東方先代録   作:パイマン

28 / 66
永夜抄編その七。


其の二十四「永夜返し」

『何とか言って下さい! 先代――!!』

 

 私に懇願する慧音の声が聞こえる。

 しかし、私は一言も口にすることが出来なかった。

 輝夜の叱責に対して、全く反論出来なかったのだ。

 私の言動は無責任だと彼女は言う。

 

 ――そうなのかもしれない。

 

 何故なら、私が妹紅に告げた助言、与えた修練は、全て他人からの借り物だからだ。

 私が尊敬する偉大な先人達に倣って、私は行動した。

 それが妹紅の為になると思ったからだ。

 事実、私は今でも私が肖った先人達の名言や行動理念は正しいものであると信じている。それらが他人を変える力があると思っている。

 そして、私の信じるとおりにそれらは力を発揮し――その結果、妹紅を苦しめているのかもしれないのだ。

 私は、私の正しさを追及するあまり、それ以外のことに考えを巡らせていなかったのではないか。

 輝夜の言うとおり、私自身の言動が周囲に与える影響を軽視しすぎていたのではないか。

 彼女が感じたように、本当に私の言葉に力が、いや肖ってきた言葉や行動に特別な影響力があるのならば――。

 

 ――私は、あまりに無自覚にそれを使っていたのではないか。

 

 永遠の命なんて、私には想像もつかない。

 百年や千年といった長い時間を思い浮かべても、何処かで『その時間にも果てがある』と考えてしまっているのだろう。

 道を知っていることと、実際に歩くことは違う。

 何より、私は死ぬことを決めてしまった人間だ。

 娘の、霊夢の為に親として死ぬことを決意し、そこに後悔もなく、信念として持ってしまった人間なのだ。

 私は、妹紅と一緒に生きてやることは出来ない。

 輝夜は『ここに蓬莱の薬があったら飲めるのか?』と尋ねたが――それは、出来ないんだ。

 いずれ死んでいなくなる人間なのに、私は妹紅のその後の人生を大きく変えてしまおうとしていたんだ。

 無自覚に。それをただ良かれと思って……。

 残された妹紅が、同じように私の残した言葉を引き摺ってどんな風に生きるのか想像もせずに。

 そして、それは慧音にも言えることじゃないのか?

 以前の春雪異変で彼女の取った行動を、私は今更ながら思い返していた。

 輝夜の言うとおりだ……。

 

「……私には、何も言う資格は無い」

 

 縋るような慧音の視線から眼を逸らし、私は呻くしかなかった。

 

 

 

 

『……私には、何も言う資格は無い』

 

 先代の呻くような返答は、慧音にとって死刑宣告にも似た絶望感を与えた。

 彼女にとって、全ての選択肢が閉ざされたに等しい。

 震えながら逃げるように視線を移せば、倒れたままの妹紅が見えた。

 そして、揺ぎ無く佇む輝夜。

 誰も言葉は無く、ただこの場の状況だけが全てを物語っていた。

 輝夜と妹紅の勝負は、妹紅の敗北に終わった。

 今日この日まで行ってきた先代の鍛錬は無駄に終わり、慧音達が妹紅と心を通わせたと思っていた日々は否定されたのだ。

 慧音はもう一度先代を見た。

 倒れ伏した妹紅を凝視しながら、しかし体はその場に縛り付けられてしまったかのように動かない。

 輝夜の言葉と視線が、先代を完全に押さえ込んでいるのだ。

 

 ――駄目か。

 

 慧音は力無く頭を垂れた。

 輝夜の叱責を全て受け入れたわけではないし、彼女の言葉が正しいとは思わない。

 何よりも悔しい。妹紅が自分や先代、そしてチルノやてゐと過ごした時間を切り捨てようとする輝夜の考え方を、到底認められはしない。

 声高く反論してやりたかった。

 しかし、輝夜の指摘した否定の出来ない現実が目の前にある。

 妹紅が傷つき、苦しんでいる理由の一端は確かに自分達にあるのだ。

 そして、その現実に対して自分はあまりに無力だと慧音は感じていた。

 あの日、妹紅が自身の抱く不安と恐怖を嘆いた時、何一つ答えてやることが出来なかった。

 もし、この場にいたのが先代ならばきっと――そう考えて、無力な自分を責めつつも、一抹の希望を先代に託していた。

 その先代が、今自分と同じように何も言えずにいる。

 

 ――今日までの全て、ここでお終いか。

 

 先代に覆せない状況を、自分がどうこう出来るはずもない。

 ならば、つまりそういうことなのだろう。

 輝夜の言葉は正しく、そして同じ立場である妹紅にとっても正しいことなのだ――。

 

「…………違う」

 

 誰もが押し黙った静寂の中、不意に漏れた一言が明瞭に響いた。

 

「何が違うのかしら? ――上白沢慧音」

 

 否定の言葉を口にした慧音に対して、視線が集まる。

 輝夜の警戒を含んだ視線と、意表を突かれた先代の視線を受けながら、慧音はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には迷いを振り切る為の確固たる決意が宿っていた。

 

「資格など……必要ない。先代、貴女はもっと妹紅に語りかけるべきだ」

 

 慧音は先代を真っ直ぐに見据えて言った。

 それまで敬うべき目上の相手としか接していなかった先代に対して初めて掛ける、叱るような言葉だった。

 

「貴女が妹紅に話した時、教えた時、如何なる考えがあったのかは私には分からない。

 しかし、それが深慮であれ、浅慮であれ、抱いた想いに偽りがないのなら――俯く必要はない。今一度、顔を上げて妹紅に言葉を掛けてやってください」

「慧音……」

「自らのエゴを貫くことを優先するということね」

 

 嘲る輝夜に対し、慧音は一歩も退くことなく向かい合った。

 

「蓬莱山輝夜、お前は私達と比べれば妹紅にずっと近い立場なのだろう。

 私達と違い、お前はずっと妹紅の傍にいることが出来る。見守り、話し掛けることが出来る。

 しかし、それでも――それは他人の言葉だ。私達と同じ、妹紅の本当の心を代弁することなど出来ない」

「あのボロボロの姿を見て、まだ何か弁論の余地があるとでも?」

「ああ、あるさ。

 生きることは、苦しみだ。永遠の命だろうが何だろうが、人の時間は平等に刻まれていく。心が何かを感じることに百年も千年も必要ない。

 周りにいる誰かの言葉や、行動で、一分一秒の間に感じるんだ。何かを与えられてほのかに暖かみを感じることもあれば、何かを失って凍えそうなこともある」

「だったら、私の言うとおり……」

「他人との繋がりを断ったお前には分かるまい!」

 

 慧音の迫力に、輝夜は息を呑んだ。

 初めて他人に気圧されていた。

 

「私は不老不死ではない。しかし、それでも人より長く生きるだろう。

 先代が亡くなられた後、何十年……いや、何百年か。いずれ訪れる別れを、私はもう十分に思い知った」

 

 春雪異変の時の記憶が蘇る。

 あれ以来、未だに見る先代との死別とその後の時間を描いた夢は、いずれ訪れる現実に繋がっているのだと分かってしまった。

 それが悲しく、不安で、何より恐ろしかった。

 その点において、慧音は妹紅と共感出来ると思っていた。

 だからこそ、あの時何も言えなかったのだ。

 慧音は傍らの先代を見つめた。

 普段の尊敬と共に仰ぎ見るような敬意は含まれていなかった。

 その瞳は弱気になった先代を叱るように厳しく、強く輝いている。

 

「しかし、貴女との出会いを後悔したことなど一度もない」

 

 悲しみと喜びを同居させたような微笑みを浮かべる。

 儚くもあり、頑なでもあり、胸の締め付けられるような笑顔だった。

 

「好きなんだ、貴女が」

 

 慧音は言った。

 敬語ではなく、対等な、同じ目線に立つ者の言葉だった。

 

「貴女の言葉は心を震わせ、行動は偉大な結果を残す――だが、何よりもそれらから伝わる貴女の気持ちが、私は嬉しいんだ」

 

 ――貴女は、誰かと向き合う時いつでも本気だった。

 

 慧音は一度眼を閉じ、最後の躊躇いを振り払うように再び開いた。

 視線は真っ直ぐに、倒れたままの妹紅へ向けられている。

 

「お前の『気持ち』を聞かせてくれ、妹紅。

 私達には、どんな選択がお前に一番良い結果を与えてくれるかなんて分からない。

 何が正しく、間違っているのか、答えはわからない。

 ただ、お前から離れるようなことはしたくない。傷つけることを恐れて、赤の他人と同じ距離にいるようなことは嫌なんだ。

 だって、私達がお前と言葉を交わし、同じ時間を過ごし、一緒にいたのは――皆、お前が好きだからやっていたんだ。立場や種族は違っても、仲間だし、友達なんだ」

 

 静寂が漂った。

 慧音の告白に、横から口を挟む者は何処にもいない。

 地に顔を伏せた妹紅の様子は分からなかった。輝夜は慧音を何か信じられないものを見るような眼で見つめたままである。

 そして、やはり黙ったまま言葉を聞いていた先代は、自分を見る慧音の真っ直ぐな視線を受けて我に返った。

 

「……さあ、先代。いつまでそんな情けない顔をしているのですか?

