東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編その六。


其の三十一「鬼神」

 幻想郷全てを巻き込むような異変。

 今、その戦いの中で最も規模の大きなものが、隔離された異空間の中で展開されていた。

 先代巫女と紅美鈴のたった二人が、三十を超える鬼の集団と真正面から戦いを始めたのである。

 始まりは、繰り返しからだった。

 先代巫女の放つ不可視の一撃。

 それを回避できる者はいない。

 鬼の群れの一角が、成す術も無く吹き飛んだ。

 

「糞っ、威力がさっきよりも上がっとらんか!?」

 

 なんとか直撃を免れた鬼の一匹が悪態を吐いた。

 吹き飛ばされた鬼の中には、攻撃を受け止めた腕を異様な角度に捻じ曲げられた者もいる。

 鋼に等しい鬼の腕や足を容易くへし折る威力だ。

 もし、頭にでも無防備に受ければ、首から上が吹き飛ばされてもおかしくはない。

 その恐るべき事実を悟り、鬼達は面白そうに笑っていた。

 

 ――なんということだ! 鬼が、人間を相手に、命の危機を感じることになるとはっ!!

 

 鬼達は、一斉に襲い掛かった。

 その顔には一様にして、恐れや怯みといった感情は無く、痛快さすら感じているかのような笑みが刻まれていた。

 二人を包み込むようにして進撃する鬼の群れに、今度は美鈴が弾幕を放った。

 スペルカードに沿った内容でこそあるものの、その弾は殺傷力を極限まで高めた実戦的なものである。

 人間や並の妖怪相手ならば、対集団戦において効果的な威力と手数だった。

 しかし、相手は鬼である。

 飛来する無数の弾丸を、全身に受けながら、意にも介さず突き進む。

 色鮮やかな弾幕は、鬼の鋼の肉体に弾かれ、光の残滓を残して消え、外れた物は地面を抉って空しく土煙を上げるだけだった。

 

「ヌルいなぁ! この程度、目晦ましにしか……っ!」

 

 言いかけた鬼の嘲笑が、そこで凍りついた。

 

 ――目晦まし!?

 

 頭の回る鬼の何匹かが美鈴の真意に気付いた時、既に周囲は舞い上がった土煙に囲まれ、チカチカと瞬く弾幕の残滓によって大幅に視界を遮られていた。

 

「拙い!」

 

 悪態を吐いた。

 次の瞬間、その声の主である鬼の横面に、拳がメリ込んでいた。

 目晦ましに紛れ、音も無く接近した先代巫女である。

 気の遠くなるような鍛錬の果てに刻まれた、古傷塗れの手。それを握り込み、最大の霊力を集中させて放たれた拳打が、鬼の顔を押し潰した。

 血が噴き出し、牙がへし折れ、潰れた目玉が飛び出す。

 本来ならば、即死である。

 しかし、鬼は尚も動いた。

 先代に向けて、我武者羅に腕を振り回す。

 もはや眼は見えていないにも関わらず、鬼の闘争本能が、敵を察知して肉体を反撃の為に動かしていた。

 その時既に、先代は鬼の懐まで踏み込んでいた。

 頭上を掠めていく剛腕を無視して、冷徹なまでにどとめの一撃を放った。

 

「ショットガン!」

 

 聞いたこともない技の名前を、鬼は最期の瞬間に聞いた。

 鬼の顔面を打ち抜いたものとは反対の拳に集中させていた霊力を、今度は込めたままではなく、叩き込んだ瞬間に解き放つ。

 鳩尾に打ち込まれた拳は、直撃の瞬間に散弾のような無数の霊力の弾丸を一斉に放ち、密着状態の為それを全て受けた鬼の胴体を二つに両断した。

 さすがの鬼も、これでは絶命するしかなかった。

 下半身が先に倒れ、遅れて上半身が地面に落ちる。

 それより早く、先代は次の標的に向けて移動を開始していた。

 先代の声を聞いて、すぐさま駆けつけた別の鬼の攻撃が、空しく空振りする。

 一方の美鈴も、先代の動きに倣うかのように、自らの作り出した煙幕の中で、鬼へ接近戦を仕掛けようとしていた。

 美鈴は『気』を操る能力を持っている。

 視覚に頼らず、気配を察知することも可能であり、その精度は先代に勝るとも劣らないものだった。

 完全に鬼の動きを把握していた美鈴は、標的に定めた相手の背後から接近し、奇襲を仕掛けた。

 渾身の力を込めた蹴りが、鬼の首を刈り取るように叩き込まれる。

 鬼の体が揺らいだ。

 美鈴は蹴り足を戻しながら、自らの感じた手応えに戦慄していた。

 まるで岩――いや、もっと言えば地面である。

 地面を蹴ったところで、手応えもクソもない。

 地面は不動だからだ。

 地面に蹴りを入れるタイミングも隙も何も無いからだ。

 

 ――効いていない!

 

 美鈴の確信を裏付けるように、鬼が何事も無かったかのように振り返っていた。

 予測される反撃に、思わず身構える。

 しかし、鬼は拳を振るうことも蹴りを繰り出すこともなく、ただ大きく息を吸い込んで、

 

「■■■■■■ーーーッ!!!」

 

 叫んだ。

 もはやそれは声というレベルではなく、音による衝撃波に等しかった。

 鬼は上げる雄叫び一つにすら破壊の力を宿らせる。

 咆哮が全方位に放たれ、凄まじい音と衝撃と妖力の放射が周囲一帯を吹き飛ばした。

 身構えて踏ん張っていた美鈴の体を、大きく後退りさせた鬼の咆哮は、当然のように周囲の目晦ましも根こそぎ吹き散らしてしまった。

 美鈴と先代の姿が鬼達の前にあらわになり、おまけに咆哮の影響によって一瞬の硬直状態へ陥ってしまっている。

 逆に、周囲の鬼達は仲間の雄叫びに動じた様子すらなかった。

 

「見つけたぁ!」

 

 偶然、先代の背後に位置していた鬼が、嬉々として襲い掛かる。

 それを見た美鈴が咄嗟に警告を発しようとして、自らもまた目の前の鬼に狙われていることを思い出した。

 美鈴の警告を受けるまでも無く、攻撃を察知した先代は、振り返り様に放った掌底によって攻撃の軌道を巧みに逸らす。

 美鈴は、咄嗟に手を重ねて、鬼の拳を受け止めていた。

 しかし、元より力では勝負にならないことは分かりきっている。

 両手足のバネを使って可能な限り衝撃を吸収したが、美鈴の体は後方に吹き飛んで地面に叩きつけられていた。

 重い痛みが、両手を貫通して内臓にまで届いている。

 血を吐いた。

 防御を通して、このダメージである。

 

 ――駄目か!?

 

 追撃の為に突進してくる鬼を睨みながらも、美鈴は絶望を感じていた。

 

 ――やはり、私の力では勝負にすらならないのか!?

 

 戦う前の覚悟が、揺るがしようの無い現実を前にして、早くも崩れかけていた。

 その時、鋭い叱責が聞こえた。

 

「競うな!」

 

 美鈴は、自分を射抜くように見つめる先代に気付いた。

 

「持ち味を活かせッ!!」

 

 自らも複数の鬼の攻撃に晒されながら、先代は叫んでいた。

 何よりも美鈴の為に、彼女自身も切迫した状況で言葉と想いを尽くしてくれたのだ。

 美鈴の中に燻っていた全ての不安が、その言葉で消し飛んだ。

 受けたダメージや痛みさえ消えていた。

 

「――はいっ、『師父』!」

 

 美鈴は咄嗟に、そう答えていた。

 向き直り、眼前に迫った鬼に対して、凄まじいまでの闘志と力が漲っている。

 もはや自らの弱さ、勝負の結果は二の次だった。ただ、立ち向かう意志だけが残っていた。

 しかし、ここでただ勢いのまま動き出していては、先程と何も変わらない。

 強力な妖怪としての地力――それは、自分の『持ち味』ではない。

 学ばなければならない。

 言葉少ないあの人の、貴重な助言から十も百も学び取らなければならない。

 鬼が、再び拳を繰り出してきた。

 芸の無い攻撃である。

 いや、芸など必要無いのだ。鬼の手足は、それだけで必殺なのである。

 突進の勢いを乗せている為か、先ほどよりも更に鋭く、重い剛拳を、美鈴は正面から迎え撃った。

 

 ――あの人に届かないのなら、せめて見逃さないと決心したはずだ!

 

 戦いの中で、美鈴は先代の動きを眼に焼き付けていた。

 如何に鍛え抜かれた肉体とはいえ、脆弱な人間という器で、強大な鬼を相手に『技』をもって渡り合っていた。

 あの戦いの理を、自分ならば実践出来る。

 他のどんな妖怪でも出来ない。

 しかし、あの人に認められた『技』を磨き続けてきた自分ならば、出来る。

 

 ――こう、か。

 

 飛来する、砲弾に等しい鬼の拳を、力で受け止めるのではなく、身に着けた拳法の理によって受け流す。

 咄嗟に考えて出来ることではない。

 身に刻んだ技があってこそ、初めて実現する。

 

 ――こうかっ!

