IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
「真っ黒だな」
院生の対局成績表を眺めていたところに、背後から声がしてヒカルはバッと振り返る。
「塔矢アキラのライバルが2組で5連敗とは恐れ入るぜ」
痛いところを突かれたが、否定できない事実なので言い返すこともできず、ヒカルは口をへの字にして、からかってきた和谷を睨んだ。
今月から院生として参加するようになったが、未だに一度も勝てずにいる。
院生試験に受かった後、ヒカルは院生の対局部屋を見学した。
その際に、口が滑って中学囲碁大会でアキラがヒカルを追って出場してきたことを話してしまったことと、棋院の廊下で「打倒、塔矢アキラ」と言っていたのを和谷が聞いていたことから、ヒカルを塔矢アキラのライバルとからかい半分、揶揄するようになった。
アキラに勝ったのは佐為が打ったからであり、院生になったとはいえ、ヒカルの現状は2組の最下位。
初めこそ注目されていたヒカルも、今ではすっかり入りたての院生にありがちな戯言として片付けられている。
「あ!分かった!将棋かなんかのライバルってことだな!」
「だいたいお前は何位なんだよ!?」
1組の対局成績表を手に取り、ヒカルは和谷の名前を探すが、
「1組の6位……和谷って強いんだ……」
「2組のどんケツと比べりゃな」
2組最下位のヒカルとは正反対の好成績に、ヒカルの頬がヒクヒク痙攣した。
――気にしない、気にしない。ヒカルはヒカルです。ちゃんと力をつけてきてますよ
和谷の成績にショックを受けるヒカルを、佐為が懸命に励ます。
毎日ヒカルと打っている佐為には、少しづつ着実に力をつけているのが分かるのだが、やはりその力が成績に反映しないことには、ヒカルには実感しにくいだろう。
とにかく今は一局でも多く打って力をつけていくしかない。
2組ではあるが、これまで打った院生の者達の実力は、決して遠くないのだから。
「でも、それでも和谷は塔矢には2連敗かぁ」
「うるせぇ、2連敗だろうがお前より俺の方が塔矢に近いんだ!俺だって今年こそは絶対プロ受かるぜ!」
去年のプロ試験でアキラにのまれてしまったことを思い出し、悔しそうに和谷が言い返す。
技術以前に気持ちで負けてしまったことが、一番腹がたった。
「俺も今年こそ受かりたいよ」
2人の背後でため息をつきながら伊角が呟く。
「俺、今年18だから院生でいられる最後の年だもん」
「院生でなくたって30歳までプロ試験は受けれるじゃん」
と和谷。
「歳じゃなくて気持ちの問題だよ。一昨年も去年も、院生1位でプロ試験落ちてるんだ。今年もダメだったら情けなくてやってらんないぜ」
また一つ、伊角はハァと大きなため息をついた。
2人のやりとりを聞いていたヒカルは、そこで初めて院生でいられるのが18歳までということと、プロ試験を受けれるのが30歳までの制限があるのを知った。
しかし、そこでヒカルにふと別の疑問が沸く。
「プロ試験って、何人受かるの?」
「3人」
「え!?」
中学生のアキラが合格できたのなら自分にも出来るはずだ、と漠然と考えていたが、現実的な数字を出され、ヒカルは呆然とする。
たった3人という合格枠に院生を含めた30歳までの強者がしのぎを削るのなら、2組最下位の自分が合格できるのだろうか、とプロ試験合格が途方もなく遠い夢物語のように思えてくる。
「先が遠いな、5連敗」
呆然と立ち竦むヒカルに、和谷が追い討ちをかけるように言った。
■□■□
年が明けた頃を境に、saiのネットに現れる頻度が極端に少なくなった。
とりわけ土日はほとんど現れなくなった。
saiの現実での事情など知りようもなかったが、アキラの中で一つの引っかかりがあった。
緒方が推薦するという形でヒカルは院生試験に合格したという。
となると院生として研修に参加するのは年明け1月からということになり、院生研修日も土日と重なることから、saiがネットに現れなくなったことへの辻褄が合った。
見るたびに強くなっていくsai。
そして、もう1人、ここにきてさらなる強さを手に入れた者が、アキラの目の前にいた。
毎朝の習慣となっている対局を打ち終え、碁石を片付けながら
「お父さん」
「なんだ?」
「ずっとお父さんと打ってきましたが、最近はまたお父さんが一段と強くなったように感じます」
普段は気にすることのない碁笥のふたをすることさえ、アキラがこんなに意識したことは、中学囲碁大会でヒカルを前にし緊張と恐れで手が震えたとき以来だった。
父であり、ずっと碁打ちとして尊敬してきた行洋が強くなることに、決して異論や反論を言うわけではない。
一言で言えば驚きというのが最適だろう。
若い棋士が実力をつけ強くなっていくのとは、一線を画して異なる成長の仕方。
大手合いを含めタイトルをかけた対局の対戦相手も、新しい塔矢行洋に戸惑っているようだった。
対局後、『挑戦している自分こそが、若返った塔矢行洋に挑戦されているようだ』と言ったのは誰だったか。
「……お父さんは誰と碁を打っているのですか?」
アキラの一言に、行洋はピクリと反応する。
ヒカルを通し、佐為と内密で打っていることは誰にも話していない。
店に入るところを誰かに見られでもしたか、それとも気付かないうちにそんな素振りをしてしまったかと、顔には出さず行洋が考えていると、
「最近のお父さんの打った碁を見ると、対局相手ではない、別の何かと打っているような印象を受けるのです」
行洋がもっと強くなるのは喜ばしいことだとアキラは思う。
強くなることで、これからたくさんの名局が生まれていくことだろう。
ただし、行洋1人が強くなるだけで、他の誰も行洋に追いつける者はいない。
たった独りだけ突出した棋士
そんなことがありえるのだろうか、とアキラは疑問に思う。
「アキラは、神の一手がこの世に存在すると思うか?」
じっと行洋を見上げながら言うアキラに、秘密がばれてしまったわけではないのだと安堵しながら、行洋は少し考えて問い返す。
「神の一手ですか?僕は存在すると思います。最善の一手の追求の先にある一手。それが神の一手だと」
問いかけた事とは全く違うことを問い返され、アキラは困惑しながらも答える。
幼いころから行洋の傍らで碁を見続け、神の一手を極めることを目標として切磋琢磨してきた。
「最善の一手の先にある一手。それも確かに間違ってはいないだろう。しかし、私はこの歳になって思うのだが、神の一手は人には打てないからこその神の一手ではないだろうか」
「人には打てない?」
「そうだ。神の一手は神だけが打つことの出来る一手。人には決して打てない」
「では、何故お父さんは神の一手を求めるのですか?」
無意識かもしれないアキラの核心を突いた問いかけに、行洋は目を見開きアキラを見る。
最善の一手の追求が届かない神の一手に到達する唯一の方法というならば
「神が神の一手を打つところを見たいがため、なのかもしれん」
最善の一手を人が追求した盤上に、神が打つその一手を
あの時のように