チャイムが鳴り終わって、部室の扉を開いた私の周囲は急に薄暗くなった。部室の奥で光るパソコンのモニターと、耳を覆うザーッというノイズで一瞬何が起こったのか分からず背筋がヒヤリとする。
雨が降っていた。
雨粒が窓を次々と強く叩いては弾ける。私は急に下がった気温に肌寒さを感じ、身震いしながら後ろ手で扉を閉めた。振り返って見上げた時計の時刻は下校には程遠い。時間が巻き戻ったように見えるけど、多分これもまた次の日かその先のいつかだろう。私は部室の電気を付けると、パソコンに歩み寄って今日の日付を確認した。やっぱりまた一日時間が経っている。
窓越しに見上げた空を黒く厚い雨雲がすごいスピードで流れていた。急に暗くなって雨が降り出しているのには少し驚いたけど、慣れというのは怖いものでさすがに3回目ともなるとさほど慌てる事もない。
私は気付けば、いきなり時間が飛んでしまうこの状況や、私の知っている現実と違うおかしさをあまり気にしなくなっていた。いくら考えても答えが出ないことに諦めも出ていたし、それ以上に今目の前に広がるこの世界があまりにリアルでこれが嘘だとも思えなかった。分かる時は勝手に分かるだろうし、その時になったらまた考えればいい。
それにしても雨はあんまり好きじゃないわ。特にこんなに強い雨の日は心がザワつくっていうか。どう考えてもにこって感じじゃないもの。
ただ、その一方で良い思い出も一つある。
ある雨の日、私が部室の扉を開くと中にあの子達がいた。一方的にμ'sを拒絶していた私に、μ'sが強引に入り込んで来た日。それは私がμ'sになったと同時に、たった一人だけのアイドル研究部に終わりを告げた日でもある。
「アイドルか……」
私は雨で洗われた窓の外の歪んだ景色に向かって誰ともなく呟く。またたった一人のアイドル研究部が始まってしまった。
これから、どうしよう。
勧誘ポスターを貼ってみたものの、実際のところあまり期待はしていない。これまでも勧誘をした事もあったけれど、なかなかうまくいかない上に、やっと興味を持ってくれたと思ったら、アイドルをやる方じゃなくて見る方だったり。スクールアイドルが人気あるって言っても、やっぱり実際にやってみたいっていう子はそうそういるものじゃない。
何せ、さっき……じゃなくて昨日はあの花陽にでさえ断られてる。
本当は分かってる。新入部員が欲しいなら、まずは私が魅力のあるスクールアイドル像を見せるのが一番だ。私がライブをやっていいパフォーマンスを見せればいい。開催されるのか分からないけれどラブライブ!があるんだとしたら、そこで結果さえ出せば、いくらでも部員は入ってくるだろう。
全部分かってるのに、二年の時はあれこれ考えた挙句結局何もしなかった。これじゃそんなあの頃と一緒……。
どうしても考えが後ろ向きになってしまうのは雨のせいか、いや雨のせいなんかにするのは悪いクセだわ。私はため息をついて椅子に座ると、背もたれにギィと体重を預ける。その時突然、部室の扉が勢い良く開いた。
「失礼します!」
「うわぁっ!」
驚いて椅子から転げ落ちそうになるのをギリギリ堪えた私は、何事かと声の上がった方に目をやった。
「あっ!」
私が言うのと同時に部室の入り口でも声が上がる。そこに立っていたのは凛だった。
さっき階段でぶつかったばかりのような気がするが、凛にとってはすでに一日経っている。でもなぜここに?