 

 風を切る轟音が、美鈴の耳元を過ぎていった。

 鬼の拳が、標的を捉えることも出来ずに空振ったのである。

 美鈴は鬼の攻撃を受け流していた。

 その剛拳に触れた両掌は、皮が剥がれ、血が滴っている。

 完全な技ではなかった。

 しかし、受ければ致命傷となる一撃を、確かに捌いてみせたのだ。

 

「こうですね、師父!」

 

 先代が返答出来るほど悠長な状況ではないと分かっていながら、美鈴は歓喜を言葉にせずにはいられなかった。

 得体の知れない原理によって攻撃をかわされた鬼は、苛立たしげに唸りながら、もう片方の腕を振り抜いた。

 それを再び受け流す。

 しかし、すぐさま次の攻撃が迫る。

 なんとか、それも受け流す。

 攻撃に触れている両手が削り取られ、鮮血が飛び散った。

 なんという不恰好で、稚拙な技だ。到底あの人には及ばない。

 しかし――。

 しかし、悪くない。

 この痛みは悪くない。

 この傷も悪くない。

 ズタズタになっていく両手が、妙に頼もしい。

 必殺の一撃が、『一撃』どころか次から次へと迫って来る。

 その鈍重そうな巨体に反して、恐ろしく速く、間断のない連続攻撃だった。しかも、体力が無尽蔵であるかのように手を休めない。

 眼で見てから反応していては、到底捌き切れない。

 

 ――考えるな、感じるんだ。

 

 美鈴は、かつての先代の教えを反芻していた。

 一瞬の判断ミスが命取りとなる窮地において、絶大な信頼を持って、その言葉に従う。

 相手の動きを予測することを放棄し、自らの感性だけに全ての意識を傾けた。

 眼で見えないものを気配で感じ取る。

 そして、その感覚を一瞬も疑わない。

 全てを委ねる。

 鬼の放つ嵐のような連打の最中で、美鈴は手を動かし、足の位置を小刻みに変えて、眼と耳で捉え、肌で感じて、勘で判断した。

 一撃で美鈴の肉体を砕くはずの攻撃が、全てその寸前で捌かれていく。

 あらゆる角度から放たれた拳が、あらゆる角度から逸らされていく。

 幾重にも重ねられる攻防。

 

 ――もっと速く逸らせ。

 ――もっと巧くいなせ。

 ――もっと。

 ――もっと。

 

 受け流され、空振りした攻撃は次の攻撃までの間に僅かな遅れを生み、それが幾度も繰り返された結果、ついに美鈴の動きが鬼の速さを超えた。

 一つの攻撃を捌き終えた後、一手、美鈴の動きが先んじた。

 連撃の隙間を縫うように放たれた左の掌底が、鬼の下腹を強かに叩く。

 頑強な肉体を貫くような威力は無い。

 しかし、当たった箇所から衝撃が拡散し、鬼の肉体を硬直させた。

 動きが止まる。

 それによって、攻守が入れ替わる。

 しかし――そうはさせない。

 そう言わんばかりに、鬼は動かない四肢に代わって、大きく口を開いた。

 再び、あの咆哮を放とうというのだ。

 放たれれば、再び攻守は逆転する。

 美鈴は、その行動を読んでいた。

 いや、待ち構えていた。

 右手が貫手の構えを、既に取っている。

 その手を、開いた鬼の口内へ鋭く突き込んだ。

 ズラリと並んだ牙が皮膚に触れて、幾筋もの傷をつけた。

 しかし、そんなものは文字通り歯牙にも掛けない。

 渾身の力を込めた貫手は、鬼の喉奥にまで突き刺さった。

 如何に鋼の肉体を持つとはいえ、内部はその限りではなかった。

 両目を見開いた鬼が、血と共にくぐもった悲鳴を吐き出す。

 

「華符『破山砲』!」

 

 突き刺した手の中で、弾幕が炸裂した。

 口内で起こった爆発には、さすがに鬼も耐え切れず、上顎ごと頭部を内側から粉砕された。

 美鈴が血塗れの手を引き抜くと同時に、力尽きた鬼が倒れ込む。

 その手の血は、鬼の物だけではない。

 狭い空間で爆発に巻き込まれた手首から先が、無残にも傷だらけになっていた。何本かの指が、奇妙な形に折れ曲がってしまってもいる。

 しかし、美鈴はその傷に頓着しなかった。

 折れた指を捻じ曲げ、無理矢理拳を作って中へ握りこむ。

 人間ならば、深刻なダメージだ。

 しかし、妖怪ならば、指の一本や二本、惜しむような傷ではない。

 

「持ち味、活かします」

 

 美鈴は、先代の教えに対して、不敵に笑いながら応えていた。

 自分は妖怪である。

 中途半端な強さしか持たない、中途半端な妖怪である。

 しかし、その半端な妖怪としての特性が少しでも利になるというのならば、使わない手は無い。

 自分に使える全ての力と技を駆使する。

 死力を尽くす。

 全ては、そこから始まる。

 その先に、あの人がいる――。

 

「師父!」

 

 一匹だけとはいえ『鬼を倒す』という快挙を成し遂げた美鈴は、それを実感する間も無く、次の行動を起こしていた。

 先代に群がる鬼の集団に向けて、駆け出す。

 やはり、周囲の鬼達は先代だけを脅威の対象として見ており、美鈴にはさして注意を払っていない。

 それを不満に思うほど、美鈴は自惚れてはいなかった。

 そんな悠長な余裕が持てる状況だと楽観もしていなかった。

 力と数で圧倒的に劣る自分達が勝る数少ない要素は、まず『連携』である。

 跳躍した美鈴は、先代の背後に迫った鬼の脳天に目掛けて蹴りを振り下ろした。

 

 ――『降華蹴』

 

 弧を描いた蹴りの軌跡が、虹色の残滓を放つ技である。

 真上からの衝撃を受けたその鬼は、無様にも地面にへばり付く形となった。

 もちろん、それが致命傷になったとは思わない。

 美鈴の呼びかけに反応し、振り返った先代と視線が一瞬絡み合う。

 以心伝心が出来るなどという思い上がりは抱いていない。

 ただ、先代巫女の強さを疑っていないだけだった。

 美鈴は、そのまま叩き伏せた鬼を無視して、先代が対峙していた正面の鬼に向かっていた。

 そして、入れ替わるように、振り返った先代がそのまま倒れた鬼へ追撃を加える。

 うつ伏せに倒れた鬼は、あまりに無防備だった。

 先代が祈る瞬間を、誰も見極めることは出来なかった。

 渾身の『百式観音』が、後頭部の一点に寸分の狂いも無く打ち下ろされ、鬼の頭を微塵に粉砕する。

 叩き込まれた衝撃が、地面を抉り、激震させた。

 一方の美鈴は、背を向ける形になった先代の隙を守るように弾幕を放っていた。

 ダメージを受けるほどの威力は無くとも、手数は圧倒的である。

 光の波に押し戻されるように、迫っていた鬼達は後方へ下がらざるを得なかった。

 その隙に、先代が素早く次の敵に備えて体勢を立て直す。

 美鈴の背中に、先代の背中が触れ合った。

 

「美鈴、助かった」

 

 先代が言葉少なに礼を言った。

 それを聞き、美鈴は全身に痺れるような感覚を味わっていた。

 震えるほどの歓喜だった。

 

「いえ……」

「苦しい戦いになりそうだ」

「いえ、苦しくなんかありません」

 

 美鈴は嘘偽りの無い本音を答えていた。

 震えが止まらなかった。

 頬は紅潮し、指先に至るまで、ぶるぶると震えている。

 疲れではなかった。

 恐怖でもなかった。

 美鈴には、その震えの正体がはっきりと分かっていた。

 

 ――これは歓喜の震えだ。

 ――私の肉体が、腹の底から、手足の指先や毛先の一本に至るまで、喜びに打ち震えている!

 ――この人に出会ってからの十数年間、鍛え続けてきた力と技が、ようやく目覚めの時を迎えて歓喜しているのだ!

 ――私は、今、この人と肩を並べて戦い、背中を守って立っているっ!!

 

 美鈴は傷だらけの拳を握り締めた。

 その傷は、自身の技が未熟であることの証だ。

 しかし、それを恥だとは思わなかった。

 あの人の手と似ている。似てきている。

 その事実が嬉しくすら感じた。

 無限に湧いてくる力が、今やそこに宿っていた。

 美鈴は、口元を釣り上げて笑った。

 

 

 

 

 驚くべきことに、鬼との集団戦は、とりあえず順調な滑り出しを見せていた。

 開戦の合図となる『百式観音』

 更に威力を振り絞るつもりで集中してみたが、これでも倒せた鬼はいない。

 まあ、とりあえずこれは予想済み。もう、こいつらの耐久力と防御力を常識で測るのは止めた。

 真正面から警戒された状態で放っても、十分に通じない。

 もちろん、防御は間に合っていないし、そういう技なのだが、精神的な面で『覚悟』みたいなものを固めていると耐えられてしまうようだ。

 これはただの精神論ではない。

 腕などの防御方法こそ間に合っていないが、攻撃に対して備えると肉体が硬直する。

 これは鬼に限ったことではない。人間も持つ当たり前の反射行動。腹筋を固めて、ボディブローを受けるのと同じ原理だ。

 そして、素の状態で並外れた頑強さ持つ鬼の場合、その肉体の反応がそのまま防御手段として成り立ってしまうのだった。

 簡単に言うと、肉体の強度が鋼に変わる。

 ……何、そのチート性能。

 身体能力が根本からして違う。

 こっちは両腕に全霊力を集めて防御しても耐え切れる自信なんて無いのに……。

 詰まるところ、鬼の防御力を抜くには、力を抜いている箇所を狙うか、意識外から不意を突くしかない。

 しかも、生半可な攻撃では駄目だ。一発に全身の力を乗せるくらいの勢いじゃないと。

 攻撃が全く効かないというよりは遥かにマシだが、それでも苦しい条件下での戦いが始まった。

 案の定、数を武器にして襲い掛かってくる鬼ども。

 百式観音の力を拡散させて、複数の標的を狙うことは出来るが、その場合のデメリットは勇儀との戦いで判明している。

 中途半端な迎撃では体力の無駄使いになるだけだ。

 威力を保持する為に、少しでも力を収束しておきたい私としては、相性最悪の戦法だった。

 さて、どうしたものか――と何処かのんきに悩んでいると、美鈴がナイスな援護をしてくれた。

 弾幕による目晦まし。

 そ、その発想は無かった……っ! 弾幕使えないから当たり前だけど。

 私ってばマジ『真っ直ぐ行ってぶっとばす』だけの脳筋ね。

 煙幕に乗じて、気配と足音を消しながら適当な標的に近づく。

 ふふふ、気を読んで動きを掴むZ戦士達の戦い方を参考にする私には、煙幕など無意味!

