東方先代録   作:パイマン

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風神録編その三。


其の四十二「幻想入り」

「これで、全部か……」

 

 霊夢は額の汗を拭った。

 類稀なる術の才能があったとしても、身体能力的にはやはり人間の範疇である。

 少女の細腕で瓦礫を撤去しながら、その下に埋まった物を取り出すのは大変な労働だった。

 既に一刻近くが過ぎていた。

 ようやく使えそうな物をあらかた掘り出せたが、それは居間のあった場所に限ってのことである。

 土間に仕舞ってあった食器や食料など、押し潰されて駄目になっている可能性の高い物は後回しにしておいた。

 霊夢の目の前には、仕事道具一式と無事だった私物が幾つか並んでいる。

 萃香との決闘で破壊された物の代わりに霖之助が新しく用意してくれた陰陽玉が、二つ。

 常日頃から備え置いてある御札や針。

 これらは一見壊れやすそうに見えるが、霊夢の力が込められている為全て無傷だった。

 他にも、戦闘や弾幕ごっこに耐え得る博麗の巫女の装備は全て問題なく回収出来た。

 だが私物に関しては、無事な物は驚くほど少なかった。

 服の仕舞ってあった箪笥は、落ちてきた屋根の重みで潰れていた。

 中身は何着か無事だったが、逆に言えば何着かは破れて駄目になってしまっている。

 清潔さ以外で衣服に頓着しない霊夢は、普段から巫女服を着ていた。

 それ以外の私服といえば、寝巻きくらいだ。

 別段、それらに執着はない。

 使い物にならなくなったのならば、新しく買えばいい。

 しかし、箪笥の奥に仕舞っておいた昔の母の服が無残に破れているのを見つけた時、霊夢はしばらく動くことが出来なかった。

 折れた柱の内から、何本もの古傷が付いている物を見つけた時も同じだった。

 

「――」

 

 ほとんど家具が、無事ではすまなかった。

 木材の下敷きになって割れてしまった古い裁縫箱を手に取り、中身を確認する。

 案の定、滅茶苦茶になっていた。

 折れて使い物にならなくなっていた針と無事な針を、一本一本選り分けていく。

 この裁縫道具一式は、かつて母が使っていた物を譲り受けたものだ。

 成長する自分に合わせて服を縫い直す母の姿を思い出しながら、自分も繕いモノをしていた。

 裁縫の技術は『いつか一人で生活する時の為に』と、母から習った。

 母は決して裁縫の上手い人ではなくて、あっという間に霊夢の方が上達してしまったが、習うことがなくなっても二人並んで作業をするのが好きだった。

 物思いに耽っていた霊夢は、指先に走った小さな痛みで我に返った。

 折れた針で、指を刺してしまったらしい。

 指の上で、血の玉がゆっくりと膨らんでいく。

 それをぼんやりと見つめていた霊夢の視界が、不意に滲んだ。

 熱いものが眼の奥から湧いてくるのを感じた。

 指の痛みが理由ではない。

 胸に穴が空いたような痛み。

 初めて感じる苦しさ。

 壊され、失った物が二度と戻らないと理解した時の絶望。

 

「……ぁ」

 

 それは、耐えられないほどの喪失感だった。

 

「ぁぁ……く……っ」

 

 喘ぐように口を開き、震えながら歯を食い縛って閉じる。

 変わり果てた我が家の上でうずくまり、霊夢は必死で溢れ出そうになる声を噛み殺した。

 しばらくの間、そうして耐えることしか出来なかった。

 

「――おやおや、これはどうしたことじゃ?」

 

 不意に聞こえた知らない声に、霊夢は硬直した。

 境内に続く階段の方からだ。

 丁度、背を向ける形になってしまっている。

 ゆっくりと近づいてくる足音の主が妖怪の気配を放っていることに気付くと、霊夢は内心で舌打ちした。

 声が聞こえるまで、全く気付けなかった。

 普段の霊夢からは想像も出来ない迂闊さだった。

 

「なーんか厄介なことになってきたのう」

 

 のんきにぼやく声を背中で聞きながら、そこに妖怪特有の博麗の巫女に対する敵意がないことを感じ取ると、霊夢はゆっくりと立ち上がった。

 背は向けたままである。

 敵意がないとはいえ、こちらの動揺をわざわざ相手に教えるつもりもなかった。

 さりげなく目元を袖で拭い、両目に篭もった熱が引くまでの時間を稼ぐ為に、霊夢は背を向けたまま口を開いた。

 

「妖怪が参拝にでも来たのかしら?」

「うむ。それもやぶさかではないと思っておったんじゃが……ここは博麗神社で間違いないんかのう?」

「そうよ。ここは博麗神社よ」

「神社……なくなっとるんじゃが?」

「正確には、『元』博麗神社よ。今朝、こうなったばっかりのね」

「それは、なんとも……ご愁傷様」

 

 気まずげな相手の応答に、霊夢はため息を吐いた。

 体に残っていた最後の強張りが抜けていく。

 どうやら相手は博麗神社を知らない。

 そして、神社がこうなった原因も、もちろん知らない。

 今回の件の部外者であり、余所者の妖怪らしい。

 見知らぬ妖怪であるというだけで最低限の警戒は解いていないが、冷静になった霊夢は眼の違和感が消えたのを確認して、ゆっくりと振り返った。

 

「あー、それでおぬしは博麗神社に住む……住んでおった博麗の巫女でよろしいかね?」

「そうよ。あたしは博麗霊夢よ」

「ご丁寧に。儂(わし)は――」

「妖怪でしょ。分かるわ」

「う、うむ。身も蓋もないのぅ……」

 

 霊夢は、改めてその妖怪を観察した。

 声色と気配で分かっていたことだが、初対面の妖怪である。

 外見は、霊夢よりも年上の大人の女性に見える。

 年上とはいっても、年寄りめいた口調とは裏腹に十分若く美しい。

 顔立ちには『美貌』というよりも『可愛げ』と表現した方がいいような愛想の良さがあった。

 鼻の頭に乗った丸眼鏡が、柔らかな雰囲気を手伝っている。

 しかし、彼女が人外の存在であることは一目で分かった。

 頭と尻に、獣の耳と尻尾が生えていたのだ。

 

「狸の妖怪?」

 

 尻尾の形状から、霊夢は判断した。

 

「うむ、化け狸じゃ」

「見たところ、結構な力を持っているようね」

「おおっ、分かるか。ふふふ、儂の凄さが分かるとは若いのに見所あるのう。さすがは博麗の巫女じゃ!」

 

 胸を張って、妙な感心の仕方をする相手の様子に、霊夢は少し脱力した。

 敵ではないとしても、ここまで毒気を抜かれる妖怪も珍しい。

 幻想郷の妖怪は皆、多かれ少なかれ人間を見下している節がある。

 それは『人が妖怪を恐れる』という摂理を保つこの世界で当然のことだ。

 そういった点で、目の前の妖怪は妙に人間に馴れ馴れしく、また幻想郷では異質な存在だった。

 

「……あんた、ひょっとして外来の妖怪?」

 

 その指摘に、目の前の妖怪は我が意を得たりとばかりに破顔した。

 

「鋭いのう! 如何にも、儂は外の世界から来た妖怪じゃ!

