薄暗い部屋の天井。明かりの灯されていない蛍光灯を、片手に持った液晶から放たれるブルーライトが照らして影を落とす。
浅く息を吐いて部屋の明かりを付けると、その眩しさに透き通った黒曜石を思わせる瞳を細める。遠月の制服に黒のカーディガンを羽織った斬島葵は、スマートフォンを操作し自分よりも二つ学年の上の先輩にメッセージを送る。
『葵、試合お疲れ様ー(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾』
『ありがとうございます竜胆先輩』
『あたし今、二階のプライムルームにいるけど葵も来るー(・・?) 一緒に試合見よ』
『分かりました、今から向かいます』
『あ、ついでに飲み物適当に買ってきて。お祝いのKPしよーぜ』
『……KPって何です?』
『か・ん・ぱ・い! そんくらい分かれし』
『えっと、じゃあ自販機で飲み物買ってから向かいますね』
『あざまる水産よいちょまる! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶』
若者の間で圧倒的シェア率を誇る、某緑色のメッセージアプリを閉じる。
「……よいちょまる」
よいちょまる、どういう意味なのだろうか。少し考えてみたが、よくわからなかった。たぶん最近流行りのギャル語というやつだろう。機会があったら、使ってみよう。
謎の言語の返答に迷い、無難なスタンプを一つ送信した。
調理器具の入ったアタッシュケースを手に持ち、自分に当てがわれた控え室を後にする。その足で飲料を調達する為に自動販売機のある場所へと向かった。
廊下を歩き数分としないうちに、簡素なベンチと自動販売機のある休憩室の様な所にたどり着いた。
「……ゔぅ」
幼い少女に似た声のする視線の先。自動販売機には、傍らにビビットピンクの奇妙な人形を抱えた先客の姿があった。
料理人を志す者たちが集まる専門校である遠月は、備えて付けられている自動販売機の品数が一般的なソレより豊富である。
上段に500mlのミネラルウォーターやお茶スポーツドリンクが並び、中段に250mlのエナジードリンクや紅茶が並び、下段に缶コーヒーなどが並べられているのが一般的だ。
しかし遠月では豊富な種類の取り揃えにより通常三段のところもう一段増えた四段構成になっている。
必然、その分自動販売機の身長は高くなり。
「……むぅん」
遠月の制服を着た先客の少女は目当ての物に背が届かないようだった。
ピンと腕を伸ばしミネラルウォーターのボタンを押そうとすると、鮮やかな菫を想起させる髪が揺れ、やはり届かない。
数回の挑戦の後、葵の視線に気が付いたのだろう。ややバツが悪そうに返金のボタンを押して場所を譲った。
葵は少し考えて二枚の硬貨を入れ、目当ての物を購入するとそれを隣人へと差し出した。
「良かったら、これ受け取って下さい」
「……きみに奢られる筋合いは無いんだけど」
すっと通った鼻筋。形の良い唇。菫色のサラサラとした髪の合間から、眠そうに眦の下がった瞳が覗く。遠月の制服を身に纏った起伏の乏しい小さな肢体に、未成熟の童女のような印象を受けた。
少し不機嫌そうにして此方を見つめる少女。恥ずかしい所を見られてしまって、その上施しを受けると言う事が気に入らないのかもしれない。
何歳も年の離れた親戚の子に話しかける様に膝を折り目線を少女に合わせ、安心させる様に柔らかい笑みを作る。
「コーヒーを買うつもりだったんですが、間違ってお水を買ってしまいました。捨てるのも勿体ないので、受け取って貰えますか?」
「ありがとう……でもきみ、ももの事なんか子ども扱いしてない?」
「…………シテマセンヨ」
「ねぇ、変に間があったけれど」
眦の下がった眠そうな瞳が、胡乱な光を放ち此方を見つめる。すっかりぎこちなくなってしまった笑顔のまま、差し出したペットボトルを渋々と少女は受け取った。
そして何か思いついたように、トテトテとした足取りで自販機の前に立った。抱えていた人形の背についたチャックを開き、小さな財布を取り出す。その人形、ポーチだったんだ。
「はい……これ。間違ってコーヒー買っちゃったからあげる」
「えっと、ありがとうございます」
「……これでお相子だから」
少女が押したボタンは缶コーヒーだった。コーヒーは四段構成の自動販売機の最下段にあって、なるほど少女の伸長でも楽々と届く。購入した缶コーヒーをこちらに差し出してきた。
受け取ると少し満足そうに、お相子だと言う少女。ころころと表情の変わるその様は、なんというか感情の起伏が激しい。少女が持つ独特の微笑ましさに、先ほどまで張りつめていた心の糸が緩む気がした。柔らかな声で葵は言葉をかける。
