眩い照明の光に反射して、銀製のクロッシュが青く光る。
美作昴と斬島葵。
先に審査員へと品を提供したのは、美作であった。
遠月の地で研鑽を重ね、才能という原石を光り輝く宝石へと昇華させた歴代の卒業生達が美作の品を口にした瞬間に舌を唸らせる。
堂島銀を始めとする審査員達が美作の品を評す言葉に、非難や誹りと言ったマイナスの評価は見当たらない。
想定通り。美作は残忍な笑みを浮かべる。
ざわめく会場。観客達の悪感情が篭った視線でさえ、美作には心地が良かった。彼が何を言っても所詮はこの舞台に立つ事さえ出来ない、路傍の石。
──微に入り細を穿つ。
勝つ為ならば、どんな手段さえ厭わない。徹底的に相手を調べあげ、信念を嘲笑い矜持を破壊した上での勝利。それが美作の戦い方であった。
美作にとっての勝利の美酒は、敗者の涙に他ならない。
タプナードに加えた二種類のナッツは、鰐肉と共に口の中で合わさる事で食感に変化をもたらす。
より完全は火入れを求め、塊肉を回転させながら焼き上げるロティサリーで仕上げた。
その他にも斬島の追い抜く為のアレンジを何個も施してある。
事実、美作が施したアレンジの全てが作用して、自らの品の完成度を高めている。
──精緻を極めた自らの品に死角はない。
それに……。
振り返った視線の先。料理の仕上げを完成させた斬島へと言葉を掛ける。
「斬島、万に一つもお前に勝ち目は無いぜ」
呼びかけられた斬島は、表情を殺した能面のようだった。青い氷の如き底冷えのする視線でこちらを、ただ見つめている。
長い睫毛が影をつくる黒曜石の瞳。その奥に得体の知れない何かが潜んでいるかのような錯覚を覚える。
この場において優位性は明らかに此方にある。
迷いを振り切る様に言葉を繋げた。
「お前は同じ食材で俺とは違う品を作る方向に切り替えた。鰐肉のコンフィ……よくあの一瞬で思いついたもんだぜ。タプナードに使用するためのオリーブオイルをコンフィに代用すれば、なんとか形にはなるだろうさ」
敵ながら見事なものだ。敗北する事の許されない精神の重圧が掛かったこの一戦で、本来の実力を発揮するのは酷く困難なもの。
そうであるにもかかわらず、冷静かつ迅速な判断力。機転を利かせ、それを実行できる地力の高さは感嘆に値する。
「けどお前の品には致命的な欠陥がある。俺たちが事前に用意した食材には無くて、コンフィを用いるには無くてはならないモノが」
そう当人の技術がどれだけ素晴らしくても、どれだけ機転を利かせようとも、食材だけはどうしようもない。
料理人としての実力で言えば、美作昴は斬島葵には及ばないのかもしれない。しかしこの場、このひと時の勝負においては天秤は此方に傾いている。
「コンフィは食材をオイルに付け込んで煮て作る調理法。その食材にしっかりとした味をつけるためには塩と……ハーブが必要不可欠なんだよ今回の俺たちの食材にハーブは存在しない」
つまり。
「お前の料理は不完全の未完成品だ」
語気を強めて、嘲笑いながら言葉にして言い切って……どうしようもない違和感が頭に残った。
──ここまで言われて、なぜこいつは冷静を保っている?
