いつもの柳の木の木陰。どれだけ暑い夏でもここだけは変わらず涼しかった。
そして隣に佇む小さなお地蔵様。少女が心細い時はなんとなくここへ来てしまうのである。理由はわからない。でもここに来た時は毎回合掌をしてから手でこすって綺麗にしてあげるのだ。
それから気が向いた時にはいろいろ喋っていた。どうでもいい雑談から、幼い時には自分の村のことまで。
今日も今日とてお地蔵様を綺麗にしてあげる。昨日もきたので汚れはそんなになかったが、なんとなくこする。少女の手はすでにまんまるとしたものじゃなくなっており、スラリと伸びた白い指は大人の女性のそれだ。
それもそのはずで、少女が河原に訪れてから幾星霜。どれだけの夏が来たか数えるのをやめるほど長い年月が経っている。
やることなどない。夜には何度目かの秋に少し遠いところで見つけた小さめの洞穴で寝泊まりし、陽が昇れば河原で水の流れを見続ける。
そんな怠惰な生活を何年何十年と続けてきたのだ。もちろん少女も変わった。身長はだいぶ大きくなり、胸はたわわに実った。着ていた着物はもう羽織る以外に使い道がない。
冬は洞穴にいればある程度あったかいので、身動きせずに冬を越すのだ。でないと寒さで死んでしまう。
だが今は夏だ。痛いほどに陽が照りつける今日のような日は、毎回この柳の下にやってくる。数少ない少女の習慣である。
流れる川をただ見つめるだけの日々。記憶は混濁し、何も思い出せない。というよりは思い出したものがなんなのかわからなかった。
それも無理はない。なにせ数え切れないほど何もない日々が、少女の少ない思い出の上に被さるのだから。もともとあまり思い出したい記憶じゃなかったので、できる限り忘れようとしていたら、両親や自分の名前、なんでこんなところにいるのかさえ忘れてしまった。
少女が思い出す昨日は、果たして本当に昨日なのか。一昨日じゃないのか。もしかしたら去年の夏のとある日なんじゃないのか。記憶を見分ける鍵は、この柳と周りの木の特徴しかない。
少女の煌めく翠眼は光を失い、色褪せてしまっていた。その眼が見るものは木と空と川と地面とお地蔵様のみ。あとは知らない。
少女は一度も動物や妖怪に会わなかったのだ。なぜかはさっぱりわからない。もしかしたら少女が忌み子と呼ばれる所以を第六感で感じているのかもしれない。
ああ、暑い。けど吹き抜ける風は秋の冷たさを持っていた。そして少女は今日もまた同じように過ぎ行く日々を眺めているのであった。
少女は空を仰ぎ見る。風に流される柳の葉っぱに隠された、蒼天の中に雲が浮いている。ゆっくりとゆっくりと流れるその様を見て、なぜか寂しい気持ちになった。
◇◆◇
少女が壊れた。
それは誰の目から見ても明らかだった。瞳からは微かに灯っていた光が完全に消え失せ、柳の木の下から完全に動かなくなったのである。
木の幹に背を預け、虚空を見つめながら固まった少女はどこか置物のようだった。
確かに何十年と変わらない風景の中で過ごしていたらおかしくなってしまうだろう。それも下手に動けない山の中で、である。ある程度開けた場所で、人通りもあればまだ持っただろう。
ただ誰とも喋らず延々一日を過ごすだけ。これで永い時をまともに生きることのできる知能を持った生命体なんて本当にいるのだろうか。
ともかく少女は物言わぬ像になってしまった。雨の日も、風の日も、どんな日だって彼女が動くことはない。一定のリズムで瞬きをし、呼吸によって少しだけ体が揺れる。近くで見ないと生きているかどうかさえわからない。
少女が生きているかどうか分かるのは、一番近くで見ているお地蔵様だけである。
いつもはピカピカだったお地蔵様も少女が壊れてしまってから、苔に塗れ出すようになった。もう一度綺麗になることはないだろう。だが今までの恩返しだろうか。石の目には、絶対に少女を幸せにしてあげるという決意が現れていた。
