複数のタイトルホルダーであり、そしてそこにヒカルが来てからというもの、研究会の無い日でも、曜日を選ばず塔矢邸を訪れる棋士は少なくない。
その日も緒方を初め、倉田達数人が訪ねて来て、塔矢先生やヒカルと対局し検討していた。
そこに棋士でもなく、棋院関係者でもない訪問者が前置きなくやってきて
「なんでも、先日ヒカルちゃんがお皿を買われた店のご主人だそうで、そのお皿で話があるのだとか……」
困惑しながら、かよがどうしたものかと塔矢先生に取りつぐ。
ヒカルが皿を買った店の主人。
心当たりは俺にもある。
あの時のガマ蛙のような顔をしたあのインチキ臭いオヤジが何でここに来るんだ?
「分かった、隣の部屋で会おう。少し席を外すよ」
一言断り、先生は部屋を出て行くが、チラリと視界に入ったヒカルの顔は不安というより不満といった方が相応しい表情だった。
まるで塔矢先生に『行く必要はない』と無言で抗議しているみたいじゃないか。
「ヒカル、どこかでお皿買ったの?」
皿の件を知らなかったらしいアキラくんが尋ねると、不貞腐れながらヒカルは頷く。
「いくらしたの?」
「……50万」
「ごっ、50万ッ!?」
驚いたのは当然アキラくんだけじゃなかった
周り全員、倉田あたりはラーメン何杯食べれるかとか、アホな計算までしている。
だが下手にごまかさず、ちゃんと値段を白状したことは心の中だけだが誉めてやる。
偉いぞ、ヒカル。
「何でそんな高いお皿買ったんだい……?」
「だって……欲しかったんだもんっ……」
「欲しかったんだもんって……それだけで……。お父さんはそのお皿のこと知ってるんだよね?」
「知ってる……」
アキラくんが頭を押さえ、大きな溜息をつく。
それは、間違いなく先日の俺の姿そのものだな。
だが、イイ鴨を捕まえ儲けただろう店の亭主が、わざわざ買った相手の家に来るのは普通じゃありえない。
大体どうやって買った相手の家を調べた?
思い当たるのはカードを使った時の個人情報か。
トウヤコウヨウなんて、そう滅多に無い名前だし、囲碁のプロ棋士として知名度もある。
訪ねてきた相手は2人。
襖を隔てただけの隣部屋だから、静かにしていれば普通に隣部屋の声も聞こえてくるわけだが、興味深々でみんな聞き耳を立てている。
「皿を買い戻させて欲しいと?」
「はい、もちろん御迷惑料金も払わしてもらいます。やはり未成年のお嬢様にお売りするんは、非常識な金額やったと後で考え直しましてですな」
「そちら様のご配慮は分かりました」
「では買い戻させてもろて」
「いえ、皿はお返しする気はありません。確かに未成年のあの子が買うには少々高い買物ではありますが、ヒカル共々、私もあの皿を気に入っております。申し訳ありませんが、お申し出に応じるつもりはありません」
「そ、そんな!でしたら倍、いや三倍払いますよって!」
「いくらと言われましても、皿を返す気は毛頭ありません。お引き取りいただきましょう」
嘘だろう……
皿を店が買い戻したい?
しかもあんなに必至になって三倍払うとか……あの皿はただの安い皿じゃなかったのか?
「ご主人、もう結構ですので」
「しかしっ…」
ガマガエルとは違う声。
訪ねてきたもう1人か。
「大変失礼しました。仮にも勝負事を生業にしていらっしゃるプロ棋士の方に、下手な小細工は初めから不要でしたのでしょう。しかも、そのご様子ですと、皿の仕掛けにも恐らく気づいていらっしゃる。重ね重ね非礼をお詫びいたします」
なんだ、もう一人の方はえらく落ち着いた物言いだな。
「はっきり申し上げます。あの皿をそちら様の言い値で買い取らせて頂きたい。1000万、いえ2000万でもかまいません。どうかわたくしに譲っていただけませんか?」
…… な、なんだと?!
