この世界の表、日常は平和だ。
衣食住が満たされ、誰もが人並みの幸せを得られている。
年々あらゆる面で技術が進歩し、人間は生態系の中でも最も優れ他存在になろうとしている。それ以上に、神の領域にまでも手を伸ばそうとしている者たちですらいるほどだ。
街を出歩けば、そこにはさまざまな感情がある。
その中でもやはり幸せという感情が埋め尽くしている。
誰もが幸せを感じており、それに満足せず、さらに、大きな幸せを求めようとしている。
彼らは知らない、世界の裏、非日常を。
そこになど幸せはなく、あるのは飢え、苦しみ、怒り、悲しみ……あらゆる負の感情だ。
飢饉で飢えに苦しむ。
飢えのため、盗みを働く者たちがいる。
我が子に幸あれと思いながら死んでいく者たちがいる。
紛争によって怒りと悲しみが生まれる。
理不尽にも戦いに巻き込まれてしまう者たちがいる。
唐突に家族を、子どもを、恋人を奪われてしまう者たちがいる。
そして、人間の姿形をしていながら、日常の世界から去らざるを得ない者たちがいた。
彼らを“オーヴァード”と呼ぶ。
“オーヴァード”とは、“レネゲイドウィルス”――あらゆる動植物、無機物に感染し、それの遺伝子構造を書き換え、そのものに超常的な能力を発揮させるようにするレトロウィルスのこと――の感染者が肉体的、あるいは精神的に大きな衝撃を受けてしまった時、それが活性化してしまって超人的な能力を手に入れてしまった人間のことを言う。
彼らの存在を知るものは世界を見てみても数少ない。未だに公にされていないのは超人的な力を持つ“オーヴァード”が人間にとっての脅威になりえるかもしれないと、各国が社会の混乱を恐れているからだった。人間は国や人種を問わずに自分とは異なる存在を恐怖し、忌み嫌う傾向にある。もし“オーヴァード”の存在についての情報を一斉に公にしたところで、彼らの迫害は免れず、一般人への報復という名の殺戮の可能性を捨てきれない。
そこで、“ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク”、通称“UGN”と呼ばれる世界規模の組織があり、その組織が“オーヴァード”となった者を保護し、人間社会で一般人と何変わらぬ生活を送られるように支援している。最終的には“オーヴァード”が世界に受け入れられるようにすることを目的としている。また、その組織は“オーヴァード”への支援の他に、その力を自らの衝動に従うままに扱う者たちや“ジャーム”と呼ばれるもはや人間とはいえない、自らの衝動をまったくコントロールできず、理性を失ってしまった怪物、欲望の塊とも言える存在を廃除するという活動も行なっている。
黒崎悠二はその“UGN”の構成員の一人であり、今回このN高等学校にはエージェントとして潜入していた。
今回の潜入の目的は、この学校の生徒の中に最近になって“オーヴァード”に覚醒した者がおり、その人物の特定と保護だった。最近ということもあり、衝動による“レネゲイドウィルス”の活性化はそれほど進んではいないだろうと思われる。
悠二がわざわざ旧校舎の屋上にまで足を運んだのには理由があった。
ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、組織の中だけで使われている番号に電話をかける。何度かのコールが鳴ったところでN市支部につながる、電話に出た担当者に支部長につないでほしいと自分のコードネームを添えて言う。担当者は「しばらくお待ちください」と事務的に言うと一度無音状態になり、数秒して向こうに支部長と思われる女性が出た。
『あら定時報告かしら?』
電話越しに女性の声が聞こえる。
顔は見えないが、昨日の車の中で一度も絶やさなかった微笑が今も顔に浮かんでいると、なぜか分かった。
「そうだけど、手懸かりの一つも見つけていないのに連絡する必要はあるの?」
相手は支部長という上司であり、年上であるが、会話時の口調にはそれほど縛りはない。
よほどのことがない限りは咎められることはないのだ。
『これまで所属していた支部ではそうしていなかったのですか?』
「……していたけれど」
『ならいいのです。それにまだ初日、転校生ということで何かと注目されているのでしょう?