そもそも地蔵とは菩薩の中の一つであり、仏界では意外と位が高いのだ。上から如来、菩薩、明王、天となる。かの不動明王や毘沙門天、金剛力士よりも位が高く、地獄の閻魔大王と同じ。いくら見窄らしい姿になっても、菩薩は菩薩だ。願いくらい叶えてくれるかもしれない。
もしかしたら、本当に願いを叶えてくれているのかもしれない。
なぜなら、いつの間にか────いつもの場所からお地蔵様がいなくなっていたのだから。
現在の季節は秋。
たくさんの広葉樹が赤に黄色に紫に、染まって山を色付けていた。
◇◆◇
「おーい、ひなー!」
遠くから親友の声が聞こえる。物思いに耽っていた雛は一旦思考を停止し、声の主の方へ顔を向けた。
案の定歩いてきているのは、河童のにとりだ。蒼い髪の毛をツインテールにして、大きな緑のリュックサックを背負いながらよいしょよいしょと川を上ってくる。
やがてにとりは雛の隣の岩に腰掛けた。
「ふぃー疲れた」
手で額の汗を拭いながらにとりが一言。その言葉に雛は「なんでこんなところに?」と聞いた。
「何でって、たまたまここに座ってるのが見えたからさ。赤の中に緑が混じってたら結構目立つよ?」
「へー、そうなの」
自分では知り得ることのなかった事実に雛は目を丸くした。確かに紅葉の中に緑が混じってたら目立つだろう。知らなかった。
そして今度はにとりが質問が質問をする番だった。
「雛こそこんなところでなにやってるんだい。珍しく黄昏てるのが見えたけど」
私が黄昏てるのは珍しいのか。これまた雛の知らない事実だった。結構ぼーっとしていることが多いと自分では思っていたが、他人の目から見るとそうでもないらしい。
「私が
「あ、そうだったんだ。なら邪魔しちゃったね。というわけで最初から説明しておくれ」
………数秒の間を経て。
「えぇっ!」
にとりの言葉を理解した雛が驚きの声を上げる。あまりいい思い出ではない過去を洗いざらい話せというのは酷な話である。だが拒否したところで彼女が引き下がってくれなさそうなのも事実だ。
というか問題はそこじゃない。なぜ最後の最後で最初に戻らなくてはならないのか。もどかしい気持ちが心を覆う。
肩を揺らしながら「いーじゃんかー」とにとりが念をおしてきた。その言葉に根負けして、まあ隠すことじゃないしと割り切った雛は一から話し始めた。
◇◆◇
少女が微動だにしなくなった期間は実に一年とちょっと。季節が一周して、秋になった。固まってから二度目の秋である。
いつどんな時でも地球のサイクルは変わらない。今年も鮮やかに葉っぱが色づき、風が冷たく乾いてきた。
いつもならキレイだなぁと呟く声が聞こえるはずだが、声の主はすでに壊れている。しかし珍しく──否、初めてこの川付近で別の声が聞こえた。
「へぇ……美しいですね。幻想郷に負けず劣らずです」
右手に持った
右側を少し伸ばした緑の髪に、紅白のリボンをつけている。黒に近い青色の服を着ており袖は白。スカートをはいており、誰がどう見てもこの時代の人間でないことは確かだ。
その少女──四季映姫・ヤマザナドゥは辺りをキョロキョロと見渡す。
「おかしい……。この辺のハズなんですけど」
映姫は目当てのものを探して上流の方から下の方まで歩き回る。しかしいくら探しても見当たらなかった。
絶対にここら辺にあるはず。なのに見つからないというのはどういうことだ。
うーん、と腕組み目をつぶり岩に腰掛けながら考えることに集中した。地蔵卒の新米閻魔が言うには柳の木の下にいるらしい。
だがいくら探してもその木が見つからない。もしかしたら場所を間違えたのかも、と思ったが新米閻魔から聞いた特徴にここはピッタリ合っている。
ならどこだろう。もう少し上の方だろうか、目を開けて顔を上流の方へと向けた時に目当てのものを見つけた。
「あった……。くぅ」
なんというヘマだろうか。自分がこの状況を見てしまったら、『そう、あなたは視野が狭すぎる』とかなんとか言って説教し出すところである。
