『空を飛びたい』と言うと、『飛べるわけない』と他人は言う。
高い所によじ登ってそこからジャンプしようとすると、周りの人達はそれを止めようとする。
崖から身を投げ出す行為は自殺と同じだと、彼らの中では決まっている。
だから、彼らは高い所から飛ぼうとしない。
自分が飛べないから、他人も飛べないと決め付けている。
そこから飛んだ人間が月まで行けるかもしれないなんて、彼らは在り得ないと考えている。
彼らにとって、自分の足の下に地面があることは当たり前のことなのだ。
『常識』という不動の大地の安定感。
揺るぎ無い地盤のもたらす安心感がないと彼らは落ち着いて生きていけない。
そこを離れようとする人を見ると、彼らは落ち着かなくなる。
もし、本当に月まで飛んで行ける人間が現れたら、それを認められない彼らは撃ち落そうとでもするのだろうか。
常識の満ちる世界が、私の行為そのものを抑止しようとする。
思い切り飛べる世界に行きたい。
高い所から飛ぼうとしても誰も止めない世界。
そんな行為が許される世界。
――私は、空を飛ぶ人間になりたい。
◆
「俺、東風谷さんのことが好きなんだ。その、よかったら付き合ってくれないかな?」
私が、人のいなくなった放課後の教室で帰り支度をしていると、彼はいきなりそう言った。
私は振り返った体勢のまま、しばらく返事をすることが出来なかった。
目の前の男子生徒は同じクラスメイトで、遠山君といったはずだ。下の名前は知らない。つまり、それくらいの付き合いだということだ。
彼は真っ直ぐに私を見ていて、顔つきは真剣そのものだった。
これがいわゆる告白であり、決して冗談や悪ふざけを交えたものではないことは痛いほど理解出来た。
しかし、私の中で感動は少なかった。
一番胸の内を占めていたのは納得だった。
ああ、そうか。ろくに話もしたことのない彼が今日に限って、普段から教室に残って簡単な掃除をしてから帰る私を手伝ってくれたのはこの為か――と。
そんな納得だった。
ちょっとした疑問の解消した私は、返答を待つ彼に訊ねた。
「どうして私なんですか?」
自分でも些かどうかと思うほど、普段通りの口調だった。
口調が他人行儀なのもいつも通り。逆に、顔を赤くするほど緊張した面持ちの遠山君には大変申し訳ないと思う。
「え、っと……その、東風谷さんは可愛いし」
遠山君は面接で最適な返答をしようとする時みたいな必死さで答えた。
彼は俗に言う『イケメン』だ。クラスメイトの私も、彼が勉強もスポーツも出来て、サッカー部に所属している『カッコいい男の子』だということくらいは分かっている。
そんな男の子から『可愛い』と言われたら、普通の女の子ならときめいてしまうのではないだろうか。
告白される理由としては、十分に納得してしまうのかもしれない。
私も悪い気はしない。
――でも、別にいい気もしない。
なんて言えばいいんだろう?
ハッキリ言って、告白の理由として私が納得出来るものではない。可愛い女の子くらい、私以外にもいくらでもいる。
とりあえず『ありがとう』とでも言っておけばいいのだろうか?
でも、それを了承の返事と誤解されても面倒だ。
だからといって『見た目が良ければ何でもいいの?』なんて、揚げ足取りみたいな返事をするほど私は捻くれていない。
結局、私は言葉の続きを促すように、黙って彼を見つめ返した。
私の視線をどういう意味で受け取ったのか、彼は慌てて言葉を続けた。
「そ、それに凄く優しくて、素敵な女の子だと思うんだ。こうして、いつも放課後に残って皆の使う教室の掃除をしてくれてたりするし。先生に言われたわけでもないのに」
「ええ。別に私がしようと思ってやっていることですから」
「そこが凄いんだよ。それに俺、この間の日曜日に東風谷さんがおばあちゃん達と一緒に公園の掃除をしているのを見たんだ」
「ボランティア活動に参加しただけですよ」
「お、俺それを見てさ、暑い日差しの中で頑張ってる東風谷さんが……凄く綺麗に見えたんだよ!」
遠山君は感極まったような笑顔で、そう言った。
本心で私を褒めてくれていることは分かる。
私も、やっぱり悪い気はしない。
彼は多分、今時珍しい真っ直ぐで素直な男の子なのだ。
でも、だからといってそこに何か心動かされるものがあるわけではなかった。
何故、彼はただのボランティア活動をそこまで美化して受け取るのだろう。
あの時、彼自身が言ったように私以外にも年配の人達が何人も参加して、彼の言う暑い日差しの中で頑張っていたのだ。
あの人達と私が、彼にはどういった理由で違って見えたのだろう?
