【射命丸文の再会】
ほんの一月ほど前まで無人だった博麗神社に、今は一人の巫女の姿があった。
死去した先代巫女に成り代わって、この神社に住むことになった当代の巫女だ。
境内の掃除をしている。
箒で石畳の上を掃く様は酷く拙く見えた。
掃く傍から塵が散っているのだ。集め方も効率的ではない。
その慣れない様子を上空から見下ろしながら、文は苦笑した。
慣れないのは当たり前だ。あの子を本来育てる親は無く、掃除の仕方はもちろん家事を教わることもなく、代わりにしていたことが生きる為の努力と命懸けの鍛錬ばかりだったのだから。
今更、人並みの生活の中に放り込まれたからといって、早々慣れるものではない。
あの子が育ったのは妖怪の――。
「――っと、要らん考えを挟んだわ」
つまらない回想に没頭する前に、文は軽く頭を振って雑念を払った。
過去に思いを馳せる為に新しい博麗の巫女を――かつて妖怪の山から八雲紫によって連れ去られた子供の、現在の姿を見に来たわけではない。
文は両手で箱のような物を抱えていた。
河童に作らせた『写真機』であった。
外の世界で使われているカメラの存在は大分前から知っていたが、それと同じような機能を持つ物がついに完成したのは、ごく最近のことだ。
文はそれを真っ先に手に入れ、今日初めて使う為にやって来たのだった。
この写真機を手に入れる前に、新しい博麗の巫女就任の情報を得られたのは僥倖だった。
写真を用いた最初の新聞の記事にするには相応しい。
「偉大なる布石の第一弾ってところね」
今のところ、天狗社会において博麗の巫女の扱いは軽い。
より大きな、人間社会の動きを察知する為の一端として注目されている程度であった。
巫女個人の詳細や動向など、ほとんどの者が気にも留めない。
必然的に、彼女らを扱う記事などこれまでなかった。
その先駆けとなる――。
文は、自らの行動が偉大なる一歩であると確信していた。
「あんたに費やした数年の労力……無駄にするつもりはないわよ。きっちり取り立てさせてもらいましょう」
――自分は、あの子供が成長していく姿を知っている。
かつて、何処にでもいるか弱い人間の子供に過ぎなかったあの子が、予想を超えた成長を遂げていく姿をこの目で見ているのだ。
たった一人で山に置き去りにされていた、何処の誰とも知らない餓鬼が、今や博麗の巫女という立場に収まっている。
天狗を含む多くの力ある妖怪達は、博麗の巫女を単なる人間として侮っているだろう。
だが、その過去を知るからこそ、文だけは未来に大きな期待を抱くことが出来るのだ。
あの子供は、ここでは終わらない。
まだまだ先へ進み続ける。
知っているのは自分だけだ。あの巫女が持つ無限の可能性を。
未だ未知数なその可能性が巡る道を、余すところ無く捉え、記し、そして示してみせる――。
「あんたは私の『特ダネ』よ」
ニヤリと悪どい笑みを浮かべ、文は静かに神社の境内に降り立った。
巫女は背中を向けていて気付かない。
文は振り返らせようと口を開き、そこでほんのわずかに躊躇った。
――なんて声を掛ける?
そんな、どうでもいいことを悩んだ。
何とでも声を掛ければいい。適当に呼べばいいのだ。
どうせ、初対面なのだから。
相手にとっては。
彼女は妖怪の山で援助していた者が自分だと知らないし、それを今告げたところで何の意味も無い。そんなつもりもない。
実際、言葉を交わすことは自分だって初めてになるのだ。
何を悩む必要があるというのか。
文は自分自身に呆れるように頭を振ると、気分を切り替えるように友好的な笑顔を取り繕った。
「――もし、そこの博麗の巫女様」
数年間姿を現すことなく見守り続け、ようやく直接意思を疎通させる為に発することの出来た言葉は、そんなありきたりな切り出しだった。
「誰だ?」
巫女が振り返る。
彼女の瞳が自分を捉えるのが分かった。
目と目が合う。
初めて、お互いがお互いを認識し合う。
文は自分の胸の中に得体の知れない衝動が僅かに湧き上がるのを感じ、それを誤魔化すように素早く写真機を構えた。
ファインダー越しに見る博麗の巫女の姿は、何ということはない、単なる被写体としか感じられなかった。
カシャッとシャッターを押す。
呆気に取られる巫女を内心で愉快に思いながら、文はゆっくりと写真機を下ろした。
「初めまして。私、妖怪の山の鴉天狗。清く正しい射命丸文と申します」
社交辞令としての挨拶が、あの子へ第二声となった。
その時には、文はもう目の前の人間を『あの子』ではなく『巫女』として捉えていた。
この認識の違いがどんな意味を持つのか。
それは文自身にすら自覚出来ないことだった。
◇
【過去を思へど】
――と、こんな感じに私は射命丸と初めて顔を合わせたのだ。
思えば、何がなんだか分からん内に博麗の巫女になってから初めて役得だと感じた出来事だな。
妖怪の山で修行してた頃の私なんて、彼女にとっては有象無象の人間の一人でしかなかっただろうから、取材を切欠に出会うこともなかったはずだ。
「話を聞く限り『有象無象の取材対象』ぐらいにしか、ランクアップをしていないみたいですけどね」
さすがは身も蓋もない指摘に定評のあるさとりである。ご尤も。
何度も顔を合わせ、妖怪の山の一件では拳まで交えた、決して浅くは無い関係の私と射命丸だが、それらの出来事が友好的な方向へ全く向いていないという点が実に悲しい限りだった。
むしろ、あの一件以来互いの距離が逆に開いてしまったような気がする。
あれ以降、取材の頻度が少なくなっていったしね。
思い起こせば、妖怪の山で起こった様々な出来事が、私だけでなく周囲の物事の大きな転機だった。
世紀末覇者天魔様を見事殴り飛ばせたらしい私が、目を覚ました時にまず直面したのはゆかりんの怒りだった。
冷静に考えれば、そりゃ当然である。
事情や理由を省いて、私が実際に起こした行動といったら、簡潔にまとめると『天狗社会にカチコミかけた』に等しい。
幻想郷の勢力図の一角を担う種族に対して、人間の代表が行ったこの蛮行を、彼女が見咎めるのは当然のことだった。
結果、私は瀕死の状態から回復した直後に死ぬほど説教された。
一歩間違えれば、私の粛清はもちろん、幻想郷全体に余計な騒動を起こす危険があったらしい。
その辺の情勢に疎い私には、よく分からないながらも深く反省して頭を下げるしかなかった。
ただ、これらの起こってしまった出来事を単に揉み消すのではなく、折角なので利用してしまおうというのが最終的な紫の考えだった。
一通り怒った後、次に紫の浮かべた表情は様々な意図を含む妖しげな微笑だった。
まさに傾国の美女のような艶かしさと美しさ。
如何なる姦計がその頭脳で廻らされているのか、当然のように分からない私は『美しい……ハッ!』と単に見とれているだけのアホだった。
とにかく、紫はこの件を上手く利用してなんか幻想郷の勢力図を動かしたらしい。
具体的には、博麗の巫女の地位が向上したようだ。
なんか、それ以来妖怪の間で私が一目置かれるようになったし、妖怪退治に出掛ければ時折『お、お前があの博麗の!?』とか大物っぽい反応をしてくれるようになった。
「今の博麗の巫女の地位を築いたのは、貴女だったというわけですね」
うーん、さとりの評価は嬉しいが、私としては上手く状況をコントロールした紫のおかげだと思うけどね。
当時の私は、本当に物事を細かく考えていなかった。
紫が色々と説明してくれたが、毎度の如く分かった振りして頷くだけで、内心は混乱したまま。
怪我を治して人里に訪れた時に、いつの間にやら助かっていたあの子供と母親の二人から礼を言われ、ようやく実感したのだ。
ああ、私は間違っていなかったんだな――と。
逆に言えば、その一点以外において私は蚊帳の外みたいなものだった。
ホント、これが若さかっていうか、ただの脳筋だったよね。昔は。
……今がどうか? って言われたら、何も反論出来ないけど。
「なるほど。貴女の勘違いされる性質は、筋金入りだったということですか」
さとりが何やら納得したかのように頷いた。
勘違い――何のことだろう?
