『女性はとても神秘的で謎めいた存在なんだよ』
幼い頃に父はボクにそう言った。
と言っても、クラスの女の子から苛められた直後だったので、父さんのそんな薄っぺらい言葉なんて右から左だ。
同じ歳なのに、自分より身長が高く、力も強いし、手も早い。
ちょっとでも口答えするようものなら、容赦無く言葉の暴力が浴びせられ、最悪に性質が悪いのは、やつらは集団でつるむということだ。
そのくせ、女が男を苛めると、男がだらしないと怒られ、男が女を苛めるとか弱い女の子を苛めるなって拳骨が落とされる。
暴力的で口達者でずる賢いやつらのどこがか弱いというんだ?
本当に理不尽だ。
■□■
LG杯が終わって行われる後夜祭に、全く出場予定のなかった僕にまで急遽仕事が割り振られた。
仕事内容は、はっきりしている。
一人でも知り合いがいたほうが和むだろうという通訳にかこつけたヒカルのご機嫌取りだ。
当然ボクははじめ断ったのに、それも『プロとしての仕事の一環』で強引に押し切られてしまった。
ハァ、とため息つきながら、視線だけ隣をチラリと向ければ、そこに塔矢先生の羽織袴の袖をちょこんと握ってくっついているヒカルの姿。
今回のLG杯に優勝した塔矢先生に関係者だけでなく取材陣も取り囲む。
日本が韓国中国に囲碁で追い抜かれたと言われて久しいけれど、塔矢先生だけは別格だ。勝負事は何より強さが一番だ。
その世界にあって、塔矢先生は韓国中国のトップ棋士を抑え、今回のLG杯で見事に優勝した。
さすが塔矢先生が『世界で最も神の一手に近い』って言われてるだけの実力を持ってると、決勝を観戦していたボクも改めて思った。
思ったついでに、一緒に隣で観戦していたヒカルもすごかった……。
ヒカルがまた韓国棋院を飛び出して迷子にならないお目付け役をしていたんだけれど、トッププロ棋士が集まった観戦室で、誰より対局予測を言い当て、鋭い一手をしたのはヒカルだったのだから。
その場にいた棋士は唸るばかりだ。
通常、観戦室の様子もブログやチャットなどで中継されるものだが、一般人で中継(観戦室の様子を写した写真など)されて顔が映るのは嫌だと拒むヒカルに、特ダネが目の前にぶらさげられているのに手を出せないもどかしさで、記者の皆さんが悔しそうに歯軋りしていた姿がなんとも可哀想だった。
前回、この観戦室で対局観戦しないで、たった一人一階ロビーの一般対局室観戦していたのも、写真に写りたくないのと取材を受けたくないのが理由だったのだというし。
顔は出さないからとか、お面かぶっていいからとか、モザイク入れるとか、あの手この手でどうにかヒカルをなだめ取材しようと頑張る記者さんの姿はいっそ健気だだったが、結局ヒカルは首を縦に振らなかった。
『秀英くん、ちょっと彼女に通訳してもらってもいいかな?』
『はい。どうぞ』
記者の一人から声をかけられ、通訳を承諾する。
『彼女がプロになるつもりがないのは分かったんだけれど、LG杯はアマでも出場出来る。今後アマのままでLG杯に出場するつもりはあるだろうか?』
「ヒカル、この先、LG杯出る気ある?」
受けた質問の文章をかなり省略し、簡単に要点だけヒカルに伝えた。
どうせアマでもプロでもヒカルが出場するとなれば話題性UPは確実だ。
要点はヒカルが出場する気があるかないか、それだけだ。
「ん~どうかな。とくに出場は考えてないけど……でも」
「でも?」
あれ?
どうせ塔矢先生と離れるのは嫌とか言って即断ると思っていたのに、いやに悩むな。
と思っていたら、ヒカルお得意の爆弾発言が炸裂した。
「秀英と永夏が出場するなら考えるかも」
そんな爆弾発言をボクが通訳しているときに笑顔で言わないでくれ。
素直に嬉しい言葉だけど、正直、今のボクにそれを通訳する勇気は断じてない。
『秀英くん?彼女、何って?』
『出場する気ないそうです(ボクと永夏が出場しないうちは)』
断固、ボクは嘘は言ってない!!