私には、それが分からない。
「そうですか」
私は相槌を返すことしか出来なかった。
彼の返答は、私の中では納得のいく理由ではなかった。
何故、彼が私なんかを好きになったのか未だに分からない。
しかし、彼自身はもう全てを語り終えたのだろう。
じっと私の返事を待っている。
何て言えばいいのだろう。
彼の言葉から感じた疑問を、そのままそっくり言葉にして彼に投げ掛けるのが一番単純な方法だと思う。
だけど、それが遠山君を不必要に傷つけたり、意図せずとも責めたりすることになるくらいは私にも分かっていた。
彼はただ、他人の――私の善行に美徳を感じ、それを異性の魅力として純粋に捉えただけなのだ。
同年代の学生にとってはやらないことが当たり前のことを私がやっていたから、目立って、たまたま彼の目に留まっただけのことなのだ。
だけど、私にとって当たり前のことを魅力のように語られても、やはり同調など出来ない。
「……ごめんなさい。貴方とお付き合いすることは出来ません」
結局、私はただ単純にそう答える方法しか思いつかなかった。
期待と不安が綯い交ぜになっていた彼の顔つきが、落胆によって崩れた。
「そ、そうか……ははっ、ハッキリ言ってくれてありがとう……」
必死に笑顔を取り繕いながら、そう返してくれる彼が優しい心の持ち主であることは疑いようもなかった。
男の子に告白されたことは、何度か経験がある。
断られた相手は、大抵の場合私に理由を訊こうとする。それを上手く説明出来ないだけで、何故か一度断った告白を再び迫ってくる人も多かった。
そんな人達とは違って、遠山君は私を気遣ってくれているのだ。
「ごめんなさい」
私は心から申し訳ないと思って、もう一度そう言った。
これ以上、ここにいても気まずいだけだ。
私は自分の鞄を持つと、佇む遠山君を置いて、教室から出ようとした。
「……あの」
教室の扉をくぐろうとした所で、私は振り返った。
「遠山君。私の髪、どんな風に見えますか?」
何故、そんなことを訊ねたのか自分でも分からなかった。
彼の告白は、ハッキリと断ったはずだ。
彼が何と答えようと、私の中で決めたことは変わらない。
だけど、彼はとてもいい人だから――何の理由にもなっていないが、私は漠然と期待してしまったのかもしれない。
私の唐突な問い掛けに、彼は少し呆然とした後、慌てて笑みを浮かべながら答えた。
「あ……ああ、凄く綺麗な『黒髪』だよ!」
私は勝手な人間だった。
彼の本心から出た誠実な答えに、私はその時勝手に落胆したのだ。
私は彼の答えに『そう』と曖昧に応えた。
笑おうとしたが、ちゃんと笑えているか自分では分からなかった。
私は自分の髪を軽く手で撫でた。
「ありがとう」
そう言って、私は今度こそ教室から出た。
彼はいい人だと思う。
だけど、明日からはもうなるべく彼に近づかないようにしよう。
彼を傷つけたからだけじゃない。私が彼に負い目を感じてしまうからだ。
勝手に期待して、勝手に落胆した。
そして、勝手に彼との間に壁を作ってしまった。
彼もやっぱり周りの人達と同じ『私とは違う人間』なのだと。
――私の、この『緑色の髪』を見ることが出来る人は、今のところ一人も現れていない。
◆
私の『東風谷早苗』という名前はちょっと珍しい。
子供の頃は『こちや』という苗字が読めずに『とうふうや』と間違われ、『早苗の家は豆腐屋さん』なんてからかわれたこともあった。
だけど、それ以外は世間一般的な範疇の高校生だ。
父と母、そして私の三人家族で普通の一軒家に住んでいる。
生活は特別裕福ではないが、貧しくもない。家族の間で不和もなく、不自由のない十分に恵まれた暮らしだと思う。
この土地の代名詞である『洩矢』に関係した血縁であるが、それが私の人生や実生活に何か多大な影響を及ぼしているわけではない。普通の人よりも神事に詳しくて、年中行事に主立って参加するくらいだ。
私は朝起きると、朝食を食べて学校に行く。
クラスメイトと挨拶のちょっとした延長程度の会話を交わして、授業を真面目に受け、それが終わると日課のように教室を軽く掃除してから帰宅する。
夕食の時には母や父と談笑もするし、好きな番組がある日だったらテレビも見たりする。
宿題や予習をして、私は眠りに就く。
そうして私の問題のない人間としての一日が終わり、また次の日から始まるのだ。
問題というのは、つまりこれは私の幼稚園時代の記憶なのだが、周りの人間には見えないものを認識してそれに話しかけるという行動を繰り返した結果、両親を含んだ周囲の大人達に心配されるということである。
――この世界には、私にしか見えないものが存在する。
私がその事実を悟り、それを隠しながら生きていくという方針を固めたのが一体いつ頃の話なのか、もうハッキリとは思い出せない。
世間の常識というものを知ることで、私は自分自身の異常さを理解していった。
最初の頃、私は自身の内包する異常と周囲の常識に上手く折り合いをつけて生きていけていた。
小学生くらいの頃までは、私の考えや行動は夢見がちな子供らしさとして周囲にはある程度許容されていたのだ。
中学生に入ると、私は周囲から少し目立つようになった。それは良い意味でも悪い意味でもである。
既に十分に分別がつく年齢なっていた私は、自分だけにしか見えない存在や自分しか持っていない髪の色、歳を経るごとにどんどん大きくなっていく自分の内に眠る異様な『力』が、世間では異質極まりないことを弁えていた。それを隠す必要性も受け入れていた。
しかし、そんな異質な部分とは全く関係のないところで、私は世間で好まれる価値観から少しズレているようだった。
住んでいる地域のボランティアに参加することや、日常の中で見かけた老人や子供などの困っている人達を手助けすることは、私にとって別段誇るべきこともでもない当たり前のことだった。
家や門前通りの掃除をするなんて、意識してやるほどの行動ではない。
家柄の関係から神社の掃除などを子供の頃から日常的にやっていたのも理由の一つかもしれないが、やはり私から言わせれば、こんな行動にイチイチ理由を求めること自体が理解出来ない話だった。
だけど、世間一般の常識では違うらしい。
学生の私が休みの日に朝早くから掃除をしていることは、周囲の大人にとっては称賛に値する行動らしかった。
そして、逆に同級生にとっては、いわゆる『今時の若者』の常識から逸脱した奇異な行為に見えるらしい。
ボランティアに参加した次の日、遠山君のように私の行動を褒め称える声もあれば、優等生の点数稼ぎと陰口を叩かれるのを聞いたこともあった。
直接、私にそう言ってきた人もいた。一時期は、いわゆる『いじめ』のようなものに発展したこともあったし、高校生になった現在も一部の人達から向けられる意識には似たような傾向が続いている。
しかし、それも深刻に悩むほどの事態には陥っていない。
一番事態が深刻だったいじめを受けていた時期に私が遭遇した事件から、私への周囲の認識が少し変わったのだ。
当時、担任だった男性教師が、私が陥っているいじめの状況を知って化学準備室に私を呼び出した。
何故、職員室ではなく、人気のない準備室だったのかはすぐに判明した。
