悠二が生活場所として用意されたのは、非常に中央と支部から離れた場所にある古ぼけたアパートだった。
昨日支部長の女性の車で送られてきてからはすぐに眠りに着いた。
必要なものや向こうからこちらに送ったものはすでに輸送されており、茶色のダンボールだけが入室した時に悠二のことを出迎えてくれた。
これまで姉と一緒に住んでいたときであれば、彼女が「お帰り。ご飯できてるよ」と笑顔で出迎えてくれていたのに……。
そう思ったところで、悠二は慌しく左右にかぶりを振って、その考えを掻き消した。
何を考えているんだ、僕は……。
その考えは、もう断ち切ったはずだった。温かな居場所など、もはやまともな人間ではない“オーヴァード”の自分にはありえないはずなのに。心のどこかでは、姉から与えられる温もりというのを求めてしまっており、それがなくなってしまったということで寂しく思っているとでもいうのか。これではまるで迷子の子どもではないか。
悠二はそんな自分を心の中で嘲笑する。
“オーヴァード”である自分に、居場所など必要ない。ただ与えられた任務を全うするだけ。それは人間ではなく機械のような生き方。
だが、それをこの力に目覚め、UGNの構成員となった時からしてきた。
もはやこの生き方以外は無理だ。だから、姉と一緒に生活していた時、うれしさもあったが辛さも同時にあった。
自分の居場所は心温まる笑顔のあふれた日常ではなく、血汚れた薄汚い非日常なのだと。
だから、この異動を受けた時には正直ホッとした。
これ以上彼女の人生を狂わせずに済むと思ったからだ。
彼女には、自分がつかむなど夢物語である幸せをつかむ権利がある、義務がある。そして、彼女のそれを奪ってしまう権利も何も、自分にはない。
悠二はダンボールを漁って、学校に着ていく制服を取り出す。資料に寸法を測るのに必要な情報が記載されているため、違和感なく制服に着替えることができた。
昨日以前に取り付けられていたのか、この古臭いアパートにはないはずの、これまた小型のテレビが設置されていた。居間の中央にちょこんと置かれた丸テーブルの上にはリモコンも置かれており、おそらく娯楽の一種として用意されたのだろうと思われる。
情報収集において、テレビニュースというものはほとんどあてにならない。それぞれのテレビ局が独自に情報を集め、それを流しているだろうが、その中にはもっともらしく誇張表現させた情報もあり、それを正しいと視聴者に思わせてしまう。少しでも納得してしまえば、それが正しいと思ってしまう、否、思い込んでしまう。それは一種の洗脳だ。もちろん流す側にはそんなつもりはなく、善意でしていることなのであろうが、情報がものを言う構成員のような仕事にとって余計なものが含まれてしまうのは齟齬を招く恐れがあるかもしれないのだ。
とはいえ、それは仕事におけることで、普段の生活においては不必要とは言えない。潜入先が高等学校ということになれば、周りに溢れている話題に敏感である生徒たちにある程度あわせる必要もあるため、最低限の情報は確保しておかなければいけなかった。
とりあえず、テレビを点けてみる。
適当にボタンを操作していくが、やはりニュース番組に落ち着いてしまう。それを流した状態にしておき、悠二はまた別のダンボールのフタを開ける。その中には逸れ一杯の携帯用栄養バランス食品が詰め込まれていた。四種類の味が楽しめる。
適当につかんだ一箱を開けて、ブロックの形をしたそれを口にほうばる。それを咀嚼しながら、畳張りの床に座り込み、テーブルに肘を立てながらテレビに視線を向ける。
ちょうど流れていたのは、市議会の議員が何やら痴漢行為で逮捕されたというものだった。逮捕された議員の名前は【大久保大介】。妻子のいる一議員でしかない男性。それ以上の目立った情報はないようだ。正直興味もないニュースだった。
番組は天気予報に移った。悠二もすでに二袋目を完食するところだった。
テレビの中では若い男女の気象予報士が丁寧な解説で予報を伝えている。どうやら今日から一週間、天気は晴れであるという。
食事を終え、ゴミとなった入れ物などをゴミ箱に投げ入れる。
必要な教科書や筆記用具を通学鞄に入れ、それをつかみ上げてから玄関へと向かう。
靴を履いて、外に出る。
盗まれるものは何もないが、一応鍵だけはかけておく。
悠二の部屋は二階部分にあるため、階段を使って一階へと下りる。
通路を歩いている際、同じアパートを利用している人とは会わなかった。もしかするとここに住んでいるのは自分だけなのではないだろうか、とあまりにも静か過ぎる辺りの様子に思わずそう考えてしまった。とはいえ、余計な騒音や気遣いに悩まなくても済むという点においては運がよかったのかもしれない。
アパートから最寄の駅までは歩いて数分を有した。
家を出た時間と照らし合わせると、遅刻する心配はないようだ。
すでに用意されていたものの中には、駅を利用する定期券もあった。ご丁寧にも定期入れの中に納められていた。それをポケットの中から取り出し、駅員に見せて改札を抜ける。天気予報の通り、空は晴れており、太陽が顔を出している。時折頬を撫でるように吹く風の感触があった。
再び風が吹く。悠二はおもむろに手を伸ばし、風をつかもうとする。
だが、虚空を掠めるだけで、風は嘲笑うかのように、悠二の手をすり抜けてしまう。風には形もなければ、感触もない。色もなければ匂いもない。存在を認識しようとしても、形がないものを認識するなどということはできない。
風は形がない。
それでは存在を認識されない。なら、風は寂しいのだろうか。
不意に自分の頬をつねってみる――痛い。
自分には形がある、感触がある。色もあれば匂いもある。それは存在が認識出来ているということ。
形のない風と比べると、形のある自分は認識されるので寂しくはない。
しかし、この場所で自分のことを認識している人はどれだけいるのだろうか。もしかすると、誰一人として自分のことを認識していないかもしれない。
だとすれば、それは風と同じ。
だとすれば、自分は寂しいのだろうか。
ここで始めて声をかけられる。男性だった。内容は邪魔だから早く歩け、というものだった。
どうやら改札を抜けたところで何をするわけでもなく案山子のように棒立ちになっていたようだ。後ろから来た利用客にとってはじゃま以外の何物でもなかったのだろう。
しかし、悠二は少しホッとしていた。それは誰かに認識されたから。
日常を切り捨て、非日常に生きることを決めたが、やはり一人というのは寂しいものなのだろうか。
誰かとのつながりを、無意識的に求めてしまうのだろうか。
それでは、まだどこかで日常を求めているというのだろうか。
共通の目的もなく、ただ列車の停車するホームへと他の利用客とともに向う。
取り囲むようにして歩く利用客たちからの視線を感じる。一様に向けられている先にはブラブラとしてある制服の腕の部分。だらしなくしているのではなく、元々通すべきものがそこにないだけのこと。
そう、悠二の左腕はなく、右腕だけの隻腕だったのだ。