こんな小さな子供がどうやって来たものか?

 当然の疑問を、しかし文は気にも留めなかった。

 

「大方口減らしでしょうね。目新しいものでもないか」

 

 適当な予想をつけ、文は目の前の無力な子供に対する興味を完全に失った。

 文が独り言を呟いた声に反応して、子供はぼんやりと視線を移したが、逆に文の方は既にそちらを見てもいなかった。

 

 ――獣か妖怪が始末をつけるでしょう。

 

 納得し、文は再び飛び立った。

 置き去りにされた幼い少女のその後のことも、その心の内も、一切興味など無く、文はその日の日課を終えた。

 大空へと羽ばたき、舞い上がる鴉天狗の後ろ姿を、その子供はずっと見上げていた。

 

 

 次の日である。

 文は昨日、あの子供と出会った場所へ向かって全力で飛んでいた。

 

「もっと早く気付くべきだった……!」

 

 前日のちょっとした発見のことを忘れ、一晩ぐっすり眠った後、朝食を摂っている最中に文は唐突に思いついたのだ。

 

 ――何故、あの子供はあんな場所にいたのか?

 

 昨日その場で一度は思いついた疑問を、親が捨てたのだろうと適当に予想して切り捨てていた文だったが、改めて考えてみれば大きな違和感があった。

 子供が自分の足であんな場所まで来れないことは分かる。

 しかし、大人ならばあそこまでいけるというのか?

 文の住む天狗の集落からそれほど遠くないあの場所は、妖怪の山でも奥にあたる。

 獣や野良妖怪が棲み、周囲を白狼天狗が哨戒するあんな所まで、ただの人間がどうやって子供を運んだというのだ。

 もちろん、文には分からない。

 分からないからこそ興味をそそられる。

 

「お願いだから、生きてて頂戴よっ」

 

 やはり前日、自分自身で納得してしまった『獣か妖怪が始末をつける』という状況に対して、今度は焦りを抱きながら文は急いだ。

 もちろん、そうした子供の身を案じる思考の元になっているのは、単なる興味以外の何物でもないから、そこに焦りはあっても心配など微塵も抱いていないのだが。

 しかし、少なくとも文にとって『興味』というのは重要だった。

 家から飛び出して、あっという間に昨日の場所まで辿り着く。

 そこに子供はいなかった。

 文は冷静に観察し、周囲に血の匂いや痕が無いことを確認すると、すぐさま捜索の為に駆け出した。

 残された足跡を発見し、同時にあの子供が自らこの場を移動したことに僅かな驚きを得る。

 茫然自失としていたあの時の状態を、親に捨てられた絶望から来るものと思っていたが、違うのだろうか?

 いずれにせよ、この妖怪の山で一晩過ごした上で、なおも心折れずに自ら動き出せる意思を持つとは、あの年頃の人間の子供とは思えない。

 得体の知れなさが増すと同時に、興味もまた深まった。

 顔をニヤつかせながら、足跡を追う。

 子供の足では下山はもちろん、長い距離を進むことも出来ないだろうという文の予想は当たった。

 少し離れた場所に流れる小川の傍に、子供の姿を見つけたのだ。

 

「……あの子供、自分で川を探したの?」

 

 子供は小川の水で口をゆすぎ、顔を洗っていた。

 何の変哲も無い営みの様子の中で、しかし文はその異常性を正確に理解していた。

 川を見つけたこと自体は偶然かもしれない。

 だが、少なくともあの様子を見る限り、子供は自ら川を探したのだ。

 自分が、生きる為に必要なのだと判断して。

 水源を探し出すことが、生き残る為に必要な行為だと大人ならば誰でも理解出来る。

 しかし、あの子供はどう見ても親の庇護無しには生きられないほど幼い。

 生きる為の知識はもちろん、常識的な知識さえ十分に持ち得ているはずがないのだ。

 

 ――やっぱり、あの子供はおかしい。

 

 明らかに普通の人間の子供には感じられない異常性を目の当たりにして、文は確信した。

 その上で、浮かび上がる笑みを止められなかった。

 

「これは……とんだ拾い物かもしれないわね」

 

 退屈な日々に弱々しくも新しい風が吹き込むのを、文は感じた。

 

 

 

 

 ――天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!

 

 我に返った私は、混乱する頭でそんなアホなことを叫んでいた。

 現在、絶賛混乱中の私。

 いや、本当にワケ分からん。なんで私ってばこんな山奥にいるの?

 こんな小さな子供の、しかも女の子の体になっちゃって。

 ……いや、待て。

 何故そこに違和感を感じるんだ?

 この体が私の物ではないということが確信出来るとして、じゃあ本当の私の体がどういうものなのか全然思い浮かばない。

 そもそも現状に至る直前の状況が全然思い出せなかった。

 えーと、ちょっと待って。

 気が付いたらいきなり見知らぬ場所で目を覚まして、挙句子供の体だったって状況は『異世界トリップ転生』という二次創作物のジャンルにありがちな展開なんだが……。

 異世界――じゃあ、元々私がいた世界って何処?

 転生――じゃあ、元々の私ってどんな人間?

 だんだんとハッキリしてきた頭の中にある知識を漁る限り、私に近代社会の情報と常識があることは理解出来たが、その社会でどういった立場にいたどういう人間なのかが全然思い出せなかった。

 今の体に違和感を感じるのは確かだが、以前何歳でどんな体格で、そもそも性別は本当に男だったのかすら確信が持てない。

 いや、今の状況に至るまでの数十分前の出来事すらおぼろげでハッキリと思い出せないのだ。

 本当に冗談抜きで『気が付いたら此処にいた』という状況だった。

 放り出された、と表現してもいい。

 こんな状況で混乱しない方がどうかしている。

 何もかも曖昧な中で、しかしただ一つ、鮮明に脳裏に刻まれた光景だけが私の意識を現実に繋ぎ止めていた。

 それは、私の持つ知識と照らし合わせても『在り得ないもの』として存在する光景。

 

 空高く飛び上がる美しい天狗の少女の背中だった。

 

 その光景が数分前のことなのか、数時間前のことなのかは分からない。

 茫然自失としていたらしい私が我に返った時、彼女の姿はもう何処にもなかった。

 次々と自覚し始める状況の異常さや自分の知識と比べてのあらゆる違和感に思考がグチャグチャと掻き乱れる中、ただ一つあの光景だけが鮮明に思い出せた。

 多分、今私がワケの分からない現状に陥って未だ幾らかまともに頭が回るのは、その記憶があるからだろう。

 現状の深刻さを理解するごとに湧き上がる絶望感を他所に押しのけて、私の心の中を占めるのは飛び立つ『彼女』の背中と翼が空に映えたあの光景に対する感動だった。

 それは現実逃避なのかもしれない。

 しかし確かに、あれは現実を忘れてしまうような幻想的な美しさに満ちていた。

 ……冷静に考えてみると、幻想的っていうか本当に幻想そのものだよね。

 頭に乗っけてる小さい帽子みたいなのって、よくある天狗が付けてる奴じゃん。翼も鴉みたいに黒いし。天狗って妖怪じゃないですか。

 しかも、後姿だけとはいえあれはどう見ても美しい少女の姿。生足眩しいです。見え……ない!

 妖怪が少女化って、まるで『東方Project』だな。

 この状況が本当に『異世界トリップ転生』なのだとしたら、その可能性も大いにあるわけだけどね。

 

 ――うん、大分落ち着いてきたぞ。

 

 最初にパニックにならず、色々と冷静に考えをめぐらせることが出来たおかげか、私は落ち着いて周囲を見回す余裕が出来ていた。

 とりあえず、今は現状を受け入れ、そこから問題点を割り出して対応する必要があるだろう。

 今の私は無力な女の子であり、この人気の無い山奥らしき場所はどう考えても私にとって安全な場所ではない。

 むしろ、あの天狗の存在を見る限り、ここには妖怪が存在して、しかもそれらが私に対して友好的である可能性はほとんど無いと言ってよかった。

 うーん、こんな時参考になるのは私の知識にある先駆者の皆様の行動だな。

 こういった状況に陥った二次創作の主人公達は、各々が生きる為の適切な行動を取っている。

 よくあるパターンとして、転生する前にやけにフレンドリーな神様とか天使とかから特典とかいって何かしら役立つ能力が与えられたりするものだが……私はどうなんだろう?

 やはりどれだけ思い出そうとしても、前世の自分はもちろん、今より前の状況が思い出せない。

 私をここへ導いた何らかの存在がいたとして、それに対して欠片も記憶がないのだ。

 いや、そもそもそんな存在がいるのか?