 狙い通り、渾身の拳を不意を突く形で叩き込むことに成功した。

 物凄い手応え。思わず『やったか!?』と叫んでしまいそうになる。

 しかし、やはり鬼は普通ではなかった。

 どう見ても頭が半分以上潰れた状態で、反撃してきたのだ。

 くそっ、防御力は勇儀以下のようだが、このしぶとさはそれでも十分厄介すぎる。しかも、同じようなのがまだまだたくさんいるときたもんだ。

 事前に覚悟していなかったら、一瞬戦意が萎えていたかもしれない。

 しかし、私はこの結果をある程度予想していた。

 トドメの後に、更に駄目押しのトドメを用意でもしておかないと、安心出来ない。

 私は攻撃をかわしながら、打ち込んだ拳とは逆の拳を繰り出した。

 最初の一撃も限界まで霊力を集中させていたが、こっちの拳はそこへ更に時間を掛けて力を集約させ続けていたものだ。

 そいつを、一気に解き放つ。

 うおおおっ、食らえ! 正式名称は『霊光弾』だけど横文字カッコいいからこっちを叫ぶぜ!

 

「ショットガン!」

 

 文字通り、至近距離で撃ったショットガンの如く、霊力の散弾を全て受けて、敵の胴体が二つにぶっ千切れた。

 やっと一匹撃破!

 つまり、合計二匹撃破!

 あと敵の残りは……いっぱい! よしっ、解散!

 思わず家に帰りたくなる。

 しかし、戦況はそんなボケる余裕すら与えてくれなかった。

 美鈴の戦っている方向から、物凄い雄叫びが響いたかと思うと、声と一緒に衝撃波が周囲一帯を駆け抜けたのだ。

 全身がビリビリ震える――なんて生易しいものではない。反射的に踏ん張らなければ、吹き飛ばされていたかもしれない。

 当然のように、辺りにたち込めていた土煙などは一瞬で吹き払われてしまった。

 ……雄叫び一つで弾幕を放てる勇儀に比べれば可愛いものだと思ってしまった私は、大分常識がズレてきているようだ。

 それでも、拙い状況なのは変わりない。

 

「見つけたぁ!」

 

 丸見えになった私に向けて、鬼が一斉に襲い掛かってくる。

 例の刃牙理論によって、三体以上に囲まれることはないが、それでも三対一というのは不利すぎる状況だ。

 動きの速さでは私の方が勝っているようだが、なんせ手数が違う。

 二本の腕を持った敵が三体。一呼吸で六発の拳が飛んでくる。……あ、こいつ腕が四本ある。

 まぐれ当たりの一発だって通せない緊張感。

 私は防戦一方だった。

 むむっ、自惚れるわけではないが、私でさえこんなキツイ状況なんだから美鈴はもっとヤバイかもしれない。

 案の定、チラッと視線を逸らしてみれば攻撃を受け止めて吹き飛ぶ美鈴がってうお危ね掠った!? ……わ、私も余計なことに気をやる余裕はなさそうだ。

 手助けは出来ない。

 かといって、美鈴を見捨てるなんて論外。

 焦った私は、毎度の如く『困った時の偉大な先人頼み』を使って、美鈴に声を飛ばした。

 

「競うな! 持ち味を活かせッ!!」

 

 切羽詰った状況で、咄嗟の助言とするには、あまりに無責任な精神論だった。

 ごめん……でも、正直これくらいの台詞しか思い浮かばなかったから。

 悠長に技を教えるとか出来ないし、それを言葉にして説明出来るほど頭も良くない。

 漫画に出てくる師匠役のように、何か深遠な意味を持つ一言で、相手に『そうか、そういうことか!』みたいな覚醒を促す展開になど出来ないのだった。

 ……こうして改めて考えてみると、私って何か教えるのに向いてないな。妹紅の時も薄々感じてたけど。

 とにかく、想いだけはありったけ込めて美鈴にエールを送った。

 

「こうですね、師父!」

 

 ――そしたら、美鈴が本当に覚醒した件について。

 

 えっ……何、その烈海王ばりの鉄壁防御。

 中国拳法らしい手捌きで、鬼の連続攻撃を尽くいなしたかと思うと、再び咆哮を放とうとした瞬間を逆に好機に変えて、貫手をぶっ刺した。

 そして、駄目押しの弾幕である。

 人間の私では躊躇してしまうような、ダメージと引き換えの攻撃を、美鈴は迷うことなく決行したのだ。

 頭の半分を吹き飛ばされた鬼が、倒れる。

 これで三匹。

 予想外の戦果だったのは敵も同じだったらしく、私が美鈴に気を取られて隙を見せたにも関わらず、鬼達も同じように美鈴に意識を奪われていた。

 この場の主導権を握った美鈴が、更に間髪入れず動く。

 私の方へ駆けつけてくる。

 背後から襲おうとしていた鬼の脳天に蹴りを食らわせて地面に這い蹲らせると、一瞬視線を交差させて、そのまま私の横をすり抜けるように走った。

 

 この時――私には、美鈴の意思がしっかりと伝わっていた!

 

 ……嘘。

 ごめん、さとりと違って心とか読めんし。

 でも、美鈴の行動とその意図は読めていた。

 美鈴と入れ替わるように、互いの標的をスイッチして振り返る。

 私が狙うべきは、美鈴が隙を作ってくれた、背後の鬼だ。

 代わりに私は、これまで対峙していた敵に無防備な背中を晒すことになるが、躊躇はしない。

 渾身の『百式観音』を打ち下ろす!

 当然、効かないわけがない。鬼の頭はペシャンコになった。

 これで、四匹!

 背後で文字通りの弾幕を張って牽制してくれた美鈴と、自然と背中合わせになる。

 

「美鈴、助かった」

「いえ……」

 

 ふっ、まさかこうも上手く連携が取れるとは思わなかった。

 それもこれも、私自身密かにチームワークの練習をしていた成果だな。

 

 ――現実ではなく、脳内で!

 

 もっと細かく言うと、知ってる漫画とかアニメのそういうワンシーンを自分に置き換えて、イメージトレーニングしていたのだ。

 だって、憧れだったし……。

 まあ、今日に至るまで現実で行えたためしが無いから、完全に妄想の域だったんですけどね。

 誰もやる相手いないんだもの。

 現役時代の紫がそれっぽい立ち位置にいたが、正直二人掛かりで戦う機会なんてほとんどなかったもんね。

 当時はヴァッシュとウルフウッドみたいに、二人で背中合わせの戦いをしたいと日々妄想していたものだ。

 その妄想が今! 美鈴のおかげで現実になっている!

 

「苦しい戦いになりそうだ」

 

 いや、大したことないか。今夜は私とお前で――と、言ってみたいと思っていた私は、肩越しに美鈴の表情を見た。

 美鈴は笑っていた。

 しかも、なんか『ニィィッ』って感じの、笑い方だった。

 ……美鈴、覚醒しすぎじゃね?

 それ、美女が浮かべる表情じゃなくね?

 ちょっと怖いんですけど。

 い、いや……それは同時に頼もしいって意味でもあるんだけどね。

 私は、ひょっとしてとんでもないことを言ってしまったのではないかと不安になりながらも、そこから目を逸らして戦いに意識を向けた。

 鬼の群れと向かい合っていた最初とは違い、今は周囲を囲まれている状況だった。

 目の前の威圧感は減ったが、陣形的には更に追い込まれた形になっているだろう。

 先程の一連の出来事で、美鈴にも注意を払うようになっているみたいだし、四匹倒したとはいえ、相変わらず数は圧倒的に不利だ。

 予想外のフォローもあって、まだまだ体力に余裕はあるが、油断は到底出来ない。

 上手く立ち回らないと、一気に押し潰されてしまう。

 とりあえず、生――といった感じに軽い判断で、私はお決まりの『百式観音』をぶっ放した。

 開幕ぶっぱオイシイです。

 でも、敵の一角を切り崩すのに実際有効だし。

 私の攻撃と同時に、背後の美鈴も動き出す。

 攻撃する前に、軽く手のひらに触れて、合図を送っていたのだ。

 美鈴は、その意図を正確に読み取ったらしい。『分かれ』って方が無理があるのに、察してくれる美鈴マジ私の嫁。

 私の背中を守るように美鈴が立ち回り、私の一撃で正面の人垣ならぬ鬼垣が崩れ――ない!?