首を傾げる私の様子を見て、さとりは小さく笑っていた。
「気にしなくていいですよ。貴女はきっと、そのままの方が状況を自然と良い方向へ進められるのでしょう」
「……どういう意味だ?」
「お湯、かけますよ」
私の疑問を誤魔化すように、さとりはお湯で背中を洗い流してくれた。
うーん、さっぱり。
さとりの意味ありげな言葉に対する疑問も一緒に流れてしまう。
風呂は命の洗濯って本当だね。
地霊殿を訪れて早々、さとりに頼んだ甲斐があった。
いや、頼んだというか考えてたことを読心で察してもらった結果、こうして厚意に甘えているんだけどね。
ここは地霊殿の浴場。
私はここで、旧地獄産の温泉に入らせてもらっているのだ。
「さあ、湯船に戻りましょう。掴まってください」
「すまない」
さすがに風呂場に杖を持ち込むわけにもいかず、足が動かないので、必然的にさとりの補助を受けることになる私。
東方要介護ってやつだ。微妙に意味が違うけど。
さっきも、さとりに体を洗ってもらっていたところだったしね。
普段の生活では、ここまでやってくれる人なんていない。
一人暮らしをしているという理由もあるんだが、何よりこの歳になってお風呂を手伝ってもらうとか恥ずかしくて誰にも頼めないって話だよね。迷惑だろうし。
「あら、その迷惑を、私になら掛けてもよかったということでしょうか?」
意地悪く尋ねるさとりん。
うっ……ごめん。
甘えている、という自覚はある。
ただ、なんというか……さとりにはこういうことを頼めちゃう気安さを感じているんだよね。
他の人と比べて、遠慮を感じないというか。
いや、もちろん悪い意味じゃないのよ?
「ええ、分かっていますよ。光栄なことだと受け取っておきます」
上手く言葉に出来ない私の内心を見透かしているかのように――能力的に、まさにその通りなのだろうが――さとりは表情を和らげた。
こういうところが、遠慮をしなくていいと思えてしまう部分なんだろうな。
私の内心は常に見抜かれているわけだし、それを考慮した上でさとり自身も遠慮なく意見や欲求をぶつけてくる。
こちらの望んでいることを正確に理解し、それを拒絶しようと思ったら、素直にそう対応する。
さとりがそうすると分かっているからこそ、私の方も変な遠慮を抱く必要が無いのだ。
それが気安さに繋がっているのだろう。
身近な友達みたいな関係だな。実にありがたい存在だ。
「別にお風呂を貸す程度、そこまでありがたがる必要もないですよ」
さとりに支えられて、溺れることなく湯船に浸かる。
いやー、でも実際ありがたいって。
こんなこと娘の霊夢や、何かと世話を焼いてくれる慧音にだって頼めないことだもんね。
ちなみに今の状況。もちろん、さとりも一緒にお風呂に入っている。
まだ子供だった霊夢と一緒に風呂に入っていた頃に続いて、これは東方キャラとの記念すべき特殊イベント第二弾だ!
はー、マジで極楽。
「そういうミーハーな考えは、この世界で何十年も生きているのに消えないんですね」
「……すまない。不快な考えか?」
「いいえ、興味深いです。貴女の昔話を聞いてから、より一層ね」
さとりは意味深げに笑った。
風呂に入れてもらう傍ら、さとりに話を振られたので、何気なく始めた昔語りだったが、それが何か彼女の琴線に触れたのだろうか。
ずっと熱心に話を聞いていた。
「貴女にとっては何でもない話かもしれませんが、視点を変えれば色々と気付くこともあるんですよ」
ええ、そうかな?
確かに、何かとトラブルの絶えない現役時代だったが『振り向かないことさ!』と、今なら笑って済ませられるもんだけどね。
あー、でも昔を思い出していたら、改めて当時の気持ちや決意も蘇ってきた。
特に、妖怪の山で助けてもらったあの恩人――私は未だにあの人と再会することさえ出来ていないのだ。
あれ以来、山に向かう機会は何度かあったが、結局それらしい人や妖怪と会うことはなかったなぁ。たまに会う天狗からはあからさまに避けられてるし。
「……例えば、そういう点ですね」
ん、何か言った?
「貴女の主観は意外と死角が多いという話です」
なんのこっちゃ?
わざとぼかすように答えるさとりに対して、私は首を傾げることしか出来なかった。
◆
【古明地さとりの考察】
先代巫女は、この幻想郷における過去や未来の出来事を『物語』として知っている。
それはこの世界で、ただ一人、彼女にのみ許された特有の視点によるものだ。
モニター越しの――あるいは第四の壁と呼ばれるものを通して描かれた『物語』を見ることが出来る視点だ。
彼女は異変の当事者達などの主観では分からない、多くの真実を捉えている。
――しかし。
ならば、当然のこととして彼女自身の主観では分からない死角もまた存在するだろう。
彼女もまた、この世界に生きる一人の人間にしか過ぎない故に。
その死角に隠された真実を捉えることが出来る視点を持つ者――それは古明地さとりであった。
――さて、相変わらず彼女の話は退屈しませんね。
先代と共に湯船に浸かり、リラックスした状態でさとりは他愛もなく思考に没頭した。
さとりには、このノンビリとくつろげる時間が随分と贅沢に思える。
元々、風呂でゆっくりするという習慣がない生活だ。
生来の能力というのは厄介なもので、この読心の力があるからこそ他人との接触を避けるが、かといって心の声が全く聞こえないという状況も、それはそれで落ち着かない。
この読心の能力を本当に不要だと思っているのなら、自分自身の手で封じてしまえばいいのだ。
自分はそれをしないのではなく、出来ないのだと、さとりは自覚していた。
だからこそ、一人で湯船に浸かる入浴の時間をさとりはあまり長く使わなかった。
悪いとは言わないが、憩いの時間として特に好むわけでもない。
ただ義務的に体を洗浄する時間としか捉えていなかった。
それが今は違う。
文字通り気心の知れた先代が傍らで、気の抜けた思考を取りとめもなく洩らす心の声を聞きながら、さとりはこの時間を楽しんでいた。
――元々、何も考えずにいるよりも、何か考えている方が好きですからね。
地霊殿に篭もる生活スタイル故か、あるいは能力の影響なのか、自分はそういう性分なのだった。
仕事ではなく、ただ気まぐれにさとりは思考を廻らせ、遊んだ。
――考えてみれば、先代は自身でも自覚出来ていない謎も多いんですよね。
自然と頭に浮かぶのは、隣にいる奇妙な人間のことである。
彼女の過去について、今回の話を聞くことで幾つか判明した。
主に博麗の巫女になるまでの子供時代と、巫女になって最初の大事件を聞くことが出来たが、一括りの感想としては『波乱万丈』としか表現しようがない。
地上の情勢には疎いが、話を聞く限り彼女が幻想郷の歴史を一つ動かしたようなものではないか。
初めて地底を訪れた時、伝説とされる鬼退治をやってのけたように。
この人間が生きた数十年の軌跡の中で、一体どれ程の偉業を無自覚に達成したのか、興味はあるが呆れる気持ちも半々あった。
あるいは、この人間はそういう星の下に生まれついたのかもしれない。
しかし、そんな大事の陰に隠れそうになる様々な謎が、さとりには妙に気になっていた。
――結局、彼女の出生については何も分かりませんでしたね。
ある意味、先代巫女に関する最大の謎が、全く何も分からないまま残った。
前世の自分自身に関する記憶が無いことは聞いている。
それ自体は珍しいものではない。輪廻転生において、前世の記憶を完全に残す者などいないのだ。
しかし、彼女の転生は明らかに異質だった。
少なくとも、幻想郷の外にある世界は、彼女の前世にある世界と同じではないはずだ。
では、何処か?
異世界?
ならば、この幻想郷が創作物として表現されている世界とは一体――?