彼は、私の相談に乗る風を装いながら、私の身体を触ってきたのだ。
私へのセクハラが目的なのはすぐに理解出来た。
ああいった場合、どの程度の抵抗が妥当だったのだろう。今でも悩む時があるし、当時を思い返して少し後悔もしている。
普通の女子生徒だったら、身体に触られた程度では思い切った行動にまでは出られないのではないだろうか。強姦される可能性にまで至らない限り、大声を出したり、暴れる程の決断にまではなかなか踏み切れないのではないかと思う。
世間体というものが理解出来るだけの年頃だ。次の日から周囲の自分を見る目が変わってしまうことを想像して、竦んでしまうのではないだろうか。気の弱い女の子だったら、なおさらだ。
あの時の担任が、それらを何処まで想定していたかは分からない。
いじめを受けている私を、気の弱い女生徒だと思っていたのかもしれない。実際、当時の私は深刻とまではいかなくても、多少気が滅入っていた。
制服の下に手を入れて胸をまさぐられた段階で、私は抵抗をした。
拘束のつもりなのか、私の肩を抑えていたもう片方の手を冷静に両手で掴み、小指を折った。そして、動揺と激痛から後退った担任の頭を座っていた椅子で殴りつけ、大きな声で人を呼んだ。
担任の男性教師は警察に逮捕され、被害者である私は社会からの庇護と周囲からの同情を正当に受けた。
同時に、私は一部の同級生達から『冷静にそういうことが出来る人間』として忌避され、いじめは自然と消滅していった。代わりに、友人と呼べるようなクラスメイトは完全にいなくなり、他の同級生からも敬遠されるようになった。
問題は解決したといえば解決した。
高校生になった私は、良くも悪くも級友とは関わりの少ない学生として、問題のない日々を過ごしている。
――問題のない日々。
それがこんなにも重苦しいものを纏って生きていくことだなんて、子供の頃の私は知らなかった。
まるで沼の中に頭まで浸かっているような圧迫感。
私を捕らえて不自由にするのは『常識』という重み。
例え息苦しくなっても、私はそこから顔を出さないように我慢して、じっと沼の中に潜って過ごしている。
もしも、私がそこからちょっとでも頭を出そうものなら、周囲の人々はまるで怪物が出てきたかのように驚いて騒ぎ立てるから――そんなイメージが、私を戒めているのだ。
――いや。
このイメージは間違いなんかじゃない。
私は沼に深く潜んで、息を殺して生きている怪物なんだ。
だから、私の日常には感動がない。
周りの人達と同じものを見ることが出来ないし、それに一喜一憂したりもしない。
つまらない世界。つまらない日常。学生である私がそんな悩みを口にしたら、周囲もこの時ばかりはありきたりな若者の愚痴だと気にもせず受け流してくれるだろう。
だけど、本当になんて――何一つ心動かされることのない、退屈でつまらない日々なんだろう。
時を経る毎に、それをより深く理解していく。小学、中学、高校と、私の生活の中からどんどん感動がなくなっていくのはそのせいかもしれない。
私の人生はまだまだ先が長いはずなのに、どんどん一日を過ごすのが億劫になっていく。
大人になったら結婚したり、家庭を築いたり、子供を授かったり、たくさんの特別なことが待っているはずなのに、今の私には想像さえ出来ない。
これから先も、私には特別なことも、人も、きっと訪れない。
今の世の中に、信じられないことなんて起こらない。
子供の頃から大好きだったアニメのロボットが、テレビの中から飛び出してくることなんて絶対にない空想の存在なんだと私はもう分かっている。
周りがそう言っていたから。
だけど。
何故。
世間の誰もが知らないのだろうか。
目に見えないものが存在していることを。
目に見えない力が存在していることを。
そして、それらを認識出来る人間だって存在していることを。
それが、私であることを。
何故、誰も聞いてくれないのだろう。
何故、誰も信じてくれないのだろう。
「――神様だって、本当にいるのに」
そう呟いたのは、学校から帰って自分の部屋に居た時だった。
だから、誰にも聞かれることもなかったし、変な顔をされることもなかった。
それに安心することさえ、最近はなくなってしまった。
◆
最近、物思いに耽ることが増えた。
この日の帰宅途中の道でもそうだった。
私が彼女達に路地裏へあっさりと追い詰められてしまったのは、そのせいだったのかもしれない。
いつものように教室を掃除してから学校を出た私は、何が切っ掛けでそんな思考を始めたのか分からないけれど、とにかく未来に希望なんてないというワケの分からない被害妄想を廻らせていた。
二十一世紀は宇宙の世紀だなんて言われていたのに、今じゃ、環境を守れだとか、景気対策がどうだとか、馬鹿みたい。きっと、私が生きている間に人類が火星で暮らすことはないんだろうな。じゃあ、大人になっても移住の為にお金を貯める必要なんてないんだ――。
そんなネガティブな感じのことを考えていた。
ネガティブ……? どうなんだろう、これって『ネガティブ』の範疇に入る一般的な発想?
誰にでもアンニュイな気分になる日はあると思う。特に私は自他共に認める思春期の不安定な年頃なのだ。
こんな時に愚痴を言い合ったり、気分転換に遊びに行ける友達が、私にはいない。
一人、悶々としながら歩き慣れた帰路を辿っていると、商店街を通り抜ける途中で行く先を遮る集団に気付いた。
男子学生二人と女子学生三人の組み合わせ。私と同じ学校の制服を着ているが、私は彼女達のことを知らない。
同級生と思わしき五人の内の女生徒一人が、近づいた私の姿を目敏く見つけ、嫌な感じのする笑いを浮かべて他の四人に何か話しかけた。一斉に笑いが湧き起こり、五人が私に向かって歩き出した。
明らかに揉め事の前兆であることを感じ取った私は、相手に動揺を見せないよう足を止めず、咄嗟にすぐ傍の脇道へ方向転換して入り込んだ。
それが完全な失敗だったと気付いたのは、どんどん細くなる路地の袋小路に辿り着いた時だった。
あの時、慌てて踵を返して逃げ出した方がマシだったのではないかというほど最悪の状況だった。同じくらい自分が間抜けだとも思った。
私は自分から逃げ場のない状況へ足を踏み込んでしまったのだ。
諦めと開き直りの中間のような気持ちで振り返ると、狭い路地を塞ぐように五人は横に並んで私に歩み寄ってきた。
男子生徒二人を先頭に、女生徒三人が後ろに控えるというよりも男二人を指揮しているような様子で、五人は私の前で立ち止まった。
「あんた、東風谷早苗でしょ」
質問ではない。確認の為の断定的な口調だった。
私に直接的な用があるのは三人の女生徒の方らしい。
誰が誰なのかはどうでもよかった。とにかく、彼女達の言い分はこうだった。
――私が気に入らないらしい。
色々と喋っていたが、詰まるところその一点に収束した。
私に対して以前から色々と思うところがあったらしいが、一番の切っ掛けは先日の告白のことだった。
何でも、彼女達の内の一人があの遠山君を慕っていたらしい。
別に恋人でもなんでもない。だけど、彼は私に告白して、私はそれを断った。
それは許されないくらい悪いことのだという。
制裁を受けるべきなのだという。
