IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
普段のジーンズにパーカーというラフな服装から、新初段の対局の当日は、カッターシャツにベストという幽玄の間で対局するにあたり失礼でない程度の正装をして、ヒカルは棋院の玄関をくぐった。
新初段の対局が行われる5階に向かうと、すでに準備をしている者や一眼レフの大きいカメラを首から提げた取材記者らしき者が幽玄の間の前に集まっていた。
その集まりへ近づくにつれ、少しずつ交わしている会話がヒカルの耳にも届きだし、その中の中心に立ち、ピンと筋の通った姿勢の良い男がヒカルに気付き振り向く。
目を逸らすことなく、じっと視線を向ける相手に、ヒカルはこの男が芹澤なのだと直感的に思う。
「おはようございます」
頭を下げヒカルが芹澤に挨拶する。
――この人が芹澤先生……
緒方から忠告されていなければ、この新初段を初めてトップ棋士と対局でき、そして自身の碁をアキラに見せることが出来ると、喜び意気込むだけだったろう。
カフェで対局したときは擦りガラス越しだったのでグレイのスーツとぼやけた輪郭ぐらいしか分からなかったが、実際に至近距離で見ると、ヒカルが想像していた人物とは全く違っていた。
オールバックにした髪形に目鼻立ちのくっきりした顔。
とくに釣り目がちの目は恐らく普通にしているだけなのだろうが鋭い眼差しで、行洋や森下、緒方に似た勝負師の雰囲気が漂っているとヒカルは感じた。
「おはよう。今日はよろしく、進藤くん」
「よろしくお願いします」
じっと見つめてくる芹澤に、ヒカルは品定めされているような気分になり平常心が乱れてくるようだった。
隣にいた佐為が素早く気づき、ヒカルに声をかける。
――大丈夫です、ヒカル。すでに策は打ってあります。ヒカルはヒカルで対局に集中しましょう
――ああ、分かってる
幽玄の間へ先に入ろうとしている芹澤を見据え、ヒカルは頷く。
芹澤がどんな思惑を持ってヒカルを指名したのかは、今だけは考えない。
去年、アキラと座間の対局をヒカルが見たように、これから行われるヒカルと芹澤の対局はアキラの目に留まる。
今度は自分が見せ付ける番だ、とヒカルは気持ちを奮い立たせ、幽玄の間に足を踏み入れた。
If God 47
新初段の対局は、新人棋士が先番の逆コミ5目半のハンデ戦である。
それでもトップ棋士の方が、プロ試験に合格したお祝いにご祝儀で勝たせてあげようという気がない限り、新人棋士が勝つことは難しい。
それだけの歴然とした差が、トップ棋士と新人棋士の間には存在する。
対局が始まり、穏やかに進んでいるように見えた。
表面上は。
力試しと負けを承知で打つ新人棋士も少なくないが、ヒカルは違う。
座間に勝つつもりで本気で勝負を挑んだアキラのように、ヒカルもこの対局を負けるつもりは一切ない。
勝つつもりで対局する。
焦らず腰を据えヒカルは勝負の機会をうかがう。
――これだけの棋力であればプロ試験に全勝で合格するのも頷ける
ヒカルの一手一手に応じながら、芹澤はヒカルと盤上の石を見比べる。
名人である行洋の息子として幼い頃から手ほどきを受けてきたアキラも別格だが、対局するヒカルの実力も囲碁を覚えて2年ということを踏まえれば十分高い評価が出来る。
攻守のバランスが取れた良い碁だ。
ところどころに小さな隙は見られるものの、ギリギリのところをしっかり見極め踏み込んでくる。
穏やかな盤面に波が立ったのは中盤だった。
ヒカルが打った一手に、芹澤は一度碁笥から掴んだ石をおろし、手を膝に置いたまま、ヒカルの一手をじっと眺める。
――悪手に見えるが、逸ったか?いや、しかし……
視線だけ上を向き、芹澤はチラリとヒカルの様子を伺う。
己を見る芹澤に気付かない様子で、ヒカルはじっと盤上だけを片時もそらすことなく見ている。
そのヒカルの様子に、悪手ではない、と芹澤は判断した。