 しっかりしなさい。貴女は、もう言葉を尽くしましたか? 今の妹紅に、掛ける言葉はもうないのですか?」

 

 慧音の叱責は、先代の決意を促した。

 

「……肘を脇の下から離さぬ心構えで、やや内角を狙い、えぐり込む様に打つべし」

 

 倒れた妹紅へ、修行の延長であるように指導の声を飛ばした。

 

「まだ、勝負は終わっていないぞ。拳を握れるのなら、立て! 妹紅!」

「あんた達はまだ勝手なことを……っ!」

 

 苛立たしげに叫ぼうとした輝夜は、視界の片隅で変化を捉えた。

 もはやもがくこともなく、横たわったまま動かなかった妹紅が、ゆっくりと起き上がったのだ。

 輝夜達の言い合いに何一つ反応を見せなかった為、既に気絶しているものと思っていたが――今まさに眼を覚ましたのか、あるいはここまでの会話を聞いていたのか、いずれにせよ妹紅は再び立ち上がったのだ。

 それは壮絶な決意と覚悟を必要とする行為であるはずだった。

 絶えることのない苦痛と疲労が全身を蝕み、それをこの場で拭い去ることは出来ない。

 立ち上がったところで、目の前にあるのは勝敗はもちろん終わりすらない戦いが待つだけなのだ。

 

「……どうして」

 

 しかし、妹紅は立ち上がった。

 輝夜は理解出来なかった。

 

「あしたのために……」

「……え?」

「あしたのために、その一だったっけ……。

 拳の握り方、殴り方……最初に教えてもらったな。攻撃の突破口を開くため、或いは敵の出足を止める為、小刻みに打つ事……」

 

 満身創痍の状態で立ち上がった妹紅は、ぶつぶつと呟きながら、脳裏に思い描いた修行の光景を反芻するように拳を構えた。

 両腕を持ち上げ、脇を締める。

 片腕の骨を輝夜に折られていたが、関節を動かすことに支障はなかった。激痛は無視した。

 

「覚えてるんだ……」

 

 視線は輝夜を油断なく捉えたまま、妹紅は先代に言った。

 

「あんたの教えてくれたことは、全部覚えてるんだ」

 

 疲れ果てた体を少しでも回復させるように、呼吸を整える。

 呆気に取られている輝夜の一挙一動を、今一度冷静に観察する。

 残された体力と負傷の影響下で、どんな戦い方が出来るのか脳内で思索する。

 

 ――油断するな。

 ――隙を見せるな。

 ――詰めを誤るな。

 

 全て、先代に教わったことだった。

 

「先代や、慧音、チルノとてゐ……皆で過ごした一ヶ月間を、私は全部覚えてるんだ!」

 

 妹紅は力強く言い放った。

 それは目の前の輝夜に対してでもあり、周囲の全てに声高に主張するような叫びだった。

 その瞳に、消えかけていた闘志が炎となって蘇っていた。

 

「……それが、あんたの答え?」

 

 輝夜は鼻で笑おうとして、失敗した。

 笑みを形作ろうとした口元は歪み、混沌とした内心を表すような激情が浮き彫りとなって、壮絶な表情となっている。

 

「千年以上繰り返して、結局『そこ』に戻ってくるわけ!?」

「……輝夜、知ってるか? 『明日って、今』――らしい」

「うるさい、黙れ!」

「これも知ってるか? 『努力する者が、必ず報われるとは限らない。しかし、成功した者は皆すべからく努力している』 ――ってさ。いい言葉だよね」

「眼を覚ましなさい、あんたは触りのいい言葉とその場の雰囲気で誤魔化されているだけよ!」

「それからさ、まだまだあるんだ……色んなこと、教えてもらったんだ」

「黙れと、言っているのよっ!」

 

 何かに堪えきれなくなったかのように、輝夜がその場から飛び出した。

 負傷も体力も全快した状態で妹紅に襲い掛かる輝夜は、しかしただ一つ冷静さを完全に欠いていた。

 圧倒的有利な状況への油断と、それと矛盾するように内心で感じている苛立ちと焦りが、我武者羅に体を突き動かしている。

 何の技も駆け引きもなく、真正面から突っ込んでくる輝夜を前にして、妹紅と、それを見守る先代が同時に口を開いた。

 示し合わせたように同じ言葉が発せられる。

 

「――己の心を細くせよ」

 

 戦いの最中で、先代の囁くような呟きが、何故か妹紅の耳にははっきりと聞こえた。

 

「川は板を破壊できぬ」

 

 勝負の最中で、この瞬間まで思い出すことすらなかった先代の教えが、今は自然と口から出てくる。

 

「「水滴のみが板に穴を穿つ」」

 

 そして、二人の言葉が完全に一致した瞬間、妹紅の中で閃きが起こった。

 先代が『穿心』という心構えとして教えたこの言葉の意味を、今日に至るまで妹紅は理解出来ていなかった。

 今もまだ、理屈として何か分かったわけではない。

 しかし、先代と共に言葉を反芻し終えた瞬間、妹紅の脳裏に何の脈絡もなく浮かぶものがあった。

 それは紙だった。

 ただの真っ白な紙がイメージとして浮かび、それが先端から捻れ、細くなっていく様が浮かんだのだ。

 何故紙を連想し、それが細くなっていく様をイメージとして捉えることが出来たのか、妹紅自身にも分からない。

 先代から教えを受けて以来、ずっと何も分からないままだったはずなのに、頭の何処からこんなものが思い浮かんできたのか不思議だった。

 まるで頭の中へ外部から流れ込んできたかのような、唐突な閃きだ。

 しかし、妹紅は自らのイメージに何の疑問も抱かなかった。

 ただ、それを忠実に受け入れた。

 細くなっていく紙。

 それに倣うように、自らの意識もまた細く――。

 

「水滴のみが、板に……」

 

 妹紅は拳を突き出した。

 肘を脇の下から離さぬ心構えで、やや内角を狙い、えぐり込むように打ち込んだ。

 負傷し、疲弊したその一撃は、全盛時のそれとは見る影もなく衰えており――輝夜の顔面を寸分違わず捉えて、脳を貫くような衝撃を与えた。

 

「……っ!? ……っ!」

 

 予想外の反撃を受け、声もなく吹き飛ばされた輝夜が地面を転がる。

 一方の妹紅は、起死回生の一撃を決めたことに何の感慨も持たず、ただ静かに言葉を続けた。

 

「穴を、穿つ」

 

 

 

 

 ――やべえ。

 

 そんな声にならない言葉が漏れる内心とは裏腹に、魔理沙の顔は抑えきれない笑みを浮かべていた。

 霊夢との弾幕ごっこを始めてからこっち、常に集中状態を維持してきた影響で、体力的も精神的にも疲労していたが、今や全く苦にはならなかった。

 むしろ逆だ。

 

 ――本当に新しい何かに目覚めちゃったのか、わたし?

