シルヴィが風邪をひいた、そんな単純な話では済まなかった。
事の発端は起床時だった。朝起きると、自分の部屋の前でシルヴィが倒れていた。驚いたのは一瞬、直ぐに容態を確認する。呼吸はある。まず少し落ち着けた。取り敢えず彼女の部屋に運び、ベッドに寝かせる。呼吸が荒い、そして高熱。先ずは体温計とタオルを持って来なければ。高熱のせいで汗が凄い。このままでは体温も奪われるし、脱水症状も起こしかねない。
診療所からそれらを取ってこようとした際、服を引っ張られる感触があった。シルヴィが俺の服を掴んでいる。目を覚ましたわけではないようだ。そっと手を外し、その手を握る。
「大丈夫だ。大丈夫。直ぐに戻る。」
急ぎ診療所に行き体温計や聴診器、血圧計等の必要な機器を持ち出す。薬瓶は何の病気か解ってから持って行こう。後は診療所の入り口に臨時休院の張り紙をして…。よし、戻ろう。
家に戻った。相変わらず熱が酷い。測ってみると40度近い熱だ。呼吸もどこか苦しそうで、先程から咳を繰り返している。咳は何処か粘着質な音を含んでいる。痰が絡んでいるのか…。
軽く触診をしていると、シルヴィが薄っすらと目を開けた。目が覚めたようだ。
「ごしゅじん…さま…?わたし…?」
「おはよう。気分はどうだ?」
意識ははっきりとはしていない、が少し問診をしておこう。
「いき…が、くるしい…です…。あと…からだ、があつ、いです…。」
急に喋ったからだろう、ケホケホと咳き込む。そんなシルヴィに吸飲みでそっと水を飲ませつつ、出来る限り優しく声をかける。
「ゆっくりと喋るんだ。そうすれば咳き込みにくい筈だ。他にあるか?」
「…のどに…なにかはりついている、かんじが…きもち、わるいです…。だる、いかんじ、も…。」
痰と倦怠感か…。恐らくはあれだろう。
「何時頃からそうなったか分かるか?」
何かを思い出そうとするように、シルヴィは眉根を寄せる。
「よなか、に…といれにいって…そのかえり、に…きゅうにだる、くなったような…」
そして廊下で倒れたのか。
「そうか、分かった。今日一日は側にいるからな。」
それを聞いた直後シルヴィは目を見開き起き上がろうとする。慌ててそれを止めそっと寝かし直す。
「だめ、です…!ごしゅじん、さまは…おしご、と…が…!わたし…はへい…きです…から…!」
語気を強めたからだろう。それまで以上に咳をしながら、それでもシルヴィは自分の優先度を下げさせようとする。
「俺の職業は医者だ。こんな"患者"を放って置けるわけ無いだろうが。診療所は臨時休診だ。いいから寝て居なさい。」
無理に起き上がろうとしたからか、何かを言おうとしてもその気力が無いようだ。
「大丈夫だ。大人しくしていればすぐに治るさ。」
「は、い…。もうし…わけ…ありま…せ…。」
「お前が謝ることではない。さて、少し薬を取ってくる。すぐ戻るから安心して寝てなさい。」
「は…い…。」
俺が診断した結果は、恐らく肺炎。軽い風邪にかかったのが悪化したのだろう。家に来てからは毎日風呂に入れ衛生状態を保たせてはいたが、その前の環境は言うまでもなく最悪だ。傷が化膿してないのが信じられないレベルだった。
手元にある抗生物質はペニシリン系の物だけだ。解熱鎮痛剤と鎮咳去痰薬と共にそれを持って行く。軽くだがカルテを書いておくのも忘れない。現状のメモを取っておかなければいざという時に困るからだ。
戻り、寝ているシルヴィをそっと起こして薬を服用させる。まだ、何かを言いたそうではあったが視線で黙らせる。こういう時は役に立つ顔だ、と少し自分の顔の評価をあげた。
その日はつきっきりで看病した。食欲は無いと言ったが、薄味の野菜スープを作り少しでも飲んでもらった。栄養を取らないのは余計に症状を悪化させる。
