いつものように授業を受ける。
ああ、退屈だ。
俺はこんな退屈なことをするよりも、もっと大切なことがあるんだ。
前に立っている教師が何かを言っている。
でも、俺の頭の中にはあゆみとの思い出しか浮かんでこない。教師の話なんて、これっぽっちも耳に入ってこない。
どうでもいい……。俺にとっては、どうでもいい話なんだ。
鐘が鳴る。ああ、よく響く鐘の音は俺たちのことを祝福してくれているみたいだ。
担任が何かを話している。
でも、俺の頭の中にはあゆみとの思い出しか浮かんでこない。教師の話なんて、これっぽっちも耳に入ってこない。
どうでもいい……。俺にとっては、どうでもいい話なんだ。
SHRが終わって、俺は席を立つ。
クラスメイトの声など雑音にしか聞こえない。俺は雑音を無視して教室を出る。
向かう先は旧校舎。そこが告白の場所。俺とあゆみが結ばれる場所。誰にも邪魔されない場所。
あゆみは騙されているのだ。洗脳されているのだ。
彼女が自分以外を恋い慕うなどというのはありえないことなのだ。
藤堂雄一郎、あの泥棒はもういない。今頃は当に息絶えているだろう。
人殺しは大罪だ。実際あいつにトドメは刺していないが、致命傷であることなのは間違いない。ならばそれは罪だ。人間としてけっして許されることはない重罪だ。
だが、それがどうした。もうすでに人間の皮を被ったバケモノであればそれは罪ではない、彼女のための救いだ。
俺は彼女を救うために戦ったのだ。俺の前から彼女を奪っていった悪魔を討ち取ったのだ。あゆみは俺だけの姫君なのだ。
俺を待っているのはハッピーエンド。あゆみと結ばれるという最高の終わり。
俺は覚えている。まるで昨日のように、だ。
あゆみ、俺たちは約束したよな。
あの公園でいつものように遊んでいた、あの時。
おままごと、いつも俺はお父さんで君はお母さんだった。
子どもやペットはお人形。
君はよく笑ってくれた。
君の作るご飯はとてもおいしかった。
君はとても優しかった。
そんな君は言ってくれたよね、約束してくれたよね。
『ねえ、智くん。大きくなったらわたしとケッコンしてくれる?』
『うん、いいよ。ぼくも大きくなったらあゆみちゃんとケッコンするよ』
『それじゃあ、約束ね』
『うん、約束。指切りしよう』
『いいよ。指切りげんまん』
『嘘ついたら、針千本の~ます』
『『指切った!』』
あゆみ……、あゆみは嘘はついてないよね。
あゆみ……、俺たちは約束したよね。
あゆみ……、指切りしたよね。
あゆみ……、約束を破ったら――
「――針千本呑まさないと」
俺は向かう、彼女がやってくる場所に。彼女と結ばれる場所に。
それは突然のことだった。
カオルが校舎から旧校舎に続く渡り廊下を走っている時、突然学校全体を覆うようなうす赤色をした結界――“ワーディング”が発動し、生徒や教師たちが脱力するようにその場に倒れて行くのが見えた。
「これは……“オーヴァード”のしわざ? まさか、あいつが!?」
カオルもまた別の理由から胸を押さえながら、地面に片膝をつく形で座り込んでいた。胸の奥から湧き上がる衝動。自分という殻を内側から破らんとして暴れまわっている衝動。
壊したい、壊したイ、壊しタイ、壊シタイ、こワシタイ、コワシタイ……。
理性による制御が利かず、思考が衝動に支配されそうになる。