 なんか、宗教が語る死後の世界観みたいに現実味が湧かないな。

 別にいいや。どちらにせよ能力云々は希望的観測だし、今の私には分からない。

 物語とは違って、偶然保護してくれる人物に出会えるようなご都合展開も期待出来ないし、やっぱりここは基本的なサバイバル知識に従って行動するしかないだろう。

 まずは水源の確保だ。

 川とか見つけられればいいんだけど……まあ、とりあえず行動あるのみか。

 私はその場から立ち上がり、初めて自分の足で今の自分の重みを感じ取った。

 軽いのか重いのか分からないなぁ……。

 不安はやはり隠せないが、何処か開き直った気分で一歩を踏み出す。

 正直、投げやりな気持ちがないわけではない。

 生きる為の行動とはいえ、客観的に顧みても子供の私がこの山で生き延びれる可能性は低い。それこそ妖怪はもちろん、野生の獣にでも襲われようものなら一巻の終わりって状況だ。

 そうなったらそうなったで、死ぬしかない。そんな諦めもあった。

 この場で座り込んでいた方が結果的に楽に終われるのかもしれない。

 しかし、それでも――やれるだけやって、抵抗できるものなら抵抗してみようという決意もいつの間にか私の中で固まっていた。

 この前向きな考えの元になってるのは、やはりあの時の『感動』なのだろう。

 

 出来れば、死にたくは無い。

 生きて、私はもう一度あの幻想的な光景を――翼を広げて飛び立つ少女の美しい背中を見てみたいと思っていたのだ。

 その為の行動を、私は起こし始めた。

 

 

 

 

 変な人間の子供を発見した日から、文の生活に変化が加わった。

 子供があの川辺を生活の拠点に決めたらしいことを見届けると、文は姿を現して直接干渉することをせず、こっそりと様子を見守るようになったのである。

 子供を保護しようという考えは毛頭無かった。

 それどころか、姿を見せるつもりもなく、適当な木の上に陣取って、見つからないように注意しながら見世物よろしく眼下を眺めている。

 その方が面白そうだったから。

 それだけである。

 今のところ、文があの子供を気に掛ける理由に、ちょっとした興味と期待以上のものはなかった。

 

「意を決して山を降りる――」

 

 歳不相応の賢さを持つ子供だ。

 一番在り得る結末としては、その聡明な頭で今の状況を把握し、少しでも生き残る可能性の高い方法を選び、下山を試みて――夜中に獣か妖怪に食われるか、運が良くて哨戒天狗に見つかるオチだ。

 それが一番手早くてつまらない終わり方だな、と文は考えていた。

 

「予想を裏切ってくれるのは、こちらとしても嬉しいんだけどねぇ」

 

 しかし、例の子供はありきたりな選択をしなかった。

 辿り着いた川辺を拠点にして、本格的に生活を始めたのだ。

 親が恋しいと思っても仕方の無い年頃でありながら、孤独など感じていないかのように一人で生きる道を選んだのだ。

 良い意味で予想を裏切られた文は内心で嬉々としていたが、同時に当初から抱いてたあの子供への疑念も大きくなっていった。

 本当に、アレは一体何者なのだ?

 もはやただの人間の子供でないことは確かだ。

 それを決定付けたのが、生活の中で始めた奇妙な行動だった。

 寝床や食料の確保を慣れない様子で日々少しずつ進める傍ら、食事や睡眠を除いた時間で子供はなんと鍛錬を始めたのだ。

 最初、文はそれが鍛錬であると分からなかった。

 突然息が切れるまで走り回ったかと思えば、両手を地面について何度も曲げ伸ばしを繰り返す。他にも何らかの反復作業を汗だくになりながら行う姿は、文の眼には気狂いの所業にしか映らなかった。

 しかし、冷静に観察してみれば、それらが剣の素振りと同じ鍛錬の為の行動であると察することが出来た。

 あの子供は、体を鍛えているのだ。

 それを理解した時、その突拍子も無い結論に文は思わず吹き出していた。

 

 ――面白い! その発想は無かった!

 

 妖怪の山に一人で放り出され、明日をも知れぬ身となりながら、生きる為に選んだ行動が自らを鍛えることとは恐れ入る。

 確かに、現状を打破するのに最も効果的なのは『力を持つこと』だ。

 自分の命を脅かす脅威を跳ね除ける為の解決策として全てに共通するのが『力による対抗』であるから、あの子供の判断はまさに真理とも言える。

 しかし、だからといっていきなり自分を鍛え始めるか?

 あれは本当に気狂いか、頭の中の大切な部品が何個か外れてるな、と文はしばらく笑い声を堪えるのに苦労した。

 

 ――だけど、面白い。興味深い。そして、私にとってはそれが一番重要ね。

 

 あの子供に対する不可解さはますます深まったが、それに比例して興味も増していった。

 しばらくは眼が離せそうに無い。

 観察を始めて数日。すっかり特等席として定着した木の枝に腰を下ろした状態で、木の実を齧りながら、川の魚を素手で獲ろうと悪戦苦闘する子供の様子を眺める。

 

「熊じゃあるまいし、獲れるわけないっての」

 

 その滑稽な姿をニヤニヤと笑いながら眺めつつ、文はここ数日で判明したあの子供の情報を整理していた。

 まず、その行動力と意志の強さ、聡明さは大人顔負けのものだったが、何処かチグハグな印象も受けた。

 食料となる山の幸を知っている知識量にはもはや驚かないが、それが酷く偏っているのだ。

 摂りやすい山菜を無視して木の上の果物を苦労して取ろうとしたり、魚は狙うのに虫には手をつけない。

 しかし、原始的な道具を用いた火の起こし方など、大人でも知る者の少ない高度な技術を理解している。

 

「ほーんと、観察するほど分からなくなるわ」

 

 文の呟きは、呆れると同時に隠せぬ期待も含んでいた。

 見ていて飽きないというのは重要なことだ。

 相変わらず子供は鍛錬を日々続けている。

 食料も思うように集まらず、一日生き延びることにも不安が付き纏っているだろうに、一体どんな目的意識を持ってあんなことを続けているのか――。

 だが、少なくとも多少の運はあるらしい。

 現在、季節は秋の入りである。

 これから山には多くの実りが生まれるだろう。あの子供の穴だらけの知識でもとりあえず生きるだけの食料は確保出来そうだ。

 それに、あの子だけの力ではない。

 どうも散策する先であっさりと食料が見つかりすぎる。

 文はそこから僅かな神気を感じ取り、これが豊穣の神の力によるものだと察した。

 

 ――はて、秋の神とはそこまで有象無象の人間に対して慈悲深いものだったか?

 

 もしそうならば、飢饉や口減らしで子供を捨てる親など存在しないだろうに。

 まさか、あの子供が秋の神に対する信仰心を持っているわけもないはずだ。

 また一つ謎が増えた。

 

「この謎、いずれ解き明かす為に今は上手いこと生き残って頂戴よ?」

 

 やがて日が暮れ始め、文は帰宅するべく立ち上がった。

 鍛錬に集中する子供には見えない方向からこっそり近づき、食べていた木の実を幾つか落としておく。

 これで、この木の実が食べられるものだと知るだろう。

 そういえば家に魚の干物が余っていた。明日はそれを持ってきてやろう。

 何、手間は掛からない。

 手間ではない程度のことならやってもいい。

 後は、あの子自身の力と運に任せ、生き延びることを願おう。

 無責任な願いと勝手な期待を抱きながら、文は飛び立った。

 帰り際、ついでとばかりに周囲に妖気をばら撒いておく。

 これで下手な獣は怯えて近づくまい。弱い妖怪も同じだ。ちょっと手強い妖怪だったら……さて、そこは運試し。

 文の新しい日課はこうして終わるのだった。

 

 

 

 

 二次創作の知識のおかげで『異世界トリップ』のパターンに関しては十分把握出来ていると思っていたが、こうして実際に身を置いてみると、勝手の違いに四苦八苦するハメになった。

 ああいう作品の主人公ってすごいよね。場合によっては、超古代とか完全なアウェーに放り出されることもあるのに、しっかり順応してるんだもん。

 私なんて、普通のサバイバル生活だけでも精一杯ですよ。

 とりあえず、こういった場合に活用される前世の記憶なのだが、私が今一番その偉大さを噛み締めているのは『教育番組で学んだ知識』だった。

 夏休みの朝とか、特にやることも無いからぼんやり見てた某教育チャンネルの内容ね。

 いや、前世の私が夏休み経験してたかどうかすら思い出せんけど。

 子供向けに発信されているあれらの番組の中で分かりやすく説明されていた山の知識、ちょっとした自然の素材を使った工作、キャンプの為のノウハウなど――現状では物凄い役に立っていた。

 子供向けなので分かりやすく、実践しやすい。

 番組の趣旨としては現代の子供達の興味を自然へ向ける為なのだろうが、今こうして私の生存を助けることに貢献してくれているのだから侮れない。

 生前の私がどういう人間だったのかは分からないが、普通に暮らしている上で専門的なサバイバル技術なんて身につける機会はまず無いだろう。

 それでも意外と生きていけるあたり、本当に子供の頃の教育って重要だよね。

 私も将来、子供を持ったらしっかり物事を教えてあげようっと。

 ……うん、まあちょっと現実逃避クサイな。まずは今を生き残らないと。

 

 なんとか、ここ数日上手く生き残っているとはいえ、私のこの厳しい自然での自給自足生活は始まったばかり。

 前途多難なんてもんじゃない。毎日が死と隣り合わせだ。

 この際、獣や妖怪に襲われて死ぬ可能性は置いておくとして、今後起こり得る様々な事態に備えなければならない。

 まず、ちょっとした幸運なのだが今の時期はどうも秋の始まり辺りらしい。

 日中は少し暑いが、日が沈めばかなり涼しくなって気温的には快適だ。

 私にも分かりやすい山の幸がよく見つかるのは、食料確保の上でもありがたい。

 妖怪がいるってことはやっぱり神様もいるのかな?

