十傑第二席の舎弟ですか?   作:実質勝ちは結局負け

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第二十八話

『だ、第四試合、勝者は……美作昴選手』

 

 え、ウソ。

 しんじられない。

 

 足の先から指の先から、全身が蒼くこわばっていくのが分かった。無理やり動かそうとした指がひきつる。その感覚がどうしようもなく気持ち悪くて、ひきつった場所だけが痺れて自分の身体から剝がれ落ちていくみたいだ。

 

「記念すべき百本目だ……いただくぜェ」

 

 禍々しい雰囲気を放つ大男が、一柄の包丁をこちらに見せつけるようにして嗤った。

 悪い夢であるならば、どれだけいいだろう。

 だけど、伝えてくるのだ。

 身体中に突き刺された不定形の悪意が。

 捌け口のない耐え難い陰鬱な圧迫感が。

 

 現実が影となって、纏わりついてくる。

 

 ──そうか、自分は負けてしまったのだ。

 

 秋の選抜。一回戦、第四試合。

 新戸緋紗子は美作昴に敗北した。

 

 美作との食戟でもあった本戦第四試合から数時間後。

 遠月学園の中にある第七棟。別名薙切えりな専用調理棟の一室に、緋紗子は一人訪れていた。此処を施錠をするカードの所有者は、主人であるえりなと付き人であり第七棟の管理を任されている緋紗子だけ。

 主人が今頃家路についていることだろうことは、スケジュールを管理する緋紗子の頭の中に当然記憶されている。制服姿のまま、調理室の壁に背を預ける。灯りのともされていない広い空間は暗く冷たい。

 どうしようもなく後悔ばかりが残る。

 もっと良い食材があったんじゃないか。

 火入れが甘かったんじゃないだろうか。

 どうして……あんな安い挑発に乗ってしまったんだろう。

 自らの主人を貶されて、安易に食戟を受けてしまった。

 

 ──見ていてくださいえりな様……必ずや勝利をこの手にして参ります!

 

 誓いの言葉は虚言となった。

 かけられた期待を裏切った。

 自らの大切な道具は失った。

 小さな矜持は踏み躙られた。

 

 窓辺から僅かに差込む月明かりが、緋紗子を外へと連れだした。

 カードで施錠をして鞄を肩にかけた。あえて迂路を経由しようと思ったのは、風にあたりたかったから。

 

 陰鬱な心とは対極をなすように、今宵の月は本当に綺麗な満月だ。

 

 ☆☆☆

 

 一本の水銀灯が建てられた森の中の広場。それに続く夜の緑の匂いでむせ返りそうな小路を緋紗子は歩く。微かな葉と葉のこすれる波のような音。道路の上には樹林に挟まれた細長い空が残り、月明かりの中にも星を銀砂のようにこまかくきらめかせている。

 広場に続く行程を辿っていくと、わずかに人の気配のようなものを感じた。興味と恐怖の天秤は前者に傾き、緋紗子の足はゆっくりと広場に近づいて行った。

 やがて気配の域を超えて見えるものの領域になり、不審に思いつつも足元を忍ばせ明らかになった気配の正体。

 

 ──どうして。

 

 青白い水銀灯の光が、夜の空間に二つの影を映していた。

 

「いきなり呼び出して悪かったね……美作君」

「構わないぜ、斬島。むしろこっちから出向こうと思ってたぐらいだからなぁ」

「良かった、そう言ってもらえると助かるよ」

 

 頭で考えるでなく反射的に、木の陰に身を潜めた。

 風に乗って聞こえてくる会話に、緋紗子は隠れたまま耳を澄ます。

 斬島葵と、美作昴。

 二回戦へと駒を進めた者同士の邂逅は、表面上穏やかに見える。しかし二人の間には、極く微妙で神経的な不調和が漂っていた。

 夜が深まるにつれ、不吉な予感が喉元へとせりあがってくる。

 

「二回戦の対戦カード。ぶつかるのは幸平君と葉山君、そして僕と美作君。二回戦のテーマは両試合ともに、洋食のメイン一品。この事は美作君も知ってるよね」

「ああ勿論だ。だが面倒な能書きはいらねぇ。お前が俺を呼び出した理由は、そんな事を伝える為じゃねぇんだろ?」

「じゃあ、単刀直入に言わせてもらうね」

 

 染めたように赤い楓の葉が枝から離れて、地面に落ちるまでのほんの短い時間の中で緋紗子は一つの考えが浮かんでいた。

 脳裏には葵が次に告げるであろう言葉が浮かんでいて、自分がどうしたらいいのかも分かっていた。

 

 ──止めるべきだ。

 

 頭ではそう分かっている筈なのに、自分の中の何かが邪魔をする。黒い影が蔦のように絡みついて緋紗子を動けなくさせる。

 

「二回戦で僕が勝ったら……緋紗子ちゃんの包丁を返してくれないかな」

「それはつまり、この俺と食戟をするって事でいいんだよなァ」

「ああ、やろうか食戟」

「勿論だ、大歓迎だぜェ!」

 

 やはり不吉な予感というものは現実になりやすいのだろう。緋紗子の包丁を賭けた食戟という事は、当然葵はそれに見合うだけの対価を払う可能性があるという事だ。

 美作の料理人としての技量は決して低いものではなく、葵といえど簡単に勝てる相手ではないだろう。

 撫でるような夜風に癖の無い絹糸のような髪が僅かに揺れ、葵の黒曜石を思わせる瞳が垣間見えた。それは普段の物柔らかな眼差しではなくて、驚くほど澄んだ黒曜石の眼はあまりに真剣で……彼の言葉が虚言でも戯れでもないと一瞬で理解する。

