十傑第二席の舎弟ですか?   作:実質勝ちは結局負け

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第二十九話

 眩しく溢れる初秋の陽が、赤や黄色に色付く並木の上で踊る様に輝く。窓辺から差し込む淡い光は、甘い蜂蜜のように半透明に澄んでいた。

 遠月学園の広大な敷地の一角。校舎から少し外れた緑だけが広がる場所に、孤独に佇んでいる白の二階建てが第五宿直施設だ。

 エアコンは勿論の事、換気扇や除湿器など空調設備の整えられた一階。常に十分な換気がなされ高温多湿の避けられた湿度80%以下室温25度以下の空間は、調理を行う上で申し分ない環境であった。

 黒のシャツ同系色のギャルソンエプロンを身に纏った斬島葵は、数日後に迫った選抜本戦二回戦の試作を終えるところであった。

 小さな滝のようにも聞こえる、蛇口から水が流れる音。調理器具や食器類を洗浄し乾燥機の中に立掛けていく。最後の一つを入れ、乾燥機を起動させたところで金属の鈍い開錠の音が響き、気だるげな声が聞こえてくる。

 

「うーす、葵」

「お疲れ様です」

 

 視線の先、紅く色付く並木道を背に一人の女の子が立っていた。

 鎖骨よりも少し長めの朱の点す巻き髪。白皙の細面(ほそおもて )に艶やかな甘ったるい眼差し、通った鼻筋に薄い鴇色の唇が精緻を極めた人形のようにそれぞれ配置されている。

 均整のとれた肢体を遠月の制服に包んでおり、シンプルではあるがかえって当人の素材の良さを引き立てているようにも思える。

 葵は彼女に見覚えがあった。ていうか竜胆先輩だった。

 

「こうして話すのも十ヶ月ぶりだなー」

「いや、ほぼ毎日顔合わせてるじゃないですか」

「ここであったが百年目っ!」

「それちょっと違いません?」

 

 部屋に入ってくるなり、そんな事を言ってくる竜胆。しかもやけに具体的である。

 一週間のうちの半数以上は言葉を交わしていたはずなのに、言われてみれば暫くぶりな気がしないでもない。もちろん気のせいである。いや、ほんとほんと。まじで。

 部屋の隅に置かれたスチール製の丸椅子をひっぱり出し向かい合うように二つ並べ、調理台を簡易的なテーブルに見立てる。

 準備が終わり竜胆を見やると、彼女は白のビニール袋から数本の飲料を取り出し冷蔵庫にしまっていた。

 

「差し入れに飲み物色々買ってきてやったけど、コーンスープとお汁粉だったらどっちがいい?」

「どっちも嫌ですよ……飲料に対するストライクゾーン広くないですか?」

「じゃあ……タバスコ?」

「何の罰ゲームですか」

「デスソースっ!」

「変わってません」

 

 いじめかな?

 コーンスープやお汁粉がボール球なら、タバスコやデスソースはまさしくデッドボール。

 てかタバスコもデスソースも似たようなものだ。タバスコa.k.a(またの名を )デスソース、おすぎa.k.aピーコなのだ。前門の虎後門の狼とはまさにこの事である。

 ちなみにカレーが飲み物という考えには諸説ある。

 竜胆の差し入れの中には、その他にもジュースなどがありその中から葵が選んだのはアイスコーヒーだった。

 竜胆は氷の入った二つのグラスにそれぞれコーヒーとジュースを注ぎ、木製のトレーに載せ調理台まで運ぶ。

 

「はい、現役JKが淹れたアイスコーヒー」

「間違ってはないですけど、変な言い方しないで下さい」

「Mサイズ、950円になります」

「……え、お金取るんですか?」

 

 ぼったくりかな? 

 メイド喫茶もびっくりの価格設定である。いや、行ったことないけど。

 葵は丸椅子に腰かけて、調理台を挟んで向かい合った竜胆からアイスコーヒーの入ったグラスを受け取る。

 溶けだした氷が結露となってグラスの外側に現れて、心地良い涼しさが指先伝わる。グラスを傾けコーヒーを飲むと、氷同士がぶつかった音が響いた。

 

「ちゃんと頑張ってんじゃん、偉いぞ葵」

「ま、まぁ、やる時はやる奴ですからね」

「じゃあそんな頑張っている後輩のために、葵がこの勝負に勝ったら一つご褒美をやろう♪」

「ご褒美ですか?」

「そそっ!」

 

 薄い鴇色の唇がグラスから離れ、白くか細い喉が動く。ジュースに一度口をつけた竜胆が、グラスを調理台の上へと置いて葵を讃える。彼女の言葉がいつもの冗談めかした雰囲気を纏っていなかったから、葵は少し戸惑ってしまった。

 だけど竜胆がまた口を開いたときには、その酷く温かい心の内側のようなものは霧散していた。向かい合っている自分よりも二つ上の彼女は、いつもと変わらない表情で蠱惑的に悪戯っぽく微笑みかけてくる。

 

「俺……この勝負が終わったらさ……竜胆先輩とっ!」

「それ、負けるフラグじゃないですか」

 

 a.k.a死亡フラグともいう。

 この任務を無事に終えたら、結婚するんだ→死にます。

 殺人犯がいるかもしれないのに、一緒にいられるか! 俺は自分の部屋で寝る!→死んじゃうYO!