明確な答えは無い。根拠のない推測や推察、あるいは妄想とか言えないようなことしか思い浮かばない。
さとりは意味のない思考を続けた。
――前世に関しては知りようがない。しかし、この世界の人間として生まれたことならば、少なくとも『現実に起こった出来事』の筈。
確実に言えることは、先代巫女がこの世界で生まれた血肉を持つ人間であるということだ。
で、あるのならば。彼女は当然のように赤子であった時期があり、それ以前には何処ぞの女の腹に宿っていたはずである。
つまり、父と母が存在する。
それらが未だ生きているのか、あるいは死んでいるのかまでは分からない――ひょっとしたら、幻想郷ではなく外の世界にいるのかもしれない。
また細かい謎が出てきた。
さとりは、考えれば考えるほど浮かび上がってくる数々の疑問を棚上げして、思考を先へ進めた。
今は、より大きな謎について考えたい。
――物心つく時期というものがありますから、ある程度は仕方ありませんが……それでも不自然ですね。
話を聞く限り、先代の最も古い記憶は妖怪の山で我に返った時からだ。
そこに至るまでの過程を全く覚えていないらしい。
彼女の記憶を、思い浮かべるイメージと共に辿っていたさとりは、少なくともそれに偽りがないことを理解していた。
だからこそ、納得がいかなかった。
何故、記憶の有る無しについて、ここまで明確な境目があるのだろうか?
十に満たない歳とはいえ、ある程度周囲の分別がつくだろう子供の時分に、両親の存在や育った周囲の環境をおぼろげにすら覚えていないのは、本当に偶然なのか?
あるいは――故意なのか?
推察にも満たない妄想の域で、さとりはその可能性にも辿り着いていた。
誰かが、何かの目的で、何らかの手段を用いて、この先代巫女という特殊な人間を生み出したのか――。
――……本当に妄想の域ですね。
根拠が無い上に、何一つ具体的ですらない自分の考えに、さとりは我が事ながら失笑した。
今更ながら、この思考が単なる遊びなのだと自覚する。
先代巫女には多くの謎がある。
それらは謎のまま、今は解き明かすことは出来ないが、一つだけハッキリと分かることがあった。
ある意味、最大にして最後の疑問に対する答えが、とっくに出ているのだ。
つまり、この先代巫女にまつわる多くの謎を全て解き明かした結果どうなるか、だ。
「……別にどうもしませんね」
「ん?」
「ああ、いえ。何でもありません。独り言です」
実際に言葉にして呟いたことで、さとりは改めて納得した。
結局、今が全てなのだ。
お湯の熱が頭に回り始め、思考に没頭することが少し億劫になってきたこともあって、さとりはあっさりとそこまでの考えを放棄した。
「そろそろあがりませんか?」
「む。そうだな」
「足の感覚はどうでしょう?」
「上半身は熱いのに、腰から下が何も感じないから、何か表現しにくいな」
「お湯の中の浮遊感すら感じないせいですね」
大して期待はしていなかったが、温泉の効能は先代の傷に何の影響も与えなかったらしい。
先代は純粋に風呂に入るつもりだったようだが、僅かでも回復の見込みがあることを考えていたさとりは落胆した。
とはいえ、ある程度の楽観もある。
先代の心を読む限り、彼女は自分の足の治療をまだ完全に諦めてはいないようだし、その為の可能性も具体的に思い浮かべている。
さとりは、彼女の考えている可能性に後を任せることにした。
先に湯船からあがり、さとりは先代の体を支えた。
「……ところで、貴女の本名なんですけど」
さとりからすれば風呂に浸かっていた時の思考の続きだったが、先代にとっては何の脈絡もない切り出しで尋ねた。
「前世の名前は覚えていないんですよね」
「ん? ああ、そうだな」
「では、勇儀さんにも名乗った『今の本名』の方は、誰につけられたんですか?」
先代は淀みなく答えた。
「紫だ」
母でも、父でもない。
ここに至っても、彼女の出生に繋がる僅かなヒントすら存在しない。
「そうですか」
自分で尋ねておきながら、さとりはそれ以上の追求をすることなく、ただ頷くだけだった。
◆
【ある鴉天狗の酩酊】
チルノとお空のスペルカード戦は、結局経験を積んだチルノが有利のまま勝利して終了した。
その後、二人の間でちょっとした言い争いはあったが、傍から見ればじゃれ合いにしか見えない。
険悪な諍いではなく、純粋な勝負だったのだ。
勇儀と文が年長者として二人をなだめ、自然と室内での酒盛りへと移っていった。
「勝ったからっていい気になるなよ、チルノ~!」
「へへん、修行して出直して来い!」
飽きもせず、お空とチルノは言い合いを続けている。
飽きるどころか、互いに楽しんでいるのだろう。二人の表情は笑顔だ。
加えて頬が赤く、心なし呂律が回っておらず、酒に酔ったような症状を見せているのは、傍らで飲む勇儀と文の酒気にあてられたせいなのかもしれない。
まるで自分の家のように、勝手に勇儀が用意したツマミを食べていた二人の動きも、徐々に鈍り始めていた。
「お酒、飲ませてないですよね?」
文は勇儀に尋ねた。
「一滴もね。まあ、妖精や力の弱い妖怪には匂いだけでもキツイ酒だからなぁ」
「その内勝手に潰れちゃいそうですね」
「いいさ、寝かせとけ。慣れない決闘で疲れてるだろう」
空になった碗に、更に酒を注ぎながら勇儀は笑った。
水晶瓶に入った琥珀色の酒は、飲み慣れた日本の物ではなく、異国の酒だ。
もちろんそれ以外にも舌に馴染んだ日本酒など、数種類の酒がテーブルの上には並べられていた。
いずれも共通するのは鬼の勇儀が秘蔵としている、とっておきの酒だということだった。
普通の人間が飲めば、天にも昇る心地良さと共に意識は闇へ真っ逆さま。一口で酔い潰れてしまうだろう。
高級などという言葉だけでは表現しきれない代物だ。
実際、文は勇儀と同じ酒の席にいることに半分緊張しながらも、残り半分の意識は目の前に並べられた幻の名酒の数々に惹きつけられていた。
先代巫女の昔話を切欠に、地上のことなど色々話したが、その合間に少しでもこれらの酒を味わおうと、勇儀の様子を伺いながら貪欲に瓶へ手を伸ばしていた。
ともかく、酒は旨かった。
酔いも回ってきたのか、勇儀に対する緊張も幾分和らいでいる。
それでも、酔った勢いで何かとんでもない失態や失言をしてしまわないか一抹の不安が付き纏い、酔いを自制していた。
「オチが痛快すぎて笑って済ませてしまったが――」
瓶の一本が空になると、勇儀は魔法のように次の酒を取り出し、惜しげもなく封を切った。
「妖怪の山での騒動、結局上手い具合に落着したのかい? あの件に関わったっていう、仲間の天狗二人や人間の子供はどうなったんだ?」
「ああ、先代巫女の件ですか。ええ……その、大丈夫です。表立ったお咎めはありませんでした」
空の碗に酒を注がれ、それを当たり前のように受けながら、一瞬遅れて文は我に返った。
……何、自然と鬼に酌をさせているんだ?