幸いにも自分のことを周囲には誰もいないため、からかわれることもないだろう。
目当てのもの──動かなくなった少女は川の対岸にいた。
そもそもなぜ地獄の閻魔である映姫がこんなところにいるのか。それはある別の閻魔によって懇願されたからである。
その閻魔はごく最近地蔵から閻魔になり是非曲直庁へと配属になった新米だ。映姫自身も地蔵卒の閻魔なのでどこか親近感を覚えたのは確かである。
そんなある日。今日も今日とて人を裁いた後、小休憩をしていた映姫に突然の来客があったのだ。今疲れているんだから帰ってもらおうとすると、なんと来客は件の閻魔である。
映姫は同じ地蔵卒の私に何か質問でもあるのかな? とどこか先輩風を吹かせながら対応しようと画策していたがそんな策は一瞬でチリになった。
赤茶色の短髪イケメンだった新米閻魔は映姫の前にくると同時に土下座。そしてハキハキとした口調で用件を告げた。
『四季様。わたし、どうしても説教してもらいたい人がいるんです』
へ? と映姫が固まった。というか意味がわからない。ただでさえ突然の土下座にわたわたしていたのに、追加でそんなことを言われてしまっては思考回路がストップする。
そんな映姫のことを気にも留めずに新米閻魔は喋り続ける。
『その者、いえその少女はどうやら昔から忌み子と呼ばれていたらしく、おそらく村から追い出されたのでしょう。山奥の誰の目にもつかないはずのわたしの元へ幼い時にやってきました』
どうやら長くなりそうだと判断した映姫は一度口を挟む。
『顔をあげてください。目をそらしながら人と喋ってはいけません』
あえて叱ることで無理やり顔を上げさせる。
新米閻魔も言葉の真意を理解したのだろう。ありがとうございます、と言ってから立ち上がって話を続けた。
『それからその少女はほぼ毎日わたしの元へ来て綺麗にしてくれるのです。たまに自分のことを喋ってくれたりもしました』
その少女、偉いじゃない。会ったことはもちろんないが、ちゃんと躾られて育てられたのだということがわかる。
『ですがそんな日が何十年も続いたある日、少女の心が壊れてしまったのです。一度も動くことなくわたしの隣で呼吸をす──』
『ちょ、ちょっと待ってください。その少女は人間なんですよね?』
とっさに疑問をぶつける。だが自分の言葉に反して映姫自身なんとなく予想はついていた。
何十年も年月が過ぎたのに、この新米閻魔は未だに少女と呼んでいる。ただ昔の呼び方が抜けないだけかもしれないが、少女の姿が大して変わってないということも考えられた。
そこから導き出される答えは──
『少なくとも人間ではありません。ですが少女の昔話を聞いている限り、人間として育てられたようです。多分彼女自身は人間だと思い込んでいたはずです』
なのに何十年経っても大して体に変化がない。最終的に自分が何かわからなくなって心が壊れた、あるいは閉ざしたという結果になったのだろう。
少女が壊れた理由というのはわかった。だがなぜそれを私に。
『四季様に説教していただきたい理由は、……えと』
初めて新米閻魔が口ごもった。映姫にはなぜそこで詰まるのか、なんとなく理由が読めてしまう。地蔵卒の先輩だから話しやすいとか、女性だから親身になって話してくれるだろう、とか。要はこっぱずかしいんだろう。
だが答えは斜め上、というかありえない方向のものだった。
『四季様、は……その、緑髪ですよね。その少女も緑髪なので少しでも勇気付けられるかな、と。も、もちろん他にも理由はあります! なんでも休憩時には幻想郷に赴いて説教をなさっているとか。ですので私なんかよりも説教にも慣れているかと思いまして……』
『……………………………………』
ああそう。そうですか。確かに休憩の時は説教をしてますよーだ。
こめかみ辺りに血管が浮いてくる。頭の中でドクドクと脈打っているのがわかった。
