IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
ガラ、と昔ながらの音を立て、玄関が中から開かれる。
全く見知らぬ相手というわけではないが、気安いというには些か語幣のある相手に、森下は無意識に身構えそうになる。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですわね、森下先生。お待ちしておりましたわ」
物腰柔らかに、明子は森下を出迎えた。
夫と同期でプロになった森下とは、何かのイベントや行事でしか会う機会はなかった。しかし、その容姿から無骨な印象を受けそうになるが、面倒見がよく、周囲にも気を配り、なんだかんだと行洋と気が合うことを明子は察していた。
何が邪魔をしているのかまでは分からないが、気が合うのなら誰に遠慮することなく話しかけるなり、碁を好きなだけ打つなりすればいいのに、2人はあまり親しい素振りを見せたがらない。
意地張らなきゃいいだけなのに、男の人って面倒よね。
そう思いながらも2人が言葉を交わさなくても、何故かお互いを分かっているからおかしなものだ。
「いや、こちらこそお久しぶりです。ご無沙汰になってしまって申し訳ない」
「そんなことございませんわ。あの人もたまには森下先生をお招きすればいいのに。ちっともよんで下さらないんですもの。さ、どうぞお入りになってください」
頭を軽く下げる森下に、玄関で長話にならないうちにと、明子は家の中に招き入れた。
「あなた、森下先生がいらっしゃいましたよ」
言いながら閉められた障子を開き、森下を行洋のいる部屋に通す。
「邪魔するぞ」
「ああ」
変に畏まる仲でもないので、森下は簡単に断ってから上座に座る行洋と碁盤を挟み、対座に用意してある座布団に腰を下ろした。
部屋の隅にはもう一つ碁盤と碁石が1セット置かれている。
恐らくこの部屋でいつも研究会を開いているのだろうと推測できた。
森下を部屋に通し、お茶を台所から運んできた明子に、
「明子、しばらく部屋に誰も近づけないでくれ」
「分かりました」
行洋の短い言葉に明子は瞳を伏せ頷く。
それは言われた明子だけでなく、息子のアキラや門下生の誰かが訪ねてきても行洋が呼ぶまで本当に誰も通すなと言っているのだ。
珍しく森下を家に呼んだかと思えば、部屋で会うなり人払いをしてまで大事な話があるのかと一瞬考えたが、欠片も表情に出さず明子は部屋を後にする。
いい大人が2人して何の悪戯の算段かしらね、と思いながら。
「お前から話があると言うから何かと思えば、随分と言い出しにくい内容のようだな」
表情を顰めたままの森下に、行洋は言いながら明子が運んできてくれたお茶に口を付けた。
「どうでもいい話をするためにわざわざお前んとこ来るとでも思ってたか」
「いや。だが雹(ひょう)くらいは降るかもしれんとは聞いた瞬間思ったぞ」
行洋につられるようにして森下もお茶を飲む。
それで少しは気を緩めることが出来たのか、ふぅと一息入れ、
「打ちながら話すか。俺がにぎろう」
碁盤の上に置かれた碁笥を引き寄せながら森下が言う。
にぎりで先番は森下、後番は行洋になった。
軽く頭を下げ、森下は一手目を盤面に打つ。
公式の手合いでもないので、一手にかける時間はゆったりと短い。
数手打ってから、森下はゆっくり口を開いた。
「俺 が開いている研究会に、内弟子のほかに1人院生が通ってる。師匠の俺が言うのも何だが、囲碁のセンスは弟子と比べても全く比較にならん。研究会に通うよう になった当初こそまだまだ危なっかしい碁だったが、すでに弟子では相手にならんし、プロ4段の別の弟子でさえ気を抜けばやられる。今年のプロ試験、アイツ はまず確実に受かるだろう。名前は進藤ヒカルという」
すでにプロ試験本戦も中盤だが、ヒカルは全勝のまま勝ち続けている。