なら、仕方のないことです』
柔らかな非難の言葉に、悠二は間を置いて素直に答える。
組織活動では情報交換は必須だ。例え現状に変化がないとはいえ、定時報告はしなければいけなかった。
確かに転校初日ということでクラスメイトたちに質問攻めにされ、予定していた学校内を歩くということができなかった。
仕方のないこと、という一言で片付けられることならよいのだが。
「まだターゲットの特定はできてない。変化なし、かな」
『そうですか、分かりました。それでは引き続き任務を続行してください』
現在の状況を報告し、最後に「了解」と一言言って通話状態を解除した。
それと同時だった。
ガチャリッ、というドアノブを捻る音に続いて、錆びた鉄が擦れる音が聞こえてドアが開かれた。
ハッとして悠二は背を向けていたドアに向き直り、「誰だ!?」と警戒を強めて叫んだ。
しかし、ドアは開かれた状態であるだけで、そこに誰かがいるわけではなかった。
その代わりに、突然眩しいくらいあった空が曇った。
一体何が――悠二は頭上を見上げるようにする。視線を上げた悠二の視界に入ったのは傘のように広がったスカートとその奥に見える白い女性用の下着だった。
「なっ……!?」
衝撃のあまり、悠二は声を失う。
恥じらいもなく大きく足を広げたまま跳躍していた一人の女子生徒が、その手に棍棒のようなものを握り締めて、振り下ろしてきたのだ。
「この悪党がっ!」
慌ててその場から離脱しようとするも、悠二が行動に移ろうとするよりも先に少女の振り下ろした棍棒の一撃が右肩に叩き込まれ、激痛に思わず顔をしかめてふらついたところを鳩尾に膝蹴りを打ち込まれ、そのままお互いにもんどりうってコンクリートの地面に倒れた。
もちろん下敷きになっているのは悠二で、悠二の上にいるのは襲撃してきた謎の女子生徒だ。
彼女はなおも警戒を解くことなく棍棒の先を悠二の首筋にあてがっている。馬乗りになり、完全に主導権を握っている。
――感覚が鈍ったのか……?
ここに来るまで伺うような視線を感じていたが、まさか彼女だったとは思わなかった。
名も知らない女子生徒であるが、学年は同じ、確か今日の朝列車の中で顔を合わせた少女だ。特に気に留める必要はないだろうとばかり思っていたが、まさか襲撃されるとは思わなかった。
【この、悪党がっ!】
襲いかかると同時に彼女が叫んだ言葉だ。
まさかさきほどの会話を聞かれていた?
しかし、会話の内容からすると怪しまれてもおかしくはない。
表面上は目を白黒させている悠二。そんな彼に尋問するように彼女が話しかけてきた。
「ねえ、さっきの話を詳しく聞かせてくれるかしら?」
「な、何のこと……ですか?」
意志の強そうな瞳から槍のごとき鋭い視線が向けられる。悠二はやや気圧されながらも、なんとかこの場を切り抜けようとしてとぼけるように言った。
「ふざけないで。わたし聞いてたんだから。あなたが映画とかで出てくるエージェントみたいな会話しているの」
――やっぱり聞かれていたのか……。
胸中で舌打ちをこぼす。
エージェントとしてはとんでもない失態である。
彼女が関係のない人間であれば“ノイマン”の能力によって記憶操作をする必要があるが、逆に彼女が“オーヴァード”、今回のターゲットであった場合かなり危険な状況といえる。心のどこかに油断があったのかもしれない。
とにかく適当にはぐらかさなければいけない。
「さあ、洗いざらい話しなさい。何の話をしていたの? 相手は誰?」
「か、家族だよ! お、親に電話してたんだ!」
「家族、親?」
疑わしいというように見てくる。
だが、悠二は今日転校してきたばかりの生徒だ。無事に半日を過すことができたことを伝えていたのだと、自分でも馬鹿らしいと思う言い訳を並べていく。わざわざ旧校舎に来たのも、みんなに聞かれるのが恥ずかしかったからだと。付け加えるようにして、けっして悠二が望んでしたわけではないと。
「ふー……ん」
明らかに疑っている。
何に対しての疑いなのかは分からない。
「なら、どうしてエージェント? みたいな、硬っ苦しい話し方をしてたの?」
「そ、それは……。ほら、この学校の校則は厳しいでしょ? それってまるで秘密結社のセキュリティみたいじゃん。だから、それを掻い潜って連絡を入れる……これってエージェントみたいじゃない?」
一気にまくし立てるようにして言う。
もちろん、悠二にはそんな趣味は一切ない。そもそも事実彼はエージェントなのだ。この学校に潜入しているのだ。
「……ばっかみたい」
にべもなくそう言う。
確かに彼女の言う通りだ、普通の人間が日常でそうしているのなら相当なマニアだろう。
彼女の言葉に腹を立てたい思いはあるが、もっともなことなので言葉もない。
しかし、これで彼女からへんな疑いをもたれて詮索されることがないことを願いたい。
すると、突然どこからか声が聞こえた。
「どうしてさ!?」
男性の声だった。
まるで信じられないと言いたげなものだった。
声が聞こえてきたのは旧校舎の裏庭からだった。
この時間帯、旧校舎同様人気の少ない場所であるから何かをこっそりとするのにはうってつけの場所だった。
悠二と女子生徒はその声が気になり、そっと錆付いた手すりまで近寄り、裏庭へと視線を落とした。
裏庭にある大きな一本の木下に男女二人の姿があった。
女子生徒に迫るようにしている男子生徒。女子生徒の方は気を背にしてしまっているため、逃げ場がないという状態だった。
「どうして俺じゃだめなのさ!? あの時俺と約束しただろ、あれは嘘だったのかよ!?」