次の日、目が覚めると、俺は椅子に座りながら彼女のベッドに向かって頭を垂れていた。どうも看病したまま寝てしまったようだ。シルヴィを見ると、昨日と比べては改善しているように見えるものの、まだまだ回復には程遠く感じる。
肺炎は短くても数日は治るまでにかかる病気だ。理解はしていても早く治ってほしいと思ってしまう。そっとシルヴィの汗ばんだ額を撫でる。
診療所は暫く臨時休診にしなければならないだろう。幸い、近くに知り合いの医院がある。急ぎの患者は紹介状を書いてそっちに向かわせよう。
3日が経った。
快方に向かっていたシルヴィの容態が急激に悪化した。体温が40℃を越え、苦しそうにあえいでいる。薬を飲むことすら出来なくなり、急遽在庫のほとんどない点滴薬を取り出してきた。
昨日3時間ほど目覚めたきり、意識は戻っていない。このまま目覚めないのではないか、最悪の未来が頭をよぎる。嫌な想像を振り切る為に一度彼女の部屋を出て、冷水を顔に浴びた。徹夜の眠気で少々おかしくなっていた頭が冷える。
俺は医者だ。だったら、彼女を今治せるのは俺しか居ない。最悪は考えるな。最善を尽くせ。そう自分に言い聞かせる。何が何でも救ってみせる。だってそうだろう?ようやく彼女は自由を手にしたんだ、ここで死なせてたまるものか。
大量の汗で役に立たなくなっている服をそっと脱がせる。体を拭いてやり、乾いた服に着替えさせてやる。その際、シーツも一緒に取り替える。やせ細り血管が浮いた腕に点滴用の針を刺す。ブドウ糖輸液の袋を取り付け、投与速度を調節する。栄養と水分が補給されれば状態は多少改善するはずだ。解熱剤は錠剤の物しか無かった。気がついた時に飲ませよう。
そう多くはないがやれることはやった。だからといってその場を離れようとは思わない。額に手を当て、そっと撫でてやる。苦しそうな顔が少しだけ緩んだ気がした。
「生きてくれ…。」
思わず弱音が零れ落ちる。昨日俺が町に連れて行ったのは間違いだったのだろうか。連れていかなければ、ここまで悪化しなかったのかもしれない。後悔した。でも、シルヴィは昨日、「楽しい」と、そう言ってくれた。あれは偽りではなかったと思う。俺は正しかったのか、間違ったのか、分からなくなった。そっと点滴をしていない方の手を握る。
日が暮れ、夜が来ても、飯も摂らずその日はずっとシルヴィの手を握っていた。
…鳥のさえずる声がした。陽の光が部屋に差し込んで…太陽!?
「はっ、シルヴィ!?」
寝てしまっていたのか。いや、今はそれどころじゃない。シルヴィはどうした。頭をあげる。彼女は…寝ていた、とても穏やかな顔で、静かな寝息を立てながら。それを見て、峠を越したことを理解した。理解して、体中の力が一気に抜けた。
「はは…ははは…。生きてる…生きてる!」
笑いが止まらなかった。涙も、止まらなかった。
「ん、むぅ…。…ごしゅじん、さま…?」
シルヴィが、目を開く。どうやら煩かったようだ。
「あれ、だるく、無い…。あつく…無い…。」
意識が鮮明になるにつれ、シルヴィは体が楽になっていることに気がついたらしい。上体を起こし、そして俺が居ることをようやく理解する。
「ご主人様…?なんで、泣いてらっしゃるのですか…?」
俺が泣いている事に困惑している。堪らず、彼女を抱きしめる。強く、強く。
「良かった、良かった!助かって良かった!」
まるで子供のように泣いた。泣きながら、容態が悪化していたことを漏らしてしまう。死んでしまうのではないか、そう思った事も、全部。
そのうち、シルヴィの頬にも透明な水が伝う。
「何で、ですか…?何で、そんなに…優しいんですか…?」