「まだ中等部なのに試合を見に来るなんて、勉強熱心ですね」
「は? もも高等部だし三年生なんだけど」
「……え?」
賞賛した筈の言葉に、慮外の言葉が返ってくる。
あれれー、おかしいぞー。
つまり見た目はJC、頭脳はJK。葵は高校生探偵じゃないので、たった一つの真実見抜くさえ見抜く事が出来なかった。迷宮なしの名探偵への道は遠い。いや、そもそも目指してない。
「あは、は……その狸の人形可愛いですね」
「随分と強引な話題転換だけど、ブッチーは狸じゃなくで熊さんだから」
「……Oh」
まずい。さっきから話題のチョイスをミスりまくっている。会話という名の地雷原を裸足でタップダンスしているような気分だった。
「きみがさっきまで選抜の試合に出てた、
そこでしばらく話していたにも関わらず、自己紹介を行なっていない事に気がついた。名前を名乗り、そして非礼を詫びる。
「謝って済むと思って……あっ、ねぇ一年生の後輩くん、もも途中までしか試合見てないけど勝ったの?」
「ええ……勝ちましたけど」
「ふーん、じゃあそこそこ使えるのかな? 選抜の後にある
「え、何ですかそれ」
聞き覚えのない言葉。問い返した葵に、しかしももは答えない。ふふっと、笑うだけ。まるで悪戯を思いついた童女の如く、口許を邪悪に歪める。恐ろしい娘……! 比喩ではなく、額面通りの意味で。
そこで背後から聞こえて来る足音に気がつく。どうやらももは葵より先に気付いた様で、ブッチーなる熊の人形とペットボトルを両手に抱えたまま、葵の背後を覗き込んだ。
「あ、えりにゃんだ」
「……えりにゃん?」
何処か耳覚えのある名前に振り向くと、その視線の先にはやっぱり見覚えのある人物が此方に向かって歩いていた。
「竜胆先輩や緋沙子、今度はもも先輩まで……せっかく褒めてあげようと思ったらすぐこれよ。ていうかさっき私が送ったメッセージもすぐ返しなさいよばか」
踊る様に揺れ、溢れんばかりの光を放つ髪。手足の長い均整の取れた肢体が、遠月の制服に着崩す事なく包まれている。高価な西洋人形のように整った容姿。
何か独り言を言っているのは分かるがその内容までは聞き取れない。次第に距離が縮まって、やはり葵たちの前でえりなは足を止めた。
「お疲れ様、葵くん。もも先輩はさっきぶりですね」
「あれ、二人は知り合い?」
「知り合いっていうか、もも先輩は私や竜胆先輩と同じ十傑よ」
「言い忘れてたけど、十傑第四席の茜ヶ久保ももだよ。よろしくね後輩くん」
ももがそう言って笑いかけてくる。先ほどの意味深な台詞もあってか、葵的にはあまりよろしくしたくはない。実地研修? 何それ怖い。
何がそんなに面白いのか葵を見て楽しげに笑みを浮かべるももを、えりなが何故かじっとりとした瞳で見ているのが分かった。
この選抜の運営を任されている二人は、おそらく次の仕事があるのだろう。えりにゃん……行くよーと、同行を促すもも。それに対してえりなは追いつきますから先に向かっていて下さいと断りを入れてから、葵の方へと向き合った。
こほんと軽く咳払いをして、えりなは口を開く。
「葵くん、くれぐれも料理以外の
「心配してくれてありがとう──勝つよ」
「……っ」
大切な事……そう言われてもうずっと昔に読んだ絵本の事を思い出した。それはとても古い本で、葵が生まれるよりもずっと前に書かれた、とても有名な物語の一節。
── いちばんたいせつなことは、目に見えない──
彼にとって一番大切なバラの花。それをかけがえないものにしたのは、彼がバラの為に費やした時間だった。なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つ。
もしもそれが本当なら、葵にとって一番大切な花には自ら責任を取らなければいけない。
たいせつなことは目には見えない。だからこそ明確に目に見える成果が必要だった。
感謝と決意を述べた言葉に応答はなかった。
薄っすらと紅潮した頬。瞑目する少し濡れた菫色の瞳。
「えりなさん?」
「な、何よ」
「いや急に黙っちゃったから」
「そ、それは…… 葵くんが急に真剣な顔になるからびっくりしただけよ」
彼女にしては珍しい、聞き取れないほどか細い声。聞き返そうかと思った途端に、矢継ぎ早に言葉を続けられた。
「とにかく心配なんてしてないから! 私はただこの選抜を運営する十傑の一員として苦言を呈してるだけです。ホントそれだけ、それ以外の意味なんて
そう言い残して去っていくえりなの後ろ姿はどこか懐かしい。前にもこんな事があったなという既視感が、葵の脳裏に霞んでいた。