 ……といっても、ここが幻想郷と呼ばれる秘境であることは、迷い込んだ後で話に聞いてから理解したんじゃがの」

「つまり、幻想郷に移り住む目的とかでやって来たわけじゃないのね」

「うむ。簡単に説明すると、何らかの事件に巻き込まれて来たクチじゃ」

「何らかの事件って?」

「それが分からんのよ。ここは何やら特殊な結界で隔離された場所らしいが、その結界をどうやって越えたのか、儂自身にもとんと分からんのじゃ。気が付いたら、ここにいたと言うしかない」

「ふーん」

 

 霊夢は適当に相槌を打った。

 相手が嘘を吐いているわけではない、というのは何となく勘で分かる。

 そして、それを証拠付ける情報も手元にあった。

 原因は、おそらくあの地震だ。

 

「実はな、儂は幻想郷へ来る直前に外の世界のある場所を訪れておったんじゃよ。ちょっとした観光目的でな」

「ある場所って?」

「それは博麗神社という、もはや訪れる者もいない寂れた神社じゃ」

 

 ――『外の世界』の博麗神社か。

 

 霊夢はその言葉で確信した。

 彼女のいた場所が、現在いる場所と同じ幻想郷の境目である可能性は高い。

 丁度、ここが幻想郷の内側で、向こうが外側なのだ。

 そこから、地震を切っ掛けにして結界を飛び越えた。

 あの時、目の前から母が消えてしまったように。

 地震によって発生した結界の綻びに、幻想郷で呑み込まれたのが母であり、外の世界で呑み込まれたのがこの妖怪なのだ。

 そこまで考えが至り、霊夢の胸は高鳴った。

 結界の亀裂から幻想郷へ迷い込んだであろう目の前の妖怪がこうして無事ならば、同じ状況の母もまた外の世界で無事なはずである。

 

「ここに飛ばされた時、あんたは何処にいたの?」

 

 思わぬ情報を手に入れて逸る気持ちを隠しながら、霊夢は尋ねた。

 

「気が付いたら目の前に大きな湖があってのぅ。神社があったのは山の中じゃったし、周りの空気は明らかに違うしで戸惑っておったが、偶然そこで会った妖精に人里へ案内してもらって――」

「ああ、そこから先はいいわ」

「いやいや! 外の世界では全く見なくなった妖精との遭遇もそうじゃが、ここからまた聞くも涙語るも涙の長い道中が――」

「長いんでしょ?」

「うむ」

「じゃあいいわ」

「そ、そうか」

 

 ションボリと獣耳を垂らす姿を無視して、霊夢は思考に没頭した。

 境界を挟んだ外の世界の博麗神社とここが地理的に一致しているのかは分からない。

 しかし、全く関係のない霧の湖に現れたことから考えて、完全にランダムな場所への転移が行われたことは間違いない。

 そうなると、やはり母も同じ状況に陥っている可能性が高いのだ。

 無事なのは分かった。

 しかし、母が戻ってくる為には、単純にここから外の世界へ道を開くだけでは駄目だとも分かってしまった。

 外の世界の何処に飛ばされたかも分からない一人の人間と一匹の妖怪を捜す必要が出てきたのだ。

 希望と共に新たな問題が現れ、眉を顰める。

 

「……何やら、そちらも複雑な問題を抱えておるようじゃの」

 

 黙り込む霊夢に、その妖怪は言った。

 相手を気遣うような優しい声色だった。

 

「まっ、見れば分かるかの」

 

 嫌でも視界に入る、瓦礫の山と化した博麗神社と呼ばれた物を見回して、苦笑した。

 不思議と嫌味を感じない笑い方だった。

 

「そういえば、あんたが博麗神社へ来たのって……」

「うむ、その人里でまた色々と聞いてな。外の世界に帰るには博麗の巫女に相談せよと教えられたんじゃよ」

「外に帰りたいの?」

「ここも魅力的じゃし、置いてきた家族がいるわけでもない。しかし、移り住むにも急すぎる話じゃしなぁ」

 

 腕を組みながら、難しげな表情でその妖怪は唸った。

 どうやら帰る意思はあっても、そこまで必要に迫られた状況ではないらしい。

 現状では都合のいい話だった。

 幻想郷に迷い込んだ外の人間を、再び外の世界に帰すことも霊夢の仕事である。

 人間一人程度ならば、霊夢個人の判断で結界に干渉して外の世界までの道を開くことが可能だ。

 しかし、それはあくまで平時の話である。

 

「……言いたいことは分かる。どうやら、すぐに帰してもらうわけにはいかんようじゃの」

 

 事情を聞くまでもなく、事態を把握したようにため息を吐いた。

 

「運が悪かったわね」

「そちらも、災難だったのう」

「別にあんたに同情される謂れはないわ」

「住んどった家が潰れたんじゃろ。そりゃ泣きたくもなるわ」

「別に泣いてないんだけど」

「そうか。まあ、上手く隠せとるよ」

 

 あしらうように言葉を返されて、霊夢は不機嫌そうに眉を顰めた。

 無意識に目元に触れる。

 自分では違和感を感じないが、実際にどんな顔をしているのかは鏡でもない限り分からない。

 些細な変化を、目の前の妖怪は見抜いたのかもしれなかった。

 狸の妖怪らしい、侮れない相手だ。

 睨むように視線を送った当の相手は、腰に手を当てて空を見上げていた。

 

「さて、これからどうするかのう――」

 

 何気ない呟きを聞き流しながら、霊夢もまた頭上を見上げた。

 釣られて見たわけではない。

 今度は、上空からこちらへ近づいてくる存在をしっかりと察知していたのだ。

 空に小さな人影が浮かんでいる。

 それがゆっくりとこの場へ向かって、飛んできているのが分かった。

 霊夢は、グルリと周囲を見渡した。

 何度見ても現実は変わらない。

 そこにあるのは瓦礫の山だけだ。

 変わり果てた博麗神社の跡地である。

 億劫そうに小さくため息を吐いて、霊夢は視線を上に戻した。

 

「よう」

 

 境内に降り立ちながら、その人影は霊夢へ気軽に挨拶をした。

 

「魔理沙。何か用?」

 

 霊夢は、やって来た魔理沙に素っ気無く返した。

 

「何だよ、今日はエラく機嫌悪いな」

「そう見える?」

「分かりやすいぜ。逆だと思ってたよ。だって、今日はおふくろさんが来る日なんだろう?」

「母さんは、来れなくなったわ」

「ははぁん、それで不機嫌なのか」

 

 魔理沙は心得たとばかりに意地悪く笑った。

 

「そうかもね」

 

 霊夢は適当に相槌を返して、勘違いされるままにしておいた。

 

「だから、そうやって居間でずっと不貞腐れてるんだな」

 

 指摘されて、霊夢は視線だけを足元に落とした。

 相変わらず何も変わらない、かつて居間だった場所に積み重なった残骸だけがある。

 視線を上げると、やはり魔理沙も変わらずからかうような笑顔を浮かべていた。

 

「……あんたも上がってく?」

「いいや、遠慮しておくぜ。わたしも愚痴くらい聞いてやりたいんだけどな。やることがあるんだ」

「じゃあ、本当に何の用でここに来たのよ?」

「おふくろさんが居たら、お前を茶化しながらお茶の一杯も飲んでいく予定だったんだけどな。本題は別にあるぜ」

「本題?」

「ああ。実はな、霊夢――どうやら異変が起こっているようだぜ」

 

 そう告げる魔理沙の神妙な顔を見つめて、霊夢は軽く頬を掻いた。

 今一度、視線を動かしてみる。

 崩壊した博麗神社。

 その残骸の上に立つ自分。

 そして、目の前には得意そうな魔理沙。

 やがて霊夢は全てを納得したように小さく頷いた。

 

