東方先代録   作:パイマン

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風神録編その十一。


其の五十「御神渡り」

「――もうじき夜が明けるわ」

 

 咲夜が銀細工の施された懐中時計の蓋を閉めると、金属質な音が小さく響いた。

 既に戦いの緊張感は消え、力を抜いた楽な姿勢で佇んでいる。

 傍らの魔理沙など、立ち続けることに疲れ、足を崩して座り込んでいた。

 天界は朝日が昇れば、いの一番に日が差すはずの場所だが、周囲はいまだに夜闇が広がっている。

 しかし、時間の上では確かに、夜を越えて徐々に朝が近づいていた。

 魔理沙達が天界へやって来て、そして霊夢と天子が戦いを始めて、長い時間が経とうとしている。

 一時間や二時間ではない。

 日を跨ぐほどに長い時間。

 長い。

 長い。

 そして、戦いはいまだに終わってはいなかった。

 

「二人ともタフね」

 

 咲夜の呟きは、長時間続く戦いに『飽きた』というよりも『呆れた』という意味合いの方が強かった。

 それに対して相槌も打たず、じっと食い入るように見つめる魔理沙の視線の先では、博麗の巫女と天人の激しい戦いが一時も衰えることなく続いていた。

 最初はスペルカード・ルールに則った戦いだった。

 それがやがて実戦的な攻撃を加えた戦い方に変わり、舞台を空中へ移動させ、再び地上へ戻り、離れて撃ち合い、密着して打ち合う。斬り合う。かわし。守り。逃げ。攻める――。

 あらゆる戦いの定石とそれを覆す奇手がその戦いにはあった。

 長い時間の中、流れは常に変化し、単調さは一切ない。

 それは二人ともが計り知れない実力を宿し、尚且つそれが拮抗しているからだった。

 どんな攻撃にも対応し、逆転する。

 それを何度も繰り返す。

 真の強者が繰り広げる別次元の戦い。

 少なくとも、魔理沙の目には二人の戦いがそう映っていた。

 どれだけ見ていても、驚きが絶えない。自分では想像もつかないような展開が繰り返される。

 弾幕ごっこの上でならば、参考に出来そうな部分が幾つも見つかった。

 しかし、長い。

 感動や驚愕を抱く感性を麻痺させるほどに、二人の戦いは延々と長く続きすぎていた。

 戦いの終わりが、全く見えないのだ。

 

「あの天人が負けを認めるか、飽きでもしない限り、終わらないだろうぜ」

 

 魔理沙の意見に咲夜も同意した。

 悔しいが、比那名居天子の力は本物だった。

 スペルカード・ルールにおける勝敗を無視している点はともかく、半ば実力勝負に陥っている現状でも、戦う力と意思を失っていない。

 霊夢の攻撃をその身に受けながら、しっかりと耐え抜いている。

 ダメージも疲れも蓄積されているはずであった。

 それでも尚、動きに精彩さを欠いていない。

 

 ――比那名居天子は強い。

 

 最初は感情的になっていた魔理沙さえも認めざるを得ない強固な現実がそこにあった。

 咲夜は更にその先も見ていた。

 

「あるいは、霊夢が付き合いきれなくなるかもしれないわ」

 

 咲夜が見る限り、戦いは霊夢の優勢で進んでいた。

 何しろ、戦い始めて以来彼女は一度も直撃を受けていないのだ。

 人間の肉体で天人の強力な攻撃を一度でも受けることは致命傷に繋がるのだから、ある意味当然の話である。

 しかし、現実でその致命的な一瞬を避け続けていられるのは、霊夢の非凡な実力があればこそだった。

 時に避け、時に結界で守り、霊夢は天子の猛攻を凌ぎ切っている。

 そして、自らは的確に有効打を与えている。

 伝説の鬼さえ戦いで下してみせた博麗霊夢の力を改めて認識させられる、理想的な戦いの姿がそこにあった。

 ――だが、それでも。霊夢は人間の器を越えてはいない。

 どれほど効率的に戦ったとしても避け得ない、一夜通しで戦い続けたことによって蓄積される疲労が、霊夢を蝕み始めていた。

 冷静に観察する咲夜にも、魔理沙にさえ、今の霊夢の状態がハッキリと分かる。

 額から滝のように汗が流れ、引き結んだ口元と吊り上った目元は疲れを表に出すまいとする我慢の表情なのだ。

 呼吸も乱れているはずだった。それは間近で対峙する天子の方がより正確に見抜いているだろう。

 もはや隠し切れないのだ。それほどに疲労が溜まっている。

 対して天子は、ダメージはともかく体力面ではいまだ余裕さえ感じられる様子だった。

 

「このまま戦いが続けば、どうなるか分からないわね」

「霊夢は負けないさ」

 

 魔理沙の即答に、咲夜は肩を竦めた。

 

「それは否定しないけれど……でも、アナタも分かっているでしょう?」

「――」

「私は『霊夢が付き合いきれなくなるかも』って言ったのよ」

「ああ……」

「もう、霊夢を止めた方がいいんじゃないかしら? これ以上は彼女の為にならないと思うんだけど」

「わたしも、そう思ってたんだ」

 

 当初、魔理沙の中で霊夢の戦いぶりを見ながら抱えていた興奮は、もはや冷め切っていた。

 あの時は霊夢が勝つと信じていた。

 天子の攻撃を上手く捌く度、反撃があの気に入らない天人を捉える度、内心でスカッとしていた。

 

 ――ざまあみろ。

 ――反省しろ。

 ――霊夢の怒りを思い知れ。

 

 自分の怒りは、霊夢の怒りの代弁なのだと思っていた。

 この戦いは、正当な報いを果たすものなのだと意義を見出していた。

 しかし、長く続く戦いの中、魔理沙は徐々に昂ぶっていた心が鎮まっていくのを感じた。

 怒りの代わりに湧いてきた感情は、それまでとは全く正反対のものだった。

 今の霊夢を見ていると、余計にそう感じる。

 

「あの天人は、きっと霊夢の変化に気付かないわ。だって、随分と満足そうに笑っているもの」

 

 天子は霊夢との死闘を楽しんでいた。

 ボロボロになるまで痛めつけられていたが、それさえも心地良い刺激として受け止めている。

 この戦いに意義を見出し、味わっている。

 故に、戦いはもはや単なる勝敗では終わらない。

 完全に動けなくなるまで叩きのめされるか、自分が満足するまで、天子はいつまでも戦いを続けるつもりなのだ。

 

「止めた方がいいわ」

「ああ」

 

 魔理沙は苦しげに頷いた。

 

「もう霊夢には意味のない戦いだ」

 

 天子は笑っている。

 しかし、霊夢は笑っていない。

 

 

 

 

 博麗霊夢が強いことは分かっていた。

 地上の異変をずっと見てきたのだ。彼女が鬼の伊吹萃香と渡り合ったことも、具体的なその戦いぶりも見ている。

 分かっていた。

 この程度強いことは。

 だから――もっと先が見たい!

 

「効かないわ!」

 

 掬い上げるような蹴りに体ごと顎を打ち上げられながらも、天子は強気に笑い返した。

 実際には意識が一瞬飛んでいる。

 受けた衝撃を逃がしながら頭上高くに飛び上がり、足元に要石を出現させた。

 

「効かない――けど、さすがにここまで良い様にやられるとムカつくわね!」

 

 真下にいる霊夢を、石で押し潰すように急降下した。

 攻撃の直後の隙を突いた攻撃である。

 しかし、落下の最中で天子は思い出した。

 この攻撃は、先程一度見せたことがある。

 

「げっ」

 

 その攻撃が来ることをあらかじめ予想していたかのように、霊夢は後ろへ跳んでいた。

 標的の居なくなった地面を、攻撃が激しく、そして空しく抉る。

 今度は霊夢が攻撃の隙を突く番だった。

 一旦後方へ跳躍し、反動をつけて地を蹴る。

 重く鋭い飛び蹴りが天子の顔面を打ち抜いた。

 要石の上から吹き飛ばされ、仰向けに地面へ倒れ込む。受けた蹴りはそのまま、天子の頭を靴底と地面で挟み潰す形となった。

 もちろん、これまでの戦いで霊夢の猛攻に耐え抜いてきた天人の肉体の頑強さは頭部も例外ではない。天子は痛みこそ感じたものの、意識を刈り取られるまでには至らなかった。

 しかし、だからこそ次に何が起こるか理解し、戦慄していた。

 蹴りを受ける直前、靴底に貼られた霊符を視界に捉えていたのだ。

 霊力の光と共に札が指向性を持った爆発を起こし、天子の意識は文字通り粉々に吹き飛んだ。

 一方の霊夢は、足元で起こった爆発の反動を利用して大きく跳び上がり、天子から適切な距離を取った位置に着地した。

 顔からブスブスと黒い煙を上げて、仰向けに倒れたまま動かない天子を見据える。

 霊夢は油断無く、乱れた呼吸を整えることに努めた。

 呼吸は回復出来ても、体力までは回復出来ない。戦いの合間で可能な僅かな休息では誤魔化すことさえ出来ない程の疲労が、霊夢を確実に蝕んでいた。

 むしろ実力の拮抗した接戦で体力と精神力をすり減らしながら夜通し戦い続け、そして今も尚戦えるだけの体勢にまで立て直せる方が異常なのだ。

 鋭さが一瞬も鈍ることのない視線の先で、天子がゆっくりと立ち上がった。

 

「……あんたに一度見せた攻撃が通じないこと、分かってたんだけど」

 

 さすがに先程の攻撃には大きなダメージを負ったのか、余裕のある立ち方ではなかった。

 緋想の剣を支えにして、折れそうな膝を叱責しつつ、かろうじて立ち上がる。

 片手で覆った顔は、俯いた状態であることもあって霊夢からは見えないが、悲惨な状態になっていることは確かだった。指の隙間から血が零れ落ちている。

 

