主な主要人物は二人。次回以降から、二人がどのような日常と非日常における戦いをするのか、楽しんでいただけると幸いです。
それでは、どうぞ。
ゴールデンウィークの最終日、少年は一人、自分の部屋だった場所で荷造りをしていた。
荷造りといっても、ほとんどは大型連休に入る前に済ませてしまい、次の生活場所に引越し屋が送ってしまっているので、今残っているのは昨日洗濯をしていてまとめるのに間に合わなかった私服や貴重品くらいだ。
六畳間のこの部屋とも今日でお別れだ。
せっかく自分のためにわざわざ設計してもらい、あてがわれていた部屋であるが、もう井戸と戻ってくることはないだろうと思うと一抹の寂しさが生まれる。
だが、この別れという経験は今までも何度もしてきたことなので、いちいち感傷に浸りきるということはしない。
出会いがあるから別れがある。
別れは悲しいものであるが、避けようのない運命なのだと、少年はこれまでの十年と少しの月日の中で学んでいた。
小さなボストンバックのチャックを閉め終わると同時に閉められていたドアがノックされる。
ドアの方に振り返り、「どうぞ」と、少年が声をかける。
それを了承ととったのか、部屋の外にいる女性が「入るわよ」と言ってドアを開けて姿を現した。
彼女は少年の実の姉である存在。年齢は七つ離れているなど年の差が大きいが、まるで同い年の女性を見ているかのように若々しい。二十代の女性に対してそのような感想を持つというのは果たして適当なのだろうかは分からない。色素が抜けきってしまい、雪のように白くなってしまっている少年の髪とは違い、生命観溢れる艶のある黒髪は腰まで伸ばされており、毛先のところでリボンで結われている。小顔に貼り付けられている一つ一つのパーツはどれも上等なものが選ばれているかのように、異性からすれば羨ましく思うほどだった。成人女性の平均身長に届くかどうかという背丈であるが、それが返って彼女のよさを際立たせているようにも見える。よく透き通って響くソプラノボイスは昔から聞いているものと変わりなく、懐かしさと寂しさを感じさせる。
「悠ちゃん、荷造りは……もう終わってるようね」
悠ちゃんとは少年に対する彼女からの呼称である。
手間取っているなら手伝おうという算段だったのだろうが、そこまで少年も子どもではない。残念そうな表情を浮かべている彼女の様子を見て、肩をすくめながら嘆息する。
「姉さん、もう昔の僕じゃないんだから大丈夫だよ」
「ううん、お姉ちゃんからすれば悠ちゃんはいつまで経っても悠ちゃんだよ」
だから、その子ども扱いをやめてほしいのだが……。
何年経とうとも、自分に対する接し方が変わらない姉にうれしいのやら恥ずかしいのやらうんざりするというのやら……そんな複雑な思いを抱く。
しかし、自分がこの十八年間を五体満足というわけではないが、無事に生きてこられたのは彼女のおかげであることが大きい。結婚をして、彼女自身も大切な家庭を築いている中で普通ならば厄介者扱いするだろう弟の自分も一緒に養ってくれている。彼女だけではなく、彼女の夫の男性にも感謝しなければいけない。
「もう行くよ。時間だしね」
そう言って床に置いていたボストンバックを手に取って、肩から提げるように持つ。
心配と不安が入り混じった表情を浮かべながら、彼女は手を胸の前で組んでただ無言で少年のことを見つめる。
「大丈夫だよ、昔よりも僕、強くなったから」
彼女のことを安心させようと、言葉を選んで言う。
少年の事情については、彼女はよく知っている。今日この家を出て行かなければならない理由も、その事情が大きく関係していることも昔から続いていることなので理解はしていた。理解はしているが、納得はできなかった。どうして自分の弟が日の光を浴びることができないような非日常の世界で生きなければいけないのか。彼女は姉として、唯一の理解者として大切な弟という存在の彼のことを日常の世界に戻してあげようとこれまで必死に抗ってきた。だが、それは不可能なことだった。彼女自身も心のどこかで、それが不可能なのだと理解はしていた。
しかし、それを認めてしまえば、彼が二度とこちらの日常の世界に目を向けることがなくなってしまうのではないかという不安があった。
