ゴールデンウィークという長い休みというのは、学生たちにとってはうれしいものだろう。
若い者たちであれば友だちや恋人と一緒にどこか遠くへ遊びに行くだろう。普段発散しきれないストレスや欲求というものをさまざまな娯楽を用いて発散していく。中には勉強に打ち込む生真面目な学生もいるだろうし、部活に汗を流す学生もいるだろう。
大人であれば、家族を連れて実家に遊びに行くだろう。年老いた両親は自分たちの孫の顔を見られるだけで幸せなのだ。そのようにして普段はほとんどできないでいる親孝行をしたり、ゆっくりと休んだりするだろう。
そんな彼女も一般の者たちと同じようにゴールデンウィークはそれなりに満喫したつもりでいた。
普段に増して厳しくなる朝の鍛錬だけはいただけなかった。
名家の一人娘として護身術の一つや二つは身につけておかなければならないという言葉で取り組んできたことではあるが、鍛錬の内容からしてもはや護身術の領域を超えているのではないかと以前から思うようになっていた。
しかし、それのおかげで彼女自身助けられた経験があるし、友達を助けたこともある。
感謝こそすれど、毛嫌いまではしていなかった。
今日もその鍛錬を終え、ゴールデンウィーク明けの授業開始初日に遅刻しないために手早く全身をぬらす汗をシャワーを浴びて流し、着替えを済ませて朝食を摂っていた。
家は古くからの日本式の造りをしているが、さまざまな文明の利器があるなど、新旧が違和感なく融合していた。
朝食は基本的に和風だ。彼女自身それに不満はないため文句は言わない。
湯気を立ち上げている白米に味噌汁、焼き魚に青野菜のおひたしと漬物を少々。多すぎず少なすぎないという絶妙のバランスでそれらが用意されていた。
手を合わせ「いただきます」と今日も料理を用意してくれた母親と目の前にある命に感謝して料理を口に運び始める。
基本的に朝の食卓は彼女の他に母親と祖父母の四人で摂ることが多い。父親は忙しいということもあり、彼女が鍛錬をしている頃に食事を済ませてしまっていることがほとんどだった。
一般人に情報を伝えてくれるテレビに電源が点けられており、チャンネルはニュース番組に指定されていた。男女のアナウンサーが政治や経済、社会全般で起きている出来事を伝えている。
ちょうど視線を向けた時には何やら市議会の議員を務めていた男性が痴漢の容疑で逮捕され、議員職を失ったことが伝えられていた。警察に連行されている件の男性はすっかり憔悴しきった顔を浮かべており、まるで病院のようにも見えた。ひどくショックを受けているのか、一人では立っていられないほどふらついており、両脇から警察に抱えられ、まるで引きずられるように車の中に消えていった。
いい大人が何をしているのか……。
彼女、真宮カオルは軽蔑するような視線を消えていった男性に向ける。
このような大人による痴漢行為は毎日のように日陰の下で行なわれている。それが発覚するのはごくわずかであり、今回のようになるのはよほどその行為をした人間が重要な職についている場合だろう。一般人であれば、偶然名前が新聞の隅に乗せられるかどうかくらいだ。
今回被害を受けたのはどうやら女子高生らしく、身体を触られた瞬間に痴漢だと判断したようで、彼の手をつかみ大きな声で叫んだと言う。それだけで彼は言い逃れができなくなったのだろう。あとは列車が駅に着くまで法廷にかけられた被告人の心境であるしかなかっただろう。
「まったく市議会の議員が何をしているかねえ」
祖母が朝食後のお茶を飲みながら、ボソリと呟いた。
今日に限らず市議会の議員など公務員による犯罪や事故についてのニュースが多く流れるようになっていた。以前は教職員による援助交際であっただろうか。相手の少女が中学生ということもあり、相当大きく取り上げられていたように思う。
自分が通っている学校でも、援助交際をしている生徒の話は噂で耳にする。彼女自身はどうでもいいと割り切っているが、その生徒たちの相手がニュースで取り上げられるような大人たちであると思うと不快感を覚える。
そこでテレビから視線を外し、壁にかけられている時計を見る。すでに待ち合わせの時間が迫っているのに気づき、慌てて食器を手にして台所に片付ける。
洗面所で自分の歯ブラシを手にして、歯磨きをしながら離れにある自分の部屋に向かい、荷物の入った鞄をつかむ。そのまま逆走して口の中をゆすぎ、整容に乱れがないかを確認する。
「あのゴリラとキツネは今日もいるでしょうね」
脳裏に浮かんだ二人の教師のことを、それぞれの顔の特徴に当てはまる動物に例えて言う。顔だけではなく性格というのか、性質まで似ているのだから厄介この上ない。毎日校門前で行なわれている彼らによる厳しい整容検査に引っかかれば面倒くさい整容指導が待っているのでそれだけは未然に防がなければならなかった。特に問題はなく、時間を費やす必要はなかった。歯ブラシをコップに入れて元の場所に戻し、玄関に向かう。
「ほら、忘れ物よ」
玄関で待っていた母親が差し出してきたのは、少女らしいピンク色のナプキンに包まれた長方形型の弁当箱だった。慌てていたせいか、はたまたゴールデンウィーク明け初日というせいかうっかり忘れていたようだった。一応財布の中身には困ってはいないが、せっかく母親が作ってくれたものを無碍にするわけにはいかない。
「ありがと、それじゃあ行ってきます」
お礼を言って弁当箱を受け取り、元気よく家を出る。
外に出ると、視界を白く染めるほど眩しい光を地上に降りそそいでいる太陽が目に入った。思わず目を細め、手をその前にかざすことで光を遮るようにする。空は吸い込まれそうに思うほど青く。まるで地上から海が空に移ってしまったのではないかと錯覚してしまうほどだ。その空に浮かぶ海を悠々と泳ぐ魚のように千切れた雲が幾万も存在していた。さらに、空を飛んでいる航空機が今だけは海を航海している船のように見えた。