「それは驚いたわ」

「へへっ、誤魔化さなくていいぜ。どうせ、お前のことだから何か感づいてたんだろ」

「そうね」

「実は、わたしもまだ確証はないんだ。

 朝起きたら、家の外で雨が降っていた。だけど魔法の森から出てみたら、その森から外には雨が降っていなかったんだぜ。それだけじゃない、紅魔館の周りにだけ霧が立ち込めていたし、雪まで降っている場所を見つけたんだ」

「異常気象ってことね」

「まだまだ他にも起こってる場所があるはずだぜ。そして、わたしはこれを何者かの仕業と睨んだわけだ」

「なるほど」

「おっと、何も言うなよ! 霊夢、お前だったら勘でその辺りのことが大体分かっているのかもしれない。だけど、わたしにはわたしのやり方がある」

 

 魔理沙は箒に跨りながら言った。

 

「今回の件を、わたしはもう少し調べてみようと思ってるんだ。博麗神社でも何か異常が起こってないか寄ってみたんだが――」

「見ての通りよ」

「ああ、今のところ特に何もなさそうだな。楽しみだった予定が崩れて、お前が不機嫌になってたこと以外は」

 

 魔理沙は悪戯っぽく笑った。

 悪意を持って言っているわけではないことくらい、付き合いの長い霊夢には分かる。

 彼女なりに、落ち込んでいると思った友人を元気付けようとしているのだ。

 

「やる気が出ないんだったら、そこでずっとお茶でも飲んでればいいぜ。今回の異変は、わたしが解決してやるからなぁ!」

 

 最後に発破をかけるように言うと、魔理沙は空高く飛び上がった。

 背中があっという間に遠くなっていく。

 来た時と同じ、唐突な去り方だった。

 

「……風のような娘じゃのう」

 

 それまでずっと黙っていた妖怪が、苦笑しながら口を開いた。

 霊夢は、その人の良さそうな笑顔をじっと見つめた。

 

「やっぱり、あんたの仕業よね」

「あの娘の目を欺いたことかの」

「そうよ。悪意のない幻術だったから黙ってたのよ」

「やはり、おぬしには通じておらなんだか」

 

 そう言って、顎を軽く擦った。

 霊夢の指摘に対する、言外の肯定だった。

 先程、訪れた魔理沙が潰れた博麗神社の上に立つ霊夢と不自然な会話をしたのも。

 すぐ傍に佇む見たこともない狸の妖怪に、何の反応も示さなかったのも。

 全て、その妖怪当人の仕業だったという事実の肯定だった。

 

「狸ゆえに人を化かしてみた」

「魔理沙が家に上がろうとしてたら、どうしたの?」

「あの娘の言うとおり、お茶一杯程度なら何とでも誤魔化せるわい。湯飲みの中身は水になっとったじゃろうがの」

「小便や糞じゃないだけ良心的だわ」

「おいおい、化け狸をそこまで性悪な妖怪に捉えんでくれ。ひょっとして、余計なお節介じゃったか?」

「いいえ、助かったわ。魔理沙には、この状況を説明したくなかったし」

「友達だったんじゃな」

「うん」

「気を遣わせたくなかったか」

「無駄に心配して、本人よりも怒る性格なのよ、あいつ。話すにしても、全部が終わって落ち着いてからにしたかったの」

「そうか。儂のやったことが助けになったのなら何よりじゃ」

「あんたって、妖怪のクセに変わってるわ」

「時と場合によるよ。儂だって、人間を悪意で化かすこともある。しかし、今はそんなことをしても意味がない。子供が一人、傷つくだけじゃ」

「あたしは子供じゃないわよ」

 

 僅かに頬を膨らませて反論する霊夢に、妖怪は笑いながら頷くだけだった。

 霊夢はやり辛さを感じた。

 これまでのやりとりで、目の前の妖怪が敵ではなく、むしろ友好的であることは十分に分かった。

 分かったからこそ、余計にやり辛いのだった。

 普段の調子ならば、こんな印象は抱かない。

 やはり、今の自分は調子がおかしいのだ。

 一人で瓦礫を掻き分けていた時に抱いていた陰鬱な気分がいつの間にか軽くなっていることに、感謝すらしてしまうのだから。

 霊夢はそっぽを向くように、相手から視線を逸らした。

 瓦礫の下から無事な物を回収する作業は、まだ途中だった。

 居間のあった場所から、また別の場所へ移動して作業を再開しようとしていた霊夢は、おもむろに振り返った。

 

「何で、あんたまでやろうとしてるのよ?」

 

 手伝おうとする妖怪を睨みながら、霊夢は尋ねた。

 

「儂の目的は教えたじゃろ。外の世界に帰してもらいたいんじゃ」

「今日のところは無理よ。さっさとここから出て行って、今夜の宿でも探しなさい」

「別に宿無しでも困らんよ。それよりも、おぬしの用事を手伝って少しでも早く帰してもらえるようにした方が良いと考えたんじゃ」

 

 そう答えられて、霊夢は言葉に詰まった。

 今更この妖怪に何らかの企みがあるとは思わなかったが、単なる親切心だと素直に受け取ることも出来なかった。

 しかし、お節介や同情なのかと問い返すのは、自分から不憫で惨めだと言っているようで嫌だ。

 そんな霊夢の心境まで察して、相手は理屈を通した返答をしたのかもしれない。

 そう考えると、やはり釈然としない気分になる。

 結局のところ、何処までも自分の方が気遣われているのだと霊夢は悟った。

 何だか悔しい気持ちになりながら、黙ってしゃがみ込み、両手で瓦礫をどけ始める。

 もう二本の手が、やはり無言でそれを手伝った。

 

「……あんた」

「ん?」

 

 霊夢は相手の顔を見ずに言った。

 

「まだ、名前聞いてないわ」

「おおっ、そういえばそうじゃった」

 

 大げさに驚く声の主を、改めて見つめた。

 

「儂の名前は『二ッ岩マミゾウ』じゃ。気さくにマミゾウさんとでも呼んどくれ」

 

 マミゾウはそう言って、愛嬌のある笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 小さな店だった。

 一見すると、ただの民家のようにも見える。

 入り口の上に掛けられた看板には読めないほど複雑で難しい漢字が書かれており、商売内容をアピールするようなショーウィンドウもない。

 常用漢字ではない看板の文字から、かろうじて中国系の古い店だと分かるくらいだった。

 特に、現在は夜の閉業後である。

 営業中ならば、もっと他にも看板やノボリが出ているのかもしれないが、今はそれもない。

 先代とさとりは、青娥に連れられてそんな建物の中へと招かれていた。

 

「鍼灸師として、細々と店を営んでおります。他には漢方薬を処方などしたりもしますね」

 

 店頭を介さず、裏口から生活空間となっている室内へ二人は通された。

 鍵が掛けられていたことや、電気が消されていたことからして、ここには一人で住んでいるらしい。

 女が一人暮らしの自宅へ、夜間に初対面の人間を二人も招き入れるのは、常識的に考えればかなり不用心な行為だったが、青娥の正体を知る先代とさとりからすれば何の問題もなかった。

 彼女は、現代社会の中で生き残っている神秘の具現。

 人を越えた『仙人』である。

 少なくとも、青娥には建物を跳び越えて逃げる先代を気づかれずに追跡出来るだけの力があるのだ。

 