「り……えっと昨日の」
私は思わず名前で呼びそうになるのを、すんでのところで飲み込んだ。
「一年の星空凛といいます! ここ、アイドル研究部の部室ですよね!?」
ハッキリとした自己紹介に続いて一気に質問をまくし立てる凛。その口調と表情はなぜか険しい。
「うん、そうだけど?」
「部員さんって何人いるんですか!?」
「部員は私一人よ」
私の返答に凛の顔色が更に険しくなったと思ったら、今度は部室の中をグイグイと私の目の前まで詰め寄ってきた。取って食わんとばかりに私をパソコンデスクに追い込んだ凛は、私と身長がそう違わないはずなのに妙に迫力がある。
「先輩! かよちんに何したんですか!?」
「はぁ?」
「何をしたんですかって聞いてるんです!」
「何そんなに怒ってるのよ」
「かよちんが昨日から元気ないんです! 訳を聞いてもなにも言ってくれないし!」
凛は明らかに私を責めている。花陽が元気がない。それは確かに気になるけど、なんで私が詰め寄られなきゃいけないんだろう。
「ちょっと話が見えないんだけど」
「かよちん、あ……一年生の小泉花陽さんです! 昨日ここに来ましたよね?」
話が見えないのは私が花陽のあだ名を知らないせいだと思ったのか、凛はご丁寧に紹介をしてくれたけれど、なおも攻撃的な姿勢は崩さない。私は自分から質問するのを諦めてとりあえず凛の話を聞くことにした。
「昨日? ええ、確かに来たけど」
「ほら!」
「何がほらよ!」
「かよちんと何かあったんでしょ!?」
私は昨日の花陽とのやり取りを思い出す。
「あー、確かにあったと言えばあったわね」
「何ですか、何があったんですか!?」
「何よ、何があったかも知らないのに怒りに来たの?」
凛は鼻息も荒く、フンスとご立腹。
「だってかよちんに聞いても何も言ってくれないから、なんとか聞き出せたのが昨日ここに来たって事くらいで」
「よくそれだけの情報で怒りに来たわね。まったく関係無かったらどうするのよ」
「アヤマリマス」
凛は目を座わらせて棒読みで言い放った。居直りもいいところだ。
「無茶苦茶ね」
「でも、さっき『確かにあった』って言ったじゃないですか!」
「結果論でしょ……まあ、いいわ。話してあげるから適当に座りなさいよ。しかしよく部室の場所が分かったわね。花陽に聞いたの?」
「かよちんを呼び捨てにしないで下さい!」
「なんでよ、ちゃんとした名前でしょ。凛」
「凛の事まで!」
「いいから落ち着きなさいってば。私は矢澤にこ。だからにこって呼んだっていいのよ」
凛は薄目で私の胸元のリボンをチラリと見る。
「先輩なのに?」
「先輩なのに」
「むぅ、じゃあにこ……ちゃん」
凛は机の下から椅子を不機嫌に引いてドカッと座る。
「で、ここの事は? あんな入り口のプレートだけじゃ探すの大変だったでしょ」
「さっき廊下で会った先輩に聞きました。でも最初に聞いた何人かは知らなくって、そんな部あるの?って人もいたけど」
「でしょうね」
ウチの部はこれまでロクに活動もしてこなかったせいもあって、校内での認知度は圧倒的に低い。一年生はもちろん、二年生だってほとんど知らないんじゃないかしら。
「それで、かよちんと何があったんですか?」
私は手短に花陽をアイドルに誘った事を説明した。凛は話を聞きながら睨みつけるように私を見ていたが、説明していくにつれ徐々にその表情が明らかに変わっていくのが分かった。怒りや憤りといった感情は徐々に無くなって、変わりに出て来たもの。混乱? これは、なんだろう?
「本当に……?」
私の説明が終わり、それを聞き終えた凛は念を押すように私に確認した。
「本当よ。それ以上の事は何も言ってないし、何もしてないわ」
「ううん、そうじゃなくて……」
凛はなぜかモジモジと言いにくそうにする。
「何よ?」
「アイドルの事。かよちんが光ってるって」
「ええ、それも本当よ」
悩む余地もない。それは凛も一緒なんだけどね。
私はいつになく優しい気持ちで目の前の後輩に暖かな視線を送る。だけど凛はそんな私に気付く様子もなく、一人難しい顔をしていた。
「凛、勘違いしてた……」
「そうそう、だから私が何かやったなんて言いがかりは勘弁して……」
やれやれと手を広げて凛に小言の一つでも言ってやろうかと思っていたら、突然凛がバンッと机を叩いて立ち上がった。驚いた私はまたも椅子ごとひっくり返りそうになる。
「失礼します!」
「へ?」
凛は勢い良く私に向かってお辞儀をすると部室を飛び出して行った。開け放たれたままの扉の向こうに、凛が廊下を駆ける音が消えて行く。私は呆気にとられて呼び止める事もできなかった。
「えええええ!?」
なんで? 私、また何か間違ったの?