だが映姫だってこんなことでいちいち怒るほどお子様じゃない。全神経を動員して怒りを無理やり抑えた。
『……わかりました。後で場所を教えてください』
『ほ、本当ですか! ありがとうございます!』
それから綺麗に一礼。失礼しましたぁー! という声とともに風のように新米閻魔は走って行った。
それから紆余曲折あって今この場にいるのだが、あの時のやり取りを思い出すと今でも腹がたつ。同時に新米閻魔にいろいろ話を聞いてるだけで「ついに、春がやってきたか⁉︎」などと冷やかしてきた同僚にも殺意が芽生えてきた。
だが今はそんな場合じゃない。足元を流れる清流を見ていると、心も洗われていった。
ふう、と一つため息を吐く。それで心のリセットを完了させると映姫は空中に浮遊した。この浮遊は幻想郷の住民にとっては必須スキルである。
ふわふわと対岸にたどり着き柳の木の下に降りた。そして少女の様子を見て新米閻魔が映姫に頼んできた理由を知る。……これは確かに私が適任かもしれない。
体つきはほぼ大人のそれだが、顔の所々にあどけなさが残っている。きわめつけは少女の今の格好である。全裸の上に小さくなった着物を羽織っているだけ。これじゃあ他の男の閻魔には頼めないのは道理である。
映姫がその少女に近づく。すると少しだけ首を動かし、ハイライトのなくなった目で映姫のことを見上げてきた。
幽霊や妖怪にはない不気味さに身震いするが、今はそんな場合ではない。映姫は少女の眼の前でしゃがみこんだ。
「……あぁ、た。……だ、ぇ?」
どれだけ声を出さずにいたのだろう。声はガラガラで聞き取りづらい。
ただ意識はあるのだろう。声も出したから当然である。
「貴女を助けにきました。とりあえず話をしたいので、水を飲んでください」
そう言うと映姫は是非を問わず少女の両手をつかんで立ち上がらせる。足の筋肉も衰えているのか、ふらりと映姫に倒れかかってきた。
だが映姫もそんなに柔じゃない。自分より少しだけ背の大きい少女を支えるぐらいは朝飯前だ。
何度か転びそうになりながら、ようやく水のそばまでたどり着く。映姫が片手で水を掬い、零れ落ちる前に少女の口へと運んだ。
じゅるっと音を立てて少女は水を飲む。いくら飲まず食わずで生きれるからといっても、実際は喉が渇いたりするのだろう。証拠に、少女は映姫の肩から手を外して自ら川の水を飲んでいた。
その行為が落ち着くのを待ってから映姫は再度少女の脇に首を入れ、柳の木の下へ連れて行く。さすがにこんな一瞬では筋力が回復するはずもなく、少女は倒れそうになりながら必死に歩いた。
目的地に着いた少女はドサリと倒れるようにして座り込んだ。映姫は最初に会った時のように目の前にしゃがみこむ。
「しゃべれますか?」
「うん。だいぶマシになったわ」
さっきよりもクリーンになった声で少女が言う。同時に、少女は見た目に反して少しだけ精神が幼いように思えた。
──まあ、子供の時に追い出されてるんだからしょうがないか。
言葉遣いが荒いような気がしたのだが、少女の人生を
「では本題に入ります。さっき貴女を助けると言いましたよね? ……もし貴女がここから離れたいと
唐突に少女の頭へといろんな情報が入り込んでくる。だんだんとぐちゃぐちゃしてきたので少女は考えることをやめた。
「えっと……。どういうこと?」
少女が首を傾げながら映姫に問うてくる。その様子がなんとも可愛らしかったのだが今は仕事中だ。
服のポケットから映姫はとある手鏡を取り出した。
「少し辛いかもしれませんが、この手鏡を見ててください。貴女の過去が映し出されます」
その手鏡──浄玻璃の鏡を少女に見せる。
すると
また鏡が波立ってくる。すると今度は過去に自分が住んでいた村が映し出された。無邪気に遊ぶ子供たち、それを遠くから見る少女。それを心配する両親。
そう、両親。