友達である他の二人も、その結論にはまったく同意するのだという。
「話は分かりました」
少女マンガみたいだな、と私は思った。
「でも、何故私が責められる必要があるんでしょうか?」
男子生徒の一人が突然言葉の形を成していない奇声を発した。
どうやら威嚇的な意味を含んだ行動だったらしい。
追い詰められた状況で存外に冷静な相手を怯えさせる為に行ったのだろうが、私には大の男が突然高音の声を絞り出した滑稽な行為にしか思えなかった。
自分達が圧倒的優位な状況にいながら、怯えはおろか動揺さえ一向に見せない相手に攻めあぐねいたのか、三人の女生徒は現状とは何の関係もない内容で私を罵り始めた。
曰く、周りから可愛いともてはやされて調子に乗っているだとか、だけど実はブスだとか、行動がイチイチ教師に媚を売っているだとか――まあ、私の容姿や行動をことごとく悪意を通して捉えた罵声だった。
そして、三人の内の一人が言った。
「だいたいアンタ、神様は本当にいるとか言ってた危ない宗教女でしょ!」
私はその言葉に少しだけ動揺した。
そう言った彼女の顔に全く覚えはないのだが、どうやら彼女は中学か小学時代で同じ学校の生徒だったらしい。
昔の私のことを知っているのだ。
「え、何? この女、そんな危ない奴だったの?」
「そうよ。冗談とかシャレじゃなくてさぁ、他の同級生にマジな顔で神様はいるとか信仰は大切だとか話してるの聞いたのよね。それにさ、誰もいない所に向かって話しかけてるのを見た奴もいたって」
「何それ、本気でヤバイんじゃない?」
「気持ちわっるーい! こういう奴が社会に出て犯罪を起こすんじゃない?」
攻撃の糸口を見つけたらしい三人は笑いながらそこを攻め立ててきた。そこへ男子二人が合わせてくる。
彼女達にとって、身近な人間が宗教に関わっていることはそれだけで侮蔑や忌避の対象であるらしい。
全ての宗教が、怪しげな方法で信者を集めてお金を巻き上げたり、組織的な犯罪に手を染めていると考えているのだ。
その認識を改めさせることが全くの徒労であると悟っていた私は、ただ黙って彼女達の言い分を聞き流していた。
「ねぇ、アンタさぁ。今でも本当に神様がいるなんて言ってんの?」
女生徒の一人は、私にそう訊ねてきた。
それに対する私の返答がどんなものであれ、自身の理屈と数の暴力によって完全に否定し、精神的に屈服させてやろうと考えていることは容易に察することが出来た。
大抵の人々にとって、神が存在しないことは事実なのだ。
「何とか言いなよ」
すぐに返答しない私を見て何を誤解したのか、彼女は既に勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「……そうですよ」
私は静かに答えた。
「神様はいますよ。少なくとも、この土地には二柱の神がおわします」
彼女達は笑った。
彼らも笑った。
五人ともが私の返答を聞いて、嘲っていた。
「えーっ、マジ!? こいつ、本気で言ってんの?」
「だから言ったでしょ、こいつヤバイって!」
「なんだよ、優等生かと思ったらこんなに頭が可哀想な女だったのぉ。俺、ちょっと幻滅」
その反応に失望はない。苛立ちもない。
私はただ黙って、話を続けることが出来るまで待っていた。
「それでぇ?」
一人が更に訊いてくる。
「その神様って何してくれんの? 信じる人を救ったりするわけ? アンタをさ、今のこの状況から助けてくれるって信じたりしてんの?」
五人に囲まれて、内二人は私よりも身体の大きな男で。誰も助けてくれないし、逃げられもしない――と、そう脅しているような言い方だった。
そうして、私が反論も出来ず、悔しげに口を噤む惨めな姿を期待している目だった。
私は、それに対して、最初から決めていた言葉で答えた。
「神様は、私の為に何かをしてくれることはありませんよ。貴女達のような八つ当たりをしたい人間の不満や愚痴を聞いてくれるんです」
「……は?」
目の前の女生徒の顔付きが変わり、それが他の四人にも伝播した。
「気に入っていた男の人が他の女の人に現をぬかして、それが面白くないとか。勉学やスポーツ、あるいは単純な人気とか自分より優れている奴がいて、それが気に入らないとか――」
私は五人の顔を一つ一つ見ながら話した。
「学校の成績が下がったとか、帰りに雨に降られたとか、転んだとか、事故に遭ったとか、怪我したとか――」
誰かが小さく唾を飲む音が聞こえた。
「そんな時、罵っていいのが神様なんです」
「何……言って」
「誰にも責任がない理不尽な出来事の責任を取ってくれるのが、神様なんですよ」
「――」
「理由を説明出来ない苛立ちや不満を抱えた時は、神様のせいにしていいんです。それって、救われることじゃないですか?」
私は話を終えた。
言いたいことは全部言った。理解してもらおうとは思わないし、きっと理解しようとはしないだろう。そんなことは分かっている。
だけど、私に『神様に関して語れ』と言うのなら、私はこう語るのだ。
神様はいる。そして、私は今の世の中にも神様は必要だと思う。だから、信仰すべきだと思う。
私は、そう考える。
ただ、そう言いたかっただけだ。
「……こ、こいつ何言ってんの?」
私を見る五人の眼つきは、いつの間にか変わっていた。
異質な、異常な物を見る、僅かな怯えの色を瞳の奥に宿していた。
だからといって、この状況が覆ることはないだろう。
言いたいことを言い終えて、最後の情熱を使い果たした私は、冷め切った頭で『さて、どうするか』と他人事のように思案していた。
さっきまでの勢いはなくなっているが、彼女達にこのまま『帰りたいんで、どいてください』と正直に言っても上手くはいかないだろう。
却って、再び火を点ける形になってしまうかもしれない。
どうしよう。
話をしたのは失敗だったかもしれない。
いっそのこと、あのまま黙ってされるがままに無抵抗で受け入れていればよかったのでは、と思い始めていた。
路地裏とはいえ、街中でそこまで派手なことを仕出かすとは思えない。裸に剥かれて写真を撮られるくらいだったかもしれない。地べたに土下座でもすれば、彼女達は満足しただろう。
もちろん、そんなことを好んで受け入れるつもりはないが――なんだかもう、色々なことが面倒で億劫だった。
今日何が起ころうと、明日起こることは変わらない。
私には、何も特別なことも、人も、訪れない。
世の中には、信じられないことなんて起こらない。
それはいつだって同じ。
これからだって――。
「お取り込み中にすみません」
同じ――。
「東風谷早苗さんですね?」
咄嗟に五人が振り返り、私は彼女達越しに、声の主を見つけた。
そこにいたのは、小学生くらいの小柄な女の子だった。
薄暗い路地裏で高校生が何人も集まっている場面へ、臆しもせずに踏み込んできたのだ。
不思議で、不可解で――そして何より不気味な少女だった。
その少女の姿を見た私は目を見開いた。
私は、今日一番の動揺をしていた。
少女の髪の色は日本人はおろか人間には在り得ない『桃色』で、胸の前には全身から何本もの管が繋がった『目玉のような器官』を備えていたのだ。
「遠いですね、ちょっと分かりません」
不思議な少女は言うことも不思議だった。
遠い?