 

 逆境を乗り越えた先にある爽快感を、魔理沙は感じていた。

 眼前に迫っていた弾幕が魔理沙の傍をすり抜けるように、過ぎて消える。

 霊夢のスペルカードを一枚、完全に攻略したのだった。

 

「スペルカード・ブレイク、だぜ。霊夢」

「……そうね。一本取られたわ」

 

 明らかに疲労の色を滲ませながらも、その顔は決闘開始時よりも遥かに活き活きとしている魔理沙を霊夢はじっと見つめていた。

 その視線に、魔理沙は大きな満足感を覚える。

 

 ――それでいい、わたしを見るんだ。

 ――もう、わたしを無視なんてさせないぜ。

 

 額から流れる汗が頬を伝わる。

 博麗の巫女のスペルカードという高難易度の弾幕を切り抜け、束の間緊張状態から開放された筋肉がピクリと痙攣した。

 息一つ乱さない霊夢に対して、魔理沙が多大な消耗を強いられていることは彼女自身も自覚している。

 しかし、気分は最高に良かった。絶好調だ。

 

「見えるぜ、霊夢。眼が覚めたって奴だよ」

 

 今や、魔理沙の視界は完全に開かれていた。

 魔道書の呪いを乗り越え、本来の機能に加えて、文字通り人間を超えた特性を手に入れたのだ。

 それはアリスが課題としていた『魔法使い特有の視点』だった。

 

「弾幕ごっこの時、お前が見ていたのはこんな世界だったのか?」

 

 三次元的に飛来する弾幕は、光の雨に等しい。

 主観で見るそれらはあまりに圧倒的で、回避の為の正しいルートはおろか、時として自らの位置さえ見失ってしまうような空間だった。

 その中で、これまでの魔理沙は必死に足掻くことしか出来なかったのだ。

 しかし、今は違う。

 魔法使いとして一つ上の段階に覚醒した魔理沙は、新しい視点を手に入れていた。

 魔力だけに留まらず、周囲にある霊的な力を漠然と肌で感じるだけではなく、視覚的にも捉えている。

 前を向いていながら、背後の魔力の動きさえ『見える』という矛盾じみた感覚を捉えていた。そして、それはもちろん錯覚ではない。

 魔理沙の視野は拡大し、眼前のものを見るのではなく、遥か上の視点から自分自身さえ客観的に見下ろすような、空間把握能力に目覚めていた。

 

「一歩、お前に近づけたような気がするぜ……霊夢」

 

 魔理沙は確かな手応えを感じ、不敵な笑みを浮かべた。

 もちろん、そこに余裕は無い。当然のように油断など存在しない。

 状況が好転したとはいえ、未だ霊夢は底の知れない強敵である。

 彼女の最初のスペルカードを上手く捌けただけにすぎない。

 しかし、魔理沙の闘志はかつてない程燃え上がっていた。

 自分を真っ直ぐに見据える霊夢の視線が――自分の存在を敵として認める眼光が、酷く嬉しかった。

 

「勝負はこれからだろ? 霊夢!」

「……そうね。まだまだこれからよ」

 

 霊夢は応じ、二枚目のスペルカードを切った。

 二人の弾幕ごっこは決着することなく、予想外の方向へ火が着き始めている。

 その様子を、紫はただ静かに見守っていた。

 異変解決の為のタイムリミットは刻一刻と刻まれている。

 状況は当初の予定よりも遅々として進んでいない。

 今のところ、この場から脱した幽々子と妖夢のコンビだけが唯一まともに動けている。

 咲夜と鈴仙、パチュリーとアリスの戦いはそれぞれ離れた場所で続いており、肝心の博麗の巫女は目の前にある光景の通りだ。

 魔理沙の奮闘は、紫にとって予想外だった。

 

「素晴らしい。人間の美点ね……」

 

 恐れと諦めを殺し、ひたむきに勝利へ向けて飛翔する少女の姿を、紫は素直に称賛した。

 初めて霧雨魔理沙という人間を見た時から、彼女への評価は常に上がり続けている。

 全ての切欠は先代の推薦からだったが、なるほど確かに、彼女に認められるだけの存在のようだ。

 この八雲紫も認めよう。

 しかし――。

 

「ああ、悲しいかな。貴女は『普通の人間』でありすぎる」

 

 紫は憐れみと失望を混ぜ合わせたような声を、ため息と共に洩らした。

 

「無理なのよ、霧雨魔理沙」

 

 同じ人間でありながら、博麗霊夢と霧雨魔理沙の間に存在する決定的な違いを、紫は見抜いていた。

 

 ――『人間が空を飛ぶ』ということの非現実感を、魔理沙は本当の意味で理解していない。

 

 妖怪や妖精は空を飛ぶ――。

 それは、人外の存在だからだ。何も疑問を挟む余地は無い。

 しかし、本来ならば地に足をつけた生き物である人間が空を飛ぶということは、自然の理に逆らう異常なのだ。

 純粋に空を飛べる人間など『存在しない』

 大地から離れた法則の中で、自在に動けるような力は無いのだ。

 例えば、同じ人間の枠に入る十六夜咲夜は、種族こそ人間のカテゴリーだが、その身に宿した異能は空間にも関わるものである。彼女の感覚の一部は既に人外の領域なのだ。

 魔理沙は空を飛ぶ時、必ず箒に跨って飛ぶ。そうしなければ安定して飛べないという理由からだが、何故飛べないのかという疑問を本人は深く考えたことがない。

 紫から見れば、その理由は簡単だった。

 箒という搭乗物を基点にしておかなければ、普通の人間の感性しか持たない魔理沙は空を飛べないのだ。地上との違いから、必ず何処かの認識が狂ってしまう。

 それはあの先代巫女でさえ例外ではない。規格外の力を持つが、彼女は何処までも人間である。

 故に、本当の意味で『空を飛べる純粋な人間』という存在は紫の知る限り、例外としてただ一人しかいないのだった。

 

 ――それが『空を飛ぶ程度の能力』を持つ博麗霊夢である。

 

 人間が空を飛ぶ――その本当の意味と、それが示す特異性を、正確に理解する者は少ない。

 紫は改めて確信した。

 魔理沙は、霊夢には勝てない。

 

「貴女では無理なのよ……」

 

 未だ終わりの見えない決闘の様子から、紫は瞼を伏せることでそっと眼を逸らした。

 二人の弾幕ごっこがどれほど苛烈に見えようと、変えようもない結果が紫には見えてしまっているのだった。

 永い夜の異変は続いている。

 しかし、紫に焦りは全くなかった。

 目の前の光景から感じる意外性は本当に僅かなものであり、何の問題もなく決闘を終えた霊夢を伴って異変の元凶へ向かう予定を、既に脳内で組んでいる。

 紫はその時が来るのを、ただ静かに待っていた。

 そんな彼女の想定を本当の意味で狂わせることがあるとするならば、それはこの場ではない別の場所で起こっている出来事だった。

 魔理沙の予想外の覚醒は、確かに周囲の意表を突き、霊夢と紫の意識を彼女に向けさせた。

 故に、誰もが気付かなかった。

 異変の夜。この迷いの竹林の一角で、全く関係のない者達の作り出す状況が、異変自体にも大きく関わり始めているということに――。

 

 

 

 

 ――あ、ありのまま今起こったことを話すぜ。

 

 輝夜の指摘がもっとも過ぎて、黙り込んだまま何の役にも立たない置物になっているしかなかった私は、慧音に『好き』と言われた挙句、多分出会って以来初めての説教を受けた。

 それを切欠に一念発起し、とにかく何でもいいから妹紅に言葉を伝えようと、我武者羅に叫んでいたら、いつの間にか妹紅が逆転していた……。

 何を言っているのか分からないと思うが……って、そんな言い回しはどうでもいいんじゃ! 混乱してるな、私。

 私は半ば信じられない気持ちで、目の前の光景を見ていた。

 妹紅が負けていいだなんて、もちろん思っていない。

 しかし、勝負はほとんど決したはずだった。

 無限に再生する輝夜に対して、一度もリザレクション出来ない立場の妹紅は圧倒的に不利な状況だったはずだ。

 それが、今や完全に逆転している。

 不可解な状況が、輝夜と妹紅を中心に展開されていた。

 

