IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 作:鈴木_
十段戦が一段落し、行洋はイベントが目白押しとなるGW前に、久しぶりにヒカルと佐為に会う時間を作ることができた。
数ヶ月前に会ったときは、ヒカルの新初段でsaiではないかと疑っている芹澤をどう誤魔化すかということが問題となり、ゆっくり行洋と佐為が対局する余裕は無かったから、本当に半年振りではないだろうか。
こうして純粋に3人で碁を楽しむ時間が取れたのは。
石を打つ人物はヒカルなのに、ヒカル自身が打っているときと佐為の代打ちをしているときとでは、打たれる碁から受ける印象はガラリと変わる。
ヒカルが打てばプロ初段相応のプレッシャーを。
そして佐為が打てば、名人のタイトルを持つ行洋であっても、喉元に刀の切っ先を向けられているかのような緊迫し圧倒的なプレッシャーを感じ、部屋を満たす空気さえピリピリと肌を刺す。
どちらも石を打っているのは同一人物なのに、向けられるプレッシャーの違いを感じ取るたび、ヒカルと佐為が全くの別人であるのだと行洋は実感した。
ただ、ヒカルと佐為は知らないが、行洋の中に一つ懸念はあった。
ヒカルの新初段の対局中、行洋がsaiとしてネット碁を打つことで、芹澤の疑惑をそらすことはできたが、緒方の疑いはヒカルからそらすどころか、saiを隠そうとした行洋自身の存在にも気付かれてしまった。
警戒していたのはsaiを執着するアキラや緒方周辺だったから、まさかネット碁など興味を持つまいと思い込んでいた森下が、行洋がsaiとして打った棋譜に気付くとは、本当に予想外と言うしかない。
どんな嘘を重ねたところで、いまさら緒方を誤魔化すことは不可能だろう。
そう思ったからこそ、行洋も下手な小細工はせず緒方の追及を素直に認めた。
確信している緒方に、これ以上の隠し事をしても疑いを深めるだけだ。
だが、最後の部分だけは行洋の口から語ることは憚られ、『sai』を求める緒方の気持ちがどんなに分かっても、行洋の口から『藤原佐為』を語ることはできなかった。
まだ義務教育も終わっていない子供のヒカルを遅くまで引きとめ碁を打つわけにはいかず、日が沈む前の夕方にはお開きとなった。
名残惜しい気持ちはヒカル、行洋、そして佐為にもあったが、こればかりは如何ともしがたい。
陽が沈みかけた日差しを受けながら、母屋へと続く小道を歩くヒカルの後ろを歩きながら、行洋は緒方とのやりとりを思い出す。
『sai』はヒカルであると確信している緒方を行洋は否定しなかったが、だからと肯定もしなかった。
それが現状における緒方への最大限の譲歩だった。
幼さを残したヒカルの後姿に、『藤原佐為』の存在を話し打ち明けることが出来るのは、佐為の姿を見て、その声を聞くことが出来る当事者、ヒカルだけなのだと改めて思える。
『藤原佐為』を背負っているのはヒカルであり、存在を知っているだけの者が他者に軽々しく『藤原佐為』について話すべきではない。
佐為は表に現われるべきではない。
いや、決して表に現われてはいけないのだと行洋は思う。
ヒカルがヒカルとして碁を打つために、そして佐為が佐為として碁を打つために、『sai』はインターネットの闇の中の存在でなくてはならない。
それでも、もしこの先、saiの正体を行洋以外の誰かに話すときが来るとするなら、誰かに脅されたり、無理やり言わせられるのではなく、自らの意思で語ることを願うばかりだ。
ヒカルが自ら行洋に打ち明けたときのように、
母屋へと続く小道を歩きながら、行洋とヒカルは他愛ない会話を弾ませる。