 秋で実りの神様って言ったら、以前ふと考えた『東方Project』でいうところの『秋穣子』が思い浮かぶ。その姉の静葉も。

 現状の幸運に対して、他に相手もいないので私は暫定的に彼女達へ感謝を捧げておくことにした。

 ありがたやありがたや。このまま、どうぞ恵みをお与え下さい……神頼みに縋って生きるつもりはないけど。

 ただ、同時に問題が起こる日も近いだろう。

 具体的にはすぐに冬がやって来るという事態である。

 例えば今が夏だった場合『暑くて死ぬ』というのは多少大げさな表現になるが、『寒くて死ぬ』というのは結構シャレにならない話なのだ。

 誰が着せたのかすら覚えてないが、今の私の装備は粗末な服一枚。これではマジで凍死してしまう。

 早急になんとか備えを用意しなければいけないだろう。

 あと、確保出来る食料の量も冬に入って激減することを考えれば、今のままでは良くない。

 知識があるとはいえ、私のそれはまだまだ不十分だ。

 もっとより多く、細かく、食べられる物の知識を蓄えなければいけない。

 この問題に関して、当初解決は絶望的だと思っていた。

 何せ、この場には私以外の人間がいない。知識を得る為の手段がないのだ。

 最悪、命を賭けて実際に口にしながら食べられる物の判別をしなければならないか、と思っていたのだが――ここで最大の幸運が降って湧いた。

 

 ――どうやら、私にはピッコロさんがついているらしい!

 

 いや、マジで。

 気が付いたら傍に食べられる木の実とか、魚の干物とか、人の手の入った物が落ちていたりすることがあるのだ。

 明らかに誰かが助けてくれている。

 しかも、この状況を顧みる限り人間ではない。

 私の注意力が不十分なのもあるだろうけど、こちらに気付かれず、人の入ってこれない妖怪のいる山奥で手助けしてくれる存在なんて、妖怪そのもの以外に考えられないからだ。

 最初、私の脳裏にはあの天狗の姿が思い浮かんだ。

 もちろん、さすがにそれは都合良すぎると思うけどね。

 しかし、姿が見えないのだから、想像するだけなら自由だ。

 私は自分のイメージを好きに置き換えて、知らない誰かさんに感謝した。

 冷静に考えて、ただ食料を与えるだけで接触してこないその誰かが私を純粋に助けようと思っているわけではないことは分かる。

 からかわれているのか、ひょっとして観察でもされているのか――それは分からないが、とにかく助かっていることだけは確かなのだ。

 うん、やっぱピッコロさんのイメージで固まっちゃうわ。

 もうこの際都合の良いように捉えよう。誰も文句言わないし。

 そんな『私以外の誰かが私を見守ってくれている』という認識が、この孤立した状況で心を支えてくれる一因にもなっていた。

 最初はどうなることかと思ったが、意外と私も物語の主人公達のように運に恵まれているのかもしれないな。

 

 そんな運にも助けられている私だが、最も全体的な話として『これからどうするのか?』という漠然とした問題が残っている。

 要は行動の方針だ。

 もちろん生き残ることが第一だが、このまま日々に対応していくだけでは、多分何処かで立ち行かなくなるはずなのだ。

 完全に無視している外敵への対処なんて全く無く、もし遭遇した場合には諦めるしかない。

 下山することの危険性は十分理解出来るのでやらなかったが、いずれここを去ることも考えないといけないだろう。

 一生をここで過ごすつもりはさすがに無いからね。

 現在、私の生存を支えている運の要素もいつ尽きるか分からない。

 それらを踏まえた上で、最も重要な『生き残った上で自分は何をしたいのか?』という要素も絡めて考え抜いた結果出した結論がこれである。

 

 

 ――修行したい。バカみたいな修行に挑戦してみたい。

 

 

 本当にバカだった。

 そんなセルフツッコミさえ出てくる。

 でも、仕方ない。これが今の私の原動力になっているのだ。

 何事も力を蓄えることから始めるオリ主無双系の主人公の皆さんに倣っている部分もあるが、何よりも私をその気にさせたのは、やはりこの世界で初めて見たあの幻想的な光景だった。

 私の持つ常識的な知識で測れない、現実を超越した存在。

 空を飛ぶという、分かりやすくも最も強烈な幻想の力。

 私は、それに強く憧れたのだった。

 シンプルに心境を表現するなら『物理法則も何もあったもんじゃねぇな』って感じ。

 折角の異世界だ、ここだけで出来ることをやり遂げたいと思った。

 具体的には――私も空飛びたい! 素手で岩砕きたい! 『10012……10013……っ』とかありえない数の腕立て伏せとかしてみたーい!!

 記憶は無いが断言出来る。私は、きっと前世で『かめはめ波を練習したことがある』と!

 ……と、そんな感じで方針は決まった。

 自分でも前向きなのか現実逃避してるのか、もしくはただ単に実はどっかイカレてるだけなのか分からないが、とにかくそういう大きな目的が固まったのだった。

 まあ、この身一つで出来ることは限られるし、そう間違った方針でもないような気もする。

 どんな行動にせよ、現状ではやはり『可能性への賭け』となるだろう。

 安全などとは程遠い環境だ。どうせ命を賭けた生活なら、保身のある日常では絶対に出来ない修行に使いたい。

 そんなワケで、私は日々生き残る為の活動の傍ら――いや、それ以外の時間全てを『漫画的な修行』に使い始めたのだった。

 

 ……とはいえ、決意だけではどうにもならないことはある。

 今の私は子供だ。体力は当然低く、頑丈でもない。

 死ぬ気で修行するつもりではあったが、本当に死ぬことは肉体の限界が許さなかった。

 全力で走れば息が切れて、ゲロを吐いて蹲る。

 目標を定めずに腕立て伏せをすれば、その内筋肉が重みに耐えられなくなって倒れ込む。

 そういった限界は、毎回私の想定より遥かに早く訪れた。

 修行の当初に掲げたジャックばりの『一日三十時間の矛盾したトレーニング』なんて夢のまた夢だった。

 いや、ジャック当人も本当に三十時間もトレーニング出来たわけじゃないけど。あくまで意気込みだというのは分かっている。

 しかし、その意気込みさえ届かない。

 私は肉体的にはもちろん、精神的にも限界が低いことを痛感していた。

 どれだけ『死ぬ気』を決めていても、やはり私は人間だ。本当に死にたくはない。

 つらいことや苦しいことは嫌だ。楽でいたい。

 そんな欲求が、心の何処かに根付いて取れないのだ。

 だから、修行にも限界を感じてしまう。

 本当に肉体の限界だけで修行が止まるような、突き抜けた行動が今の私には出来ない。

 私はただの修行がしたいのではなく、漫画の修行がしたいのだ。

 それにはまず、この常識の範疇にある精神的な限界を超える必要があるのだった。

 私は悩んだ。

 色々悩み抜いた結果、ここはやはり現実を超える為に現実ではない人の考えに倣うことにした。

  

 ――死ぬことを決意しろ……! 道はそこから開かれる……!

