昼休みが終わり、五時限目が始まった。
科目は数学、予習が前提で授業が進められて行くが、きちんとそれをこなしているカオルにとっては非常に退屈な時間でもあった。
あの女子生徒は大丈だろうか――カオルはふと窓際から空に視線を向けながら考える。
転校生である悠二の提案通り、彼女のことを保健室に連れて行った。精神的疲れからくるものだと、少し休めば大丈夫と保険医は安心させるように言った。
彼女の名前は【弓塚あゆみ】。カオルは彼女の顔を見てもその名前を思い浮かべることはできなかった。社交的であると自負している彼女は普段からクラスメイト以外の生徒たちとも交流を図っている。そんな彼女にはたくさんの友人と知り合いがいる。だが、彼女の名前は頭にはなかった。それに少年の名前【高山智樹】も同様に、だ。おそらく彼女の目に留まらなかっただけなのだろう。気にすることなどない。
それにしても智樹のあの迫りようは鬼気迫るものを感じさせた。
よほど彼女のことを恋い慕っていると、恋愛経験のないカオルにも分かるほどだった。
しかし、頑なにあゆみが拒む態度を示し続けていたこと、智樹の最後に捨て台詞として残していった言葉からして、彼女にはすでに彼氏、恋人がいることが推測できる。しかし、智樹の言葉が気掛かりだった。
『あ、あいつのことが知りたいのならほ、放課後に旧校舎の三年四組の教室に来てくれ』
その言葉を聞いた時の彼女の反応は相当なものだった。
言葉だけから推測するに、彼女の恋人は智樹と何か一悶着あったと思われる。しかし、誰が誰と付き合っているなどという恋愛についての話題を最近耳にした覚えはない。他の友人ならば知っているかもしれない。
ちらりと教卓の方へと視線を向ける。数学担当の白髪頭の老齢の男性教師が教科書を片手に黒板にチョークを走らせている。
こちらに対して背中を向けているので、カオルはルーズリーフの端を切って、それに【弓塚あゆみ】が誰かと付き合っていないか、という短文を書いて斜め前の席に座っている友人に向って投げた。
小さく折り畳まれたそれは無事に友人の机の上を転がり、止まった。
それを手にしながら、チラリッ、と肩越しにこちらに対して視線を向けてきた。
カオルは顔の前で小さく手を合わせてお願いする仕草をする。するとその友人は仕方ないという様に肩をすくませてから、受け取ったルーズリーフの切れ端の短文に目を通した。
切れ端から目を離して、もう一度こちらに疑問を投げかけるような視線を向けてくる。しかし、すぐに彼女も同じようにルーズリーフの切れ端に何やら文章を書き込み始める。それからまだこちらに背を向けたままであるのを見計らってこちらに向って投げて寄越してきた。
机の上にコロリッ、と転がるそれ。カオルはそれを手にとって、開いて見てみる。
[確か一組の【藤堂雄一郎】と付き合ってるって噂があるわ。でも、彼最近学校に着てないらしいわよ。それにしても、どうしてこんなことを?]
流石は新聞部の部長、自分の知らないような噂を知っている――などと感心する。
やはり推測通り彼女は誰かと付き合っていたようだ。
【藤堂雄一郎】……彼は確かサッカー部に所属しており、プレーも優れていながらそのルックスのよさから女子生徒たちからは密かに人気のある男子生徒だったような気がする。一組のクラスが進学ではなく就職希望者の集まりであるため、合同授業でも一組とはなることがなく、話す機械は皆無だったため、ほとんど彼については知らなかった。
二人がどうして付き合っているかなどという野暮なことはどうでもいいこととして、そこになぜ【高山智樹】が間に入ってくるのかが分からない。
それについて何か知っていることはないだろうかと、もう一度切れ端にその旨を書き込み、投げ渡した。
受け取った彼女は嫌がる表情を見せず、何か面白がるような表情をチラリッ、と見せてから紙を広げた。さながら新聞記者が見せる顔だった。
「であるからして、この問題は」
しかし、ここで背を向けていた数学教師がこちらに振り返った。
ちょうどペンを走らせようとしていた彼女の手がピタリッ、と止まる。チラリとこちらを見て、さきほどカオルが見せたように手を合わせて謝る仕草をした。
「それでは問題を解いてもらう。きちんと予習はしているな、うぅん?」
老眼の眼鏡を光らせながら全体を見渡して言う。
こうなっては用紙のやり取りはできそうにない。
詳しいことについては、じっくりと話しができる放課後に持ち越しになりそうだった。
六時限目は移動教室であったためほとんど話をする時間がなかった。
退屈な授業を終え、SHRの終わってからの放課後になっていた。
この時間にあゆみは昼休み同様に旧校舎へと向かうだろう。恋人の安否が分かるかもしれない。そんな一縷の希望を抱いて、あの男子生徒の待つ教室へと。
しかし、それが嘘であったら?
