IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
『安君、少しいいかな?』
棋院の待合室で不意に声をかけられ、太善は読んでいた新聞から顔を上げる。
そこに韓国トップ棋士の徐彰元が歩みよってきていて、太善は驚いたように立ち上がった。
お互い韓国棋院に所属するプロ棋士だ。
そこまで親しくはないが、面識はある。
『徐先生!?どうかしましたか?』
『いや、どうということはないのだがね。先日のsaiというネット棋士との対局、見せてもらったよ』
徐がネット碁をしているとは思えない。
誰かが太善がsaiと打った対局を教えたのかもしれないと思いながら、
『はは、負けてしまいました』
『いや、私は勝ち負けを言いたいのではない。とてもいい碁だった。それが言いたくてね』
穏やかに徐は微笑み、太善の打った対局を誉めた。
そこに正体不明のネット棋士に負けたという蔑みはなく、純粋に対局を讃えたものだった。
しかし、太善は対局への賛辞ではなく、徐の交流関係について気になった。
徐は日本語を話すことができ、日本棋院の棋士とも親しく交流していると聞く。
『先生は日本の棋士にsaiの心当たりはありませんか?』
『……それと同様のことを君以外にも数人から聞かれたよ』
『では!』
徐はすまなさそうに首を横に振った。
『私にsaiの心当たりはない』
『そうですか……』
「ありがとうございました」と太善が礼を述べると、徐も「すまない」と言葉を残し立ち去っていく。
その後ろ姿を眺めながら、太善はsaiの正体が誰か、知りたいと思う気持ちが徐々に膨らんでいくのを感じていた。
出来ることならもう一度対局したい、と小さな期待を胸に抱いて。
□■□■
森下の研究会の日、弟子の和谷が並べていく棋譜を、森下をはじめ、集まったプロ棋士達もじっと眺める。
「ここで、saiが……ここに」
中盤にsaiが打った中央の一手を置くと、周囲から声があがる。
「これは、唸りますね。四隅の攻防を睨んだいい手だ」
和谷の並べる石を眺めていた白川が、顎に手をあてながら言うと、森下も気付かなかったようで、腕を組み低く唸った。
その様子を伺いながら、和谷は自分の打った碁ではなかったが、得意満面に続きの石を並べていく。
「saiがここに打って、太善が投了っと」
最後の一手を打ち終わり、和谷はようやくそこで一息ついた。
棋譜を全て並べ終わったところで
「安太善の実力は噂以上ですね。でも、相手のsaiは……」
「これだけ打ててアマってことはないだろうけれど、……この一手が打てるんだ。有名な中国か韓国のトップ棋士の誰かじゃないか?」
白川に続くようにして、冴木が和谷にsaiの正体について問いかける。
「saiはJP、日本人としか分かっていません。アカウントを作るとき、日本で作ればJPに出来るかもしれないけど、わざわざそんな手間をかけてまで正体を隠そうとするプロがいるとは思えない」
それに、と言いかけて和谷は口を噤んだ。
一度だけsaiがチャットしてきたときの会話を思い出す。
『ツヨイダロ オレ』
たった一言、それだけの短い会話。
言葉から受ける子供じみた印象と、夏休みに突然現れ毎日のように打ち、夏休みが終わると少しの期間を置いて夜にまた現れるようになったことから、和谷は子供かと思った。
しかし、saiを知っている観戦者たちや、打ったことのあるプロ棋士たちは口を揃えて『子供ではない』と言う。
その理由として、saiの打つ碁に全く『荒さ』が無いことをあげた。
どんなに強い子供でも、その未熟さから必ずどこかに『荒さ』が出ると。
対してsaiの打つ碁は、『荒さ』は微塵もなく洗練された百選練磨の強さ。
すでにネット碁をする者だけでなく、プロの間でもsaiの名前は聞かれるようになってきているのに、一向にsaiの正体に繋がる手がかりは出てこない。
「オレが気になってるのはsaiが誰かってこともあるけど、他にも別にあるんです」
俯きながら和谷は神妙に呟くと、碁盤の上に並べた石を崩し、再度石を並べ始める。
それは先ほど並べた棋譜ではなく
「これは夏休み後半に、塔矢アキラとsaiが打った対局」
和谷が棋譜を並べ初めてさほどたたず、森下が首を捻った。
「これがさっきと同じ人物が打った碁か?」
「はい」
さらに続けて和谷は並べていく。
すると白川も森下と同様の印象を受けたらしく
「うーん……確かに強いんだけど……さっきの安太善の対局より、何か、若干弱く感じますね」
saiが打ったという棋譜が並べられていくのを、集まった誰も口を挟まずじっと注視する。
「そして夏休み初めにオレとsaiが打った対局です」
和谷が並べる最初の数手で冴木があっ、と何かに気付いたようにあっと声を上げた。
「定石が古い?最初のコスミも、秀策のコスミだ」
「そうなんです、打つ碁そのものが現代ではほとんど打たれなくなった古い定石なんです。ここもそうだ。」
石を並べながら冴木に賛同するように和谷が言う。
和谷が最後の一手まで並べると、しばらく碁盤を並べるだけで誰も口を開かなかった。
その静寂を破ったのは森下だった。
「夏休みから安太善との対局までたった数ヶ月。それでここまで打てるようになったのだとしたら、恐るべき成長だな。乾いた砂が水を与えられただけ全部吸収するような速さだ」
「森下先生は、saiに心当たりありませんよね?」
和谷が尋ねると、
「これだけ打てるやつを知ってたら、とっくに研究会(ココ)に引っ張ってきとる」
「ですよね……」
期待してないと言えば嘘になるが、予想通りの返答に、和谷は肩を落とした。
森下のような少し古い時代の棋士が、最近のネット碁に精通しているとはとても思えない。
「もし、このスピードのまま強くなっていったらどうなるんでしょうね」
白川が誰に言っているとも知れず小さく呟くと、森下は持っていた扇子をパチリと音を立て閉じた。
「どんなに強くなろうと頭打ちはいずれ来るだろう、囲碁は1人では打てん。必ず打つ相手がいるんだ」
囲碁は1人では打てない
強くなれるのは自分と同等かそれ以上の相手がいるからこそ強くなれる。
森下の言ったその一言に、和谷は唾を飲んだ。