「漢方薬というと、『仙丹』などに通じる技術を活かして生活しているわけですか」

 

 青娥の説明に、さとりが自身の知識を示した。

 仙丹とは、仙人になる為の薬のことである。

 医学的に薬効の解析された薬ではない。

 実在するかも分からない材料を使用する上に、作る時の分量や手順もはっきりと分からない。

 現実的ではない霊薬だった。

 しかし、遠い昔には仙人の薬は病や怪我にも神秘的な効果を発揮していた。

 そこから派生して、時代の進歩に合わせた技術を青娥は生業として使っているのだろう。

 さとりはそこまで推察していた。

 ちなみに、傍らの先代は普段通りの仏頂面の内側で、普段通り話の内容を何も分かっていない。

 鍼灸師がどういう職業なのかを、必死に思い出そうとしているくらいである。

 

「鍼は『はり治療』で灸は『お灸』ですね。この世界では、もう古い医療方法になっていると思いましたが」

 

 心を読んださとりが、話の延長を装ってさりげなくフォローした。

 家の中へ先導していた青娥が、微笑みながら振り返る。

 

「お詳しいのですね、現代社会のことに」

 

 友好的な笑みで隠した探るような言葉である。

 しかし、それが全く無意味なことであると青娥はすぐに気付いた。

 その『気付き』を、更にさとりは読んでいる。

 さとりの能力の前では、腹の探り合いなど全く無意味なのだ。

 一方的に情報が知られることのやり辛さに苦笑しながら、青娥は二人をリビングへと案内した。

 古めかしい店の外観とは裏腹に、綺麗で広く、真新しい内装の部屋だった。

 青娥自身の語る『細々とした営み』には、少し見えない。

 昼間のような光を放つ蛍光灯は、幻想郷に住んでいた二人とって目に慣れないものである。

 リビングの一角にあるシステムキッチンなど、さとりには何の設備なのか一目では分からない物だった。

 

「今、お茶をご用意します」

 

 青娥が用意をしている間、中央のテーブルに座った二人――特にさとりの方は室内を珍しそうに見渡していた。

 先代の記憶や聞いた話から、ある程度の知識は持っている。

 しかし、外を出歩いた時と同じように、実際の環境に身を置くとまた勝手が違うものだった。

 それ故に、隣に座る先代と自分の違いが改めて実感出来た。

 最初の内こそ、長年生きてきた幻想郷との違いに戸惑ってはいたものの、今はすっかり適応して、落ち着いている。

 頭の中の知識だけではない。

 彼女には、幻想郷とは違う世界で生活した記憶が魂に根付いているのだ。

 先代は幻想郷の人間ではなく、また同時に外の世界の人間でもない。

 異世界に前世を持つ人間。

 何処までも特異な存在だった。

 

「お待たせしました」

 

 思考に没頭しそうになる前に、青娥が二人の前に日本茶の入ったマグカップを置いた。

 さとりは目敏く、先代の前に置かれたカップが自分の物より大きな男物であることに気付いた。

 現在座っているテーブルも、一人で暮らしているとは思えない大きな物である。

 何より、椅子が複数ある。

 だからどうした、という話ではあるが、さとりは些細な情報も逃さないよう集中した。

 場合によっては、これから交渉事になる。

 テーブルを挟んで向かいに、青娥が腰を降ろす。

 本題となる会話が始まろうとしていた。

 

「さて、どう話を切り出しましょうか」

 

 そう言う青娥の顔には、楽しむような笑みが浮かんでいた。

 表情のまま偽りなく、心を読まれながらの会話を楽しんでいるのだ。

 さとりは先代に視線を送った。

 まるで示し合わせたかのように目が合う。

 自身の思念を先代に伝える能力など持っていないが、二人はごく自然にアイコンタクトによる意思疎通を成功させていた。

 

 ――話はさとりが進めるってことでいいんだな?

 

 先代の心を読んで、さとりは眼の動きで頷いた。

 

 ――貴女は役に立たないから、とりあえず黙ってて下さい。

 

 聞こえないはずの返答を受けた先代は、内心でションボリしていた。

 それを無視して視線を青娥に戻すと、さとりは口を開いた。

 

「それでは、まずは私達の自己紹介から始めましょう――」

 

 

 

 

 さとりは、青娥が自分達を家に招いた理由を分かっていた。

 そして、理由がどうあれ、その行動が孤立無援のこの場所でこの上ない自分達の助けになるということも。

 幻想郷に帰還する為には、青娥の協力が必要不可欠だ。

 多少の不都合には眼を瞑るつもりだった。

 

「なるほど。幻想郷――」

 

 さとりの簡潔な説明を聞いた青娥は、感慨深く呟いた。

 説明は本当に簡潔だった。

 自己紹介の内容は、それぞれの名前と種族程度。幻想郷での立場や役職さえ話していない。

 幻想郷という場所と、そこからこの場所に至るまでの経緯こそ詳しく説明したが、それも必要と判断した範囲だけだ。

 与えられた情報から、当然のように不鮮明な部分への疑問は派生する。

 青娥は、その疑問をあえて口にしなかった。

 穴だらけの話を、まるで子供のように楽しそうに聞いていた。

 

「私も仙人の端くれです。現代社会から消えゆく妖怪や神が生き残る隠れ里について、噂程度に聞いたことはあります」

「言葉を飾らなくて結構。千年以上を生きる仙人である貴女は、結界で隔離される以前から幻想郷の存在について、より直接的に知り得ていたのでしょう。実際に訪れたことがないというのは本当のようですがね」

「あら、そうでした。貴女には駆け引きは無駄でしたね」

 

 さとりの指摘に、青娥は気を悪くした風もなく微笑んだ。

 

「もっとも、こちらから何か交渉を仕掛けるつもりもありませんでしたが。当然、これも信用していただけますね?」

「私達の目的に協力してくれるということですか」

「ええ、貴女がたが幻想郷へ戻る為の手助けをさせてください」

「見返りは何もありませんが」

「それもお見通しでしょう?」

「……難儀な性格のようですね。いえ、性癖と言うべきでしょうか」

「仕方ありません」

 

 言葉とは裏腹に、青娥の表情は満足気ですらあった。

 心を読めるさとりには、より具体的に彼女の考えが分かる。

 うんざりした。

 何故、自分の周りには変人が集まるのか。

 

「私、強い人が大好きですから」

 

 青娥は二人に――特に先代に熱い視線を送りながら囁くように告白した。

 先代は表情に出さずに動揺し、さとりは小さくため息を吐いた。

 

「そういった意味で、お二人は非常に魅力的だわ。お力になりたいんです。私、尽くす女ですのよ」

「先代はともかく私もですか?」

「心を支配することは、力の極地の一つです」

「そんなご大層なものでもないんですがね」

「いいんです。私が好きにやろうとしているだけですから」

「飽きるまで、ですね」

「ふふふっ、そういうところが素敵」

 

 さとりには、それらの言葉が何処までも本音であることが分かる。

 苦手なタイプだった。

 八雲紫がもし自分に好意的だったら、こんな印象を抱くのかもしれない。

 敵対したくはないが、味方でもいたくない人物である。

 しかし、都合がいいことに変わりはない。

 最初に決意した通り、幻想郷に無事帰る為に我慢しなければいけないこともあるのだ。

 

「――それでは、幻想郷への帰還に協力していただけるということで間違いありませんね?」

「ええ、お助けいたします」

 

 その時、不意にそれまで黙っていた先代が口を開いた。

 