 

 やだ、銀さんマジイケメン……

 私は今自覚の無い女の体だが、この人なら抱かれてもいいとマジで考える程の男の台詞である。あと、これを実践した森田も同等。

 ふふ……架空の世界のキャラとはいえ、やっぱり偉大な人の言葉ってのは影響力半端ないな。

 普通なら漫画の中の台詞に感化されて、実践するなんてまともじゃない。

 しかし、架空というなら、妖怪の存在する世界に放り出された今の私も相当現実離れしている。

 この世界に『可能性』を見た。

 私は漫画のキャラのようなことを『真似したい』わけじゃない。そんなミーハーなんてレベルじゃねえのだ。

 私は漫画のキャラに『なりたい』のだ。

 俺が……漫画だ! イミフ。

 

 よって、私は――死ぬことにした。

 

 

 

 

 更に日が経ち、秋も本格的に深まってきたある日のことだった。

 相変わらず日々の生活と修行に悪戦苦闘するあの子供の観察を楽しみ、未だ飽きは来ないがそろそろ慣れが出始めた頃。

 文はその日、変化を見て取った。

 子供が川の上流へと向かい始めたのだ。

 

「あら、ついに動き始めたかしら?」

 

 このまま住み着くとは思えないし、それでは面白くない。

 そんな勝手な期待に、まるで子供が応えてくれたかのような気になって文は機嫌が良くなった。

 上流ということは山の上を目指している。少なくとも下山するつもりはないらしい。

 さて、では一体どんな行動を見せてくれるのか? と、見つからないように死角となる真上を飛びながらのんびりと見守っていく。

 徐々に傾斜のきつくなる地面を踏み締め、子供は黙々と先へ進んでいった。

 川は流れが強くなり、周りの地形が崩れて段丘が目立ち始めた。

 やがて、子供はようやく足を止めた。

 目的地であるようだが、何か目立った目印のような物は見えない。

 川に沿って歩いてきたが、その川の周辺は既に崖になっていた。

 

 ――さて、ここで何を?

 

 次に何をするつもりなのか、ワクワクしながら眺めていた文は、子供がゆっくりと崖の下を覗き込む仕草を見て、さすがに眉を顰めた。

 どうやら高さを確認しているらしい。

 確認するまでもないだろう。奈落の底までとはいわないが、十分な高さだ。落ちれば、確実に死ぬ。

 子供は何度も下を覗き込んでいた。

 迷っているようにも見える。

 迷う? 何を?

 

「まさか……」

 

 文は嫌な予感がした。

 考えられるかぎり、最悪の結末が脳裏に過ぎる。

 最悪の結末とは、あの子供の死などではなく、今日までの全てが何もかも無駄になって失望感と虚しさに襲われることだった。

 嫌な緊張感を抱える文を尻目に、子供はゆっくりと後退り、近くにあった木に思い切り頭をぶつけたかと思うと――それが合図であったかのように一気に崖から飛び出した。

 

「あの馬鹿……っ!」

 

 文は思わず悪態を吐いて、飛び出していた。

 あの子供に対して案じる気持ちではなく、罵る気持ちがあった。

 

 ――無駄にしやがって。今日までの何もかもを無駄にしやがって……!

 

 天狗随一の速さをもって、落下する子供を捕まえようと飛翔する。

 しかし、手よりもいち早く眼がその子供を捉えた時、文は思わず足を止めていた。

 子供は崖を落ちていく。

 だが、ただ落ちていくだけではない。

 崖から突き出た岩や枯れかけた木に手足を引っ掛け、時に叩きつけ、その度に傷を負いながらも確実に落下速度を減退させつつ、落ちていた。

 偶然引っかかっているわけではない。自らの意思で体を動かし、生き残る為に足掻いている。

 自ら崖に飛び込んでおきながら、一体どういうつもりの行動なのか文には全く理解出来なかったが、その常軌を逸した行動と決断力に半ば呆然としていた。

 そのわずかな間に、落下は終わる。

 随分と減速したが、それでも子供は背中から地面に叩きつけられた。

 我に返り、文は慌ててその場に駆け寄った。

 当たり前だが酷い有様だった。

 落下の途中で岩などに叩きつけた腕は両方とも折れている。それも手首から指に至るまで満遍なくだ。

 足は比較的無事だが、最低でも捻挫、あるいは見た目で分からないだけで、やはり折れているかもしれない。

 体中が岩や木に引っ掛けて傷だらけだった。

 

「……でも、生きてる」

 

 文は無意識に安堵のため息を吐いていた。

 四肢を犠牲にして、頭や内臓など体の中心はしっかり守ったらしい。

 計算してやってのけたのなら、あの状況で大した冷静さと意志の強さだ。

 やはり、この子供は只者ではない。

 ただ、やっぱり何処か狂っているか、あるいは本格的な馬鹿なのかもしれない。

 どういった切欠で今回の行動を起こしたのか、まるで理解出来ない文は呆れ果てた。

 さすがに今回は『興味』では済ませられない。

 

「と、とにかく治療しないと……」

 

 生き残ったとはいえ、子供は気を失い、傷も深い。放置すれば、このまま死んでしまうだろう。

 それこそ全てが無駄になってしまう。

 そんなことは御免だった。

 

「とはいえ、集落の方に連れていくわけにはいかないし、私には治療の知識も経験も十分にない」

 

 状況を整理していく。

 文は長い歳を経た天狗だが、生来の強大さゆえに深手を負った経験というものがほとんどない。

 むしろそういった事態を避けられるように賢く立ち回ってきた。

 長年の経験から多少の医療知識はあるが、死にかけた人間の子供に施すには不安が残るのだった。

 となると、他の者の助力を仰ぐしかない。

 医療知識そのものに長ける必要は無いが、少なくとも外傷に対して適切な治療が行えて、何よりもこの子供のことを秘密に出来る者だ。

 他の天狗――最悪、自分より立場が上の天狗に見つかれば、ゴリ押しも出来ない。よって、下級の天狗が望ましい。

 それらに当て嵌まり、文の知己にいる者は――。

 

「ぐ……ぐぅぅ……っ、気が進まないけど仕方ないわね……!」

 

 苦渋の色を浮かべ、文は飛び立った。

 時間は掛けられない。

 文字通り風のように飛び、あっという間に目的の場所へ辿り着く。

 

「椛!」

 

 文の予想通り、今日は哨戒の仕事も無く、下級天狗の共同住宅で犬走椛は体を休めていた。

 仲間の白狼天狗と将棋に興じていたようだが、着地の風圧で基盤ごと駒を吹き飛ばしたことなど気にも留めずに文は名指しで呼びつける。

 

「――何か御用で?」

 

 今まさに王手を掛けようとして、次の瞬間眼前から基盤が吹き飛んだことなどに全く動じず、ゆっくりと立ち上がった。

 周囲の仲間達は突然現れた名高き――悪名がほとんどだが――射命丸文と、それの巻き起こした被害に慌てふためいているが、椛自身は淡々と応じていた。

 怒っているわけでも苛立っているわけでもない。

 これが犬走椛という白狼天狗の素なのだった。

 そして、文がこの部下を苦手とする原因でもあった。

 

「ついて来い」

 

 相変わらず鉄のような不動の対応に、実は毎回圧されていることを内心に隠し、文は簡潔に告げた。

 理由も教えずに、勤務時間外にある者を呼びつける。

 その態度は横暴そのものである。

 上下関係を強く意識する天狗の社会において、こういった上司の威圧的な言動は文に限らず往々にしてあった。

 

「御意」

 

 しかし、椛は僅かな躊躇も無くそれに応じ、従った。

 もちろん、下っ端天狗は皆、上司に逆らったり不満を表すことの愚かさを十分に理解している。ただ、椛の場合は内心も言動そのままなのだ。

 無口なこともあり、真面目で実直な性格だと評価されていた。

 もっとも、文の場合はその実直さを『過ぎた』ものだと感じ取り、そこから苦手意識を抱いているのだが。

 それでいて、長年の奇妙な巡り合せによって、この椛が文に最も近い部下として扱われている。

 今回の唐突な命令に関しても『また文のくだらない思いつきに、真面目な椛が付き合わされている』と周囲は捉えるだけなのだ。

 文としては非常に不本意だが、結果的にそう捉えられた方が都合が良いのだから、椛を使うことを選んだのだった。

 

 ――こいつは絶対に私のことを嫌っているだろうけど、私情は絶対に見せないし、挟まずに服従するからね。

 

 文は椛が『自分を嫌っていること』と『自分に絶対従うこと』だけは確信していた。

 本来ならば、なるべく関わりたくない相手だが今回ばかりは他に適任がいない。

 文は椛をつれて、すぐさま元の場所へ戻った。

 文のスピードについてくる為に、全力を振り絞って飛んできたにも関わらず、その疲労をおくびにも出さない椛に内心で舌打ちしながら倒れたままの子供を見せる。

 

「この人間の子供を診て」

「……申し訳ありません。我々哨戒天狗の怠慢です。

 速やかに処分し、然る後に私自身も責任を取らせていただきます。如何様にもなさってください」

「そーゆー意味で『見て』って言ったんじゃないわよ、怪我を診ろって言ったの!