どういう意味だろうか、彼女は十分近すぎる距離にいる。
自分よりも身体の大きな高校生五人と、三メートルも離れていない距離まで歩み寄っているのだ。
それなのに、全く臆した様子を見せない。
私は思わず少女の身を案じていた。
まさか彼女達が子供に暴力を振るうほど非常識だとは思えないが、危険だとは感じた。
「でも、間違いないでしょう。その『髪の色』――」
私の心臓が、大きく高鳴った。
しかし、少女は不意に言葉を区切り、私から視線を外した。
少女が見たのは、最も近くにいた女生徒の一人だった。
「何だ、この変なガキは――と、考えましたね」
自分より目上から降り注ぐ剣呑な五人分の視線を、その少女は薄笑いすら浮かべながら受け流していた。
「気持ち悪い。面倒臭い。高志、さっさとこのガキを脅して追い払ってよ――と、思いましたね」
少女の言葉に、視線を向けられた少女と別の男子生徒の一人がギョッとした表情を浮かべた。
高志――人の名前?
もしかして、今反応した彼の名前なのだろうか。
まさか、と私は思った。
私の頭に浮かんだのは突飛な発想だった。
冗談みたいな考えだ。少女の言動が奇妙だからといって、真っ先にこんな可能性が思い浮かぶ私はやはり普通の人とは違うのだろう。
でも――本当に、まさか彼女は?
「な、何なのよこのガキ!」
女生徒の一人が声を荒げた。
しかし、その声色は明らかに怯えを含んだものだった。
「不気味。何で、高志の名前を知っているのよ。さっきから、一体何――」
喋りながら、ふわりと少女が後ろに跳んだ。
唐突な行動だった。
「この……っ」
ワンテンポ遅れて、女生徒の平手が空振りした。
衝動的に少女を殴りつけようとしたらしいが、客観的に眺めていた私の目には滑稽にすら映る行為だった。
彼女が暴力を振るう為に動く前に、既に少女はかわしていたのだ。誰もいなくなった空間に攻撃したようにしか見えない。
私以外の五人も、不可解な状況に目を白黒させている。
やはり、あの少女は――。
「まさか、心を読むのか――と、疑いましたね」
それは私の心か、それとも他の誰かか、あるいはこの場の全員か。
もはや得体の知れないものとしか見れなくなった微笑を浮かべて、少女は言い当ててみせた。
「道は空けておきます」
少女は路地裏の隅に移動しながら言った。
「逃げても追いませんよ」
またしても不可解な言動。
私には彼女が何者なのか、何をしようとしているのか、理解出来ない。
不気味だし、怖くも感じる。
だけど、目が離せない。
私は、彼女に『期待』している――。
「想起」
少女は自身の胸にある『第三の目』としか表現出来ない物体に両手を添えた。
その眼球が発光した。
いや、本当に光を放ったのかは分からないけれど、少なくとも私にはそう捉えられた。きっと他の五人も同じだ。
光は一瞬だった。
眩んだ視界が元に戻った後、私が見たものは先程とほとんど変わらない光景。
相変わらず少女と対峙する形で五人の背中が見える。場所も路地裏のままだ。
何の影響もなかった?
いや、そんなはずはない。
私には分かる。あれは、何かの『力』か『術』だった。直接の影響がないのなら、多分幻覚か精神操作の類だ。
酷くオカルト染みた表現だが、私にはそれを鼻で笑えるような感性はない。
注意深く少女の様子を観察した。
やはり、何も変わらない様子で佇んでいる。
様子が変わったのは、五人の方だった。
私は、ここでようやく五人の身体が震えていることに気付いた。
過呼吸に陥っている人もいるらしく、私の耳に聞こえるほど乱れた呼吸音も聞こえる。異臭を嗅いで何人かの足元を見ると、失禁しているのが分かった。
明らかに尋常な様子ではない。五人には、私には分からないものが見えているのかもしれない。
そして、それはどう考えても恐ろしくておぞましいものに違いなかった。
『すごいよね、人間って』
私の背筋に冷たいものが走った。
今のは、あの少女が言ったもの?
確かに声は彼女の口から出ている。
しかし、物凄い違和感がある。少女の声であって、少女の声でないような。低い男の声のようにも聞こえる。そんなはずはないのに。
だけど確かに、先程まで聞いていた少女の声とは思えない冷たさを宿した声だった。
『普段使ってない筋力まで動員すれば、なんでもできるよ』
この声の主は、きっと恐ろしいほど残酷だと確信してしまうような声だった。
「――貴女達も五人で『そこ』に入ってみますか?」
少女がそう言った瞬間、五人は悲鳴を上げながら一斉に駆け出した。
抜けた腰で無理矢理走ろうとしているような奇妙な動きだったが、必死さだけは極まっているのが私にも分かる。
あらかじめ少女の空けておいた隣を走り抜け、五人はそのまま脇目も振らず路地裏から逃げていった。
残されたのは、私とその少女の二人だけだった。
「さすが、彼女屈指のトラウマシーンね。これは今後も使えそう」
どうでもいいことのように呟いた少女は、改めて私に視線を向けた。
やはり、目的はあくまで私のようだ。
ゆっくりと歩み寄ってくる。
近づいてくる少女に対して、しかし私は身構えることすら出来なかった。
半ば呆けた状態だった。
未だに状況はよく分からない。
目の前の少女を警戒すべきだと頭では理解しているのに、心は全く違うことを感じている。
胸がドキドキして、息苦しかった。顔が熱くなっている。
物凄く緊張しているのだ。
どうして?