我ながら良い先輩の対応だったっていうか、少なくとも逃げられるような事はしてないと思うんだけど。
私があまりの出来事に困惑していると、開いたままの扉の影から希がひょっこり顔を出した。
「にこっち、あの子に何かしたん?」
「あぁ、希……見てたの。いや、私にもさっぱり」
「入部希望の子やろ?」
「違うわ。私に用事があって来ただけ」
「そうやったんや、さっきあの子に『アイドル研究部の部室知りませんか?』って聞かれたからてっきりそうやとばっかり」
「ああ、希だったのね。部室教えたの」
希は部室に入るとすぐ脇の壁に背を預けて、手にしたファイルの束をよっと抱え直す。
「それより見たよ、掲示板のポスター。今年は勧誘する気になったんやね」
「卒業したら部が無くなるって聞いたし、一応ね」
「そう、うまく行くとええね」
希は自分の部活でもないのに嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、ありがとう」
希にとって私はどれだけ不器用な子に映っていたんだろう。私には私の事は分からないけど、そんな子を心配して気にかける気持ちは今はよく分かる気がする。
「あ、そうや」
何かに気付いたのか、希はファイルを抱えたまま人差し指を立てた。
「えりちの事なんやけどね」
「絵里?」
「えりち、昨日にこっちが帰った後『悪いことを言った』って反省しとったよ」
「昨日……? あぁ、部活の事ね。それなら全然気にしてないわ」
「ホントに?」
希の顔が驚きと不安が混じったような表情に変わる。
「なんで私が希に嘘付くのよ」
「だって、にこっち、ああいう事言われるのすごく嫌やないかなって」
そうだったのかもしれない。
あの頃の私はあれで精一杯だと思ってたから。それを否定されるのが怖くて、人の言葉を受け入れられなかったのも多分そのせいで……つまりそれが不器用だったんだって事が今なら分かる。
「嫌じゃないわ。ショックじゃないって言ったら嘘だけどね。痛いところ突かれたなとは思った」
「そう、でもあの……」
希は言い辛そうに口元をファイルで隠す。
「なによ」
「えりち、ちょっと不器用なところもあるけど、いい子やから仲良うしてあげてね」
機嫌を伺うように恐る恐る私を見る希に、私はなんだか拍子抜けしてしまった。
なんだ、そんな事を心配してたのね。
絵里が不器用なんてとっくに知ってるわよ。希もそうだってことも。
「大丈夫よ。希が心配しなくても平気」
「うん、ありがとう」
希は安心したように笑った。私はそんな希を見ていて一つ気になった事があった。
「希?」
「うん?」
希は、絵里や私だけじゃない、自分と似たような不器用な子達の事。もうどこまで気付いているのだろうか。
「ううん。なんでもない」
聞けなかった。というかうまい聞き方が思い付かなかった。私が難しい顔をしていたのだろう、希は探るようにこちらを見つめる。
「にこっち?」
「まぁ、また今度聞くことにするわ」
「なんなんよ。気になるなぁ」
「それより希、生徒会室戻らなくていいの? どうせここに来たのって、私に絵里の話するのが目的だったんでしょ」
「え!?」
希の顔が急にカッと赤くなる。図星。
「な、何言うてるんよ。ウチは別に」
「そう? ならいいんだけど。とにかく心配いらないから安心しなさいよね」
「だからウチは」
「別に、良い事でしょ? それともやっぱり怒ってた方がよかった?」
「もう、にこっち! ウチもう行くね!」
からかわれたのに腹を立てたのかプイッと顔をそむけて希は部室を出て行く。私はそんな希に向かって手をひらひらと振った。
「ほなー」
「もう!」
希は目をキュッと瞑って扉を閉めた。
クスクス。いつもやられる側だからたまにはこういうのも悪く無い。
再び一人になった部室を雨の音が包む。
さてと。
希の訪問で忘れていたけれど、凛はどうしただろう。花陽のところにでも言ったのかしら。そういえば「勘違いしてた」とか言っていた気がするけど、凛といい昨日の花陽といいは何が何やらさっぱり分からない。私が何かしたとは思えないけど、二人して私の前から突然逃げて行かれたままっていうのはなんだかすっきりしない。
一年生の教室でも行ってみようか。
どうせ、何もやることもないしね。
* * *
廊下はひんやりと冷えていて、部室を出た私を身震いさせた。いつもなら廊下を響いてどこかから聞こえてくる生徒達の声も、この雨音でかき消されて全然聞こえてこない。そのくせ廊下を歩く自分の足音だけは妙に耳について、まるでこの学校にたった一人っきりになってしまったみたい……