 あと、あんたの『責任を取る』って腹切るとかそういうのばっかりでしょうが! 毎回言ってるけど要らないから、そういう行き過ぎたの!」

 

 相変わらずのやり辛さを感じながら、文はそれを誤魔化すように怒鳴り散らした。

 命令を受けた椛が、初めて僅かな難色を示す。

 

「しかし、この子供は明らかに妖怪の山への不法侵入者です。何より、天狗の領域に近づきすぎています」

「そうね。だから何?」

 

 文はこの子供の詳細を全く教えなかった。

 ただ、言葉と態度を強めた。

 椛はしばらく沈黙し、やがて『分かりました』と一つだけ頷いた。

 それを受けて、文は内心で安堵した。

 一番の気がかりは、このクソ真面目な奴が上司である自分ではなく、更なる上司である大天狗の意向や自らの任命された仕事そのものに従うことだった。

 もしそうなった場合、この場は権威ではなく実力による『力づく』となるが――正直、敵にはしたくない。

 椛は自らの信念に殉じる性格だった。

 元々、この子供に関わったのは興味からだ。そこに命懸けとかシャレにならないものを含みたくない。

 いかに楽しく、賢く、上手く生きるかが心情である文にとって、椛のそういうところが苦手であり嫌いなのだった。

 

「何か道具とか要る?」

「いえ、結構です。元々、我ら哨戒天狗は仕事で負傷した際、十分な治療をその場で行えません。最低限の物と、周囲の物で代用します」

 

 何気に聞かされた下っ端の苦労話にウンザリしながら、周囲の木の枝や蔦、薬草、僅かばかりの自前の薬や布を使って的確に処置を施していく様子を眺める。

 意外なほど手早く、あっさりとそれは完了した。

 死線に立つ者としての年季が違う。やはり任せて正解だった、と文はそこだけは認めた。

 

「これでもう大丈夫なの?」

「子供の体力ではまだ危険ですが、とりあえずは保ちます。つれて帰りますか?」

「いや、置いてく」

「……分かりました。他の者が近づかないように、気を付けておきます」

「その千里眼の能力で見守れたとしても、あんたの立場で何が出来るってのよ。余計は気は回さなくていいわ」

 

 文の皮肉に対して、椛は『お気遣いありがとうございます』と深い礼で返した。

 その頭を苦虫を噛み潰したような表情で見下ろす。

 皮肉や冗談すら通じない。こういうところもまた、文の嫌う部分だった。

 なんだか非常に疲れてしまった。

 最初は痛みのせいか苦悶の表情を浮かべていた子供が、今は比較的安らかな寝顔を浮かべているのを一瞥して、文は気が抜けたかのようなため息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 やはり、私は誰かに見守られているらしい。

 激痛によって覚醒し、気絶する前の状況を顧みて自分自身の惨状を想像しながら眼を開けた私の視界に入ったのは、意外にも治療の跡だった。

 折れた腕には添え木がされ、包帯まで巻かれている。口の中が苦いのは、何か薬を飲まされたからだろうか。

 私は崖から落ちて生き残った。

 そして、その後で誰かに助けられたのだ。

 誰かが私を見守ってくれていたことは知っていた。

 しかし、もちろんこの結果を期待して身を投げたわけではない。

 やはりこれも降って湧いた幸運なのだ。

 見も知らぬ誰かに対する感謝の念がどんどん重なっていく。

 一体誰なのか知りたいものだが、今のままではそれは無意味だ。

 今の私ではその人に報いることなど出来ないのだから。

 だから、私はただ深い感謝を忘れずにだけいることにした。

 

 ――それにしても、体中が痛い。まあ、当たり前だけど無茶が過ぎたか。

 

 崖から身を投げるなんて、自殺行為以外の何ものでもないが、これを『修行』と言っちゃえるのが漫画の凄いところだ。

 私の今回の行動に対するイメージは、もちろん自殺などではなく某グラップラーがやっていたアドレナリン・コントロールである。

 死に際の集中力によって周囲がスローに見えたりするアレだ。

 正直、そのまま落下死の結末で終わる可能性大の賭けだったのだが、どうやら上手くいったらしい。

 必死だったからハッキリと覚えてないが、落下している間が随分と長く、生き残る為に色々足掻いた行動を自覚出来ている。

 まあ、それでも十分に鍛えられていた彼と違って、全然未熟な今の私がやった結果がこの無様な姿なわけだが。

 それでも生き残れただけ、十分な成果だった。

 何よりも、今回の実行に踏み切った原因であり、一番の目的だった精神的な限界の突破に成功している。

 具体的に言うと、私は『キレた』

 怒ったという意味ではなく、頭の中のリミッターみたいなものがプッツンと切れてしまった感覚がある。

 気のせいや思い込みではない。

 一度、死を経験することによって、悪い意味での保身が無くなったのだ。

 何故そんなことが断言出来るかというと、驚くほど無茶な行動への抵抗感が無くなってるから。

 だって、ほら――。

 

 私、今立ち上がろうとしてるし。

 

 足が折れてるかもしれない。折れてないとしても、無茶苦茶痛い。絶対怪我が悪化する。

 そう理解出来ているのに、横になっている時間が勿体無くて、立ち上がろうとしてしまう。

 立ち上がって、修行を続けようという気になっている。

 躊躇いは無い。

 むしろ、この状態だからこそ修行をしまくれば『スゴいね、人体』って感じに逆に怪我が治るはずだ、と信じてしまっている。

 だって、アライJrもやってたし。

 やれるはずだ、私にも! 多分! 分からんけど、とにかくやってみよう! 後のこととか知らんッ!!

 アドレナリン開放が止まっていないのか、ボロボロの状態でありながら、私の気分だけはこの上なく高揚していた。

 とりあえず、元居た川辺まで戻ろう。

 戻ったら修行だ。

 いや、走って戻りながらシャドーボクシングしてみよう。

 さすがに両腕は折れてるみたいだから腕立ては無理として……待て、無理と決まったわけじゃない。試してみよう。ひょっとしたらやってる間に骨がくっつくかもしれん。根拠なんてないけど。

 怪我が悪化して、苦しみ悶えながら死ぬ危険性もあるが――その時は死のう。前のめりに。

 

 最初の決意の通り、私はその日一度死んだ。

 そして、本当の意味で新しい私に生まれ変わったのだ。

 

 

 

 

 ある日の夜、文は同僚の姫海棠はたてと共に人里の居酒屋で飲んでいた。

 既に秋が過ぎ、冬の入りとなった時期である。

 夜の寒さも厳しくなってきたが、今夜はそれに加えて雨も降っている。

 文字通り刺すように冷たいこの雨に濡れれば、いかに天狗といえども体を壊す。

 この店の暖簾を潜った途端に降ってきたのは丁度良かったのか、あるいは間が悪かったのか。そろそろ店仕舞いという頃合でありながら、文とはたてはダラダラと酒を交わしていた。

 

「視線が厳しくなってきたわねぇ」

 

 何度目かの追加注文で、熱燗を置いていった際の店主の表情を思い出し、文は意地悪く笑った。

 元々、人間の店に妖怪が訪れること自体が歓迎されるものではない。

 ここ最近、外の世界の変化からか妖怪の活動が活発化――いや、凶暴化している傾向にある。

 変化が見え始めたのは最近だが、始まりは博麗大結界によって幻想郷が完全に外界と隔てられてからではないかと文は睨んでいた。

 下級の妖怪達は何かに苛立つように人を襲い、殺し、食らい、そして退治されていった。

 天狗は比較的人間に近い種族だが、もちろん友好的とはいかない。

 何より天狗は人間を見下しているし、それは文自身がまさに体現していた。

 今も周りの人間の露骨な忌避の反応を受けて、それを楽しんでいる。

 

「まあ、毎度のことだけど。なんで、あんたは落ち合う場所に人里の居酒屋ばっかり選ぶのかしら?」

「こっちの方が落ち着くのよ」

 

 からかうような文の質問に、はたては憮然としながら答えた。

 立場はもちろん、年代の上でも文が対等に口をきける数少ない相手が彼女だった。

 だからこそ、この悪友の奇妙な誘いも受けるのだ。

 

「確かにおつまみの味はこっちの方が良いけどね。でも、お酒に関しては手前の店の方が上じゃない?」

「天狗の店は店員も天狗だから嫌なのよ」

「天狗の集落なんだから当たり前でしょ。何が落ち着かないってのよ、別に上司と飲むわけでもなし」

 

 天狗は酒好きの種族なので、居酒屋だけが唯一の娯楽施設として集落に存在する。

 小さな規模の中にあっても、十分な需要があるのだ。

 しかし、はたてはそれらの店を避けていた。

 

「だって、ああいう店って注文する時、頼むよりも命令する形になるじゃない?」

「まあ、働いているのは下っ端の天狗ばっかりだしねぇ」

「他人に命令するのって、なんか怖いし……」

 

 ブフッ、と軽く吹き出し、文ははたてと他の客に睨まれた。

 