「疲れてるからって油断してたわ」

 

 当然、天子自身にも自分の顔の状態など分からない。

 痛みと熱が、顔中に満遍なく張り付いているようだった。

 顔面を踏まれた状態で爆発を受けたのだ。並の人間や妖怪ならば、頭部は原形を留めていないだろう。

 

「なるほど、こういうえげつない戦い方も出来るのね」

 

 霊夢と戦いを始めて以来、新鮮な驚きが尽きることはない。

 弾幕ごっこの強さはもちろん、鬼をルール上ではなく物理的に倒してみせた攻撃力、戦術の巧みさ、そして容赦の無さ。

 天子をして『華麗だ』と思わせる戦い方を突如一変させて見せた、この血生臭い一撃――。

 

「強い」

 

 天子は認めた。

 

「あんたは強いわ、博麗霊夢」

 

 他者の強さを驚くほど素直に、傲岸不遜な天人は認めたのである。

 天子は不敵な笑みを浮かべようとした。

 しかし、上手く笑顔を作れない。口の中に硬く小さい物が幾つもあって、それが動きを邪魔している。

 気持ち悪くなった天子は、それを手の中に吐き出した。

 血と一緒に吐き出したものは、白く小さな破片――無数の折れた歯だった。

 

「ははっ、折れたわ。私の歯が」

 

 天子は霊夢へ見せ付けるように、手のひらを差し出した。

 

「鼻血も出てるし」

 

 折れた歯を投げ捨て、赤く濡れた鼻を拭う。

 出血が止まらず、気休めにしかならなかった。

 

「天人がさ、歯を折られて、口と鼻からみっともなく血を垂れ流してるのよ?」

 

 血塗れの顔で天子は愉快そうに笑っていた。

 凄まじい表情だった。

 

「天人は不老長寿で、空を飛ぶなどの神通力が使え、快楽に満ち、苦しみを感じず、日々を優雅に遊んで暮らしているのよ。地上の人間とは生き方の格が違う。健全な天人の肉体は汗をかかず、垢も出ず、臭いもしないってさぁ――でも出てるじゃない、血。痛いじゃない、凄く」

 

 天子は堪えきれずに吹き出した。

 

「これが笑わずにいられるかってのよ! あっははははははは!!」

 

 天子は狂ったように笑った。

 本当に気が狂ったわけでも、敵である霊夢に対する負の激情から来る笑いでもない。

 自分が今感じているもの全てが、心の底から楽しく、愉快で仕方がないといった笑い方であった。

 

「楽しいわ! 天人になって以来、初めて私は楽しい! あんたは私の予想以上だったわ、博麗霊夢! あんたは強い! もう認めるしかないわね、この戦いは勝てるかどうか分からないわ! くそっ、悔しいわ! でも、楽しいわ! もうワケ分かんないわね、でも楽しくってしょうがないわ! あんたもそうでしょ、霊夢ぅ――!?」

 

 天子の挑発的な言葉に、霊夢は無言で返した。

 鋭い視線で相手を見据えるだけである。

 

「ふざけた理由でさぁ、自分の神社壊されて、そりゃあ腹が立つでしょうよ! 憎いでしょうよ! そのムカつく奴をさぁ、ボコボコにぶちのめしてるんだから、そりゃあ楽しいわよねぇ! スカッとするでしょ!? 見なさいよ、この顔! あんたがやったのよ! 私が血反吐吐いて、地面に這い蹲るの見れば、そりゃあ気持ち良いでしょうが! 立ち上がるのを見れば、疲れて萎えた怒りだって幾らでも再燃するでしょうが! いいのよ、もっとやっても! 私もまだまだ勝負を諦めるつもりはないからさぁ、私に土下座させてみなさいよ! あっはははははははははははははは――!!」

 

 天子の哄笑が響き渡った。

 神経を逆撫でして、怒りを煽り立てるような言葉と声だった。

 それを聞く霊夢は無言だった。

 無言で拳を握り、肩を小さく震わせていた。

 

「はははははははっ!!」

 

 天子は最初、それが怒りから来るものだと思っていた。

 

「ははははは!」

 

 しかし、自分を見つめる霊夢の顔を見て、徐々に感情の昂ぶりが収まり、代わりに疑問が湧いてきた。

 

「ははは……!」

 

 自らの抱いていた確信が疑問へと摩り替わっていく中で、天子の興奮も少しずつ冷めていった。

 

「はは……」

 

 表情は笑みの形に保ちながらも、そこから力が抜けていく。

 既に天子が霊夢を見る目は訝しげなものへと変わっていた。

 

「は…………何、その顔?」

 

 霊夢は眉間に皺を寄せて眉を顰め、口元をへの字にひき結んで、じっと天子を睨んでいた。

 強張った頬は、何かを堪えている様子だった。

 先程からずっと霊夢はこの表情のまま、一言も喋らなかった。

 天子は最初の内、これを『内にある怒りを必死で堪えるもの』として見ていた。

 戦いの為に必死で理性を保ち、感情を押し殺している表情なのだろう、と。

 しかし、霊夢が押し殺しているものは、天子の考えているものと違っていた。

 天子はこの時まで気付かなかった。

 一体、何時から霊夢の様子が変わったのか。

 戦いの最中、霊夢が言葉を発さなくなったのは何時頃からなのか。

 疲労や痛み以外の何かに耐えるような顔になったのは何時からなのか。

 天子は気付いていなかった。

 自分とは違い、この戦いの意味が霊夢にとって失われつつあることに――。

 

 霊夢は何かに耐えていた。

 霊夢は何かを堪えていた。

 言い表しようのない感情が、形容し難い表情に表れていた。

 もはや天子の言葉など、耳にも、心にも届いていない。

 霊夢に聞こえているのは、ただ己の内に鳴る風の音だけである。

 空洞になった自分の肉体で、空回る風の音だけが、ただ延々と聞こえる。

 それを止めることが出来ないと悟った。

 長く続く戦いの中で、いつしか霊夢はそう悟ってしまった。

 戦う前は、敵を憎むことでこの音が聞こえなくなると思っていた。

 戦いを始めた時は、敵を倒すことでこの風が止むと思っていた。

 あるいは、散々に痛めつけることで、完膚なきまでに敗北させることで、最後の一線を踏み切って殺してしまうことで――この空洞を埋めることが出来ると思っていた。

 しかし、戦いの中で気付いてしまった。

 どれだけ敵を憎んでも、叩きのめしても、言葉にして怒りを吐き出しても、この風の音を止めることは出来ない。

 体に空いたこの穴を抜ける風の音を止めることは。

 失われたものを取り戻すことは。

 

 霊夢の歪んだ顔に浮かぶもの――それは虚しさだった。

 

 

 

 

 彼女が自身の知る漫画やアニメなど創作の世界に抱いていたものは一種の『信仰』だった。

 一つの例を挙げよう。

 漫画やアニメに登場する修行を重ね、その結果得られる技を幾つも身に着けながら、彼女は『空を飛ぶ』ということだけは実現出来なかった。

 何度も挑戦はした。

 空を飛べるキャラクター達の姿を完璧に思い描いた。

 自分の周りに、実際に空を飛べる人妖も多く存在した。

 しかし、そのイメージを自身に反映することだけはどうしても出来なかった。

 前世の記憶にある『現実の人間として生きた経験』が、彼女自身と創作のキャラクター達の間に無意識に壁を作っていたのだ。

 彼女の娘である博麗霊夢は人間でありながら、空を飛べる。

 しかし、それは『空を飛ぶ程度の能力』があるからだ。

 霧雨魔理沙は魔法使いだし、十六夜咲夜も人間離れした異能を生まれつき持っている。

 知己の人間は皆『理由』や『根拠』を持っているのだ。

 人外の存在については言うまでもない。その存在自体が空を飛ぶ幻想そのものである。初めて人の形をした者が空を飛ぶ様を見た、あの時の『天狗』のように。

 そして何より、彼女達は――ゲームの中で飛んでいた。

 だから、飛べることは何も不思議ではない。

 逆に、自分はゲームの中にいたキャラクターではない。

 だから、飛べないことは仕方がない。

 漫画やゲームの世界に生きる人物に対する『敬意』や『信仰』があるからこそ、彼女はそれに値しない自分を例外だと無意識に決め付けてしまっていた。

 何十年もの間、自覚することなく――。

 しかし、それを見抜いた古明地さとりは言った。

 

 ――貴女はこれから『できるわけがない』という台詞を……四回だけ言っていい。

 

 漫画の中の台詞だった。

 これを言われたキャラクターは『できるわけがない』と四回言った後で『出来るようになる』という展開だった。

 

 ――ならば。

 ――自分も四回『できるわけがない』と言った結果。

 ――出来るようになる。

 

 疑いの余地はない。

 そういうものだからだ。

 それが彼女の信じる理だからだ。

 そして、彼女の『信仰』は何の矛盾も無くその理論を成立させた。

 

 

 

 

 ――そこで起こっているのは、超常の戦いだった。

 

 激しい雨と風を裂いて、ビルの谷間を飛び抜ける二つの影があった。

 人の形をした影だった。

 先を行く一方の影は、まるで見えない翼を持っているかのように、荒れ狂う風を乗りこなして、鳥のように飛んでいた。

 もう一方の影は、嵐という壁を強引に貫いて、弾丸のように直線の軌道を描きながら飛んでいた。

 先を飛ぶのは神奈子、それを追うのは先代である。

 飛行する進路の先に、聳え立つビルが迫る。

 急速なカーブを描いて方向転換を行う神奈子に対して、高速で直進する先代はビルの壁を蹴って強引に軌道を変えた。蹴り跡が壁に刻まれる。

 跳ね返って飛び続ける、まさに弾丸である。

 