いつの間にかカオルの手には、鈍い銀色の輝きをした刃のある薙刀が握り締められていた。
「これしきのこと……、普段から鍛えている、のよ」
必死に理性を総動員させ、暴れまわる衝動を抑えようとする。
頭が割れるような激痛、目眩、嘔吐感がカオルを襲う。しかし、彼女はギリギリのところでそれに耐え切った。肩を大きく上下させて呼吸をし、顔には精神的な疲労の色を見せているが立ち上がった。
「三階、だったわね……、変なことをしていたらただじゃおかないわ」
キッ、と表情を引き締めて渡り廊下から旧校舎の中へと入る。
“ワーディング”を発動させるよりも先に人払いの結界か何かを張っていたのだろう。旧校舎の中にはほとんど人気がなかった。この旧校舎だけが学校全体を覆っている“ワーディング”の効果を受けていないようだ。
普通の人間であるあゆみが“ワーディング”の効果で気を失ってしまっていたら元も子もないからだろう。彼女が旧校舎に入ったところで、念には念をということで“ワーディング”を発動させたのだと思われる。
しかし、彼は見落としていた。自分と同じ力を持つ者が、この学校に彼の他に
カオルは昼休み時に悠二を追かけたのと同じように階段を上っていく。今度はコソコソとする必要はなく、一気に駆け上がるようにしていく。三階に到着するとある教室から女子生徒の悲鳴と男子生徒の叫ぶ声が聞こえてきた。前者は弓塚あゆみ、後者は高山智樹のものだろう。
ガラガラッ、と机や椅子が激しく倒れる音が旧校舎に響き渡る。彼らのいる教室が分かり、すぐさまカオルは薙刀を握り締めて向う。
隠れる必要もなく、ガラリッ、と道場破りのごとき勢いでドアを開けた。
時間が止まったように整頓された状態であった教室であったが、二人の間でやはり一悶着あったようで、無残な状態になっていた。
「な、何で動けるんだよ、お前!?」
やはり彼は“オーヴァード”の力をよく理解していないようだ。カオルも人のことを言える立場ではないが、驚愕の表情を浮かべている智樹があまりに滑稽で、吹き出しそうになる。
「理由なんてどうでもいいのよ! それよりも彼女を離しなさい、あなたのやっていることは立派な犯罪よ!」
「う、うるさい、黙れ!」
智樹はあゆみの上に馬乗りの体勢でいた。彼女の制服は無残にも引き裂かれており、その下に隠されていた白い肌と少女らしくかわいらしい下着が露出していた。智樹はあろうことか、彼女の身体をその手で触れ、今にも性的に襲いかかろうとしていたのだ。
恐怖で涙目になりながら、喉の筋肉が硬直しているためか声を出せずにいた彼女であるが、まるで救世主のごとく現れたカオルの姿を見た瞬間、瞳にあった絶望の色の他に希望の色が浮かんだ。
カオルに鋭く指摘された智樹はヒステリック気味に叫んだ。
しかしその間にも、彼の手は彼女の身体から離れない。彼女の柔らかな胸に指が食い込む。
「あなたねえっ!?」
もはや我慢ならないと、カオルは薙刀を構えて走り出した。
普段朝の鍛錬で鍛えられたことが、こんなところで生かされるとは思わなかった。しかし、彼女を早急に救い出さなければいけない。腰高に構えられた薙刀を渾身の力でふりぬいた。
狙いは頭部。逆刃を叩きつけて、気絶させることを選択した。
あまりの速さに智樹は反応できない。
仕留めた!