「青娥は、それでいいのか?」

 

 ぽつりと言った。

 本名を呼ばれて、青娥は頬を赤らめた。

 

「私達に、何か望むものはないのか?」

「見返りを求めないのかということでしょうか?」

「そうだ」

「優しいのですね。私、優しい人好きですよ」

「当然の権利だ」

「あんっ、そういう素っ気無いところも素敵」

 

『もう何でもいいんじゃないか』というツッコミを抑えて、さとりはお茶を一口飲んだ。

 青娥が見返りを求めず――悪い言い方をすれば好き勝手に、自分達を助けようとしているのは間違いなく当人の意思だ。

 先を見越した何らかの打算すらない。

 ただ純粋に、己の欲求と欲望のままに行動している。

 それが結果的に自分達の助けになるにすぎない。

 しかし、先代はそれに納得せず、純粋にお礼をしたいと考えているらしい。

 原作知識を持つが故の、既知のキャラクターに対する好意的な解釈は、同時に初対面の相手に対する警戒心の薄さに繋がっている。

 そこが先代の危ういところである。

 

 ――この仙人、考える以上に厄介な人物だと思いますけどね。

 

 さとりは空気を読んで、あえて警告を口にしなかった。

 勘違いさせておいた方が、結果的に良い方向に転ぶのかもしれないとも考えていた。

 

「私達に出来ることなら、何でもしよう」

「ふふっ、貴女ほどの人が簡単に『何でも』なんて口にしてはいけませんわ。でも、そこまで言われるのなら――」

 

 青娥は僅かに身を乗り出した。

 

「私も、貴女達と一緒に幻想郷へ連れて行ってください」

 

 その要求は、先代にとっても、さとりにとっても意外なものではなかった。

 さとりは事前に心を読んで、知っていた。

 先代からすれば、青娥が幻想郷へ来ることは将来的に決まっていたことである。

 互いの意見を合わせるまでもなかった。

 

「いいだろう。共に行こう」

 

 先代は答えた。

 青娥は花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 

「嬉しい! 貴女と一緒に、幻想郷の土を踏めるんですね」

「外の世界では青娥に助けられることになった。代わりに、幻想郷に帰ったら私が貴女の助けになろう」

「はい。お世話になります」

 

 さとりは横目で、呆れたように先代を見つめた。

 何か助言や忠告をしようかと口を開きかけ、しかし全てを投げ出すように再びお茶を飲む。

 口を挟むのも面倒臭かった。

 何より自分には関係ない。

 さとりは、先代と青娥のやりとりの中にある微妙な認識の違いを無視することに決めた。

 鈍い先代が悪いのだ。

 勝手に修羅場に突っ込めばよろしい。

 代わりに、別のことで口を挟むことにした。

 

「幻想郷に来るのはいいですが、そんなに簡単にここでの生活を捨ててもいいのですか?」

 

 さとりは率直に尋ねた。

 

「見たところ、家族が居られるようですが」

「いいえ、家族はいません」

「少なくとも男性と同居しているようですが?」

「確かに結婚はしていました。でも、夫は数年前に亡くなり、子供もいません」

 

『未亡人ktkr!』と何故かテンション上げている先代の心の叫びを無視して、さとりは続く青娥の話に耳を傾けた。

 

「それに、この世界に未練はありません」

 

 ぽつりと言った。

 口元の笑みは消えていた。

 冷たい本心の言葉だった。

 

「これから先の未来に、何も期待していない。失望したと言ってもいいかもしれません」

「ここでの生活に飽きたということですか?」

「そうですね。そうとも言えます」

「もったいない。不自由のなさそうな生活なのに……」

 

 まるで代わってくれと言わんばかりの物欲しそうな表情を浮かべるさとりを見て、青娥は僅かに苦笑した。

 しかし、その笑みもすぐに虚しいものへと変わった。

 

「確かに、今の生活は昔とは比べものにならないくらい便利になりました。

 昔というのは、私が仙人になった千年以上前の話ではありません。ほんの数十年前と比較しても、技術の進歩と社会の発展は目ざましいものです。

 人の力は、かつて曖昧だった暗闇の中を暴き、そこで息を潜めていた幻想を追いやった。怪我や病は妖怪の仕業ではなく、嵐や津波は神の怒りではないと知った。

 かつて翻弄されるだけだった様々な災いを、人間は自らの編み出した技術や学問で克服し、今や住む環境すら自分達で作り出すようになった。安全なだけではない。より便利に、より快適に、世界を創造する。そして、更にその先へ」

「――」

「時代と共に発展する世界の姿に、私も一度は魅せられました。個人の力ではなく、人間全体が持つ力の可能性。それが切り開いた新しい世界――」

「宇宙、ですか」

 

 さとりが青娥の心に描かれたものを読み取って、言葉にした。

 仙人である青娥から『宇宙』という言葉が出たことに、先代は表情に出さずに驚いていた。

 元とはいえ、陰陽道らしき術を使う博麗の巫女としてそれはどうなんだとさとりは内心で呆れる。

 豊富に見える知識や優れた感性が、根幹の部分で現代人のものなのだ。

 こういったところが、先代巫女に対する周囲の認識と現実のギャップだった。

 宇宙という言葉は、科学的な専門用語ではなく、はるか昔から概念として宗教などにも存在している。

 青娥の驚きと興味は、人間が自らの力でそこへ物理的に辿り着けた事実と快挙に向けるものだろう。

 

「月面着陸が報道されたのは、もう四十年前でしょうか。あの時は、柄にもなく感動しました。

 人の手では決して届かない天に輝く幻想の存在を、あの日人類は単なる巨大な石だと断じてしまった。そして、そこから大地も天空をも越えた無限の世界を発見した。

 長い間、ただ強い力を持つ者に惹かれて彷徨うだけだった私でさえ、途方もない世界の広がりを知って、人が進歩した未来という漠然とした可能性に夢を見ました」

 

 青娥は饒舌に喋り続けた。

 心を偽ること出来ないさとりの能力を前にして、言わなくてもいいことまで告白してしまっているようだった。

 

「だけど、あれから四十年。それだけ経つというのに、人間は未だ火星にすら辿り着けないのです。

 二十一世紀は宇宙の世紀だなんて言われていたんですけどね。今では、環境を守れだとか、景気対策がどうだとか、内側に眼を向けるばかり。自らの広げた生存圏を管理し、維持することしか出来なくなっている」

 

 穏やかに吐き捨てるような口調だった。

 

「誰も彼も、何の為に生まれてきたのか考えられない人ばかり。周囲を人工物で覆った結果、あらゆるものは規格統一化され、人の価値観も平等であることこそが美徳となってしまった。

 突出した力や人格は否定され、声高に何かを訴える者は異常と判じられて、揶揄されるような世界になってしまった。

 ここにはもはや管理された普遍的な物しか存在しない。私が一時の夢を見た無限の可能性も無ければ、私の愛する力を持った存在もいない。

 テレビや新聞が持ち上げる有名スポーツ選手のような『超人』の正体は、同じ人間の常識や想像の範疇で認められた規格品でしかない」

「……言いたいことは分かります。しかし、貴女の求めているのは、千人の人間を殺して英雄と呼ばれるような存在のことですよ」

「素晴らしいですね。それだけ殺してでも自分の意志を貫こうとする心とそれを可能にする力――そんな人がいたら、きっととても好きになるでしょう」

「――」

「周囲の優れた環境が育んだ力などではない。劣悪な環境の中で、襲い掛かるそれらを打ち払うほど強い力こそ、私が愛して止まないものです。

 今の人間は確かに優れた技術を力として持ちましたが、それは何の価値もない人間にさえ手に出来る普遍的な力。自らが作り出した精巧な張子の虎の威を借る鼠の群れにしか見えません。