今度は、50万の皿を2000万で買い取りたいだと!?
「いくらお金を詰まれましても、返事は変わりません。ヒカルも私もあの皿を気に入ってます。どなたにもお譲りするつもりはない」
最後の方は、毅然とした拒否で先生は締めくくった。
襖を隔てず、塔矢先生の表情が見えなくても分かる。
塔矢先生は本気でいくら金を積まれても皿を譲る気はないのだ。
「……承知しました。これ以上何を言ってもお気持ちを変えて頂くことは無理でしょう。ただ、ご迷惑ついでと申し上げれば失礼なのですが、一目皿を見せて頂くことは出来ませんでしょうか?手に取って見る気はありません。一目でいい。そして可能でしたら確かめてみたいことがあるのです。どうかお願い致します」
「……ヒカル、聞いていたね?皿を持ってきなさい。お見せするだけだから。アキラ、お前は台所に行って、ボウルに水を汲んできなさい」
突然名前を呼ばれ、アキラくんがビクリとした。
だが、反対にヒカルは口を尖らせ不満そうな顔のまま立ち上がり部屋を出て行く。
そしてヒカルにつられるようにして、アキラくんも先生に言われた通り水を汲んでくるために台所へ向かった。
というか、何故皿を見るだけなのに、わざわざボウルに水汲んでこなきゃいけないんだ?
「君たちもこちらへ来るといい。弟子たちも一緒によろしいかな?」
「それは全く構いません。お弟子さんたちがいらっしゃっていたのですね。突然押し掛けてしまい、本当に失礼しました」
隣で声を潜め、盗み聞きししまったような気持ちはあったが、相手の了承を得たところで襖を開き、一礼して隣部屋に入る。
そこには顔面蒼白のガマガエルと、初老だがかっちりとしたスーツを着込んだ男がいた。
そして時間を置かず、皿が入っているのだろう木箱を持ったヒカルが現れ、アキラくんもボウルに水を汲んで戻ってきた。
だが、ヒカルの表情は思いっきり嫌そうな顔を隠す気もないのだろう。
不満顔で、しぶしぶ買った皿を気の箱から机の上に取り出す。
八方型の梅の絵が描かれた皿。
これが2000万。
どこにそんな価値があるのか、俺には全く理解できん。
「アキラ、その水を皿に注いでみなさい」
「は、はい」
塔矢先生に言われ、アキラ君がボウルに入れた水を皿の外にこぼさないよう気をつけながら注ぐ。
するとほのかにじわじわと薄い紅色が浮かびはじめ、
「うわっ、薄紅色の花模様が浮かんできた……」
「すごい……綺麗だ……」
芦原とアキラくんが感嘆の言葉をもらす。
水を入れたとたんに、それまで無地だった白地に紅色の花模様が浮かび上がってくる。
大事に飾っているだけでは絶対に気付かなかっただろう。
思わず自分もあまりの美しさに魅入ってしまった。
このなんの変哲もないこの皿にこんな仕掛けがあったとは。
「おお、なんと美しい。まさしく弥衛門の傑作、慶長の花器」
皿を欲しがっていただろう初老の男が、皿を見て感動したように呟く。
「慶長の花器?」
アキラくんの問いに、
「そうです。慶長の花器、江戸時代の初期、慶長の時代の天才作陶家、弥衛門が作ったと伝えられ、幕末の混乱期を最後にその所在が分からなくなっていた名器です。現在では、すでに割れて失われているとも噂されておりましたが、私は諦めずずっと探しておりました。そして、先日、この花器をこちらの骨董店で見かけました折、まさかと思いながらも、どうしてもすぐに買うまでには至らず、けれどやはり気になって数時間後に店に戻ったときには、すでにこちらのお嬢様の手に渡ったあとでございました。ご主人に聞けば、お嬢様はこの皿を一目見て購入を即断されたとか。それがこの花器を手に入れることができる分かれ目になったのでしょうね」
後悔を滲ませながら初老の男が語る。
確かにヒカルのあのときの即断は今思い出してもすごかった。
止める自分を振り払い、一括のカード決済。