斬島の仕入れた食材の中にハーブが無い事は確かだ。未完成な品で勝負を挑まれるほど、美作を侮っているという事も無いだろう。
そうであるならば。
決定的な勝算が斬島にはある。
致命的な欠落が美作にはある。
「一週間で何を買ったか、誰と会ったか、どんな事を試したのか、全部美作君は分かるって言っていたね……じゃあ僕が今朝誰と会って何を貰ったか知ってるんじゃないかな」
「あれはただの嗜好品じゃ……まさかハーブオイルか?」
「正解。オリーブオイルにハーブティのパックを漬け込んだ即席のものだけどね」
斬島が今朝誰と会ったかなんてものはもちろん把握していた。
新戸緋紗子だ。斬島が会場に入る前に、新戸緋紗子が渡していたものがハーブティ。
美作はその事実を知っていながら、それは単なる差し入れだろうと思っていた。実際に手渡した新戸緋紗子でさえ、ハーブティを調理に持ち込まれるとは思っていなかっただろう。
しかしハーブオイルの精製にはある程度の時間を要する。試合が始まってしまってからオリーブオイルにティーパックを漬け込むのでは間に合わない。
ハーブオイルの完成にかかる時間は凡そ三時間。
つまり斬島は三時間前にはこの方法を思い付き、実行していたという事になる。
冷めざめと青光りする銀のクロッシュを片手に、楚々として斬島は審査員席への行程を辿る。
クロッシュに隠されていた品が姿を現すと、そこにはとても代用したとは思えない程に美しいコンフィがあった。
朗々とした青い鈴のような声。
「お待たせ致しました……どうぞお召し上がり下さい」
☆☆☆
『これより判定に入ります。秋の選抜二回戦第一試合ならびに食戟! 投票をお願い致します』
会場中に響く、電気音響変換機を通して拡がった声。それは数時間に及んだ勝負の決着が近いことを示していた。
「いよいよ決まりますね」
「ああ。この勝負、斬島の勝ちだ」
絢爛な装飾の施されたプライムルーム。取り付けられたモニターを見つめ緋紗子の言葉に応じたのは、彼女を此処へと案内してくれた司瑛士だ。
彼は審査員等が結果を下す前に、そう言い切って……
『勝者……斬島葵』
事実その通りになった。
色が抜け落ちた様な司の瞳には、きっと緋紗子の想像が及ばないくらい様々なものが見えているのだろう。
緋紗子には葵と美作の実力にそれほど差は無い様に見えた。
──二人の品を口にする事なく……勝敗を言い当てるなんて。
否応無く感じ取ってしまう司との決定的な差は、年の差などではなく才能の差だ。このまま緋紗子があと二年間研鑽を積んだとしても、司の位置には至らないだろう。
頑張った。
努力した。
そう言葉にする事はいとも容易く、而して只其れだけで認められる事は絶対に無い。
容易いという事は誰にでも出来るという事だ。誰もが頑張っているし、努力している。
認められる為には努力を成果に結果に結び付けなければいけない。
己に才能の無い事は、努力しない理由にはならないから。
「どうして、葵が勝つと思ったんですか?」
疑問は解決していくしかない。何だって分からない事は、本で調べたり誰かに教えを請い理解するしか道はない。
「食戟という条件下であれば美作昴の力は最大限に発揮されるはずです。相手の思考をトレースして、それを越える品を作り出す事の出来るなら美作の方が有利ではないでしょうか?」
「この勝敗を分けたのは、斬島がハーブオイルに用いたハーブティだ。アレだけは斬島が用意したのではなく、
「葵が考えたものじゃないなら、美作も思考をトレース出来ない」
「そういう事だ」
実際に葵が出した鰐肉のコンフィは、素晴らしいものだった。持ち前の技量の高さにより完璧に為された火入れや、美作とは違う形でタプナードソースを活かした事で完成度の高い品に仕上がっていた。
ありがとうごさいました。そう感謝を伝えると、司は少しだけ微笑んだ。二人の会話に一区切りがついたタイミングで司の携帯にコールがかかって、どうやらまた彼は仕事に駆り出されるらしい。
此処を出る丁度良い機会だろうと、緋紗子は司と共にプライムルームから廊下に踏み出して、また司に一礼をしてその場を去った。
膝上まで折られたプリーツスカートから伸びる白い脚。向かう先は大歓声を鳴り止まむ月天の間。選手が入退場する為の出入り口だ。
磨き上げられた黒い大理石の横壁に薄っすらと自分の姿が映る。緋紗子の待ち人が来るまでの暫くの時間は、所在がなくて片耳に薄紅色の髪を掛けたり前髪を整えたりしていると、彼の象徴である藍色の着流しが見えて心臓の鼓動が高まる。
「葵っ!」
「そんなに急ぐと危ないよ。でも、会えて良かった。ほら、受け取って」
「……私の包丁」