「飛び方に緩急がついていないな。空はまだ不慣れか、人間」

 

 背後を確認して口元を吊り上げると、神奈子は急降下を開始した。

 眼下にある道路。その路肩に停まる大型トラック目掛けて、ぶつかるような勢いで加速した。

 自らの体で巧みに先代の視界を遮り、トラックの存在を隠している。吹きつける風雨も、人間の視力を低下させるのに十分な効果を持っているはずだった。

 トラックの荷台に激突する寸前で、神奈子は軌道を捻じ曲げて急上昇した。

 それに追随しようとした先代は、しかしトラックの車高分、予想していた地面との距離感に誤差が生じてしまう。

 トラックとの激突は免れない。

 先代の反応は驚異的に早かった。

 いや、それはもはや反射の領域に達していた。

 咄嗟に体勢を変えて、頭から荷台に激突するのを避け、足から着地する。金属製の大型コンテナがひしゃげ、大きくへこんだ。

 踏み潰した車体をまるでトランポリンのように踏み台にして、先代はすぐさま神奈子を追うべく飛翔した。

 激突によるダメージはおろか、ほとんど距離さえ離せなかったことを確認した神奈子は小さく舌打ちした。

 確かに先代は飛行が不慣れだ。しかし、代わりに加速状態における瞬時の判断力が恐ろしく優れている。判断が間に合わないはずの突発的な障害に対して、反応を超えた反射のレベルで対応してしまうのだ。

 神奈子は知らないことだが、その対応力は長年の戦闘経験によって培われたものだった。

 必殺の一撃が至近距離で飛び交う戦いを制してきた経験が、先代の肉体と精神には染み付いていた。

 

「奴にとっては空を飛んでいる感覚ではないのか。空中を普段踏んでいる地面の延長として捉えている――」

 

 飛距離が無限に延びた跳躍――先代の飛行能力を、神奈子はそう認識した。

 下手に空を飛ぶことを意識するよりも厄介な話だった。ある意味、新しい力を使いこなしている。

 

「ならば、これはかわせるか!?」

 

 高速で飛行を続けながら、神奈子は唐突に背後を振り返った。

 空中での姿勢制御においては、純粋に飛行能力を使いこなしている神奈子の方が先代よりも遥かに優れている。

 後方から追い縋る先代に向けて、神奈子は手のひらから風弾を撃ち出した。しかも単発ではない、機関銃のように激しい連発である。

 威力に関しては機関銃どころか大砲並である風弾が、直進しか出来ない先代に迫る。

 

「波動――」

 

 先代の両手に光が収束した。

 

「拳!」

 

 先代もまた、手のひらから拳大の光弾を連続で撃ち出し、これを迎撃した。

 空中で力の塊がぶつかり合い、小規模な爆発を無数に起こしながら、対消滅していく。

 

「なんだと!?」

 

 神奈子は驚愕した。

 自らの放った風弾が全て撃ち落されたことに、ではない。

 先代の放った光弾の正体が全く掴めなかったからだった。

 風弾は文字通り風を一点に集中して放った、言い換えれば空気の塊である。だからこそ、物理的な破壊力を持っている。

 しかし、先代の放った弾は、ただ単に光を伴っただけの『力』としか言いようのない塊だった。

 そして、その『力』が一体どんなものなのか、神の目でさえ見抜けないのだ。

 

「霊力ではない。私の知るどの力でも――!」

 

 戦慄が走った。

 神奈子は、初めて危機感を抱いた。

 

 ――天地万物、おそらくこの世の何物にも属さない力だ。あの『力』は、この肉体に届くかもしれない。

 

 そう悟り、しかし次に顔に浮かんだ表情は恐怖や緊張によるものではなく、不敵な笑みだった。

 

「面白い! その拳、この身に届き得るか!?」

 

 神奈子は一気に高度を上げた。

 高層ビルさえも届かない領域にまで到達すると、その空間に入り込んだ瞬間を狙い撃つように先代を攻撃した。

 周囲に軌道を変える足場とする為の建物は存在しない。

 しかし、あろうことか先代は何もない空間を蹴って、飛来する風弾を回避した。

 足場を用いず、瞬発力のみで反動を生み出したのだ。

 

「なんという……っ」

 

 反撃とばかりに発射される光弾を避けながら、神奈子は再び地上へ向けて飛んだ。

 

「なんという人間だ、お前は!」

 

 呻くような声には、戦慄と共に賞賛が滲んでいた。

 初めて会って以来、心を乱され続けてきた先代巫女に対する苛立ちや怒りといった負の感情は、完全に消え失せていた。

 もしも、先代が普遍的な人間の一人であったのなら、こうはならなかった。

 取るに足らない人の存在に、自らの抱く矜持を揺るがされた己の惨めさを許せなかっただろう。いや、そもそも心乱されること自体なかったかもしれない。

 しかし、これほどの――あらゆる常識を超えた、神の価値感でさえ測れないほどの存在ならば。

 仕方がない。

 お前ほどの巫女ならば、神の心を乱しても仕方がない。

 この身を脅かしても、仕方がない。

 お前は人間『風情』ではなかった。

 お前は神に届き得る人間だった。

 その事実に救われた。

 お前がお前であったから、私の神としての自負と矜持は守られたのだ。

 それほどの存在、それほどの力であったことに、私は感謝しよう。

 そして、認めよう。

 お前は特別だ。

 神が認める特別な人間だ――!

 

「これは、形振り構っていられんな!」

 

 言葉とは裏腹に、嬉々としながら神奈子は目的の場所に向けて全速力で飛んだ。

 最初に戦った高層ビルである。

 所々に戦闘による破壊の跡がありながら、それでも荘厳な全貌は些かも揺らいでいない。

 上空から飛来した神奈子は、その巨大な建物の裏側に素早く回りこんだ。

 丁度、追ってくる先代とビルを挟んで対峙する位置取りになる。

 ビルが大きな障害物となって、互いの姿は見えず、回り込まなければ近づくことも出来ない。

 しかし、二人は視界に頼らず、気配によって相手の位置を正確に捉えていた。

 

「かぁああああああっ!!」

「はぁああああああっ!!」

 

 ビルを挟んで、神奈子と先代は互いを撃ち合った。

 唸る風の弾丸が窓を突き破って無人のフロアを抜け、その先にいる先代へと飛来する。

 それを回避し、反撃の光弾が入れ替わるように同じ階層を貫いて、反対側の神奈子を狙った。

 無数の弾痕をビルに刻みながら、激しい銃撃戦のような攻防が急速に下へと移動していく。

 神奈子の目的地はビルではなかった。

 その下にあった。

 

「――諏訪子ぉ!!」

「な……っ!?」

 

 最後に一際強烈な攻撃を放って先代を牽制すると、地上にいる諏訪子目掛けて、神奈子は急降下した。

 戦闘不能になった芳香を抱えて、空中戦を行う二人を見守っていたのだ。

 青娥が何かを仕込んでいるらしい芳香を守る為の戦線離脱だった。何よりも、自分では神奈子に勝てないと自覚してのことだ。

 諏訪子は油断していた。

 故に、神奈子の狙いに気付けなかった。

 反応の遅れた諏訪子に肉薄した瞬間、神奈子の手がその小さな肉体に突き刺さっていた。

 諏訪子の腹に、右腕が手首まで潜り込んでいる。

 しかし、血は出ていない。傷そのものを負っていない。

 まるで水面に手を差し込んだかのように、神奈子の手が諏訪子の肉体に沈み込んでいた。

 

「悪いが、力を貰うぞ!」

 

 神奈子は素早く手を引き抜いた。

 その手には『剣の柄』が握られていた。

 明らかに諏訪子の体に収まるはずのない、長い刀身が姿を現す。

 遅れて駆けつけ、その光景を目の当たりにした先代は、驚愕に目を見開いた。

 

「諏訪子様!」

「案じている余裕があるか!?」

 

 諏訪子の腹から『剣』を引き抜いた神奈子は、振り返り様それを振るった。

 先代が慌てて避けた斬撃は、近くにあった鉄製の街灯をあっさりと斬り倒してみせた。

 

「先代、気をつけて! それは単なる鉄の剣じゃない! わたしの力を形取った『神剣』だ、まともに受けちゃ駄目!」

 

 腹を押さえて、苦しげな表情を浮かべながらも諏訪子は必死で叫んだ。

 やはり外傷はなかったが、体を支える力が抜けてしまったかのように、その場で膝を着いている。

 

「説明ご苦労! そういうことだ、先代。せいぜい注意を払え!」

「他神(ひと)の力奪っておいて何勝ち誇ってんだ死ねバカ!」

「どうせ先は長くない!」

 

 新たに武器を手にした神奈子は、一転して先代に接近戦を仕掛けた。

 逆に、今度は先代が逃げる番だった。

 無手と剣である。

 条件だけならば、全く勝負にならない。

 先代は素早く跳んで、窓を打ち破り、ビルの中へ逃げ込んだ。室内ならば障害物も多い。長物の取り回しを少しでも阻害する為の判断だった。

 神奈子が追ってくる僅かな時間に、袖から何枚にも連なった札を取り出す。

 霊力を込められた札は、先代の両腕に巻きついて、グローブのように指先から肘までを覆った。

 かつて同じ剣を使う椛との戦いで使用した、霊符の篭手である。

 

「結界か――だが!」

 

 ほぼ同時にビルの中へ足を踏み入れた神奈子は、躊躇無く先代に斬りかかった。

 振り下ろされる剣を、先代は手のひらで受け流そうとした。

 腕を盾にして正面から受け止めようとしなかったのは、諏訪子の忠告から『神剣』の威力を警戒した為の判断である。

 それが先代を救った。

 斬撃は結界を容易く切り裂き、その下にある皮と肉にまで届いた。

 

