IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
拝啓 緒方精次様
突然のご連絡失礼致します。
そして緒方様にこうしてメールをお送りするのは初めてになります。
過日、緒方様とネット碁で対局しましたsaiと申します。
すでにご存知のことと思うのですが、進藤ヒカルより緒方様のご連絡先を教えていただき、このようなメールをお送りした次第になります。
あの折は急な対局申し込みを受けてくださり、大変ありがとうございました。
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……、……
見事な形式文句から始まるメール文。
――……なんだ、これは?
それがヒカルがくれたメールアドレスから届いたメール内容を一読しての、緒方の最初の感想だった。
自身のプライベートアドレスにsaiからメールが届くまではいい。
ヒカルから貰ったsaiのものらしきアドレスが間違っていて、正しいアドレスをもう一度聞くのもまた間違える可能性があり面倒で、緒方のプライベートアドレスをヒカルに押し付けた。
だから、いざsaiからメールが来ても驚きはしないが、その文面と文体に緒方は表情を顰めた。
saiの正体は十中八九ヒカルだ。
それなのに、あのヒカルがこんな格式 張った、営業サラリーマンでもここまで畏まった文書は使わないんじゃないか?と思うぐらいの丁寧な文章を書いてきた。
ネットで調べれば、多少の挨拶文 は載っているだろうが、それでもヒカルにこのメール内容は似つかわしくない。
――誰か大人に手伝ってもらったのか?
そう思うも、相手がヒカルと分かっていてなお、saiであるとヒカル自身が認めていない現状では、この差出人のsaiはヒカルとは別人として扱い、このメール内容に見合ったそれなりの文章で返信しなくてはいけなくなる。
メールの返信ボタンをクリックし、テキスト欄にマウスカーソルを合わせ、さて返信を書くかとキーボードに指を置くも、指は全くキーを押してくれない。
――あんなガキ相手に、俺は何を真面目に返信しようとしてるんだ……?
ヒカルの姿、とくに行洋の背中に隠れ緒方にあっかんべーをしてきたヒカルが一度思い浮かんでしまうと、脱力して返信する気力が一気に萎えてしまい、そのままキーボードに頭を突っ伏す。
それでも返信する気持ちが完全になくならないのは、相手がヒカルであろうとも、ネット碁で無敵を誇るsaiとしての実力で緒方と対局してくれる喜びがあったお陰だろう。
ヒカルに『お前がsai』だと詰め寄ることは簡単だが、ヒカルの背後にいる何者かが分からない現状では、詰め寄るのは完全に悪手だ。
今はまだヒカルの嘘に付き合い、ヒカルとsaiが別人として対応してやるのが最善である。
スケジュール帳を取り出し、手合日やイベントに重ならず、対局に支障のない日をいくつかピックアップする。
それからパソコン画面に向き合うと、緒方は大きな溜息を一度吐いてから、プライドや面子を諦め、メール返信画面に返信内容を打ち込んでいった。
別 の用事があり、緒方は本因坊リーグ戦を戦う行洋の観戦をしに棋院に来るのが遅れてしまった。
すぐに終わると思っていた用事は、相手の長い雑談に時間を取られ、半ば強引に話を打ち切ったが、すっかり対局は始まってしまっている。
始めから観戦できなかったことに多少苛立ちながら、気持ち足早に対局中継モニター室に向かう廊下の道すがら、一般客が入れる一階廊下の道すがら、特徴的な頭を見つけた。
モニター室に急ごうとしていた足がゆっくりとスピードを失っていく。
モニター室と同じように対局の中継画面が映し出されるテレビに、一般客と混ざってヒカルが行洋の対局を観戦している。