と、思ったのも束の間、目の前の角から人影が現れた。その子は私に気付くといつもの清廉な表情を崩すこと無く声をかけて来る。
「あら、矢澤先輩?」
「あ、海……園田さん」
海未は、声を詰まらせた私の苦い顔に気付いたのかフッと笑顔を作る。
「海未で構いませんよ。それよりこの間、あれから大丈夫でしたか?」
そっか、私が倒れたのってつい数時間前の事のように思うけれど、二日前になるんだっけ。
「ええ、お陰さまで。みんなで保健室まで運んでくれたんでしょ? 迷惑かけちゃったわね」
「いえ、そんな事は。突然穂乃果が泣きながら『先輩が死んじゃう』って教室に駆け込んできた時は驚きましたが」
「な、泣いてたの?」
「えぇ、ことりもいたのですが、話を聞いてもなかなか要領を得なくて……」
海未は困ったように笑った。穂乃果をなだめるのに苦労する海未達の様子が目に映る様で私も釣られて笑う。でもその反面嬉しかった。
私達はどちらともなく一緒に廊下を歩き出す。
「海未はこれから部活?」
「ええ、弓道部です」
「雨の日なのに大変ね」
「いえ屋内ですから。先輩は何か部活は?」
「私? 私はアイドル研究部をやってるの」
「アイドル研究……あ、そういえば穂乃果がスクールアイドルがどうとか言っていたような」
屋上で穂乃果に会った時の事を思い出す。穂乃果にしてみれば突然知り合いでもない先輩に訳の分からない事を捲し立てられて、何がなんだか分からなかっただろう。今更ながら申し訳ない気持ちになる。
「そ、そうね。穂乃果には色々言っちゃって悪い事をしたわ」
「もう全然、気にしていないと思いますよ」
海未は肩をすくめると「そういう性格なので」と付け加えた。確かに穂乃果のことだからあの時の事なんてこれっぽっちも気にしてなさそう。
「しかし、失礼ながら『アイドル研究部』という部活があるというのは初めて知りました」
「まあ仕方ないと思うわ。部員も私一人だし、活動だって開店休業状態だしね」
「活動?」
ピクリと海未の眉が動く。
「ええ、アイドル活動をするの」
「というと、ひらひらした衣装を来て、歌ったり踊ったり……?」
「そうよ。だってアイドルだもん」
それを聞いた海未は「信じられない」とでも言いたそうに私を見て目を丸くした。やがて、顔を引きつらせながら目を落とす。
「そ、尊敬します。私にはとても出来ません」
私は海未のμ'sでのパフォーマンスを思い出して口元が緩んだ。この海未が人前で歌うのが癖になっちゃうくらいに楽しくなるんだから、やっぱりアイドルってすごい。
「だから開店休業なんだって。今はただアイドルを研究してるってだけ」
「そうですか……」
「それにしても、海未の家は日舞の家元なんでしょ。部活までやるなんて大変ね」
私はμ'sのメンバーの中で一番忙しく大変な思いをしているのは、実は海未ではないかと思っていた。『μ'sの活動』という事で言えば、真姫の作曲やことりの衣装作りなんかも大変だし、作詞やトレーニングメニューを考えたりという事があっても海未だけが特別に大変という事はないかもしれない。何より私達が協力し合うことだってできるし。
でも海未はそれに加えて、部活もあれば家での習い事だってある。しかも生徒会の仕事や勉強だってしっかりやってるなんて、スクールアイドルと勉強の両立すらロクにできない私からしたらとても信じられない事だ。
「そのような事はないですよ。確かに両立は大変ですが、いずれからも学ぶ事はありますし、お互いがいい影響を与え合っていると思います」
私のそんな懸念にも関わらず海未は涼しい顔で言う。
「そんなものかしら」
「ええ、何よりどちらも好きでやっている事ですから」
海未は穏やかに微笑んだけど、私にはその横顔からどこか信念みたいなものが見て取れた。
廊下を歩く私達は階段の前に差し掛かる。そこで海未は立ち止まった。
「それでは私は弓道場の方に行くので」
「ええ、頑張ってね」
手を振る私に会釈を返す海未。海未と別れ、改めて一年生の教室に向かおうとした時、どこからか雨音のそれとは違う音が聞こえた気がした。耳を澄ませて振り返ると海未も同じように、こちらを振り向いていた。
そのピアノの音は意識を向けた分、雨のノイズを抜いて私達の耳により鮮明に届く。それは私のよく知るメロディーに似ていた。
――START:DASH!!
