永夏と外で待ち合わせし、用事を済ませてから、いざ自分の家に向かう道すがら、辺りをキョロキョロ見渡し、何かを探しているような……ありていに言えば、道に迷ったような挙動の女の子が視界に入った。
声をかけてあげるべきか一瞬迷い、思い切って声をかけてみることにする。
永夏からはナンパかとからかわれたけれど、そんなつもりはもちろんない。
ただ気になったのは女の子の容姿だ。
前髪が眉のあたりで切られている。
それに着ている服も、シフォンの淡い色のワンピースにベスト、ジャケットと、日本人の女の子が好む『重ね着』というやつだろう。
韓国人なら誰にでも声をかけて道を尋ねればいいけれど、それが出来ないで辺りをキョロキョロしているのは、日本人で言葉が分からず道を尋ねようがないからだ。
「君、大丈夫?道に迷ったの?」
いきなり声をかけて驚かせないように気をつけながら、久しぶりの日本語で声をかけてみる。
これで実は韓国人でした、なんてことだったらマヌケだなとか考えが過ぎった。
けれど、振り向いた女の子は民族なんて関係ないくらい可愛くて、声をかけたこっちが驚いて反応が止まってしまった。
大きな目に長い睫、前髪だけが幾分明るいのは染めているのかな。
なんか、脳裏に一瞬、4年前に日本で毎日のように碁を打った知り合いの顔が過ぎったのは気のせいだろう。
前髪が明るいという特徴が似ているだけだ。
何しろあっちは男なんだから、こんなに可愛い女の子と比べたら罰が当たる。
でも、ハッと我に戻って女の子の様子を伺ってみるけれど、女の子は何も話さず、自分をじっと見てくる。
どこか日本語を間違っただろうか。
というか、やっぱり韓国人だったのかな。
「ど、どうかした……」
確認のためにもう一度日本語で恐る恐る話しかけてみたら、
「秀英?」
「え?」
「洪秀英だよね?」
「そ、そうだけど、何でボクの名前知って……」
ボクに日本人の知り合いの女の子はいないぞ?
でも、女の子はそんなボクを他所に思いっきり抱きついてきた。
「秀英っ!!」
「ちょっ!ちょっと!?えっ!?えええええ!?」
女の子に抱きつかれたのはきっと生まれて初めてだし、すっごく嬉しい。
反射的に押し返そうとしたら、女の子が予想外にふわふわで柔らかくてそっちの方が驚いた。
でも、え?え?君、誰!?
『秀英やるな。何時の間に公衆の全面で抱き合うくらい親しい女の子がいたんだ?』
『永夏!!誤解するな!!』
初めから一部始終を見ていた永夏がニヤニヤからかってきて、女の子に抱きつかれて気が動転しながらも断固言い返す。
分かってるよ。
ボクの今の顔は真っ赤さ!
ようやく少し落ち着いて離れてくれた女の子に、
「ご、ごめん……君がボクを知っているというのは分かったんだけど、ボクは思い出せなくて……君だれ?」
「ああ、そういえば、秀英と碁を打った頃ってまだ男勝りだったし、髪もショートだったもんね。ヒカルだよ私」
「へ?」
ワン モワ プリーズ
「進藤ヒカル。4年くらいまえ日本の碁会所でいっぱい碁打ったの覚えてる?もう忘れちゃった?」
「……進藤、ヒカルは覚えているけど………え?だってヒカルは男で………」
4年前に日本に行って、碁会所で毎日ずっと日本の子と打っていた記憶はある。
碁を打った相手の名前が進藤ヒカルだってことも忘れていない。
けれど、進藤ヒカルは男で、君は女の子では?
「あはははは。やっぱ男と間違えてる。自分のことも俺って言ってたしね、間違えられてもしょうがないんだけど、れっきとした女だよ」
「エーーーーーーーーーーー!?ヒカル!?進藤ヒカル!?碁石すらまともに持てなかったあのヒカル!?」
親指と人差し指で石をつまんで打つという初心者丸出しの打ち方。
碁の人気が落ちているという噂の日本らしいって初めて見たとき馬鹿にしたんだ。
でもすでに研究生だった自分が一回も勝てないくらいヒカルは強かった。
途中、石の持ち方を正そうとして一度挟むように石を持たせたら、打とうとした石が自分の方に飛んできて、それ以来危険だからってヒカルの石の持ち方を矯正しなかったんだ。
結局一度も勝てないまま韓国に帰るときは、悔しくて何日が悔し泣きしたんだっけ。
その進藤ヒカルが君?