カオルは手ごたえを感じた。得物を通して感じられる感触。
しかし、それはあまりに硬く、目前の光景を見て瞠目した。
そんな彼女を見て、ニヤリ、と智樹は嘲笑を浮かべた。
「無駄だよ。誰にも俺たちの愛を邪魔することはできないんだ」
カオルが現れたというわずかな希望が生まれたためか、あゆみは暴れるなどの抵抗を試みる。しかし、それは逆に火に油を注ぐかのごとく、智樹の怒りを煽るものになる。
碌に鍛えられていない細腕が振り上げられ、あゆみの左頬を殴る、殴る、殴る。
今度は反対。右頬が殴られる、殴られる、殴られる。
“オーヴァード”である彼の力は大の大人にも匹敵する。その力によって殴られた彼女の頬は痛々しく青くなり、腫れ上がる。
「どうして、受け入れてくれないんだよ。俺の何が悪いんだよ、あゆみ!?」
愛故にか、彼の怒りは凄まじい。否、むしろ彼女を傷つけることが愛することのようになっている。
今度は腹を殴る、殴る、殴る。
胃からせり上がる嘔吐感。
大きく咳き込み、床に胃袋の中身を嘔吐する。消化されずに残ったものと胃液が混ざり合ったものが床に水たまりを形成する。
きれいだった彼女の顔は繰り返される殴打と嘔吐物によってひどく汚れてしまっていた。
そんな彼女の顔を見て彼は醜いとは思わなかった。
「あゆみ、俺を受け入れてくれよ。あんなやつはもういないんだ。俺たちの幸せを邪魔するやつは、もういないんだよ」
彼は笑っていた。
自分が愛する女性がボロボロになっている姿を見て、胸に溢れるのは興奮という感情で、とめどなく溢れるその感情によって頬上気させ、鼻の穴を広げている。欲情し、喜悦の笑みを浮かべている。
「誰にも邪魔されない。俺たちは幸せになれる、幸せにしてみせる、幸せになれ、幸せだと言え」
ゴギッ、という鈍い音が聞こえる。智樹があゆみの顔面を殴り、鼻の骨を折ったのだ。流れる涙と鼻水、鼻血が彼女の顔をグシャグシャにぬらしていく。
もう抵抗することをあきらめ、あゆみは命乞いをし、助けを求めている。
「痛い、痛いよ……。もう、やめて」
「痛い? 俺はずっと前から胸が痛かったんだ。それはお前が俺を受け入れなかったからだ! 約束したよな、嘘ついたら針千本呑ますって」
「あ、あれは……もう昔の約束で」
「嘘をつくのか!? 受け入れろ、俺のことを! 約束だろ!? 俺たち、結婚する約束だろ、あゆみ!」
心身的にも限界にきているあゆみの言葉に、まったく耳を貸そうとしない智樹。
衝動に思考を支配された彼に、もはや理性的な言動は不可能だった。いくら彼女が正論を言おうとも、衝動に駆られた彼はそれを暴論で抑えてしまう。
カオルは何とかして二人を守るようにして展開されている結界を破壊しようと薙刀を振るい続ける。刃が不可視の壁とぶつかり、激しい金属音と火花を散らせる。だが、傷一つ付けられず、刃毀れするたびに新しい得物を能力で作り出し、より硬度のあるもの、より切れ味のあるものを追求する。
二人の会話、否、智樹による一方的な思いの押し付けを聞いて、カオルは何て歪んだ男なの――と彼に対する嫌悪を深める。
確かに約束したあの時から智樹はあゆみに対して純粋な好意をもっていたのだろうと思われる。
月日が経つにつれて、彼の思いは募っていったのだろう。
だが、あゆみの方はその約束は幼い頃の思い出の一つでしかなかった。そんな彼女は、智樹が約束した日から募らせていた思いを知らずに、彼とは違う男性と付き合うようになる。それがいけないことだったわけじゃない。もしカオルが同じような立場に立っていたのなら、そのようにしているだろう。それは思い出の一つであり、恋を知らない子どもらしい行動であるからだ。
だが、彼はそのように考えられなかった。
募りに募っていた智樹の思いがあまりにも重すぎた。彼女が自分とは違う男性と付き合っていることを知った時、月日の数だけ募っていた恋心はひどく傷つけられたのだろう。おそらく彼が“オーヴァード”に覚醒したのはその時だろう。
弓塚あゆみは高山智樹のもの――募りすぎた恋心がひどく歪んでしまった結果、彼の衝動は“加虐”となってしまった。
自らの手によって彼女の心身に傷を付けていく。それが彼にとっては自らの所有物にしているように感じられるのだろう。まるで彼女に対して自らの所有物であると烙印を押すかのように。
目の前で傷ついてく弓塚あゆみ。彼女をそんな目に合わせないためにここに来たというのに。完全に足止めをくらい、ただ指を噛んでみているしかできない。
歯痒かった。“オーヴァード”という超人的な力に目覚め、それが他人にばれてはいけないものなのだと自覚してから十年近くが経っていた。ひた隠しにしながら、心のどこかではこの力を使う日が来るのではないかと思っていた。それが今日なのだと、ここに来るまでに理解した。
だが、結果はどうだ?