「馬鹿な……どんな手品よ!?」

 

 欠けた歯を食い縛り、流れる鼻血を拭いもせず、輝夜は襲い掛かった。

 それを迎え撃つ妹紅は、一見して何の変化もない。

 満身創痍の体で、尽きかけた体力を搾り出しながら、フラフラと動くだけである。

 しかし、戦況は一変していた。

 

「この……っ!」

 

 荒々しく腕を薙ぎ払う輝夜の攻撃を、妹紅は回避した。

 ゆっくりとした動きである。いや、元々もう素早く動くことが出来ないのだ。

 まるでフラついてバランスを崩したかのような動きで、しかし結果的に紙一重で攻撃をかわしている。

 それを『運良く』などとは、私も、傍らで見ている慧音も、何より対峙する輝夜自身も思わないだろう。

 もう何度も同じことを繰り返しているのだ。これは偶然じゃない。

 ――妹紅は輝夜の動きを完全に見切り、そして最小限の動きでかわしている。

 

「何が……何が変わったっていうの!?」

「心を細く――」

「ぶつぶつと……そんなワケの分からない言葉に、何の意味があるっていうのよ!」

 

 応えるように、輝夜の我武者羅な猛攻の隙間へ妹紅の反撃が滑り込んだ。

 私の教えた正拳突きだ……!

 当時教えたまま、愚直なまでにそれをなぞった真っ直ぐな拳が、急所に直撃する。

 私の眼から見ても、その正拳突きは拳速や威力の衰えたものだった。疲労や負傷の影響が色濃く出ている。

 しかし、発揮された破壊力は絶大だった。

 拳速の遅さを最短距離の軌道を進むことで補い、衰えた威力を理想的な筋肉の緩急で収束して、逆に相手の筋肉の緊張が緩んだ箇所を正確に狙ったかのように打ち抜く。

 曲がりなりにも『百式観音』を習得した私から見ても、見とれてしまうような完璧な正拳だった。

 予想を遥かに超えるダメージを受けて、輝夜が悶絶する。

 追撃は無い。

 いや、妹紅には畳み掛けるだけの体力がもう残されていないのだ。

 そして、そんな死に体の妹紅が、今や完全な脅威として蘇っている。

 不利を悟るように、後退りながら輝夜は妹紅を睨み付けていた。

 ……いや、本当にどうなってんの? 妹紅ってば完全に覚醒してるんですけど。

 とても信じられないが、ひょっとしてこれは私の言葉が切欠になったのだろうか?

 

「信じられない、妹紅が完全に息を吹き返している……」

 

 傍らの慧音の言葉に無言で同意する。

 

「先代、やはり貴女は素晴らしい」

 

 いやいや、本当!? まさかでしょ!

 確かに、先程の慧音の叱責を受けて、私は眼が覚める思いだった。

 自分の立場や生き方に対する苦悩を棚に上げてでも、今まさに追い詰められている妹紅を黙って見ているだけなんて、絶対駄目だと思った。

 ここで尻込みするようなら、それこそ私は妹紅の存在を軽く見ていることになる。

 以前、冥界で娘の霊夢にそうしたように、弟子であり仲間である妹紅を本気で想う心のまま行動しようとした。

 想いや力を言葉にどれだけ込められるのか分からないが、とにかくありったけの心を込めて叫んだのだ。

 偉大な先人の名台詞を使うことに躊躇いはなかった。

 これらの言葉は、確かな影響力を持って多くの人々に伝えられたものなのだ。そこに込められた真理が、少しでも妹紅の力になってくれるのなら――そう考えて、伝えた。

 そして、この結果である。

 いや、最高の結果なんだけど……マジで輝夜の言うとおり、私の能力って『言霊を操る程度の能力』なの?

 その辺りの真偽はともかく、私の言葉が妹紅の力になったのなら、これ以上幸いなことはない。

 痛々しい姿の妹紅を、更に戦いに駆り立てるような声援を送ることを、私はもう躊躇わなかった。

 ……いや、本音を言うと、もう妹紅には痛い目に遭って欲しくないけど、その気持ちは押さえ込んだ。出来るもんなら、私の体を貸してやりてぇ……っ!

 しかし、今は――!

 

「勝て、妹紅。お前は勝つんだ!」

「あいよ……師匠」

 

 腫れ上がった顔で、妹紅はニヤリと不敵な笑いを私に送った。

 苛立った輝夜が、私と妹紅に悪態をぶつけながら再び襲い掛かる。

 しかし、私はもう動揺しない。

 そして、妹紅もまた押し負けない。

 勢いを増し、同時に動きの粗さも増えた輝夜の攻撃を冷静に捌き、妹紅は的確に反撃を繰り出していった。

 本当に凄いな。今の妹紅には私でも攻撃を当てられる自信が無い。

 根拠は無いが、なんかそんな雰囲気があるのだ。

 ついさっき、思わず『穿心』の心構えを口にしていたが、本当に明鏡止水とかそういった極地に至ったのか?

 いずれにせよ、妹紅は一気に強くなった。

 もはや勝負は先程とは真逆の意味で圧倒的だ。

 あとは、不死身の輝夜相手にどういった決着をつけるかだが――!?

 

「どうしました、先代?」

 

 唐突に頭上を見上げた私の視線を、慧音も釣られるように追った。

 そして、その先で私が気配を捉えたものと同じ、最悪の存在を見つけた。

 ジャーンッ! ジャーンッ! といった警鐘めいた音が私の脳内に流れる。

 予想出来得る限りで、最も厄介な横槍の登場だ。

 

「八意永琳――!」

「ヤゴコロ……あれが、蓬莱山輝夜の従者ですか!?」

 

 思わず『ゲェッ! えーりん!』と叫びそうになってしまう。

 私の視線の先には、上空で矢をつがえた弓を妹紅に向ける永琳の姿があった。

 

 

 

 

 ――気付かれたか。

 

 永琳は自身に向けられた視線を敏感に察知し、先代達に補足されたことを理解した。

 直前まで気配を殺して状況の把握に努めていたが、いざ行動を起こそうとした時に生まれた僅かな気配の乱れを目敏く見つけられたらしい。

 妹紅を不意打ちする策は、これで瓦解した。

 やはり、あの博麗の先代巫女は油断のならない相手だった――そう考えながらも、内心では悪態一つ吐かない。

 既に矢はつがえられた。あとは放つだけなのだ。

 永琳は一切の迷いや躊躇無く、狙いを妹紅へ定めていた。

 輝夜が妹紅との勝負に拘っているのは知っている。きっと、この横槍は彼女にとって非常に不本意なものとなるだろう。

 それを理解しながらも、永琳は輝夜の安全性を優先することを選んだ。

 蓬莱人にとって、肉体の損傷は問題にならない。

 しかし、精神の傷は違う。

 二人の勝負とやりとりを見聞きしていた永琳は、今の妹紅が輝夜にとって大きな負担であり脅威であると判断した。

 

 ――妹紅の生き方や考え方は、輝夜とは決定的に違う。

 ――その言動に乱されぬよう。愛しい姫よ、心安らかに。

 

 永琳は祈りながら弓を引き絞った。

 

「永琳――!」

 

 標的に集中していた永琳は、本能的に脅威を感じ取って、視線を先代達の方向へ向けた。

 

「手を、出すなぁ!」

 

 先代の両足が完全に機能していない事実を、診察することで知っていた永琳には僅かだが油断があった。

 彼女は空を飛ぶどころか立つことすら出来ない。

 しかし、その先代が高速回転する陰陽玉を投げ放ったのを見て、ようやく警戒を怠った自身の失策を自覚した。

 咄嗟に狙いを変えて、飛来する陰陽玉へ矢を放った。

 細腕からは想像も出来ない、鎧すら貫通する剛弓の一撃は、しかし玉の回転に巻き込まれてあっさりと粉砕された。逆に玉の速度や威力は全く衰えない。

 鈴仙から事前に報告は受けていたが、ここでも永琳の予想を先代は上回っていた。

 成す術なく、永琳は直撃を受けた。

 肩に当たった陰陽玉の回転が衝撃と共に拡散し、全身を駆け巡る。

 指先に至るまで肉体の自由が奪われ、弓が手から零れ落ちる。

 空中に留まることも出来ずに、永琳の体が落下を始めた。

 そこまでの流れの中で、しかし永琳は一切動揺することなく冷静に観察していた。全てを。

 