弟子の和谷も全勝を続けているが、ヒカルとの対戦は終盤だ。
恐らく、いやほぼ間違いなくヒカルは和谷に勝つだろう。
森下の研究会にヒカルが来るようになってからもだが、とくにプロ試験が始まる直前からの成長が著しい。
日に日に強くなっているとは、このことを言うのではないだろうか。
それまでじっくり培い固めてきた地盤を基として、一気に才能が芽吹いているようだ。
「囲 碁を覚えて2年ということだが、ハッキリ言って、あの成長は恐れすら俺は抱く。倉田君という前例と比べても、……あれは異常だ。倉田君は碁を覚えてすぐに プロ棋士に師事した。だが、進藤は誰かプロ棋士に師事するようなこともなく、碁の勉強は週末の院生研修と俺の研究会くらいだ。たったそれだけで、すでにプ ロ棋士に成り得る実力をつけたんだ」
「それだけの才能が彼にあったのではないか?」
「才能はもちろん必要だ。そして才能を育てる本人の努力も必要だろう。しかし、もう一つ必要不可欠なモノがある」
行洋自身、弟子を何人も持ち、そして育てた弟子達の多くがプロ棋士になっている。
師匠として弟子を指導しているのなら、それに気付けないとは森下には思えない。
ワザと行洋が分からない振りをして、はぐらかそうとしているのかは分からなかったが、
「導き手だ」
言ってから、森下は石を打とうとしたが、思わずその一手を打つのに力が入ってしまい、カヤの碁盤が高い音を立てた。
これだけは才能と努力がどんなにあっても、如何ともしがたい。
1人で打つだけでは他所にそれそうになるのを修正し、正しい道へ戻す導き手。
その存在が必要なのだ。導き手の良し悪し次第で、才能は開花もするし下手すればつぶれることだって十分にある。
森下自身が弟子を持ち師匠と呼ばれるようになってから、それを痛いほど痛感した。
持った弟子の中にも、プロになれた者もいれば、なれなかった者もいる。
そのたびに自分の指導が悪かったから、この弟子はプロになれなかったのではないかと何度も悩んだ。
「師匠か。だが、先ほどお前自身がその進藤君に師匠はいないと言ったばかりでは」
「そうだ。進藤の打つ碁に、それと思い当たるような棋士はいない。アイツの打つ碁は、力をつけてきたとは言え、俺から見ればまだまだ甘い部分がある。だが進藤 の成長を見ていると、碁を学ぶ者として成長の見本のように見える。まるで教科書かなんかの参考書にでも載ってそうなぐらいのな」
「成長の見本とは、また面白い例えだ。お前にそんなが詩人の部分があったとは知らなかった」
盤面から森下は顔を上げ、揶揄する行洋をひと睨みした。
「茶化すな」
森下自身、言ってから自分に似合わない言葉だと思ったのだから。
「碁を覚えて2年でプロになれる実力を身につけられることは、この際いい。才能は時に、努力と周囲の常識を覆す。しかし、進藤の才能は正しく修正され導かれている。多少の壁にぶつかっているのかもしれないが、その壁にぶつかり間違った方向にそれないよう誰かが常に傍にいて見守り、誰も知らないところで導いてい る。だからたった2年でプロ以上の実力を得られたんだ」
「面白い推理だな。それを話すために今日はここへ?」
「そうだ。しかし、……ここに来て考えが変わった」
ヒカルの異常に思える成長もだったが、ヒカルを導いているだろう存在に心当たりがないか問うために、またヒカルの碁を見る機会があれば目をやり、ヒカルの打つ碁を見て欲しいと言うために、森下はこうして行洋の家に足を運んだのだ。
タイトルを複数保持し、海外のプロ棋士との対局回数も多い行洋なら、ヒカルの棋風に1人くらい心当たりがあるかもしれないと思って。
だが、実際にこうして話して、行洋の言葉に森下は違和感を覚えた。
「行洋、お前知っているのか」
「何を」
平静を乱すことなく、行洋は盤面を見据え言いながら石を打ち続ける。
「進藤を指導しているのが誰かってことに決まっとる」