 ――本当に優れた力というのは、個人が持つものだと私は思うのですよ。

 集団の中から突出しているもの。周りを巻き込む中心にあるもの。常識に収まらないもの。異常であるもの――この築かれた社会の枠組みを、容易く壊してしまえるものこそ本当の『力』です」

 

 いつの間にか、青娥の視線と声色には熱いものが戻っていた。

 自らの住む世界を――現代の社会を語る時の、何処までも冷めた感情とは違う。

 青娥は、先代を見つめていた。

 その瞳の奥に、炎があった。

 眼を通じて、肉体の中にある炎がちろちろと内側から肉を焙っているかのようだった。

 先程、彼女自身が語ったように、これまでの生活の中で見出せなかったその熱を、先代を見ることで取り戻したのだ。

 

「改めまして、先代巫女様。私は、貴女が街中で起こした行動を一部始終眼に致しました」

 

 青娥は熱く、囁くように言った。

 

「人が積み上げた技術と群衆が取り繕った常識さえ、容易く破壊してしまえる力。それを目の当たりにした凡庸な観衆は、貴女の一挙一動に怯え、否定しようとするでしょう。

 しかし、貴女は意に介さない。介する必要も理由もない。だって、貴女は強いから。常識になど囚われないから。

 貴女が道を歩くだけで不安になり、その意図を勘違いする臆病な鼠達など気にも留めなくていいのです。

 私は、そうして貴女が行きたい道を歩いていく様をただ見続けていたいだけ。貴女がその力を振るう姿を、どうかお傍で見させてください」

 

 

 

 

 一日の疲れを癒すのには風呂が一番。

 風呂は命の洗濯よん、とかサービスの人(叔父さんではない)が言ってたのは覚えているが、幻想郷ではなく彼女が生きる世界と似た現代社会でこの言葉をしみじみと感じることになるとは妙な皮肉だった。

 現在、私はさとりと共に青娥さん宅のバスルームにお邪魔している。

 なんやかんやあって、青娥が私達を手助けしてくれることになった。

 この『手助け』というのは、幻想郷に帰る為に協力するだけではなく、帰る前の衣食住まで提供してくれるという内容だ。

 風呂だけではない、寝る場所も用意してくれている。

 明日の朝食は『腕を振るう』とはりきっていたし、現代に合わせた私達の服も買ってくれるらしい。

 もちろん、費用は全部青娥持ち。

 非常にありがたく思うと同時に、物凄く恐縮してしまうような申し出だった。

 これで当人が特に見返りや代償を求めてないっていうんだから、少なくともこの世界にいる間はずっと彼女に頭が上がらないだろう。

 三人での話を終えて、夜も遅いからという理由で、幻想郷に帰る為の具体的な話し合いや行動は明日にすることになった。

 そして、青娥に勧められるまま、風呂に入らせてもらうことになったのである。

『疲れと汚れを落として、今夜はゆっくり休んでください』と、労わるような笑顔で言ってくれた。

 ――もうね、何なのこの至れり尽くせり。

 外の世界に放り出されて孤立無援かと思ってたら、一気に事態は好転ですよ。

 最初に出会った時はさとりの警告もあってちょっと戸惑ったけど、青娥はマジ天使だったね!

 

「彼女なりの下心があってのことですよ。そもそも、貴女に向けられた態度や言動に違和感は感じなかったんですか?」

 

 私の目の前で、向かい合うように湯船に浸かっているさとりが言った。

 二人で入るには十分広い浴槽だと思うけど、やっぱり私の体が大きすぎるんだな。

 小柄なさとりの体格を差し引いても、足や手がたまに触れてしまうくらいには狭い。

 

「彼女には好かれてるらしい」

「そんな単純な話じゃありませんよ」

 

 さとりが手でお湯を飛ばしてきた。

 顔に浴びたそれを拭う。

 うーん、確かに人柄に好意を抱いたとかって話じゃないのは分かってるけど……つまり青娥は強い人が好きってことなんだろう。

 そして、トラックを素手でぶっ壊す程度には強い私のことを気に入っている。

 それで完結する、結構単純な話だと思うんだけどな。

 多少過激な思想が混じってる気がしないでもないが、そんなの幻想郷の妖怪とかに比べたら可愛いもんですよ。

 具体例としては幽香。

 ヤンデレとツンデレから『デレ』を抜いたような相手に比べれば、私達に無償で協力してくれる分、青娥は十分善良で友好的な人物だと言えた。

 

「言葉では上手く表現出来ません。とにかく、彼女にはあまり心を許しすぎないように」

「分かった」

 

 納得はいかないが、さとりの真剣な忠告なので、私は真摯に受け止めることにした。

 どちらにしろ、幻想郷に帰るまでは青娥の厚意に甘え続けることになる。

 その分の感謝は物や行動にして示したい。

 彼女との付き合い方を改めて考えるのは、幻想郷に帰った後でいいだろう。

 

「まあ、貴女がそれでいいのならいいですけどね。具体的に、幻想郷へ彼女を連れ込んだ後の生活などをどうするのかね」

 

 ああ、そういう問題もあるか。

 幻想郷に行ったら、今度は青娥が住む家もない状態になるのだ。

 当然、それを助けるのは恩を受けた私の役目だろう。

 数時間前までは帰る目処を立てることさえ困難な状況だったが、いつの間にかその後のことを考える余裕が出来てしまっている。

 本当に今日は怒涛の一日だったなぁ……。

 

 ――家、か。

 

 お湯の熱に浮かれたのか、私の頭には取り留めのない考えが浮かんでいった。

 想うのは、霊夢と博麗神社のことだ。

 私が目の前で消えてしまったことで、あの子に心配をさせてしまっているのが心苦しい。

 そして、それ以上に霊夢が陥っているであろう状況を案じている。

 原作では、天子の起こした地震で神社が潰れてるんだよね。

 幻想郷から飛ばされる直前の状況からして、多分無事では済まなかっただろう。

 っていうか、霊夢も必死で抵抗していたみたいだが、あれだけの地震なら普通の建物は間違いなくぺしゃんこになっている。

 霊夢、大丈夫かな?

 ちゃんと今夜眠れる場所を見つけたかな?

 何よりも、あの神社は霊夢が育った思い出の家なのだ。

 それが潰れてしまったら、ショックを受けないわけがない。

 紫や魔理沙辺りがフォローをしてくれたらいいのだが――。

 

「八雲紫には期待するだけ無駄だと思いますけど」

 

 言うなよ……。

 あれで、結構霊夢のこと気に掛けてるんだから。

 妙に厳しいけどね。

 

「今の私達と違って、博麗霊夢には助けてくれる人や妖怪が周りにたくさんいますよ」

 

 まあね。

 私の娘が皆に愛されないわけがない!