「づぁ……っ!?」

 

 手のひらを一直線に走った熱い痛みに、先代が呻く。

『神剣』を受けた結界はたった一撃で効力を失い、腕に貼り付いていた札がバラバラに解けて、床に落ちる。

 結界が無ければ、あるいはまともに受け止めていれば、手首から先を切り落されていただろう。

 剣の切れ味とそれを振るう技が高いレベルで噛み合った、恐ろしく鋭い斬撃だった。

 

「その程度の結界では無いも同じだな!」

 

 返す刀で、もう片方の手の結界も切り裂かれる。

 すぐさま繰り出された第三の太刀筋は、あろうことか進路上にある大きな柱を豆腐のように斬り抜けて迫ってきた。

 先代は咄嗟に、すぐ傍を浮遊していた陰陽玉を回転させながら軌道上に割り込ませた。

 黄金長方形の軌道が生み出す回転の力が、一瞬の絶対防御を発生させて、ようやく『神剣』の太刀筋を阻んだ。

 弾き返された斬撃に舌打ちしながらも、神奈子は攻撃の手を休めない。

 回転による防御は範囲が狭く、持続力も極端に低いことを見抜いていた。

 陰陽玉による防御は、咄嗟の時の緊急回避にしか使えない。

 もはや、先代には逃げるしか成す術がなかった。

 狭い室内から天井を破って上に逃げれば、剣で文字通り道を切り開いて神奈子が追い縋る。

 巧みに繰り出される太刀筋をかろうじて回避して、時折苦し紛れの反撃を交えながら、先代は上へ上へと逃げていく。

 先程はビルの外、そして今度はビルの内で、通った道筋を巻き戻すように二人は凄まじい攻防を繰り広げながら、屋上へと登り詰めていった。

 

 

 

 

 ――『できるわけがない』と四回言ったなら『できる』!

 

 そういう理屈なのだ。

 他の誰にも納得の出来ない理屈かもしれないが、唯一私にだけは通る理屈だ。

 何故なら、私はこれら漫画の理屈が絶対であると『信仰』しているからだ!

 そして実際に、私はこのやりとりを経ることで新たな力に覚醒した。

 もはや『崇拝』しかない……この場所に『神殿』を建てよう。

 ……って、いかんいかん。頭の中がジョジョ一色になるところだった。

 しかし、さとりも意外なところから攻めてくれるものだ。

 私はこれまで漫画やアニメの修行を思いつく限り色々とこなしてきたが、ほとんどが一人でやっていたものだった。

 例えば『虎王』のように、技の中には相手を必要とするものも多いのだ。

 元々修行自体が目的だったから、その辺は全然気にしていなかったのだが、今回のように他者との『掛け合い』によって技や力を習得するパターンもあるんだな。

 まあ、こういうのは修行とはちょっと違うから、私も好んでやるつもりはないが――今回ばかりは助かった。さとりん、グッジョブと言わざるを得ない。

 あと純粋に楽しかった。むしろ、こっちの方が重要。

 とにかく、さとりの考察が正しいかどうかはまだハッキリと分からないが、認識の変化によって、私は新しい力に目覚めることに成功したのである。

 ついに……ついに、私は空を飛ぶことに成功した!

 ビルの谷間を飛び回る神奈子様に対して、私はしっかりと追い縋ることが出来ている。

 飛べる……俺は、この空を飛べる!

 この台詞は某特撮映画の飛行シーンで出たものだが、本当にウルトラマンとか空飛ぶヒーローの動きがイメージの手助けになるな。

 正直、飛行能力を得たといっても、空中というのは私にとって未知の領域だ。迂闊に飛び回るわけにはいかない。

 というか、実のところ空中戦は出来るだけ避けたいと思っている。

 格闘をやっていると嫌でも分かるのだが、人体に対して真上と真下は死角になるのだ。

 その死角が、空中では両方とも剥き出しになる。

 私としては『空中で自在に戦えるようになった』のではなく『動ける範囲が広がった』程度の認識に抑えておくつもりだった。そうでなければ、きっと文字通り足元を掬われてしまうだろう。

 この辺も思い込み一つで動きや物の見方が変わるのかもしれないが……ま、それは追々慣れてからっちゅーことで。

 それにドラゴンボールとかだと普通に空中で殴る蹴るやってるけど、自分でああいう風に動けるイメージがし辛いんだよねぇ。リアル志向のバトル漫画にも結構影響受けてるから体重移動とかどうしても考えちゃう。

 これも自分の中で折り合いつけないと、上手く力として使いこなせないんだろうなぁ……。

 

「――これはかわせるか!?」

 

 飛行をちょっと距離の長いジャンプだと思って、ビルを方向転換の為の足場に使いつつ神奈子様を追い続けていたら、覚えのある攻撃が放たれた。

 風を媒介にした弾幕攻撃だ。

 幻想郷の弾幕とは密度が比べるべくもないが、基本空中では直進しか出来ない私ではかわしようもない。

 かつての私ならば、被害を最小限に食い止めつつ突っ込むか、一旦足を止めて博麗波で弾幕を掻き消すか――取れる手段は多くなかったが、今は違う!

『昇竜拳』『竜巻旋風脚』と来たら、次はこいつだ――!

 

「波動拳!」

 

 両手から連続で放つ波動の光が、神奈子様の風弾を次々と撃ち落していった。

 ふふふ、博麗波のように『かめはめ波』を真似た半オリジナル技ではない。

 これぞ正真正銘の『波動拳』だ!

 私の中で『かめはめ波』には、この技を構成する上で絶対に外せない要素があった。特有の『溜め』『構え』『威力』がそれである。どれを外しても、私の中で『かめはめ波』のイメージは崩れる。それが博麗波を、小回りの利かない大技のカテゴリーに固定してしまっていたのだ。

 しかし、この波動拳は違う。こうして連射も出来るし、片手でも撃てるぜぇー!

 ……えっ、ゲームと違うって?

 漫画版に決まってるでしょ。

 それはそれ! これはこれ! 同じ技でも自分の中でハッキリと割り切れるなら、使い分けも可能なのだ。

 漫画版の波動拳なら極めれば山だって吹き飛ばせるし、竜巻旋風脚で空も飛べるのだ。

 加えて、どうやらこの波動拳は霊力による攻撃と違って神奈子様にも効くらしい。

 しっかり迎撃している様子からして、間違いないようだ。

 霊力じゃなくて、気の攻撃だもんね。二つの力の具体的な違いが分からんが、とにかく違うのは確かなので問題ない。

 よく分からんが、波動拳なら仕方ない! 納得! はい、次行こう!

 空中を飛び回りながら、私と神奈子様は戦闘機さながらのドッグファイトを繰り広げた。

 いいぞ、神を相手に渡り合えている。

 この調子でいくぜ!

 そして調子に乗りすぎて、神奈子様との撃ち合いでビルを蜂の巣にする私。

 

「――諏訪子ぉ!!」

 

 住人の皆さんごめんなさい、と謝っている暇はなかった。

 急降下していった神奈子様は、ビルの下にいた諏訪子様に近づくと、いきなり右手を突き刺したのだ。

 

「諏訪子様!」

 

 その光景に青褪めて、駆けつけた私は、更に信じ難いものを見てしまった。

 なんと、神奈子様の突き刺した手が、諏訪子様の体内から剣を引きずり出してきたのだ。

 博物館に飾っていそうな古いデザインの剣である。

 

「先代、気をつけて! それは単なる鉄の剣じゃない!」

 

 諏訪子様が忠告してくれたが、さすがに説明がなくたってあれが物凄い剣なんだってことは分かる。

 デザインといい、神様の体から取り出された過程といい、どう考えたって伝説の武器クラスですよ、あれは!

 案の定、その剣はデカイ街灯を一太刀で両断してしまった。

 こいつは……っ!

 ちょ……ちょっとだけ安心してしまった。背後のビルが真っ二つに斬られるとか最悪の展開も想像してたもんで。

 しかし、それでも切れ味が半端無いことには間違いない。

 私の作った結界は文字通り紙切れのように切り裂かれ、黄金の回転の力を使ってなんとか防御出来たくらいだ。

 当然、球体である陰陽玉では、剣に対する盾としては不向きである。

 回転だってずっと回しておけるものではない。この技には神経を使うのだ。回転に意識を集中するあまり、肝心の太刀筋を見誤ってはどうしようもない。

 室内に逃げ込んだのは失敗だったか。私の動きの方が阻害される。

 背を向けて逃げれば、そこをバッサリと斬られるだろう。意識を前に向けつつ、場所を移動しなければ……!

 時折放つ波動拳も牽制にしかならず、私はどんどん追い詰められていく。

 上へ、上へ――。

 だけど、神奈子様。

 私が逃げるだけだと思うなよ。

 ちゃんと策は考えてあるぜ。

 私にとっての勝利は神奈子様を殺すことではなく、無力化することだ。そいつを忘れちゃいない。

 そして、それを成す為の道筋も見えている!