この、どう見ても人間ではない不気味な少女が敵だからか?
私に襲い掛かるかもしれないと、不安だからか?
怖いからか――?
「さて、改めまして。貴女は東風谷早苗で間違いありませんね」
「……私を捜していたんですか?」
私は自分の声が僅かに震えていることに気付いた。
「捜していましたよ」
「何の用ですか? 私は、ただの学生です……」
「違いますね。貴女は『特別な人間』です」
そう言われて、私の胸は一際高鳴った。
「誤魔化しても無駄ですよ、その『緑色の髪』を隠しきれていません」
少女は誤解していた。
私は別に、この髪を隠してなどいない。
ただ誰も、私と同じように『本来は在り得ない存在』を見ることが出来なかっただけだ。
彼女の方が、それを見ることが出来たというだけなのだ。
同じように。
私と、同じように。
「それに、貴女が特別な力を持っていることも知っていますよ。言い逃れは無駄です。貴女は二柱の神を祭る『風祝』であり、『現人神』となる素質を秘めた人間ですね」
――ああ。
――そうです。その通りです。
私は、そう答えるのを必死で抑えた。
この溢れる感情を抑えつけなければ、きっと私は涙を流しながら、彼女の言葉に頷いていただろう。
疑うべきこと、不審に思うべきことはたくさんある。
何故、初対面の彼女がそこまで私という個人の情報を知っているのか。
それを知って、私をどうしようというのか。
先程見せた得体の知れない力を顧みても、目の前の少女は警戒すべき相手だ。
心を許すなんてもってのほかだ。
だけど。
だけど、私はどうしようもなかった。
だって、私は――嬉しかったから。
私の過ごす問題のない日常を突然打ち破って、私の前に現れた――現れてくれた――少女の存在に感動さえしていたから。
「東風谷早苗、貴女に害するつもりはありません。ただ、話があってきたのですよ。ちょっとした交渉事です……」
「わ……分かりました!」
気がつくと、少女の手をしっかりと握っていた。
感極まっての、無意識な行動だった。
「家に来てください! お茶も、お菓子も出します!」
今の世の中に、信じられないことなんて起こらない。
これから先も、私には特別なことも、人も、きっと訪れない。
そう思っていた。
そう考えながら、毎日を過ごしてきた。
「だから、お話しましょうっ!!」
「……はい?」
――だけど、特別で信じられないことが私の前にやってきた!
◆
守矢資料館――。
周りに民家と自然が多い為か、一見するとそれは資料館には思えない。
広い敷地内には、観光か参拝と思われる外来客が数人歩いていたが、資料館の内部には女性客が一人居るだけだった。
やはり地元の人間ではない。めかし込んだ服装と片手で引いているキャリーケースから、観光目的でここへ訪れたのだろうと推測出来る。
しかし、大きな鞄だった。
外国へ何日も泊りがけで出掛けるような荷物が入る大きさだ。そんな巨大な物を、宿泊先などに置いていかず、資料館の中を窮屈そうに引いていく姿が他人の目には少しだけ奇妙に映る女だった。
ライトアップされた展示物を、一つ一つ眺めつつ、歩いていく。
展示されているのは、動物の剥製だった。
洩矢神は狩猟の神でもあった。その神にお供え物をする祭りの資料として展示されている物である。
狩りに使われた道具はともかく、串刺しにされた兎や、七十五頭の鹿の首が並べられている光景は、なかなか刺激が強い。
剥製とはいえ、死体の生々しい印象が肌に纏わりつくようであった。
館内は僅かに薄暗く、古風な建物特有の湿り気がある。
入り込んだ外気も影響しているのかもしれない。女は、資料館に入る前に見た、曇り空を思い出した。
事前に調べた天気予報では、ここ数日は晴天が続くはずだった。
普通の人間ならば、宛てにならない予報に愚痴の一つも零したかもしれない。
しかし、その女は何処かおかしそうにクスリと笑った。
何に対しておかしさを感じたのか、見るものには分からない笑みだった。
「――何か、おかしな物でもあったかい?」
誰かが訊いた。
誰もいないはずの空間に、女以外の誰かの声が響いたのである。
女は視線を移した。
まるで、最初からそこに声の主がいることを分かっていたかのように迷いのない動きだった。
「よお」
子供が、そう言って女に向かって軽く手を挙げていた。
少女である。
奇妙な帽子を被っていた。
帽子の頭頂部に二つの球体が並んでくっついている。
それは剥き出しの眼球だった。
不気味な飾りのようにも見えるが、違うとすぐに分かった。
その目玉は、表面がぬらぬらとした水気を纏い、何よりもギョロリと動いて女の方へ焦点を合わせたのだ。
少女自身の目は、広い帽子のツバに隠れて見えない為、まるでその眼球で少女が物を見ているように映る。
常人ならば思わず息の止まってしまうようなものを目にしながら、しかし、女は口元の笑みを変えなかった。
「ええ、とても興味深い資料です」
女は自分よりもずっと小柄な少女に、殊更丁寧な口調で答えた。
「別に、珍しい物でもないだろう」
「そうでしょうか?」
「少なくとも、あんたにはね」
「ここへ来たのは初めてです」
「そうじゃないよ。さっきまであんたが見ていたような物は、別にあんたにとって珍しくないんじゃないかって話だ」
「というと?」
「死体だよ」
少女は顔を上げた。
「剥製なんかより、もっと生々しいものを、それこそ腐るほど見てきたんだろう」
少女は、女と同じように笑っていた。
「今更、こんな物を眺めて何を感じるっていうんだい?」
「神への畏怖……とか」
女の返答に、少女は束の間笑い声を上げた。
蛙の鳴くような声だった。
「面白い冗談だ」
「冗談に聞こえますか?」
「特別に性質の悪い、ね。あんた、本当にここへ何しに来たの?」
「観光ですわ」
「初対面だからって、様子見はそろそろやめようや」
少女の口調は何処か剣呑だったが、表情には喜悦が浮かんでいた。女とのやりとりが面白いらしい。
