IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
プロ試験予選初日、ヒカルは見事に外来の対戦相手にのまれ負けた。
プロ試験というものがどういう風に行われるのか全く無知だったことで、外来という院生以外の者も試験を受けに来るとは知らず、いつも打っている院生のメンバーだけだと勝手な勘違いをしていた。
初めて打つ見知らぬ大人、それも髭が生えた大柄の態度が粗雑な相手に、打つ前から完全にのまれてしまい、平常心を失ってしまった。
佐為が見る限り、椿という初戦の相手も、いつもの調子で打てれば決してヒカルが勝てない相手ではなかった。
院生試験を受けたとき、緊張で思うように打てなかったときのヒカルの姿が重なった。
If God 27
「ヒカル、明日お母さん達でかけるから留守番しててくれる?」
冷蔵庫から飲み物を漁っているヒカルに、晩御飯の用意をしながら美津子が明日の留守番を頼む。
しかし、ヒカルはお目当てのジュースを取ると素っ気なく
「無理。明日もプロ試験あるからダメ」
「何?何の試験?」
「碁のプロになる試験」
「……誰が受けるの?」
「俺」
一瞬、美津子は混乱してしまい自分がヒカルと何の話をしているのか分からなくなってしまう。
試験までは理解できたが、その前に『プロ』という単語がついていたような気がしたが、聞き間違いだろうか。
「何を受けてるって?」
「だからプロ試験!!」
「何それ?何言ってんの?子供のお前が?」
初めて聞く話に、美津子は料理をしていた手を止め、ダイニングチェアーに腰をかけた。
「何って、俺と同い年のヤツだってもうプロになってるんだぜ」
「プロ?碁のプロって何よ?アンタそんな話一度もしなかったじゃない」
「そうだっけ?」
本気でそう思っているのか、それとも惚けているのか、とにかくヒカルが碁のプロになるために試験を受けているということだけは、美津子の混乱した頭でもなんとなく分かってきたが、
「お母さん、碁のプロのことなんて何も知らないわよ?」
碁そのものを知らない美津子には、碁のプロというのは未知の世界でしかなかった。
「お母さんは知らなくていいんじゃない?俺がなるんだし」
「あのね、ヒカルが碁に夢中なのはお母さんも悪くないと思ってるわ、でもアンタ期末テスト散々だったじゃない。もう少し勉強したら好きなことやってても母さんだって文句言わないわよ」
「期末テストって、プロ試験受かれば関係ねぇじゃん」
「え?」
「和谷が早く合格してプロになりたいって言ってた気持ちわかるぜ。俺、昨日負けてイライラしてんだ。もう黙っててよ」
「ちょっとヒカル!」
「メシできたら呼んで!」
苛立たしげに2階へ行ってしまったヒカルに、美津子は完全に頭が真っ白になった。
2階に戻り、仏頂面のまま碁盤の前に座る。
その向かいに佐為は腰を下ろし、先ほどのヒカルの態度を嗜めた。
いくら試験に負けて苛立っているというのは分かるが、だからといって母親をあそこまで邪険な態度を取るのは決して誉められたことではない。
――ヒカル、今のは八つ当たりです。お母上に失礼ですよ
――佐為まで、もー。ウルサイなー
イライラとヒカルは冷蔵庫から持ってきたジュースに口をつける。
ヒカル自身分かってはいるが、些細なことですら神経にさわり苛立ちを助長させる原因になってしまう。
これがもしごく普通の大人で院生研修と同じように打って負けたのなら、ここまで気が立つこともなかったのだろうが、椿の顔と態度を思い出しただけでも嫌気がした。
それでも明日はまた試験があり、ヒカルの気が落ち着くのを待ってはくれない。
少しでも多く打って明日に備えようとするヒカルの耳に、1階から美津子の声が聞こえた。
「ヒカルーヒカルー!ちょっとヒカル聞いてるの!?」
「もう何だよ!しつこいなー!!」
まだプロ試験を受けることに、どうのこうの言うのかとヒカルは易癖する。
「何言ってんの!あんたに電話だって言ってるでしょ!藤原さんという方から電話よ!」
しかし、そうではなく自分に電話だと分かると、めんどくさそうにヒカルは腰を上げた。
めんどくさそうに、重たい足取りでトントンと階段を降り、電話の受話器を取る。
「藤原?って誰だよもー。こんなときに」
――……藤原とはもしや、ヒカル!その電話は!