 

 ――最後の天井をぶち破り、私と神奈子様は風雨が吹き荒ぶ屋上へと同時に躍り出た。

 

 

 

 

 嵐の中の幾度目かの対峙。

 神奈子は剣を、先代は拳を構えていた。

 先代にはもはや逃げ場はない。

 正確には、逃げるだけの猶予がない。さとりの命という時間制限があるのは、神奈子ではなく先代の方なのだ。

 

 ――腹を括ったようだな。

 

 先代の瞳を見て、神奈子は相手の覚悟を感じ取った。

 相変わらず、真っ直ぐに自分を見据えている。

 曇りの無い純粋な視線だった。

 その瞳を覗き込むことを避け、自らの内に湧き上がろうとする雑念を無視する。

 神奈子はただ先代の挙動にだけ注目し、自らの刃を確実に当てることだけに集中しようとした。

 先代が『神剣』の斬撃を掻い潜って神奈子に反撃を与えるには、避けるのではなく受け止める必要があった。

 回避によって体勢を崩した状態では、一撃で神奈子を行動不能にするだけの攻撃は放てない。そして、一撃で勝負を決められなかった場合、返す刀が今度こそ必殺となって無防備な先代を襲うのだ。

 

 ――防御は一度だけ成功すればいい。ならば、手段は限られてくる。

 

 神奈子は先代の動きを先読みしていた。

 彼女のすぐ傍に浮遊する陰陽玉である。

 あれが第三の手となって、こちらの一撃を遮ってくる。どうあっても、その防御を抜くことは出来ない。

 ならば――。

 先に動いたのは神奈子だった。

 流れるような踏み込みで、一気に剣の間合いまで詰め寄る。

 素早い動きだったが、それに反応出来ない先代ではない。彼女もまた恐れずに間合いへと自ら踏み込んでくる。

 剣と拳の間合いは違うからだった。先代は更に前へ踏み込まなければならないのだ。

 この時点で、先代に回避という選択肢は無くなっていた。

 後は、やるかやられるかの刹那の勝負である。

 

「シィッ!!」

 

 鋭い呼気と共に、神奈子が袈裟斬りに剣を振り下ろした。

 常人ならば『気がついたら斬られていた』としか言いようのない速さに対して、しかし先代は動く。

 太刀筋に対して、それを遮るように回転する陰陽玉が割り込んでいた。

 

 ――分かっていた。

 

 神奈子は事前の予定通り、

 

 ――反応を超えた反射で動くことが出来るお前ならば、必ずこれに対応出来ると!

 

 陰陽玉に触れる寸前で剣を止めた。

 斬撃を『相手に止められる』ことと『自らの意思で止める』ことには大きな違いがある。

 神奈子はここからすぐさま切り返せる状態にあった。

 盾となる陰陽玉を避ける軌道で、改めて先代目掛けて剣を振り下ろせばいいだけである。

 もう守れない。

 もうかわせない。

 神奈子は剣を握る腕を僅かに下へ沈め、

 

「――何っ!?」

 

 その腕が、濡れた布によって絡め取られていた。

 正確には先代の着ている巫女装束の袖の部分が、神奈子の剣を握るほうの腕を包むように巻き付けられていたのだ。

 風雨の中で戦い続けたことで芯まで濡れていた袖は重く、しっかりと貼り付いて、神奈子の腕と先代の腕を完全に固定してしまっていた。

 丁度、長い袖で互いの腕を縛ったような状態である。

 

 ――動かん!

 

 自身の片腕と剣を封じられた神奈子は、すぐさま我に返って視線を先代の方へ戻した。

 先代はほぼ密着するような間合いで、既に拳を構えていた。

 お互いに、言葉はもちろん思考を挟む余裕すらなかった。

 先代が腰と腕の捻りを加えて、最大限にまで力を込めた拳打を繰り出す。

 それに対して、神奈子が自由な方の腕を素早く伸ばす。

 結果は。

 先代の方が速かった。

 抉り込むようなボディブローが、神奈子の肉体を芯まで打ち抜いていた。

 

「が……ふっ」

 

 神奈子の口から、空気と共に苦悶の声が吐き出された。

 今度の攻撃は効いていた。

 ただの拳ではない、霊力を纏ったものではない、得体の知れない力が宿った拳は確かに神の肉体を破壊し得たのだ。

 

「ま……まだだ! まだ終わってない……っ!」

 

 力と意志を失っていない瞳が、先代を睨んだ。

 神奈子の伸ばした腕は防御には間に合わなかった。

 しかし、先代の拳が腹にメリ込んだ瞬間、その腕を掴んでいたのだ。

 拳を引き戻すことが出来ず、結果的に先代の攻撃は単発に終わった。

 もしも、連撃を受けていれば、今度こそ耐え切れなかっただろう。だが、一撃ならば――。

 その決断と覚悟が、神奈子に致命的な一撃を耐え抜かせた。

 これでお互いの両腕が封じられた形になった。

 完全に密着した状態で、身動きもままならない。

 この膠着、どう破るか――!?

 

「……神奈子様」

 

 頬を寄せ合った状態で、先代は囁くように言った。

 

「いきます。お気を確かに――」

 

 神奈子は気付いた。

 打ち込まれた拳に宿る力が、爆発的に膨れ上がるのを。

 

「波動……拳!」

 

 密着状態で放たれた光弾が、神奈子の体を貫いた。

 

 

 

 

 拳が当たった瞬間に敵の体内で波動拳を放ち、炸裂させる――!

 

 これを無数の拳撃の最中で瞬時に行う最終奥義が存在するが、今の私にはこれが精一杯だった。

 波動拳を受けた箇所から白煙を上げて、神奈子様はゆっくりと倒れ込んだ。

 長く続く雨のせいで屋上全体が水浸しになっている。そこへ仰向けに沈み込んだまま、神奈子様は起き上がる気配を見せなかった。

 

 ――倒した。

 

 間違いない。

 今度はフラグなんかじゃない。確かな手応えに基づく確信だ。

 新しい力に覚醒した私は、これまで漠然と『気配』として感じ取っていたものを、具体的な『気』として察知出来るようになっている。

 つまり、ドラゴンボールのように『気』を探ることで、対象の存在はもちろん、体力や生命力の残量を測ることも可能になったのだ。

『畜生、○○の気がどんどん小さくなっていく……っ!』みたいなことも可。って、さすがにそれは縁起でもねぇな。

 とにかく、私は神奈子様が死ぬことはなく、かといって再び動けるほどでもない状態だと分かるのだ。

 まさしく――『勝負』の一瞬だった。

 神奈子様の手から離れ、床に投げ出された剣に視線を落とす。

 あれを攻略するだけなら幾つか手段があった。

 例えば『百式観音』なんかは、攻撃の先手が取れた。特に、今の私ならばより原作に近い技が出せただろう。

 しかし、それでは駄目なのだ。

 力不足では問題外だが、威力が高すぎてもいけない。神奈子様にどんなダメージが行くか分からないからだ。

 だから、危険を冒してでも密着状態に持ち込む必要があった。

 あの状態なら確実に攻撃が当たり、尚且つ『手加減』が出来るからだ。

 神奈子様の余力を計算して、ギリギリの威力の波動拳を撃ち込んだ。

 そして私は、勝負に勝った。

 勝因となった、この状態に持ち込むまでの様々な要素――戦闘の流れの組み立てや実行に必要な技――を与えてくれた多くの漫画に感謝だ。

 偉大な先人の知恵と技術が、私に勝利を掴ませてくれた。

 ありがとうございます――。

 

「先代、大丈夫!?」

 

 諏訪子様が芳香を抱えて、飛んできた。

 倒れた神奈子様を見て、改めて私に視線を戻し、安堵の笑みを浮かべる。

 

「……やったんだね」

「はい」

「ありがとう」

「一緒に、幻想郷へ来てくれますね?」

「うん……うんっ。本当にありがとう」

 

 ふっ、諏訪子様の目元が濡れているのは、雨のせいだとでもしておこうか――なんつって。

 しかし、本当に長いこと続く嵐だ。

 まあ、この嵐が神奈子様達に力を与えているっていうんだから、止まないに越したことはないんだろうけど。

 とにかく戦いは終わったが、悠長にはしていられない。

 戦闘の緊張感から開放された私は、途端にさとりが心配でたまらなくなっていた。

 すぐにでも諏訪大社に戻って、幻想郷へ行かなければならないのだ。

 私はまず、神奈子様に歩み寄った。

 気絶しているようだから、私が抱えなければならない。

 諏訪子様が、まだ自力で動けるのはちょっとした救いだな。芳香も担いでもらわなければならないし。

 そういえば、青娥は何処に居るんだろう?

 彼女がいないと、諏訪大社に戻る方法がないんだが――。

 

 屈み込んで神奈子様の肩に手を掛けた時、腹に何かが潜り込んだ。

 

 最初、それは熱だった。

 熱はすぐに痛みに変わった。

 太いネジが五本、腹に刺さったかのような、激痛が体内に抉り込んでくる感触だ。

 震えながらも視線を落とすと、実際に刺さっていたのは五本の指だった。

 神奈子様の右手だった。

 その指が、私の腹の肉を握り潰そうとしている。

 いや、その奥のはらわたまで引きずり出そうと更に深く刺し込まれている。

 

「がっ……は、はぁ……あ゛っ!?」

 

 耐え難い激痛に、私は喘ぐことしか出来なかった。

 息と共に血を吐き出し、それが私を見上げる神奈子様の顔に掛かった。

 血反吐を雨がすぐに洗い流していく中、神奈子様の目がじっと私の目を射抜いている。

 

「言っただろう、先代……まだ終わってない」

「先代!?」

 

 異変に気付いた諏訪子様の悲痛な呼び声が背後から聞こえる。

 私は神奈子様の手から逃げるように後退った。

 意外にも、手はあっさりと離された。

 腹には五つの穴が空き、そこから血が滲み出している。

 単純な握力とは思えない。手に風を纏って攻撃してきたことがあったが、あれを更に指先に絞って刺してきたか。だからネジのような感覚があったんだ。でも、それを理解したところで今更どうなる?

 後退りながら、私は足をもつれさせて転んだ。

 なんとか立ち上がる。

 しかし、それ以上のことが出来ない。

 腹に穴が五つも空いてる。手で押さえた程度では間に合わないくらい出血が酷いし、何より痛みが酷い。上手く言葉も発せない。

 霞み始めた視界で、神奈子様が立ち上がるのが見えた。

 こちらも余裕はなさそうだが、少なくとも私よりは足元がしっかりしている。

 床に転がっていた剣が宙に浮き、ひとりでに神奈子様の手に収まった。

 ――分からない。

 手応えは確かだったはずだ。何処にそんな余力があったんだ?