だが、2000万以上の価値なら十分国宝級の価値じゃないか。
それが結果だけ見れば、たったの50万で手に入ったことになる。
「花器を手に入れることは出来ませんでしたが、こうして花器が今も存在していることを確かめることが出来ました。それだけでもこちらにお伺いしてよかった。本当にありがとうございました」
男が深々と頭を下げた。
その身体は微かに震えており、花器の美しさに本当に感じいっていることが、骨董に詳しくない自分にも分かった。
骨董店のオヤジと初老の男が帰ったあとは、真の価値が判明した花器を囲んで大騒ぎだ。
「すごいね!ヒカルちゃん!この皿がその慶長の花器?だってことに最初から気づいてたの!?」
「ううん。でも、一目で気に入っちゃって買っちゃった。家に持って帰ってからお水入れたら、その模様が浮かび上がって、私もびっくりしたんだ」
芦原に聞かれて、両手を顔の前で振って否定しながらも、ヒカルは少なからず誉められたことに照れ笑いする。
「でも!結果としてこれがスゴイ価値あるものだから良かったものの、いくら一目で気に入ったからって50万もする物をすぐに支払うのはどうかな!?一度お父さんやボクの相談するべきだったと思う!」
アキラくんの言うとおりだ。
君の言い分は100%正しい。
「ごめんって。もう二度と衝動買いなんてしないから、今回は許してよ?ね?」
ヒカルが両手を顔の前で合わせ、可愛らしく首を傾げて上目遣いに謝ってくる。
確かに可愛い。
普通の男ならこれをやられると、ころっと騙されるような仕草だ。
そう、女が男を騙すときに使う仕草。
免疫の無いアキラくんがさっそく騙されようとしている。
「まったくもうっ、今回までだからね!お父さんからもしっかりヒカルを叱ってくださいよ!」
「ヒカル、もうこんな高額な買い物をしてはいけないよ」
「お父さん!真面目に叱ってください!!」
アキラくんが噛み付くのも仕方ない……。
なんてその場凌ぎな適当な叱り方だ……。
叱る意味が全く無い……。
塔矢邸を皆揃って後にして、今日は思わぬ出来事があったが、……何か引っかかる。
消化不十分。
自分も買うのをやめさせようとした皿が、実は半端ない価値があるものだと判明して、まだ興奮しているのか?
だが、それでは無いと思う。
もっと違う……何か……そうだ。
元々を正せば、何でヒカルはあの皿に一目で惹かれたんだ?
骨董なんて今まで一度も興味ある素振りを見せなかったのに、どうしてあの皿にだけ興味を持ったんだ?
というか……
なんだ……なんか考えれば考えるほど、ありえない方向に……しかしそう考えると辻褄が合うようなことが考えつくんだが、もしかして、ヒカルはあの皿の価値に初めから気付いていたから、店のオヤジにぼったくられたような金額を提示されても、即決して買ったんじゃないか?
あの店の前でヒカルを見つけたとき、ヒカルは明らかに俺と遭遇したことを快く思っていなかった。
嫌なところを見られたという感がありありとあった。
それは衝動買いするところを俺に見られてしまうのが嫌だったからだと考えていたが、そうなるとヒカル自身も、自分が衝動買いをすることを自覚していることになる。
衝動買いをする輩は、そんなことは全く考えない。
買いたい衝動のまま動くのだから。
となると、ヒカルは衝動買いで皿を買ったのではなく、その皿の価値をしっかり考えた上で、購入を決めたことになる。
長年、慶長の花器を探していたというあの初老の男でさえ、一度は購入を躊躇ったのに、ヒカルは一目見て確信し購入した。
そのためには、皿が慶長の花器であると事前に知っておく必要があるわけだが、どうしてヒカルはその皿が慶長の花器だと気付いたのかという疑問点にぶつかるのだ。
……。
……、………、……。
何か、俺は踏み込んではいけない領域に脚を片足踏み入れているような気がするのは気のせいか……?