情けない――完全なる惨敗ではないか。
ただ二人を覆うようにして展開されている絶対領域を破壊することもできない。
もう何本も得物を作り直してきた。しかし、彼女はあきらめない。ここで手を止めてしまったら、きっと彼女も完全にあきらめてしまう、そう思ったからだ。
壊れなさいよ、いい加減に!
だが、そんな彼女の思いとは逆に、結界はびくともしない。智樹が再び彼女の顔面に狙いを定め、こぶしを振り上げた。
「いい加減にしなさいよ、あなた!」
それを目にし、怒りのボルテージが振り切れたカオルは怒声を上げた。
その声を裏切るように、彼のこぶしが虚ろな瞳をしたあゆみの顔面へと打ち下ろされる。その一撃が彼女の意識を完全に奪い、最悪生命をも奪いかねないものであると直感する。
そして、次の瞬間にカオルの耳に聞こえてきたのは、こぶしが叩き込まれ、頭蓋を砕く音でも、あゆみの死前の声でもなかった。床を穿つようにして現れた無数の槍のように鋭い弾丸の雨によって引き起こされた衝撃と轟音の嵐が教室を呑み込んだ。
UGNから派遣されたエージェントとしてN高等学校に潜入していた黒崎悠二もまた、カオルの後を追うようにして旧校舎へと入っていた。
“ワーディング”が展開され、旧校舎のみが特殊な領域になるように人払いの効果のある結界が張られていることからようやくカオルが今回のターゲットではないと判断する事ができた。
ならば、一体誰がターゲットなのだろうか。深く考える必要もなく、当てはまる人物が一人いた。それはカオルが警戒していた高山智樹である。
あの鬼気迫るような態度は相当だと思っていたが、あれが衝動によるものであると考えれば彼が“オーヴァード”であると判断できる。また、結界など自らに有利な領域を作り出すのは“オルクス”の“オーヴァード”であると考えられる。
彼は最近覚醒したばかりであると聞いているが、どこまで力を使いこなしているかは未知数である。今日の彼の様子からして、侵食が相当進んでいるだろう。覚醒してからの時間が短いにもかかわらず侵食が進んでいるのは、今回の女子生徒との一件が相当彼の心身に衝撃を与えたのだろうと考えられる。
とにかく連絡を入れる必要があると、携帯電話を取り出し、支部長につないでもらえるように伝える。少しして、支部長である女性が電話に出た。
『その様子から、どうやらターゲットを特定したようですね。現在状況の報告を』
「ターゲットは“オルクス”の“シンドローム”をもった“オーヴァード”。現在学校全体に“ワーディング”を展開して、旧校舎に能力を使って領域結界を張っている。生徒、教師は旧校舎外だけれど、一人だけ女子生徒が巻き込まれている。一方的な思慕からの行動だけれども、かなり侵食が進んでいるようで“ジャーム”になる可能性が高い」
『保護は難しいですか?』
悠二はここまでで手に入れた情報を伝える。おそらく向こうでは音声を録音し、データを採取、まとめているだろう。
それは悠二にとってはどうでもいいこと。今彼が求めるべきものは交戦許可。侵食が進んでいる以上、彼の“ジャーム化”は免れないだろう。“ジャーム”になり、そこから正常な状態に戻ってきたのを悠二は見たことはない。データ上にもないことを考えると、奇跡以外には難しいのだろう。その奇跡すらあるかどうかも分からない。
この期に及んで支部長の女性は保護を優先してくる。
難しいことを言ってくれる――それが悠二の本音だった。悠二は彼女の質問に対して無言の返事をする。
“ジャーム”となった“オーヴァード”は文字通り怪物、バケモノである。
UGNにおいて、その衝動や“シンドローム”の種類から、識別するための名前を付けるようにしている。
電話先の彼女も保護は難しいだろうと判断したかのように、小さくため息をつくのが聞こえた。