内心青褪めながら勇儀の様子を伺ったが、当人はそれこそ何も気にしていない様子で、文の返答に耳を傾けていた。
「人間の子供は、巫女と一緒に八雲紫が迎えに来て、無事人里に届けました。今も息災です。
巫女の起こした騒動に関しては、事情を全て把握した八雲紫が後日集落を訪れ、それで……その、話し合いを」
さすがに、天狗の上層部と八雲紫の間で交わされた話の内容には言葉を濁した。
文自身もその内容を直接聞き及んではいない。
しかし、上司から受けたその後の指示や説明、独自に入手した情報などから、ある程度の概要は掴んでいる。
もちろん、それらに自ら関わって、藪をつつくような真似はしていない。
自らの保身の為に、守るべき境界線を見極めようとした結果だった。
結局、妖怪の山で起きた騒動自体は外部に洩れることなく終わった。
人間が天狗の長を負かしたという事実は、ごく一部の関係者以外、同じ天狗の間でさえ知られていない。
しかし、あの日確実に何かが大きく変わった。
あの件以来、天狗達は博麗の巫女に対する認識を改めた。
そして、年月を経て、巫女の活躍が増していく毎に彼女への評価は上がり続けている。
今や、あの巫女一人だけではなく、その周囲の人間、妖怪――ひいては幻想郷全体の常識さえも変化していた。
昔に比べ、人間と妖怪の関係は若干変わっている。
それが良いことなのか悪いことなのかは、それぞれの種族や見方によって違うだろう。
ただ、少なくとも平穏ではある。
当時、天狗社会から抹殺されることさえ覚悟した文には、そう素直に思えるのだった。
「そうか……。まあ、結果が良ければ全て良し、さ。詳しい話は、私が聞くことじゃないだろうね」
穏やかに笑いながら、文が言いよどんだ部分に勇儀はあえて触れなかった。
その気遣いに内心安堵し、鬼って無神経な種族だと思ってたけど違うんだな、と文はふてぶてしく考えていた。
しかし、目の前の鬼にとって、話に聞いただけの天狗や人間の子供が無事だった結果が『良いこと』だと思われているのが不思議だった。
鬼とは、そこまで情の深い妖怪だっただろうか。
「しかし、天狗といえば身内への意識が強い種族だ」
大昔とはいえ、妖怪の山において天狗の上にいた勇儀は、その種族の特性を正確に理解していた。
「お前さんも、その件で随分顔が知られただろう?」
「それは、もう。しばらくは上司の視線がキツかったですね」
ひょっとして自分は心配されているのか? と、背筋を寒くしながら文は表情だけ苦笑してみせた。
恐れ多い、などという気持ちではない。
ただ単に居心地が悪いだけだった。
「ただ、天魔様から厳命があったらしく、上からの処罰や私刑は全く受けませんでした。他の二人も同様です」
「ふふ、そうか。それは良かった。犬走椛という天狗は、立場上厳しいはずだからな」
「はあ……まあ、そうですね」
意味深げな勇儀の視線を受けて、文は戸惑いながら曖昧な返事を返した。
何が言いたいのだろう?
確かに椛は下っ端の立場ゆえ、当時は一番命が危うかった。
眼の届かない所で、私的な制裁を受けていないかと、はたてが随分心配していたのを思い出す。
ひょっとして、自分に『椛が心配だった』と言わせたいのだろうか?
「考えすぎるな。お前さんは、そのままでいいさ。それも面白い」
思考を読まれたかのような勇儀の指摘を受けて、文は一瞬凍りついた。
誤魔化すように笑い、無意識に酒に手を伸ばす。
喉が渇いた。純粋な美酒への欲求だけでなく、酔いたいという気持ちが強くなっていた。
「早太郎もな、天狗の長なんて堅苦しい立場になるまでは、手前勝手で風や雲のように自由に生きていた、気持ちの良い奴なんだ。
昔は喧嘩っ早い奴でな、色んな妖怪相手に勝ったり負けたり。多分、先代に負けた時だって、大して気にしていなかったんじゃあないかね。むしろ、久しぶりに清々しい気分だっただろうさ」
「あの……ひょっとして『ハヤタロウ』というのは、天魔様のことですか?」
「ああ、そうだ。なんだ、あいつ部下に本名教えてないのか。本当に堅苦しくなっちまったねぇ。
天狗は鬼を必要以上に恐れ敬うようだが、一匹の妖怪だった頃のあいつは、気に入らなけりゃ鬼とだって喧嘩するくらい向こう見ずだったぞ。まあ、それを仲間に勇猛さと見られた結果が、現在の立場ってことかな」
難儀な奴だなぁ、と大笑いする勇儀を尻目に、文はますます酔いたくなっていた。
酒の味が分からなくなるような話だ。
無駄に重かった。一介の鴉天狗が聞いていいような内容ではない。
「だが、まあ……そんな建前や装飾も他者と関わる為の機微か」
勇儀はらしくもなく、そんな繊細なことを口にしていた。
嘘を嫌い、潔白や単純明快さを美徳とする鬼には珍しい言葉だった。
「鬼というのは、他の妖怪よりも少しばかり生き方が頑ななだけさ。私は、たまたま変わる切欠があっただけだ」
文のささやかな疑問を、またもや正確に見抜いて勇儀は答えた。
ひょっとして、目の前の鬼は心を読む力でもあるのか。
酔いが冷静な判断力を奪う。
「互いに心を許しあって酒を飲み交わすとな、なんとなく相手の気持ちが分かるのさ。
自分が旨いと思った酒を、相手も旨いと思う。そこから次の気持ちが分かってくる。理屈じゃない、心だ。納得がいかないなら、長年恐れてきた鬼の持つ不思議な力、とでも思ってくれりゃあいいがね?」
表情を強張らせる文を見て、勇儀は意地悪く笑った。
文はいやいやなんともかんとも、もごもごと答えるしかなかった。
逃げるように酒を注いだ。もう、それが勇儀の酒だと遠慮することさえ忘れていた。
「――嘘は嫌いだ。心を偽ることは、何よりも気に入らない。昔は、それだけだった」
勇儀は独白したが、それは文のことを暗に責めているような口調ではなかった。
ただ、懐かしむような響きだけが声に含まれていた。
「だが、今は……少し分かる。世の中は変わっていくものだ。妖怪も、人も」
「……それは、当たり前のことです」
文は無意識に応えていた。
酔っているせいか、曖昧になり始めた意識はそれを失言だと捉えなかった。
勇儀もその言葉を自然に受け止め、微笑んでいた。
「そうだな。当たり前のことだ。その変化についていけなかったことが、鬼の限界だったんだろう」
「今は……今の貴女は、違いますか?」
「どうだろうなぁ。多分、根っこは何も変わっちゃいないんだろう。
ただ、昔と何も変わっていないと断言するには、あの喧嘩は激しすぎて、楽しすぎた」
「先代巫女との決闘ですね」
「うん。あれはなぁ……本当に良い喧嘩だったんだ。人間とな、初めて全力で殴り合ったんだ。気持ちをぶつけ合ったんだ」
長い年月を生きたはずの鬼は、まるで子供のように、憧憬の眼差しで語っていた。
「変わった人間を受け入れられず、地底に潜ったはずの私の前に、また人間は来てくれたんだ」
「……彼女は、普通の人間とは違いますよ」
まさか、先代巫女との出会いを『運命』だとか『導き』だとか、そんな夢を見るような感覚で捉えているのか、と。文は不安を感じた。
その疑念を払拭するように勇儀は苦笑した。
「ああ、いや。それは分かっている。
あの頃よりも、人間は更に変わった。地上は、もう鬼が気ままに生きていけるような場所じゃないんだろう」
勇儀は断言したが、そこに地底で長年根付いていた諦念の色は、もうなかった。
「ただな、その地上で育った人間が、様々な事情や巡り会わせで私の前に現れ、闘い、勝った。
その事実を思い返すたびに、どうにも面白くて可笑しな気分になるんだ。これまで頑なに悩んでいたことが、急に馬鹿馬鹿しいものに思えちまってね」
鬼の意識改革。その過程や切欠は、実のところ結構なスクープなのではないだろうか、と文は思った。
しかし、思っただけで、それをネタとして書き記すことがすぐに億劫になっていた。
酔いのせいもあるが、勇儀の話が理屈を抜きにした感情や気分によるものでしかないと理解したからだった。
鬼ってのはこれだから……と、文は内心で呆れていた。
ついさっきまで、その内心が勇儀に見抜かれていたことなど危機感ごと忘れている。
話の間を置いて勇儀が意味深げに文の瞳を覗き込み、苦笑した理由さえ分かっていない。
やはり、酔いが回っているのだった。
「世の中酸いも甘いもあるように、心に嘘と真があることも、また世の理なんだろう」
「そうして世の中回っていくものですよ」
「確かに鬼には生き辛い世の中だ。だが、まあ……それも悪くない。そう思えるようになった。先代のような人間や、お前のような妖怪がいるのなら」
不意に話題に挙げられ、文は思わず呆けたように目を丸くした。
「……私ですか?」
「そう、お前。面白い」