何でか?そんなもの決まっているだろう。いや。ああ、そうか…。いつからだろう。いつから君を…。
「君が、大切だからだよ…シルヴィ。」
最初はただ、見過ごせなかった。怖がられたが、距離を取られたが、それでも見過ごせなかったのだ。それがたった2週間で、こんな大切な存在に変わっていた。
撫でている時にほんの少しだけ見せる戸惑いが、面白かった。
役に立とうと必死に働いている姿が、健気だった。
この前初めて見せてくれた微笑みが、可憐だった。
楽しかったと言ってくれたその言葉が、嬉しかった。
そして、失いかけて、とても恐ろしかった。
気が付くとシルヴィも嗚咽を漏らしていた。
「私は…奴隷です…。」
彼女はぽつぽつと言葉を吐き出す。
知っている。
「私は…虐められてきました…。」
知っている。
「私は…温もりも、優しさも…知りませんでした…。」
知っているさ。
「私は…怖いんです…。温もりが、優しさが…怖いんです…。」
そうさ。知らないものは、なんだって怖いだろう。
「受け入れても…裏切られるかも知れない…。」
裏切るものか。ああ、絶対に…。
「絶対、裏切るものか…。例えお前に裏切れと言われようとも…!絶対に、裏切るものか…!」
彼女が震えた。
「信じて…いいですか。」
「ああ、信じろ。俺は絶対に、お前を幸せにしてみせる…。」
だから…。
「怖いなどと、悲しいことは…言わないでくれ…。」
シルヴィの泣く声が一層大きくなる。つられるように、俺も声をあげて泣く。
そのまま、夕刻になるまで二人して泣き続けた。
今思えば、肺炎にしてはやけに治りが早かった。もしかするとあの悪化は急激に快方に向かうサインだったのかもしれない。俺は診療所の椅子に座りながらそう考える。
シルヴィが来てから2ヶ月が経った。すっかり治った彼女は表情が明るくなり、色々な事に積極的に取り組むようになった。彼女曰く
「こういうことの積み重ねが、きっとご主人様を助けることに繋がると思うんです!」
事実、1ヶ月足らずで、数学の分野では加減乗除を覚え1次関数の域に、言語の分野では中学生くらいの読み書きは普通に出来るようになっていた。今では診療所の手伝いもして貰っている。
「次の方どうぞー。」
診療室から受付を覗くと、シックな色合いの看護服に身を包んだシルヴィが薬を渡して代金を受け取っている。因みにあの看護服は例のオーレリアの服屋で手に入れたものだ。
「そういえば、診療所をやっているとか…。いえ、他意は無いのです…。ですが丁度いい生地が手に入りまして…。一着、こういう物を作ってみたのですが…。」
アヤシイ微笑みとともに渡されたのがそれだ。しかも買い付けではなく自分で制作したものときた…。全く、GJと言う他無いではないか。彼女に最高に似合っている。
診療が終わり共に家に帰る。今日も精一杯働いてくれた彼女に感謝し、膝の上に乗せて撫でる。最近はこの撫で方がしっくりきている。
「えへへへ…。」
目を細め、少々だらしない声が出ている彼女を見ているだけで、俺の疲れも吹っ飛ぶ。
「ご主人様、今日も1日忙しかったですね。」
「そうだなぁ。」
シルヴィが看護婦になってから、確実に診療所は患者が増えている。まぁこんな可愛い看護婦がいれば俺も行かざるを得ないので気持ちは分かるが。
「ご主人様。」
「なんだ?」
「なんでもないです。えへへ。」
「そうか。」
最近、不意打ちで顔を見ても、驚かれることが無くなってきた。いい兆候かもしれない。
「大好きです、ご主人様。」
そう言ってくるシルヴィを優しく撫でてやる。
「ああ、俺もだよ、シルヴィ。」
「でもやっぱり、まだちょっと怖いです。」
「アッハイ…」
ご主人様悲しい。
もうちょいとこのシリーズ書けそうな気がする。