「ホント、あんたって意気地が無いわね」

「上司に逆らえない小心者が抜かすな! そういうのは横暴っていうのよ。何で皆抵抗がないのか、理解に苦しむわ」

「世渡り上手って言って欲しいわね。あんたもそんなだから、鴉天狗の間で爪弾きにされんのよ」

「は、はあっ? あたし別に仲間外れにされてないし! 一人の方が気楽で好きなだけだし!」

「んで、友達は私しかいない、と」

「あんたもそうでしょっ」

「いやぁ、私の場合は広く浅い付き合いがモットーだから。あと、純粋に妬まれたり嫌われてるだけ」

「立場と実力を笠に着て、いろいろと勝手してるからでしょうが……」

 

 口喧嘩や言い合いのようにも聞こえるが、これが二人の間で交わされるじゃれ合いなのだった。

 見た目こそ人間離れして美しいが、力もまた人間がとても及ばない天狗同士のじゃれ合いである。

 万が一本当の喧嘩にでもなったら、客や店員はもちろん店そのものが崩壊する。

 だからこそ、二人は人里のどの店でも歓迎されていなかった。

 人と人ならざる者の間にある溝は深い。

 

「でも、ちょっと真面目な話、今度は人里以外で飲まない? なんなら私の家でもいいから」

「なんで? 何か避ける理由あるの?」

「あんたは相変わらず鴉天狗の癖に山以外の事情に疎いわね。

 最近、人里もいろいろきな臭いのよ。辛気臭いとも言うけど――ここに来る前に、子供買わないかって声掛けられたわ」

「……何それ。未だに天狗攫いとか伝わってるわけ?」

「どうも最近、裏で人身売買が横行しているらしいわね。妖怪や飢饉の被害で親を亡くす子供が増えたから」

「なるほどね。酒が不味くなるわ」

 

 はたてはうんざりとした表情で、酒気を帯びたため息を吐き出した。

 二人の会話は声を潜めてのものではない。当然、周囲にも聞こえている。

 長雨以外の理由でより一層辛気臭く、また重くなった気がする店内の空気を払うように、はたては話題を変えた。

 

「子供っていえば、あんた秋の始めから……何かこそこそやってるんでしょ」

 

 流石にこの内容は伏せて話した。

 言葉の意味を察した文が、僅かに凄みを込めてはたてを睨み付ける。

 

「……どっから知ったの?」

「誰からも聞いてないし、誰にも話してないわよ」

 

 言葉で答える代わりに、はたてはお猪口に手を添えて静かに念じた。

 その小さな水面に、はたて自身が映り込む。

 しかし、それは純粋に映ったものではない。はたての背中が映ったものであり、角度的に在り得ないものだった。

 背後の客の視界を、酒の水面に反映させているのだ。

 

「ただ、自分で見ただけ」

「本当に嫌らしい能力ね。そんなのに頼ってばかりいるから、積極的に外へ出たくならないのよ」

 

 他人の視界を別の物に映す――はたての能力はそういったものだった。

 はたても同じ鴉天狗として報道を仕事としている。しかし、その情報源は文とは違い、足で集めるのではなく、この能力によるものだった。

 だから、彼女は仕事でも極力外に出ない。

 結果、文とは別の理由で同僚達の間から浮いていた。

 

「この能力もねぇ、もうちょっと上手く使いこなせたらいいんだけど。他人の視界以外に対象を変えられないか、いろいろ試してるのよ」

「それで、その試している最中に偶然覗いたっていうの?」

「本当に偶然だからね? だから、余計なことを周りに洩らしてないでしょ」

「ふーん……まあ、いいけど」

 

 あの子供を気に掛け始めた切欠は単純な興味からだったが、今や明確な目的として将来ネタになるだろうとかなり期待していた。

 文としては、当然そのネタを独占したい気持ちがある。

 しかし、バレてしまっては仕方が無い。

 気が進まないが、文は渋々はたてにあの奇妙な子供について白状した。

 

「――なるほどね。てっきり、鞍馬天狗の真似事でも始めたのかと思ったわ」

「人間を弟子に取ったっていうアレ? 人間の間で勝手に伝わった法螺でしょ」

「まあ、どっちでもいいわよ。あんたが鬼畜なことには変わりないから」

「どこが?」

「適当に手助けして、後は放置してる点が。

 今もその子は山の中で冷たい雨に打たれてるかもしれないんでしょ? 世話するなら何で最後まできっちりやらないのよ」

「あんたのその人間に対する配慮は、優しさじゃなく卑屈さから来るもので――」

 

 責めるようなはたての言葉に対して、文が毎度の如く嫌味を混ぜた反論をしてやろうと言いかけたところで、不意に店の戸が開いた。

 変わらず降り続ける激しい雨音と共に、ずぶ濡れの外套が店の中へ入り込んでくる。

 軒先で脱ぎもせず、床を水浸しにするその客に対して店主が文句を言おうと歩み寄り、外套の陰から覗き見えた鋭い眼光に思わず立ち止まった。

 

「……ん、椛?」

 

 全身をすっぽり覆う外套は顔の部分だけが僅かにあらわになっており、そこから見える見慣れた白髪と眼つきから判断して、文は名前を呟いた。

 肯定するように、小さく頷いて、椛が二人の座る席へ歩み寄る。

 ボタボタと派手に水が滴り落ちるが、周囲の抗議の視線など気にも留めない。

 

「お探ししておりました」

「なんか用? あんたがいると酒が不味くなるんだけど」

 

 露骨な態度を取る文を戒めるようなはたての視線が向けられるが、無視する。

 椛は黙ってはたての方を一瞥し、しばし思案した後、外套で隠すように文だけに懐を見せた。

 その腕に、あの子供を抱いていた。

 

「――!」

「酷い熱です。放っておけば、そのうち死にます」

 

 椛は簡潔に事実だけを告げた。

 抱えられた子供は、熱で顔を赤くし、大量の汗を掻いていた。

 呼吸は乱れているが、同時に弱々しい。今にも止まりそうだ。

 切羽詰った様子を見て取り、文もまた顔色を変えた。

 

「治療は!?」

「無理です。他の仲間がいるので私の住処には連れていけません。薬も備えがありません」

「はたて、さっきの話を聞いたんだから協力してもらうわよ!」

「えっ? えっ? な、何が……?」

 

 突然のことに面食らうはたてを無理矢理引き連れ、多目の代金を店主に放り渡して、文は外へ飛び出した。

 雨が酷いが、濡れる前に風の結界を生み出し、はたてと椛を含んだ周囲を包み込む。

 

「何? ワケわかんないんだけど! どっか行くの!?」

「あんたの家に行くわ、風邪薬の一つや二つくらいあるでしょ!」

「あるけど……ええっ、あんたの『風』を使って行くの!?」

「椛、上手く私の風に乗れ! 遅れるなよ!」

「承知」

 

 文の操る風が、夜の雨を引き裂く。

 はたての家まで一直線に伸びる風の道。

 その風を翼に受け、三天狗は一気に加速した。

 

「何であたしの家なのよ!? あんたの能力って周りへの影響が凄いんだから、もし余波で家がどっか壊れたら……!」

「上手く調整するわよ! あんたの家を選んだのは、集落の外れにあるから。あの子供を他の天狗に見られたら厄介なの!」

「べ、別に住処まで孤立してるわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」

「どうでもいいわ!」

 

 雨や風の音にも負けない、騒がしいやりとりを交わしながらも、あっという間に三人は山まで辿り着いていた。

 はたての家に駆け込み、状況も十分に理解出来ないまま、家主が寝床を提供して、慌てて薬を探し出す。

 この場合、はたては完全に巻き込まれた形になるが、その流れに逆らえない辺り彼女の気質が表れていた。

 人の良さや気の弱さなどの性格が原因ではなく、苦労人としての性質なのだった。

 

 

 全身の汗を拭い、代わりの寝巻きを与えて、薬を飲ませる。

 

「――やれるだけのことは、やったかしらね」

 

 やがて、ほんの少し寝顔が安らかになり始めたのを見て、文はほっと一息吐いた。

 額の汗を拭ってやる椛の意外な甲斐甲斐しさを一瞥し、この中で一番疲れた様子のはたてに視線を移す。

 

「助かったわ、はたて」

「こっちは疲れたわ。なんで関係ないあたしが一番疲れてんのよ」

「いや、本当に感謝してるから。備蓄の薬が充実してるのも、ありがたかったわね」

「うん、まあ病気で寝込んだ時とか誰も看病してくれないから、自力で治さないと駄目だし」

「……そ、そうなんだ」

 

 ――今度、見舞いくらいは行ってやろう。

 文は内心で涙しつつ、そう決意した。

 

「椛も災難だったわね、上司の勝手な行動に振り回されて」

「いえ」

 