院生のときならいざ知らず、ヒカルも4月かられっきとしたプロ棋士だ。
プロ棋士ならこんな一般人に混ざって対局中継を観戦せずに、上のモニター室で観戦すればいい。
と簡単に言っても、恐らくモニター室で対局を観戦しているのは、同じ本因坊のリーグ戦を戦っている誰かトップ棋士か、タイトル保有者の桑原あたりで、プロになりたてのひよっこでは、1人で入るには多少気後れしたのかもしれないが、
――何遠慮してんだ?俺にはまったく礼儀知らずなくせに
じっと中継画面を見ているヒカルに近づいていくと、緒方の存在に気付いた一般客の声に反応するようにしてヒカルが振り向く。
「緒方先生」
「こんなところで観戦か?観戦したいのなら上のモニター室に行けばいいだろう。お前もプロ棋士なんだ」
「あー……うん」
緒方の最もな指摘に、ヒカルはどうしたものかと曖昧な表情を浮かべ思案する。
タイトル決定戦でもない限り、全国ネットでテレビ中継されるのは滅多にない。
よって家でゆっくり一目を気にせず行洋の対局を観戦することはできず、リアルタイムで観戦しようとすると、どうしても棋院の中に設置してあるテレビ中継に限られるのだ。
しかし、中継が見られると言って簡単にモニター室に入るには、足が億劫になってしまう。
観戦したいのはヒカルもだが佐為の希望が強い。
プロなりたての新人棋士がいきなり1人で来てタイトルのリーグ戦を観戦すれば、部屋の後ろで1人黙々と観戦していても変に見られるだろう。
もしかすれば、新初段でヒカルと対局した芹澤がいる可能性も十分ある。
新初段でヒカルと芹澤の対局中に、saiのアカウントを使用した行洋がネット碁を打つことでアリバイを作り、芹澤の疑惑はそらしたはずだが、何食わぬ顔で会う自信はヒカルには無い。
それを踏まえると、プロ棋士たちが観戦するモニター室にヒカルが行くのは憚られた。
――予想外の人物と鉢合わせしちゃいましたね
――そりゃそうだよな、十段戦の挑戦者って緒方先生なんだから、塔矢先生の対局気になって見に来るよな
ヒカルはそっと心の中で佐為と会話し、さてどうこの場を切り抜けようかと考え巡らせ、
「それはそうなんだけど、でもここでいいよ。プロ棋士なりたての俺が行ったって、観戦してる他のプロ棋士の人に迷惑だろうし」
ここはやはりそれらしい理由をつけて断るに限る。
すっかり得意になってしまった嘘八百でヒカルは切り抜けようと試みる。
苦笑しながらはにかむヒカルに、顔にこそ出さなかったが緒方はムッとした。
傍目には目上の棋士に対してヒカルが遠慮したように見えるだろうが、ヒカルがsaiであることを緒方は確信している。
そしてsaiであるヒカルに、以前ネットで対局し緒方は負けた。
――他の人に迷惑がかかるだと?どの口が言ってやがる?
ヒカルが本気で打てば、ヒカルが先ほど遠慮したモニター室のプロ棋士達とも平気で渡り合うだろう。
下手すれば全員に勝つかもしれない。
それほどの打ち手が誰にも知られず、こうして一般人に紛れて行洋の対局をひっそり観戦している。
一瞬、強引にヒカルをモニター室に引っ張っていこうかとも考えたが、こうギャラリーの目が沢山あるなかでそんなマネはできない。
「付いて来い、俺も一緒に検討してやる」
「えっ?」
戸惑うヒカルに構わず、緒方はさっさと歩きはじめる。
付いて来いと言われても、ヒカルはモニター室に行きたくない。
しかし、緒方の向かった先がモニター室とは違う方向で、モニター室ではないのかと予想外に驚きつつ戸惑いながらついて行けば、そこは一般対局室だった。
突然現われたトップ棋士に、対局していた一般客達が驚く。
その緒方の後ろをヒカルは申し訳なさそうに肩身を狭くして、緒方の向かいに座った。