 

「何!?」

 

 私は思わず驚愕の声を洩らしていた。

 この一撃で倒せないにせよ、反応の追いつかないこの攻撃を防ぎ切ることも出来ない、と半ば確信していた。

 というか、この戦いで既に二度実践出来ている。

 鬼の巨体であっても、不意打ちの衝撃波には吹き飛ばされるしかないはずだ。

 しかし、直撃を受けた鬼達は僅かに後退ったあとで、すぐさま私目掛けて突進を開始したのだ。

 馬鹿な……効いてないのか!?

 いや、そんなはずはない。

 現に、向かってくる鬼達は一様に眼で見て分かるほどのダメージを刻んでいる。

 中には、気絶しているのか、頭がガクガクと揺れている鬼もいる。

 そんな状態なのに、敵は勢い良く私に押し寄せてくる。

 

 ――そこで、私はようやく気付いた。

 

 なんて奴らだ……。

 攻撃を受けた鬼自身が踏み堪えたわけではない。

 そして、そいつら自身が今私に向かって突進してきているのではない。

 全て、別の奴がやっている。

 背後に控えた仲間の鬼が前列の奴を支えて、吹き飛びそうな体を押さえ込み、そのまま前進を始めたのだ。

 丁度、仲間の体を盾にする形で――!

 

「いいぞぉ、突っ込め!」

「一発ぐらい耐えてみせるわ!」

「もう形振り構うな! 俺達ごとあの巫女をグチャグチャにしろっ!!」

 

 恐ろしい雄叫びを上げながら、鬼の群れが突っ込んでくる。

 しかも、それを叫んでいるのは盾にされている奴らだ。

 仲間の為に犠牲になる尊い精神とか、そういう生温い考えでやってるんじゃない。人間の私には理解出来ない、もっと恐ろしい何かが奴らを突き動かしている!

 もはや戦いの為の理屈もクソもなかった。

 突っ込んできた鬼達は、私の眼前で盾にしていた仲間の体を物のように投げつけ、自らもまた体そのものを武器にするように飛び掛っていた。

 こんなの、もう技じゃない。

 自分そのものを使った、肉弾特攻だ!

 降り注ぐ巨岩の如き無数の鬼を見上げて、私は猛烈な死の予感を感じていた。

 やばい! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬっ!!?

 迎撃不能。

 防御不能。

 回避不能。

 となると……残された手段は一つ! っていうか、選んでる暇もねえっ!

 

 ――『界王拳』! ……さ、三倍だァァァーーーッ!!!

 

 

 

 

「師父……っ!?」

 

 突然起こった地響きに視線を走らせれば、そこには先程まで感じていた先代の気配と姿は無く、鬼の巨体が幾つも不恰好に積み重なっている。

 どういう戦法でもない。

 どういう技でもない。

 ただ、その巨大な肉体が秘めた圧倒的な頑丈さと重量によって、先代を押し潰したのだった。

 人間である先代に対して、最悪の攻め方である。

 

「師父!!」

「余所見をする余裕が……あるんかい!」

 

 美鈴には、下敷きになった先代を助け出すどころか、案じる余裕すら与えられなかった。

 意識を逸らした瞬間に、対峙していた鬼が両腕を振り下ろしてきた。

 咄嗟に横に跳び、かろうじて回避する。

 叩きつけられたハンマーのような一撃が、地面を大きく抉り、激震させた。

 地面を転がって距離を取った先に、しかし別の鬼が待ち構えている。

 踏み潰さんと迫る巨大な足の下を、転がる勢いを殺さずに、曲芸染みた動きですり抜ける。

 すぐさま立ち上がり、構えを取ったが、美鈴の集中力は半ば掻き乱されていた。

 

 ――あの人が死ぬはずがない!

 ――しかし……あの状況はっ。

 

 積み重なって一塊となった鬼達は、まるで巨大な岩石に見えた。

 もはや『攻撃を受け流す』といったレベルの話ではなく、技でどうこう出来る質量ではない。

 例え、先程の落下で押し潰されていなかったとしても、人間の肉体が耐え切れるか――。

 そして、生きていたとして、脱出の手段はあるのか――。

 

「返事を……」

 

 美鈴は声を絞り出した。

 

「返事をして下さい、師父!!」

 

 祈りであり、嘆きでもある、必死の呼び掛けだった。

 それに答える声はない。

 当たり前だ。

 周りの鬼達は、そう思っていた。

 美鈴さえ、薄々とそう感じていた。

 あれは、助からない。

 あの瞬間逃げられなかったのだから、この状態からも逃げられない。

 あとはもう、生きていたとしても、動けなくなった先代を嬲り殺しにして終わりだ――。

 

「……む?」

 

 最初に異変に気付いたのは、周りの様子を伺う余裕のあった鬼の一匹だった。

 次に気付いたのは、美鈴だった。

 今の彼女に視線を逸らす余裕などないが、気配を感じ取ることで、異変を察知したのだ。

 

 ――積み重なった鬼の山が、揺れている。

 

 小刻みな震えが、あっという間に大きくなり、まるで噴火する寸前の火山のように下の方から蠢き始めた。

 肉体と肉体がみっちりと重なった巨塊が揺れ、動き、亀裂のような隙間が所々に出来上がる。

 積み重なった鬼達を、動かすものがある。

 

「……ぅ」

 

 積み重なった塊の一番下から、それを浮かび上がらせる得体の知れない力がある。

 

「……ぉぉ」

 

 隙間から、唸り声にも似た人の声が洩れ始めた。

 

「……ぉ、ぉお雄々おおぁあ嗚呼あああああああああああっ!!!」

 

 次の瞬間、山が噴火した。

 真下で爆発した『力』としか表現出来ないものによって、積み重なっていた鬼達の体は空高く吹き飛ばされていた。

 そこに立っているのは、人である。

 鬼の如き人である。

 下敷きになったはずの先代巫女が、圧倒的な力の放出によって巨大な質量を押し返し、立ち上がっていた。

 

「し、師父……!」

 

 美鈴は、喜び以上に、驚愕と畏怖を同時に感じていた。

 先代の姿は一変していた。

 筋肉に火でも点ったのかと思うほどに全身が紅潮し、活性化した血流を表すかのように鼻血を噴き出している。

 細かい傷が所々に出来ているが、そこから流れる血が皮膚に触れた途端蒸発して、赤い煙となって立ち昇っていた。

 先代の体が、異常なまでの熱量を放っている。

 そして、熱はそのまま力に繋がっていた。

 美鈴が感じている『気』や『霊力』といった、とにかく『力』に部類するもの全てが、先程までの先代の比では無い。

 鬼達を吹き飛ばしたのは、筋力だけでなく、溢れんばかりに放出されたその『力』そのものだった。

 

「こやつ……本当に人か!?」

 

 美鈴の内心を代弁するように、鬼の一匹が戦慄と共に口走った。

 それが、その鬼の命運を決めた。

 雄叫びを上げ、天を仰いでいた先代が、声に反応して、唐突に顔を向けた。

 深く腰を落とした前傾姿勢になる。

 既に、その血走った眼は標的を睨んでいた。

 空高く舞い上げられた鬼達が、思い出したかのように地面に落ちてくる。

 

「――しぃっ!」

 

 次の瞬間、先代は駆け出していた。

 弾丸のような加速である。

 地面を蹴り砕くほど勢いをつけた初動を、誰も捉えることが出来ない。

 気がついた時には、先程声を上げた鬼の顔面を、先代の飛び蹴りが打ち抜いていた。

 鬼の巨体が、軽々と後方へ吹き飛ぶ。

 それを追って、更に先代が跳ぶ。

 背後で、ようやく落下した鬼達の達の体が音を立てて地面を転がる。

 

 ――全ての存在と事象が、先代の動きに追いついていない。

 

 自らが蹴り飛ばした鬼に追いつくと、先代はだらりと力無く伸びきった足を掴み取った。

 抵抗は無い。

 いや、既に命が無い。

 蹴りの直撃を受けた鬼の顔面は、グチャグチャに潰れ、大きく陥没していた。

 即死だった。

 足を掴んだまま、踏ん張って制動を掛けた。

 先代が止まった場所は、丁度鬼の群れのど真ん中。

 文字通りの敵中である。

 その場で先代は、自分自身を中心にして掴んだ鬼の死体を全力で振り回した。

 独楽のように回転する。

 ジャイアントスイング――いや、その出鱈目に加速した回転は台風か竜巻に等しかった。

 圧倒的な力によって周囲の鬼を薙ぎ払い、吹き飛ばしていく。

 吹き飛んだ鬼が、更に周囲の建物に突っ込み、崩落させる。

 

「……出たぞ」

「出おったぞ! あの人間の『鬼』が表に出おったぞぉ!!」

「あの時と同じだ! 勇儀を倒した、あの時と――!」

 

 仲間の死体に殴り飛ばされ、宙を舞う鬼。

 それを呆然と眺める鬼。

 全ての鬼が、笑うことさえ忘れて震えていた。

 

 ――これが、あの星熊勇儀を打ち倒した人間の本当の力かっ!