真姫。勉強が忙しいって、結局今日も弾いてるんじゃない。
ただ昨日とは違って真姫の歌声は聞こえて来ない。でもよく考えたらそれも当然の事で、この曲の歌詞を書くの事になるのは、今私の目の前にいる海未のはずだった。
「いい曲ですね」
だから、海未のそんな言葉も私には妙に運命的に感じられる。
「ええ、本当に」
あっちで海未の歌詞に真姫が曲を付けたように、こっちではこの曲に海未が歌詞を付けることになったりするのかしら。
ピアノの音に聴き入る海未を見ながら私がそんな事を考えていると、パタパタと後ろから何やら駆け寄ってくる音が聞こえた。
「あ、いたいた! 海未ちゃーん!」
「穂乃果!? 廊下を走ってはいけませんよ!」
穂乃果?
私が振り返ると、穂乃果はちょうどすれ違うように「ごめんなさーい!」と急ブレーキをかけピタリと止まった。
「まったく、一体何事です?」
「海未ちゃん、もう部活に行っちゃう?」
「ええ、そのつもりですが」
「そっかぁ」
穂乃果は肩を落とす。私と海未は目を合わせて同時に首を捻った。
「どうかしたのですか?」
「ううん、手が空いてたらお願いしたい事があったんだけど大丈夫!」
何が大丈夫なのか、穂乃果は海未にぐっと親指を立てて見せる。
「そ、そうですか……それならいいのですが」
海未はまだ気になっている様子だったが、これ以上穂乃果に質問するのも骨が折れると思ったのか、ため息をつくと仕方無さそうに答えた。
やれやれ、海未も苦労するわね。
その一方でいつもと変わらない二人のやり取りにホッとしている自分もいた。穂乃果の背中越しに、難しい顔をした海未を見ていると穂乃果がどんな顔をしているかなんとなく想像が付くってもの……。
「にこ先輩!」
「うわぁっ!」
突然くるりと穂乃果がこちらに振り向いて、驚いた私は思わず声を上げる。
気付いてたのか……そりゃ気付くわよね。
穂乃果は私の顔をジッと見据え怪しげな表情に変わったと思ったら、ジワリジワリと私の方に近寄ってくる。
「な、なによ……」
「ふふふ……先輩、手を見せてもらえますか?」
「はぁ? 手? なんでよ」
「いいから、いいから」
穂乃果は勝手に私の右手を手に取るとマジマジと見つめた。私は視線で海未に助けを求めたけれど海未は首を横に振るばかり。穂乃果はそんな私達にもお構い無しに、私の手をマッサージでもするように揉みしだき出した。
「これはこれは、器用そうな手をしていますねぇ」
「ちょ、くすぐったいわよ!」
「これはお裁縫がきっと得意に違いない」
「裁縫? そうね、割と得意ではあるけど……」
ん? 裁縫? なんで裁縫?