「緒方さん?帰りますよ?」
「先行ってろ、芦原。忘れモノだ」
踏み込んではいけない領域だと本能は訴えているのに、確認したい、知りたい欲望に勝てない。
元来た道を戻り、塔矢邸に戻る。
「失礼します」
花器を出していた部屋に戻ると、ヒカルは花器を片付けに行ったのか、ちょうどよく部屋には塔矢先生1人だった。
「一つ、確認しておきたいことを忘れておりまして」
「なんだね?」
「あれからヒカルに持たせているカードに、金額制限かけられましたか?」
平静を装い淡々と尋ねるが、塔矢先生から返ってきたのは微かな微笑と無言だけだった。
ビンゴ……。
俺の予想は当たっているらしい。
ヒカルはあの皿が慶長の花器だと分かっていたから買ったんだ。
そして塔矢先生もそれを分かっているから、ヒカルが使用できるカードに金額制限なんて付ける気なんて全くない。
ヒカルの好きにさせる気まんまんだ。
いや、むしろヒカルに好きなようにさせるための一つの手段として、金で片付くならいくらかかっても構わないとばかりに自分名義のカードを渡しているのかもしれない。
この様子では、先日俺が苦言を言った後、ヒカルを叱ったのかどうかもかなり怪しい。
塔矢先生の無言は、カードについてこれ以上詮索するなと、逆にこっちが釘を刺されているようなものだ。
「……差し出がましいことを申しました。失礼いたします」
塔矢先生の顔を見ることも出来ず、部屋を後にしたら、本当に芦原のやつが先に行っていてイラっときた。
いくら先に行っていろといわれても、兄弟子を待つのが弟弟子の役目だろうが。
1人だと余計なことばかり考えてしまうから嫌なのに。
あの夫婦。
単に囲碁が生き甲斐なだけのばかっぷると思っていたが、ちょっと考えを改めた方がよさそうだな。
++++++++
「あ~あ、せっかく誰にも気付かれずにこっそり手に入れられたと思ったのになー」
ダブル布団に潜り、行洋に腕枕してもらいながら、ヒカルは行洋の胸に顔をうずめる。
偶然通りかかった道で、偶然目に入ったソレ。
一目で気付いた。
ウィンドウに何気なく飾られたその皿が慶長の花器であると。
昔は京の御所、そして現在では皇居か、しかるべき場所に保管されているべき花器が、こんな場末の店に飾られていることに、ヒカルはいてもたってもいられなくなった。
けれど、まさか自分以外にも花器に目をつけていた者がいたとは。
「だが、 紙一重の差で手に入れることが出来ただろう?あと少し遅かったら、今日訪ねてきた相手の物になっていた」
「それはそうなんだけど。でも、あの皿の価値が皆にもバレちゃったからって、私が変に注目されちゃうのは嫌だ。特に緒方さん。私が買う瞬間に何で居合わせるかな。タイミング悪すぎ。さっきだって、私が偶然花器を見かけて衝動買いしたってことにしようとしても、なーんか納得してなさげだったし」
腕の中でぶーぶー文句を垂れるヒカルに、行洋は苦笑いした。
「あの皿をヒカルが慶長の花器だと知っていた上で買ったのではないかと、緒方くんが疑いはじめている節はあったね」
「やっぱり?もうヤだなー」
「だが、彼が知りえるのはそこまでだ。それ以上は、どうしようとも知り得る術はない。ヒカルが気にする必要はどこにもないよ」
「そう、かな?なんか引っかかるケド……ふぁ……」
ヒカルが眠たそうに大きなあくびをもらす。
「今日は昼間の客が来て疲れたんだろう。安心して眠りなさい」
腕枕している腕とは反対の手で、行洋の指がヒカルの長い髪を梳いた。
「んー。おやすみー、行洋」
「おやすみ、ヒカル」