 

「うぅ……うぉおおおおっ!!」

 

 成す術も無く仲間が薙ぎ倒される光景を目にしていた一匹が、雄叫びを上げて突っ込んだ。

 その時、その鬼は勇ましく叫ぶのではなく、あろうことか萎縮する自らを奮い立たせる為に必死で声を振り絞っていたのだった。

 周囲を薙ぎ払う回転に対して、唯一接近出来る頭上から襲い掛かろうと、大きく跳び上がる。

 それを察知した先代は、振り回していた鬼の死体を、回転の勢いをつけて投げつけた。

 信じ難い程の力で振り回され、周囲に散々叩きつけられたその鬼の上半身は、首と両腕が折れ、無茶苦茶な角度に捻じ曲がってしまっている。

 もはや死体というよりも肉塊と化したそれは、先代の両手から離れた途端砲弾のように加速して、上空から襲い掛かる鬼に激突した。

 ただそれだけで、頑丈なはずの鬼の肉体に凄まじい衝撃が走る。

 一瞬動きを封じられた鬼は顔を顰め、そして次の瞬間眼を見開いた。

 跳び上がった先代が、更に頭上を取っていた。

 右足が限界まで振り被られている。

 逃れる術は無かった。

 

「がぁあああっ!!」

 

 先代の、獣のような雄叫び。

 しかし、その踵は冷徹な程理に適った動きと軌道で振り下ろされ、鬼の脳天を叩き潰した。

 体重を乗せたまま落下し、着地と同時に踏み潰す。

 一片の容赦も無い。

 そして、一呼吸分の停滞も無い。

 地面に降りた瞬間に、先代は次の標的に向けて駆け出していた。

 全身を砲弾にしたような正拳突きが放たれる。それを防ごうとした鬼の両腕が二本ともあっさりとひしゃげ、衝撃が背骨をへし折った。

 その拳が、鬼の胴体を貫く。

 その蹴りが、鬼の首を刈り取る。

 その掌底が、鬼の顎を吹き飛ばす。

 その手刀が、鬼の体を両断する。

 それは、破壊と死の風だった。

 敵の間を吹き抜けた瞬間、その命をもぎ取っている、暴虐の嵐だった。

 鬼の群れは、疾走する先代によって、完全に掻き回されている。

 その最中で、美鈴もまた休むことなく戦っていた。

 敵は混乱の極みにいる。

 動揺の間隙を突くように接近し、一つの標的に全力で畳み掛け、一気に討ち倒す。

 美鈴の一つ一つ確実な戦果は、圧倒的なまでの先代の戦い方に隠れ、だからこそ敵に止められることなく続いていた。

 戦いながら、美鈴は先代の壮絶な戦闘を見る。

 

 ――あれは、技を伴った暴力だ。

 ――極限まで高めた力を、無差別に爆発させるのではなく、技によって指向性を持たせ、収束させてぶつけている。

 ――力を押さえ込むのではない。逆に威力を更に増幅させているのだ。

 

 それが、向けられる者にとってどれほど恐ろしいものとなるか。

 美鈴は、改めて先代巫女に対する戦慄と畏怖を抱かずにはいられなかった。

 これまで見てきた、先代の力の一片ではない。

 あれこそが、おそらく彼女の切り札だ。

 

「凄まじい……だがっ!」

 

 美鈴には焦りがあった。

 確かに、凄まじい力である。

 鬼を完全に圧倒している。

 あの星熊勇儀を倒したのも頷けるほどの勢いだ。

 

 ――しかし、その勇儀との戦いの後、彼女はどうなったか?

 

 あの力は、異常なのだ。

 人の身で振るっていい範疇の力ではない。

 必ず、何処かで無理が出てくる。

 現に、先代はここまで一度も攻撃を受けていないにも関わらず、血塗れになっていた。

 鼻から噴き出していた血が、今度は口から、眼から、そして切れた血管からも出始めている。

 肉体から立ち昇る蒸気から察するに、もはや体温は人間のそれではない。

 限界は近い。

 そして、それを超えた時――おそらく彼女は死ぬ。

 現在、戦況は一方的だ。

 美鈴の目の前で、また鬼が一匹、先代に叩き潰された。

 これで、瞬く間に十を超える鬼を葬ったことになる。

 しかし、敵の総数はようやく半分まで減ったところだった。

 

 

 

 

 ――『我に返る』という表現が一番近いのかもしれないが、正確ではない。

 

 ぜひゅっ、ぜひゅっ、という非現実的な呼吸音が聞こえる。

 私の呼吸する音だ。

 まるで他人事のように聞こえる。

 それくらいイカれた音だった。

 私が切り札としてリミッター解除を行った次の瞬間、何か色々な噴き出す感覚が走り抜けていた。

 そりゃあ、あの技は血が出る。鼻とか眼とか、本来出ちゃいけない穴から出まくるヤバイ技なのだ。

 しかし、それだけではない。

 アドレナリンとかドッパドッパ出まくったと思う。

 多分、視覚化出来るなら、私の脳みそは全部脳内麻薬に浸かっているだろう。

 液体だけではない。腹の底からマグマが湧いて出てきたのではないかと思うような熱が、体中の筋肉に宿っていた。

 その噴き出す『何か』に突き動かされるまま、私は戦った。

 戦いまくった。

 意識が無かったわけではないが、その意識が半ば飛んでるような状態で滅茶苦茶に動き回った。

 自分よりもデカイ相手を蹴り飛ばし、両足抱えてジャイアントスイングし、それで更に周りの敵まで薙ぎ払って――まさに、無双状態である。

 正直、この成果は私にとっても予想外だった。

 この技は何度か使ったことあるし、勇儀との戦いでの使用は記憶にも新しいが、ここまで劇的な戦闘力のアップは経験したことがない。

 何故、こんな現象が起こったのか――。

 

『さ、三倍だァァァーーーッ!!!』

 

 ……え、まさかあれなの?

 咄嗟にノリで叫んでたんだけど、本当に三倍界王拳みたいなアップ効果使っちゃったの?

 あの時は、本当に追い詰められていたから、案外普段は無意識に抑えている限界を更に超えてしまったのかもしれない。

 いずれにせよ、私のリミッターは予想よりも数段多く外れた。

 その結果が、我ながら鬼神の如き戦いぶりである。

 そして、その末路が――今の私の有様である。

 発揮された力は三倍。そして、消耗も三倍だった。

 何処で燃料が切れたのか分からないが、私は今、足を止めていた。

 いや、それどころか動くことすら出来ない。

 全身が、鉛のように重い。

 しかも、赤くなるまで熱せられた鉛だ。

 筋肉の中にそんな鉛が潜り込んだかのように、熱く、だるい。

 戦っている最中には肉体を突き動かしていた熱が、今はただ痛みと重みとしか感じられなかった。

 こ……こいつが、三倍の弊害か……っ!

 自分の体内で起こっている、得体の知れない現象に戦慄する。

 疲れたとか、体力の限界とか、そういうもんじゃない。

 動けない。

 体が、まるで泥のようだ。

 呼吸するだけの泥だ。

 さっきから聞こえる奇妙な呼吸音は、一向に治らない。

 どれだけ酸素を取り込んでも、体力が回復しない。

 もう駄目だ。

 どれだけ戦っていたのか分からないが、私はもう、全部出し尽くした。

 力を絞り尽くした。

 既にかすみ始めている視界で、周囲を見回す。

 鬼の屍が、死屍累々と転がっている。

 周りの建物も、幾つかが半壊したり、完全に崩壊してしまった物もあった。

 三十はいた鬼が、半分以上倒れ、今はもう立っている奴の方が少ない。

 私が暴れた結果だ。

 もちろん、美鈴も頑張ってくれた結果だ。

 いいぞ。

 終わりは近い。

 近い……がっ。

 

 ――残ってる奴、思ったより多くね?

 

 私はもう、鬼でなくとも、妖怪にちょっと小突かれただけで死にそうである。

 しかし、その鬼はまだ少なくとも十匹は残っていた。

 

 

 

 

 嵐は、唐突に止んだ。

 漲るほどの力と、鋭すぎる技によって、強大な鬼をまるで紙屑のように千切り捨てていた先代は、何匹目かの鬼の頭を消し飛ばした時点で、動きを止めた。

 力尽きて倒れた鬼の死体を前に、その場で佇むだけである。

 肩で大きく息をしていた。

 汗と血の混じったものを全身から噴き出している。

 冷静に観察すれば、手足が小刻みに震えているが分かった。

 高揚した精神に肉体が反応して震えているのではない。ごく単純な筋肉の酷使による痙攣だ。

 

 ――限界だ!