薄い唇がぱっくりと割れ、そこからピンク色の長い舌が滑り出てきた。
下唇を越え、顎を越え、胸元まで届くほどの長さだった。
人の持つ舌ではない。
「臭いんだ」
少女は、女の持つ鞄を、その長い舌で指した。
「『そんなもん』引き摺って、『わたしの領域』に何しに来やがった――」
視線で刺し殺すような眼つきだった。
しかし、口元は相変わらず何かを楽しむように吊り上っている。
目の前の相手を、警戒しているのか歓迎しているのか分からない。
少女の目には狂気染みたものが宿っていた。
対する女の方も、最初から全く変わっていない笑みを浮かべたままだった。
涼しげな表情で口を開いた。
「私は霍青娥と申します。かしこみかしこみ――」
青娥は言った。
「お願いがあって、貴女を御捜ししておりました。『洩矢諏訪子』様」
呼ばれるはずのない名前を呼ばれ、諏訪子の口元から笑みが消えた。
◆
先代巫女は、風の中を歩いていた。
ごつい体躯を革ジャンパーの中に閉じ込め、ベースボールキャップを深めに被っている。
ここは彼女が騒ぎを起こした街からは遠く離れた場所だったが、顔の傷がやはり目立つ。先代はそれを嫌ったのだ。しかし、当然ながら無駄な努力だった。
風が吹く中、後ろに結んだ髪をなびかせながら歩く先代の姿は、ただそれだけで見る者に凄みを感じさせる妙な迫力があった。
先代が足を向ける先は、訪れたこの地でも代表的な場所である『諏訪大社』である。
諏訪大社には上社と下社の二つが存在する。
先代巫女が訪れたのは、上社の方だった。こちらを選んだ理由は距離的に近かったから以外にない。
鳥居を潜る前に、空を見上げた。
先程までは抜けるような青空だったというのに、いつの間にか黒い雲が出始めている。風も、ついさっきから強く吹き始めていた。
ただの天候だと言えば、それまでである。
しかし、先代は無言の中で何かしらの予兆めいたものを感じていた。
鳥居を潜り、自然に囲まれた神社の敷地内へと足を踏み入れる。
不思議なことに、人がいなかった。
平日の日中である。参拝客で賑わうような、何か特別な日や時間帯ではない。
それでも有名な神社に人っ子一人いないというのも奇妙な話だった。
これも偶然の一言で済ませられるのかもしれない。
しかし、やはり――。
先代は一瞬だけ足を止め、しかしすぐに神社の奥へと歩を進めていった。
上社本宮の前に辿り着いた。
古く、威容のある建物を前にして足を止めた。
先代の視線が、軽く上を向く。
視線の先にあるものを見極めようとするような、真剣な眼つきだった。
無機物を見るような視線ではない。
神社の中に潜む何者かを捉えるような確信に満ちた視線だった。
「――『八坂神奈子』」
小さな声で口にしたそれは名前だった。
『我を呼ぶのは何処の人ぞ』
誰もいないはずの神社で、先代の言葉に応える声があった。
先代の視線が、更に上へ向けられる。
神社の屋根よりも上から、それはゆっくりと降りてきていた。
宙に浮いた女だった。
空中で胡坐をかき、膝の上に片腕の肘を乗せて、軽く頬杖をついた姿勢で、その女は先代の前へ降りてきたのである。
背中には後光の如く輪を描いた注連縄を背負い、胸には丸い鏡を装飾品として身に着けている。
一般的な感性で見れば奇抜な格好だが、彼女の姿が滑稽に見えるかというと全くそうではない。
一般的な感性とは、つまり人間の感性なのだ。
目の前の女は、明らかにそれを超越した存在だった。
人間ではない存在の姿として見れば、全く奇抜ではないし、おかしくもない。そんな理屈に出来ない納得をしてしまう。
神の如き威容と威厳を備えた女だった。
「その名前を、人に呼ばれるのは実に久しぶりだ」
先代が少し見上げる程度の位置に浮いたまま、女は――神奈子――は言った。
口元は笑っているが、視線は油断なく先代を観察している。
「何者だ、名を名乗れ」
「先代巫女と呼ばれている」
「名を、名乗れと言っている」
先代の答えに、神奈子は表情を消して返した。
「……神の名を口にしておきながら、自らの名は口に出来ないか?」
先代の沈黙を、神奈子は返答として受け取った。
口元が吊り上り、再び笑みが戻ってくる。
しかし、神奈子の顔に浮かんだそれは先程までのものとは違う意味合いの笑みだった。
「まあいい。どうせ、何者かも語るまい」
重い、刃物の笑みが、神奈子の唇にへばりついている。
「お前の得体が知れないことだけはハッキリしている」
「……敵ではない」
「ようやく答えたと思ったら、なんとも下らんことを言うな。もう少し、気の利いた駆け引きは出来んのか」
「信じて欲しい」
「お前、私を甘く見すぎじゃないのか。私を誰だと思っている」
「知っている、貴女は神だ。無礼を働くつもりはない」
「ああ、私も『知っている』――」
突いていた頬杖を、神奈子はゆっくりと解いた。
足は未だに胡坐をかいたままである。
しかし、明らかに様子が一変していた。
恐ろしく剣呑な空気が、神奈子の全身から放たれ始めている。
周囲の木々がざわめいた。
ただの風によるもののはずだが、神奈子を前にした先代には彼女の力がそうさせているようにしか思えなかった。
空の雲が、いよいよ色濃く集まり始めている。
この天候の変化さえも、目の前の超常的な存在が起こしているように感じられた。
「何よりも私自身が感じられるんだ。お前から私に向けられる『信仰』がひしひしと感じられる。
ああ――お前は、なんという人間なのだ。お前が私の名を『建御名方神(タケミナカタノカミ)』でも『八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)』でもなく、『八坂神奈子』と呼んだことすら些細に感じる。
お前は、何故そうまで私を信じる? 何故、そうまで私の神としての形を完璧に思い描ける? この時代に神の存在を見抜けるほどの並ならぬ力を持ちながら、何故お前は私の力をそこまで尊崇出来るのだ――」
鉄のような先代の表情に、僅かな動揺が走った。