『……分かりました。保護が難しいと判断した場合、そのターゲットの殲滅を許可します。交戦許可を認めます。そして、ターゲットの識別は“アスモデウス”とします』
悠二は「了解」と短く返事をして通話を切った。携帯電話をポケットにしまい、旧校舎の中へと入る。外とは別の領域となっているためか“ワーディング”の効果は感じられない。おそらく普通の人間である女子生徒を呼び寄せるためだろうと考える。
これまでの任務でさまざまな能力を持つ“オーヴァード”たちと交戦してきた。今回のように自らに有利な領域を作り出す“オルクス”の“オーヴァード”とも当然にある。
彼の衝動がどのようなものなのかは分からないが、何にせよ完全に衝動に思考を支配され、“ジャーム”となってしまえば恋心を抱いている女子生徒であろうと殺してしまうだろう。
一般人が“オーヴァード”の引き起こす事件に巻き込まれないようにするためにUGNという組織は存在している。今回巻き込まれてしまった女子生徒を生きた状態で助け出し、ターゲットを殲滅することがミッションの内容だった。
“オルクス”の“オーヴァード”に対して真正面から戦いを挑むのは愚策だろう。強固な絶対領域とも呼べる結界を生み出すことのできるのならば、それを突破するのは容易なことではない。
彼らは自らの周りは絶対に安全であると意識的にしろ、無意識的にしろ思っていることが多い。確かに安全であるのは間違いないのだが、それが逆に自ら墓穴を掘っていることに気付いている“オーヴァード”は少ない。
悠二は一階の教室のドアをすべて開けて、耳をそばだてる。
“エグザイル”の能力によって聴覚と触角を強化する。全体に響くようにして聞こえてくるようにある音であるが、やり取りが行なわれている部屋の真下がもっとも大きな音や空気の振動が強いだろう。それらを強化した感覚器官によって感じ取ろうとする。
そして、何度か旧校舎を揺るがす音が聞こえてから悠二は整理整頓され、比較的広く見える空き教室へと入る。
この真上のある三階にいるのだろうと判断し、再び能力を行使する。自らの体内に感染している“レネゲイドウィルス”が活性化するのを、衝動が溢れようとしているのを通じて感じていた。
――まだ、大丈夫……戦える。
頭痛、目眩、嘔吐感……さまざまな症状が悠二を襲うが一瞬のことだった。しっかりと足で立ち、戻ることのなかった左腕に意識を集中する。
すると服に隠れている断面がまるで水が沸騰するように泡立ち、錬金術の効果をもつ“モルフェウス”の能力によって金属でできた擬似的な腕を生み出した。制服を引き裂いて姿を現した腕はただの腕ではなく、全体は金属質で鉄色をしており、指は鉤爪となり、手の甲からは伸びるようにしてブレードがあった。
悠二はゆっくりとその異形のものと化した左腕を突き出すようにして天井に向ける。そして鉤爪状の指を圧縮空気によって弾丸のごとく射出した。それらは天井を易々と貫き、圧縮空気が解放されるとまるで破砕槌を叩きつけたかのような衝撃と轟音の嵐が発生し、旧校舎を大きく揺るがした。
それによって天井が大きく崩れ、悠二の視界が一瞬ほこりと煙で灰色に染まる。
天井に穿たれた穴から亀裂が全体に走り、完全に崩壊する。雪崩のごとく瓦礫が天井から降りそそぎ、二階、三階の教室が旧校舎から姿を消す。机や椅子とともに上から崩壊に巻き込まれたカオルたち三人の姿があった。
「痛たたたっ……。もう、いきなり何が起きたのよ」
頭からほこりを被っているカオルは、髪の毛についたのをほろい落としている。
突然の教室崩壊に巻き込まれたことにやや腹を立てているようだ。
悠二の存在に気づき、目を見開くほど驚きを見せる。
「あなた、“オーヴァード”だったの?」
存在を知らされていない一般人らしい問いかけだった。