 

 美鈴は悟った。

 無意識なのか、先代自身の判断なのかは分からないが、彼女の肉体は限界を感じて止まったのだ。

 あのまま限界を超えて、死ぬまで戦い続けるのではないかという不安に駆られていた美鈴にとっては、良いタイミングである。

 しかし、戦況を顧みれば、最悪に近い事態に陥っていた。

 半分以上の鬼が、二人によって倒されている。

 だが、逆に言えば、まだ鬼は全滅していないのだ。

 先代や美鈴との交戦によって、大なり小なり傷を負った者達ばかりだが、まだまだ戦える鬼が十匹は残っている。

 対する先代は限界から更に一歩踏み出すまでに力を使い尽くし、余力を残した美鈴もまた負傷と消耗をしていた。

 いや、そもそも地力で劣る美鈴が真正面から鬼の集団に対抗出来るはずがないのだ。

 これまで渡り合ってこれたのは、巧みな立ち回りによって、自らの能力を最大限に発揮出来たからに過ぎない。

 

 ――しかし、やらなければ。

 

 先代は、もうまともに戦えない。

 ならば、自分がやるしかない。

 美鈴は最初から、覚悟を決めていた。

 最初から『命を捨てる』と、言っていたのだ。

 

「と……止まったか」

「……くそぉ! 足が竦んだ結果、命を拾うなんてよ! 鬼の名が泣くぜ!」

「まだだ! 油断するな……」

「そうだ。戦いの最中に悔しがるなんざ、無意識に勝ったと思ってる証拠だぜ」

「ああ、まだ何をしでかすかわからねえ」

「あの赤毛の妖怪も、もう油断ならんぞ」

 

 先代が消耗し切っていることは、美鈴でなくとも一目瞭然である。

 数の上でも、未だに有利だ。

 しかし、生き残った鬼達は僅かな油断さえしていなかった。

 むしろ、それを戒める謙虚さを芽生えさせていた。

 戦い始めの時のような、喜んで捨て身になるような気楽さが無い。

 先代と美鈴に対して、これまで以上の警戒を払ってるのだった。

 

 ――息の根を止める瞬間まで、毛ほどの隙も見せない。

 

 そんな意気込みが、気迫となって放たれている。

 鬼の気迫が、更に洗練されて鉄のように重い塊となって、周囲を圧迫するのだ。

 それを受けただけで、弱った先代は倒れそうになっていた。

 もはや足元も定かではない。

 フラフラと、力の抜けた歩みで動く。

 ――前へ。

 

「師父!? もう無理です!」

 

 美鈴が眼を見開いて、制止の声を掛けた。

 しかし、遅かった。

 ノロノロとした先代の動きに対する鬼達の反応は、凄まじいものだった。

 動いたのは三体。同時に襲い掛かれる最大の数で、各々の動くタイミングまで巧みにずらし、先代に襲い掛かる。

 掠るだけで死んでしまうだろう、そんな凶悪な一撃を、狙い澄まして放った。

 迫り来る死を、先代は焦点の定まっていない瞳で見つめ、

 

 ――ぜひゅ。

 

 呼吸一つで、かわした。

 正常な呼吸ではない。

 足元もふらついたままだ。

 かろうじて構えらしきものは取っているが、腕が上がりきらず、拳にも力が全く篭もっていない。

 しかし、かわした。

 掠らせもせず、先代は鬼の攻撃を紙一重でかわしていた。

 

「な――」

 

 絶句したのは美鈴だけだった。

 鬼は、動揺すらしない。

 二匹目が、薙ぎ払うように爪を振るう。

 かわし辛い軌道だった。

 当たる。

 

 ――ぜひゅ。

 

 またも、呼吸一つ分の動きでかわした。

 空中に舞う紙を捉えることが出来ないように、力の抜けた肉体が、唸るような剛腕をふわりと避けてしまう。

 

 ――ぜひゅ。

 

 そして、三つ目の攻撃もまた、不思議な空振りに終わった。

 絶望的な三連撃を、これで凌ぎきったことになる。

 攻撃のあとの、一瞬の硬直。

 本来ならば、反撃をするチャンスだ。

 しかし、もはや先代は先程の動きだけで奇跡。

 持ち上げるだけで億劫そうなあの両手で、鬼を倒すことなどとても出来そうには見えない。

 鋼の肉体の、芯まで届くどころか皮膚さえ傷つけることが出来ないのではないか。

 未だに焦点の定まらない、ぼんやりとした視線で先代は手近な鬼の顔を見上げ、のそりと右手を伸ばし、

 

 ――ぜひゅ。

 

 その鬼の首から上が、千切れ飛んでいた。

 

 

 

 

 漫画のシチュエーションって奴は万能だ。

 どんな状況でも。

 どんな状態でも。

 必ず、それを経験して、乗り越えた先駆者がいる。

 だから、私はそんな偉大な先人達を尊敬する。

 だから、私はそんな先人の経験を糧にする。

 今だってそうだ。

 私は、追い詰められている。

 三十以上の強敵相手に、十分善戦したと思うが、まだまだこんな状況でも諦めない。

 何故なら、この程度のピンチなら私の知る多くの先人が経験しているからだ。

 そうだな……こんな時『あの人達』ならどうするか?

 ベルセルクのガッツは、何も考えず、心臓の鼓動だけになるまで剣を振って切り抜けた。

 バガボンドの武蔵は、一つの所に留まらず、川の流れに身を任せるように動き続けろと言っていた。

 いや、この場合自分自身が流れるように動く、だっけ?

 武蔵が使ってたのは『攻めの消力』だったっけ? ガッツは錆びた刀で竹を斬って明鏡止水の修行を……いや、違う。なんか混じってる。

 意識が朦朧としてきて、よく思い出せない。

 へへっ、なんだ。私もとうとう化けの皮が剥がれてきたな。

 だけど、意図せずして私は彼らと同じような境地に立っているのかもしれない。

 なるほど。

 つまり、余分なものを取り払った先に真理はあるのかもしれない。

 

 ――明鏡止水。

 ――水の心。

 ――そうそう、妹紅に教えた『穿心』も忘れちゃ駄目だな。

 

 弟子の妹紅が出来るようになったのに、私が出来ないなんて話にならない。

 今こそ、これらの真理を結集して、窮地を脱するのだ。

 ああ。

 ……でも。

 疲れた。

 体力を使い果たしたどころか、実際に肉を削って戦ったような気分だ。

 体中が痛い。

 そして、動かない。

 本当に肉を削って戦ったのなら、それは当たり前だ。

 いや、これはただの比喩だ。

 肉はある。

 手があり、足がある。

 眼もまだ見える。

 肺で呼吸も出来る。

 心臓だって動いてるぞ。

 まだだ。

 まだ、私は動ける。

 この程度の窮地は、漫画の中のヒーロー達にとってありふれたものだ。

 そうだ――漫画。アニメ。私の中にある、多くのフィクションの存在達。

 東方という世界に生きる私にとっては、同時にノンフィクションでもある存在達。

 現実に在るのか、無いのか。

 それはどうでもいい。

 ただ、思えば……私は、いつも彼らや彼女達に『肖って』生きてきた。

 どうしようもなくなった時、先人達の教えや言葉に頼った。

 今も。

 今もか?

 どうなんだろう。

 今回は、これまでと少し違う気がする。

 何故なら、今の私は限界以上に限界だからだ。

 もう、本当に、これっぽっちも余力の無い状態だからだ。

 こんな時に、誰かの物真似に割く力や意識が残っているものだろうか?

 勇儀と戦った時に似ているが、微妙に違う。

 あの時は余裕は無かったが、余力はまだあった。

 だから、最後の賭けに出ることが出来た。

 これまで経験した戦い全てがそうだ。

 生きるか死ぬかの瀬戸際は何度も味わったが、決定的な瞬間には行動を起こせるだけの力があった。

 しかし、今は違う。

 初めての体験だ。

 一人の強敵を相手に全てを賭けて挑むのではなく、多くの敵に持ち得る全てを出し尽くした。

 身を削って戦った。

 リミッターを外した、あの短くも長い濃密な時間の中で、何度も、何度も。限界を超えた動きや攻撃をする度に、私という存在を覆う皮が剥かれてきた。

 そして、限界の一歩手前から半歩進んだような現在の状態。

 まだ、終わっていない。

 まだ、戦わなくてはならない。

 今の私には、皮が残されているか。

 今の私には、何が残っているのか。

 やはり、最後の最後に残るものも、誰かに肖ったものなのか。

 どうなんだ?

 もうちょっと、進んだら見えそうな気がする。

 何が見えるかは分からない。

 でも、見てみたい。

 本当の私がどういうものなのかを見てみたい。

 もう限界だけど、それでももうちょっとだけ踏み込んでみたくなる。

 ほら。

 もう半歩。

 いや、三分の一歩でいい。

 霞んだ視界の先に、見えてきた。

 あれ? なんだ、こいつは鬼じゃないか。

 鬼が、私を殺そうと腕を振り上げているじゃないか。

 駄目だな。それは駄目だ。死にたくない。死ぬわけにはいかない。

 こういう時は……何だっけ? 忘れた。

 死にたくない、じゃなくて、死ぬことを決意しなきゃ駄目なんじゃなかったっけ?

 でも、私は死にたくない。

 何故だ?

 昔はそんなこと無かったのに。

 崖からだって飛び降りたのに。

 実際のところ、どうなんだ?