「まさか。進藤くんと話したことすら偶然すれ違い様に数回言葉を交わした程度なのに、同じ研究会に参加しているお前にも分からないことを、私が知っているとでも?」
「確かに進藤のことは、お前と比べりゃ俺の方が知っているかもしれん。だが、同時に行洋、俺とお前との付き合いはそれ以上にもっと長ぇんだ。お前の下手な嘘くらい見分けられる程度にはな」
断言した森下に、行洋は対局し始めてようやく顔をあげた。
「……何故、嘘と思う?」
盤面から顔をあげた行洋に、森下も石を打つのを止め、顔をあげる。
「お前んとこのアキラくんだって幼い頃からお前が指導してプロになった。悔しいが下手碁しか打てねねぇ俺のガキ共とは違う。だが、それでも何年もかけて手塩に育てて、ようやくそれだけの実力を付けたんだ。逆に言えば」
そこで一度区切ってから、幾分口調を強め、
「行洋、お前が指導してでさえ何年もかかったものを、アキラくんと同じ歳で、師匠のいない進藤がたった2年足らずで成し遂げられると、何故そんなに簡単に頷いてやがる?俺をはぐらかすつもりなら、もっと上手い嘘をつけ」
言ってから、森下は一口付けただけですっかり冷めてしまったお茶を飲む。
不貞腐れた態度を取る森下に、行洋は苦笑しながら視線を盤面に戻し、両腕を組みながら、
「……そうかもしれん。いい勉強になった」
「お前のそういう台詞を真顔で言うところが、昔からいけ好かねぇんだよ」
森下の指摘を素直に認めたというのに、行洋の受け答えが気に食わなかったらしい。
その気持ちが乗り移ったかのように、森下は少し乱暴に石を打つのを見て、行洋は詫びるかのように丁寧に応手する。
「進藤君は、心配ない。これからも正しく導かれるだろう」
森下が先ほど打った石とは正反対に、行洋の打った石は落ち着いた音を立てた。
「そこまで言って、誰かまでは教えないつもりか?」
「……まだ言う時ではない」
「嘘つけ」
間髪入れず、森下は行洋の言葉を跳ね除ける。
「言いたくないだけだろうが。お前がそんなに独占したがる相手ってことからして、嫌な予感が増してくるぜ」
「よく分かってるじゃないか」
真顔で一蹴されても逆に行洋は気分を良くし、開き直ったようにクスリと微笑った。同期でプロ試験に合格してからそれなりに長い付き合いではあるが、的確に行洋の嘘を嘘とすぐ見抜いてしまう森下に舌を巻くしかない。
低段者だった頃から何度も対局を重ね、いつの間にか相手の人となりや気心がすっかり知れた仲になってしまっている。
「お前が見てるのも、ソイツなのか?」
「どういう意味だ」
今度こそ森下の言っている意味が分からず、行洋は問い返す。
「お前の最近の対局、盤面は向き合ってるが、相手を見てねえぜ?盤面向かい合ってる相手を通り越して、別の、何かを見てる」
言いながら、森下は躊躇し、『誰か』ではなく『何か』と言い変えた。
「お前の碁が若返ったのもその所為か。認めたくねぇが……ふんっ、確かにお前は前と比べて強くなってるよ」
「森下に誉められると、どうにもくすぐったいな」
「誉めてるわけじゃねぇぞ、勘違いすんな。打つ碁だけなら前の方がまだ可愛げがあった。ちゃんと向かい合あう相手を見据えていた頃の碁の方が、俺は好きだったぜ。誰と打ってるともしれん碁なんぞ、薄気味悪りぃだけだ」
相手の一手にこそ応えているものの、行洋の一手は別の何かを追っていると森下は思う。
対局相手の一手を求めるのではなく、盤面に別の何かを探している。
なまじ行洋の強さが相手を上回るだけに、性質が悪すぎる。
行洋の心がどこに向いているのかということに、対戦相手が気付く気付かないは、森下の関知するところではない。
だが、強さを求めて対戦相手を見ていない碁は、森下には到底受け入れられなかった。
どんなヘボ碁だろうが関係ない。
しっかり相手と向き合い全力で打った碁なら、名局でなかろうが、他人に何と貶されようが、そんなことはどうでもいい。