 

「どうして、神奈子……? もう動けないはずだ!」

 

 私の疑問を諏訪子様が代弁してくれた。

 

「ああ、私ももう動けないと思ったよ。それほどの一撃だった」

 

 神奈子様は答えた。

 

「だけど、何故かまた立ち上がれたよ。何故かな? 何故だと思う?」

 

 おかしそうに小さく笑って、私を見た。

 

「お前のおかげだよ、先代。お前の信仰が私に力を与えてくれたんだ」

「……そんな」

「そんなはずがない!」

 

 諏訪子様が声を張り上げて否定する。

 

「人間一人の信仰なんかタカが知れてるんだ。それで力を得られるなら、わたし達だって存在の消滅なんかには悩んじゃいないよ!」

「そうだよ。その通りだ、諏訪子。だけどな、そいつの信仰は違うんだ。私も、ついさっき気付いたんだよ。力を失い、崩れそうになる肉体を、そいつから送られる力が補強してくれたんだ」

「……なんだって?」

「これを単なる信仰と呼んでいいのかは分からない。先代から向けられる信仰には、常に私に対する確固たるイメージが伴っていた。そのイメージがあまりに強烈すぎて、霧散しそうになる神の力をまるで器のように受け止め、私自身が維持しなくても勝手に肉体を形作る手伝いをしてくれるらしい」

「――」

「先代の中では、それほど強烈に私達の姿が思い描かれている。例え力が伴わなくとも、自らの抱くイメージだけで幻を生み出せるだろうよ」

「そ、そこまで……」

「なあ、本当に何なんだお前は? これはお前の持つ能力なのか?」

 

 皮肉るような笑みを浮かべながら、神奈子様が問い掛ける。

 私は答えることが出来なかった。

 しかし、言っていることに心当たりはある。

 

 ――地霊殿でさとりの協力の下習得した『リアルシャドー』だ。

 

 強烈な思い込みで、イメージトレーニングの相手を他人にまで見えるほど実体化させる技だ。

 こいつが、神奈子様に向ける信仰に影響して、先程言われたような効果を生み出したのか。

 正直、私は神奈子様ほどその辺の理屈を理解出来ていない。

 しかし、私の持つ思い込みやイメージの強さが神奈子様に力を与えてしまっているというのなら、それは――。

 

「まあ、いいさ。とにかく、私はまだ戦える」

 

 神奈子様が私に剣先を向けた。

 それに対して私は――動けない。

 傷の痛みも、出血も、一向に治まる気配がないのだ。

 

「先代、お前の渾身の一撃は私を倒すに至らなかった。首の皮一枚繋いで、私を救った――お前自身が!」

 

 口元を吊り上げながら、同時にその瞳には怒りが宿っていた。

 神奈子様の言葉は、まるで私への叱責のように怒りを伴ってぶつけられていた。

 

「だから言っただろう、お前は半端者だと。敵である私に信仰を向けるという矛盾を続けた結果がこれだ。お前の自業自得だろう!」

「――」

「なのに、何故いまだにお前は私に向ける信仰を絶やさない!?」

 

 それは――。

 

「いい加減目を覚ませ! お前の前に立つ者は何だ!? お前の腹を抉った者は何だ!? 今もこうして、お前に剣を突きつける者は何だ!?」

 

 それは――。

 

「私は、お前の、敵だっ!! 私を憎み、恨みを吐き出せ! 間違ったことはない、筋の通った道理だ! 理不尽な仕打ちへの恨みは、神にぶつけろ!」

 

 それは――。

 

「人よ……私を憐れむなっ!」

 

 

 

 ――貴女は確かにこの世界で生きている。だから、思うままに行動し、縁を紡げばいいのですよ。私とそうして出会ったように。

 

 

 

 神奈子様の血を吐くような問い掛けに、私は答えた。

 

「私は……ただ貴女を含めた皆と一緒に、幻想郷へ帰りたいだけです。本当に、ただそれだけなんです」

 

 

 

 

「先代……」

 

 激痛を堪え、震える声で吐き出された先代巫女の切実な願いは、諏訪子の胸を打った。

 理由は分からない。

 何故、三日前に初めて出会った神を、その家族を、ここまで想ってくれるのかは分からない。

 しかし、諏訪子はその純粋な想いを確かに受け取っていた。

 ――それでも。

 

「……そうか」

 

 先代の言葉は、神奈子の混沌とした胸の内を更に掻き乱すことしか出来なかった。

 

「どうあっても、お前は私への信仰を失わないつもりか」

「はい」

「そうか」

「――」

「……分かった」

「では――」

「今、何時だ?」

 

 唐突な問い掛けに、先代は痛みも忘れて呆けたような表情を浮かべた。

 

「え?」

「何時だと思う? 大分、長いこと経ったと思うが――」

 

 神奈子は引き攣ったような笑みを浮かべた。

 

「嵐のせいで、空の様子が分からないか? 戦いに集中して、時間感覚が狂っているんじゃないか?」

「何を……」

「あの雨雲の先にある空は、どうなっていると思う? ――もう、日が昇り始めていると思わないか?」

 

 その言葉に、先代は凍りついた。

 神奈子の言いたいことを理解した諏訪子も顔色を変える。

 確かに、長い時間が経っていた。

 嵐はいまだ止む気配を見せないが、諏訪大社から発ち、市街地へ辿り着き、神奈子との戦いを始めて、長い時間が――。

 

「……さとり」

 

 先代は傍らに浮遊する陰陽玉へ呼び掛けた。

 反応は返ってこない。

 

「さとり、返事をしてくれ!」

 

 反応は返ってこない。

 

「さとり! さっきはお前の方から私に呼び掛けてくれたんだろう!? どうした、私の声が聞こえないのか!?」

 

 怪我の痛みも忘れて、先代は必死に声を張り上げた。

 しかし、やはり反応は返ってこない。

 陰陽玉は、沈黙したままそこに浮き続けるだけである。

 それでも先代は更に呼び掛けを繰り返そうとする。

 その無意味な行動を咎めるように、神奈子が剣を振り被って襲い掛かった。

 傷を庇いながら水浸しの床を転がり、攻撃をかろうじてかわす。

 

「――っ、やめてください! さとりが……!」

 

 しかし、神奈子は戦い続ける意思を見せ付けるように、休みなく剣を振るった。

 それを先代が無様に転がり回って避ける。

 既にほとんどの余力を失っている二人の戦いは、先程と比べて見る影もない。

 もはや先代は、この戦いに勝機も意義さえも見出してはいなかった。

 ただひたすらに追い詰められていく。

 肉体も、精神も。

 

「そうだな。あの妖怪は、もう間に合わないだろう」

「神奈子様……!」

「もしもそうなったら、お前は誰を責めるんだ? 誰を憎むんだ?」

「やめてください!」

「時間までに私を倒せなかったお前自身の責任か? 自業自得か?」

「やめてください……っ」

「そして後悔し続けるのか? あの時、選んでいればよかった、と。私への信仰を切り捨てて――」

「やめ……」

「それとも――切り捨てるのはあの覚妖怪の方か!?」

 

 その言葉が、先代の追い詰められた心にトドメを刺した。

 次の瞬間、神奈子に向けられたのは射抜くような黒い視線と、

 

「――やめろぉぉぉおおおおお!!」

 

 明確な殺意。

 

 

 

 

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 さとりが死ぬ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 絶対に駄目だ。

 煩い。

 煩い。

 黙れ。

 黙れ。

 やめろ。

 やめろ。

 やめろ。

 やめろぉぉぉおおおおお――!

 

 ――だったら今すぐに、お前を殺す! 『神奈子』!!

 

 

 

 

「うおっ!?」

 

 神奈子の体は突然の衝撃に吹き飛ばされていた。

 雨で床の上を滑り、かろうじて踏み止まる。

 何らかの攻撃による衝撃ではないことは分かっていた。

 これは単なる、先代巫女から放たれる力の余波に過ぎないのだ。

 

「……分かるぞ」

 

 神奈子は口元を引き攣らせるように笑った。

 

「お前の殺意が伝わる、先代巫女!」

 

 その言葉にはようやく自身の心が一つの方向に定まった満足感が滲み、同時に向ける視線には僅かな怯えが含まれていた。

 先代巫女は変貌していた。

 もはや傷を庇うことなく、二本の足で地を踏み締め、揺るぎ無く佇んでいる。

 いや、傷は一瞬で癒えたのだ。ただ血の跡が服に残るだけである。

 神奈子の目には、先代の姿が黒く映っていた。

 全身に纏う力の質が変化し、黒い炎となって体中で燃え滾っているように見えるのだ。

 まるで殺意を形にしたかのような力だった。

 そして、最も変わり果てていたのは、顔だった。

 神奈子を睨み据える、一片の曇りもない瞳。

 殺意――ただそれ一色に染まった眼光。

 それはまさに鬼の形相だった。

 

 ――信仰は消えた。あるのはただひたすら神を殺す意思と力のみ。

 

 最後の戦いが始まる。

 少なくとも、神奈子の方はそう覚悟していた。

 しかし、先代は違った。

 始まったのは戦いですらなかった。

 

「――滅!」

 

 先代の姿が掻き消えた。

 なんということはない、彼女はただ神奈子に向けて攻撃を仕掛けるべく、前へ踏み込んだのだ。

 その動きがあまりに速く、あまりに捉え辛かった為、神奈子は迎え撃つどころか反応すら出来なかった。

 視界にかろうじて映ったのは、走る先代の残像と、水浸しの床に小さな波紋一つ起こさない無音の軌道のみ。

 先代は一瞬にして、神奈子の懐まで入り込んでいた。

 