 葵の言葉に対し、美作は悪魔のように下品な笑い声を上げる。

 

「いや、笑ってすまねぇな。別にお前の事を馬鹿にして笑った訳じゃねぇんだ」

「何がそんなに面白いのか、分からないんだけど」

「単純な事だ。今までに潰してきた奴は、俺があらゆる手段を用いて勝負の場に引きずりだしてやったが、相手からの食戟を受けるのは初めてだったからよォ」

 

 美作の笑みは想定外の提案に対する驚きからくるものだったという事だろう。

 恐らく美作は葵の方から食戟を受けるとは予想していなかった筈だ。相手を徹底的に調べ上げ完全にトレースした上で、勝負に勝つためだけのアレンジを加えた料理。

 実際に対峙した緋紗子だからこそ、それが相手を踏み躙るためのモノでしかない事をむざむざと痛感する。

 あの形容しがたい不快感、不定形の悪意は会場にいた者なら感じ取れただろう。

 

「お前が負けたら、本戦でも使っていたあの剣型の洋包丁を貰う。何処で手に入れたのかは知らねぇが、俺が見てきた中でもかなりの業物だ」

「それで構わないよ」

「よし、契約成立だ……しかし分かんねぇな。実際に戦ってみたが、新戸緋紗子の底はもう知れた。あいつは良くて秀才だ。どれだけ努力を積みかさねても時間をかけても、埋められない壁は確かにある。葉山アキラや薙切えりなそれに斬島、お前たちとははっきり言ってモノが違う。そんな奴の為に何故お前は自分の包丁を賭ける? そこまでする価値があいつにあると思ってるのか?」

 

 言葉の刃は緋紗子の柔肌を切り裂いて心に突き刺さった。どこかで感じていて見ないように考えないようにしていた正鵠を射る残酷なまでの事実。

 えりなや葵に対して嫌でも感じてしまう、透明でだけど確かに存在する見えない壁。それは日常のあらゆる所に潜んでいて、ふとした時に現れるのだ。

 何気ない助言の一言。試食を頼まれた時の一口。

 分かるのだ、分かってしまう。掛けている時間も努力の総量もそう変わらないはずなのに、独創的な発想に圧倒的な技量にはっとする。

 言葉を受けた葵は、静かに夜空を見上げた。青黒い全天の空に浮かぶ、星をかき消してしまうほど鮮やかな白銀の月が透き通る黒紫の瞳に映る。

 白銀の月明かりに照らされた葵は、酷く儚げで触れると消えてしまいそうだ。

 青い鈴のような声は、これまで聞いた事が無い程に穏やかだ。

 

「多分どんな事でも続けていけば、いつかは壁にぶつかる。その壁と向き合う事はとっても苦しくて、心が折れてしまうかもしれない。だけどその壁は一人で乗り越えるしかないんだよね」

 

 孤独で寂しげで、まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。

 だけど──葵は言葉を続けた。

 

「緋紗子ちゃんならその壁を乗り越えることが出来るって信じてるから……その時に包丁が無いと困るんじゃないかなって」

 

 緋紗子の瞳に熱いものが込み上げてくるの分かった。

 葵はただ信じているのだ。緋紗子がどれだけ挫折しようとも、それを乗り越えていけるのだと信じている。

 緋紗子が立ち直れなくなることなんて微塵も考えてはいない。見捨ててくれない。諦めてはくれない。

 澱の上澄みだけを掬った偽りの言葉ではないのは明らかだ。だって自らの大切なものを賭けてまで、あんな事を言う人はいないから。

 葵にとってそれは、当たり前の事なのかもしれない。

 だけど……それが堪らなく嬉しかった。

 

 ☆☆☆

 

「……熱い」

 

 彼と美作が広場を離れた後、緋紗子は月明かりに照らされた夜の道を歩く。まるで霧が晴れたように心が軽くて心地よかった。

 秋口の夜風が撫でたにもかかわらず、緋紗子の身体は熱かった。熱を帯びる額を押さえるように目を閉じると、瞼の裏には一人の人物が浮かび上がる。

 きっと彼は気付きはしないのだろう。色々な事が分かるくせに、ある分野だけは驚くほど察しが悪いから。

 胸がこんなにも高鳴っている事にも、身体がこんなにも熱くなっている事も。

 

「大変なことになっちゃったなぁ」

 

 彼の所為で、緋紗子の退路は断たれてしまった。

 自分に才能が無いからと、言い訳をすることは許されない。あの透明で、だけど確かに存在する壁と向き合わなければいけない。

 それはきっと酷く辛いことだ。

 だけどたった一人でも自分を信じてくれる人がいるのなら、その信頼には応えてみても良いのではないかと思う。

 

 ──信じる。

 

 その一言で救われてしまうのだから、自分でも驚くほど簡単な女だと思う。

 やってやろうではないか。

 自分より技量を持つ者など何人もいる。自分より才覚のある者など何人もいる。

 ライバルは皆悉く強敵で、彼等と渡り合う為には極限まで己を高める必要がある。

 それでも、やってやろうと思うのだ。

 自分の価値を認めてくれたから。見捨てないでくれたから。信じてくれたから。

 

 ──その代わり。

 

「私を変えた責任は、取ってもらわないと」


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