「緒方先生?」
周囲から向けられる注目に居心地悪くヒカルは小声で話しかける。
緒方が何を考えているのかさっぱり分からなかった。
行洋の対局を観戦したいのならば、他のトップ棋士達のようにモニター室で皆と検討すればいいのに、何を思ってヒカルを連れて一般対局室へ来たのか。
「ここならモニター室に行かなくても対局中継見ながら検討出来るだろう。一緒に検討してやる」
緒方が両腕を胸の前に組み、不遜に言う。
一般客の目はあるが、ここなら碁盤と碁石があり設置されているテレビで対局も映し出されている。
「でも!それはそうなんだけどいいの!?緒方先生他のプロの人達とモニター室で検討しないで俺なんかと」
「別に誰かと観戦する約束をしていたわけじゃない。俺では不満か?」
「そんなことないよ!ないけどっ……」
ヒカルの視線はチラリと周囲を伺う。
本因坊の挑戦者を決めるリーグ戦とは別に、十段戦で挑戦者となり行洋と戦っている緒方が突然現われ、周囲に野次馬の人垣がさっそく出来始めた。
「だったら気にするな」
緒方と初めて対局観戦することもだが、同時に周囲の野次馬も無視しろと、存外に含ませ言う。
よく考えれば、十段のタイトルを戦う行洋の対局は当然気になるが、先日のメールで約束したsaiとの対局も同じくらい緒方にとって気合が入る対局だ。
そのsaiであるヒカルと、ネット碁で打つ前にこうして対局を観戦するのも相手を探るいいチャンスだろう。
前回は、突然の対局で心構えが出来ていなかった部分が否めない。
しかし、今回は前もって約束することで、気を引き締めて対局に臨むことができ、そしてsaiの正体も分かっている。
前回の時のようにはいかせない。
「緒方先生、来たばっかりなんだよね?」
「ああ」
「じゃあ初手から並べるよ。先手が塔矢先生、水沼先生は後手」
無理やりモニター室に連れて行かれなかっただけマシか、とヒカルは溜息一つついて諦め、対局を初手から並べていく。
リーグ戦は持ち時間5時間の、丸一日かけて行われる。
時間はまだ正午に入ったばかり。
けれど、それを考慮に入れても、対局の流れは酷くゆったりとしていて、まだ20手も打たれていない。
「忍耐勝負だな」
ヒカルが並べていく盤面を眺めながら、緒方が呟く。
石の流れから、すぐにどういう勝負なのか察したようだとヒカルは思う。
互いが互いを牽制し会い、相手の出方をじっと辛抱強く伺っている。
どちらが先に焦れて動きを見せるか、またはどのタイミングで動くべきか、薄氷の上を見極め歩くような緊張感が見ている此方にも伝わってくる。
打たれた石、全てを並び終え、ヒカルは中継画面が映されたテレビに一度視線を向ける。
並べている間に、石が打たれた形跡はない。
「水沼先生も正面から行っては塔矢先生を破れんと踏んだか」
通常、先手の黒石が流れを掴むのに有利になり勝ちだが、行洋の一手一手に対して水沼もそれに見劣らない一手で丁寧に応手を返し、相手の出方と隙を伺ってきているから、盤面の形勢は互角。
決して先んじようとはせず、相手の悪手を誘う。
白番ならではの戦術と言っていい。
このまま打ち続ければ、行き詰るのは先手黒石の行洋だ。
行洋と水沼、それぞれが数手打って序盤が終わりにさしかかろうかというとき、やはり予想通り行き詰ったのは行洋だった。
行洋が長考している。
「対局の分かれ目だな。いきなり動いても逃げるだけで、相手の地を固めるだけだ」
「……軽くわかして打つのは?」
「それだと隅に対して甘い。ハザマをつかれても応手に困る」
緒方とヒカル、それぞれが考えた応手を並べてみるが、これと言った打開策は出てこない。
――佐為、お前ならどうする?
――私ですか?