 私の本当の本心の本音は何処にある。

 いや、待て。考えるな。死ぬだの死なないだの、予想したり、思い浮かべたり……そういうのが無駄なんだ。多分。

 何でもいい。考えるのは力の無駄遣いだ。

 肉体に任せればいい。

 魂に従えばいい。

 脳みそではなく、これまで続けてきた修行の中で体の芯まで刻み込んだものだけが、最後の最後に残っているはずだ。

 そうだ。

 修行の日々――発端はどうあれ、その積み上げてきたものだけは全て私だけの本物だ。

 憧れから始めた修行も、続けた日々は紛れもない現実なのだ。

 そうだ。

 最初の気持ちってやつを、思い出してきた。

 誰かに勝つ為に、誰かより強くなる為に――いや、もっと言えば誰かの為に修行していたわけじゃない。

 私が身に着けた極意が『明鏡止水』なのか『水の心』なのか『穿心』なのかあるいは全く何も身に着けていないのか。

 この土壇場で分かる。

 現れる。

 そうだ。

 真理。鬼の拳。眼前まで迫る。明鏡止水。体が重い。風圧が肌に触れる距離。水の心。揺れるように動く。集中しないと見えない攻撃が今の霞んだ眼で見えないしかし意識を紙の如く細く更に二つ目の攻撃も横にかわして川の流れのように体を一つに留めず三つ目のこれが終わったら攻撃後の隙が一瞬出来るからここで私は水滴が板を穿つが如く無駄な力はいらないほら右の拳を――。

 

 よし、倒した。

 止まるな。

 次だ。

 

 

 

 

「消耗し切っていたことは確か……なのに」

 

 美鈴は目に映る光景を信じることが出来なかった。

 

「明らかに、さっきより強くなっている……!」

 

 先代が、鬼を倒していた。

 まるで幽鬼のようにフラフラと歩き、火に誘われる蛾のように生き残った鬼の所へ近づいていく。

 押すどころか、息を吹きかければ倒れそうな弱々しさなのに、鬼は思わず後退りする。

 踏み堪え、意を決して先代を攻撃した次の瞬間――。

 死んでいるのは、鬼の方なのだ。

 美鈴は、当たり前のように繰り返される一連の攻防をかろうじて捉えていた。

 先代の動きは、当初と比べて明らかに鈍っているし、精彩も欠いている。

 それなのに、どれだけ集中しても捉えることの出来る動きは『かろうじて』なのだ。

 唸りを上げる鬼の猛攻を、ふわりとかわす。

 その動きは緩やかだ。

 反撃の為に、拳を握り込もうとする指の一本一本の動きまで見える。

 しかし、次の瞬間。

 完全に握っていない拳が消えたかと思うと、破裂するような音と共に鬼の肉体の何処かが消し飛んでいるのだ。

 頭ならば頭が無くなり、胸ならば心臓のある位置が丸ごと無くなる。

 そこで、初めて美鈴は先代が何処を狙って攻撃したのか理解し、鬼は絶命する。

 そんなことが、もう何度も繰り返されていた。

 偶然ではない。

 奇跡でもない。

 れっきとした、先代の防御と攻撃による結果である。

 

「何が起こっているの?」

 

 一体、疲れ果てた体の何処にあんな力が残っているのか。

 力でなければ、技か。

 ならば、絞り尽くされた水滴程度しか残っていない力で鬼を討つ技とは、一体どんなものなのか。

 美鈴は、もはや傍観することしか出来ない。

 助けなど、必要無いのだ。

 残った鬼を倒しきるのは、もう彼女一人でいい。

 それほど、圧倒的な光景だった。

 圧倒的なのに、先代の姿は未だ変わらず半死人のような有様である。

 

 ――何かが起こっていた。

 ――いや、何かが現れていた。

 ――疲労し、意識も朦朧としているだろう先代の内側から、何か恐ろしいものが顔を出して、それが鬼を圧倒しているのだ。

 

 美鈴は理屈ではなく、直感的にそう考えていた。

 もはや、先代に対する驚きはない。

 今の先代の動きは、美鈴がこれまで見てきた彼女の動きのどれとも似通っており、同時にどれとも似ていない。

 あるいは、これまでの全てを集めた集大成――そう思えるような動きだった。

 ハッキリとしていることが、一つある。

 普段から底の見えない実力と、深遠な心を持つ先代巫女。

 そんな人間の、本当の底に在る何かが、今まさに表に出ようとしている――。

 

「誰も見たことのない、本当の貴女が……」

 

 美鈴は、傍観するしかなかった。

 先代巫女の姿を、ただ食い入るように見ていた。

 気がつけば、残っていた鬼のほとんどが斃れ、最後の一体だけが取り残されるように佇んでいる。

 そして、先代もまた最後の標的の前に辿り着いていた。

 対峙する二人は、いずれも満身創痍である。

 最後まで戦い抜いて残った鬼は、既に深刻なダメージを負っていた。

 右腕は折れて外側に曲がっている。片目は潰れ、角も折れていた。

 かろうじて立っているのは、鬼も先代も同じである。

 しかし、表情を作る力さえも失ったかのような先代に対して、鬼はあの笑みを再び取り戻していた。

 己の死を前にして浮かべる笑みである。

 

「見事じゃ、巫女よ」

 

 鬼は、老人のような喋り方で言った。

 奇しくも、最後に残ったこの鬼は、戦いの始めに先代巫女へ一番に襲いかかろうと覚悟を決めていた、あの老練な鬼だった。

 何の因果か、最も先に捨て身を決意した彼の鬼が、最後の一体となるまで生き残ったのだ。

 

「この場の鬼もわしで最後。皮肉なもんじゃと、笑ってくれ」

「――」

「笑えぬか。もはや、そのような余力も無いか。なのに、お前は今、わしの前に立っておる」

 

 鬼が、残った腕を眼前に持ち上げた。

 握り締めた拳に力が収束する。

 

「勇儀の言った通りじゃのぅ」

 

 異常なまでの力だった。

 この鬼だけのものではない。

 周囲の死んでいった鬼達の死骸から、まるで吸い出されるように妖力が立ち昇って、拳に集まっていく。

 それは残留していた妖力か、あるいは死んでいった鬼の魂なのか。

 いずれにせよ、それは集まった掌の中で一つの大きな『力』となっていった。

 

「――天晴れ、見事っ! 我が全身全霊を懸けて、最後の一撃に挑むなり!!」

 

 鬼の拳が、唸りを上げて発光した。

 恐ろしい威力を秘めた光である。

 戦いが始まり、様々な鬼が様々な攻撃を繰り出してきたが、それらの中で最も強力な攻撃が、今放たれようとしている。

 

「我が能力は『密』を操る! 我ら鬼の御大将に準ずるこの力、捌けるものならば捌いてみせい!」

 

 それに対して、先代は静かに祈ろうとしていた。

 祈りの動作から繰り出される、あの不可避にして強力無比な一撃が、今は見る影も無い。

 ノロノロとした動きで、億劫そうに両手を上げ、合掌する。

 

「いざっ!!」

 

 鬼の拳が放たれた。 

 そして――。

 

 その拳が伸び切る前に、先代の拳が鬼の体を二つに分断していた。

 

 

 

 

 ……疲れた。死ぬ。

 

 

 

 

 最後の一撃は、もう影すら見極められなかった。

 鬼が倒れ、遅れて先代が膝から崩れ落ちたのを見て、我に返る。

 美鈴は慌てて、先代の元へ駆け寄っていた。

 か細い呼吸を繰り返すだけの先代を抱え上げ、手近な壁に背を凭れさせる。

 気がつけば、いつの間にか異空間を形成する結界は解除されていた。

 鬼の全滅が切欠となったのか、また別の判断基準があったのかは分からないが、とにかくそれが戦闘終了の合図となった。

 異空間で破壊された建物は、現実の世界では何事も無かったかのように佇み、周囲に転がる鬼の死体だけは戦いがあったことを物語っている。

 

「……勝ったのか」

 

 ――あるいは、生き残った。

 

 美鈴は、噛み締めるように呟いていた。

 

「終わりましたよ、師父」

 

 美鈴は労わるように、優しく声を掛けた。

 それに対する反応は、曖昧なものだった。

 仕方がない。

 本来ならば、気絶しているのが普通の状態なのだ。

 戦いが終わって緊張の糸が切れ、今まさに先代は意識を失う寸前にまで来ている様子だった。

 戦いの終盤で見せていた、彼女の中に眠る『何か』も、もはや完全に鳴りを潜めている。

 

 ――本当の先代の姿。

 

 それを見ることが出来なかったことが、残念でもあり、同じくらい安心もしてしまう。

 得体の知れないものを知ることは、恐怖でもあった。

 美鈴は複雑な気分を隠して、先代の介抱に努めた。

 

「……美鈴」

「師父!?」

 

 意外なほど力強い声に呼ばれ、美鈴は驚いた。

 

「私の、ことは……いい。人里には、まだ、鬼が残っている……」

「それは――分かっています。しかし、貴女を置いていけません」

「私のことより、も……人里の為に……」

「私は、妖怪です。貴女の為に戦う理由はあっても、人間の為に戦う理由は、ありません」

 

 美鈴はハッキリと答えた。

 人間に対する冷たさではない。

 ただ、先代に対する感情が、人よりも、妖怪よりも、誰よりも優先されるだけなのだ。

 戦いの中で心を通わせたことで、美鈴は自身の行動理念をこれまでよりも更に明確に自覚していた。

 しかし、先代は弱々しくも首を振って応えた。

 

「……なら、私の為に人里を守ってくれ」

 

 見えているのかどうかも分からない眼で、美鈴の瞳を真っ直ぐに見据え、告げる。

 美鈴は沈黙した。

 やがて、小さくため息を吐くように笑みを洩らした。

 

「――分かりました。貴女が、それを望むのなら」

 