彼の言葉を聞いても、安心などできるはずがない。自分のことを安心させようと、無理に取り繕っているのだろうと思ってしまう。彼は、弟はとても優しい子だ。そんな優しい弟がどうして同じ人間を傷つけるようなことをしなければならないのか。実際に彼の所属している組織の仕事内容をこの目で見たわけではないが、一度自身の目で見たことのある彼の異常さが何かを傷つけてしまうものなのだと知っていたので、そう考えられたのだ。それを尋ねたところで、彼はけっして答えてはくれないだろう。うんと答えようが、ううんと答えようが自分が取る行動は一つだからだ。
「ごめんね、お姉ちゃんも一緒についていってあげられたらよかったんだけど」
申しわけなさそうに、顔を俯かせて言う。
少年は肩をすくませて、首を横にふった。
「何を言ってるのさ。もう、姉さんは結婚してるだよ? 昔のようにはできないよ。それに、してほしくもない。僕のせいで姉さんの人生がこれ以上めちゃくちゃになるだなんて、自分が許せなくなる……」
これまでの中学、高校、大学という姉の進路はけっして安定したものではなかった。中学では一年ごとに転校を余儀なくなったし、高校の場合は毎日数十キロ離れたアパートから通わなければならなくなった。大学においては県そのものを離れることになったために卒業まであと一年とまできていたところで中退してしまった。ここでようやく結婚をして家庭を築いているというのに、それすら投げ出すなど、けっしてさせてはいけないと思っていた。
「悠ちゃん……」
彼女は心配するように言う。
彼は姉を困らせる――放っておくなどできないから。
姉は彼を困らせる――自分のために人生を犠牲にしてしまうから。
「姉さん、本当にこれまではありがとう。もう、僕に構う必要なんてないんだよ」
「そんなこと……」
まるで別れを告げられた女性のようによろよろと少年に近づく。
部屋と廊下の境界線に立っている少年の背中に縋りつくように身体を寄せる。顔を埋めさせ、涙をこぼす。嗚咽交じりに、ただ「ごめんね」と謝ってくる。
「義則義兄さんによろしく言っておいて。姉さん、これからは自分の幸せのために生きてよ。姉さんが幸せなら、俺も幸せだから」
肩に置かれている彼女の手をゆっくりと外しながら言う。彼女の手は意外と容易く外すことができた。だが、少年はそのことに対して驚くなどの反応は見せない。彼女の手が震えているのを最後に感じた。何も言わないのではない、何も言えないのだ。ここで口を開いてしまえば、見送りの言葉ではなく、引きとめようとする言葉が真っ先に出てしまうから。彼女は必死に耐えようとしているのだ、痛む心を、胸を押さえながら、口を一文字にしている。見えないが背中越しに揺れる瞳から向けられる視線が感じられた。
だから、最後に言うのだ――今日この日まで自分のことを守ってくれた大切な
「たくさんの愛情をありがとう、
そう言葉を残し、日常と非日常の境界線をまたぎ、日常へ別れを告げた。
――時刻は夕方になっていた。
この分では、UGNのN市支部に到着するのは夜になってからになるだろうと思う。
向こうの支部長は特に時間は指定してこなかったので、日付が変わる前に顔を出せばよいだろうと思う。
少年、黒崎悠二は普通の人間ではない。普通という言葉がどのような定義なのかは分からないが、一般人とはかけ離れている存在であるのは間違いない。
少年にも少女にも見てとれる中性的な顔立ち、陽の光を知らないというような肌、色素が抜けてしまい、雪のように白くなった髪は短めに切りそろえられている。ユラユラとゆれているボストンバックを肩から提げながら、やや俯き加減になっている顔には哀愁が漂っているようにも見え、男女問わず思わず声をかけてしまいそうになるほど保護欲をそそらせる。男子高校生の平均身長にギリギリ達するという背丈のおかげで、道歩く人々の流れに巻き込まれず、マイペースで歩くことができている。
悠二がN市に向かうために利用する駅のプラットホームに足を踏み入れた時には、すでに空は炎の海のように茜色に染まっていた。すでにそこには大勢の人々がやってきており、大方帰宅ラッシュなのだろうと思う。
ホーム内のアナウンスが、駅への列車到来を告げる。昔気いたような懐かしの音楽とともに、ホームと線路との境界線上にある黄色い線よりも外側に下がるようにという注意の喚起のアナウンスがされる。
ホームがここまで混雑しているのは、最寄の高等学校や周辺のオフィスビルの終業時間が大体似通っているからだった。この時間帯に起きる帰宅ラッシュ時にはプラットホームにおいてさまざまな言葉のやり取りが飛び交っているため、ひたすらに雑然としていた。
このホームにやって来る列車に乗り、N市へと向うことになる。
