覚えているのは深緑の拳と言葉。
「お前は違う!」
何かを否定するような言葉と共に繰り出される一撃。それから先の事は覚えていない。
いや、思い出せないという事が正しいのだろう。
気が付いたら彼は広い部屋にいた。
周りを見れば豪勢な机や家具が置かれている。
果たして、これはなんなのだろう?
自分の部屋か?
彼は周りを見渡しながら立ち上がる。
ぽとりと何かが落ちた。
「これは」
男は落としたものを拾う。
それは身分証明だった。
湊警備府提督:水瀬隼人。階級少佐。
名前の横に映っているのは整った顔と外側へはねている癖ッ毛。おそらくこれが自分なのだろう。
「水瀬、隼人…それが俺の、名前か」
「俺は、俺は…誰なんだ?」
再びここへ戻る。
仮に提督という地位へ自分が就いていたとしても何をすればいいのか。
男は全ての記憶を失っていた。
今までの記憶も、何をすればいいのか。
それらがなくなっていた。
途方にくれていると扉が開く。
誰かがやってきたようだ。
振り返ると綺麗な少女が立っていた。
纏っている服は巫女服と呼ばれる類のモノだろう。袴の部分が短いスカートになっており、細長い足が見えている。頭に黄色と黒のカチューシャらしきものをつけている。そして、なぜか無表情だ。
「司令官、出撃の書類を受け取りに来ました」
「…キミは?」
「出撃の書類を」
同じ言葉を繰り返されて彼は混乱する。
自分は誰だというところに美少女が出撃の書類を、と繰り返す。
出撃?書類?
さらにいえば、司令官とはどういう意味だろう。
困惑している彼へ再度、少女が訊ねる。
「司令官、出撃の」
「あの!」
意を決して彼は話しかけることにした。
「出撃とはどういうことですか……あと、俺は、誰、なんですか?」
その瞬間、目を見開いた少女が拳を構えて襲い掛かった。
戦艦榛名は日課の書類を受け取る為に執務室へ向かっていた。
彼女が着任してからずっと続けている事。本当なら嫌で嫌で仕方がなかったが拒絶すれば他の誰かが引き受けることになるだろう。
それだけは嫌だった。
此処の提督は冷酷無比で無茶な進軍を続ける男。
榛名も秘書艦であり旗艦として何度も戦闘を続けてきてわかった。
提督は自分の事しか考えていない。
二週間という短い期間なれど、榛名は理解してしまった。
本日も出撃やその他の書類を受け取る為に執務室へ向かう。
ふと、何か違和感を覚えた。
その違和感がどういうものか榛名は考えていた。しかし、執務室が見えてくるとその考えを封じ込める。
提督は艦娘に感情を求めない。ただ機械のように動くことを望む。
そうしないと何が起こるかわからない。
扉をノックする。
しかし、向こうから反応がない。
何か起こったか?
榛名は数回ノックをするが反応がなかった。
「司令官、出撃の書類を受け取りに来ました」
そういって中へ入り込む。
中にいる提督はどういうわけか執務机ではなく床に座り込んでいた。
何かあったのだろうか?
そう思いながらも表に出さず繰り返す。
同じように言葉を続けると目の前の提督が言葉を発する。
「出撃とはどういうことですか……あと、俺は、誰、なんですか?」
榛名は理解した。
どういうわけかわからないが目の前の男は記憶を失っている。
全身を激しい怒りが包み込む。
頭がカッと沸騰したみたいに榛名は踏み込んで呆然としている提督の胸倉を掴む。
「ふざけないでください!」
気が付いたら榛名は叫んでいた。
――許せない。
自分たちに無茶な進軍をさせて。
――許せない。
資源消費削減という理由でろくな食事をとらせず。
――許せない。
傷ついた娘達を入渠させず。
――許せない。
自分たちは兵器だと何度も言い聞かせていて。
それを。
記憶喪失という事一つでなかったことにしようとしている。榛名はそれが許せなかった。
彼の胸倉を掴んで叫ぶ。
「記憶喪失になったからなんだっていうんですか!?貴方がやらかしたことは決して消えません!」
「それは一体…」
突き飛ばして榛名は冷たい目でみる。
「教えてあげますよ。貴方が今まで何をしてきたのか」
言いたいことをすべて伝えた少女は冷めた目で彼を見て部屋から出ていく。
残された彼は呆然自失だった。
記憶がないから本当にしたのかという証拠がない。
そう思っていた。
しかし、すぐに証拠がでてきた。
執務の机をあさっただけで様々な物証が出てきた。あの少女が言う通りだった。
男は驚愕する。
それだけでなく、自分の状況や此処について資料がのっていた。
提督と艦娘。
出没する深海棲艦と戦うために組織された鎮守府で活動する者達。それが艦娘であり指揮官の提督だった。
その指揮官に水瀬隼人、つまるところ自分が就いている。
しかし、その職務を半ば放棄していた。
「このまじゃ」
――ダメだ。
男は考える。
ここは重要施設であり彼女達がいないと多くの人が死ぬ。
それを考えた瞬間、全身がどうしょうもない寒気に包み込まれた。
困惑しつつも男は決意する。
今のままだと艦娘達が傷つく。ロクに戦うこともできないまま沈んでしまう。
そんなことを許してはいけない。
なぜか、男は動くことにした。
「そんなことをしても貴方のした罪は消えませんよ」
戦艦榛名という少女は彼の提案を冷めた目で告げる。
わかってはいると男は頷く。
「今のままじゃダメだ。俺がしたという事なら俺が止める…それだけだ」
「只の自己満足です」
「…命令だ。あと、執務室へ艦娘が近づくことを禁止とする」
「元より近づく者はいませんよ。いえ、いますね」
榛名がにこりと微笑む。
しかし、彼にとってそれは処刑宣告をされることと等しかった。
「貴方に恨みを持つ艦娘が数人います。いずれ殴り込みにくるんじゃないですか?ほら」
同時に扉が吹き飛ぶ。
「よぉ、提督。記憶をなくしたそうだな。この木曾がお前に絶望を与えに来たぞ」
木曾を筆頭にやってきた艦娘達が彼へ襲い掛かった。
艦娘が本気を出したら人間など粉々にできる。
しかし、彼女達はあえて全力を出さずに袋叩き。
抵抗することは許さずに彼を殴り続ける。
しばらくして、ニヤニヤと木曾が笑みを浮かべて見下ろす。
「忘れるなよ。お前の罪はこの程度で消えるわけじゃない」
男の頭を掴んで乱暴にたたきつけると木曾達は出ていく。
榛名も無言で部屋を後にする。
倒れた彼は体を起こす。
「これで、良いんだ…きっと、これで」
傷だらけのまま横になる。
過去に自分がやらかした罪がこの程度で消えるわけがない。