 支えていた先代の体を壁に預け、立ち上がる。

 周囲の気配を十分に探り、他に敵がいないことを確かめると、座り込んだままの先代を見下ろした。

 

「行ってきます。もう、戦う必要はありません。十分に休んでいて下さい」

「ああ……」

 

 返答の声が思ったよりもハッキリと聞こえることに僅かな安堵を感じ、美鈴はその場を離れた。

 人里の奥へと進み、夜の暗闇の中に消えていく。

 残された先代は、その後ろ姿を見送る気力も無く、ぼんやりと虚空を眺めていた。

 いや、もはやその眼には何も見えていない。

 瞳から意識の光が消え、全身に僅かに残留していた力が、今度こそ全て抜けていく。

 寄り掛かっていた壁から、ズルズルと背中が滑って傾き、地面に横倒しになる。

 そこで、先代の意識は完全に途切れた。

 周囲に転がる鬼の死体に混じって、人間の死体が一つ出来上がったようにも見える。

 かろうじて繰り返される呼吸だけが、先代の生存を知らせていた。

 と――。

 静寂の満ちた場所に、新たに踏み入る者があった。

 夜空から、ふわりと舞うように降り立つのは、金色の尾を九本も持った美しい妖怪である。

 八雲藍だった。

 

「――」

 

 藍は一言も発することなく、音すら立てずに先代へと近づいていった。

 倒れた先代に顔を近づけると、耳で呼吸の音を聞き、鼻で流した血の匂いを嗅ぐ。

 先代が死に掛けていることは分かった。

 そしてまた同時に、このまま放置しても、決して死ぬことだけはないだろうという予測も立てた。

 藍は、気絶した先代の顔を見下ろしていた。

 冷たい瞳だった。

 どれほどの時間、そうやって見下ろしていただろうか。

 やがて、藍はゆっくりと先代に向けて手を伸ばした。

 白く細い指が、二本。

 そっと先代の首筋に触れる。

 その指に力を込めようとして、思うように動かせないことを悟る。

 藍の身に課せられた『式神』としての制約による影響だった。

 主人である紫の命令に反する行動には、式神である藍はほとんど力を発揮することが出来ないのだ。

 だから例えば――『先代巫女を殺そうとする行為』には、思うように力を振るうことが出来ない。

 

 ――だが、目の前の人間はもう既に死にかけだ。

 

 別に力なんて必要ない。

 抵抗すら、満足に出来ないだろう。

 だから、ほら。

 こうして二本の指で、そっと首の急所を押さえ続けるだけでいい。

 数を数えている間に終わる。

 文字通り、眠るように。

 ほら。

 一つ。

 二つ――。

 

 

 

 

 幽香は積み重なった小山の上に座っていた。

 片足を立て、もう片方の足は無造作に投げ出している。

 立てた足の膝に、右腕を乗せている。

 持っているのは愛用の日傘だった。それを肩に軽く乗せて、持っているのだ。

 その傘はボロボロだった。

 布は無残に破れ、骨組みは歪に曲がってしまっている。

 挙句、夥しい血液が付着していた。

 血の雨でも受けたのかというほどの量だ。

 そして、幽香自身も全く同じ状態だった。

 激しい戦いを繰り広げた後のような、ダメージを負ったボロボロの衣服。全身に浴びるように付着した血は、敵と、自分自身の物でもある。

 つい先程まで、幽香は戦っていた。

 死闘と言える、凄まじい戦いである。

 幽香の座る小山――それは、鬼の屍を積み重ねたものだった。

 

「――十を超える鬼を皆殺しか。大したもんだ」

 

 他人事のように称賛を口にするのは、仲間の死骸を尻に敷かれている伊吹萃香である。

 幽香を見上げる顔は、相変わらず笑っている。

 仲間の鬼の戦いと、その結果の死を、悼んではいるが恨んではいない。

 萃香を見下ろし、幽香は微笑した。

 

「雑魚どもよ」

「言うねぇ」

「事実よ。こいつらの実力は、地底で見たあの鬼には到底及ばない。先代なら瞬く間に皆殺しに出来る」

「ふふん。実際に勝った奴が言うんだ、腹も立ちゃしない」

「だけど、いい練習相手にはなったわ」

「練習と来たかい」

「ええ。しぶとさと力の強さだけは認めるわ」

 

 幽香は自らのダメージをいささかも感じさせない笑みを浮かべていた。

 外見から分かる負傷が全て見せ掛けなのではないかと、本当に騙されてしまうような余裕の仕草だった。

 鬼の一匹に食い千切られた左腕の痕が無ければ、萃香もそう感じていたかもしれない。

 萃香は、積み重なった小山の一番下に倒れている鬼の屍が、幽香の千切れた左腕を咥えているのに気づくと、おもむろにそれを引っ張り出した。

 

「離れて戦えば、もっと安全に勝てた」

 

 その腕を、幽香に放り渡す。

 

「言ったでしょ? 『練習』の為よ」

 

 器用に傘を肩に引っ掛けたまま、幽香は右手で自分の左腕を受け取った。

 

「『修行』って言った方が分かりやすいね」

「どっかの馬鹿を思い出すから嫌よ」

「強くなる為に努力する妖怪なんて、珍しいもんだ。特に、お前さんのように古い妖怪が」

「私はお前達とは違うのよ」

 

 受け取った腕を、片手で玩びながら、幽香は言った。

 顔に浮かぶのは、明らかに萃香への――あるいは鬼全てへの嘲笑だった。

 

「滅びゆく古い種族。それを甘受して笑う者達」

「……分かっていたか」

 

 萃香は気まずそうな笑みで、頭を掻いた。

 

「気に入らないわ」

 

 幽香は『何が』とは付け加えなかった。

 萃香達、鬼の行動原理が自分の行動原理と合わないのか。

 単純に、この太陽の畑へやって来て『喧嘩』と称し、戦いを仕掛けてきたことが不愉快なのか。

 あるいは、ただ気分なのか。

 何も言わず、幽香は右手に力を込めた。

 手の中にある肉が、音を立てて軋む。

 千切れているとはいえ、自分の左腕を骨ごと握り潰さんばかりの力だった。

 いや、実際に幽香はそのまま自分の左腕を握り潰していた。

 不可解な行動に、一瞬萃香が眼を見開く。

 

「先代に退治されるまでもない」

 

 萃香が驚いたのは、幽香が自分の腕を握り潰したからではない。

 握り潰され、飛び散るはずの肉片と血が、空中で光の粒子となって拡散したからだった。

 幽香の千切れた左腕が淡く輝き、そのまま光の中で分解されて、無数の粒となっていく。

 

「ここで死になさい」

 

 幽香の左腕は、跡形も無く消えていた。

 しかし、消滅したわけではない。

 物質ではなく、霊的な粒子へと無数に分解されて、幽香の右掌の上で燻っていた。

 

「……おいおい、『疎』を操るのはわたしの領分なんだがねぇ」

 

 幽香がやってのけた内容を理解した萃香は、本当の驚愕を感じていた。

 

「てめえの左腕一本分を分解して、妖力に変えやがったな!?」

 

 幽香の右手に集まっている粒子は、眼に見えるほど濃密な力の塊だった。

 体の内側から力を引き出すのとは次元が違う。

 自らの体を構成する要素全てを、力に変換したのだ。

 肉体を燃料にして火を燃やしているに等しい。

 

「対『先代』用のとっておきよ。欠点は、使った部位を一から再生するのに時間が掛かること」

 

 作り出したその力を幽香がどう使うつもりのか、察した萃香は咄嗟に両手を胸の前で重ねて防御姿勢を取った。

 

「威力の方は、『練習』の為にお前で試してやるわ!」

 

 特別な技などではない。

 幽香は、ただ右手に集めた力を、無造作に前に向けて解き放った。

 巨大な光線が、その進路上にあるもの全てを焼き払った。

 身構えていた萃香という存在さえ、例外ではない。

 防御という考えが虚しく思えるほどあっさりと、萃香の肉体は塵一つ残さず、消し飛んでいた。

 光が消えた後、本当の静寂が訪れた。

 残されたのは、鬼の屍だけである。

 屍すら残らない、死だけである。

 

「――ただ自殺しに来た、というわけでもなさそうね」

 

 今は焼け焦げた跡以外何も残っていない、萃香の立っていた場所を見つめていた幽香はおもむろに呟いた。

 先程の一撃――。

 単なる感覚だが、手応えが不十分だった。

 萃香を殺した、という実感が無い。

 確かに消し飛ぶのを見たが、未だに生きているような直感もある。

 奇妙だ。

 だが――。

 

「どうでもいいわ」

 

 幽香は鬼という存在に対する思索そのものを放棄した。

 興味など無かった。

 あるとすれば、何やら騒がしいことになっている今宵の幻想郷で、先代巫女がどのように動いているのかということだけだった。

 

「……本当、どうでもいいのよ。私は」

 

 頬杖をつきながら、ぼんやりと夜空を眺めていた幽香は、唐突に立ち上がった。

 言葉とは裏腹に、無意識に体は宙に浮いて、一つの方向へと飛んでいく。

 隻腕となった幽香は、人里へと進路を向けて進んでいた。

 まるで、何かに導かれるように――。




<元ネタ解説>

「競うな! 持ち味を活かせッ!!」

・漫画「バキ」でオリバに勇次郎が与えた助言。原作では役に立ったような、立たなかったような……。

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