生きている両親の姿を見て少女の視界がじわじわ滲んできた。いつの間にか少女が一人になってから、家族でいる時よりも親の存在が大きくなっていた。まさに失ってから気づいた状態である。しかも少女の記憶からは両親の顔が消えていた。それがたった今思い出されたのだ。
涙が止まらない。止めようと思ってごしごし目をこすっても止まる気配がない。それどころかどんどん増えていく一方だ。
そんな少女の様子を見かねて映姫が上着のポケットからハンカチを取り出す。それを使って少女の涙を拭いてあげた。少女はなすがままにされながらもまだ涙が止まらない。
「次、行きますよ」
また少女が答える前に鏡が揺れる。
そこに映ったのはどこか見知らぬ川だった。そのほとりに自分が倒れている。そこへ一人の男の人が歩いてきて少女を起こした。
「これが貴女のヒトとしての始まりです」
静かに映姫は告げた。
その頃にはすでに少女は落ち着きを取り戻しており、しっかりと鏡に映る光景を目に焼き付けている。
そして映姫の言った言葉もしっかり理解していた。
同じように鏡が揺れる。
今度映ったものは一体の雛人形だった。雛人形、そう呼ぶにしては難しいぐらい質素なものだがなぜか少女には分かってしまう。
その雛人形が川を流れていく様子が鏡には映っていた。
「これは流し雛という風習。そして貴女の前世ともいうべき姿です」
淡々と映姫が事実を伝えていく。
その言葉で少女に起こった全ての事柄の辻褄があった。なぜ自分の記憶に幼少の頃が無いのか、なぜ自分の髪が緑色なのか、なぜ忌み子と呼ばれたのか。……なぜ死ねないのか。
なぜなら自分は──
「貴女は人間ではありません」
映姫がハッキリとした口調で少女に告げると、少女の目からまた乾いたはずの涙が溢れ出る。その涙は悲しみなどではない。心から安心した安堵の涙である。
「わ、わた、しは……人間じゃ無い、のね」
声が震える。口元が痙攣してうまく言葉が出てきてくれない。
でも少女の心は安らかだった。今までは一人で抱え込んできた。自分は何か、という永久に答えの出ない問いかけを。
それがたった一人、ちょっと前にやってきた見ず知らずの人に助けてもらったのだ。自分一人ではあってるかどうかわからなくて不安だった答え。故にずっと悩み続けていた問題。目の前の女性はそれをあっさりと解き、しかも明確な理由もつけてくれた。
これで少女は人間という言葉のしがらみから解放されたのである。
「そう、貴女は自分を人間だと信じすぎた」
突然映姫の声が刺々しくなる。それと同時に少女も肩を強張らせた。自然と涙も止まる。
「貴女は自分を人間だと信じることで心を壊した。人間だと信じきっていたから忌み子として扱われたときに悲しくなった。貴女の罪は一度たりとも自分を疑わなかったことです。もちろん、両親にそんなことを話しても聞く耳は持ってくれないでしょう。他の誰かに言ったところで解決する問題ではありません。ですからこれから──」
一度映姫は言葉を区切った。一呼吸の間を空けて強調するように言う。
「人外として胸を張って生きること。これが貴女が積める善行よ」
「──はい」
ただの言葉のはずなのに胸に打ち付けてくるように響いた。それはまるでお湯をかけたお餅のように、縮んで固まった心をふやかし温めていった。
「まだ話は終わってませんよ」
少女はまた溢れ出した涙を目をごしごしこすって無理やり涙を止める。少し強めにこすりすぎたようで目尻が赤く腫れてしまっていた。
少女の翠眼がしっかり映姫の顔を見ていることを確認して話を続ける。
「ここからが本題です。貴女は人間で無いことがたった今わかりました。そして人外として胸を張って生きなくてはなりません。それで……これからどうするんですか?」
いきなり問われて少女は答えるのに困ってしまう。そんなこと言われたってわからない、顔がそう言っているのを映姫は見てから言った。