視線を佐為に向け、ヒカルが心内で尋ねると、佐為はしばらく盤上の石を見つめてから、閉じられた扇が盤面の一点を示す。
――その局面、私ならば様子を見ます。内からノゾくと逆に相手の応手が難しいのです。ツギなら軽くなりますし、押さえてくれれば、どうとでもサバけます
――あ、いいかも、ソレ
佐為の指摘になるほどと思った感情がそのままヒカルの顔に出る。
眉間に皺を寄せ、口をへの字にして盤面を睨んで唸っていたのが、急に止んですっきりした顔になっているのだ。
そのヒカルの変化に目ざとく緒方は気付く。
「なんだ?言ってみろ」
言ってみろと促されても、その一手に気付いたのはヒカルではなく佐為である。
それを緒方に言っていいものか少し躊躇い、けれど言わないでいるのもおかしいかと思い直す。
まがりなりにもヒカルとてプロなのだ。
偶然気付いたとしても不自然ではない筈だ。
「ここ」
ヒカルの指が一点を指す。
「内からノゾけば、逆に水沼先生の方が応手が難しいと思う。ツギなら軽くなるし、押さえてくれればどうとでもサバけばいい」
佐為が言った言葉をそのままにヒカルが代弁する。
そして緒方も、ヒカルが示す一手の狙いに気付き、目を見開く。
背中にもたれていた椅子から身体を起こし、
「なるほど、こういう狙いか。悪くない」
ヒカルの示した場所に緒方は黒石を打つ。
指摘されるまで気付かなかったが、確かに水沼はここに打たれれば応手に困る。
拮抗した盤面を打開する最善の一手だ。
この一手に行洋が気付けるかどうか、またはこの一手と同等以上の一手で、対局の勝敗の行方が左右されるだろう。
へへ、と曖昧に笑うヒカルを他所に
――やはり食えんやつだ。能天気に空ぼけて何を隠しているか分からん。この一手も俺が言わなければ、絶対気付かなかったフリして言わなかっただろうな
緒方自身気付けなかった一手に、ヒカルの中のsaiの片鱗を垣間見た気がした。
プロ棋士達が集まっているだろうモニター室でも、この一手に気付ける者がいたかどうか怪しい。
咄嗟の機転で、モニター室に向かうのではなく、ヒカルと共に一般対局室で観戦する方を選んだが、その判断は正しかったと言える。
――塔矢先生気付くかな?
――さぁ、どうでしょうか。けれど行洋殿でしたら……
口元を広げた扇子で隠しながら答えつつ、佐為はじっと盤面全体を再度見やる。
ヒカルがまだ院生で、家で佐為が指導碁を打っていたとき、不意にヒカルの打った一手が自分の打ち方に似ていると思ったことがある。
それについて問うと、ヒカルは打つ手に困ると、佐為になったつもりで考えるといい手が見つかるのだと言った。
同じように、佐為もまた行洋になったつもりで考える。
頭の中で一手目から打っていき、石の流れを追い、行洋が次に打つであろう場所を探す。
すると頭の中の行洋の手が、恐ろしいほど静かに黒石を打つ。
その一点は、佐為が気付いた一手と重なる。
間違いない。
行洋は己と同じところに目を付け、この最善の一手を攻撃の足がかりにする。
――行洋殿でしたら、きっと私と同じところに目を付けてくると思います
口元を隠しているため、ヒカルからは佐為の目元しか見えなかったが、まるで人目を忍んで料亭で行洋と対局している時のような凄みある笑みに、ヒカルは思わず唾を飲む。
不意に緒方とヒカルを取り囲む人垣から声が上がり、ヒカルが声に反射するようにしてパッと中継画面を見上げれば、
「塔矢先生もここに打ってきた!」
ヒカルが叫ぶ。
佐為の言った通り、行洋はその一手に気付き逃さなかった。
盤面の対局中継画面からは見えない水沼の唸る表情が想像できるようだと緒方は思う。
その一手を皮切りに、それまでの不気味な静けさが嘘のように、激しい応手が繰り返された。
しかし、あくまで冷静だったのは行洋だろう。