「佐為がまだ生きてた頃の平安時代って、囲碁が貴族の嗜み?らしくて、佐為もそれで自然に覚えたらしいんだけど、俺は囲碁って佐為が打ちたいって言うから嫌々始めたんです」
「嫌々?」
「そう。囲碁なんて年寄りがするもんだと思ってたし、回りの友達だって囲碁打つやつなんていなかったし」
「……最近では碁を打つ子どもは少なくなってきているからね」
囲碁はシンプルな分、ルールが難しく、子どもが覚えるには多少とっつき難い部分がある。
最近ではアニメや漫画、携帯ゲームをはじめとする多種多様の娯楽が流行り、子どもの囲碁離れに拍車をかけていると言っていいだろう。
それも時代の流れの一つかもしれないが、やはり寂しいと思う。
ヒカルの言う『碁は年寄りのするもの』という言葉は、まさにそれを如実に語っていて、行洋は苦笑いするしかなかった。
そんな行洋の内心に全く気付かない様子で、ヒカルは自身の碁の馴れ初め話を続ける。
「なのに碁が打てないって分かったら、佐為のやつ、ぴーぴー泣いてへこむし、しかもその碁が打てない悲しい気持ち?ってやつが俺の中にも入ってきて気分悪くなって吐き気までするんですよ!勝手に俺にとり憑いたくせにさ」
そのときの気持ち悪さを思い出したかのように、ヒカルは頬を膨らませ恐らく佐為がいるのであろう方向を睨みながら、横暴だの理不尽だのと全身で不平を訴える。
「だから、しょうがないから少しだけ打たせようかなって気になって、でも佐為に打たせているうちに俺も打ちたくなって、それからどんどん碁にのめりこんで。塔矢先生は何で碁をはじめたんですか?」
手ごろに相槌を打っていれば、不意に問われ、行洋は目線をあげる。
すると、前を歩いていたヒカルが、両手を頭の後ろで組みながら顔だけ振り返り、行洋を見ていた。
「私?」
「先生も塔矢みたいに親とか周りに碁を打つ人がいたんですか?」
「いや、私は碁を打つ者は周りにはいなかったんだが、中学に上がって、アキラが今通っている海王中学ではすでに囲碁部があってね、入学して初めて碁を打っている光景を見た」
「中学で始めたんですか?」
行洋の答えにヒカルの目がまん丸に見開かれた。
「そうだよ。意外かな?」
「塔矢先生なら物心つく前から碁打ってそう」
言われて、行洋はクス、と小さく笑む。
物心つく前から行洋にとって碁は身近なものである印象があるらしく、ヒカル以外にも同様のことを言われたことが何度かあった。
「碁のルールは全く知らなかったが、白と黒の色の対比だけが美しい印象を受けただけだったのに、いつの間にかこうして碁に浸ってしまった」
「あ!分かる!!俺も最初全然分からなかったけど、白と黒の石模様が出来上がっていく様子だけは面白かった!」
行洋の言葉にヒカルがパッとパッと明るくさせ賛同してくる。
考えるに、碁のルールが分からないからこそ石模様の美しさだけが際立ち惹かれたのではないかと、行洋は懐かしく初めて囲碁を打っている光景を思い返す。
今となっては行洋が始めてみた棋譜がどんなものだったか思い出せないが、囲碁を知ったばかりのヒカルが惹かれた棋譜なら、行洋が見た石模様よりもっと美しかったことだろう。
佐為が打つ碁はいつもどんなときも美しい。
そんな碁にヒカルは常に接している。
羨ましいと正直思うが、こればかりは行洋にもどうしようもなかった。
佐為の姿がヒカルだけで、行洋を含めて誰にも見えないのだから。
「誰もがはじめ石模様の美しさに惹かれて碁を覚えるのかもしれないな」
平安時代、まだ佐為が生きていた頃、行洋やヒカルと同じように佐為もまた石模様の美しさに惹かれたのだろうかと行洋は思う。