もしヒカルでなければ一見しただけで悪手と判断していたかもしれないが、ヒカルはsaiかもしれないのだ。
saiであればこんな悪手は絶対に打たない。
腕を組み、じっとその一手の先を読む。
芹澤が次の一手を打ったのは20分後のことだった。
芹澤の一手にヒカルは眉間に皺を寄せ奥歯をかみ締める。
ヒカルのヨミのさらに先を芹澤によまれてしまった。
ヒカルの一手は先をよんでの一手だったので、目下の部分で不利になるのを承知での一手だったので、それを芹澤に先の先をよまれたことで、ヒカルの黒石は一気に窮地になる。
芹澤もチャンスを逃さず攻めてくる。
その猛攻に耐えながら、ヒカルはじっとチャンスを待つが、けれど芹澤は小さなミスも犯さない。
大ヨセまで終われば、逆転する余地はなかった。
『ありません』とヒカルが投了する。
ヒカルの一手は先をよんでの一手なので、その先を相手によまれてしまえば、とたんに窮地に立たされる。
アキラに見せ付けるために打った一手だったが、逆に諸刃の剣だということをヒカルは思い知らされた一局になった。
「良い対局だった。あの一手は私も考えさせられたよ」
「………………」
芹澤が対局を誉めてきたが、ヒカルは俯いたままだった。
編集部の天野が幽玄の間に入ってきて
「では一手目から検討を」
と言ってきたが、芹澤は構わず俯いたヒカルに話しかけた。
記憶の中に埋もれた人物を、大事に手繰り寄せるように語っていく。
「私は以前、カフェで1人碁らしきものを打っている子供に興味を持ち、擦りガラス越しに対局したことがある。本当に興味本位の軽い気持ちだった。しかし……結 果は私の負けだった。まさか子供に負けると思っていなかったから、信じられない気持ちでいっぱいだった。負けたこともだが、私を打ち負かすほどの棋力を子供が持っているということのほうが衝撃だった」
そしてヒカルとの対局。
篠田に見せてもらった棋譜でもsaiと棋風が似ている印象を受けたが、実際にヒカルと打ってみて、それがsaiを求めるあまりの勘違いでないことを芹澤は確信する。
芹澤との対局で見せたヒカルの実力はsaiではない。
しかし、カフェで芹澤と打つ直前、1人碁を打っていた二面性の棋力のうち、saiではないもう片方の院生クラスの実力が目の前の盤上に並べられた石なのだ。
「あの時、カフェで私と打ったのは君だね?キミが」
「芹澤先生っ」
「緒方先生?」
突然会話に横から口を挟んだ緒方に芹澤は怪訝な眼差しを向ける。
芹澤だけでなくヒカルやその場にいた係りの者達も突然の乱入者に驚きを隠せない。
けれど、緒方はそんな周囲に構うことなく芹澤を向いて無言で数回首を横に振り
「芹澤先生、急ぎ見ていただきたいものがあるのです。手間は取らせません。検討室へ移られる前にお時間を少しだけいただけませんか?」
本来なら新初段の対局碁は検討が行われるものだったが、緒方の剣幕に気押され、誰も口を挟めない。
常にない険しい表情の緒方に、芹澤は何事かと腰を上げる。
緒方の後について廊下を足早に歩く。
「どうしました?」
「朝からsaiがネット碁に現われているんです」
「まさかっ!?ありえない!彼は幽玄の間で私と対局をっ」
「そうです。しかし、正午前からネットに現われ、今も対局してます」
ヒカルがsaiと思った直後、緒方からsaiがネットに現われていると聞かされ、芹澤は足を止めることなくじっと考え、
「……誰かに打たせるとか、偽者ではないのか?」
「私もはじめそれを疑いました。しかし私が見ているだけでもすでに3人のプレーヤーと対局していますが、あの強さはsai以外の何者でもない。間違いなくsaiです」
断言する緒方に芹澤は呆然と口を開く。
「で……では、進藤くんは……」
「saiではありません。saiは別人です」
棋院の事務所に入り、緒方はネット碁の対局画面を開いているパソコンの前に芹澤を誘導する。
