東方先代録   作:パイマン

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萃夢想編も残すところ、あと一話です。


其の三十六「砕月」

「……なんて光景だ」

 

 アテもなく夜空を飛んでいた魔理沙は、人里の方向から放たれた光を辿って、その光景に行き着いた。

 未だ、人里までの距離は遠い。

 しかし、この位置にいてもその光景がハッキリと見えるのだ。

 人里の上空で弾幕ごっこが繰り広げられていた。

 まるで人里全てに降り注ぎそうな量の、弾幕という名の光の雨だ。

 幻想郷の何処にいても視界に入るような、未だかつてない規模と物量の弾幕ごっこだった。

 

「霊夢、なのか」

 

 魔理沙は自然とその名前を口にしていた。

 もちろん、この距離からでは弾幕の光は見えても、その中で誰が決闘をしているのかまでは見えない。

 しかし、魔理沙には奇妙なほど確信があった。

 あそこで、霊夢は博麗の巫女として異変の元凶と戦っているのだ。

 魔理沙は、引き寄せられるように進路を人里へ向け――それを思い留まった。

 理由はハッキリと分からない。

 鬼と戦い、その後で妖夢とも戦い、そのいずれとも勝利した魔理沙が次に向かおうと思った場所は、何処でもなかった。

 元より、神社を飛び出したのも衝動的なものである。

 その得体の知れない衝動も、二つの勝負を終えた後から不思議となくなり、魔理沙は夜の空を彷徨っていた。

 次に、何をすればいいのか。

 いや、次に何をしたいのか、漠然とも思い浮かばない。

 そうして飛ぶ内に、魔理沙は霊夢が戦っているのを知り、そして思い直したのである。

 もう別に、霊夢と顔を合わせることが気まずいわけじゃない。

 つまるところ、これはチンケな意地なのだろう。

 少し前までの情けない自分の面影を引き摺ったまま、霊夢に会いたくないという思いがあるのだ。

 霊夢は、そんなことなど気にしないだろう。

 そもそも、自分の様子がおかしかったことなど気付いていなかったかもしれない。

 それはそれで腹立つな、と。魔理沙の思考は無意識に脱線しそうになった。

 そうして、自分でもよく分からないこだわりから、素直に人里へ向かえずに迷う内、魔理沙は近づいてくる人影に気付いた。

 正確には、人型に近い影――九本の尾を持つ人型の影である。

 月明かりでも、見間違えようもない相手だった。

 

「藍!?」

「気安く呼ぶな、人間め」

 

 相も変らぬ、虫を見るような眼で藍は魔理沙と相対した。

 その片手には、一抱えほどもある巨大な鬼の首を無造作に持っている。

 

「――主人の命令で、火消しに回ってるのか?」

「猿にしては察しがいいな。その通りだ」

 

 藍は、さして執着も見せずに、持っていた鬼の首を放り捨てた。

 地上の暗闇へと消えていくその様を見て、魔理沙の脳裏には、あの老いた鬼の最期が過ぎった。

 自然と気分が悪くなる。

 やっぱり、こいつは嫌な奴だな、と。藍に対する敵対心を改めて確信すると、挑むように睨み返した。

 

「何か用かよ?」

「用? 路傍の石に用などない」

「……相変わらず嫌味な奴だぜ」

「そういう貴様は迷子か? 神社で大人しくしていれば良いものを、勢い勇んで鬼退治にでも乗り出したのではないだろうな?」

「だったら、どうだっていうんだ?」

「邪魔だ。貴様如きでは、下級の鬼相手でも餌にしかならん。貴様が死ぬのはどうでもいいが、鬼が人の血を得て盛りでもしたら困るのだ。余計な手間が増える」

 

 これが言葉の裏に何らかの意図を隠してのものならば可愛げもあるのだが、藍は全くの本心しか口にしていなかった。

 そんな見下した態度に、しかし今の魔理沙は不思議と激することはなかった。

 呆れたようにため息を吐くだけに留める。

 

「お前の手を煩わせるなんて、そりゃあ心苦しくて仕方ないな。安心しろよ、鬼は自力でなんとかした」

「……なんだと?」

 

 魔理沙の返答を聞き、藍の眼の色が変わった。

 僅かだが、それは間違いなく、魔理沙に対して初めて見せる動揺の色だった。

 

「まさか、鬼を倒したというのか?」

「ああ、そうだぜ」

「嘘を吐け」

「嘘じゃないぜ」

 

 魔理沙は憮然として答えたが、事の詳細を語るようなことはしなかった。

 目の前の大嫌いな妖怪狐に、あの老いた鬼との決死の戦いを語る気にはなれなかったのだ。

 あの戦いは、誇るものとはまた違う、しかし汚されたくない大切な記憶だ。

 話すくらいなら、嘘だと決め付けられる方がよほどマシだった。

 

「そうか――」

 

 しかし、藍はその返答を疑う素振りすら見せず、信じ難いものを見るような眼で魔理沙を見つめた。

 これまでの視線が、虫を見るような冷たいものだとすれば、今の藍の視線には少なからず熱が感じられる。

 それはそれで、魔理沙にとって居心地の悪いものだった。

 藍は、無表情に魔理沙の全身を観察し続けた。

 

「……なんだよ!? 用事がないんなら、さっさとどっか行けよ! それとも、わたしと勝負でもするか!?」

 

 スペルカードまで取り出す魔理沙の反応を見て、ようやく藍は表情を変えた。

 

「結果の見えた勝負を今更してどうする。私はそんなに暇じゃない」

 

 鼻で笑って答える。

 魔理沙が何か反論する前に、藍は続けた。

 

「しかしな、見直したぞ。ほんの少しな」

「な、なんだよ急に……気持ち悪いな」

「お前はなかなか使える人間かもしれん、ということだ」

「使える?」

「そうだ。よって、私が使ってやろう。ついてこい」

「は? 嫌だよ、なに命令してんだ」

「鬼退治の手伝いだ。名誉なことだぞ」

「お前の手伝いだろ! 嫌なこった!」

「鬼は人間との勝負事を重んじる傾向にある。貴様は非力だが、やりようによっては鬼の討伐に貢献出来るかもしれん」

「話聞けよ!」

「いいから、ついてこい。それとも、他に何かアテがあるのか?」

 

 藍に問われ、魔理沙は思わず反論がつっかえてしまった。

 つい先程まで、実際にアテもなく、霊夢に会いに行くことも渋ってしまった心境を見抜かれたような動揺が走ったのだ。

 いや、藍が向ける微笑を見ていると、まさに見透かされているのではないかとも思えてしまう。

 魔理沙の迷いを察して、藍は更に笑みを深くした。

 

「ないようだな」

「う、うるさいぜ!」

「さっさと行くぞ。夜明けまでには仕事を済ませたい」

 

 もう答えは分かっていると言わんばかりに、藍は無造作に背を向けた。

 そのまま飛んで、遠ざかっていく。

 魔理沙はその背中を悔しげに睨みつけていた。

 嫌な奴だ。

 本当に、嫌な奴だ。

 どっかに行っちまえ!

 ――そう内心で恨み言を吐きながら、結局魔理沙は藍の後をついていくことにしたのだった。

 

「待てよ、藍!」

「騒ぐな。黙ってついてこい――霧雨魔理沙」

 

 藍が初めて名前を呼んだことに、苛立った魔理沙は気付かなかった。

 

 

 

 

 ――どうした?

 

 先代と対峙した萃香は僅かに戸惑っていた。

 

 ――来ないのか!?

 

 萃香の脳裏に描いていた戦いの始まりと、実際の立ち合いは僅かに違っていたのだ。

 目の前で、先代は構えを取っている。

 一部の隙もない、完全な戦闘態勢だ。

 彼女が、本気で自分と戦いに来ていることは間違いない。

 しかし――ならば何故、あの『見えない攻撃』を使ってこないのか!?

 萃香は『百式観音』を、その眼で見ていた。

 先制にして必殺の一撃である。

 かわせる自信も、耐える自信もない。

 もし、あの攻撃が来たら、その時はもう単純に『勝負だ』としか考えていなかった。

 その覚悟が、いきなり空振りした。

 これは至極真っ当な勝負だ。

 しかし、これは真っ当に過ぎるのではないか。

 

 ――それでいいのか?

 ――お前、それでこの伊吹萃香に勝てると思っているのか?

 ――いや、違う。これは慢心じゃない。

 ――油断するな。相手は並の人間じゃないんだ。

 ――でも……どうなんだ?