「えっと……何故です?」
「嘘つきだから」
「…………えぇと、私、何か勇儀さんに失言を?」
「いや、そういう意味での嘘じゃない。無礼だとか不快だとか思ってたわけじゃない」
心地よい酩酊が一瞬で吐き気へと変わって今にも口から漏らしそうな文に対して、勇儀は苦笑しながら慌てて告げた。
「心を偽る、という意味さ。無意識な嘘だ。安心しろ、さっきも言ったように、そういう機微も悪くないと私は思ってる」
「……すみません、意味が分かりません」
「うん、まあ無自覚なんだろうな。お前さんの話でもあったが、友達のはたてって奴が一番よく分かってるじゃないかね」
「はあ……」
「私もそいつの意見に賛成だ。お前さんは、きっと性根が捻れすぎてるんだ。自分で自分の本心が分からないくらい」
そう、あまりにも良い笑顔で言われたので、文は表情に隠す必要も無く、内心に不快感などは湧かなかった
ただ、不可解さだけが残った。
昔から事あるごとに受けてきたはたての言動に対する疑念が、今更になって蘇ってくる。
友人と同じことを勇儀は口にしているのだ。
「勇儀さんには、はたてが何を考えていたか分かるんですか?」
「多分、同じ考えだと思うよ」
面白そうにニヤニヤ笑う勇儀を見て、文は僅かに疎外感と反発を覚えた。
それが表情に出ていることを教えず、勇儀は『それじゃあ、聞くが』と続けた。
「お前さん、先代のことを今はどう思ってるんだ?」
唐突な質問に、文は一瞬思考が止まった。
「友人ではない、と最初にお前さんは言ったな。うん、今ならそれは本当だと私は思う。でも、他人でもない。これも本当だ。
じゃあ、実際に先代に対してお前さん自身がどう思い、どう捉えているのか分かるかい? 自分自身の心のことだ。好きか嫌いか、憎いか愛しいか……」
答えを促されながら、文は上手く回らない頭で考えた。
どう返答することが、目の前の鬼の機嫌を損ねないか? ――最初に同じような質問をされた時は、そこを重点に考えていたはずだった。
しかし、何故か今はそうして悩むことが酷く面倒に思えていた。
きっと酔いのせいだ。
考えなしに何かを口走ろうとしてしまう自分を、理性というもう一人の自分が必死に抑えようとしている。
そうして考え悩むこと自体まで億劫になり始めていた。
その間に、文は無意識に碗の中の酒を飲み干していた。
「多分、お前さんが私に語った昔話には色々と省いた部分もあるんだろう。それも含めて、一度自分の気持ちを見つめ直しちゃどうだ?
まだ子供だった先代を見た時の第一印象。成長していく姿。再会した時に感じたこと。喧嘩を仕掛けようと思った動機。足をへし折られた時の心境。全てが終わった後に残った気持ち――」
やめろ、混乱する。
鬼相手に悪態を吐きそうになるのを、文はかろうじて堪えた。
もし、目の前の相手がはたてだったなら、軽口で話をかき混ぜて有耶無耶のままに終わらせただろう。
しかし、今回は相手が悪い。
文は意味も無く窮地に追い詰められたような心境になりながら、空の碗に視線を落として考え込んでいた。あるいは、何も考えまいと努力していた。
勇儀も黙り、いつの間にか誰も喋る者がいなくなっていた。
騒がしかったチルノとお空はテーブルに突っ伏して眠りこけている。
視界の端に映る二人に、文は気付いてすらいなかった。
ただ、沈黙の中で答えを待つ勇儀の存在感だけが異様に重く圧し掛かっていた。
「…………私は」
無意識に口が開く。
そこから先に続く言葉がどんなものか、文自身にさえ把握出来ていない。
しかし、それが発せられるより先に、扉の開く音が響いた。
「あら、二人とも眠ってしまいましたか」
「おう、さとりか。すまないな、飲ませてはいないんだが」
寝巻きらしき服に着替えた、さとりと先代巫女だった。
文は一瞬助かったと思い、しかしすぐに考えを改めた。
「分かっています。絡んでいたのは、可哀想な天狗さんの方のようですしね」
「ははっ、やっぱり少し意地が悪かったかね」
「混乱しているようですよ」
さとりと勇儀のやりとりは一見意味不明だったが、すぐに文は察した。
さとりには、心を読む能力があるのだ。
もちろん文も既に知っている事実だったが、それが急に拙いことのように思えてしまった。
咄嗟に、話題に挙がっていた先代巫女の方へと視線を向ける。
先代は文を見ていた。
ただ単に、酔った文に気が向いただけかもしれないが、文自身にはこうして先代に見られていることが酷く重大な事態に感じられた。
ワケも分からず羞恥と焦燥が湧き上がり、無言で視線を逸らす。
地霊殿を訪れて以来、古明地さとりと共に一体何処で何をしていたのだろう。
酒を飲む前にはあったはずの、記者として聞き出すべき内容や個人的な好奇心は、いつの間にか消えていた。
テーブルに並べられた酒の中から、これまでに飲み比べて一番キツイと思った物を手に取った。
何も喋りたくないし、何も考えたくない。
自分の碗に酒をなみなみと注ぎ、気付いた勇儀が止めようとする仕草を無視して、文はそれを一気に煽った。
本来ならば、飲むのを惜しむほどの美酒だったが――。
とにかく、今は酔えることが肝心だとその時の文は思っていた。
◇
【人と妖の消えぬ縁】
地霊殿での一泊。
とはいっても、太陽の昇らない地底では、地上に住む私の感覚ではイマイチ一晩過ぎたのだという実感が湧かない。
とにかく、夜は明けたらしい。
昨晩は、風呂上りに何故か地霊殿に馴染んでいる勇儀も加えて、さとりと三人で夕食を囲んだ。お酒もちょっと飲んだ。
勇儀に勧められて、私も乗り気だったからつい飲んでしまったが、実のところ私は普段お酒を飲まなかったりする。
若い頃に飲んで、あまりお酒に強くないと自覚したことも理由だが、今では何よりも波紋の呼吸法が乱れるから避けているのだ。
それでも勇儀と盃酌み交わすなんて超記念イベントを避けるなんて出来ないから、つい飲んでしまったが。
でも、冷静に考えると東方の世界でお酒飲めないって結構致命的じゃないかしら?
異変解決後の宴会って、東方ではもはや様式美にすらなっているからね。
それに参加出来ない私は、周囲とのコミュニケーションで一歩遅れている気がする。
うーん、勇儀とはもっと仲良くなりたいから、やっぱりある程度酒が飲めるようになった方がいいかなぁ。
ちなみに、霊夢は原作通り、私よりも遥かにお酒に強い。
でも、それは人伝に聞いたのであって、実際に私の前では何故かお酒を一度も飲んだことがないんだよね。
別に私は飲酒を叱りやしないんだけど……。
むしろ、いずれ霊夢が成人したと認めた日には一緒にお酒を飲みたいと思っているくらいだ。
その頃には波紋とか気にしなくていいから、きっと気兼ねなく酔い潰れるまで飲めるだろう。
酔い潰れるといえば、折角一緒にやって来たチルノがお空と共に眠ってしまっていたのは予想外だった。
傍らで既に飲んでいた勇儀と射命丸の酒気に中てられたらしい。
結局、次の日まで目を覚ますことはなかった。
そして、意外というか、私が風呂から上がってすぐに射命丸まで酔い潰れて眠ってしまったのだ。
勇儀が言うには『馬鹿な飲み方をした』とのことらしい。
確かに私が見た時は、なんか凄い勢いで碗を呷ってたけど。鬼の酒が旨すぎたのか。
納得していると、勇儀とさとりは何故か苦笑していた。
射命丸もチルノ達と同じで朝まで目を覚まさず、私は勇儀とさとりの三人で雑談を交えながら食事と酒を夜遅くまで楽しんでいた。
そして、朝。
太陽が見えないけど多分、朝。夕飯を食べていないチルノとお空が加わり、少し豪勢な朝食を、今度は皆で食べた。
低血圧なのか、それとも二日酔いなのか、前日のテンションの高さが嘘のように静かな射命丸の様子だけが少し気になった。
そうして午前を過ごし、現在である。
「そろそろ時間ですか」
私の内心を読み取ったさとりが、紫が迎えに来る時刻を指して呟いた。
地上へ戻る時間が近づいている。
私達は自然と地霊殿の玄関前に集まり、思い思いの相手と雑談を交わしていた。
チルノはやっぱりお空と、射命丸は意外なことに勇儀と、親しそうに話している。
「楽しかったですか?」
「ああ」
さとりの問いに、私が答えた言葉は短かったが、心を読めばウザイほど気持ちは伝わるだろう。
「伝わります。まるで子供ですね」
サーセン。ホント、昨日は寝るのを惜しむくらいはしゃいだよ。
また、機会があれば寄りたいね。
「再会は約束されているわけですから、別れを惜しむ気も湧きませんね」
いずれ訪れる『東方地霊殿』のことを指しているのだろう。
さとりは素っ気無い反応だったが――私には分かっているよ、このツンデレさんめ!