ヒステリック気味に、女子生徒の肩をつかんで激しく動かしながら言い立てる。
「わたしは雄一郎くんと付き合ってて……。それに約束って……」
相当強くつかまれているためか女子生徒は痛みに顔をしかめている。
拒絶の言葉を連ねるが、男子生徒は頑として認めようとしていない。
何やら一悶着ありそうな雰囲気がする。
けしかけているのは男子生徒の方であると一目で分かる。女子生徒の方はひどく怯えている様子だ。このまま見ていることもできるが、男子生徒の並々ならぬ気配から、余計な問題に発展しそうだという予感もある。
その予感は悠二だけでなく、女子生徒も同様に感じているようだった。
放っておけない、そう言いたげな表情をしながら彼女は踵を返して手すりのところから立ち去る。旧校舎を出て、裏庭に回ろうとしているのだろうと思った。
そう、思ったのだ。
「ちょっと高そうだけど、いけるわよね」
反対側の手すりのところに向った彼女は、そこから下を見下ろしながらそう言った。
――まさか……。
悠二は嫌な予感を覚えた。
そんな悠二の予感通り、彼女はスカートを閃かせながら、ヒラリッ、と手すりを飛び越えたのだ。あっという間に彼女の姿は悠二の視界から消えた。数秒後、ドサンッ、という地面に降り立つ音がした。
「な、なんてことを!?」
予感は的中してしまった。
悠二は振り向きはしたものの、彼女を助けようと動くことができなかった。
しかし、下からの音にようやく彼女が飛び降りた手すりのもとへと移動して、見下ろす。
すると何ともなかったかのように、飛び降りた彼女は着地した場所から裏庭へと走っていってしまった。
「無茶苦茶だ」
屋上からの飛び降りだなんて普通の人間ならば即死は免れない。彼女が無事であったのはただ単に頑丈だったのか、それとも運がよかったからなのか。もしそうだとしても、彼女の行動には脱帽せざるを得ない。
それとも――
「――まさか、彼女がターゲットの“オーヴァード”?」
彼女が超人的な力の持ち主であるならば、この高さからの飛び降りなど不可能ではないだろう。ターゲットの性別が男性か女性かについては不明なのでけっして否定できないことだった。ならばそのターゲットの特定と保護を目的に潜入した悠二がとるべき行動が自ずと決まってくる。
悠二は辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。
もし飛び降りたのを見られたのならば、次からの行動に支障をきたしかねない。
最大限の注意を払い、同じように悠二も屋上から数メートルある高さから飛び降りた。“オーヴァード”である悠二も無事に着地することに成功し、足を止めることなくすぐさま裏庭へと向う。
「あ、あいつのことが知りたいのならほ、放課後に旧校舎の三年四組の教室に来てくれ」
二つの角を曲がったところでようやく裏庭を見渡せる。
大きな存在感を与えるようにしている木の下に女子生徒を背中に庇うようにして立つ先ほど襲撃してきた少女と二人と対面するようにしてこちらに後ずさりながら捨て台詞を残している男子生徒が見えた。
悠二と同じ第三学年であることを証明する赤いネクタイをしている。襲撃した女子生徒に庇われ、怯えるようにしている女子生徒に対して執拗に迫っていたようであるが、彼の容姿からはとても思い切った行動に出られるような人物とは思えなかった。ひょろりと細木が歩いているような体型。悠二よりも少しだけ高い身長であるが、庇護欲をそそらせるような感じはなく、むしろ情けなさを感じさせる。地味な眼鏡がそれに拍車をかけているようだった。
逃げるようにこちらに向ってくる少年。胸辺りにあるネームプレートには【高山智樹】と刻まれているのが見えた。
彼は角から姿を現している悠二を見て一瞬立ち止まるが、何も言わずその横を走り去っていった。悠二はそんな彼を呼び止めることも、背中を追うこともしなかった。
彼の姿が見えなくなると、怯えていた少女はガクリと膝を折って座り込んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
慌てた様子で、庇っていた女子生徒が同じようにしゃがみ込み、声をかける。
緊張が一気に解けて脱力しているようだ。
いくら彼のようなガタイがよいとは言えない生徒とはいえ、あれだけ脅すように迫られたのだから彼女のようになってしまっても仕方がないだろう。彼女が堂々と物申すような性格でないことも、ここまで問題を拡大させてしまった原因の一つだろう。
「ここで休むよりも、安全な保健室に連れて行った方がいいと思うよ」
「あなた、来てたの?」
目を丸くして彼女が尋ねてくる。
「あれだけ迫られていたのを無視なんてできないよ。それに目の前で飛び降り自殺まがいのことをされたらなおさらね」
「うっ……」
彼女が自分がした行動を内省しているようだ。
彼女一人にだけペナルティが与えられるならまだましも、あの場に居合わせた自分まで巻き込まれるとなるのは御免被る。それに運悪く彼女が怪我をしたり、重体にでもなっていたらどうなっていたことやら。
「もうすぐ昼休みも終わる頃だろうし、とりあえず中に戻ろう」
「そう、ね。ねえ、あなた立てる?」
肩を抱くようにしていた女子生徒の様子を見て、彼女は悠二の提案に対して肯定するように頷く。それから女子生徒を気遣うように話しかける。
女子生徒はやや力なくではあるが、大丈夫であることを伝えるように首を縦に振った。
そして、ちょどその時昼休みの終了を告げる鐘が鳴り響いた。