 ――もしかして、使わないんじゃなくて使えないんじゃ……。

 

 そんな思考の流れの中に出来た刹那の隙――。

 先代が攻撃を仕掛けていた。

 前に踏み出していた萃香の左足を狙って、右の蹴りを繰り出したのだ。

 構えていた両腕はもちろん、上半身が全く動いていない。

 真っ直ぐに先代の動きを見すぎていた萃香は、体の下で起こった戦闘に反応出来なかった。

 横に薙ぐような蹴りではなく、膝の皿目掛けて杭打ち機のように真っ直ぐ突き出された蹴りである。

 凄まじい打撃音が周囲に響き渡り、肉と骨が盛大に軋む音が衝撃と共に萃香にだけ伝わった。

 

「ぐぎ……っ!」

 

 萃香は眼を見開き、苦悶の声を噛み殺した。

 人間ならば、膝が反対側に折れ曲がって、骨が肉を突き破り、二度と立てなくなるだろう強烈な威力だった。

 鬼の肉体だからこそ、耐えられたのだ。

 

 ――馬鹿か、わたしはっ!?

 

 走り抜ける激痛よりも、自分自身に対して悪態が湧き上がった。

 完全に自らの油断が招いた結果だった。

 この期に及んで、戦いの最中に雑念を挟んでしまった。

 相手は弱っている、と。

 自分は有利だ、と。

 公平な戦いじゃない、と。

 その驕りと隙を、見事に突かれたのだ。

 左膝の激痛で我に返った萃香は、ハッとなって改めて敵を見た。

 つい先程まで、ギリギリの間合いで静止していた先代が、この瞬間激流に変貌して怒涛の如く襲い掛かっていた。

 左膝を蹴り抜いた右足が、次の瞬間には萃香の顎を狙って一気に跳ね上がった。

 ローキックで相手の体勢を崩し、当たりにくい大技を急所に当てる。

 打撃戦のセオリーとも言えるコンビネーションだ。

 萃香はもちろん、そういった格闘の技術や知識を持っていない。

 持つ必要がないからだ。

 膝のダメージを耐え抜き、体勢もかろうじて保った萃香は、驚異的な動体視力で繰り出されたハイキックをかわした。

 全て人間と鬼の根本的な身体能力の差が生んだ結果だった。

 退いた顎先を、唸りを上げて蹴りが掠めていく。

 もし当たっていたら、下顎か、あるいは頭を丸ごと吹き飛ばされていたかもしれない――鬼にさえ、そう戦慄させる程の威力があった。

 しかし、かわした。

 先代の蹴りは、天を突かんばかりに伸びた蹴りである。

 同時にそれは、蹴り足が伸びきっていることを示している。

 この足を戻すまでは、先代にとって致命的な隙だ。

 

 ――反撃開始だ!

 

 萃香は気合いを入れ直した。

 勝負はこれから。

 もう、油断も慢心もしない。

 雑念は捨てろ。

 ただ全力で目の前の人間を叩き潰す!

 決意を両眼に込め、先代の顔を睨み据えた。

 しかし――。

 この時、萃香が見るべきは先代の顔ではなかった。

 残された先代の左足。

 それが、右の蹴りがかわされると同時に地を離れていた。

 まるで右の蹴りの軌跡を辿るように、左足もまた萃香の顎目掛けて矢のように飛んだのだ。

 

「お……」

 

 萃香は、下から奇襲してくる左足に気付いた。

 視界に入らないその蹴りを、どうやって察知したのかは本人にも分からない。

 野生的な、鬼の勘としか言いのようのない直感が働いたのかもしれない。

 慌てて、横へ首を振って、その二つ目の下からの攻撃を避けようとした。

 しかし、その逃げようとする頭部を追って、真上から落下してくるものがあった。

 かわしたと思った右足が、今度は踵を下にして、脳天目掛けて落ちてきたのだ。

 既に、避けるも何もなかった。

 萃香は、今まさに閉じようとしている虎の口の中に頭を突っ込んでいた。

 上と下。脳天と顎。右足と左足。

 二つの打撃が萃香の頭部を襲い、衝撃が意識を噛み千切った。

 

 

 

 

「コオウだ……」

 

 地面に崩れ落ちる萃香を見たチルノが反射的に言った。

 地上の戦いを見る者は少ない。

 その少ない者の中でも、攻防とすら言えない先程の一瞬の交戦を見極めた者は更に少ないだろう。

 チルノも完全に見えたわけではなかった。

 しかし、半ば確信を持ってその技を口にしていた。

 

「あれが『虎王』!?」

 

 実物を初めて見る美鈴が、思わず興奮気味に尋ねた。

 妹紅と慧音も視線をチルノに向けている。

 

「でも、おかしいぞ、チルノ。地底で使った奴と、技の形が違うんじゃないか?」

 

 妹紅の疑問に、美鈴と慧音も同意を示した。

 三人は『虎王』と呼ばれる技の存在を知っていた。

 それは地底での戦いの流れが、当時の文々。新聞で解説されているのを読んだ為である。

 特に妹紅は、弟子として共に過ごしていた時間に先代本人から話を聞いている。

 その内容と、目の前で繰り出された実際の技には相違がある。

 チルノの実力や知能が低いこともあり、見間違えではないかと疑う気持ちがあった。

 

「間違いないよ! あたいは、お師匠の戦ってるところを見たんだもん! あたいには分かるんだ!」

 

 しかし、チルノは断言した。

 必死さすら感じる形相に、妹紅達も思わず言い淀んでしまう。

 所詮、自分達は伝聞で知っただけだ。

 当時、先代の戦いを実際に眼で見ていたのはこの場ではチルノだけなのだ。

 

「……なるほどね。そういう技か」

 

 おもむろに、てゐが呟いた。

 

「分かるのか、てゐ!?」

「うん。つまり、『虎王』というのは、そもそも、名前の通り自分の両足を虎の顎になぞらえた技なんだ。

 地底の戦いでは、鬼の片腕を折った技って説明されてたから勘違いしてたけど、あれは関節技じゃない。どういう形で入るにせよ、両足を使って、相手の頭を挟む形で打撃を与える技が『虎王』なんだよ」

「ならば、やはりあれも――」

「『虎王』で間違いない」

「ほらね、言ったとおりでしょ!」

 

 我が意を得た、とばかりにチルノは胸を張った。

 ため息を吐く妹紅とは反対に、美鈴は素直に感心する。

 

「さすが師父の一番弟子ですね」

「ふふん、あんたもショージンしなさい」

「調子に乗るなっつの……けど、これで決着かな?」

 

 妹紅は倒れたまま動かない萃香を見つめた。

 あの技が『虎王』と分かった以上、鬼に致命傷を与えた実績のある大技が決まったのだということになる。

 もし、このまま決着がついたのならば、異変の首謀者としては随分あっけない最後だ。

 しかし、実戦には盛り上がりもクソもない。

 戦闘開始直後の隙を突いて大技を当てるのは効果的な攻撃なのだ。

 果たして、立ち上がれるのか――。

 

「いや、立つよ。鬼ってのは、こんなもんじゃない」

 

 疑問に答えるように、てゐが言った。

 

「長年の意地もあるだろうしね」

 

 言葉の通り、萃香は立ち上がっていた。

 

 

 

 

 あれ!?

 なんだこれ!?

 いつの間に、自分はこんなに小さくなったんだ?

 能力を使った覚えはない。

 それとも、先代が大きくなったのか?

 なんだ、これ。あいつの頭がずっと上にあるじゃないか――。

 眼を覚ました萃香は、そんなことをしばらく本気で疑問に思っていた。

 自分が、地面にへばりついていることさえ理解出来ていなかった。

 胸と頬に当たる地面の感触が意識を現実に引き戻し、ようやく正気に戻ったのである。

 萃香は慌てて立ち上がった。

 足元がふらついた。

 最初、その理由が分からなかった。

 受けたダメージさえも、その時になってようやく肉体が思い出したかのように自覚したのである。

 蹴りを受けた顎が熱かった。

 脳天から伝わった衝撃が頭の中心にまで届き、そこで尚も反響して、視界をグラグラと揺らしていた。

 歯を食い縛っていなければ、意識を保つことさえ難しい。

 拙い。

 これは、とても拙い。

 萃香は両拳を顔の左右に置くように構えた。

 格闘術を基にした構えではない。

 見様見真似。これ以上、急所を叩かれない為の構えだった。

 なんと、鬼であるわたしは人間相手に守りに入っているというわけだ。

 萃香は自嘲の笑みを浮かべようとして、堪えた。

 勝負の序盤でありながら、自分が早くも追い込まれていることを知っているからだ。

 まだ、視界がハッキリとしない。

 そもそも、自分がどんな攻撃を受けて倒れたのか、未だによく分からない。

 同じことをされたら、今の状態では再び避けることなど出来ないではないか。

 そして、今度は立てないのでは――。

 萃香は己の不安と疑念を振り払った。

 しかし、振り払ったのに、すぐに再び湧き上がってしまう。

 考えても仕方のないことを考えてしまう。

 落ち着け。

 大丈夫だ。

 既に大分、回復してきた。

 このまま、相手が攻めてこなければ、すぐに反撃出来るくらいにまで回復する。

 ……このまま?

 そうだ、何故先代はここで攻めてこない?

 そんなに詰めの甘い相手だとは思えない。

 隙を伺っているのか?

 まさか、わたしが回復するまで待っているというのか?