「やっぱり、貴女とは適度に距離と間隔を置いた方が良いですね。疲れます」
ため息を吐き、さとりが肩を竦めると同時にシャッター音とフラッシュが瞬いた。
思わず二人して視線をやれば、案の定そこにはカメラを構えた射命丸が立っていた。
「あやや、お二人があまりにも仲睦まじいので思わず写してしまいました」
「多分、八雲紫の検閲に引っかかりますよ」
見慣れた意地の悪い笑顔を浮かべる射命丸だったが、機先を制するようにさとりが告げると、余裕の表情はあっさりと崩れた。
さすがさとりんだ、なんともないぜ!
まあ、多分私とさとりのことを新聞に載せようと思ったんだろうね。
弁が達者で、例えば私だったら色々と言い包められてしまうだろうが、さすがに心を読むさとりでは相手が悪い。
さとりが言うとおり、紫にも迷惑がかかるので、地霊殿のことを新聞に載せるのは私も止めてもらいたかった。
「先代も快くは思っていないようですよ。止めないと、今度は腕を折られるかもしれませんね」
「そ、それは勘弁して欲しいですね……」
ちょっ、そんなことまで考えてないって!
意地の悪い笑みではこちらも負けてないさとりが告げた内容に、射命丸が怯えた視線を私に向けた。
ああ、もうっ。こんなことなら、昔の話なんてさとりにするんじゃなかった。
「冗談です。貴女はともかく、先代は当時のことを既に気にしてなどいませんよ」
私だけでなく射命丸の心も読んでいるのか、さとりが意味深げに付け加えた。
これってフォロー、なのか?
まあ、私があの時の騒動や戦闘を気にしていないというのは本当だけどね。
逆に言うと、射命丸は今ままでずっと気にしてたってことなのかな?
……いや、当然だよな。あの時、私ってば彼女に何したよ。
っつーか、不問になったし、後日正式に謝りに行ったけど、天狗全体に対して喧嘩売るような真似してたんだよね。
うーん……今更ながら天狗と関係が疎遠になって当然だと思えた。
やっぱ、射命丸からも嫌われてるんだろうな。
当たり前か……。
改めて理解し、気分が沈む。
「……まあ、とにかく新聞は控えてください。個人的に写す分にはとやかく言いません。お好きにどうぞ」
射命丸と私を交互に眺めた後でさとりはため息混じりに告げた。
苦笑いを浮かべて頷く射命丸の前に、チルノとお空が割り込んでくる。
「なにこれ?」
「これは『かめら』って言うのよ。ねえ、文。コイツ、写してやってよ!」
「あやや、分かりました。じゃあ、折角なんで二人一緒に写しましょう」
幼い二人の強引さを、むしろ待っていたかのように射命丸は嬉々として応じた。
ふう、良かった。
なんか、ちょっと射命丸と顔合わせ辛かったからね。
それなのに、何故か安堵と同時に物足りなさを感じていた私の所へ、今度は勇儀が歩み寄ってくる。
「ふふっ、面白いもんだな。あんなからくり、見たことも聞いたこともなかった」
「時代の変化に対応した妖怪です。貴女達鬼が天狗の上にいた時代は、確かに終わったのですよ」
「こら、人の哀愁の気持ちまで読むんじゃない。そういうところが無神経だぞ」
「これは失礼」
諌めながらも、勇儀は笑い、さとりは軽く肩を竦めるだけだった。
この二人も、実は意外と仲が良いんだよね。
「先代、今度はお前さんの娘に会う方が先かもしれないな」
以前、決闘の後で私が告げたことを指して、勇儀が言った。
事情を知るさとりはともかく、勇儀は無条件で私の言ったことを信じてくれているんだね。
「ああ、そうかもしれない」
「だが、私はまたお前さんとも会いたい。約束してくれないか?」
「約束しよう。私も勇儀とまた酒が飲みたい」
「ありがとう。望外の喜びだ、と――」
嬉しそうに笑いながら何かを言いかけ、そこで勇儀は言葉に詰まっていた。
なんだろう? 『と』? 続きは何?
笑顔は一変して、何か苦々しいものを飲み込むような表情になり、同時に言いかけた言葉も呑み込んでしまったかのように、勇儀は口を固く閉ざしてしまった。
思わずさとりの方を見るが、彼女は私の疑念には応えず、拒否するように目を伏せるだけである。
「……どうした?」
私は、堪らず勇儀に問いかけていた。
これまでの快活な印象とは一変して、酷く話し辛そうに視線を彷徨わせ、やがてようやく顔を上げる。
勇儀らしくない、苦悩の表情がそこに浮かんでいた。
「なあ、先代」
勇儀は躊躇い続けるように、言葉に間隔を空け、なんとか声を絞り出そうとしていた。
「お前の、足を潰したのは、私だ」
罪人が罪を告白するような声だった。
「私と戦ったことを……その、後悔しちゃあいないか?」
そう尋ねて、恐る恐る伺うように視線を向ける。
初めて見る、鬼の勇儀の姿だった。
そうか。
そういうことだったのか。
つまり、勇儀は私の怪我について罪悪感を抱いているんだろう。
そんな勇儀の反応に対する私の感想は――超! 意外ッ! だった。
ごめん、そんな相手への気遣いとか勇儀の人柄からは想像も出来ませんでした。
いや、悪い意味じゃないけどね! ……悪い意味にしか捉えられんかもしれないが。
でも、勇儀が戦いの傷に負い目を感じるとか思わなかったからさ。
なんつーか、生粋の戦士って印象だったから。
自惚れでなければ、私との死闘を誇りに思ってくれていたはずである。
そして、私の方はというと……まあ、さすがに後悔の一つもしていないかというと断言は出来ず、もう一度あんな戦いをしたいかというと正直遠慮したい。
ただ、あの戦いの後で感じた清々しさは、今でもハッキリと覚えている。
勇儀の問いに、答える言葉は決まっているのだ。
――とはいえ、深刻そうな表情の勇儀に対して、ただ単にそれを告げるだけでは十分に想いは伝わらないかもしれない。
よって、ここは偉大なる先人にまたもや肖ることにした。
古来より、互いに全力でぶつかり合った者同士が友情を結ぶことは王道の展開なのだよ!
「――『強敵』と書いて『友』と読む」
「え……?」
「勇儀。お前もまさしく強敵(とも)だった」
台詞を言い切った私は、きっと凄く良い笑顔だっただろう。
この名台詞を言えた――我が生涯に一片の悔いなし!!