濁流のように押し寄せてくる雑然とした声であるが、日本人の元来持ち合わせた本質的なものなのか、列車の到着を待っている人々の列は乱れることなく、まるで軍隊のように整然とされていた。
再びアナウンスが流れ、地響きを立てるかのようにホームに入ってきた列車がレールを小刻みに震わせた。
ゆっくりと停車し、ドアが開けられると、吸い込まれるように利用客たちは列車の中へと入っていく。悠二も前を歩く人についていくように列車へと乗車する。
どの車両も帰宅ラッシュということで利用客がギュウギュウ詰めになっていた。とてもゆっくりと座ることはできないようだ。あまり密集されるのは好きではない。できるだけすきまのあるところを選び、黙っていようと思った。
開閉ドア付近にちょうどよく立ち位置があったので、そこに滑り込むようにする。同じ利用客たちに背中を向けるようにして、茜色から漆黒の闇色へと変わっていく空の景色を眺めながら列車が走り出すのを感じていた。
ぐらりと大きく列車が揺れ、ゆっくりとレールの上を走り出す。利用客たちの身体も大きく揺れる。ところどころでうめき声が聞こえた。おそらく誰かの足を踏みつけたり、身体同士がぶつかったりしたのだろう。
誰もが疲れた表情をしている。会話を楽しんでいる高校生の姿もあるが、笑顔の下には疲れた表情があるのだろう。笑顔という仮面をかぶり、それを隠している。
今日も一日が終わり、明日という一日がやってくる。すでに終わってしまった今日という一日は明日という一日になれば昨日という一日、過去になる。現実は未来からすれば過去でしかない。ここにいる人々は当たり前のように今日を過ごし、明日を待っているのだろう。
それが日常においては当たり前のこと。日常に生きる、彼らにとっては当たり前のこと。
なら、自分はどうなのだろうか。
非日常という、日常とは陰と陽、光と闇、正と負のような関係にある世界で生きている自分には今、つまりは現実しかない。
過去などもはやどうでもいいことであり、未来など霧がかっていて、手を伸ばしたところで霞をつかむようなものだ。確かな明日はなく、それは蜃気楼でしかない。いつ自我を失うか分からないという恐怖と隣り合わせで生きている存在である自分にとって、未来というのはひどく恐ろしいものでしかなかった。
N市には十分もかからずに到着する。悠二と同じように列車を降車する利用客たちの姿何人もいた。改札口を切符を入れて抜けて駅の外へと出た。
すっかり夜になっており、闇色の空には星が瞬いてあった。見る人によってはその星が無限の可能性のように思えるのかもしれないが、非日常に生きる悠二にはそうは思えなかった。
きれいだとは思う。だが、同時に儚いと思う。
不意に駅前に止まっている一台の外国産の高級車のフロントライトが点滅する。
それはまるで悠二のことを誘っているかのようだった。事実、それは呼び出しを意味する合図であり、悠二は駅前に止まっている車に向かって歩き出した。
「あら、遅い到着ね。心配で迎えに来ちゃったわ」
サイドガラスを開けて、そこから顔を見せてきたのは一人の女性だった。
女性にしては長身の身体を黒のビジネススーツに包み込んでいる。年齢は見た目からして二十代であろうか。腰まで伸ばされた黒髪はまるで日本人形のようにきめ細かな艶のある輝きを放っている。一般的に美人と称されるだろう顔立ち。どこかの社長秘書として働いていてもおかしくはない雰囲気。細目が言葉にあるように遅い到着を非難しているようにも見えた。だが、言葉通り、彼女の本心は心配だったのだろう。
助手席に乗るように促され、悠二は断る理由もなかったので、そこに乗りこんだ。
悠二が車に乗り込むと、女性はゆっくりと車を走らせる。
N市は田舎とも都会ともとれない、なんともちぐはぐとした場所だった。中央地帯にはオフィスビルや大型ショッピングモールやら娯楽施設が立ち並んでいるが、そこから外側に離れていくにつれて田舎の色が濃くなっていき、悠二の新しく生活場所として提供されているアパートは最も外側、他の市と隣り合わせという境界近くにあった。
「向こうではそれほど大きな事件はなかったようだけど、身体に異常はないかしら?」
まるで悠二のことを機械か何かと思っているかのような口ぶりだ。
しかし、彼女のように上に立つものが他のUGN組織員のことを便利な道具か何かと思っている者は少なくない。
テレビで言うならばリモコンが支部として、組織員たちはそれにあるチャンネルボタンなのである。彼女たち上司がそれを的確に操作することでうまく機能する。チャンネルボタンに不備があれば、必要な情報を得るための番組を見ることができない。そうでは困るということで、彼女はそのように尋ねてきたのだ。