 馬鹿な。

 敵が弱みを見せたら、そこを全力で突け。

 わたしは鬼だ。

 お前は人間だ。

 種族の差がある。

 わたしに対して『卑怯な方法』なんてもんはないぞ。

 さあ、さっさとかかって来い!

 

「さあ、さっさとかかって――」

 

 不敵に笑って、挑発しようとした萃香の口が、飛来した岩のような拳によって押し潰されていた。

 隙間だらけの構えをすり抜けるように、最短距離で飛来した先代の打撃だった。

 下顎が歪む感触を衝撃と共に感じながら、萃香は今度こそ己の愚かさを思い知った。

 なにが『かかって来い』だ。

 歯を食い縛った状態では、頭を打っても耐えられてしまう。

 だから、こうして目の前の馬鹿が口を開いた瞬間を狙って、拳を叩き込んできたのだ。

 先代は、その隙を冷静に探っていただけなのだ。

 そして、その馬鹿はわたしだ。

 

 ――間抜けの大バカヤロウだ!

 

 萃香は、再び吹き飛ばされそうになる意識を、自身への怒りで繋ぎ止めた。

 口内からの出血を噛み締め、無理矢理顔の向きを正面に戻す。

 既に、二発目の拳が眼前にまで迫っていた。

 それをかわさず、あえて顔面で受ける。

 やはり、人間のものとは思えない凄まじい威力だった。

 単純な力はもちろん、込められた霊力が鬼の肉体にダメージを刻み込んでくる。

 しかし、今度のそれは耐えることが出来た。

 攻撃に対して、意識を集中させる――ただそれだけで、鬼の肉体は硬度を増し、防御したことと同じ効果を得るのだ。

 守りを捨てて拳をあえて受けた萃香は、その一呼吸分の動きを反撃に使った。

 自らもまた、拳を繰り出す。

 先代のようにコンビネーションなど考えていない。

 ただ頭を狙って、全力で振り抜く。

 当たれば、顔面を陥没させて、衝撃で首の骨をへし折るだろう。

 伊吹萃香の小柄な体格と細い腕には、そんな理不尽な威力が隠されている。

 しかし、当然のようにかわされた。

 振り抜いた拳を引き戻す間に、二発殴られた。

 打撃音が一発に聞こえる、高速の連撃だ。

 萃香は、反対側の拳で殴り返した。

 今度は避けにくい胴体を狙う。

 心臓ごとぶち抜くつもりだった。

 しかし、僅かに半身になるだけでかわされた。

 拳圧が、巫女服の胸元部分を破いただけだった。その下の皮膚すら傷ついていない。

 紙一重で見切られている。

 その隙に、今度は三発叩き込まれた。

 頭への攻撃を警戒しすぎたせいで無防備だったみぞおちに抉り込むような一発が打ち込まれ、体をくの字に折ったところで、頬を右左と殴り飛ばされたのだ。

 ただ、やみくもに攻撃する萃香とは対照的に、先代の攻撃は恐ろしいほど合理的で効果的だった。

 殴り返す。

 殴り返される。

 空を切り裂く轟音。

 肉を破壊する打撃音。

 飛び散る鮮血。

 呻き。

 軋み。

 二人の間で、拳と共に多くのものが交わされていく。

 お互いにほとんど密着しているような狭い空間の中で、嵐よりも激しく死と破壊がやりとりされている。

 どちらが有利で、どちらが押しているのか分からなかった。

 攻撃を多く受けているのは萃香の方だ。

 いや、全ての攻撃をかわす先代に対して、萃香は一方的に叩きのめされている。

 どれ一つ例外なく、最良のタイミングで最良の角度から襲い掛かる先代の攻撃を、萃香は全て肉体で受けていた。

 しかし、それらが致命傷を生んでいるかというと、そうではない。

 萃香は全ての攻撃を肉体で受け、そして止めていた。

 殴られれば、殴り返す。

 蹴られれば、蹴り返す。

 結果的に、反撃の全ては空振りに終わっているが、一つの攻撃に対して必ずやり返している。

 そして、一度も止まらない。

 ダメージと体力の消耗が両方とも存在しないかのように、全力で動き続ける。

 休まない。

 ひたすら耐え抜く萃香とひたすらかわす先代。

 両者の動きに翳りが見えない以上、果たしてどちらが相手を追い詰めているのか、外野の者達には判断がつかないのだった。

 それは当事者である二人でさえも同じことだった。

 いずれも、決定打を得られない。

 理由は違えど、互いに相手を十分に攻めきれない。

 手をつけかねている内に、闘争という現象は勝手に加速していった。

 眼前の敵を一瞬でも上回る為に、より強く、より速く――。

 上空で繰り広げられるもう一人の萃香と霊夢の盛大な弾幕ごっこに隠されるように、見る者の少ない二人の死闘は、半ば以上無意味なまま、力と技の極地へと達しようとしていた。

 

 

 

 

「まるで、このままずっと続くみたい」

 

 手に汗握る――はたては、まさにそんな言葉を体現していた。

 自分が戦っているような緊張感と共に拳を握り締め、眼を剥いて先代と萃香の戦いをずっと見守っている。

 その傍らには、同じように戦いを見据える椛がいた。

 他にも、天魔と大天狗を始め、仲間である天狗が周りに集まっているが、彼らが見ているのは上空の戦いである。

 天狗の中で、地上の戦いを見ている者ははたてと椛の二人だけだった。

 上司である天魔は、どちらの戦いを見ろと指定してはいない。命令もない。

 ならば、好きな方を見ればいい。

 そう判断して、椛はじっと先代の戦いを見続けているのだった。

 

「戦況は動きます」

 

 不安げなはたての言葉に、椛は端的に答えた。

 

「か、勝てるよね?」

 

 はたてが、どちらのことを言っているのかは確かめるまでもない。

 そして、勝利よりも生還を願う思いの方が強いことも、椛には分かっていた。

 分かっていたからこそ、普段通りのむっつりとした顔のまま、事実だけを正直に告げた。

 

「拮抗したままなら、時間が経つほど先代巫女様が不利になります」

「でも、一方的にボコボコにしてるし……!」

「既に人間が全力で動ける時間の限界を越えています」

 

 椛の言うとおりだった。

 戦い続ける先代の動きに、未だに鈍りや陰りはない。

 しかし、その顔は体温の上昇による紅潮を過ぎて、酸素不足による青白い色へと変貌しつつあった。

 先代と萃香の攻防が始まって、既に数分が過ぎている。

 人間が、肉体の全てをフル稼働して休まず動き続けられる限界は、とうに越えていた。

 

 

 

 

 ――やってみたけど、無呼吸連打ってマジ辛え! スペックさん、マジパネェ!

 

 く、苦しい!

 呼吸がしたい。もう、私の負けでいいから、こんなアホな戦いなんてとっととやめて、思いっきり深呼吸したい。

 その後で、キンッキンッに冷えた水で一杯やりたい。

 思わず、そんな現実逃避をしてしまう状況だった。

 事前に覚悟してたからどうなるってもんでもなかった。

 以前も言ったような気がするけど、鬼が本気で強い。

 勇儀と萃香。

 どちらが強いか、なんて比べるのも眩暈がするけど、今やっている肉弾戦に限って言えば勇儀の方が強かっただろう。

 当たれば致命傷って理不尽な攻撃力は共通しているが、それでも萃香の力は、勇儀と比べると幾らか劣っている。

 当たったら消し飛ぶビジョンが付き纏っていた勇儀とは違い、萃香ならば骨砕けて肉が潰れる程度に納まるだろう。

 ……あんま変わんねーや。

 とにかく、これが地力の違いなのか、二つに分かれた影響なのか分からないが、萃香は勇儀と比べて幾分良心的な攻撃力だった。

 何より、リーチが違う。

 私よりも更に長身だった勇儀とは攻撃の間合いがほぼ重なっていたが、小柄な萃香相手だと単純にリーチの長さで私が有利だった。

 相手の拳が届かない距離でも、私の拳は届く。

 だから、こうして面白いくらいに攻撃が当たりまくるのだ。

 ――以上が、私が有利な点である。終了。

 続いて、私が不利な点がズラッと続く。

 まず、やっぱり鬼の耐久力が半端ねえ。

 勇儀の時もそうだったけど、どれだけ攻撃を叩き込んでも、ダメージになるだけで決定打にはならない。

 萃香が勇儀以上にタフなわけではなく、単純に私の攻撃力が落ちているせいもあった。

 既に酷使していたせいで、身体能力が落ちている。

 それに合わせて、リミッター解除による地力の底上げも出来なくなっているのだ。

 技自体は使えるが、もし使ったら今度こそ私は確実に死ぬだろう。

 その為、どの攻撃にも渾身の力を込めているのに、芯を打ち抜くような威力が得られないのだ。

 仕方がないので、手数で押しまくろうと思っていたが、それも限界が近い。

 最初に言ったとおり、間断なく動き続けたせいで、いよいよ体が悲鳴を上げ始めていた。

 限界が早すぎると思うかもしれないが、鬼の群れと戦った時とはまた違う。

 本当に一呼吸の間も置かずに手を出し続けているせいである。

 おかげで今の私は、島袋戦の一歩のような有様。

 疲労で動きが衰える前に、窒息死しそうだ。

 死ぬ気で攻撃しなければならないが、本当に死んでは意味がない。

 結局、私の意思とは無関係に、肉体が遂に限界を迎えた。

 ほんの一呼吸――それが我慢できず、私の動きは止まり、肺が空気を吸い込んだ。

 

 ――空気、うめぇええええ!