そんな、今にも天に昇りそうな私の心境を、ただ一人だけ正確に理解しているさとりが傍らでジト眼で見ていた。
「友、か……」
勇儀が噛み締めるように呟く。
どうだい、良い台詞だろう。内心でドヤ顔の私。
「ありがとう、友よ」
そして、勇儀はようやく苦悩のない快活な笑みを再び浮かべてくれた。
まあ、台詞は肖ってるけど、込めた気持ちは私の本心だからね。受け取ってちょーだい。
「さて、そろそろ別れの時間です」
友情フォーエバーって感じの雰囲気を味わっていた私に、懐中時計を見ながらさとりが告げた。
紫は時間に正確だから、相手をからかう時などわざとでない限り、時間通りに迎えに来るだろう。
丁度、写真を撮り終えたらしい、チルノもやって来る。
射命丸も歩み寄り、いよいよ地底から去る時間が近づいた。
さとりと勇儀とは十分に別れの言葉を済ませている。
しかし、ここで私はふと気付いた。
地底の住人だけじゃない。地上に戻ったら、必然的に別れることになる相手がもう一人いる。
射命丸だ。
今回、彼女は私と地底との関わりを取材する為に近づいたのであって、特に用事がなければこれまでと同じように関係は疎遠になっていくだろう。
それは――なんだか、とても寂しいような気がした。
折角、こうして諍い無しで真っ当に向き合える機会に恵まれたのに。
ここで射命丸との関係は終わってしまうのだろうか。
自分でもよく分からない気持ちが湧いてくる。
子供の頃を思い出していたからだろうか。あの時射命丸とぶつかり合い、その後で告げられたささやかな言葉が、妙に鮮明に脳裏に蘇っていた。あの時感じた気持ちと共に。
あれから、私と彼女との距離は何も変わっていない。
この関係のまま、これからも過ごしていくのかと思うと、何故かそれが酷く寒々しいものに感じられた。
「ところで、射命丸さん。お別れ前に提案なのですが」
周りに悟られないように、内心の複雑な想いを押さえ込んでいた私は、不意にさとりが切り出した話に耳を傾けた。
……って、ちょっと待って。
さとりに、私の悩みって筒抜けなんじゃね?
「もう一枚、写真を撮りましょう。何、これも個人的なものですよ――」
言いながら、さとりは私を一瞥して意味深げに笑った。
◆
【天狗達のあれからとこれから】
はたての家へ文が訪れることは普段からあまり無いが、逆はよくあった。
それが、長年続いている二人の縁である。一概に『友情』や『親愛』と表現出来ない点が、この二人の難しいところであった。
とにかく、はたては酒瓶を片手にいつものように文の家を訪れた。
来訪を告げ、返ってきた返答はぞんざいに招き入れるような内容だった。
――仕事中か。
ただそれだけで、はたては状況を察した。
きっと、新聞作成の作業に集中して上の空なのだろう。
勝手知ったる家の中へ、はたては遠慮なく足を踏み入れた。
案の定、文は作業用の机に座って、今回の新聞の編集作業を行っていた。
「いつものお酒、持ってきたから」
一体いつから根を下ろしているものか。多分、今日一日は動かないだろうな、という予想を立てて、はたては酒瓶を適当な棚に置いた。
文が暇な時は、持ち寄った酒と適当なツマミでダラダラと朝まで飲み明かすのが自然な流れだった。
どちらかというと暇潰しに近いそれよりも、当然新聞に対する熱意の方が上回る。
今日は酒だけ置いて帰ろうか、と思っていたはたてに対して、しかし意外にも文は作業の手を止めて振り返った。
「そういえば、そのお酒って例の酒屋から貰ってるのよね?」
「えっ……ああ、うん。そうよ」
意外な反応に驚きながらも、はたては答えた。
「あの時の子供が酒屋を経営し始めてから、定期的に今日まで。長く続くわね」
「あはは、そうね。懐かしいわ」
思わぬ話題を振ってきた文の様子を更に意外に思いながらも、急激に呼び起こされる当時の記憶を辿って、はたては懐古の表情を浮かべた。
色褪せるにはまだまだ早すぎる。ここ百年の間で一番の出来事だった。
はたて個人にとっても、天狗という種族全体にとってもそうだ。
しかし、思い返してみれば不思議と、文との間では挙がることのない話題だった。
当時の博麗の巫女が、子供を捜して天狗の集落に近づいたのが全ての始まり。
立ち塞がる天狗を打ち倒し、挙句天狗の長まで殴り飛ばしてしまった、知られざる先代巫女の武勇伝。その第一弾だ。
そして、おそらく姫海棠はたてにとって一世一代の大立ち回りをやらかした事件だった。
「いくら恩返しって言ったってさ、義理深すぎなのよね。前々から遠慮はしてるんだけど、あの子ってば譲らなくて」
結局、騒動の中心にいた巫女に代わって、攫われた子供を助けたのは何を隠そうこのはたてだった。
当時の情勢を顧みれば、天狗が人間を助けるなど信じ難い出来事だった。
巫女が天狗の集落で起こした事件が公にはされていない一方で、この出来事は当時の人里に大きな衝撃を与えた。
周囲の人間が不審を拭いきれぬ中、再会した母と子の涙ながらの謝礼を、はたては酷く戸惑いながらも受け止めていたものだ。
あの時の縁は、月日の経った今もこうして続いている。
「恩返し、ねぇ」
照れくさそうなはたてを眺めながら、文は気付かれないように苦笑した。
この社交能力が不足した娘には、種族の壁を抜きにしたって相手の心など欠片も察せまい。
あの時の子供は、今や立派な成人男性だ。
自力で酒屋を立ち上げ、苦難の子供時代を乗り越えて成功を掴み取った男の原動力となったもの――それが目の前の鈍感な天狗にあるのだと、何よりも当人が理解出来ていないのだった。
未だに結婚して子供を作らない酒屋の店主のことは、人里でちょっとした話題となっている。
つまり、そういうことだ。
「こんな自覚のないアホに心を持ってかれたままなんて、難儀な人生だわ」
「え、何か言った?」
「いいえ、なんにも」
文は素知らぬ顔で視線を逸らした。
「文が珍しい話題振ってくれたついでなんだけどさ、ちょっと聞いてよぉ」
酒も入っていないのに、はたては本格的に居座って話し始めた。
これは失敗だったか、と半ば後悔しながらも、止まってしまった筆を進める気にもならず、文は椅子に背をもたれ掛けた。
「あの事件からしばらくしてさ、椛がやたらと大天狗にこき使われるようになったじゃない?」
「『様』を付けなさい、『様』を」
文は呆れたようにはたての言動を嗜めた。
下っ端天狗に無理な命令をしたり苛めたりするのを止める時のような、普段の二人の関係とは全く逆だった。
あの日、天魔の屋敷ではたてがある意味大暴れするのを目の当たりにして以来、文は友人の意外なこの一面を畏怖していた。別の言い方をすると引いていた。
下っ端天狗に命令することを尻込みし、人間相手に奇妙なほど心配りを見せる肝の小さい彼女が、しかし上に立つ者に対しての態度は不遜そのものだった。
特に、当時直接対峙した大天狗に対しては、呼び方一つで分かるようにあからさまである。
ある時、大天狗に対する認識をはたてに尋ねた時など『頑固ジジイ』の一言で切り捨てたほどであった。
「いい、はたて。下っ端だろうと、他の天狗の前で大天狗様を呼び捨てなんて、ましてや『ジジイ』扱いなんて絶対するんじゃないわよ」
「文の前でしかしないわよ」
自分の立場と身の程を弁えている点だけが救いである。
背筋が冷たくなるので、自分の前でも言って欲しくないが。
文はこれが自分への嫌がらせなのだと信じていた。
「それでさ、あのジジイよ。あの時からやたらと椛を顎で使うようになったじゃない。目の敵にしてるのミエミエなのよ」
「まあ、立場も低いし、あの時実際に刀向けたのは椛だけだったしね」
「だからって、やり方が陰湿じゃない。私の友達を、さあ。ホント許せないわ!」
はたては『私の友達』の部分を無意識に強調していた。
あの事件以来、はたては椛との交流を深めている。
苦手な下っ端天狗の中で、唯一例外といっていい親密さであった。
――とはいえ、傍から見る文からすれば、どうにもはたての一方的な好意にしか思えない。しかも、年季の入った社交性不足から空回り気味だ。
寡黙な椛が、テンパったはたての挙動不審な言動を黙って受け止めている形で、二人の交流は成立していた。