 椛は生真面目に、しかし余計なことを付け加えずに言葉短く応じた。

 それで自分に気を遣っているつもりか、と理不尽な理由で機嫌を損ねつつ、文は視線を子供の寝顔に落とす。

 

 ――死ななくて良かった。

 

 文は素直に安堵していた。

 

 ――ここで死なれれば、何もかもが無駄になってしまう。それでは面白くないのだ。

 

「……ねえ、文。店での話の続きなんだけど」

 

 寝顔を見つめる文の横顔から内心を読み取ろうとしていたはたては、不意に話を切り出した。

 

「何の話?」

「その子供の世話のこと」

「容態が安定したら、目を覚ます前に元の場所に戻すわよ」

「いや、もうあんたのやり方には口は挟まないけど――文が仕事以外のことにうつつを抜かしてるって話は、結構広まってるのよ」

 

 文は思わずはたてを見つめた。

 

「……そんなに目立ってた?」

「外出の頻度が多い上に、長いからね。定期総会とかにも全然出席してないじゃない」

「仕事は、怠ってないはずだけど……」

「仕事以外に熱意が向いてるのがあからさまに分かるからよ。これ以上目をつけられる前に、少し距離を取ったほうがいいんじゃない?」

 

 はたての忠告に、文はほんの僅かな間だけ葛藤した。

 そして、すぐに葛藤の余地など無いことを悟った。

 元々が興味本位で始めたことではないか。必要以上に入れ込む意味などないと常に理解しているからこそ、この子供を放置して観察していたのだ。

 軽い興味のせいで、社会での立場を少しでも危うくするつもりなどない。

 文は納得するように一つ頷いた。

 

「そうね。しばらく、この子に関わるのは控えるわ」

「……ちょっとでも、寂しかったりする?」

 

 はたては自身の忠告に対して申し訳なさそうに尋ねた。

 

「……………はあ?」

 

 間抜けを見るような表情で、文がはたてを見た。

 

「何言ってんの?」

「んー……あんたって、自分の本心には疎いところあるから」

 

 曖昧に答える代わりに、はたては視線を文の手元に向けた。

 それを追って視界を下げた文は、自分の手と、しっかりと繋がれた子供の手を見つけた。

 はたての言いたいことを察して、呆れたようなため息が漏れる。

 

「あー、はいはい。下世話な上に誤解ありがとう。

 意外としっかり掴まれてるのよね。無理矢理解いて目を覚まされても困るだけよ」

「いや、あんた自身が手を繋いでるのに気付かなかったことの方が気になるんだけどね」

 

 今度こそ、文は何も言えずに沈黙した。

 ニヤリと笑うはたてを無視し、意味も無く椛を睨み付ける。

 椛は相変わらず生真面目な表情で、姿勢を正して座っていた。

 その顔がほんの少し笑って見えるのは、文の単なる被害妄想に違いなかった。

 

 

 

 

 あー……油断した。

 冬が始まり、山での生活も徐々に厳しくなり始めた折である。

 懸念していた冬の状況に対して、予想通りの厳しさながら予想以上では決してなかったことに少々楽観していたのかもしれない。

 日々の食糧確保などの備えや修行など、結構順調にいっていたので、危機感が薄れていたのだ。

 一度やってみたかったんだけど、滝に打たれるっていうのはこの季節さすがにヤバかったか……。

 体のだるさと熱さを自覚した時には、もうほとんど動くことが出来なかった。

 毎日の修行で生傷には慣れ、むしろ耐性すら出来てきたんじゃないかとか思っていたが、病気は想定外だった。

 私は成す術も無く倒れ、そのまま死を待つ身となった。

 恐怖や保身と共に忘れていたが、案外人間っていうのは死にやすいものなのだ。

 もう目覚めることは出来ないか――と、半ば覚悟して瞼を閉じ、しかし私は再び瞼を開けることが出来た。

 またも私を見守る誰かに助けられたらしい。

 目覚めた時には、いつもの川辺に横になっていたが、明らかに周囲の様子が違う。

 不十分な知識と技術で作った屋根と壁だけの住処はしっかりと補強され、挙句私の周りには幾つもの見慣れない物資が置いてあった。

 薬らしき粉末の入った筒に、大量の干し肉。おまけに狼の毛皮で作ったらしい毛布まで。

 これが施しであることは間違いない。

 ……やべ、感動で泣きそう。

 九死に一生を得たこともあってか、未だ顔も知らない誰かに対する感謝の念が極まる。

 なんつーか、たとえ相手が妖怪であっても言わざるを得ない。

 

 ――人情が熱いぜ!

 

 いや、本当にね。つくづく自分がここに生きているのが一人の力じゃないんだと痛感しますよ。

 この誰かがいなかったら私は何度も死んでるね。

 無事この冬を乗り切ったら――いや、いずれ修行を成功させて力をつけたら、絶対にこの誰かを捜して恩返ししよう。

 私はそう固く誓った。

 

 ……それにしても、今回施してもらった助力の数々。

 形のあるそれらを眺めていると、じんわりと暖かいものを感じるのだが、それ以上のものが形は無くとも私の手の中に残っていた。

 形がないのだから、ハッキリとした根拠は無い。

 しかし、感覚的にだが何故か確かに残っている。

 熱にうなされている間、ずっと手を握ってくれていた誰かがいたことを。

 きっと、その人が最初からずっと私を見守ってくれていた誰かに違いない。

 やはり根拠も無く私はそう確信していた。

 錯覚なんかじゃない。

 一際大きな暖かさの残る手のひらを、強く握り締める。その熱を一生逃がさないように。

 

 ――何故か涙が出た。冬なのに冷たくはない、熱い涙が。

 

 

 

 

 妖怪の山で交わった、奇妙な天狗と人間の子供の縁が少々疎遠になってしばし月日が流れた。

 

 幾度か季節が移り変わったが、日々の修行に切磋琢磨する人間と、長い人生観を持つ天狗には具体的な年数など気に掛けられる事柄ではない。

 とにかく、数年――子供が少女へと成長するのに十分な時間が経った。

 その間、文もあの子供と全く関わりを断っていたわけではない。

 周囲に不審に思われない程度に間隔を空け、観察に出掛けていた。

 あれ以来なし崩しに巻き込んだはたてと椛にも強制的に協力させ、子供の様子を伺わせている。

 奇しくも冬を乗り越え、日々の生活に手馴れ始め、修行という単調な作業に没頭し始めたあの子供の日常は少々面白味の無いものへと変わった。

 毎日が自らを追い込み、鍛えることの繰り返しである。

 さすがに変わり映えのしないそれを眺めて楽しむほど文は気の長い方ではない。

 観察の間を空け、日々の様子よりも修行の成果を見て楽しむ――そういう方向へ変えていった。

 当初の予想通り、あの子供は只者ではない自身の頭角を現し始めた。

 

 ――ある日、朽ちかけた大木に延々と拳を打ちつけた結果、ついにそれをへし折った。

 ――ある日、身の丈ほどもある大岩を背負って山を登った。

 ――ある日、偶然発見した洞穴を住処にしようとして、中で眠っていた大熊を死闘の末素手で打ち倒した。

 

 如何に日々を異常な密度の鍛錬に費やしているとはいえ、驚異的な速度で子供は――いや、もはや少女は人間としての限界を一つずつ超えていった。

 もしや、こいつはいずれ天狗さえ脅かす強大な存在となるのでは――?

 そう冗談交じりに考えてしまうほどの成長だった。

 それらを文は我が事のように喜んだ。

 事実、その将来性に目をつけていた文にとって、独占出来る特ダネがどんどん話題性を膨らませていく様が嬉しくて仕方がなかった。

 もはや水を与えずとも勝手に大きくなる果実が、納得のいくまで熟すのを見守るだけである。

 待つことさえ至福に感じる時を、文は過ごしていた。

 いずれ彼女は山を降りるだろうか?

