IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完   作:鈴木_

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その日は自身の対局やイベントがある訳ではなく、対局観戦のためだけだったので、いつも着る白スーツを脱ぎ、黒のタートルネックのセーターと革のジャケットという至ってラフな格好で緒方は棋院に出向いた。

新初段の行われる5階に行き、モニター室のドアノブを回す。

しかし、開いたドアの向こうに、意外かつ忌避する人物がモニター前に陣取っていて、緒方は目を見開く。

 

「桑原先生」

 

「ほほう。これはこれは、緒方君じゃないか。久しぶりじゃの!」

 

顔を見るなり、ムスッとした表情になる緒方に構わず、桑原は上機嫌で話しかけ続ける。

緒方が桑原を苦手にする理由も分かっていたし、それがすぐに顔にでるのもまだまだ可愛いらしいものだ。

 

「こうやって面と向かうのは本因坊戦以来か?ん?あの7番勝負は楽しかったのぉ、ひゃっひゃっひゃっひゃ」

 

「……あの時は勉強させていただきましたよ」

 

揶揄を含んだ桑原の物言いに、本因坊のタイトルをかけた7番勝負で、緒方は桑原の仕掛けた盤外戦にうまくしてやられた苦い過去を思い出す。

緒方が初めて体験する封じ手に、揺さぶりをかけてきた。

桑原ならではの年季の入った老獪さだというしかない。

結果は惜しいところで桑原に防衛連覇され、緒方はタイトルを奪取出来なかった。

 

「どうしてここに来たかと?その言葉、そっくりキミに返そうじゃないか。今日はたかだか新初段の対局。いくら芹澤君が打つからと行って、緒方君ほどの者がわざわざ見に来るようなもんじゃない。するとやはりこの小僧が囲碁界に新しい波を起こす1人なのかな?」

 

「進藤をご存知なんですか?どこかで彼の碁を見たことが!?」

 

「ほほう!やはりか!小僧をひと目見てピンときたわしのシックスセンスもたいしたもんじゃ!」

 

「シックスセンス?」

 

「第六感じゃよ。進藤とは一度すれ違っただけでな」

 

「すれちがっただけ?バカバカしい!」

 

表面上、緒方は桑原の言葉を鼻で笑いはしたが、内心は実は桑原は妖怪かなにかではないのかと思えてしまった。

たった一度すれ違っただけでsaiであるヒカルに目を付けるとは、どんなシックスセンスだと疑ってしまう。

 

そこに、モニター室の戸が開き、

 

「こっこんにちは!こっち座ろうぜ」

 

モニター室に既に先客がおり、それがトップ棋士であることにすぐ気がつき、越智と和谷は邪魔しないようにとドア近くの席に移動する。

まさか自分達以外に観戦しに来る者がいるとは考えていなかったので、越智は驚きを隠せないまま小声で

 

「何で新初段の対局をトップ棋士が2人も見に来てるんだ!?」

 

「そりゃ興味あるからだろ?緒方先生は若獅子戦の時も進藤を見てたし、進藤を名人の研究会に誘ったこともあるんだ」

 

越智の問いに、和谷は同じ小声ながら、至って自然に答える。

しかし、和谷が話した内容に越智はさらに驚く結果になった。

 

「名人の研究会に!?」

 

プロ試験中、アキラに指導に来てもらっていたとき、ヒカルしか見えていないアキラに越智は反発して、ヒカルに勝てば行洋の研究会に参加させてくれと言ったことがあった。

結局ヒカルに負けてしまいその話はなかったことになったが、越智が通いたいと願った研究会に、越智が頼む以前にヒカルはトップ棋士の緒方から誘われていたのだという。

そして、最終戦の前、緒方は門弟でもないヒカルにプロ試験合格祝いと食事を奢り、一局打ったのだとヒカルは言っていた。

 

「アイツは断ったけどな。俺の師匠の研究会行くところだったし。桑原先生の方は知らねぇ。桑原先生も進藤に目を付けてんのかな」

 

「進藤って何者?」

 

越智の目から見てもヒカルを気にするアキラは異常であったし、並み居るトップ棋士達もヒカルに注目している。

 

「俺達の同期でライバルで仲間!」

 

しかしそんな越智の動揺に気付くことなく、分かりきったことを聞くなとばかり和谷は言い切る。

そこにまたドアが開き、特徴的な髪型をした人物が入ってきて、和谷達ど同じように緒方と桑原の姿に驚きを見せた。

 