一手の厳しさの中にも、決して焦ることなく、深く切り込むギリギリのラインを見極めてくる。
最後は、水沼の投了で終わったが、終始見応えのある対局だったとヒカルは感じた。
序盤は老練され忍耐強く、そして中盤からは一手も気を抜けない気迫溢れる碁だった。
――俺も早くあんな碁打ちてぇな
対局の興奮が冷めやらぬヒカルが、心内でそっと想いを馳せていると
「何ぼけっとしてる。さっさと片付けて出るぞ。家まで送ってやる」
並べていた石を崩し、さっさと片付ける緒方に、ヒカルも急いで石を片付ける。
もう少し対局の余韻に浸らせてほしかったが、ヒカルが石を片付けている間も、緒方は周囲の人から今度の十段戦への激励やら応援の言葉やらかけられている。
対してヒカルはプロになったばかりの初段で、『がんばれ』と声をかけてもらうのが精一杯だ。
これがタイトルをかけて戦うトップ棋士とプロになりたて初段の違いなのだとヒカルは実感してしまい、同時に緒方がこの場から早く立ち去りたいのだろうということも伝わってきて、文句を言うことなく帰り身支度を整える。
「すいません、プロとは言えあまり子供を遅い時間まで引き止めるのはいけませんので、このぐらいで失礼します」
上手くヒカルをダシに使い、緒方は放してくれる気配のない一般人に挨拶し、ヒカルを棋院の駐車場に止めてある車へ向かう。
さすがにヒカルも周囲を巻くダシに自分を使われたのは感づいたが、緒方と一言でも会話しようとする客達の勢いは引いてしまうものがあった。
あれらを上手く受け流していた緒方に、これが大人の対応なのかとヒカルは半ば感心しつつ、他人事のように思いながら見ていた。
いずれヒカル自身も緒方のように客達をもてなさねばいけない日が来ることを思えば、少しくらい自分がダシに使われるのは目を瞑っていいだろう。
足早に止めてあるのだろう車の方へ歩いていく緒方の後ろを、置いてかれまいとヒカルも早歩きでついていく。
そして緒方もヒカルがちゃんと後をついてきているか、気にかけながらさっさと棋院を後にする。
最後まで観戦し、検討しても良かったが、恐らくモニター室で観戦しているだろう桑原と鉢合いたくないのが緒方の本音だ。
あまり苦手意識を持つのは対局にも影響されよくないと言われるが、桑原相手に苦手意識を持たない者などおらん、というのが緒方の認識である。
よって、桑原を避けられるものなら、避けておくに越したことはないのである。
ヒカルを助手席に座らせ、車を発車させて棋院を後にする。
「よくあの一手に気付いたな」
緒方が運転しながら、隣に座るヒカルに先ほど検討できなかった一手について尋ねる。
忍耐碁を強いた水沼もさすがだが、その淀みに似た状況を打破したあの一手が無ければ、行洋が勝つのも際どかっただろう。
行洋があの一手に気付くのはいい。
対局者同士でしか見えない一手というものは確かに存在する。
対局を観戦するモニター室の状況がどうだったのか分からないが、恐らくあの一手に気付けたものはいなかっただろうと緒方は予想する。
気付けたのはヒカルだけだ。
6冠のタイトルホルダーでトップ棋士の行洋と同じところに着目出来た。
これを偶然で片付けるのは浅はかな行いだ。
そんな緒方の心を知ってか知らずか、ヒカルはどう答えるべきか戸惑い、明後日な言葉を軽はずみに口にする。
「えっと……なんとなく?……とりあえず盤面全部試しに打ってみたら気付いたんだよ」
「盤面全部打つだと?」
ヒカルの答えに、緒方は思わず急ブレーキを踏みそうになった。
絶対にありえない方法ではない。
しかし、プロなら限りなくそんなことはしない方法だ。
「そうそう、いい手が浮かばないときとかたまにするんだ。アハハハ」
能天気に続けるヒカルに佐為は溜息をつきながら
――ヒカル、また適当なこと言って……どうなっても知りませんよ?