「行き先、無いんですよね? では妖怪や妖精の存在が当たり前のように認められ、なおかつ人間とも関係を持つことができる世界──幻想郷へ来ませんか?」
◇◆◇
少女──否、鍵山雛。それが映姫から与えられた新たな少女の名前だった。もともとの名前はあったはずだが、映姫は教えてくれなかったし雛自身知りたいとも思わなかった。
そして雛は自分の種族も同時に教えてもらった。〝厄神〟というのが雛の種族である。
雛人形から厄神になることは非常に珍しいらしく、映姫も雛の種族を浄玻璃の鏡で見たときに驚いていた。
具体的に厄神とは何をすればいいのか雛が映姫に問うと、自分の能力──厄をため込む程度の能力で人間の方へ厄がいかないようにし、そうして溜まった厄を定期的にやってくる神様に渡せばいいのだという。
この能力。雛は生まれながらにして持っていたらしく、溜め込んだ厄は周囲の人に不幸をもたらすのだという。だから雛は忌み子として扱われていたのだ。納得がいった。
ちなみに映姫は、白黒はっきりつける程度の能力を持っていて、厄などという曖昧なものは効かないらしい。
そのあとに映姫が自分の自己紹介を怠っていたことに気づき慌てて自己紹介をされた。
なんでも映姫は地獄の閻魔様らしく、休憩時間の合間を縫って説教しに来てくれたらしい。なんともありがたいことである。
でもそんな閻魔様がなんで私なんかのことを。それも映姫は答えてくれた。雛がずっと綺麗にしてきたあのお地蔵様。いつの間にか新米閻魔として映姫の下で働いているそうだ。その閻魔が映姫に直談判してきたため根負けした、というのをうんざり顏の映姫から聞けた。
「では、そろそろ行きましょうか」
映姫が雛へ手を差し出す。雛はその手を借りて立ち上がり、フラフラになりながらくるりと意地で回って見せた。
どんな時でもこれを欠かすことはできない。厄神になってからほぼ毎日回っていたが、だいぶ期間が空いてしまったのはこれが初めてだ。目に映る光景が瞬く間に過ぎていくのが懐かしい。
「? どうして回ったんです?」
だがそんな習慣も他の人からしてみればよくわからない行動にカテゴライズされる。映姫もその例にもれず不思議に思ったようだ。
「これは、私の習慣っていうか……癖なのよ。回るのをやめたら、私が私でなくなるのと同義よ」
柳にもたれかかりながら雛は言う。
雛が回り始めたのは人型になってから。つまり自我を持ってからずっとである。人間であっても厄神であっても雛は雛だ。種族が変わったから、名前が変わったからといって何かを変えれば、それはもう雛という存在では無い。故に以前と同じように過ごす。
「ちょっと、長居しすぎちゃったわね」
名残惜しそうに雛は柳の木を見つめる。
初めて見たときよりも幾分か大きくなっている気がした。それだけの間雛はこの木の下にいたのである。それはちょっとどころでは無い。
ざわざわと別れの挨拶をするように、柳は色付いた葉っぱを揺らした。
それを見て雛の中で何か踏ん切りがついたのか、鮮やかな炎が宿った翠眼で映姫を見る。
「決心がついたようですね。では改めて──幻想郷へようこそ」
差し出された手を握る。
すると視界がとんでもない速さで移り変わっていった。
「────」
柳の木の下にはもう誰もいない。
何十年と続いた光景は、たった一日だけで終わりを告げてしまった。山の木々は寂しそうに葉を散らし、柳は別れを惜しむように風に揺られた。
◇◆◇
「はい、終了」
ふう、と雛は一息吐いた。
自分の中で思い返すのは簡単だが、それを人に話すとなると倍以上の労力が必要だ。鈍い痛みが頭を駆け巡る。
「へぇー。雛ってそんな方法で幻想入りしたんだ。じゃあいっつも説教してる閻魔様と顔見知りなの?」
「ええ、というより彼女が私を幻想入りさせてくれたのよ」
ほえー、とにとりが感嘆の声をもらす。
確かに幻想郷の住民にとって映姫はやりづらい相手だ。閻魔様だから下手に強気に出れないし、そもそもあの八雲紫でさえ逆らえないという。