「緒方さんと、桑原先生!?」

 

片方の緒方は兄弟子ですでにアキラと見知った仲だったが、もう片方の桑原がなぜこの部屋にいるのかアキラは戸惑う。

 

「キミは確か名人の息子じゃな?」

 

「はじめまして、塔矢アキラといいます」

 

行洋の息子らしく丁寧に、そして物腰柔らかく挨拶を述べるアキラに、桑原は軽くカマをかける。

 

「キミも進藤のことが気になる1人か?」

 

「え?ぼ、僕はっ!」

 

途端にうろたえたアキラに、桑原は心底愉快そうに声を立てて笑った。

新しい波が来ると言っていた緒方本人がわざわざ観戦しに来て、その波の筆頭であろうアキラもまたヒカルを注目している。

編集部で聞けば、碁を覚えて2年、師匠はなく研究会の参加のみで、初めて受けるプロ試験を全勝合格するという大器さだという。

 

「そうかそうか、オモシロイ!これは楽しみな一戦じゃの。どうだ、緒方君。どっちが勝つか賭けんか?」

 

「賭けですか、オモシロイですね」

 

「逆コミ5目半のハンデはつくがどうかの。芹澤君は新初段に出るにあたり進藤を指名するほどの熱の入れようだ」

 

「芹澤先生の性格からして、ご祝儀で勝たせてやりたいためだけに指名はしませんね。で、どっちに張るんです?」

 

「小僧じゃ」

 

言いながら桑原は財布から一万円札を取り出し、机の上に置く。

 

「穴狙いですか?」

 

「なんの!勝算のないバクチはせんぞ、ワシは。それとも何だ?キミも小僧に張りたかったのかね?」

 

目上の桑原に先に張られてしまえば、後から緒方がヒカルに張るのは非礼にあたる。

緒方は無表情を装い、桑原が置いた一万円札の上に財布から出した一万円札を重ねた。

 

「芹澤先生の実力を疑う気はありませんよ」

 

芹澤の実力は緒方も既に何度も十分分かっている。

最終戦の前に打った実力であれば、逆コミ5目半のハンデがあっても、真剣に打ってくるだろう芹澤には叶わないだろう。

だが、もしsaiの実力を見せればハンデ無しの互戦でもヒカルは勝つだろう。

それこそカフェで擦りガラス越しに芹澤と対局したときのように。

 

ただし新初段は対局相手の芹澤もだが、記録係や観戦者、そして打った対局も記録に残る。

己がsaiであることを知られたくないなら、ヒカルは本当の実力を隠して打つと緒方は思うのだが、隠そうとしても相手は一度対局しているだろう芹澤だ。

芹澤もまたヒカルの碁にsaiの影を一つも見落とすまいと探してくるし、ヒカルの方も緒方が忠告していることで芹澤を警戒してくる。

 

その隣で、突然賭けを始めた桑原と緒方にアキラは視線を険しくしながら、テレビにモニターされている盤面を見やった。

賭け自体はアキラにとってどうでもよかった。だが、賭けをするほど桑原がヒカルを買っていることが分かり、そして緒方も恐らくはヒカルに賭けたかったに違いないだろう。

 

もうすぐ対局開始時間になる。

 

去年、アキラが通った道を一つも遅れることなく最速でヒカルが通ろうとしている。

周囲に何と言おうとも、この時を待っていたとアキラは思う。

ヒカルが緒方と桑原の見ている中、芹澤と打つ。

越智では測ることのできなかった今のヒカルの実力をようやく確かめることができる。

ヒカルはいったいどんな碁を打つのか、どんな碁をアキラに見せるのだろうか。

 

対局開始時間になり、ヒカルが一手目を右上星に打つのがモニターに映り、

 

「始まったな」

 

桑原がモニターを見やりながら言う。

 

盤面は不気味なほど平穏なまま進んでいった。

トップ棋士との初めての対局にヒカルが慎重になっているのは分かるが、芹澤もまたヒカルを警戒したように打っている。

一見すれば、プロ試験に受かったばかりのヒカルが芹澤相手に健闘しているように見える。

 

しかし、やはりと緒方は思う。

モニター室に用意されている碁盤に、芹澤とヒカルが対局している盤面の石ををそのまま並べていくが、緒方が予想した通り、ヒカルはsaiとしての実力を隠してきた。

碁会所で緒方と打ったときの実力で芹澤と打っている。

 

――ネット碁以外で本気で打つ気はないということか?