 

「羨ましい限りです」

 

 大丈夫、さとりには私がいるからさ。

 そんな友達ビームを眼から発射すると、さとりは嫌そうな顔をしながら湯船から立ち上がった。

 ふふふっ、これは照れてますわ。私には分かる。

 私も一緒にお湯から体を起こす。

 体を洗う為だ。

 

「しかし、たかが風呂場一つでここまで勝手が違うとは思いませんでしたね」

 

 私とさとりが一緒に入浴しているのは、何も裸の付き合いが出来るほどの親友同士だからというだけではない。

 地霊殿の温泉しか入ったことのないさとりには、このシステムバスはちょいと荷が重かった。

 リビングでも思ったけど、青娥ってば『細々とした生活』なんて言うわりに豪華な家に住んでるのよね。

 このバスルームだって、入ると言った後からワンタッチであっという間に湯船を沸かしてたし、シャワーとカランもボタン式で、室内は暖房機能付きと来た。

 そもそも私が教えないと、さとりにはシャンプーとボディソープの違いすら分からないだろう。

 だから、こうして背中を流してあげる必要があるんだよね。

 仕方ないね。

 

「いや、教えてくれるだけでいいですから。後は自分で洗います」

 

 そんなこと言わず!

 背中流しっこしよう!

 頭洗いっこしよう!

 シャワーでやった方が効率的なのは分かるけど、桶に入れたお湯を『それじゃあ流すよ』と言いながら泡に包まれた頭に掛けるというホームドラマのようなやりとりをやってみたいんです!!

 

「知りませんよ。一人で洗いますから、貴女は茹で上がるまで湯船に浸かってなさい」

 

 まだ出ていなかった私を、さとりの容赦のない蹴りが湯船に押し戻した。

 ううっ、酷い!

 私はただ良かれと思っただけなのに……!

 

「――あら、賑やかですね」

 

 カラカラと引き戸を開けて、艶やかな声が私達の会話に入ってくる。

 私とさとり以外に、この家で風呂に入ってくる人物など一人しかいない。

 しかし、何故このタイミングで入ってくるのか?

 突然の乱入に、混乱して内心シェーな私は、風呂場の入り口を見つめたまま硬直していた。

 裸の未亡人がそこにいた。

 

「せ……青娥」

「ふふっ、私もお邪魔しますね」

 

 返事も待たずに、青娥が風呂場に足を踏み入れる。

 いや、返事もクソもここは青娥の家なんだから『出てってくれ』なんて言えるわけないんだけどね。

 ……でも、これ何処のエロゲーやねん!

 前をタオルで隠しているが、彼女の見事な肢体が薄い湯気越しにしっかりと見える。

 く、空調さん。もう少し換気を怠けてもいいのよ?

 同じ女ではあるのだが、私の根幹にある前世の記憶と混ざり合った『どちらともつかない性別』の部分が、妙な緊張を生み出していた。

 なんつーか、本当に醸し出す色気が凄いね。

 同じ裸でもさとりの時は全く感じなかった何かを、青娥からは感じる。

 うむ、目の前の光景に対して明確なコメントは控えるが……とりあえず『にゃんぱい』と、一言だけ言っておこう。

 青娥はさとりをスルーして、私のいる湯船の方へ入ってきた。

 小柄なさとりでも少々手狭だった空間なので、ほとんど密着するように向かい合って座る形になる。

 あ、これはいけないね。

 お湯がこぼれたらもったいないし、丁度さとりが体を洗うから手伝う為に私も出て――って、近い近い近いっ!

 

「先代様、湯冷めしてしまいますよ」

 

 青娥はしな垂れるように、体を使って私を湯船に押し留めてきた。

 抵抗出来ないほど力が強いわけではない。

 しかし、なんつーか……いや抵抗とか無理だって! 当たってるんだって! 柔らかいんだって!

 やっべ、何この状況!?

 生涯で初めて陥るピンチなんですけど!

 

「傷だらけですね」

 

 青娥は私の体に指を這わせながら、熱っぽく呟いた。

 うん、まあ控えめに言っても女の体じゃないと思う。

 目の前のお手本のような美女の体と比べれば尚更だ。

 

「あまり人に見せるものじゃない」

「では、貴女はこの傷を恥じていますか?」

「いや……」

「そうでしょう。恥じる必要なんてありませんもの。この傷は貴女の強さの証、硬い体は己の力を磨き上げた結果――」

「自分で好きにやった結果だ。言うほど立派なものじゃない」

「いいえ、そこが肝心。この平等が美徳とされる世界で、痛みを伴いながら自らの形を歪に、自らの意志で変えていく人間は今まで見たことがありません」

 

 何が楽しいのか。動けない私の体を丹念に観察していた青娥は、顔を上げて私の眼を見つめた。

 頬を紅潮させた顔に浮かんでいたのは、妖艶な微笑だった。

 

「やっぱり、貴女って素敵」

「見ていて楽しいものでもあるまい」

「いいえ、とても楽しいです。この肉体に刻まれた記憶を想像するだけで、火照ってしまいそう」

「――」

「私が見てきた、どんな人間よりも魅力的な肉体ですよ。先代様」

 

 吐息と共に耳元で囁かれた。

 なにこれエロイ。

 っつか、顔近くね?

 っつか、この感触、耳舐められてね?

 私ってば、もう完全に抱きつかれてる体勢なんですけど。

 どう対処していいのか、全く分からなかった。

 これまで出会ったことのないタイプの女性。

 そして、これまで経験したことのないスキンシップだった。

 長年の付き合いでたまに悪ノリする紫でさえ、ここまで積極的なことはしないぞ。

 ど……どうしよ?

 青娥と密着した体の方は、指一本自分の意思で動かせない。

 私は助けを求めるように視線だけをさとりの方へ動かした。

 しかし、当のさとりはそんな私の心を読めているはずなのに、完全に無視して頭を洗っていた。

 先程の忠告を軽く扱った報いなのか。

 なるほど、さとりの言うとおりだった。

 認識を改めなければならない。

 霍青娥――色んな意味でヤバイ相手だった!

 反省するから、助けてさとりん!!

 

「どうぞ、ごゆっくり」

 

 さとりは他人事のように言った。

 くっ……見捨てるというのか、さとり。

 いいだろう。だったら、最後に一つだけ教えてやる。

 

 ――それはシャンプーじゃなくて、ボディソープだ!

 

 

 

 

 さとりが目を覚ましたのは、まだ日が昇る前だった。

 傍らに眠る青娥を起こさないように、そっとベッドから抜け出した。

 何故、彼女と同衾することになったのか。

 それは単なる消去法だった。

 この家にはダブルベッドが一つしかなかったのだ。

 考えてみれば、ある意味当然である。

 子供はおらず、この家に住んでいたのは青娥と彼女の夫である男だけだった。

 夫婦なのだから、ベッドは一つで事足りる。

 最初、青娥は先代とさとりの二人でこのベッドを使うように提案した。

 自分はリビングのソファーで眠るから、と。

 この提案は、先代の方が真っ先に拒否した。

 口にした言葉は少なかったが、さとりには彼女が家主である青娥への遠慮と単純に体を気遣う気持ちを大きく持っていることが分かった。

 それに対して『では、私と一緒に寝ましょうか?』と返すのが、霍青娥という女の厄介なところである。

 あれこれと押し問答を繰り返して、結局先代がソファーで眠り、さとりが青娥と共にベッドで眠ることになったのである。

 さとりが相手だと、青娥は大人しかった。

 ベッドに入り、それぞれの生活についての話を当たり障りなく交わして、自然と二人は眠りに就いていた。

 そして、夜中。

 不意にさとりは目を覚ましたのである。

 さとりの軽い体重を、絨毯が音もなく吸い込む。

 さとりは、青娥の寝巻きを借りていた。

 可愛らしい柄のパジャマである。青娥が着る物にしては、デザインが雰囲気と釣り合わない。

 実際、青娥自身の寝巻きは肌が透けて見えるような色気のあるネグリジェだった。

 このパジャマは、結婚した時に夫とお揃いで買った物らしい。

 自分の体格には少し大きすぎる寝巻きの裾を捲り直して、さとりはゆっくりと窓に歩み寄った。

 カーテンを開けると、まだ暗い外の風景が見える。

 窓の外を照らすのは、月の光だけではない。

 遠くには、ポツポツと幾つもの光の点が見えた。

 それが街で輝く、人工の光であることがさとりにも分かった。

 夜の静寂も絶対的なものではなく、耳を澄ませば遠くから聞き慣れない音が響いて、届く。車の走る音だった。

 外の世界の人間は眠らないらしい。

 ここでは、住んでいる人間全員が眠りに就いて、誰も動かなくなるという時間帯が存在しないのだろう。

 それなのに、心の声が全く聞こえないというのもさとりにとって奇妙な感覚だった。

 