彼女自身“オーヴァード”の力を覚醒させているようであるが、自分以外の存在と出会ったことがないのだろう。
カオルの腕の中には傷ついた女子生徒の姿がある。ぐったりとしており、気を失っているのがみて分かる。彼女は二人と居合わせていたようであるが、やはり“オルクス”の結界の前には正面突破は難しかったのが分かる。
智樹が覚醒してわずかな日数しか経っていないが、侵食が進んでいるのを考慮すれば経験を無視するほどの力を発揮することができる。しかし、それを完全に制御できているかは分からない。
瓦礫の中に埋まっていた彼が押しのけてむくりと起き上がるのが見えた。飛び出すほどに目を見開かせ、落ち着きなく動いている瞳は血走り、爛々と不気味に輝いている。
カオルは腕の中で抱いていた女子生徒を教室の外に避難させる。廊下に横たわらせ、安静な状態にさせておく。応急処置が必要であるが、使えそうなものは近くにない。
得物である薙刀を構えながら、教室に戻ってきた。
「お前たちも、邪魔するのか? 俺たちが結びつくのを、それほどまでに嫌だって言うのかよ」
「当然でしょ。あなたみたいな
まるで目の前に立つあゆみ以外の人間をすべて敵だと認識しているかのように、怒声を撒き散らす。
二人には智樹の様子が、ほしいものを手に入れられないからと駄々をこねている幼子のようにしか見えなかった。
否、事実そうなのだろう。衝動に任せた言動や行動。ほしいから手に入れようとする、それは幼子がすることと同じこと。
愛するが故に自らの所有物にしたいということで、“加虐”の衝動に突き動かされてあゆみのことを傷つける。
「黙れぇ!? 俺たちの約束を知らないお前に、何が分かるんだよ!? 俺がこんなに愛してやっているのに、どうしてあゆみは俺のことを受け入れてくれないんだよ、おかしいだろ!?」
すでに正気ではない彼に正論を言っても無駄である。逆に煽るだけに終わる。
今の様子を見る限りでも、もはや保護は難しいと判断できる。
悠二はいつでも動き出せるようにと、射出して空洞状になっていた指の部分に再び能力で鉤爪を生み出す。その鋭い爪が、彼の思いを引き裂かんと不気味な音を立てている。
「お前たちはあゆみを奪いに来た悪魔だな?」
「ちょっと、あなた」
「何を言っているんだ?」
乱雑に自分の髪を掻き毟り、自傷行動をした知樹がさらに敵意を濃くした瞳を二人に向けながら憎悪をぶつけるように言った。
落ち着きを取り戻したと思ったところでのその言葉に二人は理解が追いつかず、思わず首を傾げる。
「なら、助けなきゃな。だって俺は、俺はあゆみの
教室だけでなく、旧校舎を越えて、学校全体に響き渡るほどの絶叫が口から飛び出した。
それが憎しみによるものなのか、それとも激痛によるものなのかは分からない。
しかし、絶叫と同時に彼の身体に、明らかに異常とも言える変化が起きていた。見開かれた瞳からは生気が失せていた。四肢は有り得ないあさっての方向に折れ曲がり、ねじり曲がっていた。首がぐるりと一回転し、ゴギンッ、という鈍い音とともに、折れたかのように横に傾げた。手の指が数本はじけ飛ぶ。ボコボコッ、という泡立つような音とともに、彼の身体に黒い泡、空洞のようなものが生まれた。
そして、地の底から聞こえるような声をもらしていた彼の身体が真っ二つに割れた。
まるで高山智樹という殻を破ったかのように見えた。
「何よ、あれ……」
呆然と武器を構えたまま、カオルがつぶやく。
彼女は始めて見るのだろう、“オーヴァード”が完全に衝動に精神もろとも身体の自由を奪われてしまった“ジャーム”となる光景を。
もはや衝動に駆り立てられるがままに力を振るう存在。