 ――不可解な衝撃の伝播。殺傷力はほぼ皆無。代わりに全身の筋肉の麻痺。各部、反応無し。行動不能。

 ――心停止。リザレクション、開始。

 

 瞬時に肉体の回復が不可能であることを悟ると、永琳は全身の内で唯一動いている内臓へ意識を集中した。

 指一本動かすことなく、意思によって自身の心臓の動きを止める。

 更に筋肉を操作し、そのまま心臓を内側へ圧迫して自壊させてしまった。

 心臓の鼓動や各種内臓の活動など、本来は人間の意思の外にある肉体の動きだ。

 常人には到底不可能な肉体への精密な干渉を、しかし永琳は可能としていた。

 恐るべき速さで判断を決し、行動に移した永琳は、落下を始めた瞬間に絶命していた。

 そして、すぐさま蘇生が始まる。

 落下しながら死滅した肉体が光を放ち、地面に叩きつけられる直前に消滅した。

 古い肉体から開放された魂は、場所を最初にいた位置に戻して新しい肉体と共に復活する。

 先代と慧音が眼を見開いて驚愕する中、状況を巻き戻すように、全く変わりのない永琳の姿が空中に現れていた。

 

「なんというっ……あれが、蓬莱人の力だというのか!」

「戻れ、陰陽玉!」

 

 一連の流れは、瞬く間の出来事である。

 攻撃に対して、防御でも回避でもない、文字通り生死を超越した反応と対処を見せる永琳に対して、二人は戦慄した。

 未だ回転の力を失っていない陰陽玉に命じる先代だったが、それが動き出すより早く、永琳が動いた。

 片手で陰陽玉を掴み取る。

 手のひらで瞬時に展開した結界によって陰陽玉を包み込み、その力を殺そうと圧縮を掛ける。

 不完全な黄金の回転の力では、その圧力に抗うことは出来なかった。

 永琳の手の中で玉の回転が停止する。

 

「興味深い力と道具ね」

 

 永琳は一抹の興味を手の中の物に抱き、それでも僅かな躊躇いもなく腕に力を込めた。

 単純な握力ではなく、結界の出力が上がって、あっという間に陰陽玉を圧壊させてしまった。

 バラバラの破片を無造作に投げ捨て、再び視線を妹紅へと向ける。

 ほんの一瞬の攻防は、幸いなことに勝負に集中する輝夜と妹紅には気付かれていない。

 弓と矢は失ったが、攻撃手段は幾らでもある。輝夜は怒るだろうが、直接勝負に乱入してもいい。

 対処し終えた先代達からは既に意識を切り離して、永琳は冷静に思考を巡らせた。

 その思考が、再度中断させられる。

 

「こっちだ――」

 

 またもや先代の動きを察知し、視線を向けた永琳は、その瞬間初めて動揺をあらわにした。

 

「永琳ッ!!」

「何……!?」

 

 氷のように冷静だった心が、驚愕によって乱される。

 裂帛の気合いを発しながら、奇妙な構えを取った先代を中心にして凄まじい力が渦巻き始めていた。

 両手を腰の横で向き合わせ、その間に霊力でも魔力でもない、不可思議な力を集中させている。

 その力は眩い光の球となって、先代の手の中に集まり続けていた。

 得体の知れない技だった。しかし、永琳にとって最も不可解だったのは、その一点に収束していく『力』の大きさだった。

 量も質も、人間が持つ限界を軽く超えている。

 しかも更に増大し、その上昇率は異常としか言いようのないものだった。

 永琳は先代に対して、かつてない驚愕と戦慄を感じていた。

 先代の両手の中で脈動するように瞬く光球は、もはや台風のように荒れ狂い、周囲にまで影響を及ぼしている。

 夜の闇を手のひらから溢れ出した閃光が引き裂き、竹林を荒々しい風が薙ぎ払う。

 生み出した自分自身さえ吹き飛ばされそうな暴走染みた力を、両足の不自由な先代は慧音に支えられることによって押さえ込んでいた。

 その圧倒的な力の塊が、今まさに放たれようとしている。

 先代の視線に射抜かれた永琳は、不死の身でありながら感じていた――動くことすら出来ない恐怖を。

 

「――怪物め」

「波ぁぁああああああああーーーーーっ!!」

 

 両手を前に突き出し、先代は極限にまで高められた力を閃光と共に解き放った。

 

 

 

 

 例えば、持っているダイナマイトに誤って火をつけてしまったとしよう。

 ――どうする?

 まあ、まずビビると思う。パニックになると思う。

 今、まさにそんな心境だった。

 

 ……ど、どうしよう?

 

 登場した永琳が、案の定輝夜を援護する為に弓を構えているのを見た私は、慌ててそれを止めようと行動を起こしていた。

 とはいっても、空も飛べず、今はまともに立つことすら出来ない私が持つ遠距離攻撃の手段など限られている。

 君に決めた! と、ばかりに袖から陰陽玉を取り出し、黄金の回転によって強化してから投げ放った。

 回転の種類は拡散型だ。

 永琳も同じ不死身であることを考えると、鈴仙にも使った無力化する方法が適していると判断したのだ。

 まあ、そうでなくても貴重な東方キャラであり、何より一度は診察で世話になった永琳を殺そうとか傷つけようとか思えるはずもない。

 どうか大人しくしてて頂戴、と願いながら陰陽玉を投げつける。

 咄嗟に放たれた矢を弾き飛ばして、狙い通りその一撃は永琳を捉えた。

 ――問題は、その後である。

 全身の自由を奪われたはずの永琳が、落下する途中で光を放ち、それが収まった時には当たり前のように元の場所に浮かんでいたのだ。

 何が起こったのか分からず、呆然とする私と慧音。

 いや、あの様子からして多分リザレクションをしたんだと思うが……どうやって!? まさかあの非殺傷攻撃で絶命したわけではあるまい。

 じゃあ、自分で命を絶った? 指一本動かせない状態だったのに?

 自力で心臓止めたとでも言うんかい! 何処のスタンド使いだ!!

 これまで出会ったどんな強敵とも違う、得体の知れない強さを感じ取って、私は戦慄した。

 

「なんというっ……あれが、蓬莱人の力だというのか!」

 

 力――まさにそうなのかもしれない。蓬莱人にとって『命』とはただの『能力』でしかないのか。

 こえー。なんかこえー。

 単純な強さ云々ではなく、私は人として永琳から恐怖を感じていた。

 妖怪とはまた違う、人間との明確な相違を彼女から感じる。同じ蓬莱人なのに、妹紅とはまた別の存在みたいだ。

 とにかく、非殺傷なんて甘い攻撃は通じないと分かった。

 慌てて陰陽玉に戻るよう命じたが、私の手に戻るより早く、永琳の手に捕らえられてしまう。

 小さな箱状の結界に包み込まれた陰陽玉は、そのまま握り潰されて永琳の手の中で砕け散ってしまった。

 

 ――お……陰陽玉ぁぁぁーーー!?

 

 殉職した相棒を見て、爆発するクリリンを見た悟空のように内心で悲鳴を上げる私。

 折角、霖ちゃんに作ってもらったのに……っていうか、二回しか使ってぬぇー!

 攻撃手段を失くした私からは既に視線を離し、永琳は再び妹紅に狙いを定めている。

 ショックを受けている場合じゃない。なんとかしないと……っ!