「失礼な。ちゃんと碁石持てるようになったよ。それに石持てなくたって、秀英に一回も負けなかったじゃん」
グサッ!て言った。
今、絶対ボクの心臓に極太の言葉の矢が突き刺さった。
間違いない。
コレは進藤ヒカルだ。
「でも良かったー。外出たのはいいんだけど、道迷っちゃって困ってたんだよね」
アハハハと能天気に笑っている様は、よく見れば4年前の進藤の面影がないことはない。
やはり髪が短いのと長いのでは見た目に雲泥の差があるもんだな。(あと着ている服も)
「1人で韓国来たのか?家族の人は一緒じゃあ?それともこっちに知り合いが?」
とりあえず、どうして進藤が韓国にいるのかをまず尋ねたら、視線をそらして
「えっと、家族と一緒かな。うん。ちょっと用があって一緒について来たの。でも、言葉ちっとも分からないし、変な目で見てくるし、何言ってるかわかんない言葉で話しかけてくるし、つい走って逃げたら元来た道が分かんなくなった」
「変な目で見られて、逃げるね……」
進藤にとっては『変』な目だろうな。
そいつらは君に見とれていたんだよ、きっと。
でも本人にしてみれば『変』でしかないし、ナンパしても言葉が伝わらなければ、不審者だろう。
だからって逃げて道が分からなくなって迷子になるのも考え物だけど。
『オイ。何喋ってる?俺にも教えろ。結局知り合いだったのか?』
話の輪の外に放置されていた永夏がボクを睨んできた。
進藤に話しかけるまではニヤニヤからかってきたのに、知り合いっぽいって分かるととたんに睨んでくるんだから、永夏もまだまだ子供だよな。
『そうだった、ゴメン。彼、じゃなくて彼女、俺が日本の親戚の家に遊び行ったときに友達になったんだ。それで、家族と一緒にこっち来たけど道に迷ってたんだって。名前はヒカル、進藤ヒカル』
ヒカルの紹介が終われば、次は進藤に永夏を(嫌々ながら)紹介してやった。
「進藤、こっちは友人の高永夏、永夏でいいよ」
「こんにちは」
『なるほど、負けが続いてふて腐れていたお前を叩きなおした日本の『ヒカル』がコレか。俺は男だと思っていたが、女だったのか』
そういえば、永夏にはだいぶ前に『日本の進藤ヒカル』について話したんだった……。
話したボクは忘れていたけど、聞いた永夏は覚えていたのか。
大事なことはすぐ忘れるくせに、余計なことはしっかり覚えているんだから、永夏も相当性格悪いよな。
今更だけどー。
全然忘れてくれててよかったのにー。
「それじゃ、仕方ないか。どこにいたの?徒歩で移動できる範囲なんだよね?家族のところまで送っていくから」
「んー。いい。別に。どうせあと5時間くらいは終わんないだろうし、何もしないで待ってて、また変な人に声かけられるのヤだ。秀英、いま暇してる?」
「暇っていうか……」
これからボクの家で碁の勉強を永夏と一緒にしようと思っていたところだったんだけれど、ここで女の子を1人にするわけにはいかないよね。
「まぁ、暇かな」
「久しぶりに一緒に打とうよ。アレから少しくらいは強くなった?まだ私の全勝記録更新中でいいんだよね?」
そんな挑戦的な目で挑発されて乗らずにいられようか!!
その勝負受けて立つ!
「もちろん打とう!」
了承の返事をすれば、永夏にも確認を取る。
永夏が嫌だと言ってもボクは進藤と打つ!
『永夏、彼女も一緒にいいかい?』
『は?』
『これから彼女と碁を打つ。そして見返したいんだ!もう負け犬スヨンなんて言わせない!』
『……構わんが、女の子に負け犬秀英なんて呼ばれてたのか、お前……。まがりなりにもプロ棋士になったんだぞ。女の子相手に、ムキになるのもほどほどにしておけよ』
『それくらいわかってるよ』
アマの進藤相手にプロになったボクが本気で打つまでもない。
でも初めはプロと明かさないで打って、進藤を驚かせてやるんだ。
進藤から負けましたって言わせて、その後で実は……って(かっこよく)切り出す!
「時間は大丈夫?」
もう一度、進藤に確認を取る。
「五時間くらいは平気。携帯あるし、早く終われば連絡くれると思う。それから戻ればいい」
「近くにボクの親戚の人が経営してる碁会所があるからそこに行こう。個室もあるし、そこなら野次馬を気にせずゆっくり打てる」
「わかった!」
そう言って、自分の隣を歩き始めたヒカルの長い髪が動きに合わせて揺れる。
シフォンのワンピースなんかもスカートがふわふわだし、何気にいい香りがするのは何か香水でもしてるのかな。
睫なんかもすっごく長くて、肌も本当に白い。
確かに4年前のヒカルの面影が無いこともないんだけれど……どう見ても全然変わってるじゃないか(汗)
4年前、進藤が自分と同じ男だと思って疑いもしなかった。
ということは、何か?
ボクは女の子に負けまくっていたのか?
「なに?秀英」
ボクの視線に気が付いた進藤が急にこっちを見て、ボクと視線がばっちり合ってしまった。
両手を顔の前でブンブン振って否定すれば、
「いやっ、なんでもないッ!!」
『秀英、顔が赤いぞ?』
『永夏ッ!!』
反対側からまた余計な冷やかしがすかさず入って、さらに顔が熱くなった。
親戚の碁会所に着いて、マスターをしている叔父さんに一言挨拶をしてから、奥の席へ移動する。
一言、3人でゆっくり打ちたいと伝えたから、これで余計な野次馬は近寄らないだろう。
永夏は隣の席の椅子を引き寄せ、無言で観戦者になっている。
進藤と向かい合わせに席に座ると、この対局後に呆然としているヒカルが頭に浮かんで、顔がニヤけそうになるのを懸命に堪えた。
予想外の対局だけれど、願ってもいない対局だ。
これでボクの男としてのプライドが復活するんだ。
ボクがニギると黒は進藤になった。
そうだね、これくらいはプロとしてアマに黒を持たせてあげるべきだよね。
「私が先番か、久しぶりかも……」
「え?」
ポツリとつぶやいた進藤の一言に、碁盤から顔をあげた。
先番が久しぶり?
でもまぁ、確かにアマでもあれくらい打てたら相手がプロでもない限り、進藤に勝てる相手はいないだろうから、黒を持つこともそうそうないだろうな。
「なんでもない!お願いします」
「お願いします」
進藤にならい、ボクも深々と頭を下げた。