――適当なこと言っとかないと誤魔化せないだろ
馬鹿正直に佐為が教えてくれた、と言うわけにもいかないのだ。
「そう言えば緒方先生、今度佐為と打つ約束したんだってね!頑張ってね!」
身体ごと車を運転する緒方の方を振り向き、いきなりヒカルが話題を変えてくる。
白々しい話の話題変えだと緒方は思いながらも、あえてつっこむような真似はせず、ヒカルがsaiであると気付いていることを伏せたまま、
「どうせお前は俺よりsaiを応援するんだろうが?」
「まさか!だって佐為が勝つのは分かってるから、緒方先生がそれでも少しでも勝つように俺応援するよ?」
ヒカルに悪気があったわけでないことは分かっている。
単に無神経で無邪気なだけだ。
だが、さすがにヒカルのこの言葉には、さすがの緒方も無視することが出来ず、
「お前っ、それは応援しているのか?それとも遠まわしに貶しているのか?」
「えっ!?あ!そんなつもりじゃなくてっ!」
緒方に指摘されて、ヒカルは自ら掘った墓穴に気付き、慌てて顔の前で両手をブンブン振って意味を否定するも、緒方の機嫌は戻りそうにない。
損ねてしまった機嫌をとるためではあったが、ヒカルは緒方と再対局が決まったときの佐為の喜びようを思い出しながら、
「でも、佐為もさ、ホントすっごい楽しみにしてたよ?ネット碁だと世界中の誰とも打てるんだけど、本当に強い人とはなかなか打てないからさ。緒方先生とまた打てるって知って、すごく喜んでた」
「そんなに打ちたいんだったらネット碁じゃなく表に出てくればいいだろう。強制はせんが、saiがなにを拘って頑なにネット碁に隠れたがるのか、俺はそっちの方が理解できん」
つっけんどんに言い返す緒方の言葉に表情を曇らせたのは、ヒカルではなく2人の会話を傍で聞いていた佐為だった。
幽霊で身体がなく、佐為の姿が見え、声も聞こえるヒカルに代わりに打ってもらうことでしか、碁が打てないもどかしさ、歯がゆさ。
佐為が表に出れば、代わりにヒカル自身の碁が見てもらえなくなる危険が多分にある。
それは行洋も肯定した。
佐為は表に出るべきではないと。
佐為自身もヒカルが碁打ちとして生きていく以上、己が表に出るのは決してよくないと分かっている。
表に出なくとも、ネット碁で碁が好きなだけ打つことができ、ヒカルの才能を潰してしまう心配もない。
そして、佐為と同じく神の一手を目指す行洋と偶の日に打つことができる。
これ以上の欲は出すまいと思うのに、こうして緒方に言われると、無性に身体の無い身が歯がゆく、むなしく、そして悔しい。
そんな佐為の気持ちが伝わってきて、ヒカルは顔を俯かせ、先ほどのように下手な墓穴を掘らないよう言葉を選ぶ。
「……表に出てこないのは……表に出て来れないからだよ。佐為はネット碁しかできない」
常にないヒカルの落ち込んだ様子に、緒方は理由は分からずとも言い過ぎたかと思う。
けれどここで素直に言い過ぎたと謝るのは大人のプライドが邪魔をする。
「表に出て来れないなら、それでもいい。理解は出来んが無理やり聞き出すつもりもない。俺と打ってくれるならな」
それが緒方なりの精一杯の気遣いであることがヒカルも分かり苦笑した。
棋院で佐為の正体を迫ったときは、本当にヒカルをしばいてでも聞き出さんとする勢いだったのに、今はこうしてヒカルが踏み込んでほしくない領域に足を踏み入れない気遣いがありがたい。
――ありがとう
佐為の呟きが聞こえ、ヒカルは俯いていた顔をあげる。
「佐為がありがとうってさ」
「いきなりなんだ?ここには俺とお前しかおらんだろうが」
意味が分からないと怪訝な顔をする緒方に構わず、ヒカルは緒方とは反対の窓の外を見やる。
ヒカルに答えるつもりはないのだろう。
しばらく待ってもヒカルは後ろを向いたままで、緒方の方を見る気配はない。
単なる意味のない子どもの気まぐれかと、緒方は気にしないことにした。
プロとしてタイトルをかけた対局は大事だ。
だが、碁を打つ棋士としてsaiとの対局も優劣つけることができないほど大事な、気を抜けない対局だと緒方は認識している。
もしかすると、公式手合いより、saiとの対局の方が評価されるかもしれないのだ。
saiの対局はインターネットを通し、世界中で見られているのだから。
だれかsaiに最初の土をつけるのか。
saiの正体は誰なのか。
金銭が関係しないが、注目度は下手なタイトルより断然高い。
ヒカルの後ろにいる誰かは、とりあえず考えない。
そしてsaiとして打つヒカルとの対局に集中しようと、緒方は視界の端にヒカルの姿を映しながら思う。
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いつのだろう……
サルベージされました;;;