 ――そして、ここぞとばかりに攻めてくる萃香の攻撃やべえええっ!?

 

 手が止まった瞬間に反撃が始まった。

 元々、防御も何もなく、ただ私の攻撃を耐えて反撃していた萃香は、自らの行動を抑制するものがなくなった瞬間、怒涛の如く攻め込んできた。

 最初に拳が飛んできた。

 何度もかわした攻撃だ。再びかわす。

 これまでは、その隙に私も攻撃していたが、まだ酸素が足りない。

 貴重な時間を使って、もう一度呼吸をしてしまう。

 そして、萃香の連撃を許してしまう。

 今度は蹴りだ。

 しかも、なんと飛び蹴りで私の首を狙ってきた。

 首の骨を折るどころか、引き千切ってしまうような威力だ。

 体捌きだけではかわしきれず、腕を使ってなんとか受け流した。

 本当なら受け止めたいところだが、防御した腕ごと骨を折られると分かっている。

 かといって、この受け流しも十分に成功はしなかった。

 蹴りの掠った部分が痣となって、腕に走っていた。

 今の攻撃が特別鋭かったわけじゃない。

 これが、私が手数を重視した、もう一つの理由だ。

 勇儀の時とは違い、今の私には萃香の攻撃を巧く受け流す自信がない。

 相変わらず回復した体力と消耗した肉体のバランスは、微妙にズレたままだ。

 今のは呼吸一つ分、動きが遅れた。

 こんなチグハグの状態では、精妙な力加減が必要な技を思うように使えないのだった。

 

 ――受け方を間違えたら腕ごともぎ取られてしまう防御。

 ――単純な速さではなく、空気に溶け込むような繊細な動作が必要になる『百式観音』

 ――勇儀に使ったカウンタータイプの正式な『虎王』

 

 いずれも、今の私の状態では使えない。

 正確には使える自信がない。

 最初にいきなり『虎王』で攻めたのも、カウンター版はリスクがでかすぎると判断してのことなのだ。

 萃香に対して有効な技が、ことごとく使用不可能な状態である。

 体力が全快している点だけが強みだ。

 だから、私には闇雲に攻めまくるしか勝機は残されていなかった。

 しかし、その勝機すら徐々に薄れていく。

 いつの間にか、萃香の攻撃は、手をつけられない程に激しさを増していた。

 

「シィイイッ!!」

 

 獣染みた呼気を発して、萃香が殴り掛ってくる。

 技も何もない無茶苦茶な殴り方だ。

 しかし、その速さも重さも同じように無茶苦茶だった。

 まるでマシンガンのように連続で拳が飛んでくる。

 しかも、全く休まない。

 間断がない。

 止まらない。

 かわしきれず、防御に回り、そのせいで萃香を止める為の反撃が出来ずに、更に攻撃の勢いが増していく。

 防戦一方とはまさにこのこと。

 勝負は詰みかかっていた。

 やべえよ、こいつ。

 人間じゃねえよ。

 っていうか、鬼だよ。

 こんな奴を真正面に据えて、私は何をやっているんだよ。

 不十分な受け流しによって、両腕があっという間に傷だらけになっていく。

 なんとか反撃しなくちゃいけない。

 でも、出来ない。

 攻撃出来ていないのに、今度は防御によって力を消耗していく。

 いずれ、限界が来る。

 また深呼吸したくなる。

 出来ない。

 今度は自分の意思で休めない。

 萃香は私を休ませない。

 疲れていく。

 追い詰められていく。

 似たような状況があったことを思い出す。

 あの時は、どうしたか?

 どうやって切り抜けたか?

 得体の知れないパワーに覚醒したか?

 今度もまた、あんな力が発揮出来るか?

 分からない。

 でも、他に縋るものはない。

 ならば、いっそ自分を委ねて――。

 

 あ。

 

 思い出した。

 私の上で、霊夢が戦ってるじゃん。

 

「かあっ!!」

「ぃぎっ!?」

 

 肺に残されていた酸素を全て吐き出して、その力で私は反撃した。

 突き出された拳を紙一重でかわして踏み込み、肘を思い切り萃香の鼻っ面へ叩き込んでいた。

 鼻骨を折る感触が伝わり、押し潰された萃香の声が聞こえる。

 この一撃は、戦闘を寸断するだけの力があったらしい。

 噴水のような鼻血を残して、萃香が数歩後退した。

 鬼の猛攻は止まり、私もそれ以上追撃することはしなかった。

 踏み込みの分、回避が十分ではなかったらしい。

 脇腹を掠った拳の威力で、肋骨にヒビが入ったようだ。

 痛い。

 でも、もうそれは我慢出来る。

 既に吹っ切れた。

 自分以外の何かに戦いを委ねるのは、やめだ。

 

「……そうだ。霊夢がいるからな」

「何?」

 

 大量の鼻血と涙を流しながら、萃香は何が何だか分からないって顔をしている。

 分からないだろうな。

 でも、私には分かる。

 私は今、霊夢の存在を感じている。

 錯覚じゃない。

 いや、錯覚でもいい。

 見ているか、霊夢?

 いや、見なくていい。

 自分のやるべきことを優先して。

 ただ、感じてくれ。

 そっちの相手はどうだ?

 強いか?

 こっちは相当キツイ戦いだ。

 勝てる見込みはない。

 そっちは?

 ははっ、そうか。いつも通りやっているか。

 じゃあ、私もそれに倣うとしよう。

 ありがとう。

 頑張るよ。

 ああ、私も愛してるよ。

 それじゃあ、行こうか――。

 

 

 

 

 霊夢はいつもの浮遊感の中で、重力を感じていた。

 この夜空は、まるで黒い海だ。

 津波が押し寄せてくる。

 伊吹萃香の放つ膨大な弾幕という形を取った津波だ。

 一見すると、ただ飲み込まれるしかない壁に見えるが、必ず抜ける隙間はある。

 最初はなくとも、弾の動きに合わせて隙間が出来る。

 その間をすり抜ける。

 抜けた瞬間に、背後で隙間が再び閉じる。

 もし、一瞬でも判断が遅れていたら、開かれた活路は眼前で再び閉ざされていただろう。

 霊夢がその判断を誤ることも、躊躇することもない。

 

 ――だけど、今回はちょっと苦しいかな。

 

 動きを止めずに、霊夢は独り言ちた。

 さすがは鬼の大将だ。

 弾幕の難易度も凄まじい。

 気を抜けば、撃墜されてしまうだろう。

 余分な思考は挟めない。

 まるで空気のようにならなければ、この濃密な弾幕の中を飛ぶことは出来ない。

 世界さえ切り離すように『空を飛ぶ』のだ。

 何ものにも囚われない。

 完全なる自由――。

 霊夢は『だからどうした』と思った。

『思う』ということ自体が心を縛る雑念だと理解しながら、霊夢は思った。

 霊夢は自分を縛る重力を感じていた。

 自分が飛んでいる真下の地上から伸びる、一筋の繋がりを感じていた。

 唯一自分が囚われるもの。

 自ら望んで囚われるもの。

 自分は今、母親の存在を感じている。

 錯覚ではない。

 いや、錯覚でもかまわない。

 

 ――母さん、そっちはどう?

 

 目の前に迫る弾幕を見据えながら、霊夢は声を掛けた。

 

 ――ええ、見えてるわ。

 ――大丈夫、心配しないで。

 ――あたしは、自分のやるべきことを必ずやり遂げる。

 

 霊夢は言葉を使わずに、母と対話していた。

 

 ――うん。母さんのことが分かるわ。

 

 あの人の存在をすぐ傍に感じる。

 

 ――この萃香って奴、なかなか歯ごたえのある相手ね。

 

 共に過ごした過去が二人を繋げ、託された未来が意志を伝える。

 

 ――あたしは大丈夫よ。いつも通りやるだけ。

 

 二人の目の前に立ちはだかる敵は強大。

 しかし、焦りはない。

 

 ――頑張ってね。こっちも頑張る。

 

 不安はない。

 

 ――じゃ、またね。母さん。

 

 絶対の信頼だけがある。

 

 ――大好きよ。

 

 飲み込まれそうなほど広大な空。

 何処までも続く漆黒の中を、独り飛ぶことに、もはや恐れはない。

 自分は繋がっている。

 生まれた時にへその緒で繋がっていた母はいなくとも、もっと深いところで繋がった母がいる。

 恐れはない。

 

 ――それじゃあ、行きましょうか。

 

 

 

 

 ――こいつ、生き返りやがった!?