そう疑問に思った瞬間、穂乃果の手がガッチリと私の手を掴んだ。
「行きましょう先輩!」
言うやいなや穂乃果は私の手をぐいっと引いて歩き出す。
「はぁっ!? ちょっと待って! なんなのよ!」
「じゃあ海未ちゃん! 部活頑張ってね!」
「あ、ええ……」
「何無視してんのよ! ちょっと海未どうにかして!」
海未はそれには何も答えず悲しげな目でこちらを見ていた。まるで「私の代わりに申し訳ない」とでも言うように。
それを見た私は観念して穂乃果に付いて行く事に決めた。
* * *
「ごめんなさい」
「なんであなたが謝るのよ」
目の前で身を縮めることりに私は言った。ことりは恐縮しながらも机を突き合わせた向かいでミシンを走らせ、私は縫い針を持った手を休まずに動かす。
「でも……」
「でもじゃないの。そもそもことりが頼んだ訳じゃないんでしょ?」
私は半ば当てつけるように穂乃果をチラリと見た。
私達の横で、穂乃果はなにやらノートに向かってうんうん唸っていたが、私の視線に気付いて顔を上げる。
「え? なんですか?」
「なんですかじゃないわまったく。強引すぎよ」
「だって、穂乃果じゃ不器用で全然役に立たないから、せめてお手伝いくらい連れて来なきゃと思って」
「連れて来られてから説明されてもね」
「ヒデコ達は帰っちゃったし、海未ちゃんは部活でどうしようかと思ったけど……でもにこ先輩がいてくれて助かりました!」
「でもの使い方おかしくない?」
「ごめんなさい。穂乃果ちゃんは私が困ってたから……」
「だから、ことりが謝る事ないの」
「でも、私が引き受けたんだし」
私が手伝う事になったのは、ことりがたまに面倒を見ているという音ノ木坂小学校の合唱団が発表で使う衣装作りだった。最初は以前に作った衣装の補修だけでよかったはずが、どうやら新しく衣装を作り直したくなったらしい。当然その分作業量は増え、時間も限られている中ではそれを手伝う人手が必要になる。
「まぁ、こういうの嫌いじゃないからいいんだけど」
そんなこんなで私は穂乃果に駆り出されてここでことりを手伝う事になった訳だ。
「ありがとうございます」
「それで? 穂乃果はさっきから何やってるの?」
「いやー。手伝える事もないし、何もしないのも悪いなと思って。勉強でもしていようかと思ったんですけど……」
穂乃果は目の前に広げた教科書やノートを前に「あはは」と乾いた笑顔を浮かべる。きっと始めてみたもののさっぱり手がつかないのだろう。それは私にもよく分かる。勉強へのモチベーションや集中力なんて、テスト前以外にどうやって起こせって言うんだろう。
「穂乃果ちゃん、そんなに気を使わなくてもいいんだよ」
「ことりちゃん……いや頑張る!」
再び机に向かう穂乃果。私達はそんな穂乃果に苦笑しながらも作業に戻る。
ことりはひたすらミシンを走らせて衣装を縫い上げ、私はそこに手縫いでボタンやリボンを付けて行く。いつものことながらことりの手際には感心する。裁断されたパーツが見る見る内に縫い合わされて一つの衣装を形作る様子は、私からしたらもう立派なプロみたいで、服飾の勉強のために留学しようっていうのも頷ける話だ。
「それにしても補修だけでよかったのに、新しく作っちゃうなんて思い切った事するのね」
「元の衣装も好きなんですけど、前からやってみたかったアイデアもあるし、みんな大きくなって成長もしてるから、今度の発表会では新しい衣装を着せてあげたいなって思って」
手元から目を離さずに笑顔でことりは答える。それなりに切羽詰まった状態だろうに楽しそう。そういえば、ことりが衣装を作っている時はいつだってそうだった気がする。
「ことりちゃんのデザインする服はどれもすっごくかわいくて、私大好きなんですよ」
やはり勉強に集中できないのか穂乃果が会話に参加してきた。私は丁度ボタンを付け終えた衣装を目の前で広げる。サイズこそとても小さいけれど、どこかμ'sの衣装にも通じるこのデザインは紛れも無くことりのものだ。
「ええ、これもすごくかわいいわ」
「よかった」
照れくさそうにことりがはにかむ。
「ことりちゃんや海未ちゃんはすごいなぁ」
穂乃果が私の広げた衣装を眺めながら呟いた。