はたてはそれを友情と自称し、文は一方通行の想いと捉えている。
真相は、椛の鉄面皮の奥にだけ存在するのだった。
とにかく、はたては椛を可愛がっていた。
「その愚痴なら、前々から何度も聞いてるけど……」
「違うのよ、それだけじゃないのよ! この前椛と話してたらね、あの偏屈な頑固ジジイから今度は剣の鍛錬をやらされるようになったって言うのよ!」
「……それ本当?」
意外な情報に、文は思わず身を乗り出していた。
「大天狗様が椛を弟子に取ったってこと?」
「そうみたいね」
だとすれば、それは一介の哨戒天狗に対して破格の扱いだと言えた。
大天狗が持つものは、地位と権力だけではない。
彼は、かつて優れた武芸者として、天狗だけに留まらず力ある妖怪の間で広く名を馳せていた。
その彼に剣術を教えられるということは、仮にも剣士としてまさに栄転である。
これは新たなスクープか、と文ははたての話に聞き入った。
「ホントにさ、とんでもないわよね。あのエロジジイ」
はたてはバッサリと、この重要な事柄を切り捨てた。
「最初はあんだけ敵意向けておいてさ。まあ、椛が真面目に仕事をこなすのを見て考えを改めたのは分かったけどね、手のひら返しすぎ。ジジイのツンデレとかマジキショイわ! ホントにもー……あれ、文どうしたの?」
「いや、もう……どうでもいいわ。あんたの相手がたまに凄く疲れるわ」
酷く脱力した様子で頭を抱える文を見て、はたては首を傾げていた。
こいつ、もう無敵なんじゃないかな。
文は畏怖と感心を通り越して、心底うんざりした。
放っておけば、更にこの話を続けられてしまうだろうと判断し、椅子を回して半ば強引に背を向ける。
再び机に向かい合うことで、暗に『さっさと帰れ』と告げていた。
「あの時のことって言えばさあ――」
気分が乗ってきたのか、尚も昔話を続けようとするはたてを無視して、文は地底で撮った写真を吟味していた。
今回の新聞は当然、地底で得たネタを載せている。
やはり幾つかは八雲紫の検閲に引っかかって止められたが、当初の予定だった先代巫女と鬼の戦いについては当人達から許可を得ていた。
これだけでも一大スクープになるだろう。
後ろでのんきに話しているはたてが悔しがる様を思い浮かべ、文は密かにほくそ笑んだ。
「あの先代巫女も、元を正せば文と私達が育てたのよねぇ」
それは、タイミングが良かったのか悪かったのか。
文が手元の写真を一枚捲った瞬間に、はたての何気ない言葉が被さった。
神の悪戯としか思えないタイミングだった。
「あ」
理由も分からず動揺が走り、思わず手元からその写真が離れてしまう。
まるで導かれるように、それははたての足元へ滑り落ちた。
「これって――」
写真を摘み上げたはたてに、慌てて制止の言葉を掛けようとして、文は言いよどんだ。
一体、自分が何を止めるつもりなのか、一瞬分からなかったからだった。
――それを見るな、と言いたかったのか。
――何も言うな、と告げたかったのか。
迷う間に、写真を見たはたての表情が笑顔へと変わっていった。
文には底意地の悪い笑みにしか映らなかった。
「なるほど」
頷くはたてに対して、こいつは絶対に何も理解していない、と文は確信していた。
「なぁるほど。そういうこと」
大量の苦虫を噛み潰して何度も咀嚼しているような表情を浮かべる文を見つめて、一人納得したように頷く。
文は、随分と昔に死にかけた子供を連れてはたての家に駆け込んだ時のことを、何故か今になって鮮明に思い出していた。
思えば、あの時こそが全ての発端であり切欠だったのかもしれない。
何に対するものか。
多分、先代巫女を――あの人間の子供を中心とした、様々な事象や思惑に対する始まりだったのだ。
「今夜は、久しぶりに昔話を肴にして飲みましょうか?」
写真を突きつけて笑うはたての言葉には有無を言わせぬ力があった。
その写真に写っている人物は二人。
地霊殿からの帰り際になって、半ば強引に撮らされた射命丸文と先代巫女のツーショットだった。
なんとも憎らしいことに――何故憎らしいのか文自身分からないが――写真の先代は、珍しく笑顔を浮かべていた。
かつて、いやあの時。文が一度だけ見たような笑顔を。
文は酒盛りの中で、きっと勇儀と同じように尋ねてくるだろうはたての問い掛けに対する逃げの返答を、今から必死で考えていた。
例え酔っていなくても、自分が何と答えてしまうか分かったものではない。
それは間違いなく致命的な失言になる、と半ば確信していた。
――私に何も訊くな!
文は内心、意地になってそう叫び続けたのだった。
後日、『文々。新聞』は予定通り発行された。
鬼と人間との激突。
驚愕の事実は、人と妖怪を沸かせ、また先代巫女の偉大なる伝説に新たな一ページを加えることになった。
先代巫女と星熊勇儀を写した写真が紙面を飾り、それが強い信憑性を新聞に持たせる一方で、天狗社会では一時期問題となって上層部を騒がせ、そして――。
地底で撮られた複数の写真の内、個人的なものとして文の手元に残った物。
はたてにとって、長く文をからかうネタになるだろう例の写真を含めたそれらがどのように処分されたのか。
それは射命丸文当人しか知り得るところではない。
◆
【我が良き友よ】
先代達が地底を立ち去った、そのすぐ後のこと――。
さとり達は既に地霊殿の中へ戻っていったが、勇儀は一人その場に残っていた。
スキマは閉じられ、先代達の去った後には何も残っていない。
ただ一人佇んでいた勇儀は、虚空に向けて呟いた。
「――どうだ? あれが、私を負かした人間さ」
『ああ、見た。聞いた。感じた』
心の底から誇るような言葉に、応える者があった。
しかし、姿は見えない。
周囲の空気そのものが喋っているかのように、声は何もない場所から響いていた。
「良い女だろう」
『良い女だ』
勇儀は、声の主が今自分と同じものを心の中で反芻しているだろうと思った。
――『強敵』と書いて『友』と読む。
――勇儀。お前もまさしく強敵(とも)だった。
深く、染み渡るように、その言葉は勇儀の胸の内へと吸い込まれていった。
自分は、この言葉と、この気持ちを生涯忘れず、誇りとして生きていくだろう。
勇儀の浮かべる笑みは、どこまでも清々しいものだった。
『鬼相手に、あんなことを言ってのける奴がいるなんてなぁ』
虚空からの声は、実体を持たないながらも、強く羨望するような色が滲み出ていた。
誰を羨ましく思っているかは言うまでもない。
『おい、勇儀。お前ずるいぞ。本っ当に、ずるいぞ』
「羨ましいか。でも、やらん。この言葉は、私だけのものだ」
『うるせえ、馬鹿。炒り豆ぶつけんぞ』
「わははっ、愉快愉快」
酔うと性格が悪くなる、と評される勇儀だが、素面である今でも意地の悪さは相当だった。
声の響きから感じられる苛立ちを、むしろ心地よさ気に受け止める。
『ちっくしょぉ~、あの時の勝負に勝ってれば、こんな姿隠してこそこそしなくてすんだのに……』
「負けたんだから、しばらくは私の言うとおり大人しくしてろ。あいつの足を見ただろう?」
『そりゃそーだけどさぁ、じゃあいつまで待てって話だよ』
「いずれ、あいつの娘が地底にやって来る。長くてもそれまでさ」
『長くても、ってことは、それ以前に何かあるってのかい?』
「うん、まあな。勘なんだが」
そう言いながら、勇儀は奇妙な確信を抱いていた。
人間にとって、足二本はあまりに大きな不自由だ。
しかし、彼女ならば。あの先代巫女ならば、この程度で終わりはしない。
当初は自分勝手な期待と楽観だと感じていた考えを、今の勇儀は無条件で信じていた。
何よりも、先代自身の言葉が信じさせてくれた。
「安心しろ、きっとすぐにお前さんも大暴れ出来るはずさ」
『へん、鬼なら嘘を吐くなよ』
「ああ、嘘じゃない」
不確定な未来の事柄を語るのは、嘘と同じに思えて嫌いなはずだった。
今も具体的な先の出来事など、断片さえ思い浮かんでいないが――。
「嘘じゃないさ、きっと。まあ待ってなよ、萃香」
しかし、勇儀は笑って言った。
<元ネタ解説>
「お前もまさしく強敵だった」
北斗の拳のケンシロウの台詞。