 

 萃香は先代の変化に気付いた。

 動きの質が明らかに変わってきている。

 生き返った、とは言ったがそれは正確ではない。

 相手の体力は確実に消耗されている。

 発汗と呼吸、顔色を冷静に観察すれば分かることだ。

 手数も落ちた。

 しかし――。

 更に攻撃の威力が上がった。

 更にこちらの攻撃をいなすようになった。

 萃香も長い年月を生きた妖怪である。

 自然と多くのことを学び、経験した。

 格闘技の知識はないが、肉体を使った戦いにおいて『力を込める』ことよりも『力を抜く』ことの方が重要であることはなんとなく分かる。

 必要な脱力。筋肉の緩急が瞬発的な力を発揮するのだ。

 それを、目の前の先代は見事に実現していた。

 萃香の繰り出した拳を柔らかく逸らし、反撃の拳はバネのように伸びてくる。

 つい先程までと動きが違っていた。

 力任せの荒々しさがない。

 さっきまでの攻撃が巨大な槌だとするなら、今は鋭利な刃のようだ。

 一撃がより深く肉体に食い込んでくる。

 何故、急に変わったのか?

 萃香には分からなかった。

 

 ――確かに、さっき間合いを離した時に何呼吸分か休ませてしまったかもしれない。

 ――しかし、たったそれだけで生き返るワケがない。

 

 先代の事情を知る者は『皮肉にも疲労したおかげで同じく消耗した肉体に感覚が合ってきた』と分析するだろう。

 

 ――こいつは人間だ。わたしとは違う。

 

 人間にはない無尽蔵の体力が萃香の動きを更に加速させる。

 

 ――人間と妖怪は違う。

 

 限界のない熱の上昇が萃香の筋肉を更に膨張させる。

 

 ――そうだ。こいつは人間なんだ。

 

 雄叫びを上げて激する萃香の肉体に、冷たい鋼のような拳が突き刺さった。

 血を吐きながら、先代を睨みつける。

 揺ぎない意志を宿した瞳が、自分を睨み返している。

 

 ――当たり前のことだった。

 ――人間と妖怪は違う。

 

 かつて人間と向き合っていた長い年月の中で見たこと、経験したことを今更になって思い出し、萃香は思わず苦笑を浮かべた。

 強大な力を支柱にして独り立つ鬼とは違い、力の弱い人間はいつも群れていた。

 

 ――人間は独りじゃない。

 

 一人に見えても、見えない誰かが常に寄り添っている。

 それは家族であったり、恋人であったり、友であったりした。

 

 ――ったく、これだから人間ってやつはぁ。

 

 変化は当然だ。

 進化は必然だ。

 人は鬼が瞬きをする間に変わっていく。

 目の前の人間がそうであるように。

 

「それを蹴散らして進むのが鬼なんだよ。へへっ……」

 

 萃香は口元を拭いながら、強がるように笑った。

 

 

 

 

 先代と萃香が戦い始めて、どれだけの時間が経っただろうか。

 渦中にいる当人達はもちろん、息を呑む傍観者達も忘れている。

 その戦いはもはや上空の弾幕ごっこと遜色ないほど激しくなっていた。

 燃える火球が二つ、ぶつかり合っている。

 放たれる拳も蹴りも、空気に焦げ目を残しそうなほど激しい。

 何の術も能力も用いない純粋な肉弾戦でありながら、無数に炸裂する見えない火花が眼に焼き付くような戦いだった。

 戦いの最中にいる萃香は、薄々と感じていた。

 

 ――押されている。

 

 攻撃を一ついなされる度、攻撃を一つ受ける度、徐々に募っていく不安だった。

 

 ――鬼のわたしが、人間のこいつに戦いで押されている!

 

 一見、拮抗しているように見える勝負の優劣に、周囲の者達の中でも徐々に気付くものが現れているだろう。

 萃香は場違いにも、そんなことが気になって仕方なかった。

 気付かれたくなかった。

 自分が、目の前の人間に負けているなどと、思われたくなかった。

 それは恥ずかしいことだ。

 鬼として情けないことだ。

 戦う前にさんざん啖呵を切り、覚悟を決めたと思っていた自分が現実を前にして晒した地金。

 鬼としての見栄と意地が、自分の本性だった。

 それでも勝ちたい。

 負けたくない。

 もし、この勝負で負けたら、その時自分は一切の言い訳が出来なくなる。

 健闘した人間相手に鬼が『勝負を譲ってやった』と笑って認めることも出来ないのだ。

 酒の飲み比べだとか、術比べだとか、そういった分野の違う勝負を遊びでやっているわけではない。

 純粋な力比べだ。

 何も複雑なことなどない、生死を賭けた喧嘩だ。

 鬼の矜持を懸けて、本領である場で戦っている。

 もし、この勝負で負けるのならば、それは鬼という自分が全身全霊で負けたことと同義である。

 その敗北に何一つとして言い訳など挟めない。

 

 ――もし、本来の力が出せたら。

 ――もし、『疎』を操る能力まで完全に使える状態だったら。

 

 無意識にそんな仮定を思い浮かべて、萃香は笑った。

 自分への嘲笑だった。

 目の前に自分がいたら、そいつに向かって唾を吐き、蔑んでいただろう。

 なんて卑しい奴なんだ、わたしは。

 鬼のくせに自分を騙そうとしている。

 全て、納得づくで始めたはずの勝負だ。

 二人の巫女を相手に戦うと最初から決めていたはずだ。

 それを今更『公平ではない』と思おうとしていた自分の女々しさが、心底嫌になった。

 ならば、相手の方はどうなのか?

 仲間の鬼をけしかけ、消耗させた。

 逆に相手には援軍を認めず、一対一の決闘を申し込んだ。

 そもそも、鬼と人間の生まれの差はどうする。

 そういった互いの事情を全て呑み込んで、自分達は殴り合い、撃ち合っている。 

 何一つ嘘や騙しの入り込む余地はない。

 突きつけられる現実こそが全てだ。

 その現実が今、萃香を追い詰めていた。

 強者として生きてきた伊吹萃香にとって、生涯初めての経験をもたらしていた。

 

 ――勝ちたい。

 ――吐き気がするほど勝ちたい

 ――いや、なんとしても勝つ。

 ――『全力で戦う』なんて生温いことは言ってられない。

 ――持ち得る全てを駆使して勝つ!!

 

 盃を片手に粋と風情で勝負事を楽しむ鬼としての見栄を捨てた萃香は、浅ましいまでの勝利への欲求を剥き出しにして叫んだ。

 渾身の蹴りを放つ。

 先代がそれを受け流し、反撃の拳打を放つところまでは予想通りだ。

 萃香はその反撃を、初めて回避した。

 大きく後ろに跳んだのだ。

 もちろん、これは攻撃を避けるのが目的ではない。

 距離を取る為のものである。

 自分の拳も、先代の拳も届かない間合いで、萃香は大きく息を吸い込んだ。

 

「かぁああああーーーっ!!」

 

 萃香は口から火炎を吐き出した。

 空気を焼いて『ごぅ』と唸るような音ではなく、『ごんっ』と低く爆発するような勢いで放たれた凄まじい炎だった。

 それが一直線に先代に襲い掛かった。

 拳や蹴りとは違う、形を持たない炎である。

 口から吐き出されると同時に放射線状に広がった炎は、この距離ではかわしようも、守りようもない。

 萃香の奥の手だった。

 使うつもりのなかった奥の手だった。

 先代と本気で戦いながら、心の何処かで『対等に肉体だけで勝負してやろう』という思いがあったのだ。

 正真正銘の奥の手を、萃香は使わざるを得なかった。

 

 ――勝った!?

 

 かわせないし、守れない。

 この炎が当たれば、人間など一瞬で火達磨だ。

 もちろん、これだけで倒せるほど甘くみてはいない。

 形がない故に炎を避けられないが、同時にこの攻撃には打撃力というものがない。

 炎に対して恐れず踏み込めば、一瞬で間合いは詰まる。

 この炎を吐く為に大口を開けた無防備な顔に拳を叩き込むのに、遮るものは何もない。

 だから、この炎は一瞬だけ吐いて、すぐに歯を食い縛る。

 しかし、それで十分だ。

 消し炭にすることは出来なくとも、超高温超高密度の鬼火は皮膚を焦がし、肺を焼き、もし瞼を閉じるのが遅れれば眼球が溶けるか弾ける。

 人間には致命的なダメージだ。

 それから改めてトドメを刺す――。

 そこまで考えた。

 生まれて初めて、萃香は、決着する前に勝負の結果を夢想した。

 その次の瞬間だった。

 先代を焼くはずだった炎が、直前で霧散した。

 眼に見えない結界が遮ったわけではない。

 むしろ、萃香の見開いた眼にはハッキリと見えていた。

 先代が、素手で迫り来る炎を散らしたのだ。

 広げた両手のひらがぼんやり纏っているのは霊力の光である。

 それで鬼の炎を払った。

 受け止めたのではない。

 両手が円を描くように動き、その手のひらに絡め取られるように炎が分散され、先代の体に触れることなく掻き消えたのだ。

 最初に予定していた通り、吐き出す炎はもう止めていた。

 しかし、萃香は呆けたように口を開いたままだった。

 先代の起こした得体の知れない現象を『防御』とすら判断出来ず、驚愕に固まることしか出来なかったのだ。

 その致命的な隙を、先代が全力で突いていた。

 萃香が離した間合いを、今度は先代が踏み込みの助走距離に使って、渾身の力を込めた正拳突きを腹に叩き込んだのである。

 