 もはや山の獣や野良妖怪程度なら敵ではなくなった彼女が、不穏さを増しつつある人里を訪れてどんな行動を取るのか、非常に興味深い。

 あるいは、彼女がまだ動かないというのなら、そろそろこちらから姿を現しても面白いかもしれない。

 想像を膨らませる材料は尽きなかった。

 

 

 ――そして、ある日。

 

 

 当代博麗の巫女の死去により、天狗の集落が少しばかり慌しかった期間がようやく過ぎた頃である。

 これまで以上に長い間隔を置いて、文は久しぶりにあの少女の様子を伺いに向かった。

 今回は手土産に饅頭の入った包みを持っている。

 博麗の巫女が亡くなり、さて妖怪の賢者や人里の動向はどうなるかと見守り、そこから今後の方針を決めて、ようやく天狗の集落でも巫女の死が悼まれた。その形ばかりの葬式で出された物である。

 この饅頭を切欠に、いよいよ彼女の前に姿を現そうか? それとも饅頭だけ置いて見つけた時の反応を伺おうか? と、楽しみながら迷っていた。

 そして、いつもの川辺に近づいた時。

 

「――なにっ!?」

 

 文は瞬時に地上へ降り立ち、気配を殺した。

 妖気を感じた。

 それも生半可な妖怪ではない。

 威圧するような強大さは感じないが、恐ろしく不気味でおぞましい感覚を、長年の経験で捉えていた。

 方向は、間違いなくあの少女の住処である。

 自分の実力でも一蹴出来る相手ではないと悟ると、文はそっと身を隠して様子を伺った。

 

「あれは……八雲紫」

 

 考えられる中で最悪の妖怪が、あの少女の前に佇んでいた。

 

 

 

 

 この世界へ転生して数年。

 今更になって知りました――ここ、本当に『東方Project』の世界だったんかい!

 

 私は目の前に佇む八雲紫を眺めながら、驚愕の事実に呆然としていた。

 いや、いきなり空間が裂けてこの人が現れた時はビビるやら、ゲームキャラの登場に感動するやら……ワケ分からなくなって大したリアクションが出来なかった。

 なんか紫にはその対応を『落ち着いているわね。さすがだわ』とか褒められちゃうし。

 とにかく、いきなり現れたことにも驚いたが、いきなり振られた提案にも度肝を抜かれた。

 

 ――私を博麗の巫女にしたいらしい。

 

 何、その超展開!?

 日々の修行に没頭していたある日、突然このお誘いである。

 マジでいきなりすぎだろ……こういうのは、普通転生直後に済ませるものじゃないの?

 もう大分山での生活や修行の日々に慣れてしまったというのに、いきなり原作介入の発生である。

 博麗の巫女とか、東方でも重要ポジションじゃないですか。

 い、いかん……動揺して上手く頭が回らない。

 

「貴女の力は、このまま放っておくことが出来ませんわ。強制はしないけれど、どうかこの話を受けてくれないかしら?」

 

 意外なほど熱烈な八雲紫の誘いに、思わず勢いでOKを出してしまいそうである。

 だって、東方でも有名なキャラが積極的に誘ってくれてるんだよ? 断るとか至難の業だし、そこまでの理由もないよね。

 あと、生で見るゆかりんマジ麗しい。

 男だったらホイホイ言うこと聞いちゃうね。

 まあ、そんな彼女を前にしても性的興奮とかしないのは、私の体が女だからなのか、何か他に理由があるのか。

 とにかく、この誘い。私には断る理由がなかった。

 

「分かった。受けよう」

 

 私は簡潔に返答した。

 この山での生活も苦ではなくなってきたが、更なる修行の為に博麗の巫女として技術を学ぶのも悪くない。

 上手くすれば、これまでの修行では一向に掴めなかった『気』とか『オーラ』とかいった力を取得出来るかもしれないしね。目指せ、かめはめ波!

 私の返答に八雲紫はにっこり笑って――美しい……ハッ! ――移動の為のスキマを開いた。

 

「では、早速山を下りましょう。持っていく物があるのなら、今のうちに取っておきなさい」

 

 言われて、私は住処である洞穴から大切な物だけを持ち出した。

 まだ少し中身が残っている薬の入った筒。愛用の毛布。それから、もう着れなくなったけど病気になった時に着せられてた寝巻き、と。

 全て子供の頃私を助けてくれた恩人から与えられた物だ。

 あの誰かとは結局会うことが出来なかった。

 今でも見守ってくれていることは、時折見つける痕跡で分かるんだけどな。

 恩は必ず返す――その気持ちは変わらないが、山にいる間にせめて顔くらいは知っておきたかった。

 それだけが、私の心残りだ。

 両手に私物を持ち、八雲紫の前に戻った私は、スキマに入る前にもう一度振り返った。

 住処の洞穴には、実はそれほど愛着はない。

 ただ、この数年間生活した場所そのもの、この山そのものに言いようのない思い入れを抱いていた。

 

 ――私はここで生まれ、ここで死に、そしてここで生きた。

 

 きっと、ここが私の生まれた『家』なのだ。

 そしてそんな私を助け、生かしてくれた誰かは、きっと私にとって――。

 

「……行こう」

「ええ、行きましょう」

 

 八雲紫に促され、私はスキマに足を踏み入れた。

 地面から足が離れ、住んでいた場所を後にする。

 私は一つの終わりを悟った。

 

 多分、私は永遠に機会を失ってしまったのだろう。

 もしあの山で、いずれ私を助けてくれた誰かに出会っていたのなら、きっとその時は素直に言えたはずだ。

 でも、きっともう二度と言えない。

 山を下りて、大人に成長した後の私はその誰かに会ったとしても、大人として対応してしまうはずだから。

 

 ――私はここで生まれ、ここで死に、そしてここで生きた。

 ――ここが私にとって『家』であるならば、そんな私の成長を見守ってくれていた誰かは、きっと。

 

 

「いってきます……『お母さん』」

 

 

 

 

 会話は聞こえなかったが、八雲紫と少女の間で何かしらのやりとりがあった。

 どうやら戦いになるような物騒な用事でないことだと察し、安堵している間に少女は八雲紫に連れられて、その場から去ってしまった。

 手も口も出す暇はなかった。

 いや、聡い文にはそんな無茶な真似など出来るはずもなかった。

 行き先が何処かは分からないが、きっとこの山を下りたのだろう――そう悟った。

 あの少女は、ついに文の前からいなくなったのだ。

 

「……ああ、結局無駄骨かぁ……」

 

 妖怪の賢者相手では分が悪い。

 そう理解できても、文は脱力せずにはいられなかった。

 あの少女とまた別の形で再会することは出来るだろうが、その時には今日まで培った関係は全て白紙の状態だ。

 特ダネの独占なんてもってのほか。相手はこっちの顔さえ知らないのだから。

 

 ――こんなことなら、さっさと姿を現して、助けてやった恩でも売っとけば良かった。

 

 嘆き、悔いても仕方がない。

 それでも内心で悪態を吐くことをやめられず、徐々に湧いてきた苛立ちの発散場所を探した。

 よし、椛に八つ当たりして――いや、奴の場合馬鹿正直にそれを受け止めて、また腹でも切りかねないからやめよう。はたてと自棄酒でも飲むか……。

 長く生きた分、理不尽を受けた際の精神的対応も慣れたものである。

 明日には気分を切り替え、また新しいことに挑む為、文はその場に立ち上がった。

 

「……あら? そんなに緊張してたのかしら」

 

 ふと気付き、手のひらを見れば、そこは汗でびっしょりと濡れていた。

 それだけではなく、きつく握り締めたせいで指の跡までついている。

 八雲紫と少女のやりとりを見守る間、ずっと拳に力を入れていた状態だったらしい。

 片手に握っていた饅頭の包みなど無残な有様と化していた。

 無駄になったそれを投げ捨てて、指についた餡子を拭い取った。

 危うく見つかるところだった、と。無自覚に感情を昂ぶらせていた自分を珍しく思う。

 その理由にまで、何故か考えは至らなかった。

 

「あー……んー……あぁー……」

 

 立ち上がったが、何故かしばらくその場を動く気にはなれず、意味も無く声を上げていた。

 いや、今自分がやりたいことは実は分かっている。

 ただ意味がないのだということも分かっているのだ。

 

「はーぁ……」

 

 声に出して、大きなため息を吐いてみる。

 全く気が晴れない。

 モヤモヤとしたものが胸の中に残っている。

 それを吐き出したかった。

 きっと何も解決しないが、とにかく叫び出したい気分だった。

 

「…………くそっ」

 

 理性で感情を押さえ込む長年の癖が働き、文は結局小さな悪態一つしか吐くことが出来なかった。

 自分の苛立ちが収まらない理由を、彼女はいつまでも理解することが出来なかった。

 

 

 

 その日、人里に一度だけ風が吹いた。

 まるで意思を持っているかのような強大な風が人里の端から端まで一陣駆け抜け、その通り道では砂はもちろん石まで巻き上げられ、家の屋根が剥がれて、子供が飛ばされるほどだった。

 風が強い日でもなく、ただ一度だけの不可解な突風の正体を多くの者達は、こう察した。

 

 ――天狗の仕業だ。

 ――山の天狗様が怒っておられるのだ。

 

 人々は恐れ戦いたが、果たしてそれが真実であるかは定かではない。

 

 

 

 射命丸文が、博麗の巫女となったあの子供と再会するのは、実はそう遠くない未来であった。




<元ネタ解説>

「崖から落下」
グラップラー刃牙の修行法。死の瞬間に向き合うことでアドレナリンを放出させ、肉体の限界を越える。

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