昼休み同様強引に言い寄られるのが目に見えている。おそらく彼女は恐怖から萎縮してしまうだろう。拒絶の意を示したところで、あの男子生徒が簡単に折れるとは思えなかった。最悪実力行使に出てくるかもしれない。それだけは許すことはできない。
とにかく新聞部の部長である友人を呼んで、話を聞くことにする。
あの時一緒に現場に居合わせていた転校生、悠二の姿はいつの間にか見当たらなくなっていた。もうすでに旧校舎に向かったか、薄情にも帰宅してしまったか。
「カオル、それでさっきの続きだけどいい?」
向こうの方から話しかけてきた。
面白そうだと、部活に所属していない友人たちもカオルの机の周りに集まってきた。
新聞部の部長、【鈴村紗音】はやや大きめの分厚いメモ帳を取り出した。
「えへへへ、これネタ帖なんだ」
どうやらそれは彼女が高校に上がってからも続けている新聞部の活動において手に入れた情報やネタを書き記しているものだそうだ。全校生徒の名前や出身学校、現在の所属先や関連する噂などについて細かく書かれていた。やや踏み込んだものもあるらしく、壁に耳あり、障子に目ありだった。
「それで三人の関係だっけ? ええっとね、高山って言う男子生徒と弓塚さんは幼馴染で、お互い近所に住んでるよ」
幼馴染――その言葉から、二人は今と比べて以前は仲がよかったことが分かる。
二人の会話から、幼い頃に何かを約束しているようだった。おそらく恋愛絡み、子どもらしく、将来結婚しようなどとでも約束したのかもしれない。微笑ましい思い出のように聞こえるが、昼休みのことを考えると一概にそうは言えなかった。
「弓塚さんはサッカー部のマネージャーをしているから、多分部活関係で藤堂くんと仲良くなったんだろうね。よく聞くことじゃん?」
確かにそうだ。
おそらく紗音の言う通り、二人が恋人関係になったのは同じ部活に所属しているというのが関わっているのだろう。智樹はというと、特に部活に所属することもなく、所謂帰宅部だった。幼馴染であろうと、二人の間のつながりが薄くなっていたのは否めない。
あゆみにとっての当時の約束というのは、子どもの時の思い出でしかないだろう。しかし、智樹にとってはそうではなかったようだ。今でも彼女のことを恋い慕っているようで、昼休みの一件は自分ではなく藤堂と付き合う彼女に対して怒りをぶつけるというものだったのだろう。女々しいにもほどがあろう。
「高山についてだけど、彼以前警察の世話になってるよ」
「えっ、本当に?」
今回のことも相当であるが、まさかもうすでに警察が出張るほどのことをしているのかと思うと呆れる他ない。
「うん。何でも弓塚さんのことをストーカーしていたみたいで、彼女の両親が警察に連絡を入れていたみたい。すぐに見つかって補導されたみたい。謹慎処分だけで済んだみたいだけど、まだ懲りてないんだ」
そう言う紗音は露骨に嫌がっているようで、眉をしかめている。他の女子生徒たちも気味悪がっている。正直自分も一人の女性としては彼にはこれ以上関わりたくないというのが本音だ。しかし、あゆみが大きな問題に巻き込まれるかもしれないという可能性があるので、ここで関わりを断ち切るわけにもいかなかった。
黒板の上にかけられている時計を見る。放課後になってそろそろ三十分が経とうとしていた。そろそろ旧校舎の方に向かうべきだろう。
そう思い、カオルは椅子から立ち上がり、紗音に対してお礼を言う。
「紗音、色々教えてくれてありがと。今度おいしいケーキおごるわ」
「え、本当!? だったら中央部にできた新しいケーキ屋さんのバイキングコースを所望するわ!」
「分かったわ」
普通なら知りえない情報も教えてもらったのだ、これくらいのお返しは必要だろうと思って言った。
やはり女性というのはスイーツに目がないのか、彼女も目を輝かせながら希望を言ってきた。彼女の言うケーキの新店についてはカオルもちょうど興味をもっていたことなのでちょうどよかった。
他の女子生徒たちも行きたいと口々に言い出す。
なら終末にでもみんなで行こうと約束をすることになった。
おいしくケーキを食べられるよう、今回の問題を解決してしまおう――そう思いながら、カオルは教室を出て旧校舎へと向った。