どんなに文明が発達しようとも、千年前も今も変わらず、碁の美しさと面白さは何も変わらずに。
心の中で、行洋が考えていると、不意に突風が吹き、
「わっ!」
「ッ―!」
一陣の春風が吹き上げ、行洋は風から顔を背け、咄嗟に手で瞳を覆い瞼を閉じた。
着ている着物の羽織が風になびく。
それから風が通り過ぎて、行洋はゆっくり瞼を開いた。
顔を戻し閉じていた開いた視界に、ヒカルの姿が夕日に逆光となって眩く映る。
思わず目を細める。
けれど、
その後ろ
ヒカルの後ろに立つ影
行洋の目は魅入った。
高さのある柄帽子。
白い直衣。
長い真っ直ぐな黒髪が過ぎ去った残風に舞う。
突風を避けるようにして顔を隠してしまっていた直衣の袖が、ゆるりと下ろされる。
「佐為… …」
白い細面の輪郭。
切れ長の瞳。
憂いを含んだように細められ、伏せられた瞳。
すっと通った鼻梁。
薄い唇。
伏せられた瞳が、緩慢に開かれ、行洋に振り返る。
「先生?」
「え?あっ」
ヒカルに呼ばれ、行洋は一瞬気をそらし、すぐに視線を戻した先に、それは初めから無かったように消え失せていた。
そこにはヒカルしかいない。
直衣姿の美丈夫の姿など、どこにも見つけることはできない。
ほんの一瞬の出来事だった。
碁の神が気まぐれで一瞬だけ見せてくれた悪戯のように。
佐為が、そこにいた。
以前、ヒカルが行洋に語り聞かせた佐為の容姿そのものの姿。
幽霊だという佐為の存在を疑ってはいない。
けれど、ヒカルだけにしか見えない『藤原佐為』を、一度でいいからこの目で見てみたいと思ったことがないと言えば嘘になるだろう。
(あれが佐為……)
子供のように我が侭で、碁を誰よりも愛していて、鬼のように強い。
人に在らざる美しさをもった本因坊秀策。
「塔矢先生?大丈夫ですか?目にゴミが入ったりとか?」
声をかけても何かに気をとられている様子の行洋に、ヒカルが少し心配そうに首を傾げた。
その仕草に、一瞬の幻に心を占められていた行洋の意識が現実に向けられる。
「いや……、もう大丈夫だよ。すごい風だったね」
何事も無いと言いながら、風で乱れてしまった羽織の裾を正す。
一瞬、行洋は先ほど見た光景をヒカルに言おうかどうか逡巡し、けれど開きかけた口を閉ざし、小さな笑みを湛えるだけに思い止まった。
ほんの瞬きの狭間の出来事。
碁の神が見せてくれた悪戯ならば、そっと心内に仕舞っておこう。
「先生、来月から本因坊をかけて桑原先生と戦うんでしょ?」
「本因坊か」
現在の囲碁タイトルの中で最も古いタイトル『本因坊』
先月の本因坊挑戦者を決めるリーグ戦で行洋は勝ち抜き、ヒカルの言うように現タイトルホルダーの桑原と戦うことになっている。
ヒカルとこうして知り合うまでは、タイトルの一つでしかなかったものが、今では行洋の持つ複数のタイトルよりもっと深い意味を持つようになった。
本因坊は『本因坊秀策』だった佐為に繋がるタイトルだ。
「桑原先生は一筋縄ではいかない方だ。そう簡単にはタイトルをお譲り下さらないだろう。しかし、佐為のタイトルならば、私も是非頑張らねばならないかな」
「ホントに!?絶対『本因坊』取ってねっ先生!約束だよ!?」
「そうだね、約束だ」
行洋は瞼を下ろし、瞳を閉ざす。
そこに想うのは先ほど碁の神が見せてくれた悪戯だった。
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なんとなく思い出しました……。
本編の52話のあとに入れるか入れまいか迷って、たぶんこれ入れたら
塔矢先生が後で死んでしまうのが勘の良い方にはバレてしまいそうだから没にしたやつですね(汗)