そんな風に情緒的に考えていると、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。その後に続いてパタパタという地面を踏みしめる足音が聞こえる。仰ぎ見ていた顔を下ろし、視線をその音の聞こえてくる方に向けた。
向こうからやって来た一人の女子生徒。耳が隠れる程度で動きに邪魔にならないようにするためということで短く切りそろえられている自分の髪と比べると、彼女のは生糸のように細く、黒曜石のような艶のある黒い髪は腰まで長く伸ばされており、頭頂部近くで黒い髪に映える白いリボンで括られていた。自分も通っている高等学校の指定制服に身を包み、彼女が第三学年であることを証明する赤いリボンが首元にあった。
「おはよう、カオルちゃん。今日もいい天気だね」
ありきたりな朝の挨拶をしてくる。だが、そんな当たり前があることがどれだけ幸せなのか。カオルも「そうね。今日からまた始まる憂鬱な整容検査がなければ、もっとよかったんだけどね」とうんざりとした表情を隠すことなく言う。
クスクス、と口元を手で隠しながら、控えめに笑う彼女。一つ一つの行動がかわいらしく、それが同性異性にかかわらず見ていて飽きないものだった。
「仕方ないよ。あたしたちの学校は規律に厳しいことで有名だから」
「多少のことは許してほしいわ。首元のリボンなんて窮屈で仕方がない」
彼女たちが通っているN高等学校はN市に存在している高等学校の中でも最も規律の厳しいことで有名であり、それが伝統ともなっていた。規則正しい社会人を輩出するという学校目標の基で設立された当初から変わらずに力を入れていた。勉学に重きを置いており、規律に厳しいこともあってか比較的就職率や進学率は高い数値を維持し続けている。また、悪行に走る場合は即刻退学処分と厳しいため、ついていけなくなった生徒は自主退学をすることが多かった。しかし、三年後の始業した後は自分が目標とした進路を確実に進めるということもあり、けっして悪い学校ではないのだ。
とはいえ、自分が卒業した後は両親が指定している一流大学に進学し、望んでもいない勉学に励み、卒業後は真宮グループ系列の会社に就職し、将来的には社長、そして、政略結婚が待っているだけなのだ。そんな敷かれたレールの上を走るだけの人生のどこに楽しみが見出せるというのか。唯一友人たちと過している時が最も充実していると感じられ、勉学などは二の次に思えていた。
そんなカオルが登校時のわずかな時間で友人であり、幼馴染である杉山文乃との会話に楽しみを見出していないわけがなかった。
彼女との間で話題に上がるのは特殊なものではなく、いたって普通の女子高生がするようなものだ。名家のお嬢様とはいえ、家の風貌のように古風な考えはもっていない。新しいものには興味は示すし、憧れたり、かっこいいと思ったりする芸能人や俳優はいる。雑誌もこっそりと購入して、休日友人と遊びに行った時に買いたいと思うものをリストアップしていることもある。彼女とは対極的に古風な考え方をもつ祖父母に見つかれば相談もなしに焼却処分されてしまうため、唯一理解を示してくれている母親だけが味方であった。
彼女たちが通うN高等学校までは、ここから十キロ以上離れている。そのために登下校は列車を使うことになっていた。駅自体はそれほど離れた場所にあるわけでなく、歩いても十分もかからずに到着した。
古かった駅は改修工事が進められ、すっかり生まれ変わったようにきれいな姿で利用客たちを出迎えてくれる。カオルたち以外にも下は高校生、上は通勤利用のサラリーマンの姿がある。これもいつも通りで、もう見慣れた光景だ。
利用客は意外と多い方で、改札口を定期を翳してすんなりと通れても並んでいる列の最後尾に並ばざるを得ない時が多々ある。
今日はやや前のほうに並ぶことができたが、今日の朝のニュースで流れていた痴漢による逮捕のことを思い出してしまい、周りに立ち並んでいるのが男性だと思うとやや憂鬱になる。
列車が来るまでの間、人々はそれぞれ違った行動を示し、時間を潰す。ある者は読みかけの本を取り出し、ある者は必死に参考書を読み進め、ある者はイヤホンを耳にしてラジオを聞き始め、ある者は忙しそうに携帯電話で話をしている。
そんな中カオルは何をするわけでもなく、ただ息苦しさを感じさせる人ごみの中で、列車が来ることを静かに待っていた。
――時刻は七時三十分きっかりだ。
列車が線路を走る音が聞こえる。
速度を落としながらであるが、人間にとって迫り来る列車というのは砲台のない戦車のようなもの。実物は見たことはないが、歴史系の本を読めば何も砲撃だけで人間を殺したわけでもなく、その地を走り続ける殺戮兵器は万力のような力で人間を押し潰したともあった。
思わず耳を押えたくなるようなけたたましいブレーキ音をホームに響かせる。ゆっくりと停車し、そして、利用客たちが乗り込むのを待つように静かになる。
カオルはいつも思う。技術が発展しているこのご時勢なのだから、新幹線以外の列車のドアも児童に開くようにすればいいのにと。コンビニやスーパー、デパートにあるような自動ドアのように。
列の前に並んでいた者たちが一斉にボタンを押してドアを開こうとする。
まるでインターホンのような音が鳴るとゴゴゴッ、という重低音を立てながらドアが開いた。
それから他人の家に上がりこむように人々は中へと乗車していく。
カオルと文乃もその流れに逆らうことなく乗車するのだった。