「もう、失くしたら駄目だよ」
「うん、ありがとう……本当に」
葵を見た瞬間に、緋沙子は反射的に彼の許へと駆け寄ってしまった。葵は少し驚いた表情をした後、ひどく丁重に見慣れたアタッシュケースを差し出してきた。
使い慣れて何度も持ち歩いた筈のソレは、手元を離れる前よりも重たくなっている気がした。多分きっと気の所為で、緋沙子自身が気負ってしまっているだけなのだろうけど。
両の腕で大切にアタッシュケースを抱く。
──ありがとう。
こういう時、言葉というものは不便だと尽く思う。緋沙子のこの感情は一言では言い表せないのに、言葉にしなければ全く伝わらない。だからせめて相手の目をしっかりと見て、一語一語大切に言葉を紡いだ。
そんな緋沙子を見た葵は、目を細め安堵したように浅く息を吐いた。
「安心したらちょっと力抜けちゃったな」
「だ、大丈夫か? ええと、医務室は……」
「や、大袈裟だから」
「……じゃあせめて、控室までは付き添わせてくれないか?」
「構わないけど、本当に大したことないからね」
通路から控室までの行程。隣を歩く彼の横顔をこっそりと盗み見てふと気が付いた。
彼は出会った頃よりも随分と身長が伸びていて、端正な容姿からは幼さが抜けて更にかっこよくなった。
「葵って今、身長何どれくらいなんだ?」
「うーん、ちゃんと測ってないけど176くらいかな」
「やっぱり……中等部の時に比べたら、随分伸びたと思う」
たった一年と何ヵ月かの間に、よくもまあここまで変わるものだと思う。葵は出会った頃から整った顔立ちをしていたけれど、すらりと伸びた手足や何処か儚げな雰囲気が合わさって更にかっこよくなってしまった。
「緋紗子ちゃんは何センチになったの?」
「この間測った時は161センチだった」
「じゃあ僕よりも15センチも低いんだね」
「なっ、私だってちゃんと伸びて……」
緋紗子が反論しようとした時、彼の手が頭の上に乗った。
「もうだいぶ差が開きましたね〜」
よく秘書子なんて不名誉なあだ名で緋沙子を呼ぶ時の、あきらかに人を揶揄う時の声音。彼は楽しそうに笑って、悪戯っぽく目を細めている。
きっとそれは彼なりの気遣いなのだろう。実際に緋紗子は美作昴に負けてからというもの抜け殻のようだった。
だから少しでも場を和ませて、緋紗子を元気付けようとしてくれているのだと頭では理解出来ていた。
だけど頭の上に乗った彼の手が、あまりに優しく緋紗子を撫でるものだから。
「……あ、う」
びっくりしてしまって、何も言えなくなってしまう。
「緋紗子ちゃん、どうかした?」
「な、何でもないっ……から」
彼の手が触れている薄紅色の頭が熱を帯びて、それが急速に全身へと伝播していくようだ。
聞こえてしまうのではないかと思うほどに心拍数が跳ね上がり、頰が熱くなるのが分かる。
──ずるい。
そうやってこっちの感情を振り回す癖に、こっちの想いには信じられないくらい鈍いところとか特にずるい。
もうそろそろ、控室に到着してしまう。思わぬところで感情を大きく乱されてしまったが、最後に一つ。これだけは聞いてかなければいけない。
「何で……あの試合でハーブティを……使おうって思ったんだ?」
「あぁ、それは、ですね」
「今日ずっと聞こうと思ってた。葵が話したくないなら、無理には聞かないけど」
「や、ちょっと恥ずかしいだけなんだけどね」
頬をかき視線が此方と合わさらず、珍しく葵は要領を得ない。今日、緋沙子がずっと聞きたかった事。はぐらかされそうになったから、少し引いてみると葵は話す気になったようだ。しおらしくされると弱いのかもしれない。
「緋沙子ちゃんが僕の力になれる事は殆どないって言ってたから」
「……うん」
「うまく言えないんだけどアレを使う事は、緋沙子ちゃんの力を借りる事になるんじゃないかなって……だから、ええと、僕も緋沙子ちゃんに助けられてるよって事が伝われば良いなぁ、みたいな?」
助けられてばかりだと思っていた。追いかけることに必死になって、空回りになって大切なものを失って、それでもこんな自分でも彼の助けに少しでもなれたという事が堪らなく嬉しい。
何処か怜悧な印象を周囲に与える彼女は、少しだけ潤んだ瞳を伏せる。鎖骨の辺りで切り揃えられた薄紅色の髪が、その過程ではらりと落ちて睫毛にかかる。
──どうしても泣きそうになってしまう。
ダメだなぁ、もうどうしようもないくらいに……好きだ。
★★★
明かりのない仄暗い一室。
あらゆる全てから切り離されたような静寂は恐怖を覚えるほどだ。
「あと────い──け」
何度も呟くその言葉には、一切の意味がない。
砂を噛むように無価値。
ひどく痛々しかった。