 ――ここは異世界だ。

 ――私の住めない世界だ。

 

 漠然と、そう感じた。

 

「どうされましたか……?」

 

 いつの間にか、背後で青娥が目を覚ましていた。

 さとりが驚くことはなかった。

 彼女はまだ第三の目の力の範囲内にいる。

 

「寝たふりをして様子を観察しようと思いましたが、やめました」

「イチイチ言い訳をしなくていいですよ。別に貴女の一挙一動を見張っているわけではありません」

 

 さとりは振り返らずに、素っ気無く言った。

 背中越しに、青娥が微笑する気配が感じ取れる。

 

「ですが、私に心を許してはくれないのでしょう?」

「色々と視えてしまいますからね」

「なるべく嘘偽りなく話したつもりですわ」

「嘘は言っていないでしょう。幾つか、していない話があるだけで」

 

 さとりは、青娥とのこれまでの会話の中で、言葉として表に出されていない内容も、全て思考の中から読み取っていた。

 例えば、亡くなったという彼女の夫のことである。

 何時、どのように、何故亡くなったのか彼女は話していない。

 先代は無遠慮に尋ねることをしないし、気にもしていない。

 しかし、さとりは知っている。

 青娥が夫の遺した財産を受け継いだことを知っている。

 その金を使って、不自由なく生活していることを知っている。

 知っている、だけである。

 

「まあ、別にそれがどうしたというわけでもないですがね」

「先代様には話さないのですか?」

「話してどうなるものでもないですしね」

「私という存在を警告出来ます」

「しなくていいです。する必要もないです」

「自分で言うのも何ですが、私は善良ではありませんよ。昔から、多くの者達からは『堕落した』『邪な』と評されてきました」

「しかし、貴女自身に自らが悪であるという自覚はない。まさに『自分が悪だと気付いていない真の邪悪』ですね」

「あら、面白い表現ですね。――貴女は、どう思われますか?」

「そうですねぇ……」

 

 さとりはどうでもいいことのように、気の抜けた声で呟き、

 

「まあ、私がこれまで見てきた心の中では――『そこそこ』ってところです」

 

 肩越しに振り返りながら、そう答えた。

 気軽な返答に、青娥は意表を突かれたような、あるいは肩透かしのような呆けた表情を浮かべていた。

 そして、すぐに笑い声を押し殺して、肩を震わせ始めた。

 よほど面白い答えだったらしい。

 クスクスと笑い続ける青娥を、さとりは不本意な気持ちで睨んでいた。

 

「……やっぱり、貴女の方も素敵ですね」

 

 ひとしきり笑った後、青娥は目元の涙を拭いながら言った。

 

「先代様とは、また違った力強さがある。強かさと言ったほうがいいでしょうか」

「慣れているだけですよ。嫌なものや汚いものだけは、たくさん視てきましたから」

「自分の魅力は、他人にしか分からないものですわ」

「――『だからこそ、助けたい。失うのは惜しい』ですか」

 

 さとりは表情を真剣なものへと変えた。

 青娥を問い質すためである。

 彼女が自分達に協力することを話していた中で読み取った、思考の断片がずっと気になっていたのだ。

 

「貴女が、私達を本心から手助けしたいと考えていることは疑いません」

「はい」

 

 さとりの確かめるような言葉に、青娥は素直に返答した。

 

「自分自身が幻想郷へ行く目的もありますが、それはやはり二の次です。私達が幻想郷へ帰ることを優先している」

「はい」

「先代の力が、本来在るべき世界で振るわれる様を見たいからです」

「はい」

「この世界でも彼女の力は注目を集めますが、決して認められることだけはない。それは惜しい。だから、助けたい」

「はい」

「そして、私のことも同じくらい助けたいと考えている」

「はい」

「その理由は――」

 

 楽しみながら言葉を返す青娥とは逆に、さとりは疲れたように大きく息を吐いた。

 気分の沈んだ、暗いため息だった。

 

「このままでは、私は死ぬからですね」

「その通りです」

 

 青娥はあっさりと肯定した。

 

「正確には存在が消滅します」

 

 黙り込むさとりに代わって、今度は青娥の方が話を始めた。

 

「かつて存在した『幻想』は、今やこの世界から失われてしまいました。代わりに、この世界には『幻想を否定する力』が満ちています。

 あらゆる物事や事象を理論と数式で解釈するようになって、世間一般では幻想的で曖昧なものは認められなくなってきたからです。妖怪や神を信じる人間よりも、信じない人間の方が多くなったからです」

「――」

「例えば、貴女が自分を妖怪だと名乗ったとしましょう――誰も信じません」

「――」

「何故なら、妖怪など存在しないからです。

 心を読める能力など存在しないからです。

 第三の目を持つ生物など存在しないからです。

 不思議な力なんてありません。

 人間は仙人になんかなれません。

 人間は空なんて飛べません。

 もし、これらが現実に『在った』としても、一切信じません――」

 

 捲くし立てるように喋った後、青娥は一呼吸置いた。

 

「私のような幻想の力を宿す者は、これらの否定に対して抗い続けなければ、その力を失ってしまいます」

「そして、純粋な妖怪である私は、力だけではなく命すら失ってしまうというわけですか……」

「妖怪も、神も、この世界ではほとんど見なくなりました。何処かへ行ってしまったのか、消えてしまったのか……それさえ分かりません」

「このままでは、私も同じ末路を辿ってしまうというわけですね」

「ええ。ですから、私は貴女も助けたいのです」

 

 青娥は全く深刻ではない様子で、優しく微笑みながら告げた。

 もちろん、さとりはそんな青娥の善良な笑顔に感動など欠片も抱かなかった。

 ただ、もう一度ため息を吐いた。

 自分を待つ未来に対する悲壮感よりも、億劫さを感じているような仕草だった。

 

「だいたいの見立てで構わないのですが、私はどれくらいもちそうですか?」

 

 さとりは参考までに尋ねた。

 黙っていることも、慰めに嘘を言うことも、彼女の能力の前には意味はない。

 しかし、そうであったとしても――。

 

「多分、あと三日くらいでしょう」

 

 あっさりと真実を告げた青娥の口調は、あまりにも残酷なものだった。




<元ネタ解説>

「幻想入り」

結界で隔離されている幻想郷に外の世界や異世界から、人や物が入り込むこと。
東方風神録を始め、この現象自体は原作でも描写されているが「幻想入り」という正式な名称はない。
発祥は二次創作の動画からである。

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