互いに視線を交わす神奈子の瞳には、僅かだが涙が浮かんでいたのである。
神である彼女が、人間を前にして感極まった涙を見せたのだ。
涙を見せたことを恥じるように、すぐにそれは神奈子自身の手で拭われた。
「――だからこそ」
涙の拭われた神奈子の瞳は、鋭く先代を睨み据えていた。
「お前が理解出来ない。神である私の目をもってしても、得体が知れない存在だ」
「どうすれば、敵ではないと信じてもらえる?」
「お前が敵ならば、まだよかった。私は敵を恐れないからだ。
だが『信じる』ということが最も難しい。お前の何もかもが信じられないからだ。よりによって人々から神への信仰が失われつつあるこの時代に、何故お前のような人間が私の前に現れた。お前という存在そのものが、私には信じられない」
突然、神奈子から放たれる圧力が増した。
それは明確に先代一人に向けて放たれたもの。
間違いのない敵意だった。
「敵対する理由はないはずだ!」
思わず身構える先代に対して、神奈子は全く圧力を緩めずに答えた。
「それを判断する為だ」
「貴女と戦う気はない」
「一つ、教えてやる。お前のその自然体にまで昇華された呼吸法、見事だ。しかしな、お前の呼吸が生み出す無意識の力が、この場所では酷く目立つ。ここは神の住む領域だからだ。お前の力が、まるで波紋のように私の領域を侵すのだよ」
神奈子は言った。
いつの間にか、口元にはまた笑みが浮かんでいた。
蛇を思わせるような、ぬらりとした薄笑いだった。
「とりあえず、その理由で得体の知れないお前を敵として見てみることにするよ」
対峙する二人の耳に、頭上の黒雲から雷鳴が聞こえた。
◇
――神奈子様に『お前が息するだけで不愉快なんだよ』って言われました。死にたい。
いやぁ、まあね。幻想郷では色々な人や妖怪と交流しましたよ。
そりゃあ、初対面で良好な関係を築くのは難しいよ。私も苦労した覚えがある。
だからね、この諏訪市を訪れて、さとりや青娥と手分けして守矢の関係者を捜している最中に覚悟はしておいた。
相手からすれば、私達は何故か自分達のことを知っている謎の訪問者だ。疑われたり、警戒されるのも当然だと思う。
今回は場所が場所だけに、永遠亭の時のような誤魔化しは出来ない。
神様への信仰が薄れたこのご時勢に、その神様を頼ってやって来た私達は客観的に見ても胡散臭いことこの上ないだろう。
それでも、まずは会わなければ話が始まらないってんで、こうして私は生前の知識を活用して守矢神社の元ネタである諏訪大社へと訪れたのだが……。
へ、へへへ……さすがに、出会い頭でこんな敵対の仕方をするのは初めての経験ですよ。
……折れそう。心が。
なんなの!? 本当にさ、私は本心から神奈子様に敵対する意思とか欠片も抱いてなかったよ!
むしろ、出会う前から敬意を抱いてたよ!
だってさ、相手は本物の神様だよ。敬うしかないじゃない。
知識にある原作からでも偉大さを感じるのに、現実として対面出来る神様相手に尊崇の念を抱かずに何を抱くというのか。
敵意? まさかである。そんなもん、抱くことすらおこがましい!
っていうか、私の中で神奈子様と諏訪子様はもう『様』付けがデフォですから。
本物を前にしたら、無条件でひれ伏してもいいくらいの気持ちだった。
紫や魔理沙といった東方の人妖キャラがアイドルならば、神奈子様達は天皇陛下とかのイメージなのだ。
もちろん、早苗にも会いたい。しかも、幻想入り前ってことは現在JKの可能性大!
セーラー服姿の早苗さんか……胸が熱くなるな。
とにかく、彼女達の内の誰かと会える可能性の高い諏訪大社の前まで来た時、私の期待と緊張も最高潮にまで高まっていた。
なんかもう、空が曇ってる様子すら『あー、これは神奈子様の力によるものですわ。もしくは諏訪子様の威光。間違いない』とか思えちゃうくらいだった。
神社に足を踏み入れ、普通の観光も楽しみながら奥へ進み、そしてついに私は出会った。
生で見た本宮に感動して、思わず呟いた私の言葉に応えて、神奈子様が降臨なされたのだ!
冷静に考えて神様が神社で人間みたいに生活しているはずがないのだが、『ここが神奈子様と諏訪子様がルームシェアしてる家かー』とか自然と考えて、超ガン見していた。その前に、神奈子様が現れたのである。
その時の感動は、とても言葉では言い表せない。
感極まっていた。
どれくらい極まっていたかというと、思わず『あなたが神か!』と叫びそうになったくらいだった。
っつーか、威厳やべえよ神奈子様。
例のあの胡坐かいたポーズとか、マジで神々しすぎてヤバイんですけど。生で見ちゃったよヒャッホウ。
信仰不足で幻想郷に来たというのが原作での設定だが、本当なの?
この姿を見て畏怖や畏敬を抱かない人間なんていないデショ。
少なくとも、私は神としての威厳を滅茶苦茶感じた。
私、神奈子様信仰します! いや、最初から信仰してたけど、ますます信仰します!
博麗の巫女? いや、私もう引退したから。あと、あの神社って神様は祭ってねーからノーカンで!
ここを訪れた当初の目的さえ忘れて、私はそんなことを考えていたのだ。
ああ、神様と話すなんて、さすがの私も初めての体験だ。
なんて切り出せばいいんだろう?
こんな格好で失礼じゃないかしら?
やだ、あたしったら。鼻毛とか出てないかしら?
あっ、ひょっとして手土産持参するのが作法だったか? 陰陽玉しか持ってねぇ!
こんな感じに、私になりに真剣に悩んでいたら――。
冒頭に戻る。
何故こんなことになってしまったんだ……!?
――オー・マイ・ゴッドッ!
いや、全然シャレになってねぇ。
<元ネタ解説>
・さとりの見せたトラウマ。
さとりが五人の学生に見せた幻覚は、以前先代から読み取った過去の漫画のトラウマである。
具体的には「トライガン・マキシマム」二巻の冒頭シーン。
レガート・ブルーサマーズが四十人の憲兵を意識を保ったまま操って、囚人輸送車の荷台へ全員で入らせた場面。
荷台は大柄とはいえ囚人一人が乗るスペースしかない。つまり――。