『そうか~、彼女の実力を考えるとこのままどの大会にも出場しないのは、すごく勿体無いように思えるんだけどね~』
そうですね。ボクもヒカルが出場しないのは勿体無いと思います。
でも、もしさっきヒカルが付け足したことまで正直に通訳したら、この会場が一斉に歓声に沸いて、貴方の書くだろう記事で、明日の囲碁関係のネット掲示板はボクと永夏がいつ出場出来るようになるか予想合戦と、もしヒカル出場が実現したときのことで話題沸騰ですよ。
だってLG杯だよ!?
各国の代表だよ!?
永夏は別として、ボクがLG杯に出場出来るとしたらあと何年かかると思っているんだ?
LG杯に出る前から重量級のプレッシャーじゃないか……。
まして、LG杯に出られないなら出られないで、それはそれで、ボクのせいでヒカルが出場しないんだって非難されそうだもん。
ここはボクの将来のために自己防衛に走らせてもらおう。
「少し、外に出ようか?会場の熱気に疲れたんじゃないかね?」
さりげなくヒカルを気遣う塔矢先生。
成熟した男って、塔矢先生のような人を言うんだろうな~。
ボクもあと何十年かしたら塔矢先生みたいに………はぁ………・
「行っておいでよヒカル。ボク飲み物取ってくる!」
ずっと人垣に囲まれて取材受けっぱなしだった塔矢先生も、それなりに疲れているはずだろうから、ここは機転を利かせて二人に少し休むように伝えて、飲み物を取りに走る。
サーバーで二人分のウーロン茶をもらい、零さないよう気をつけながら、廊下の椅子にいるだろう二人の姿を探していると、
「永夏くんとも打ったんだって?」
「永夏すごいよ!私と一歳しか変らないのにあそこまで打てるなんて信じられない!アキラと同じ、もしかしたらそれ以上かも!」
興奮気味に語るヒカルに、塔矢先生が苦笑している。
そりゃそうだよな。
いくら囲碁の話でも奥さんが別の男をほめまくっていたら、夫としていい気はしないと思う。
なまじ、ヒカルに悪気があって言っているんじゃないから、性質が悪いよ。
塔矢先生のように包容力と理解がある落ち着いた大人じゃなかったら、喧嘩の一つや二つしてそうだ。
でも、ヒカルは塔矢先生の苦笑をボクが考えていたのとは別の意味で捉えていた。
「大丈夫だって。心配しないで?ちゃんと手加減して打ったよ?」
え?
手加減って何?
永夏相手に、ヒカルは手加減してたの?
何かを言おうとした塔矢先生が口を開きかけてボクのことに気付き、複雑な表情をして曖昧に笑いながら再び口を閉ざした。
ヒカルも塔矢先生の視線の方向を追うようにこちらを振り向く。
でも、塔矢先生と違って、ヒカルはボクに気付くと、困り顔で何かを考えるように人差し指を顎に当て上を見上げた。
ややあって
「秀英、さっきの聞いちゃった?」
ニコリと。
それはそれは満面の笑顔で、ボクが知ってる女の子の中でもダントツで一番って断言できるくらい可愛いんだけど、なんでその笑顔に冷や汗が背中を伝うんだ?
正しく蛇に睨まれた蛙状態。
「ううんっ!!何にも!!何にも聞いてないよ!ボクは何も聞いてないし、誰にも何も言わない!!」
答えを導き出したのは本能だろう。
そう言わなければならないのだと、生物としてのボクの本能が訴えたんだ。
「そっか。やっぱり秀英好きだなー」
「えええええ!?」
すっ好き!?
何言ってるんだ!?
というか結婚した夫の前で別の男に好きって!?
「だからこれからもずっと好きでいさせてね?誰かに言ったりして、秀英を大っキライにさせないでね?」
笑顔で言われたんだけれど、内容は正反対だよ、ヒカル……。
ヒカルの言葉に硬直して、二人が会場に戻った後も、廊下にぽつんと立ち竦む。
お父さん、いままでずっとお父さんの話を馬鹿にしてきたこと謝ります。
ホンット!!ごめんなさい!!
お父さんの言う通り、女性は神秘的で謎めいた存在みたいです。