どんな衝動を秘めていようとも、最終的に“ジャーム”がとる行動は共通している。破壊行動と殺戮行動だ。この学校全体の人間を殺しつくしても、それは止まらないだろう。学校が終われば、次は市に飛び出して行くだろう。そうなれば“ワーディング”の範囲外となるので、社会の混乱を引き起こす。そうならないためにも、この場でその“ジャーム”のことを殲滅しなければいけない。
そこに現れたのは、もはや高山智樹の姿をしていなかった。
姿形は牛、人間、羊の頭とガチョウの足、毒蛇の尻尾を持ち、その手には軍旗と槍を持っているおぞましい、悪魔と形容するに相応しいものだった。
識別は七つの大罪の一つである色欲を司る悪魔、“アスモデウス”。愛欲によって狂ってしまった高山智樹に相応しいものだった。
「離れていろ!」
戦闘経験もないカオルはこの場では足手まといだった。
悠二はそんな彼女に言い放つと、床を蹴って“アスモデウス”へと走り出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
邪魔だと言われたような気がして、あまり気分がよくない。
さきほどの嫌というほど自分の無力さを感じたばかりだった。
確かに超人的な力を持っているに過ぎず、それを使いこなせているわけでない。
明らかに戦闘慣れしているように見える悠二からすれば、足手まといに見られるのは仕方がないのかもしれない。
だが、ここではいそうですか、と引き下がるほど真宮カオルは潔くはない。
邪魔だと思われるなら、そうならないようにするだけだ。
できる、できないというのではない――やるのだ。
そう思うと自然と力が溢れてくる気がした。ギュッ、と力強く薙刀を構え、床を穿つほど蹴って飛び出した。
先に走り出していた悠二のことをあっという間に追い越し、“アスモデウス”との距離をゼロにする。敵も一瞬で間合いに入ってこられるとは思わなかったのか、反応が遅れていた。弾丸のごとき勢いのままカオルは頭上に上げていた薙刀を力強く振り下ろし、刃でその身体を切り裂いた。
傷からは闇色の泥のような血液が飛び出した。それを見て、彼がもはや人間ではなく正真正銘バケモノになってしまったのだと確信する。
戸惑いなど必要ない――最悪を引き起こさせないために、ここで敵を殲滅するしなければいけないというのが伝わってきた。
三つの頭が一斉に口を開いた。そこからは地獄の業火とも言える紅蓮の炎が二人もろとも教室を一瞬にして呑み込まんと迫ってきた。
カオルに続いて飛び出した悠二が、左腕のブレードを横一線で炎を薙ぎ払うように振った。それによって発生した衝撃波が教室内を蹂躙し、机や椅子、瓦礫といったものを塵芥へと変えていく。不可視の刃の波となったそれが炎を切り裂いていく。
だが、完全に消滅とはいかず、炎は木製であった旧校舎にあっという間に燃え移った。
茶色がかっていた教室内が一瞬にして明るい赤色へと変わった。塗装が変わったのではなく、炎が壁を一瞬にして包み込んでしまったのだ。
強烈な温度変化に、張られていた窓ガラスが膨張し、乾いた音を立てながら粉々に砕け散った。外から入り込んだ空気がさらに炎の勢いを助長させる。
渦巻き、螺旋を描く炎がドリルのように二人に襲いかかる。
脆くなった床を蹴って二人は左右それぞれに回避行動をとる。
それが床を穿ち、火柱を発生させる。天井に容易に達したそれが、圧力によって木製の天井を貫き、あっという間に三階の天井を屋根もろとも吹き飛ばした。
悠二は再び左腕を突き出すように構え、鉤爪を弾丸として射出した。圧縮空気が炎の壁を貫き、敵の身体を矢のごとく貫いた。開いた穴からはどす黒い血液が迸り、苦悶と怒りの声が響く。
毒蛇の尻尾が鞭のようにしなり、カオルへと襲いかかる。それを超人的な反射神経で潜り込むようにして回避すると、頭上を通過するそれに対して薙刀を一閃させ、一刀両断してみせる。噴水のように血を噴き出す。獣のような叫び声をあげながら敵はたたらを踏む。
イケル――!