 しかし、陰陽玉を失くした今、空中の永琳まで届くレンジを持つ技はかなり限られる。

 衝撃波を飛ばすタイプの百式観音は、本来ならばあそこまで届く。ただ、足を負傷して以来一部の技が影響を受けて思うように使えなくなっているのだ。

 格闘技では意外と重要な体重移動などが出来ない為か、あるいは四肢を巡る気の流れが狂った為か――いずれにせよ、百式観音の威力と射程は著しく低下している。とても永琳までは届かない。

 他の手段としては、冥界で会得した霊光弾もといショットガン。だが、これも拡散することを考えれば遠距離攻撃としてはイマイチだ。

 ならば、残された手段はただ一つ――!

 

「慧音、手を貸してくれ」

「は、はい。しかし、一体何を……?」

 

 慧音に支えられて立ち上がった私は、両手を腰だめに構えて力を集中させた。

 久しぶりにやるぜ、博麗波!

 実はこの技を使う時、いつも心の中で『かーめーはーめー』と呟いているのは内緒だ。気のせいか、それやった方が威力が上がるのよね。

 もちろん、これを直撃させて永琳を葬ろうなんて考えてはいない。

 しかし、永琳が強敵であることは十分に理解している。

 生半可な攻撃では通用しない。これが防がれるか、あるいは回避されれば、次のチャンスはもう無いだろう。

 嘘か真か『原作最強キャラ』の評価は伊達ではないのだ。

 ただの博麗波では不安が残る。

 私は更に威力を高める為と、やってる当人としては一番楽しいんだけど客観的に見ると弱点でしかないこの溜め時間を短縮する為に、収束した力に黄金の回転を加えた。

 回転の対象が物体ではないが、こういったエネルギーにも黄金の回転が作用することは、初めて使った勇儀戦の時に実証済みだ。

 不完全でいい、博麗波のエネルギーを増幅する!

 

 ――そしたら、なんか予想以上のパワーアップが起こった件について。

 

「ぐ……ぉおおおおっ!」

「せ、先代! 大丈夫なのですか!?」

 

 すまん、慧音――全っ然、大丈夫じゃない!

 空気を送り込みすぎた風船のように、両手の中で膨らむ力の塊を私は必死の思いで抑えていた。

 はっきり言うと、暴走寸前である。

 いやいや、確かに増幅させようと思ったけど、これは増えすぎだろ!

 やばいよ、これ不完全な回転じゃないよ。よりによって、このタイミングで完璧な黄金長方形の軌跡で回転が成功しちゃってるよ。

 特に意識したわけではないが、黄金長方形を妹紅の体から見つけて回転させたら、それがドンピシャで当て嵌まったらしい。

 この回転に成功したのは、これまでで二度。

 一度目は不利な状態で放った一撃を鬼の肉体を貫くまでに高め、二度目は巨大な妖怪桜の力を押さえ込んで封印してみせた。

 いずれも、私が本調子ではない状態でも絶大な効果を発揮している。

 そして、三度目の今はただでさえ馬鹿でかいエネルギーを放出する技に対して、更なる増幅を狙って使ったのだ。

 その結果、得られる効果は推して知るべし、である。

 手の中に台風でも出来たんじゃねーのってくらい、高められた力は荒れ狂っている。

 それなのに、まだ増幅は止まらない。

 風船の例えは正解である。このままでは確実に破裂する!

 押さえ込むことが限界であることを悟った私は、早々にコイツを解放することに決めた。

 狙いは永琳――じゃねえ! こんな物騒なモンぶつけられるか、さすがに消し飛ぶわ!

 他の標的は……ええいっ、アレでいいや!

 新たな狙いを定めた私は、予想され得る反動の凄まじさに備えて、すぐ傍の慧音に呼び掛けた。

 

「慧音、私を支えていてくれ!」

「――っ、は……はい! 私が貴女を支えます! 任せてください!」

 

 私の頼みを受けて、慧音が抱き締めるように腕に力を込めた。

 ……何故か、顔を赤くして若干興奮気味である。いや、踏ん張る為に力んでいるんだから当然か。

 あまり関係のないことを考えている余裕は無い。

 もう限界だ。力を解き放つ。

 狙いは――あの永琳が作り出した偽物の月だ!

 いくぞっ! はーくーれーいー……。

 

「波ぁぁああああああああーーーーーっ!!」

 

 野沢雅子の脳内ボイスで叫びながら、私は増大した力を両手から一気に放出する。

 やはり予想を超える規模の光の奔流が溢れ出し、夜の闇を引き裂きながら、偽りの月に向けて一直線に飛んでいった。

 そして、その結果は――!

 

 ……。

 

 …………。

 

 …………うん、まあその、あれだ。

 

 こういう場合、本来驚くべきは敵である。

 永琳あたりが『大した奴だ……』とか『やはり天才』とか戦慄と共に称賛の言葉を呟く流れだろう。

 もちろん、永琳は私の博麗波が起こした状況に驚いている。

 しかし、私には自信があった。

 多分、やった張本人である私自身が誰よりも一番驚いている、と。

 

 ――今ので、本当に月が消し飛んでいた。

 

 なにこれこわい。

 

 

 

 

「……何なのですか、あれは?」

「さぁて、なんでしょうねぇ?」

 

 妖夢と幽々子は同じ物を見上げていた。

 停滞した夜の空を縦に割り、月まで一直線に届く光の柱である。

 地上は竹林の何処かから放たれた力の奔流は、束の間周囲を照らし出し、徐々に消えていった。

 後に残ったものは、何の変哲も無い『普段通りの夜空』である。

 

「偽りの月が……消えた」

 

 その恐るべき破壊力は、この異変の元凶である偽物の月を完全に消し飛ばしていた。

 

「あの月は作られた物――大きさも質量も持たない幻想の存在よ。

 しかし、それを破壊したあの光は、ある意味宇宙まで届く光線よりも恐ろしいことを成し遂げたわね。何の術式も法則も無く、ただ強引に『掻き消した』」

 

 内心の戦慄を分かりやすく表情に出す妖夢とは違い、幽々子は微笑を浮かべたままである。

 しかし、自身の見た光景の意味を妖夢よりも正確に理解しているからこそ、隠した内心の動揺は彼女以上のものだった。

 一体、何者があんなことをやってのけたのか――?

 

「まっ、心当たりというほどじゃないけど、自然と一人思い浮かんじゃうのよねぇ……」

「何のことですか?」

 

 妖夢の疑問を、曖昧に笑って誤魔化す。

 

「行ってみれば分かるわ。あの光の根元へ向かいましょう。疑問とその答え――きっと今回の異変の全てがそこに集まっているはずよ」

「分かりました。お供します」

 

 納得のいっていない妖夢を伴って、幽々子はその場に飛び立った。

 ――あとに残されたものは、地面に転がったチルノとてゐの二人だけだった。

 ブスブスと全身から煙を上げ、二人は揃って仰向けで夜空を見上げていた。

 弾幕ごっこの敗者の姿である。

 

「……行っちゃったみたいね」

「か……紙一重ってヤツだったわ」

「おー、難しい言葉知ってんね。使い方も間違ってない。でも、どー見ても紙一重の決着じゃねーわ。完全敗北でしょ、コレ」

 

 てゐは鼻から抜けるような笑い声を洩らした。

 冥界の姫と剣士を相手取った弾幕ごっこは、妖怪兎と妖精の即席タッグの敗北によって決着がついていた。

 別に意外でも何でもない。当然の結果である。

 この結果を予想していなかったのは、唯一チルノだけであった。

 とはいえ、てゐにとっては本来の目的である時間稼ぎが十分に成功しているので、勝負としては勝ったも同然だった。

 妹紅達がいる場所で何が起こったのかまでは分からないが、きっと何か一つの決着がついたのだろう。

 あの光を見て、てゐは根拠も無くそう感じていた。

 永琳の作り出した幻想の月は消え、再び姿を現す様子もない。

 竹林は本来の静けさを取り戻している。

 長年この場所に住んでいるからこそ分かる、いつも通りの夜の気配が戻ってきていることをてゐは感覚で理解していた。

 

「上手いことやってくれたみたいね、先代と慧音は……」

「く……っ、こんな所で寝ている場合じゃないわ!」

 

 疲労と負傷をおして、チルノが立ち上がった。

 

「あの『よーむ』って奴、あたいのことを『妖精如き』とか言いやがって! 許せないわ、リベンジマッチよ!」

「タフだねぇ、あんた」

 