「――殺!」

 

 殺意と力を極限まで凝縮した拳が、下から上へ弧を描いて繰り出される。

 一度見た、天に向かって昇るが如き拳の技。

 しかし、そこに秘められた威力と禍々しさは桁違いだった。

 神奈子の体を突き動かしたのは、戦いの意思ではなく、死への予感だった。

 拳の軌道上に、咄嗟に差し出した『神剣』の刀身があっさりと砕かれる。

 暗黒の拳は、神奈子の肉体を縦に抉りながら空へと昇り、強烈な上昇気流のように吹き上げる力の余波が、天にまで届いて頭上の黒雲に大穴を空けた。

 空高く跳び上がった先代が、再び屋上へ降り立つ。

 文字通り、嵐を引き裂いた拳がゆっくりと降ろされた。

 その時、既に神奈子は倒れていた。

 胸を斜めに横断する、巨大な爪痕のような傷から大量の血と力を垂れ流して、四肢を床に投げ出している。

 今度こそ、本当に立ち上がることは出来ない。

 いまだに神奈子が息をしているのは、単なる偶然に過ぎなかった。

 あの時、『神剣』を盾にしていなければ、神奈子の体は両断されていただろう。

 先代の一撃は必殺となって最後の信仰を断ち切り、神の命にまで届いたのだ。

 

「……見事だ」

 

 喉の奥から溢れる血を零しながら、神奈子は言った。

 先代は、そんな神奈子の姿を見下ろしていた。

 その瞳から殺意の炎は消えていない。

 

「これで満足か?」

 

 先程までと同一人物とは思えない、恐ろしい声色だった。

 

「自分が何者か分からぬまま生き永らえるより、何者か知って消えた方がずっとマシだ」

「ならば死ね。敵は殺す」

 

 先代は断言した。

 再び拳を構える。

 言葉にも動きにも、もはや一切の迷いがなかった。

 先代は完膚なきまでに神奈子を殺そうとしている。

 目の前で繰り広げられる光景に呆然としていた諏訪子が、強烈な殺意を感じて我に返った。

 

「ま、待って……!」

 

 神奈子を庇うように、先代の前に立ち塞がる。

 しかし、諏訪子を前にしても構えは解かない。

 躊躇いさえ生まれなかった。

 先代は、そのまま拳を繰り出していた。

 庇う諏訪子ごと貫いて、神奈子を打ち殺さんばかりの凄まじい一撃が迫る。

 諏訪子は目を見開き、そして固く閉じた。

 その場を動こうとはしなかった。

 ただ黙って死を受け入れようとしていた神奈子は、その光景を見て、初めて動揺した。

 何かを叫びかけ。

 拳が空を切り。

 そして――。

 

《■■、目を覚ましなさい!》

 

 何処からともなく、声が響いた。

 聞き覚えのあるその声は神奈子の耳に、諏訪子の耳に――そして、先代の心に届いていた。

 二柱の神の命を奪うはずの拳が、止まった。

 そこに握り締めた力も、殺意も消え失せ、ゆっくりと指が解かれていく。

 諏訪子はそっと目を開けて、頭上を見上げた。

 そこには正気を取り戻した先代の顔があった。

 

「先代……」

「諏訪子……様……」

 

 静寂の中、二人は互いを確かめるように見つめ合った。

 諏訪子は先代が元に戻ったことを確かめる為に。

 先代は諏訪子がまだ存在していることを確かめる為に。

 そして、次に視線を移して倒れたままの神奈子を見つめた。

 複雑な感情を絡めた視線が、先代を見つめ返していた。

 死にかけていた肉体に、僅かな力が戻るのを神奈子は感じていた。

 信仰は、再び蘇ったのだ。

 

「それがお前の答えか、先代――」

 

 神奈子の呟きが静寂に溶けて消える。

 戦いは、ようやく終わった。

 街に本来の平穏と静けさが戻ったのだ。

 ――静けさ。

 

「――拙い!」

 

 先代が慌てて頭上を振り仰ぎ、それを見て諏訪子が一瞬訝しげな顔をした後で、すぐさま気付いた。

 静かなのだ。

 戦いの音が止んだのはともかく、いつの間にか雨も風も止んでいる。

 原因はすぐに思い至った。

 天を突き、雨雲を打ち抜いて、嵐を引き裂いた先代自身の一撃だ。

 諏訪子もまた頭上を仰いで、そこに広がる光景に目を見開いた。

 雲は完全に晴れていた。

 先代が空けた穴を中心に、雲が凄まじい勢いで霧散し、消えていく。

 後に広がるのは夜空だけだった。

 僅かに白み始めている空が。

 

「夜明けだ!」

 

 諏訪子が悲鳴のように叫んだ。

 もはや一刻の猶予もなかった。

 安否を疑う必要もなく、さとりの命が消える確実な刻限が迫っている。

 諏訪子が芳香を、先代が神奈子を担ぎ上げた。

 この状況で縋れるのは一人しかいなかった。

 先代はあらん限りの声で叫んだ。

 

「青娥ぁぁぁぁーー!!」

 

 その叫びに、果たして応える者はいた。

 

「――呼んで下さいましたね、先代様!」

 

 ビルの下から急上昇してきた青娥が、屋上に躍り出た。

 その姿は、何故か半ば以上黒く焼け焦げていた。

 服はボロボロに炭化し、顔や腕に引き攣ったような火傷の痕が刻まれている。

 しかし、青娥はそんな傷など露ほども気にしてないように笑っていた。

 言葉を交わしている暇はない。

 青娥は持っていた鑿を、諏訪子の支えている芳香の体目掛けて投げつけた。

 

「開!」

 

 鑿の先端が芳香の腹に刺さった瞬間、青娥が短い呪を唱えた。

 その瞬間、刺さった鑿を中心にして芳香の腹が大きく開いた。

 まるで刃物で切り開かれたかのように、腹部がパックリと左右に開かれていたが、その先にあったのは内臓の類ではない。揺らめく水面のようなものだった。

 いや、それが置かれた状況さえ異常でなければ、器に水を張った水面そのものにしか見えないものだった。

 

「諏訪大社に繋がる水の道です。芳香に飲ませておきました。さあ、皆さん。一気に神社まで移動します、飛び込んでください!」

 

 青娥の簡潔な説明を受けて、躊躇う素振りも見せずに飛び込んだのは先代だった。同様に、担いでいた神奈子も飛び込む形になる。

 不思議なことに、体格的に通れるはずのない先代と神奈子の体は吸い込まれるように水面へと消えていった。

 それに続いて、意を決した諏訪子が飛び込む。

 次に、青娥が。

 そして、最後に芳香自身が自分の腹に押し込むように首を曲げ、頭を水面へ突っ込んだ。

 首に続いて肩、腕、胴体に足――と、自分で自分の体に吸い込まれるという奇怪な光景を繰り広げながら、やがて芳香自身も姿を消した。

 後に残ったのは、誰もいない半壊した屋上だけだった。

 遠くで幾つものサイレンの音が響いていた。

 

 

 

 

 永遠にも感じる長い時間を、早苗はただひたすらに耐えていた。

 祈ることはしなかった。

 自らが祈りを捧げるべき神は、二柱とも遠くで戦っているのだ。

 彼女達にも戦う理由があり、早苗には無事に戻って来て欲しいという願いがある。

 故に、早苗は祈らなかった。

 ただひたすらに信じていた。

 自分の中に幻想郷へ行く為の力が眠っているというのなら、己の内側に意識を向け、その力を一点に集めていた。

 すぐにでも力を解放出来るように。

 一時間か。

 二時間か。

 長い時間が流れた。

 開け放たれた雨戸から見える空は、ほんの僅かだが白み始めている。

 日が昇ろうとしているのだ。

 早苗は幾度も見たさとりの顔に、再び視線を落とした。

 すぐ傍で横たわるさとりはピクリとも動かず、気を失ってから『一度も』意識を取り戻していない。

 何処を見ても、不安を煽るものしか視界に入らない。

 固く瞼を閉じる。

 早苗の精神は限界に近づいていた。

 

 ――もし。

 ――もしもこのまま、全てが。

 

「……神様」

 

 ついに早苗は祈った。

 神に奇跡を祈った。

 次の瞬間、光が瞼を射した。

 目を開けば、青娥が用意した大皿に満たした水が眩しい光を放っている。

 早苗には、その現象の意味が分かっていた。

 一際大きな発光と共に、水面から幾つもの人影が飛び出してきた。

 先代。

 神奈子。

 諏訪子。

 青娥。

 そして、早苗にとっては初対面である芳香。

 全員が、無事に諏訪大社へと帰還したのだった。

 

「神奈子様! 諏訪子様!」

 

 早苗は歓喜と共に彼女達を迎えた。

 神奈子がバツの悪そうに視線を逸らし、諏訪子が照れ臭そうに笑う。

 しかし、再会を喜んでいる余裕はなかった。

 先代がさとりの名前を叫びながら、傍に駆け寄る。

 すぐさま我に返った諏訪子が、早苗に向かって叫んだ。

 

「術式に力を流し込め! 急いで!」

「はいっ!」

 

 早苗もまた間髪入れず、それに応えた。

 事前の準備は万全である。

 施された術式を理解し、発動する為の力を十分に蓄えていた。

 最悪の場合、一人で行わなければいけない作業も、今や全員が傍に揃っている最高の状況である。

 躊躇う要素も、不安に思う要素もない。

 

「いきます!」

 