『──ですから魔理沙さん! やっぱりロボアニメの鉄板は【当たらなければどうということはない】か、【あなたと合体したい……!】とかありますけどなんだと思います⁉︎ 私はやっぱり【逃げちゃダメだ】だと思いますっ』
『……早苗。私に会うたびに同じこと聞いてないか? っていうのを前もやった気がするぜ……』
唐突にワイワイと賑やかな声が頭上を通る。
上を見上げてみると、真っ赤な紅葉の隙間から二人の人間が見えた。人間の魔法使いである霧雨魔理沙と、新しく山にやってきた神社の巫女である東風谷早苗である。話している感じからして早苗が一方的に喋り倒しているらしい。
「賑やかだねぇ……」
にとりがしみじみと言った。確かにそうだ。
雛自身は魔理沙とは顔見知りだが、早苗とはこちらが一方的に知っているだけだろう。……もちろん魔理沙との出会いも思い出したいものではないが。
なぜなら早苗が起こした異変を解決するために、魔理沙によって巻きぞえのような形でコテンパンにされたのだ。今思い出しているだけで頬が引きつる。
「どうしたの雛。顔が引きつってるけど」
「…………なんでもないわよ。早苗に親近感を感じていただけだから」
ありのままを言うのは憚られたので、とっさに口から別の言葉が滑り出る。「ほんとにー?」とにとりが怪しんでくるも、実際そう思っていたのは確かだ。
あの髪。緑の髪は誰にでも気味悪がられるだろう。妖怪なんかが忘れ去られた外の世界では特に。それでも元気に生きている姿を見ると、自分も周りに助けてくれるような人がいればあんな風になれていたのかなと思ってしまった。
隣ですっと息を吸う音が聞こえた。
「ちはやぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは──」
唐突に流れるような声でにとりが歌を詠んだ。六歌仙の一人、古今和歌集の中でも特に有名な在原業平の歌である。
様々なことが起こっていたという神代でも聞いたことがないくらい川に浮かぶ紅葉がくくり染めのようで美しい、という歌だ。まさに今雛たちの目に映る景色とぴったりである。
「在原業平ね」
「そうだよ。昔の人はスゴイよね。この景色をたった三十一音で見事に表してんだから」
風に吹かれて宙を舞う紅葉を眺めながら、雛はため息をついた。
「なら私も」
すうっと大きく息を吸う。すでに肌寒いでは済ませることができなくなってきた空気は、肺に入ってきて痛みが生じる。
「道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちとまりつれ──」
詠んでから涙が出そうになった。
「おっ、西行法師だね。んー……でもなんで?」
にとりの疑問はもっともである。業平の歌はこの時期にぴったりの歌だが、西行の歌はそうじゃない。雛の詠んだ歌は夏のとある日、柳の陰で休んでいたらいつの間にか涼しくてつい長居してしまったという歌である。
どうも季節外れだ。
「言わないわよ。言うわけないじゃない」
恥ずかしそうに雛はそっぽを向く。
それから雛はずっと座っていた石から飛び降りた。河原にスタッと着地、そしていつものようにくるりと一回転。
──わざと分かりにくくしたのに、自分で答え合わせなんて恥ずかしいじゃない。
今日も今日とて彼女は回り続ける。なぜなら彼女は────
──────────鍵山雛、なんだから。
「あだっ」
「……珍しいね。回りすぎで雛がコケるなんて」
今日も幻想郷は平和です。
閲覧ありがとうございました。これにてこの作品は完結しました。
……ただ、毎月17日は雛の日らしいので、12月17日にあとがきという形でもう一話投稿します。おそらく何の面白みもないですし、本編に関しても大したことは書かないつもりなので、読後感を大事にされたい方はこのお話を読み終えた後、次話に進まないでください。