対戦相手に全力で応えるということが、一番なのだ。強さも最善の一手もその次だ。
「誰と打ってるともしれんか……」
蔑みを滲ませた森下の言葉に、行洋は苦笑しながらも言い返す言葉は見つからなかった。
碁笥から掴もうとしていた石を離し、両手を膝に乗せ、姿勢を正した。
歯にモノを着せぬ言葉ではあったが、行洋にも全く心当たりがないわけでもなかったからだろう。
分かっている。
行洋自身、対局相手が佐為ではないと分かっているのに、盤面に打たれる一手に佐為を探してしまうときがある。
佐為の姿が見えず、声も聞こえない行洋に、ヒカルは佐為の意思を代弁し伝えてくれる。
だが、やはり行洋が見えない佐為を探すとき、最も佐為の存在を感じることが出来るのは盤面の上だった。
盤面の上だけは行洋にも佐為を見つけることが出来る。
「しかし、そこにあるかもしれんのだ。いや、きっとある。本当に、すぐそこに。あと、ほんの少し手を伸ばせば届くと思えるほどに」
石を打つ利き手の右手を持ち上げ、広げた手の平に視線を落とす。
何も持っていないその手のひらに、見えない何かが存在し、それを見るかのように。
意味不明な行洋の言動に、森下が眉間に皺を寄せた。
「行洋?」
「神の一手が、確かにそこに存在するのだ」
空を掴む手のひらを行洋がぐっと握り締めても、当然何も掴むことは出来ない。
それでも、この手に掴むことは出来なくても、その姿形を見ることが叶わなくても、確かに佐為は存在している。
そして他の誰でもなく、己を求めてくれた。
「……何時の間にか、また変なモンに魅入られてたもんだな」
最善の一手の探求は、全ての棋士に当てはまる。
その過程で、行洋がトップ棋士として『神の一手に世界で最も近い』と世間から評されていることは森下も知っていたが、行洋の口から『神の一手』という言葉を聞いたのは、恐らくプロ試験を同期で受かってから今までで初めてではないだろうか。
『神』という曖昧で人間には見えない存在を、行洋は本気で見ているのか。
通りで対局相手と向き合っていない碁を打つようになったわけだと、森下は行洋の打つ碁が変わってしまった理由が分かったような気がした。
『神』を求めてしまえば、人間などとても見る気になれないだろう。
けれど、孤独で寂しい碁だとも同時に感じた。
いるかどうかも分からない相手より、存在が確かな人間の方が遥かに楽だろうに。
そんな森下の心を見透かしたように、行洋は握り締めた手を緩め膝の上に置くと、何言われることなく、
「だが、後悔はしてない」
ありのままの素直な気持ちを述べた。
後悔などしようはずがない。
石を打つようになって、ずっと追い捜し求めていたモノが眼前にあるのだ。
ずっと碁を打ってきて、どうしても根底で満たされなかったものが、ようやく満たされようとしているのだ。
差し出されたその手のひらを拒むことなど、私にはできない。
行洋の答えに森下は呆れたような溜息をついた。
「もう帰られるんですか?」
森下が訪ねてきてまだ一時間しか経っていない。
部屋で対局しているような気配がしたから、検討する時間も含めて時間はいるだろうと明子は考えていたのだが、そうではなかったのだろうか。
部屋から出てきた二人に慌てて明子も見送るために玄関に急いだが、
「お邪魔しました」
「こちらこそ、大したお構いも出来ずに。でも、もう少しいてくださってもいいのに」
「はは、また今度来た時はお願いします」
残念そうな様子の明子に、森下は苦笑しながら小さく頭を下げる。
「行洋」
名前を呼ばれたが、行洋は返事をすることなくじっと視線を向けることで応える。
「変なもんに嵌るのもほどほどにしておけよ。どうせ届きゃしねぇんだ」
「そう簡単に手に入るものなら初めから求めなどせんよ」
行洋の答えに『口が減らねぇやつだ』と言い捨て、軽く手を振ってから森下は行洋の家を後にした。