 気合と共に、早苗は術を発動させた。

 早苗を中心に、何本もの光のラインが床を走り、それらは途中で更に何本にも分岐して、壁を伝い、天井にまでまるで根のように無数に張り巡らされていく。

 早苗達の居る室内だけに、それは留まらなかった。

 諏訪大社全体を包み込むように光が走り、更には建物を越えて周辺一帯の土地にまで伸びていく。

 術の行使は順調だった。

 既に千を越えた光の筋が力強く走っていく。

 発光は更に強まり――そして、更に強まる。

 

「……あ、やばいかも」

 

 諏訪子が冷や汗を流しながら呟いた。

 先代が思わず視線を向ける。

 

「どういうことですか、諏訪子様?」

「力が強すぎる……」

「え?」

「早苗の力が強すぎる! 術式が暴走しかかってる!」

「――す、諏訪子様ぁ!?」

 

 切羽詰った早苗の声が割り込んだ。

 床にかざした手のひらの下が、術式の中心となっている部分である。

 その部分が、一際激しく発光し、その光は物理的な洪水のように溢れ出そうとしていた。

 早苗が、それを両手で必死に押さえ込んでいるような状態である。

 慌てて諏訪子が駆けつけた。

 早苗の手に重ねるように自分の両手を置き、協力して力を抑えようとする。

 しかし、光はどんどん強くなり、まるで風船のように膨らみ始めていた。

 

「だ……駄目だ、早苗の力が予想以上だった! このままじゃ神社ごと幻想郷に飛ぶどころじゃないぞ! 土地ごと宇宙まで行っちゃうよ!」

「そ、そんなぁ!?」

「情けない声上げるんじゃないよ、それでもわたし達の風祝かい!?」

「なんですか、都合のいい時ばっかり身内扱いして! 私のこと選んでないって言ったの誰ですか!?」

「あれはお前自身が選ぶものだっていう意味で……って、そんなこと言ってる場合じゃねー!」

 

 力の膨張は収まらない。

 既に室内は壁も天井も満遍なく光り輝き、転移の為の術式が最終段階に入ったことを暗に示していた。

 光の中、先代は眠ったままのさとりを庇うように覆い被さり、青娥は笑いながら状況を眺めて、芳香は身動きが出来ずにぼんやりしていた。

 決定的瞬間が差し迫る中、諏訪子は咄嗟に神奈子へ視線を走らせた。

 

「――神奈子、力を貸して!」

「はあ!?」

 

 先代との激しい戦いと、その衝撃的な決着を経て、半ば放心状態にあった神奈子は、諏訪子の言葉を受けて完全に我に返った。

 思わず正気かと諏訪子を見つめれば、真っ直ぐな視線が二つ返ってくる。

 諏訪子と早苗の視線。

 それも昔を思い出させるような、親しい者へ向ける純粋な視線だった。

 

「お前ら、今更私に……!」

「神奈子!」

「神奈子様!」

 

 諏訪子と早苗の切羽詰った叫びが、神奈子の言葉を遮った。

 全てがピークに達しようとしていた。

 光が。

 術式が。

 あらゆる状況が。

 

「――ええいっ、くそ!」

 

 限界が迫る中、咄嗟に神奈子は手を伸ばしていた。

 三人の手が一つに重なり、そして――。

 

 

 その日、諏訪大社から巨大な光の柱が天に昇った。

 しかし、それは丁度顔を出した朝日に混じり、ほとんどの人間が目にすることはなかった。

 それを見た人間も、単なる幻か錯覚と思い、その日の内に全てを忘れた。

 諏訪大社はその日も変わらずそこに在り、諏訪湖が干上がるようなこともなく、何事もなく一日は過ぎていった。

 この世界に住んでいた一人の少女と、二柱の神、一人の仙人、一体の死体――そして幻想の世界から迷い込んだ巫女と妖怪が姿を消した。

 起こったのはただそれだけ。

 世の中に何の影響もない出来事だけである。

 

 

 

 

 諏訪市の住人に、例外なく朝はやって来た。

『東風谷』と表札に書かれた一軒家の夫婦も同様に、朝目を覚まし、食卓についていた。

 向かい合うようにテーブルに座り、テレビから流れるニュースの声だけが聞こえている。

 別段、夫婦仲が冷めているわけではない。結婚して二十年以上が経てば、自然と会話も落ち着いたものへと変わっていくのだ。

 もはや慣れた空気だが、この日は少しだけ普段よりも寂しさが感じられた。

 子供でもいれば違っていたのかもしれないが――。

 二人には、子供がいなかった。

 

「そういえば、昨日の夜は台風だったのか」

 

 ニュースでは遠く離れた都会を直撃したという台風と、その甚大な被害について矢継ぎ早に情報が流れている。

 その台風と同じものが、ここ諏訪市も通過したとニュースでは語られていた。

 規模に反して信じ難い速度と軌道で、台風は一夜にして大きく移動し、そして夜明けと共に消えたらしい。

 

「なんだか、おかしなニュースねぇ」

「多分、情報が錯綜してるんだろうな。被災地は大変だ」

 

 台風のニュースについて、二人の感想はそれだけで終わってしまった。

 所詮は対岸の火事なのだ。

 離れた場所で何が起ころうと、大した興味は抱かない。実感など、当然のようにない。

 多くの人々にとって、昨夜の出来事はその程度の認識なのだった。

 

「そういえば、あなた今日は休みよね?」

 

 早くも話題を変えた妻が、夫に問い掛けた。

 

「ああ、そうだが。どうかしたのか?」

「ちょっと家の模様替えをしようと思ってね。手伝ってくれる?」

「そりゃ構わんが、どうするんだ?」

「ほら、二階の空き部屋あるじゃない」

「そういえば、あったかな」

「そうなのよ。あそこ、何もない部屋だから、物置にでもしようと思ってね」

「何もないのか。なんで、何も置いてなかったんだろうな?」

「さあ? この家建ててから、確か一度も使ってないと思うけど」

「そうだったか……勿体無いな」

「ええ。だからせめて、ね」

「分かった、手伝うよ」

「ありがとう」

 

 会話を終え、食事を再開する。

 

「――そういえば」

 

 ふと、思い出したかのように妻が言った。

 

「さっき、その部屋を見てたんだけど、こんな手紙があったのよ」

 

 妻が夫に白い封筒を差し出した。

 

「手紙って……封筒には何も書いてないじゃないか」

「あなた、心当たりない?」

「ないなぁ」

 

 封を開け、中身を取り出す。

 折り畳まれた紙に軽く目を通して、夫は言った。

 

「中身も何も書かれてないじゃないか」

「何なのかしら?」

 

 白紙の手紙は、勿体無いから再利用しようと適当な棚に仕舞われ、そして何時しか忘れられた。

 

 

 

 

 お母さん。

 お父さん。

 

 二人に黙っていてごめんなさい。

 二人に嘘をついていてごめんなさい。

 二人を信じてあげられなくてごめんなさい。

 

 ずっと。

 ずっと話したかった。 

 私が抱えているもの、悩んでいること、全てを二人に打ち明けたかった。

 具体的にどんなことなのか分からなくても、私が密かに悩んでいるのを二人は知っていたと思います。

 だから時々、それを聞き出そうと優しく話し掛けてくれたことを、私は知っています。

 そんな時、何も言えずにごめんなさい。

 たまにそれが煩わしくて、怒鳴って返してしまってごめんなさい。

 そして結局、最後には適当な嘘で誤魔化してしまってごめんなさい。

 心の何処かで私は、二人が自分とは違う人間なのだと壁を作ってしまっていたんだと思います。

 本当の私を理解してくれるはずがないと、決め付けていたのだと思います。

 そのことを、こうして旅立つ時になって深く後悔しています。

 お母さんに話しておけばよかった。

 お父さんに相談しておけばよかった。

 例え信じてもらえなくても、最初の一歩を踏み出して、少しでも二人に歩み寄ろうとしておけばよかったと思っています。

 もし、ちゃんと私が話せていたら。

 別れの場に立ち会えなくてもいい。

 別れの挨拶が交わせなくてもいい。

 別れた後、私のことを忘れてもいい。

 それでも、私が何故この世界を離れるのか、私が何をする為に二人から離れるのか、話す機会を作れたでしょう。

 理解してもらわなくてもいい。

 ただ、伝えたかった。

 

 私をきちんと育ててくれてありがとうと伝えたかった。

 二人の教えてくれたことが今の私を形作ったのだと伝えたかった。

 二人のおかげで、行くべき道を選べる自分になれたのだと伝えたかった。

 

 お母さん、ありがとう。

 お父さん、ありがとう。

 

 伝えたくて。

 でも、もう伝えることは出来なくて。

 こうして筆を執るしかない私を許して下さい。

 

 私は行きます。

 私の信じる方々と共に生きる為、この地を離れます。

 そこで私は後悔するかもしれない。

 苦しい目に遭うかもしれない。

 新しい生き方を見つけるかもしれない。

 新しい幸福を見つけるかもしれない。

 だけど、どんなことがあっても一つだけ変わらないことは。

 私がこの地で生まれたこと。

 私がこの家で育ったこと。

 私が二人に愛されていたこと。

 私が二人を愛していたこと。

 それだけは変わりません。

 例え二人が忘れてしまっても、私の中には変わることなく残り続けます。

 

 お母さん。

 お父さん。

 本当にありがとう。

 

 ――いってきます。




<元ネタ解説>

・漫画版ストリートファイターⅡ

漫画家「中平正彦」によるコミカライズ「ストⅡ」のこと。「STREET FIGHTER ZERO」「さくらがんばる」「RYU FINAL」の三タイトル(時系列順)
主人公が本編で挙げた波動拳などについての話は主に「RYU FINAL」参照。


・神奈子に波動拳を当てるまでの流れ

1.濡れた袖で動きを封じる(幽遊白書の仙水戦)
2.密着状態からの波動拳(RYU FINALのゴウキ戦)

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