 おや、こんな時間に誰かきたようだ→死んじゃうってば!

 

 いつもの全く変わらない竜胆の調子に、葵は胡乱気な瞳のまま小さな吐息を吐いた。

 グラスを傾けてコーヒーを口に含むと、それが最後の一口だった事に気がつく。いつの間にか随分と時間が経っていたみたいだ。

 窓の外の景色は、鮮やかな夕焼けの中に夜の色が混じっている。

 両者のグラスが空になったのを契機に、竜胆が勢いを付けて立ち上がった。

 

「さてと……あたしはもう帰るけど、あんま遅くまで試作してたら駄目だぞー」

「そう、ですね。もう少しだけやって、今日は切り上げる事にします」

「そっか、葵なら大丈夫だよ……だってこの私が応援してるんだからっ」

「それ、どんな理屈ですか」

 

 夕焼けと宵闇が混じり合う空を背に、彼女は曇りの無い笑顔で笑いかけてきた。朱い残照に御髪が透ける。その姿が眩しくて、少し目を細めた。

 

 ──大丈夫、いつも応援してる。

 

 彼女から幾度となく送られてきた言葉に、やっぱり葵は素直になれなくてつい冗談めかした返答しかできない。

 本心では料理の才を見出してくれた彼女の期待に、応えたいとそう思っている。でも何故か自分の感情を全て表に出す事が、葵にはどうしても出来なくて天邪鬼な態度を取ってしまう。

 

 笑顔の裏に本音を隠して、また明日と言った。

 

 ☆☆☆

 

 淡く滲む朝焼けの空。

 人の息の混じっていない青い清澄な空気が頬を撫でる。

 樹木の間から光が差し込んで、並木道に溢れていた。

 歩みを進めていくと並木道の先には、巨大なドーム型の建造物が見えてくる。通称、月天の間。あと数時間もしない内に自らが立つであろうその大舞台を、葵は黒曜石を思わせる瞳で見据える。

 ガラスで出来た透き通る自動扉を潜ったその先、エントランスホールに葵には見知った姿があった。

 肩の長さで切り揃えられた、柔らかな薄紅色の髪。普段は凛とした雰囲気を保っていて、精緻に整った容姿は何処か怜悧な印象を周囲に与える彼女。

 彼女にとって仕えるべき主君がいない所為だろうか。こちらを視認して控えめに片手を上げる彼女は、何所かいつもとは違う落ち着きがないような、そわそわとしたような印象を受ける。 

 

「こ、これ! ハーブティ! さ、差し入れっ」

「ありがとう、緋沙子ちゃん」

「……いや、インスタントだし大したものじゃないが」

「だとしても、嬉しいよ。ありがとう」

「……っ」

 

 何故か片言になりながら、新戸緋紗子が両手で突き出してきた質の良い小さな紙袋。葵が礼を告げると、緋紗子は視線を下げその端正な容姿を紅潮させ照れくさそうにそっぽを向く。

 

「じ、じゃあ私はこれで」

「せっかくだから緋紗子ちゃんも一緒にどうかな?」

「えぇ!? 一緒にって……それは、えっと、つまり、その」

「ほら、一人でこんなに飲めないからさ」

「……葵がどうしてもって言うなら、構わないが」

 

 もう用事は済ませたとばかりに、足早にその場を立ち去ろうとする緋紗子を引き留める。恐らく緋紗子としては試合を控えている葵に対して、集中の妨げになる様なことは控えるべきという配慮なのだろう。

 その心遣いには感謝しつつも、しかしその心配は必要のないものだ。

 一度包丁を握れば、一度調理台の前に立てば、心なんて一瞬で切り替わるから。

 少し歩いて控室の重量のある分厚い扉を閉める。密室となった部屋の向こうからは微かな喧噪やその残滓のようなざわめきが聞こえるくらいで、真剣な戦いの舞台へと臨む者たちに与えられた控室は驚くほど静寂を保っている。

 

「わ、私が準備するから、葵は座っておいてっ」

「いや、僕も手伝うよ」

「いいんだ……私にできるのはこのくらいだから」

 

 自嘲的な微笑み。彼女の言葉の裏に隠された含意を無理やり汲み取るとするなら、示されているのは葵と美作昴との間で交わされた食戟だろう。この勝負の結果如何では、葵は自らの包丁を失う事になる。