姿形は悪魔であっても、実力の差は明白だった。それは“ジャーム”となる前の“オーヴァード”の力に比例するからであろうか。
しかし、細かなことは放っておき、とにかくトドメを刺す。
狙いは頭部。
人間であろうと、“オーヴァード”であろうと、“ジャーム”であろうと、頭部を切り離されればどうしようもない。
カオルが構えていた薙刀を横薙ぎに振るった。まさに不可視の一閃とも言えるその一撃を防ぐことはできなかった。一つの頭部が宙を舞った。そのまま二つ、そして、最後の一つに刃が触れようとしたところで、カオルのわき腹に突き刺さるものがあった。
“アスモデウス”が抵抗として振るっていた槍の側面ががら空きになっていたカオルのわき腹を捉えていたのだ。
攻撃に集中していた彼女はその反撃に反応することができなかった。
肋骨に皹が入り、砕けるのを感じた。そのまま弾き飛ばされた彼女は教室の壁に叩きつけられる。木製の壁が勢いよく弾き飛ばされた彼女を受け止めきれるわけもなく、壁を突き破って隣の教室にあった机や椅子をなぎ倒してようやく止まった。
最後の最後で気を緩めてしまった自分を叱責する。
地鳴りのような足音を立てながら近づいてくる敵を、カオルは上半身だけを何とか起き上がらせながら見つめる。
構えられた槍の矛先が、まっすぐに心臓を狙っているのが分かる。
トドメだと言わんばかりに振り上げられた槍が、杭で穿つように突き立てられた。
矛先が肉体を貫き、穿たれた穴からは鮮血が迸る。
カオルの声にならない悲鳴が響き渡る。
殺すはずだった“オーヴァード”が存命であることに、残っていた頭部が瞠目する。
足元に血の水たまりを形成し、そこに片膝をついたのは悠二だった。「ぐっ……」という呻き声をこぼし、激痛に歪んだ顔をうつむかせる。
――どうして……?
カオルは悠二が自分を助ける理由が分からなかった。
――くそっ……。
悠二は胸中で自らの失態に毒づく。
普段の任務であればけっしてとらない行動だった。自分の命は自分で守る、それが当たり前だった。庇うなど自殺行為にも等しいことだった。いくら
だから悠二自身、なぜ彼女のことを助けようとしたのか理解できていなかった。気づいた時には、もうその場を飛び出し、彼女の前に立つようにしていた。心臓を貫かれ、生命活動が一時停止する。だが、彼の身体を侵食しようとする“レネゲイドウィルス”が心臓の高速再生を行ない、再び息を吹き返していた。
「まったく、だから離れていろと言ったのに」
「……」
辟易としながら言う悠二の言葉に返す言葉もない。
唇を噛み締め、必死に悔しさと情けなさに耐えている彼女を肩越しに見る。
しかし、彼女がここまで敵を追い詰めたのもまた事実。
被害者である女子生徒が傷つきながらも生きているのは、カオルがあの瓦礫の中で彼女のことを抱きとめていてくれたからだ。
そのことには感謝しなければいけない。
「でも、おかげで被害は最小限に食い止められそうだ」
そう言って伸縮自在の左腕を突き出し、敵の頭部を鷲づかむと、りんごを握り潰すように力を込める。頭部を捉えている鉤爪をゆっくりと閉じる。
そして、頭部は握り潰され、血肉や脳漿が四散、紅色をした華を咲かせた。