「どうしたの穂乃果ちゃん」
「ことりちゃんは洋服のデザインができて、お裁縫だって上手でしょ? 海未ちゃんはお稽古事も弓道部もすごく頑張ってて、二人共一生懸命ですごいなぁって。穂乃果なんか毎日遊んでるだけで何にもしてないよ。お店の手伝いだってロクにやってないくらいだし」
穂乃果は机に肩肘を付くと、大きくため息を着いた。
「そんな事ないよ。私だって好きでやってるだけだから、遊んでるのと変わらないよ」
「えー、やっぱり違うと思うけどなぁ。しかも二人共勉強だってできるし」
「あはは、勉強は少しだけ頑張った方がいいかも……」
「うーん。それは嫌だなぁ」
さっき勉強すると言ったことをさっそく忘れてしまったのか、穂乃果はあからさまに嫌な顔をした。
「でも、いつも穂乃果ちゃんには私も海未ちゃんもたくさん助けてもらってるから。それは穂乃果ちゃんにしか出来ない事と思うな」
「そうかなぁ。よく分からないや」
「もう、そうだよ」
「うーん」
* * *
気付けば2時間程経っていただろうか。私達の作業が一段落する頃には雨もだいぶ弱まって、強く窓叩いていた雨音も今はもうほとんど気にならない程度になっていた。
あとはもう仕上げとちょっとした直しだけだから大丈夫だとことりは言う。
「今日はありがとうございました」
「いいのよ。それより穂乃果、寝ちゃったわね」
結局あれから穂乃果はほとんど勉強をする事はなく、今は机に突っ伏したまますやすやと寝てしまっていた。これじゃ、何のためにことりに付き合って残っていたのか分からなくなっちゃったけど、こんな状況もなぜだか私は嫌いじゃない。
ことりは穂乃果の寝顔を見ながら、優しく微笑んだ。
「穂乃果ちゃんは、いつも私や海未ちゃんや友達みんなの事を考えてくれてて、困ったときには必ず力になってくれるんです。にこ先輩には悪い事をしちゃいましたけど」
「いいえ、私も楽しかったわ」
ことりはミシンを片付け、私は机に広げた衣装を畳んで行く。
「それにしてもことりは本当に洋服を作るが好きなのね。ことりが縫った部分を見たら分かるわ。見えない部分も全然手を抜いていないもの」
「見えないからって思ってても、実際に着るとやっぱり違いが出ちゃうから」
顔を赤らめたことりはミシンケースをパチンと閉じると、自分の想いを確かめるように頷いた。
「……でも、やっぱり好きだからかもしれないです」
ことりの迷いのない真っ直ぐな言葉は私の心を少しだけ熱く打った。
「いい衣装だわ。みんな喜ぶわよ」
「だといいな」
畳んだ衣装を一つに重ねる。
ことりの想いのこもった衣装に、ちょっぴりだけど私の分も込めて。
その想いはきっと見る人にも伝わるはず。
「わー! 体重増えた!」
突然穂乃果が叫んで私達はビクリと体を震わせた。体を起こした勢いで机がガタンッと音を立て、危うく倒れそうなくらいに揺れる。
「穂乃果……ちゃん?」
「ふぁ? あ、夢か……」
「ちょっと穂乃果! ヨダレヨダレ!」
「ふぇ?」
「あぁ、穂乃果ちゃん!」
寝ぼけ顔のまま、口元に手を持って行こうとする穂乃果に、ことりは慌ててハンカチを取り出すとその口元を拭った。なされるがままの穂乃果は小さい子供みたいで、どう見てもことりと同じ学年だとは思えない。
「はい、もう大丈夫だよ」
「あぁ、ごめんね。ことりちゃん」
「もう、学校でどんだけ熟睡してるのよアンタは」
穂乃果は気怠そうに目を瞬いて、犬みたいに首を振った。
「なんかすごく寝ちゃった気がするんだけど……」
「気じゃないわ、その通りよ」
「それで衣装は……?」
「もう終わったよ」
「ごめんね、のんびりしてたらなんか眠くなっちゃって」
「ううん、にこ先輩が手伝ってくれたから」
ことりは穂乃果を促すようにその手を私の方に向けた。穂乃果はこちらを見ると、少しだけ腫れぼったい目のままにっこりと笑って丁寧に頭を下げ、ことりもそれに習う。
「にこ先輩ありがとうございました」
「そんな改まって言われたら困るわ。いいのよ、この間の借りもあるしね」
穂乃果は「借り?」と一瞬を捻ったがすぐに承知したらしく。顔をパッと輝かせた。
「そっか、じゃあ運がよかったんだなぁ」
運がよかった?