「おごぉおおっ!!」

 

 自分の吐き出した高い呻き声を聞いて、萃香は我に返った。

 腹から潜り込んだ衝撃と激痛が、胃液と共に口から溢れた。

 体をくの字に折った萃香に、先代は全く容赦なく畳み掛けてきた。

 掬い上げるような蹴りが、俯いた萃香の顎に突き刺さる。

 跳ね上がった頭が降りてくる前に、タックルを仕掛け、共に地面に倒れ込んだ時には先代が萃香の上に跨ったマウントポジションとなっていた。

 かつて勇儀相手にも取った、圧倒的に優位な体勢である。

 先代は当時を再現するように、そこから萃香の顔面を滅多打ちにした。

 萃香は両腕で庇うように頭を守り、必死で耐えるしかなかった。

 反撃などする余裕もない。

 何より混乱している。

 未だに先代が何をして、自分が何をされたのかよく理解出来ない。

 どうやって、あの炎を防いだんだ?

 あれは本当に奥の手だったんだ。

 卑怯じゃないか、とさえ考えていたんだ。

 そんなわたしの葛藤が、馬鹿に思えるくらいあっさりと防ぎやがった。

 挙句、この有様だ。

 なんだよ。

 こいつ、強すぎるよ。

 人間じゃねえよ。

 戦いの権化だ。

 鬼みてぇな奴だよ。

 勇儀よう。

 こんな奴の両足を、どうやって潰したんだよ。

 駄目だ。

 勝てない。

 このまま負ける。

 嫌だ……。

 嫌だ、負けたくない。

 畜生。

 潔く敗北なんて受け入れられるか。

 負けた後で『天晴れ見事』なんて笑って言えるか。

 そんなもんは糞食らえだ。

 わたしはこの勝負に全てを懸けたんだ。

 言い訳なんて出来ないんだ。

 崖っぷちなんだ。

 どんな物にだってしがみ付くしかない。

 例え無様に足掻いてでも勝ちたい。

 負けるくらいなら泥水を啜った方がマシだ。

 畜生。

 負けたくない。

 負けたくない――!

 

 

 

 

 振り下ろされる拳の下で、萃香は叫んでいた。

 言葉にならない奇声だった。

 鬼が、発狂した子供のように滅茶苦茶に喚いたのだ。

 萃香は喚きながら防御を解いた。

 敵の変貌に動揺することもなく、先代は冷徹なまでにそこへトドメの拳を叩き込もうとした。

 その時、萃香の片手は地面の砂を握っていた。

 自分のしていることを理解してやったわけではない。

 ただ本能的に『負けたくない』という浅ましくも激しい思いが、体を突き動かしていた。

 萃香は握った砂を先代の顔に投げつけた。

 思わぬ反撃に、先代は呻きながら眼を手で覆った。

 致命的な隙が出来る。

 その隙に、萃香は全力で攻撃していた。

 全く躊躇しなかった。

 横殴りの拳が受けた先代の肘を押し潰し、その防御越しに肋骨をへし折って、体を吹き飛ばした。

 自由になり、地面を転がる先代を見て――萃香は自らがしたことを理解した。

 

 

 

 

 倒れ込んだ先代を見た萃香は、次に土に汚れた自分の手を見て、それから慌てて周囲に視線を走らせた。

 自分のしてしまったことを誰かに見られただろうかと思い、躍起になって見回した。

 多くの傍観者達は相変わらず上空の戦いに眼を奪われていたが、先代の戦いを見る者が少なからずいた。

 そんな者達と、萃香の眼が合った。

 誰もが、信じられないといった表情で呆然と自分を見ている。

 それまで間断なく続いていた戦いが、思わぬ形で止まったのだ。

 戦いの流れを決めたのは、萃香の秘術でも、先代の奥義でもない。

 鬼が人間に追い詰められて、あろうことか砂の目潰しを食らわせたのである。

 進退窮まり、どうしようもなくなった子供の喧嘩のように、滅茶苦茶に喚いて、その辺の砂を引っつかんで投げたのだ。

 気高い鬼が。

 あの伊吹萃香が――。

 

「へ……へっ、へへ……」

 

 萃香は倒れた先代に視線を戻した。

 彼女はすぐにも立ち上がろうとしていた。

 

「はっ、へへへ……!」

 

 萃香の口元が引き攣るように持ち上がる。

 彼女に似つかわしくない、卑屈な笑い方だった。

 

「どうだ、思い知ったかい?」

 

 笑う端から、亀裂が走ってボロボロと崩れ落ちていきそうな表情だった。

 

「卑怯だって罵るかい?」

 

 笑いながら、実際にそう罵られることを心底恐れていた。

 先代が立ち上がった。

 しかし、その左腕はだらりと力なくぶら下がっている。

 萃香には腕が折れていることが分かっていた。

 攻撃を受け止めた肘の骨を靭帯ごと押し潰してやった。

 その腕越しに、肋骨を三本は折った手応えもしっかりと確かめている。

 内臓も痛めたはずだった。

 先代が、どす黒い血を吐いている。

 追い詰められていた勝負は、たった一撃で逆転した。

 これこそが鬼の剛力だ。

 如何に理不尽とはいえ、種族としての本領を恥じることはない。

 萃香は自分と相手を誇りながら、全力で攻撃を続けていただろう。

 その逆転の切欠が、あまりにも浅ましい行動でさえなければ――。

 

「勝てばいいんだ……」

 

 萃香は震える声で呟いた。

 

「砂かけようが、石を掴んで殴ろうが、後ろから襲おうが、いいんだ。なにやったって、勝てばいいんだよっ!」

 

 悲鳴のように叫んでいた。

 取り返しのつかない言葉を、自分を含めた全員に言い聞かせるように叫んでいた。

 萃香はもう、周りを見ることが出来なかった。

 自分のやったことと言ったこと、それらに対する反応を想像するだけで恐ろしくて震えていた。

 

 ――失望の視線。

 ――嘲りの笑み。

 ――蔑む呟き。

 

 それらの一つでも知覚してしまったら、心が折れてしまうと分かっていた。

 鬼として生きた長い年月積み重ねてきたもの全てが、そこで崩れる。

 これまで語ってきた自らの矜持を、全て嘘にしてしまう。無駄にしてしまう。

 伊吹萃香という誇り高い鬼が、単なる畜生に堕ちる時だ。

 眼を逸らしたかった。

 自分のしてしまったことを無かったことにしたかった。

 しかし、現実はどこまでも覆せない。

 土壇場で形振り構わず勝利にしがみ付いた、これが自分の本性。

 そして、自分はまだ勝負の最中にいるのだ。

 もう何も見たくなかったし、何も聞きたくなかったが――萃香は先代を見た。

 彼女の反応を待った。

 このまま戦えば、萃香が圧倒的に有利である。

 しかし、追い詰められたのは萃香だった。

 先代が、ただ一言口にするだけで終わる。

 具体的な言葉は何でもいい。

 その一言の意味を、誰よりも萃香自身が理解するからだ。

 ただ一言、蔑み、嘲り、あるいは哀れむだけで、伊吹萃香という鬼は殺せるのだ。

 

「どうした? 何とか言えよ。先代、腕はどんな具合だ?」

 

 あえて、先代の怒りを誘うように挑発する。

 自分を殺す言葉を誘う。

 萃香は既に戦う気力を失っていた。

 

「――さあな。確かめてみたらどうだ?」

 

 先代が浮かべたのは、不敵な笑みだった。

 

「片腕をやられた。お前でも勝てる」

 

 残された右手で拳を作り、先代は構えていた。

 耐え難い激痛が走っているはずだったが、笑みを崩さない。

 その瞳には気力が充実している。

 この状況でも尚、先代は勝負に勝つつもりなのだとハッキリと分かる姿だった。

 

「来いよ、萃香。能力なんか捨てて、かかってこい!」

 

 萃香は表情を取り繕うのも忘れて、眼を見開いた。

 先代の視線や言葉に、先程の萃香の行為を非難する意図や蔑む感情は欠片もない。

 戦いを始めた時と同じ、あるいはそれ以上の戦意を漲らせて、真っ直ぐに睨みつけている。

 予想もしていなかった反応に、萃香の体は別の意味で震え始めていた。

 

「楽に殺しちゃつまらんだろう? 真正面から拳を叩き込み、苦しみ悶える私を食い殺すことが望みだったんだろう? ――そうじゃないのか、萃香」

 

 先代が何を言っているのか、最初は分からなかった。

 その意図と真意を図りかねていた。

 しかし、言葉の意味を呑み込んで、ゆっくりと理解する内に、萃香の中で徐々に何かが湧き上がってきた。

 

「さあ、その拳でもう一度かかってこい。一対一だ。楽しみをふいにしたくないだろう?」

 

 手放しかけた己の矜持を再び握り、殴りかかってこいと先代が言っているようだった。

 完全に萎えていた戦意が、先代の言葉と仕草に煽られるように燃え始める。

 

「来いよ、萃香」

 

 言って、

 

「――怖いのか?」

 

 先代がニヤリと笑った。

 萃香はもちろん、普段の彼女を知る者も初めて見る種類の笑みだった。

 どんな戦いの時でも求道者のような寡黙さを纏う先代巫女は、圧倒的に不利な状況で、あろうことか敵を挑発しているのだ。

 それに気付いた瞬間、萃香の中で燻っていたもの、濁っていたものが全て爆発して消し飛んだような気がした。

 頭の中が真っ白になった。

 これまで感じていたことが消えてなくなり、これから考えることがどうでもよくなった。

 残ったのは痛快さだけだった。

 なんて奴だ。

 なんて――!