確かにN市と隣り合っているL市においては、UGNエージェントとしての大きな仕事はなかった。時々出現する覚醒したばかりで暴走している“オーヴァード”の鎮圧と保護が主な仕事だった。ほとんどが能力をまともに扱えておらず、不良が銃火器を扱っているようなものだった。とはいえ、何が起きるか分からないという点においては非常に危険な仕事でもあった。初めて“オーヴァード”として目覚め、UGNエージェントとして活動するようになってからもう二桁を超えようとしているなど、その手に関してはベテランと名乗っても問題はなかった。
「あなたには上にお姉さんがいたわよね。これまでも、あなたの異動に合わせて彼女も学校を転々としているようだけれど、今回は一緒ではないの?」
当然のようにこれから新しく異動してくる組織員のことについては知っているようだ。当然向こうからこちらに資料は送られているだろうが、家族についてはあまり詳しくは描かれていないはずだ。
そう考えると、彼女独自に調べ上げたと考えるのが妥当だろうか。
何のためにそうしたのかは分からないが、大方組織員の弱みのようなものを握っておき、それをちらつかせて反抗できないようにしようとでも考えているのかもしれない。
上に立つものがよくやるような手法だと思いながらも、窓から外の様子を眺めていた。
「姉については、関係ないですよね」
「ええ、確かに」
何が面白くて、口元に笑みを浮かべているのか、悠二には分からない。
会ってまだ数分の上司の人となりなどを理解できるほど、悠二は観察眼に優れてはいないし、その手の能力はもっていない。
「でも、不思議よね。弟のために自分のことを投げ出せるだなんて、普通はできないことよ?」
こちらを見ず、まっすぐと前を向きながら彼女が言う。
会ったこともない姉のことを分かったように言われるのは尺に障るが、正直なところ彼女の言う通りなのだ。自惚れているわけではないが、自分のために姉はこれまで自分の人生を棒に振ってきた。学びたいことも、やりたいことももっとたくさんあっただろうに。彼女の人当たりのよい性格ならば、もっと友人がいてもよかったのに。それらを犠牲にしてまで、自分について来てくれた。
心配だから、ただそれだけの理由で。
だから、家庭を築いた今、これ以上彼女の幸せを奪うわけにはいかなかった。自分のせいで彼女が不幸になるのは、許せなかった。これ以上そばにいられると、気がおかしくなりそうだった。
「どうでもいいことですよね」
「ええ、そうね」
これ以上姉のことを話題にされるのは耐えられなかった。自分から切り捨てるように言えば、彼女の方もこれ以上は話題には上げないだろうと思った。
想定内ではあったが、にべもなく言われ、内心ムッとした感情を覚えた。
「あなたには明日から高校生活を送ってもらうわ」
「潜入、ですか?」
こう見えても、それなりに優秀な学業を修めてきたつもりだ。ある程度のランクの学校であればついていけなくもない。このような組織だった活動をするにはやはり最低限の学力というものは必要だった。そうでなければ使い捨てられるものか雑用のようなものばかりが押し付けられる。
これまでも何度もそういった理由で小学校から潜入活動を行なってきた。この手で殺めた者だっている。姉は傷つけたくらいとしか認識していないかもしれないが、もうすでにこの手は血で汚れてしまっているのだ。そんな手で彼女の家庭を汚したくない。取り返しのつかないことになる前に、離れたかった。今回の異動には、正直なところ感謝していた。
だから、断ることはしない。やるべきことをやるだけだ。
非日常的な存在として、日常に溶け込む。それは非常に息苦しいことであるが、これが自分の役割なのだと割り切っていた。
「ええ。どうやらその学校に“オーヴァード”に覚醒した生徒がいるらしいの。表立った動きは見せていないから、一体誰なのかまでは把握できていないの」
「だから、僕に“オーヴァード”である生徒を特定、保護させようと?」
ええ、と余計な言葉を抜きにして、彼女は肯定するように言う。
「必要な手続きと学校指定の制服の準備はこちらでさせてもらったわ。だから、何も心配する必要なんてない。あなたはやるべき任務を全うしてくれれば、それでいい」
もちろんだ。言われるまでもない。
悠二は口にすることはないにせよ、心中で呟いた。
非日常の塊である高級車が、異物のごとく日常の世界を走る音だけが、悠二の耳に聞こえていた。