穂乃果はまたよく分からない事を言う。
「何がよかったの? 穂乃果ちゃん」
ことりが私と同じ疑問を投げかけると、穂乃果はもっともらしく説明しだした。
「だって、にこ先輩とあの時知り合ってなかったら、今日のことりちゃんの衣装作り手伝える人がいなかったでしょ? だから運がよかったなぁって」
「呆れたわね」
「それはにこ先輩に悪いよ……」
「そうかなぁ。私、にこ先輩と知り合えて嬉しいんだけどな。なんか先輩だけど先輩じゃないみたいっていうか、知り合ったばっかりだけど友達みたいっていうか……あれ? やっぱり悪い気がしてきたかも」
穂乃果は「うーん」と腕組みをする。ことりがそれを聞いて何かに気付いたような顔をした一方で、私の鼓動は急に高まっていった。
もしかして穂乃果の中に、穂乃果自身も気付かない私との記憶があったりするのだろうか。
まさかね。
でも、もしかしたら……。
「……私も少し分かる気がします。にこ先輩、すごく話しやすいし、優しいし」
「え?」
穂乃果の発言で渦を巻き出していた私の思考は、ことりの意外な一言でピタリと止まった。
「優しい? 私が?」
思わず変な声が出た。およそ私が人から得られそうにもない評価にどう反応していいか分からず顔が熱くなる。
「うんうん、優しいよね。私が急にここに連れて来ても怒って帰ったりしなかったし」
「分かってるなら、最初から言いなさいよね!」
「でも手伝ってくれたでしょ?」
「それとこれとは話が別よ」
「ほら優しいー」
穂乃果が私の腕に擦り寄って来て、恥ずかしくなった私は逃げるように顔を逸らした。その様子をことりに楽しそうに見られているのが、また照れくささに拍車をかけてムズムズと座りが悪い。
「分かった! 分かったから一旦離れて!」
「えー」
* * *
片付けを終えた後、私は二人を残して先に教室を出た。部室に戻る前に一年生の教室を覗いてみたけれど、もう下校してしまったのか花陽と凛の姿は見つからなかった。
いつの間にやら雨は上がって、廊下の窓に張り付いた雨粒が夕日に当たってキラキラと光っている。
私は歩きながらさっきまでの事を思い出していた。
――やっぱり好きだからかもしれないです。
ことりの言葉を思い出すと胸が熱くなるのはなぜだろう。
――何よりどちらも好きでやっている事ですから。
海未も同じだ。
真姫もそう。口ではあんな事を言いながら、音楽が大好きで仕方ない事を私は知ってる。でなきゃ毎日のようにピアノを弾きに音楽室に行ったりなんかしないし、何よりあんな素敵な曲が作れるはずがないもの。
それぞれの形で自分の好きな事に向き合ってるあの子達に比べて、私はどうだろう。こんな私でもアイドルは昔と変わらず好きなんだろうか。
部を立ち上げたあの頃の私と比べて。
――余計な事かもしれないけれど、アイドル研究部の活動って今は何かしているのかしら?
それらしい事はやっていたかもしれない。でも私がやりたかった、やるべきだと思っていた事は何一つやってない。絵里からのこの問いは、本当はずっと私が私自身にしなきゃいけなかった事なんだ。こんな私が自信をもって「アイドルが好きだ」なんて言えるわけがない。
ましてや「私がアイドル」なんて。
これまでうまく行かなかった事を、私の中の弱い私は環境や他人のせいにしてた。自分を守ろうとする弱さは、いつしか自分の想いさえも自分の殻の中に閉じ込めた。
でも忘れた訳じゃない。あの子達が自分の好きな事を表現するのと同じように、私にだって……。
スクールアイドル研究部の部室。
夕暮れに照らされて赤く染まった扉の前で私は自答する。
私がこの部を立ち上げたのは、何の為?
――そんなの決まってるじゃない。
私はアイドルが好き。
スクールアイドルが大好き。
私が私である理由。
色んな事があった。でも大好きだから辞めなかった。
それがμ'sにも繋がった。
私はそんな私を誇りにも思うもの。
気付いたら、目の下に一筋、暖かいものが流れていた。
人差し指でキュッとそれを拭う。
アイドルをやろう。
自分自身の力でもう一度始めよう。私がスクールアイドルの楽しさをみんなに伝えるの。
きっと出来るわ。
だって私はもう、スクールアイドルの本当の楽しさを知っているもの。
気付いたら私の心は静かに落ち着いていて、でも体は熱くて。それはμ'sでステージに立つ前の震え立つ気持ちに少しだけ似ていた。
私はスクールアイドル。
それも大銀河宇宙ナンバーワンのね。
強い決心は知らずに私自身を笑顔にさせた。
そんな私の思いに共鳴するように、チャイムは響いた。