 

「は……はははっ……てめぇ」

 

 込み上げる笑い声を必死で堪えた。

 もう卑屈な笑い方ではない。

 しかし、今は笑う力さえもったいない。

 全ての力をこれから始める戦いにとっておきたい。

 理解した。

 目の前の強大な敵に『あれをして良い』とか『これはしてはいけない』とか考えることが、単なる余分でしかないことを理解した。

 そんなことでこいつは揺るがない。

 その程度で揺らぐなら苦労はしない。

 あらゆる手を尽くしても勝てる気がしない。

 だけど――勝ちたい。

 ただその一念だけが萃香の心に残った。

 先代、お前に感謝する。

 お前が相手だからこそ、わたしはまだ戦える。

 お前が相手だからこそ、わたしはまだ勝ちたいと思える。

 

「ぶっ殺してやらぁああああっ!!」

 

 もう形振りなど構わない。

 策などない。

 後戻りすら捨てて、己の身一つで特攻する。

 心の底から吐き出すように、雄叫びを上げて萃香は最後の戦いを仕掛けていった。

 

 

 

 

 腕が折れた。

 肋骨も折れた。

 何本かは分からないが、一本じゃない。

 ……格闘漫画とかのキャラって折れた肋骨の数とか正確に分かるよね。あれ、地味に凄くね? 現実でも分かるもんなの?

 

 そんな現実逃避染みた疑問が浮かび上がるところ、私も焦っているようだ。

 痛みはいい。慣れている。

 左腕が使えなくなったことも、この際まだマシと考えられるだろう。

 問題は、追い詰められているのが私だけではなく、萃香も同じだということだ。

 まさか、あの萃香が砂の目潰しをしてくるとは思わなかった。

 ああいう種類の攻撃は嫌ってると思っていた。

 鬼の誇りとかにこだわってたからね。

 つまり、それだけ私が萃香を追い詰めていたということなのだ。

 確かにあの瞬間までは私も『勝てる』と考えていた。

 萃香の鬼火を、咄嗟の『廻し受け』で防ぎきった時は思わず内心でガッツポーズしたもんだ。

 自分でやっといてなんだけど、この技マジで『矢でも鉄砲でも火炎放射器でも持ってこいや』って感じだな。

 初めて試してみたが『黄金の回転』と組み合わせたのが正解だったのかもしれん。

 原作でも水中で一瞬防御してたから、上手くいく予感はあったが。

 ここに至って――護 身 開 眼 !

 しかし、そんな新しい防御技の発見も、今の片腕を潰された状態では無意味だ。

 今度は私の方が一気に追い詰められてしまった。

 非常に拙い。

 

 ――いや、目潰しは別にいいんだ。私は、一向に構わんッッ!!

 

 卑怯とか言うつもりはない。

 この戦いがルールなどない野試合だと事前にちゃんと分かってたからね。

 実戦ならば、相手が砂や石の目潰ししてきたり、土下座して奇襲したり、ピザを顔面に叩きつけられてもおかしくないのだ。

 根拠は餓狼伝。

 あえて言うなら、目潰しを食らった私が悪い。

 そんなことより、もっと重要なことがある。

 萃香を形振り構わないところまで追い詰めた結果、能力を全開で使われる方が圧倒的に拙い!

 今まで何故か使われていないが、『疎』を操る能力を使われたら、目潰しとかどうでもよくなるくらいヤバイことになる。

 霧に変化して攻撃が当たらなくなる、って程度ならまだ可愛いものだ。

 具体的に『ミッシングパワー』とか使われたら、完全に勝ち目なくね?

 べジータ戦の悟空みたいにされてしまうぞ。

 他には公式でやってなかったけど『霧になった状態で相手の体内に入り込んで破壊』とか出来そうじゃね? つまり萃香は東方最強説。はい、論破。

 私ってば実は、そういう妖術に類する搦め手が弱点なのよ。

 とにかく、想像も含めて萃香に能力を使われるのは非常に拙いのだ。

 立ち上がった私は、まず萃香の様子を伺った。

 問答無用で巨大化されたら、もう一目散に逃げるしかない。

 さて、どう出るか――?

 

「どうした? 何とか言えよ。先代、腕はどんな具合だ?」

 

 挑発的な台詞――それを聞いた瞬間、私の脳裏に秘策が生まれた。

 ぐ、偶然とはいえ、まさか萃香がそのネタを振ってくるとは!

 そうだ……このやり方ならいける!

 萃香に能力を使わせず、このまま素手で戦わせるのだ!

 私はイチかバチかの勝負を仕掛けた。

 舌戦での駆け引きなんて初めての経験だが、やってみるしかない。

 

「――さあな。確かめてみたらどうだ?」

 

 筋肉式☆洗脳術、開始!

 

「来いよ、萃香。能力なんか捨てて、かかってこい!」

 

 説明しよう!

 筋肉洗脳に掛かると、理性的な判断が出来なくなり、人質の娘もハジキも捨てて、格闘戦で決着をつけることしか考えられなくなるのだ!

 

「さあ、その拳でもう一度かかってこい。一対一だ。楽しみをふいにしたくないだろう?」

 

 さりげなく『その拳で』と強調して、能力から意識を逸らさせる。

 生来口ベタなので、挑発なんてほとんどやったことはなかったが、今回ばかりは理想的なお手本がいるので完璧にやれる。

 私の切り札は漫画の知識だけではない。映画もあるのだ。

 私は、筋肉モリモリマッチョマンが乗り移ったかのように、滑らかに萃香を挑発し続けた。

 

「来いよ、萃香――怖いのか?」

 

 仕上げに、顔面の筋肉を総動員して笑みを形作る。

 ――決まった!

 これで頭に血が昇らない奴はいねえ!

 

「ぶっ殺してやらぁああああっ!!」

 

 案の定、理性的な判断を失った萃香はすごい勢いで私に殴りかかってきた。

 さっきまで落ち着いた雰囲気だったのだが、なんか一気に戦意が蘇り、闘志も漲っている。

 攻撃も、より激しさを増した。

 だけど、能力を使われるよりは、どんなに激しくても単純な格闘戦の方がまだ勝ち目があるだけマシだった。

 フフフッ、まんまと私の策に嵌ったな萃香。

 先を見越した上での駆け引き!

 やべえな、私ってば意外と策士じゃね?

 しかし、勝ち誇るにはまだ早い。

 片腕が使えず、重傷も負って、不利なことには変わりない。

 

 だが、決着もまた近い。

 いくぜ、萃香。こいつがラストスパートだ――!

 

 

 

 

 拳を出しながら、萃香は決着が近いことを予感していた。

 蹴りを出しながら、萃香はこの攻撃では決着はつかないと確信していた。

 しかし、一発たりとも手加減はしない。

 全力で攻撃している。

 決着は近い。

 その為の決定打を用意してあるわけではない。

 しかし、決着の瞬間は近づいている。

 理屈はない。

 ただ、その予感を確信する。

 もう常識的な判断や予測など、萃香はしていない。

 全力で動いている。

 目の前の人間も同じはずだ。

 鬼を相手に、片腕で、渡り合っている。

 相変わらず攻撃をかわし、受け流し続けている。

 潰れた左腕はもちろん、無事な右腕も使わず、なんと足だけで戦っている。

 飛んでくる拳や蹴りを、足を使ってかわし、受け流しているのだ。

 しかも、反撃まで足だ。

 横合いから鞭のようにしなる蹴りが襲ったかと思えば、槍のような前蹴りがみぞおちを狙う。

 蹴りだけではない。

 顔面を狙った拳打まで来る。

 こいつは、足の指を握って拳を作っているのだ。

 なんという肉体だ。つま先まで鍛え上げられている。

 攻撃の軌道が絞られた代わりに、強靭な脚力によって攻撃力の増した先代の猛攻を、萃香はかろうじて耐えていた。

 攻撃を受ける度、肉体が軋み、血を噴き出す。

 萃香の攻撃も、先代を掠めて削り取っていく。

 疲労が出血で塗り潰され、その上に更に疲労が上書きされていく。

 両者とも血塗れだ。

 二人とも瀬戸際で戦っている。

 