「はい、進藤です」
慇懃な口調でヒカルが電話に出る。
『進藤君?』
「へ?塔矢せんせえ?えっ?……ええ!?とっ、塔矢先生だ!どうしよ!?」
見知った低い落ち着いた声が聞こえて、ヒカルは声を裏返し、後ろの佐為に振り返る。
どうして行洋が自分の家に電話してくるのかと思った次には、なぜ藤原と名乗ったのか疑問に思い、そういえばお互い連絡を取るときは『藤原』と名乗ろうと約束していたことを思い出す。
――やはりですか?藤原と名乗ったのでもしやと思いましたが
藤原という名前に、先にピンときた佐為は、自分の推測が当たって嬉々とする。
『進藤くん?大丈夫かな?』
「は、はい!大丈夫です!ちょっとびっくりしただけで、すいませんっ」
『いや、私こそ済まない。急に電話をかけてしまい驚かせてしまったようだ』
ヒカルの動揺とは反対に、行洋はいつも見てきたような落ち着きを崩すことなく話かけてきて、ヒカルは驚きでバクバクと高鳴る心臓を押さえながら、勤めて丁寧な口調で
「あ、すいません……それで、何か用事とか、佐為に伝えたいことでも……」
『用事というほどではないのだが、今しがた棋院の事務の方で、プロ試験予選の対戦結果を見たよ』
「あ……」
行洋の言葉に、ヒカルは自分が予選初日に負けてしまったことを知られたのだと分かり、途端に声が気落ちした。
『佐為は負けた相手の実力は何と?負けた敗因は自分では何だと思うかね?』
「……佐為は、落ち着いて平常心で、いつものように打てば勝てた相手だって……それで、俺は、初めてヒゲゴジラみたいな知らない大人と打って、それで……」
『気持ちがのまれてしまったと?』
「……はい」
『2ヶ月前、私と打ったことを覚えているかな?』
「はい」
佐為との検討が終わったあと、それまでずっと2人が打つのを見ていただけだったヒカルに、置碁での指導碁を打ってくれたことを思い出す。
まさか行洋が自分と打ってくれるとは夢にも思っていなかったから、緊張しながらも名人という雲の上のタイトルホルダー相手に、震える指で石を打った。
『私はすでに見知らぬ相手ではないかもしれないが、君から見れば十分大人の部類に入るはずだ。ならば、これから対戦する相手を皆私だと思って打てばいい』
「外来の大人がみんな塔矢先生?」
それはいくら何でも言い過ぎだとヒカルは思った。
これから何人の外来と対局するか分からないが、その相手が全員行洋だとしたら、それだけで体力と気力を全部使い果たしてしまいそうだ。
もっとも行洋も自分を相手にしている時のような心構えを言いたいのだということはヒカルも分かっていたが、外来との対局で自身が行洋と対局している光景を想像して、クスリと笑みがこぼれた。
『そうだ。私と打ったときも君ははじめ緊張していたようだが、打つにつれて次第に緊張がほぐれしっかり打てただろう。佐為も言ったように、平常心を忘れてはどんなに強い棋士もまともな碁は打てない』
「先生……先生は塔矢が、アキラが去年プロ試験受けたときも、こんな風に話したんですか?」
『いや、あれは小さい頃から碁会所に通って見知らぬ大人相手にも打ち慣れている。実力的にも落ちるという心配はしなかったが。アキラがプロ試験で負けたのは、佐為とネット碁をするために不戦敗になった一度だけだ』
「え?あ……そういえば、和谷がそんなこと言ってたかも……。佐為と打つためにプロ試験サボったって……」
アキラらしいサボりの理由に、行洋が小さく笑っているのが、電話口を通してヒカルにも聞こえてくる。
佐為と対局するために試験をサボり一敗したアキラと、椿に対局前からのまれてしまい負けてしまった自分。
情け無いし、かっこ悪い。
けれど、行洋と話す前まで、自分が悪いのではなく、椿の態度が全部悪いのだとどこか他人の所為にしていたような気がした。
「ありがとうございます。俺、さっきまで負けたことに苛々してて。でも先生とこうして話して見失ってた自分を取り戻したような気がします」
『そうか。それは良かった』
「はい」
『では、明日からのプロ試験も頑張りなさい』
「はい。ありがとうございました」
電話を取る前とは正反対に、静かな気持ちでヒカルはゆっくり受話器を置いた。
そしてさっきまであれ程イライラしていた気持ちもどこかへ消えてしまっていた。
――行洋殿と話して少し気が紛れたみたいですね
ヒカルの表情が穏やかになり落ち着きを取り戻したのだと佐為は分かった。
あるもの全てに当り散らすほど、ヒカルの気が立っていたのが嘘のような顔つきだった。
――うん。やっぱり塔矢先生はすごい。なんか一つ一つの言葉の重みがさ、違うんだよ。平常心を忘れるなって一言も、みんな全部
――そうでしょう?だから私も言ったじゃないですか
さっきまで全く取り合おうとしなかった自分の言葉を、同じく行洋も言ったことに、佐為が自信満々に言うと
――だってなぁ……佐為とはいつも一緒にい過ぎて、同じ言葉でもイマイチありがたみが無いっていうか
――なっ!?ありがたみが無い!?
今度は逆に佐為がヒカルに当たりだし、ヒカルは惚けるようにして2階の部屋に戻る。
その足は、軽快で軽やかだった。