 それについては遠月の新聞部等で取り上げられ、事と次第が学園中に知らされている。遠月にいる人間なら恐らく知らない者は居ないだろう現状で、彼女が知り得ない筈がない。

 これは葵の独断で行ったことなのだから、責任の所在は自身にある。緋紗子は何ら思いつめる必要はないのだが、彼女にしてみればそういうわけにはいかないのだろう。

 悠に二人は座ることの出来そうな質の良いソファ。その隅に調理道具が一式入った銀で縁取られた黒のアタッシュケースを立掛ける。所在ないといった様子でソファに腰かけた葵は、手際よくハーブティを淹れる緋紗子の姿を見やる。

 支度の邪魔になる制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖が捲くられると同じくらい白い細腕が覗く。薄いシャツにスカートといった装いは、どうしていても女性的な肢体のラインが強調される。

 電気ケトルに水を入れて作動させると、泡立つような籠った音が次第に室内に響く。その間に備え付けられたカップを二つ取り出して流し台に置いた。

 薄紅色の髪を一房耳にかけて、カップを一度洗い丁寧に水分を拭き取る。その過程で耳に掛けられていた髪は、はらりと落ちてきめ細かな頬を覆った。

 ケトルの中の水が沸点に達し、冷水が熱湯へと名称を変える。二つのカップに熱湯が注がれ、白い湯気と共にハーブティが手渡された。

 

「……あまり、じろじろ見ないでほしい。その、やりづらかった」

「いや、つい手持無沙汰で」

「もう……ほら」

「ありがとう」

 

 やる事もなかった為、緋紗子に暫し視線を向けていたからだろう。

 彼女は居心地悪そうに、カップを手渡してきた。

 赤らめた顔を隠すように、伏し目がちに言及してくる。

 しかし胡乱げな瞳でそう言った緋紗子の声音に怒気はなく、どこか呆れたような印象を受ける。

 カップを傾けると口の中に、爽やかな風味が広がる。ハーブティには緊張や不安を解きほぐす効果があるという。試合前にはうってつけの飲み物だろう。

 緋紗子は葵の隣に腰掛け、倣うようにカップに口を付け机の上に置いた。

 一度途切れた会話。その沈黙を破ったのは、葵の穏やかな声だった。

 

「ねぇ、緋紗子ちゃん。美作くんとの食戟の事、気にしなくていいからね」

「葵がそう言ってくれるのは嬉しいけど、気にしない事なんて出来ないし、気にしなくていい筈が無い」

 

 葵からすれば自分が勝手にやった事。言い放つ言葉には責任が伴い、責任には重圧が伴う。

 その重圧は葵が背負うべき物だというのに、それを緋紗子は否定した。

 静かな、だけど明確な意思を持った声で。

 

「だから私も何か葵の力になれる事はないかなって考えて……でもしてあげれる事って殆どない事に気が付いた。私に出来る事はそれこそ、このハーブティを差し入れて淹れてあげるくらいの些細な事だけ」

 

 誰かの為に何かをする。言葉にすると簡単なそれを、現実で為す事は酷く難しい。

 それは料理や芸術など、自らの力量を常に試され周囲との秤に掛けられる世界では顕著に現れる。

 どれだけ苦しもうとも、探し求める答えを見つける事ができるのは自分だけ。自分自身の理想は、自分自身でしか辿り着けないのだから、そこに余人は介在しない。

 理想を追い求める隣人の為に自身が出来る事は、ほんの些細な事でしかない。

 

「それでいいんじゃないかな。僕だって大した事は出来ないんだよ。今出来るのはせいぜいきっかけを与える事だけだから」

 

 腕を磨く為の方法は幾千と存在する。技を盗む、過去から学ぶ、組み合わせて応用する。

 しかしその根幹にあるのは、強い意思だ。高みへと至るには、自分の意思で歩みを進めなければいけない。他人が何を施そうと、そこに当人の意思が無ければ無意味で無価値。

 周囲がどれだけ道を示しても、その道を歩むのは自分の足だから。

 

「だから……勝つよ。緋沙子ちゃんがこれからも、料理を続けられる様に、大切なものを取り戻してくるから」

 

 自分達が進もうとしている道は果てしない荒野で、他人の為に出来る事は限られている。

 葵は彼女の手を引いて荒野を歩く事は出来ないけれど、彼女の道を示すそのきっかけくらいは作る事が出来るから。

 

 ☆☆☆

 

 またねと言って扉を閉めて、足早に控え室を立ち去る。

 

 ──また、だ。

 

 胸が締め付けられて息が出来ない様な感覚に陥るのは、もうこれで何度目になるだろうか。

 大切なものを取り戻すと口にした彼の横顔は、驚く程真剣で見惚れてしまった。

 鈍感な所のある彼だから、今日はまだ気付かれていないと思う。

 だけどいつまで隠し通す事が出来るだろうか。この心に秘めた感情が露呈した瞬間に、彼との関係は変わってしまう。

 少しずつだけど確実に大きくなっていく思いの丈は、火のつけられた導火線のように燃え続けている。

 

 ──嗚呼、もうどうしようもないくらいに……。


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