 ――決着は近い。

 

 萃香は、先代の意図を読んでいた。

 分かっている。

 先程から、先代は右手を攻撃にも防御にも使っていない。

 それが正真正銘の奥の手だからだ。

 構えたまま動かない拳は、奇妙な握り方をしていた。

 完全に握っていない。

 特に親指と人差し指と小指の三本を僅かに開いている。

 拳というよりも、菩薩像の手のような形だった。

 あの先代巫女が、ただの疲労で拳を握れないはずがなかった。

 何らかの深遠な意味が、あの握り方に込められているのだろう。

 そして、それを放つ時がこの戦いの最後の勝負所だ。

 奥の手か――。

 それは自分にもある。

 ただし、それは成功するかどうか分からない賭けだ。

 萃香は、その賭けに躊躇無く乗った。

 

 ふうっ、

 

 と、萃香が、その時腹に溜めていた息を吐き出し、拳を下げた。

 苛烈な戦闘の最中で、あまりに唐突な脱力だった。

 隙が出来た。

 拮抗していた勢いが怒涛の如く片方へ流れ込む、大きな隙が。

 

「――コォッ!!」

 

 その瞬間、先代の呼吸が変わった。

 このわざと生み出した隙に、先代が勝負を仕掛けに来たのだと萃香には分かった。

 駆け引きに勝ったのか、それとも見抜いた先代が更に裏を狙ってきたのかまでは分からない。

 しかし、もうそれは関係ない。

 先代が何かを始める。

 それを見極めて、こちらの奥の手を成功させる為に、最大限集中する。

 来るか!?

 その右の拳が――!

 

「コォオオオッ!!」

「な――がっ!?」

 

 来た。

 左の拳だった。

 骨が折れて動かないはずの左腕が、急に動き出して、萃香の顔面を打っていた。

 例え激痛は我慢出来るにせよ、腕を支える骨が折れているのに、何故動かせるのか。

 ワケが分からなかった。

 分からなかったが、しかし現実に動いたのだ。

 萃香はその無駄な思考を、混乱と一緒に切り捨てた。

 意表は突かれたが、これは決着の一撃ではない。

 やはり、本命は右の拳だ。

 その根拠のない確信のおかげで、意識が朦朧としながらも、先代の右手に集中し続けることが出来た。

 右の拳が、動いた。

 

 ――来た!

 

 萃香の待ち構えていた瞬間だった。

 あの菩薩の手のような形の拳が、心臓目掛けて繰り出される。

 速い。

 今の状態ではかわせない。

 防御も危険だ。

 どんな威力が込められているのか分からない。

 ならば――賭けだ。

 萃香は全ての動作を放棄して、ただ一つ念じた。

 狙われている心臓部分を、『疎』を操って霧に変える。

 出来るかどうかは分からない。

 能力の内『疎』を操る部分は、ほとんど上の自分に移してしまった。

 この肉体は霧に変えることは出来ないし、巨大化も出来ない。

 しかし、『密』と『疎』を操る能力は伊吹萃香が生来持つ力である。

 能力自体が失われたわけではない。

 一瞬ならば――。

 それが、体のごく一部ならば――。

 萃香は賭けに出た。

 そして、

 

「勝ったぞ!」

 

 拳が届く前に、半身を霧へと変えることに成功した萃香は、勝利を確信した。

 如何に威力があるとはいえ、物理攻撃に類する先代の拳は、これで無効化される。

 最大の攻撃は最大の隙でもある。

 あの拳が霧になった体をすり抜けた瞬間に、硬直の隙を突いて一撃で決める。

 萃香は拳を握った。

 拳が当たった。

 

 ――先代の菩薩の拳が。

 

 萃香の体が、遥か後方へと吹き飛んでいた。

 地面に叩きつけられ、糸の切れた人形のように転がって、ようやく停止する。

 仰向けに倒れた萃香の胸には、致命傷が刻まれていた。

 先代の拳は、霧となっていたはずの心臓を抉り、貫き、大穴を空けていた。

 萃香はぴくりとも動かない。

 

「な……ぜ、だ……?」

 

 気がついた時には見上げていた夜空を信じられない気持ちで眺めながら、萃香は純粋な疑問を呟いた。

 あの時動いたのが嘘だったかのように、再び力なくぶら下がった左腕を抱えながら、先代が萃香に歩み寄る。

 

「――己の心を細くせよ」

 

 先代が小さく呟いた。

 

「川は板を破壊できぬ。水滴のみが板に穴を穿つ」

「……ははっ、何だい? そりゃあ……」

 

 先代はそれ以上答えなかった。

 萃香には、先代の語ったことがどういう意味を持つのか分からない。

 しかし、先程の自分の疑問に対する答えなのだろう。

 その理屈で、霧になった萃香を殴ったのだ。

 やはり意味が分からない。

 分からないが、この人間が自分の予想を超えたことだけは分かる。

 戦いを始めて以来、何度となく繰り返されたことだ。

 結局、先代巫女が伊吹萃香の上を行き続けた。

 それゆえの決着なのだ。

 

「……わたしの首を獲れ」

 

 終わりを悟った萃香は、ただ一言告げた。

 先代に『お前の勝ちだ』と告げることだけは出来なかった。

 勇儀とは違う。

 自分は、そんなに潔い性格ではない。

 今でも、負けたくないと思っている。

 しかし、もう抗うだけの力は残っていない。

 自分が認めたくなくても、現実が容赦なく決着を突きつけてくる。

 ならば、口を閉ざしたまま死ぬ。

 自分から受け入れるようなことは絶対にしない。

 それが、例えどれだけ見苦しくても。

 

「断る」

 

 しばらくの間を置いて返された、予想通りの言葉に萃香は苦笑した。

 分かっている。

 勝利に栄誉など感じない性格の人間だということは。

 これも、彼女の美徳の一つなのだろう。

 勇儀は、それに生かされた。

 しかし――。

 

「そうかい。だけど、わたしは勇儀とは違うよ?」

 

 呟くやいなや、萃香は最後の力を振り絞って起き上がった。

 上半身を起こしながら、手刀で自らの首を切り飛ばす。

 切り離された首は、起き上がる勢いに乗って、先代の喉元目掛けて飛んだ。

 牙を剥き出しにして襲い掛かる頭だけの萃香に意表を突かれながらも、咄嗟に首を捻ってかわそうとする。

 かろうじて、喉元に食い付かれることだけは避けた。

 しかし、掠めた牙が左の頬の肉を削り、横になびく長い黒髪を半ばから食い千切っていた。

 萃香の頭は、そのまま地面に落ちて転がった。

 今度こそ、完全に力を使い果たしたらしい。

 地面に転がったまま動かない萃香の頭を、先代は呆然と見下ろしていた。

 牙の掠めた左の頬は、肉を抉られるほど深い傷ではなかったものの、出血量からして決して浅い傷でもない。

 例え治癒しても、大きく傷痕が残ることになるだろう。

 

「ちぇっ……最期の一矢も報いず、か……」

「何故……」

「言ったろう? わたしは、勇儀とは違うのさ」

 

 徐々に光を失いつつある瞳で先代を見上げながら、萃香は力なく笑った。

 

「こういう見苦しい奴もいるのさ……」

 

 それでも満足そうな口調で、萃香は眼を閉ざした。

 それきり、動かなくなった。

 先代は、しばらくの間、呆けたように佇んでいた。

 やがて、倒れた萃香の胴体と首がゆっくりと霧散して消えていった。

 分身の時のように、本体へ戻ったわけではない。

 二つに分かれたとはいえ、先代と戦った萃香も本体には違いなかった。

 言わば半身だ。

 それが消滅した。

 半身とはいえ、それは間違いなく伊吹萃香という鬼の『死』だった。

 先代だけではなく、息を潜めるように見守っていた周囲の人妖達も、それが理解出来た。

 先代は天を仰いだ。

 上空では、未だ霊夢と萃香が戦いを続けている。

 しかし、地上での戦いはたった今、終わった。

 決着というよりも、萃香の死という結果によって――。

 

 不意に、先代が膝を着いた。

 崩れるように、体が倒れていく。

 それを支える為に、誰よりも速く駆けつけたのは射命丸文だった。

 文の腕に抱えられながらも、先代は歯を食い縛って上空の戦いを見上げていた。




<元ネタ解説>

『最後の連続攻撃の元ネタと流れを解説』

・折れた左腕をジョジョの波紋によって痛みを和らげつつ、一時的に治癒(原作ではジョナサンが折れた腕を治した)→左手で殴った際に、反動で再び骨折→右の拳の握り方はグラップラー刃牙のキャラ『愚地独歩』の菩薩の拳→霧の部分に攻撃を当てられたのは、うしおととらの穿心(原作で霧の妖怪を槍で貫いた)

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