 最近随分口が回るようになったチルノの負けん気に感心しながら、てゐは脱力したように寝転がったまま見上げていた。

 妖怪とはいえ、弾幕は当たれば痛いし、かわし続けても疲れる。

 妖夢の刀を使った弾幕は命の危険を感じる程の殺傷力が秘められており、幽々子の弾幕は生命力を吸い取る性質を持っていた。

 自分の仕事を終えた達成感も手伝い、てゐはどうにも起き上がる気にはなれなかった。

 その目の前に、小さな手が差し出される。

 

「いくわよ、てゐ!」

「…………はいはい、分かったよ。相棒」

 

 自分とは違って全く衰えた様子のない、元気に溢れるチルノの笑顔を見つめ、てゐは諦めたように苦笑した。

 差し出された手を握り、体を起こして、服についた埃を払う。

 

「まあ、具体的に何が起こったのか見届ける義務もあるかねぇ」

 

 おそらく特に考え無しであろうチルノに代わって理由をつけながら、てゐは幽々子達と同じ方向へ向かおうとした。

 そこで、ふと気付いてしまった。

 

「……ああ、しまった」

「どうしたの?」

 

 片手で顔を覆い、小さく舌打ちをする。

 疑問顔のチルノから眼を逸らして、鼻の頭を軽く掻きながらてゐは律儀に答えていた。

 

「あんたの差し出した手。何の疑問も持たずに、自然に握ってたわ」

「それの何が駄目なのよ?」

「駄目っていうかさ……ほら、あたしゃ捻くれてるからね」

「そんなの知ってるわよ」

「だからさ、『不覚だなぁ』ってね」

「……変なの」

 

 何故か落ち込んだ様子のてゐを見て、チルノは理解出来ないといった表情を浮かべた。

 

 

 

 

「師匠――!?」

 

 竹林の一角から光線が放たれるのを見た鈴仙は、思わずそう叫んでいた。

 あらぬ方向へ視線を逸らした姿は隙だらけだったが、あえて咲夜はそのチャンスを見送った。

 未だ弾幕ごっこの決着はついていない。一進一退の攻防だったのだ。

 しかし、もう勝ちにこだわる必要はないだろう。

 この状況――いや、もっと大局的な異変そのものの状況が変化したのだと、咲夜は冷静に察していた。

 

「『師匠』というのは、アナタよりも今回の異変に深く関わる者、あるいは首謀者そのものかしらね?」

 

 聞き取った単語を使って探りを入れる咲夜に対して、鈴仙は鋭く睨み返すことで答えた。

 先程までの勝負の中で何度も交わした、敵意に満ちた瞳である。

 ただ、今はそこに焦りが加わっていた。

 どうやら鈴仙は何らかの能力か手段で咲夜よりも詳しく状況の変化を知り、そしてその内容は彼女にとって不利なものであったらしい。

 それはつまり、咲夜にとって都合のいい流れであるはずだった。

 

「……勝負は預けるわ」

「敵を前にして逃げを打つほど悪い状況になったようね?」

「調子に乗らないことね。その『時に干渉する能力』は、穢れた人間如きが持っていいようなものではない。お前は殺す。いずれ殺す」

 

 咲夜の挑発に殺気で応えながらも、判断は冷静沈着に下す。

 見覚えのある波長の乱れによって状況が掴めなくなった永琳と輝夜の元へ向かうことを優先した。

 背後からの不意打ちを警戒しつつ、鈴仙は現場へ向かうべく背を向けた。

 

「待ちなさい」

「邪魔をするな!」

 

 思わず声を掛けた咲夜に、振り返り様ナイフを投げ放つ。

 弾幕ごっこに用いるものではない、無駄なく効率的な殺傷を目的とした攻撃だ。

 咄嗟に咲夜は飛来するナイフを掴み取った。

 時を止めるまでもない。投げるのも投げられるのも、ナイフの扱いに関しては手馴れたものである。

 

「……ナイフ、返して欲しかっただけなんだけど」

 

 咲夜のナイフを肩に刺したまま、一瞬の内に姿を消してしまった鈴仙の姿を探して視線を左右に走らせる。

 おそらくこの場を離れたのだろう。

 もう見つけることは出来ない事を悟り、咲夜は小さくため息を吐いた。

 握ったままのナイフを顔の前まで持ち上げる。

 

「ふむ」

 

 咲夜が普段使っているナイフとはまた違うタイプの物だった。

 本来の用途は投擲を目的としていない、いわゆる『コンバットナイフ』と呼ばれる代物だ。

 銀製で装飾も施されている咲夜愛用の物とは異なった、無骨な武器だった。

 

「こういうのも悪くないわね。いい趣味してるわ」

 

 対峙して以来、鈴仙に感じていた奇妙な共感がまた一つ増えた。

 親しみなど欠片もないが、何故か再会を望む気持ちを胸に残しながら、咲夜もまた周囲へと意識を切り替えた。

 異変の夜を切り裂いたあの閃光は、この竹林で争うほとんどの者達の関心を惹いたらしい。

 パチュリーとアリスも、同じように弾幕ごっこを中止している。

 霊夢は紫と合流していた。

 そして、魔理沙は――。

 

 

 

 

「あれは、母さんね」

「そうね、間違いないわ」

 

 示し合わせたように、霊夢と紫の意見は一致していた。

 天を貫く一条の光線は、二人にとって見慣れたものであるからだ。

 一度眼に焼き付けたものを忘れるはずがない――子として目指し、友として背を預けた、偉大なあの人の力なのだから。

 

「最近こそこそ何かやっていると思ったら、まさかこんな所にいるなんてね」

 

 紫は額を軽く抑えながらため息を吐いた。

 数十年来の付き合いだが、あの人間はいつだって悩みの種であり、不安の種であり、心配の種でもあるのだ。

 霊夢の方は、呆れこそしていないが、光の消えた夜空を見上げながら考え込んでいた。

 

「……母さんは、今夜の異変が起こることを知っていた?」

「まさか――とは、言い切れないのよねぇ。彼女の場合。

 いずれにせよ、予想もしない方法で異変の解決は成ってしまった。とにかく先代の下へ向かわなくては。今回の異変の首謀者も、ひょっとしたらそこにいるのかもしれないわ」

「母さんのことだから、もう殴り倒してるんじゃない?」

「……否定する材料を頂戴」

「さすがよね。赤い霧の時もそうだったけど、また母さんに先を越されちゃったわ。あたしももっと頑張らないと」

 

 素の性格からはとても想像出来ないような、向上心に溢れる霊夢の発言を聞いて、紫は眼を丸くした。

 この小生意気なグータラ巫女に、こんなひたむきな一面があったのか、と。一瞬感動しそうになったが、しかしすぐに間違いを悟る。

 

「……先代と貴女は違うんだから、目指す場所を間違っちゃ駄目よ」

 

 もはや博麗の巫女の秘術がどうかなど関係ない。力づくがここに極まった今回の異変の解決方法を顧みて、紫は内心で戦々恐々としながら言った。

 偽りの月を消し飛ばした先代巫女の力の全貌は、長年の付き合いである紫自身にも計り知れないのだ。

 その忠告に対して、霊夢は不満そうに頬を膨らました。

 

「なんであんたにまで母さんと同じようなことを言われないといけないのよ……。

 まあ、いいわ。とにかく母さんの所へ行きましょう。多分、アレを見た奴らが同じように集まるはずよ」

「そうね。先代から事情を聞き、今宵の異変を完全な形で終わらせましょう」

 

 どちらが相手を促すわけでもなく、霊夢と紫は向かうべき場所へ共に飛翔した。

 二人の姿が遠ざかっていく。

 当たり前のように去っていく二人のあとに残されたものは、決着した弾幕ごっこと地面に這い蹲るその敗者だけだった。

 うつ伏せに倒れたまま、魔理沙は震える手で地面の草を握り締めた。

 

「ま……てよ……っ」

 

 精も根も尽き果てたボロボロの体に鞭打ち、必死の思いで顔を上げる。

 一度も振り返ることなく去っていく霊夢の姿が見えた。

 敗者を顧みない、当たり前の勝者の背中があった。

 

「どうして……どうしてなんだよっ!」

 

 悔しさに任せて、握っていた草を引き抜き、地面に叩きつける。

 何の意味もない。虚しさだけが残った。

 魔理沙の視界が、溢れる涙で滲んだ。

 

「手が届くなんて、思っちゃいなかったんだ。それでも……っ!」

 

 ――わたしなりに、体を張ったんだ。危険を冒して、賭けに出た。そして賭けに勝った。

 ――そのはずなのに!