 

このまま最後までヒカルは打つつもりなのかもしれないが、芹澤はヒカルの碁の中にsaiを見つけるかもしれない。

その時どう言い逃れるつもりだと、緒方はモニターに映る芹澤の手を視界の端に捉えながら思う。

 

だが、部屋の雰囲気にそぐわないバイブレーションの音が小さく響き、持ち主の緒方が電話を切ろうとして、

 

「かまわんよ」

 

「失礼」

 

先に桑原から了承が出てしまい、一つ断ってから電話にでた。

 

『あ、緒方さん?』

 

「何の用だ」

 

タイミングの悪い芦原に緒方は眉間に皺を寄せて不機嫌な声で答える。

 

『つれないなぁ。せっかくいいこと教えてあげようと思ったのに』

 

「さっさと言え」

 

『ハイハイ。冷たい兄弟子ですよね緒方さんは。saiが今朝からずっとネットに現われているんです。一緒に観戦どうですかって誘いに電話したんですが』

 

「馬鹿なっ!?」

 

芦原の言葉に、緒方は思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。

 

saiであるヒカルは今、幽玄の間で芹澤と対局している。

ネットにsaiが現われるはずがなかった。

saiの名前を騙る偽者ではないのか、と緒方は一瞬疑ったが、ゲーム内でのsaiの勝率、段級位はどう偽ることも出来ない。

 

『馬鹿なと言われても、現にこうしてsaiは対局してますよ?』

 

ガタンと椅子を後ろに倒しそうな勢いで立ち上がり、

 

「緒方さん!?どこに!?」

 

「アキラ君、saiが現われた」

 

「えっ?」

 

固まってしまったアキラと桑原の存在を気にする余裕もなく、緒方は携帯を閉じポケットに押し込むとモニタールームを出る。

そして急ぐ足でそのまま棋院の事務所に向かう。

 

「緒方先生!?そんなに慌ててどうされたんですか?」

 

「ネットが出来るパソコンは空いてないでしょうか?もしあれば少し貸して頂きたいのですが?」

 

「ネットですか?少々お待ちください!」

 

慌てて事務員が空いている、と言ってもすでに立ち上げ、恐らく使っていただろうノートパソコンを表示していたファイルを閉じてから、緒方の方へ持ってくる。

突然申し訳ないと侘びをいれ、緒方はすぐにネット碁を立ち上げ、すでに観戦者がとんでもない数に膨れ上がっている対局観戦画面を開く。

 

――これかっ

 

saiのアカウントであることは間違いない。

しかしsai本人であるヒカルは芹澤と対局しているのなら、これは誰か別人が打っているはずなのだが、ディスプレイに映されたsaiの対局はこれまで緒方が見てきたsaiと比べて幾らも遜色なかった。

すでに中盤まで進んだ対局を最初の一手目から想像し追っていく。

 

――どういうことだ!?進藤がsaiだった筈だろう!?

 

やはりヒカルとsaiは別人だったのだろうか。

けれど、ヒカルは緒方の引っ掛けを、それと気付かぬ様子で肯定した。

それともsaiと同じ棋力の持ち主がもう1人いて、ヒカルと交互にsaiのアカウントを使い分けているというのか、とまで考え、緒方はありえないと思考を打ち払った。

sai1人だけでも十分過ぎるほど騒ぎになっているのに、もう1人、saiにならぶ正体不明の棋士がいてたまるか、と揺らぎそうになる自分を叱咤した。

 

saiへの対局申し込みは段位による制限がかけられていることで低段のユーザーは申し込むことが出来ない。

 

今、緒方の眼の前でsaiと対局している相手も十分強い。

だが、saiの相手には程遠い。

対局画面を今開いて緒方は対局をぱっと見ただけだが、打っているsaiはプロ以上、それもトップ棋士以上の強さと判断する。

saiではないのにsai並みの強さを持ち、saiとして打っている誰か。

 

「誰だ……これは……?」

 

芹澤と対局するにあたり、ヒカルも何かたくらんでくるだろうと緒方は思っていた。

ヒカルがsaiの実力を隠し芹澤と打っているのも想定内だった。

しかしヒカルが対局している最中にsaiが現われるというのは、緒方も全く想定していなかった。

 

自身をsaiと疑っている芹澤から疑惑を晴らすのに、これ以上の状況証拠はない。

ヒカルは最強の一手を用意したのだ。

 

 


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