打たれている対局はまだ途中のもので、対局者のHNを芹澤は確認する。
「これがさっきまで打たれていた対局の棋譜です」
緒方から差し出された棋譜を芹澤は受け取りじっと見つめる。
「そんな……」
深いヨミと圧倒的な強さ。
まぎれもなくsai本人。
ヒカルと対局し、打ち筋がsaiと似ていると芹澤が思ったのは、あくまで似ているだけなのだろうか。
ついさきほどした確信が、早くも崩れ去ろうとしている。
脱力し、芹澤は傍にあった椅子に力なく座りこむ。
誤解してヒカルがsaiであると公言せずに良かったと安堵するも、見つけたと思ったsaiが空振りになってしまい、全身を虚無感が襲った。
緒方と共に芹澤が出て行った幽玄の間で
――どうやら上手くいった様子ですね。ギリギリ間に合ったというところでしょうか
――すっげぇびびったけどな。芹澤先生、絶対あの後saiって言おうとしてたぜ?対局直後に言うとかなしだろ?一日くらいじっくり考えてからバラしてくれよ。そしたら俺とsaiの対局がかぶってるって分かるだろうに
本当に危なかったとヒカルと佐為は2人して大きな溜息をこぼし安堵した。
誰もいないところで2人だけの時に言われるのではなく、第三者、その他大多数がいる前で言われるのでは天と地ほどの差がある。
特にトップ棋士の芹澤があのまま『sai』の名前を口にしていたら、誤解だと誤魔化しても噂になり騒がれたことだろう。
「どうしたんだ、緒方先生は。芹澤先生も検討が済んでないのに慌てて出て行かれたが。それにさっき芹澤先生が仰られたことは本当なのか?子供に負けた?本当なのかね、進藤君?」
突然現われた緒方に連れられるようにして芹澤が出て行ったあと、大勢が何の説明もなく言われる取り残されてしまった中、天野が出て行く直前に芹澤が話していた内容の真偽をヒカルに問う。
カフェで芹澤が子供と対局したことは重要ではない。
もちろんトップ棋士の芹澤を打ち負かす子供が本当にいれば天野もそんなネタを放っておきはしない。
だが、今重要なのは芹澤が子供に打ち負かされ、その子供がヒカルかどうかということである。
この新初段の対局が組まれる前、芹澤から突然電話があり、出る代わりにヒカルを指名させて欲しいと打診されたときは、単にヒカルの全勝合格と緒方の院生試験推薦という履歴から注目しているのかと天野は考えていた。
しかし、そうではなかったのかとヒカルに問う。
「いえっ、俺は何も知らないです!先生は俺を誰かと勘違いされてたんじゃないですか?何が何だか……」
自分は全く見に覚えがないと、ヒカルは首を振って否定する。
今頃、芹澤は緒方からsaiがネットに現われていると知らされているだろう。
これで芹澤の中の『sai=ヒカル』説はほぼ崩れ去ったと考えていい。
内心、安堵するヒカルの隣にモニター室で観戦していた越智と和谷がやってきて
「塔矢、来ないね」
「あ、そういえば……」
芹澤は部屋を出て行ってしまったが、対局の検討が行われるのに塔矢が来ないこと越智は冷ややかに指摘し、和谷も越智に言われてそういえば、と部屋を見渡しアキラの姿がないことを確認する。
「塔矢来てたのか!?」
アキラの名前にヒカルが反応する。
「モニター室でさっきまで観戦してたよ。検討に出るつもりはないみたいだけど」
「……そっか、でも俺の対局、見てたんだ」
顔を合わせることはなかったが、ヒカルが打った一局をアキラが見ていたのだとヒカルは知る。
対局は負けてしまい、ヒカルが中盤に打った一手も芹澤に先を読まれてしまったが、それでも全力で打てた碁だった。
それをアキラがどう判断するか分からなかったが、アキラが確かにヒカルを見ていることだけは判明した。
芹澤によまれてしまったヒカルの一手を、アキラは気付いたのだろうか。
――まだあと少し足りない。でも、きっとすぐ隣に並んでみせる
先ほどまで芹澤が座っていた場所を見つめ、ヒカルは静かに闘志を燃やした。