 

「わたしには、お前の影さえ踏めないっていうのか……霊夢!」

 

 ――こちらに意識を向ける価値さえ、視線を向ける意味さえ、無いというのか。

 

 魔理沙はただ、自身の全てを賭けた結果得た敗北感だけを噛み締めていた。

 霊夢への恨み辛みが生まれたわけではない。

 しかし同時に、彼女が異変の解決を優先したこと、その中心に現れた母親に関心が向いていたことなどの、行動の理由や理屈で自身を納得させることも出来なかった。

 

 ――霊夢は圧倒的だった。

 ――彼女は、負け犬の自分を置いて行ってしまった。

 

 ただ、それだけが魔理沙にとっての真実だった。

 

「お前との距離が赤の他人と同じだなんて、わたしは嫌なのに……っ!」

 

 遠く離れていく霊夢の背中を、魔理沙はただ泣きながら眺めることしか出来なかった。

 

 

 

 

 先代巫女と八意永琳の攻防。

 その結果放たれた月をも貫く黄金の閃光は、奇しくも迷いの竹林に集っていた多くの人妖の視線を釘付けにした。

 ただ二人――輝夜と妹紅だけは、そんな周囲の喧騒に全く関心を抱かず、心乱されず、目の前の相手を打倒することだけに集中していた。

 自分があらぬ方向から矢で狙われていたことなど、気付きもせず妹紅は迎え撃つ。

 自らの従者が危うく破壊の光に飲み込まれる寸前であったことなど、気にもせず輝夜は駆け出す。

 

「――ッ!」

「――ッ!」

 

 爆発するような轟音と共に先代の博麗波が放たれた瞬間、光に照らされた輝夜と妹紅の影が交差していた。

 人外の腕力を振り絞って繰り出された輝夜の拳が、紙一重でかわした妹紅のこめかみと髪の一部を削り取る。

 耳元で唸る豪腕。飛び散る鮮血。

 妹紅は恐れもせずに更に踏み込んだ。

 一呼吸遅れて繰り出された妹紅の拳は、筋肉の強張りもなく、握りは緩い。

 だが、その手の中には打撃の真理が握られていた。

 輝夜の一撃から被せるように腕を交差させ、弧を描いて襲い掛かる。

 極限の脱力から一転して生み出される一瞬の『力み』が、凄まじい破壊力となって輝夜の頭部に炸裂した。

 細く束ねられた衝撃は、まさに板を穿つが如く対象を貫く。

 首から上を吹き飛ばされるような衝撃に襲われ、輝夜は成す術もなく地面を転がった。

 一転、二転し、やがて大の字に倒れて動かなくなった。

 束の間、夜の闇を照らしていた光も消えてなくなる。

 輝夜は立ち上がらず、妹紅はその場に佇み、迷いの竹林を終わりを表すような静寂が満たしていた。

 

「……どうした、輝夜。立ち上がらないのか?」

 

 一向に動き出す気配を見せない輝夜に、妹紅は静かに問い掛けた。

 凄まじい手応えだった。妹紅の拳には、まだ輝夜を殴り抜いた感触が残っている。

 しかし、どれ程強力な一撃であろうと、蓬莱人である輝夜には決定打とはなり得ない。

 いくらでも復活出来るのだ。

 

「この勝負に終わりなんてないんだろう?」

「……分かってるくせに、何でそこまでやる気満々なのよ」

 

 虚空を見上げたまま、輝夜は呆れたように呟いた。

 打撲の痕が腫れ上がって思うように動かせない表情に苦戦しながらも、妹紅はなんとか笑みを形作ってみせた。

 

「別に、腹を括っただけさ。あんたが負けを認めるまで、何度でも拳骨を叩き込んでやる」

 

 ――例え、永遠であっても。

 

 肉体の限界を無視して、妹紅は断言した。

 その瞳に迷いは、もはや無い。

 理屈も何もなく、ただ言ったことを実行し、そして完遂することを信じきっていた。

 

「……その『答え』を、何年証明し続けられると思う?」

 

 妹紅の無謀な考えに対して、否定も反発もせず、輝夜はただ静かに問い掛けた。

 

「誰かが傍に居れば孤独は感じず、残された言葉は支えとなり、思い出は生きる希望となるでしょうよ。

 ――でも、そうやって手を変え品を変え、なんとか心の均衡を保ちながら生き永らえて……どれくらい耐えられると思う? 千年? 万年? ……永遠は、無理でしょう」

 

 そう問い掛ける輝夜の声には、これまでと違って挑発や否定の意味は含まれず、ただ老い果てたような疲労の色が滲んでいた。

 その言葉は真理である。

 人の心は、時と共に磨耗する。

 歳を経て、心は老いていく。

 決意は衰え、意志は弱くなっていく。

 魂に永遠の時間が残されているのならば、それは決して避けられない心の寿命であり、限界なのだった。

 

「この穢れた地上では、『永遠』に耐えられるものなど存在しないのよ」

「……そうね」

 

 妹紅は素直に頷いた。

 その意外な反応に輝夜は思わず体を起こし、そして見た。

 

「とりあえず、てゐより年上になるくらいまでは頑張れると思うわ」

 

 妹紅はちょっとだけ困ったように眉を顰めて、それでも笑っていた。

 しばらくの間、輝夜は呆然とその顔を眺め、やがて何もかもが馬鹿馬鹿しくなって再び地面に倒れ込んだ。

 気負いから来る全身の緊張が抜けていく。

 リラックスというよりも、何かを諦めて脱力していくような感覚だった。

 

「……負けよ」

「え?」

 

 ボソッと呟いた輝夜の言葉を聞いて、妹紅は耳を疑った。

 

「私の負けよ。もう、好きにすればいいわ。あー、もう……知らない」

 

 最後は拗ねたようにそう言い捨てて、輝夜は思考を放棄するように眼を瞑った。

 視界が閉じる前に見えたのは、優しい光で夜の闇を照らす、本物の丸い月だった。

 輝夜は眠ることにした。

 妹紅との勝負で受けた傷が痛んでとても眠れる状態ではなかったが、それを消そうとは思わなかった。

 内心で悪態を吐きながら、痛みを堪えて頑なに眼を瞑り続けた。

 まるで意地になっているように見える輝夜の様子をしばらく眺めていた妹紅は、空中から降りてくる永琳の姿に気付いた。

 横たわる輝夜のすぐ傍に降り立つ。

 永琳と妹紅が交わしたのは視線のみだった。

 言葉は無く、永琳はすぐに輝夜の容態を診ることに意識を移してしまう。

 これまでも、そしてこれからも永遠に輝夜の傍に寄り添い続ける従者の姿――。

 一人取り残される寂しさを感じていた妹紅は、不意に何かに気付いたかのように振り返った。

 

「みんな……」

 

 見知った顔が四人分、近づいてくるのが見えた。

 一方が肩を貸して寄り添い支え、あるいは二つの肩を並べて空を飛び、四人が妹紅の下へ集まってくる。

 今、一番会いたいと思っていた、大切な仲間達だった。

 妹紅は彼女達を笑顔で迎えた。

 

 

 ――夜が明ける。

 多くの者達の想い、疑問、答え、新たな問題――全てを棚上げにして、何も関わることなく時間は過ぎ、昨日は明日へと移り、月と太陽は流転する。

 ここに、永い夜の異変は終結したのだった。




<元ネタ解説>

「肘を脇の下から離さぬ心構えで~」

コミック「あしたのジョー」で、ボクシングの指導として主人公に与えられた「あしたのために~」から続く教え。その一。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告